スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&ステノの赴任

2024-04-19 19:07:56 | 将棋
 17日に甲府で指された第17期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 大島綾華女流二段の先手で西山朋佳女王の角道オープン四間飛車。角交換向飛車に進展しました。中盤でうまく戦機を掴んだ先手が優位に進める将棋に。
                                        
 5三にいた銀が逃げた局面。先手は☗6二歩と打ちました。
 後手の反撃は☖6六歩で☗6八金☖7五歩☗8七銀に☖6五角。
                                        
 実戦はここで☗5二銀不成と銀を逃げながら攻めましたが,☖同銀☗同飛成に☖5一歩がうまい受けで後手の勝ちとなりました。
 第2図で☗5四歩が有力のようなのですが,☖5六金で後手が勝ちと感想戦で結論が出ています。
 ということは第1図で☗6二歩と打ったのが手筋のようであまりよくなく,先に☗5二銀不成か☗5四歩としておかなければならなかったということになりそうです。
 西山女王が連勝。第三局は来月12日に指される予定です。

 ステノNicola Stenoが司祭になったのは1675年というものと1677年としているものがあります。僕にはどちらが正しいか分かりません。また,1675年でいわれている司祭と,1677年でいわれている司祭が,実は違う役職のことを意味していて,どちらも正しいという可能性もあります。なのでこの点については確定的なことはいいませんが,1677年に司祭になっているということは確実視してよいでしょう。
 司祭になったステノはドイツに赴任して,カトリックの布教に従事したのです。それが1677年からということは,史実として確定させてよいようです。なので,ステノがドイツで従事したのが1677年の初めからであれば,スピノザが死んだときにステノはドイツにいたことになり,ハノーファーに戻っていたライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizと知り合って一緒に仕事をしていたという可能性が残ることになります。僕は『宮廷人と異端者The Courtier and the Heretuc : Leibniz,Spinoza,and the Fate of God in the Modern World』の当該部分でステノとライプニッツの関係について言及されている部分は脚色であると考えますが,脚色としてはスチュアートMatthew Stewartはこのことを利用しているということができるでしょう。ステノがドイツに赴任してからライプニッツと知り合うということはあり得ないわけではなく,だからライプニッツとステノが一緒に仕事をしていたということはともかく,ふたりの間に何らかの関係があったということまで全面的に否定する必要はないのかもしれません。
 『エチカ』の手稿に弾劾書を付してステノが異端審問所に告発したのは1677年9月23日でした。なのでこのときにはステノはローマにいたのです。このときにステノがローマにいたのは,まだドイツに赴任する前であったからだと僕には思えます。ですから,ハノーファーでライプニッツとステノが,スピノザが死んだときに一緒に仕事をしていたということは脚色であると僕は考えるのです。
 ライプニッツがスピノザを訪問したとき,スピノザは訪問の報知をシュラーGeorg Hermann SchullerおよびチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausから受けていた筈だと『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』に記述されています。こちらの本は純粋な伝記ですから,ナドラーSteven Nadlerの創作や脚色が含まれているというようなことは心配する必要がありません。
コメント
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