スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ハル・薗田&住職来訪

2012-08-11 18:59:11 | NOAH
 馬場の配慮がかえって仇となってしまい,航空機事故に遭遇し還らぬ人となってしまったハル・薗田。彼は若手の頃は大仁田厚,渕正信と並んで三羽烏と将来を嘱望されていました。ただしこれは僕のプロレスキャリアが開始する前のことで,僕はその時代の薗田についてはまったく知りません。
 3選手はそれぞれ武者修行のためにアメリカに。最初に帰国したのは大仁田で,これが僕のプロレスキャリアが始まって1年経つか経たないかの頃ではなかったかと思います。全日本プロレス時代の大仁田は,何といってもチャボ・ゲレロとの抗争が最も有名でしょうが,それは僕も知っているということになります。
 最初からそうであったかは分かりませんが,薗田は当時はかつて馬場の好敵手のひとりであったフリッツ・フォン・エリックがプロモートしていたテキサスに。ここで後に全日本プロレスに逆輸入され一世風を靡したザ・グレート・カブキと合流。マスクを被ってマジック・ドラゴンを名乗り,カブキのパートナーとして現地のスターになりました。
 カブキが逆輸入で成功したということもあったでしょう,薗田もまたマジック・ドラゴンとして帰国。しかしカブキほどの旋風を巻き起こすことができず,いつしか素顔のハル・薗田に戻り,中堅のレスラーとして戦うことになりました。インドの狂虎から遠征を要請されたのも,この時代のことでした。
 これも僕のプロレスキャリア以前になりますが,三沢が全日本プロレスに入門してきた頃,薗田は三沢をとても気に掛けていて,よく食事に誘ってはプロレスの話をしていたのだそうです。その様子を周囲の人間はまるで兄弟のようだったと評しています。そして1984年に,三沢はメキシコに遠征し,タイガーマスクとして帰国することになるのですが,この時代の三沢タイガーとよくタッグを組んでいたのは,薗田でした。
                         
 三沢自身,薗田は自分にとってよき先輩であったという主旨のことを言っています。おそらく相談相手になり得た筈で,もしも薗田が健在であったなら,日本のプロレスの歴史も今とは異なったものとなっていたのかもしれません。

 この週の木曜日,7月12日は祖母の通夜と葬儀納骨などでお世話になった寺の住職がアパートを訪れることになっていました。
 このお寺は高野山真言宗であったのですが,この宗派はお盆に重きを置くようで,この時期の来訪は毎年の恒例となっていました。祖母の夫,つまり僕の祖父ですが,死んだのは僕が小学校5年生の時。当時は祖母は叔父らとともにの実家である大和在住でしたので,この翌年からはその大和の家に来訪していたものと思います。それが諸事情により祖母が僕たちと同居するようになり,近所にアパートを借りて,祖父の仏壇をそちらに設置しましたので,それ以降はアパートに来るようになっていたのです。祖母の死は昨年の暮れのことでしたから,新盆ということになりますが,新盆であるからとくに来訪したというものではありません。
 事前に寺の方からはがきで通知がありまして,来訪するのは午後1時頃になるということ。僕は参加できませんでしたが,叔父が時間をやりくりし,母とふたりで住職を迎えました。後で母に聞いたところによれば,住職は10分ほど読経して,すぐに帰ったとのことでした。正確にいますと,檀家はほかにもありますから,次のところ,これは東京であったとのことですが,そちらに向っていったとのことで,寺の方へ帰ったというわけではありません。滞在する時間がごく短時間であるというのも,例年と同様です。
 新盆ですから,墓参りもしようということで,その場で母と叔父の相談がまとまったとのことで,2日後の14日の土曜日に叔父が運転して大和の墓地まで行くとのこと。ただ,この日は僕は長者町に行かなければならなかったということもあり,一緒に行くことはできませんでした。ということでこれは母と叔父,妹の3人。また,家族葬に参列した僕の従妹とは現地で待ち合わせていたとのことですから,実際に墓参りをしたのは4人であったということになります。
 ところが,出掛けるという段になって問題が生じました。母の異変が生じる前に運転していた自動車は,僕の家の前にいつも停めてありました。この自動車が軽自動車であったのは,家の前まで入ってくる道が狭く,一般車では無理があったからです。
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