漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

風の古道

2008年01月31日 | 娘と読む本

 「夜市」 恒川光太郎著 角川書店刊

 を読む。

 角川ホラー大賞受賞作。
 一読して、この人の感覚は、何だか自分ととても近い感じがした。
 表題作の「夜市」は、完成度の高い作品。なかなか面白い。
 だが、僕の好きなのは、寧ろ同時収録されている「風の古道」の方。

 「風の古道」の舞台は、僕がとてもよく知っている範囲。この作中に出てくる道のモデルとなった道は、よく自転車で通っている。そして、小金井公園にも行ったりする。
 先日、娘が友達と二人でぶらぶらと歩いているうちに、気が付いたら小金井公園にまで行っていたということがあったらしい。帰り道、辺りは暗くなるのに青梅街道で迷ったりして、とても心細い気持ちで必死に家まで帰ってきたらしいのだが、この話もそんな感じの話。忘れ難い経験だったのだろうから、ほとんど駄目押しのようにこの本も読ませてみた。どんな感想だったのだろう。
 この話が好きなのは、実は内容よりもその「道」というものに対する偏愛である。その証拠に、最初に思い出したのは、僕の好きな作家ウィリアム・ホープ・ホジスンの「ナイトランド」に出てきた、「無言のやつらの通る道」だった。僕がホジスンの「ナイトランド」で好きなのが、まさにその「無言のやつらの通る道」である。そのあたりが、妙に親近感を覚える部分なのかもしれない。

漂流教室

2008年01月30日 | 漫画のはなし

「漂流教室」 梅図かずお著 
少年サンデーコミックス 全11巻 小学館刊

を読む。

 天文古玩の玉青さんに勧めていただいた本。云うまでもなく、余りにも有名な漫画。いや、さすがに今だに読み継がれているだけあって、単に面白いだけではなくて、様々な要素を読み取ることができる作品。連載時に読んでいたら、かなりどきどきしたんじゃないかと思う。途中、殆ど思いつきじゃないかと思うほど凄いことになっていったが、それが最後にきちんと纏まったのも見事。以前紹介した、日野日出志さんの「恐怖!四次元の町」は、この作品の成功を踏まえたものだったんだろうなと思った。
 ところで、よく知られていることだと思うが、著者の梅図かずおさんは吉祥寺に住んでいる。僕もたまに見かけることがある。で、例の貸本屋のおやじさんに、「梅図先生って、吉祥寺に住んでいるんですよね。この店に来た事ってありますか?」と聞いたところ、「いや、ないね。一度くらい顔を見せてくれてもいいんだけどね」とのこと。なるほど。

花影

2008年01月28日 | 読書録

「花影」 大岡昇平著 
新潮文庫 新潮社刊

を読む。

 去年、長い電車の旅の最中に妻が読んで、面白いから読んでみたらと言っていた小説。
 現実感を欠いていて、しかもそれに本人が気付いていない、葉子という女性の死を描いた作品で、ストーリーそのものはメロドラマ。だが、さすがに大岡昇平だけあって、異様な説得力がある。まさに文学作品という感想。こういう、葉子のような女性は今でもいくらでもいるし、これから先もまだ増えそうだ。あるひとつの典型であるということだろう。そういう意味でも、古びない作品だと思う。文体も、抑制が効いていて、とてもよい。
 こうして感想を書きかけて、ちょっとネットで調べてみると、どうやらこれはモデル小説だということだ。なるほど、登場人物が皆、いかにもいそうな人物ばかりで、流れにも不自然さがないのは、当然だったのか。それにしても、やはりそれを小説に写し取る筆力はさすがに文豪。
 大岡昇平の作品は、これまで「野火」しか読んでいなかったが、もう少し読んでみようかと思った。
 そう、「野火」だが、あれは反戦文学の名作だった。野坂昭如の「火垂の墓」と並んで、誰でも一度くらいは読むべき作品だと思うが、この「花影」にも同じような視点が貫かれていた。同じような視点とは、人間の愚かさ、あるいはどうしようもなさ、そうしたものに対する醒めた視点である。大岡昇平は、それを淡々と写し取ってゆくのだ。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 8・死の家・1

2008年01月27日 | 月の雪原
 目覚めは穏やかで、澄みきったような心地がした。辺りは明るく、しんとして、音がなかった。ツァーヴェはじっとしたまま、天井を眺めた。そして少し経ってから、ようやくそこが自分の家であることに気付いた。何年も眠っていたかのような気分だった。小さく鼻を鳴らして、部屋の冷たい大気を吸い込むと、褪めた背表紙の古い本のような、そんな香りが漂っている気がした。
 時間をかけて、ようやく自分が長く病気で伏せていたということを思い出した。何日伏せていたのか、まるで分からない。一週間だろうか。十日だろうか。それともたった一日のことだろうか。いずれにせよ、自分の中から時間の感覚が抜け落ちてしまっていた。時間の流れの外側に放り出されてしまったかのような感覚だ。そして、そのせいだろうか、奇妙な喪失感があった。とても長い旅をしてきて、そしてその旅の中で何かを失ってしまったかのような、そんな感じだった。どうしてそんな風に感じるのかはわからなかった。ずっと生死の境を彷徨っていたから、そんな風に感じるのかもしれない。だが、病に伏せて長い眠りにつく前の自分と、こうして回復して目覚めた自分とでは、確かに少し違う人間であるように思えた。
 だが決して悪い気分ではなかった。熱はすっかりと退いて、ゆっくりと休息を取った身体も軽やかだった。そのように新鮮な気分ではあったが、身体から力が抜けてしまっていて、動く気になれなかった。ツァーヴェは少し頭を動かして、窓を見た。窓からは明るい光が差し込んでいる。その光の様子から、今は朝なのだろうと踏んだ。これだけ明るいのだから、外では眩しい朝の光が、雪に覆われた森を照らしているに違いないとツァーヴェは思った。眠る前に雪が降っていたのを思い出したからだった。
 少しづつそうして眠る前のことを思い出したが、眠っていた最中に見ていた夢のことはどうしても思い出せなかった。夢が思い出せないことは珍しいことではないのだが、その時のツァーヴェにはなぜかそれがもどかしく感じた。今自分が感じている喪失感、例えるならば、まるで自分が半分に薄まってしまったかのような奇妙な喪失感の原因が、その夢にあるように思えて仕方なかったからだった。だが、いくらじっと天井を見詰めて考えても、夢は朝の光の中に霧散してしまって、ひとかけらも思い出せない。もどかしくても、諦めるしかなかった。

絶海に生き残つた親子三人

2008年01月26日 | W.H.ホジスンと異界としての海

 kaneさんと運営している姉妹サイト「Sigsand Manuscript」に、明治時代に翻訳されたウィリアム・ホープ・ホジスンの小説の復刻を始めました。タイトルは「絶海に生き残つた親子三人」で、これはホジスンの「From the Tideless Sea」の翻訳です。当然、当時はホジスンは無名に近い存在でした。
 よろしければ、ご覧ください。

クラバート

2008年01月24日 | 娘と読む本

 「クラバート」 オトフリート・プロイスラー著 中村 浩三 訳
  偕成社刊

 を読む。

 最近は、図書館へ行ったついでに、娘に読ませる本を一冊借りてくることが多い。
 昔読んで面白かった本もあるが、それ以上に、自分も読みたいか、あるいはいつかは読もうと思いつつ、今日まで来てしまった児童文学の名作と呼ばれる作品を借りてくることが多い。娘に読ませて、自分もついでに読んで仕舞おうという魂胆である。共通の話題にもなるから、一石三鳥だと思っているのだ。
 大抵は、娘に先に読ませる。そうすれば、自分の方が先に読んだという意識があるから、さらに会話が深くなる。

 でも、こうしていろいろと読んでいると、やはり名作と呼ばれているものはそれだけのことがあるということがよくわかる。今回読んだ「クラバート」も、とても面白いし、よい作品だった。子どものころから、いつかは読もうと思っていた作品をようやく読めてよかった。この作品が宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に影響を与えたということだが、詳しいことは触れないけれども、なるほどである。もっとも、映画とこの作品は全く違うので、あくまでもインスピレーションの元となった作品の一つではあるのだが。
 同じように魔法を取り扱った作品だけれども、「ハリー・ポッター」的な作品世界とは全く違う、民話的なこの「クラバート」は、より深いものを読者に残すに違いない。

鴨沢祐仁

2008年01月22日 | 読書録

 漫画家の鴨沢祐仁さんが亡くなったという記事を、由里葉さんの***ephemeraで読んで、驚いた。それでいろいろと調べて鴨沢さんのブログに辿り着き、遡って読むうちに、そこに記されていた言葉が頭にこびりついて、離れなくなってしまった。それが昨日の夜のことだったが、今日も一日に何度も思い出された。特に、年末の記事には涙腺が緩む。「2007年、良かったこと、ひとみちゃんと3回逢えたこと。悪かったこと、1秒も仕事をしなかったこと。」とても切なくなる。
 いろいろなことを思う。それは怒りのようなものであったり、無力感のようなものであったり、様々に形を変える。でも、言葉は無闇に膨らんだ後、急速に行き場を失ってしまう。そして結局言葉にならない。
 鴨沢さんの作品が、特に好きというわけでもなかった。だが、堅固な世界観を持った、素晴らしいイラストレーターであると思っていた。彼の作品に出てくるドライマティーニがとても素敵なお酒に見えたものだ。一時はあちらこちらで彼の作品を目にすることがあったのに、こんな終りはとても寂しい。彼は、本当は死ななくて済んだかもしれないのに。そう思えて仕方がない。

江戸東京たてもの園

2008年01月20日 | 消え行くもの

 
小金井公園内にある、「江戸東京たてもの園」へ行く。
 
 先日の散歩会でも、個人的に候補地として挙げた場所だったのだが、それは僕が久々にちょっと行きたかったからである。僕は古い建物を見るのが結構好きなのだ。建築方面の仕事に進めばよかったかもしれないと、時々思うことがある。もういまさら無理だろうけれども。
 上の写真は園内にある、移築された写真館の内部で、今でも利用されている。


 
 


 高橋是清邸内部。
 波ガラスが美しい。
 この部屋と廊下は、宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」の使用人部屋のモデルとなった場所。
 この部屋で、2.26事件の際、高橋是清は押し入ってきた将校らに殺害された。

そろそろ登れカタツムリ

2008年01月19日 | 読書録

「そろそろ登れカタツムリ」 A&B.ストルガツキイ著 深見弾訳 群像社刊

 を読了?

 正直、よくわからない作品。難解というより、こちらに基本的な知識が欠けている感じ。多分、風刺的な作品なのだろうけれど、何を風刺しているのか分からなければ、よく理解できないのではないかと思った。
 でも、イメージがとても強烈で、部分的にはとても印象に残る。象徴的な作品という側面もあるせいだろう。
 この作品の中で語られる「森」は、例えば「地球の長い午後」や「風の谷のナウシカ」の作中にある「再生」のための森ではない。ではどういうものなのかといえば、例えば子宮のようなものだとしか答えられない。
 ざっと一度読んだだけでは、殆ど理解したという気にはなれなかった。
 この小説は、ソビエトでは発禁処分になったという。

サブの町

2008年01月18日 | 漫画のはなし

 B級の話ついでに。
 
 先日貸し本屋の話を書いたが、この店はずっと昔からあるのは知っていたものの、比較的最近まで入ったことがなかった。ところが、ふらりと入って見て、すぐに会員になったのは、棚に並んでいた一冊の本が目に入ったからだ。
 その本とは

「恐怖!四次元の町」 日野日出志著 レモンコミックス 立風書房刊

である。

 この本は、知っている人は知っているだろうが、1979年頃に「少年マガジン」に「サブの町」のタイトルで連載されていた作品が単行本化されたもので、ストーリーは、ある朝目が醒めたら、主人公のサブら数名の子どもたちを残して、世界中の全ての人がいなくなってしまうというもの。僕は当時小学校の三年生頃だったので、もちろん日野日出志という人のことは知らなかったのだけれど、妙に印象に残っていた。日野日出志という人の作品をそれほど読んでいる訳でもないが、例の「宮崎勤」事件の時に、彼の作品を映像化した「ギミーピック」(だっけ?)のことでちょっと話題になったのを覚えている。この「サブの町」という作品は、少年誌に連載されたものでもあって、彼の作品の中では健全といってもいいサスペンス作品だったのだが、それでも印象に残ったというのは、やはり普通とは違うものを感じたのだろう。
 小学校の六年間、僕はずっと「少年マガジン」を読んでいたのだが、当時のマガジンには、「聖マッスル」だとか「地上最強の男竜」だとか、軽くトラウマとして残っているような漫画が多くあって、この「サブの町」もその一つだった。でも、まさかここに来て、貸し本屋さんで再会するとは思わなかった。

SF奇書天外

2008年01月17日 | 読書録

「SF奇書天外」 北原尚彦著 東京創元社刊

をぱらぱらと読む。

 タイトルの通り、変なSF本を集めた本。紹介されている本の中には、幾つか知っているものもあるが、大半は全く知らない本。知るわけがない。そんな本ばかりが紹介されている。
 しかし、こうした本を集める基準というのは、なかなか難しそうな気がする。だって、基本的にまーったく意味のない、読む時間が勿体無いような本が大半なのだから。でもまあ、マニアはいるわけだ。奥が深いのか浅いのか、それとも深いのは業なのか、分からないけれども。

 この中で紹介されていた本のなかに、

 「龍宮城」 阿部季雄著 家の教育社刊 1946年

 というものがあって、これは何とヴェルヌの「海底二万里」の翻案であるらしい。しかも設定がすごくて、父親が兄妹に「海底二万里」を語って聞かせるというもの。話の中にしょっちゅう父や兄妹が割り込んできて、喉が渇いたのでお茶を飲んだり、焼きりんごを食べたりするらしい。しかも、適当にはしょったり、話を作ったり、やりたい放題だとか。
 ヴェルヌ関係の奇書として紹介しましたが、しかしいろんな本があるものですね。別に読みたいとも思わないけれども(笑)。

弥勒

2008年01月16日 | 読書録

 先日、ちょっと稲垣足穂の話をしたせいか、久々に読んでみようかと思い、「弥勒」を手にした。
 稲垣足穂の本は、結構持ってはいるのだが、実はあまりちゃんと読んでいるとは言い難い。同じ事ばかり書いてあるので、飽きてくるのかもしれない。稲垣足穂という人は、まごうことなき個性の持ち主で、後への影響力も計り知れないものがあるけれども、僕には、足穂は文学者である以上に、一種のセレクトショップのような印象もある。彼の目を通してふるいにかけられた様々なものが、瞬時にして「宇宙的郷愁」のオブジェに変わるのだから。
 そういうわけだから、彼の代表作はといえば、やはり「一千一秒物語」で異論はないのだが、文学者としての足穂の代表作はといえば、やはり「弥勒」に尽きると思う。初めて足穂を知った高校の頃以来、僕の足穂作品の再読回数も、「弥勒」がダントツで多い。ちょっと足穂でも、というときは、大抵「弥勒」を手に取っている。「弥勒」は何度読み返しても面白さが減らない。「弥勒」はアル中文学の金字塔であり、また、優れた青春小説であると僕は思う。
 先日、ちょっと神楽坂を歩いていたのだが、このあたりに足穂がいたんだなと思った。住所を突き止めたわけではないが、大体は分かる。この「弥勒」の第二部の主な舞台こそが、その神楽坂の横寺町だった。思いを馳せずにはいられない。

鬼灯の木が

2008年01月15日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 鬼灯の木がある。たわわに鬼灯の実が成っているから鬼灯の木だとわかる。だが普通の鬼灯の木ではない。大きさがまるで違う。鬼灯の木というより、むしろ銀杏の木に見える。それくらい大きな木である。そしてその枝には、数え切れないほどたわわに、オレンジ色の鬼灯がぶら下がっている。その様子は、風が吹くと一斉に揺れて、綺麗な音色を鳴らしそうなほどだ。
 古い家の敷地にその木はある。煤け、壊れかけた塀のすぐ側にある。私は首を回して、家を見る。家も煤けた木で出来た平屋である。沢山の窓ガラスがあり、すべてが光を歪めて通す波ガラスだ。窓の奥は暗くてよく分からないが、時々何かが動くような気配がある。誰の家なのか、通りすがりなのでわからないが、その動く気配はきっとこの家の人のものなのだろう。だとすれば、こうしてそっと忍び込むようにして入り込んできた私の姿を訝しく思って見ているのかもしれない。私はその暗い波ガラスに向かって軽く会釈してみる。だが、何も答えはない。気配ばかりがあって、音さえ聞こえては来ない。
 私はまた上を見上げる。幾千にも千切れた雲が空にある。それを背景にして、何百もの橙色の鬼灯が見える。どの鬼灯も丸く膨れて、今にも弾けそうに見える。だが、どれだけ捜しても弾けた鬼灯はない。地面にも、一面にぼんやりとした色彩の苔が見えるだけで、ただの一つも落ちた鬼灯の実は見当たらない。
 そうして聳え立つ鬼灯の木を見ていると、ふと視線を感じて、振り向くとそこには一人の初老の女性の姿があった。私はこの家の人なのかと思い、慌てて会釈をしたが、その女性も軽く会釈をしたかと思うと、咎めるようなことは何も言わずに私の側に並んでやはり鬼灯を見ている。そして、立派な鬼灯ですねえとか言っている。はあ、と私は答え、これは随分と古い木なんでしょうねえと聞いて見た。すると彼女は、ええ、きっと随分と古い木でしょうねと答えた。なるほどこの女性さえいつからあるのか知らないほど昔からある木なのかと私は思い、それでは貴女にはこの木についての思い出なども沢山あるのでしょうねと言ってみた。するとその女性は、ええ、あるといえばありますが、それほど大したものでもありませんと答えた。なるほどそうですか、案外そんなものなんでしょうかねと私は言い、ついで、この鬼灯で遊んだりはしたのでしょうねと訊いてみた。すると彼女は不思議そうな顔をして、いいえ、そんなことはありませんと言う。一度もないのですか、と私が訊くと、彼女は不思議そうな顔をして、そうです、だって、この鬼灯は決して下に落ちては来ませんものと答えた。
 よくよく聞くと、彼女はこの家の人ではなかった。近所に住んでいて、通りすがりに、時々この鬼灯の木を見上げるだけなのだという。私は彼女に、自分は此の辺りのものではなく、ただの通りすがりで、余りに不思議な鬼灯を見て思わずふらりとこの敷地に入ってきたのだと言った。そうして彼女に聞いたところによると、この鬼灯が爆ぜたり落ちたりするところを見たことは一度もないのだという。だがそれは彼女だけが見たことがないのではなく、多分誰も見たことがないのだろうということだった。ただ一つ分かっている事は、或る夜、誰も見ていない時を見計らうように鬼灯が一斉に鬼灯が爆ぜて、それからの数日はこの家の中で様々な気配がするのだということだけだった。だが鬼灯の爆ぜた種はどこにも見当たらず、樹々には揺れるオレンジ色の袋だけがぶら下がり、次第に枯れて、風と共に消えてしまうらしい。
 彼女が去った後も、撲はその言葉を信じきれずに、数時間じっとそこに佇んで見上げていた。だが辺りがすっかり暗くなっても、鬼灯はただの一つも爆ぜる事はなかった。

散歩

2008年01月12日 | 雑記


 今日は、ウェブ上で知り合った方々と、散歩会に出かけた。
 メンバーは、初めてお会いする天文古玩の玉青さんと、我楽多倶楽部のTOKOさん。それからホジスン仲間のkaneさん、Jules Verne Pageのsynaさん、NEW ATLANTISの由里葉さん、TOPOTOPOTのれいこさん、それに撲と、総勢七人。
 前日までは良い天気だったのに、小雨降る生憎の天気。synaさん、由里葉さんには雨男の称号を頂いてしまいました。僕は違うと思っているんですが(認めたら負けです。笑)、とりあえずこれで雨が降るのは二回目ですね。
 そういう寒空の下、吉祥寺、西荻窪、高円寺と回り、あっというまに六時間が過ぎました。皆さん、お疲れ様でした。愉しい時間をありがとうございました。






 写真は散歩会とはぜんぜん関係なくて、井の頭動物園にいる鳥たちです。

貸本屋のはなし

2008年01月11日 | 漫画のはなし



 最近、帰り道にある小さな貸し本屋さんに、時々だけれども立ち寄って、漫画を借りてくることがある。
 ひっそりとある貸本屋さんで、場所は内緒にしておきたい。
 いわゆる貸本時代の本まではないけれども、比較的古くからある貸し本屋さんらしく、古書店に並ぶと数千円はするような漫画本もごろごろしている。数万冊の在庫があるとかで、まさに所狭しと本が詰め込まれている様は、ちょっと圧巻である。

 seedsbookさんの記事を読んで、この記事を書こうと思い立ったのだが、ちょっとビールも入っているし、上手く纏められるかどうか。

 僕はそれほど漫画を沢山読むわけではないけれども、それは嫌いだからではなく、単に機会がないからだ。これほど沢山の漫画が出版されていると、どこから手をつけてよいのかわからないし、新刊書店では軽く立ち読みもできないので、自然と買う機会も減る。漫画は、買い始めるときりがなく、あっという間に書架を占拠してしまう。ちょっと読みたいからといって、片っ端から買う気にはなれない。だから、基本的には漫画は買わない。漫画喫茶にゆく習慣もないし、買わなければ、読む機会もないというわけだ。

 最近、日本の漫画が世界で大人気だという話をよく聞く。
 それはそうだろうと思う。日本の漫画は、良くも悪くも、明らかに別格である。呆れるほど下らないものも多いが、はっとするような作品もたくさんある。少なくともハリウッドの下らない娯楽映画や、テレビの連続ドラマなどよりは、漫画のほうがずっと優れているんじゃないかと僕は思っている。文化が全てサブカルチャーになってしまうことはよくないと思うが、漫画には確かに大きな可能性があるのは間違いない。
 ただ、漫画に対する批判もかなり多くなっているようだ。その多くは、子どもの情操教育によくないというものだ。
 まあ、それは多少あるかもしれない。だけど、それならばテレビでおかしな心霊商法まがいの番組を放送するのはどうなのだろう。あるいは、意味のない贅沢を煽るような宣伝はどうなのだろう。漫画なんて、テレビに比べれば全く罪がないんじゃないだろうか。
 漫画そのものが悪いのではなく、今の漫画の本当の問題は、商業主義に牛耳られているところにあると思うのだ。週刊誌連載なんて、人気がなくなれば打ち切りである。次第に過激になってゆくのは、どうしたって避けられない。本人も、何を描いているのか分からなくなってくるのではないか。ケース・バイ・ケースだろうが、中には本来は作品志向の作家だっているはずだ。だが、主導権は常に出版社側にあるのである。
 漫画がこれから先、芸術の一つの分野として認められるためには、漫画家やアニメーターの地位の向上が不可欠だろう。だって、あれだけの作品を作りだすのがどれだけ大変か、考えてみたことがありますか。労働に見合った地位や収入があるとは、とても言えないはずだ。漫画家たちがもっとアーティストとして認められるようになれば、作品の質もきっと底上げされるだろうと僕は思うし、本来はそうであるべきじゃないのだろうか。

 うーん、やっぱり上手く纏まらなかったかな。