スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

叡王戦&チルンハウスとライプニッツ

2024-04-21 19:42:56 | 将棋
 片山津温泉で指された昨日の第9期叡王戦五番勝負第二局。
 伊藤匠七段の先手で後手の藤井聡太叡王の3三金型の角換り。先手が1筋の位を取っている間に後手が早繰り銀から先攻する将棋になりました。
                                        
 ここから後手は☖6六飛☗同歩と飛車金交換をしてから☖8七歩成としました。
 先手は☗2四歩☖同歩の突き捨てを入れてから☗8七金とと金を払いました。
 後手は☖4五銀と攻めを継続。☗同銀☖同桂に☗同馬に☖2八角成と飛車を取りました。しかし☗4四歩が厳しく,先手が攻め合って勝てる局面になりました。
                                        
 第2図は2筋の突き捨てが入っていることと,6七の地点が開いていることが形勢に大きく影響しています。なので後手は第1図で飛車を見捨てて先手から取らせることによって1手を稼ぎ,その間に攻めていくべきだったことになります。感想戦では☖2七銀が有力だったと結論されています。また単に☖8七歩成も,先手がまだ飛車を入手していない関係で2筋の突き捨てが入らない可能性が高く,有力であったと思われます。
 伊藤七段が勝って1勝1敗。第三局は来月2日に指される予定です。

 書簡七十では,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizはきわめて学殖が高く,諸種の科学に精通し,神学に関する世間並の偏見に捉われていないというように紹介され,そのライプニッツとチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausは親しい交際に入っていると書かれています。さらにライプニッツに対する称賛が重ねられた上で,ライプニッツに『エチカ』の手稿を読ませることの打診がなされています。つまり,チルンハウスとライプニッツが会ったばかりであるということは考えられません。また,チルンハウスからシュラーGeorg Hermann Schullerへの書簡が届いてすぐにシュラーがスピノザに書簡七十を書いたのだとしても,チルンハウスが書いた手紙がシュラーの手許に届くまでにそれなりに時間を要したことでしょう。なので,書簡七十が1675年11月15日付になっていることからして,チルンハウスがパリに到着したのが11月だったとは僕には考えられません。ですからチルンハウスがパリに到着したのは,早ければ1675年の8月のうち,遅くとも同年の10月だったと僕はみます。
 ライプニッツがハノーファーに戻るためにパリを発ったのは,1676年10月です。これ以降はライプニッツはパリに戻っていません。つまり,チルンハウスとライプニッツが親しく交際していたのは,およそ1年だったことになります。
 パリを発ったライプニッツはイギリスに渡り,1週間ほどロンドンに滞在しました。この間にオルデンブルクHeinrich Ordenburgと面会しています。これはスピノザからオルデンブルクに宛てた手紙を筆写し,後に批評を加えていることから歴史的事実と確定することができます。これはおそらく書簡七十三,書簡七十五,書簡七十八などのことでしょう。以前にもいったかもしれませんが,この当時の書簡というのは,後々に公開する文書という意味合いがありました。だからスピノザの往復書簡集も遺稿集Opera Posthumaの一部として刊行されたのです。なので自身に宛てられた書簡を,スピノザに無断でライプニッツに見せたからといって,オルデンブルクが責められるべきことではありません。
 この後,ライプニッツは船に乗ってオランダを目指しましたのですが,強風の影響でテムズ川で足止めされてしまいました。
コメント
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