漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




「空中ブランコ」 奥田英朗著 文藝春秋社刊

 を読む。

 とんでもない精神科医・伊良部が主人公のシリーズ第二弾。
 一作目の「イン・ザ・プール」ような衝撃はないけれど、愉しんで読めた。

 写真は、熱海の貫一お宮の像。どこかのおばさんがじっと見ている。
 熱海は、次第にワイキキ化(というか、何と言うか)していて、蘇鉄椰子ばかりが目立ち、松なんてここの一本くらいしかないほど。熱海は、海としては最悪だけど、どんどん不思議な場所になりつつあって、それはそれで面白い部分も無きにしも非ずといった、とても微妙なところ。

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 最初、ツァーヴェには何が起こったのか理解できなかった。母は激しく震えていた。震えながら、つんのめるようにして扉に取り付いて開き、外に飛び出して行った。ツァーヴェも慌てて後を追った。外の刺すような空気が痛かった。だが、半狂乱になった母を追う不安はもっと痛かった。辺りには月の光が満ちていた。明るく澄んだ夜だった。だがその美しい夜空は、どこかこの世界のものではないように見えた。そのせいで、まるで今起こっていることが、全て夢の中の出来事であるかのように思えた。だが、外気の冷たさは本物だった。そして、母の狂ったような叫び声も。
 崖の手前で、母は崩折れた。思わずツァーヴェは、さっきこの場所にいたはずの父の姿を捜した。だが父の姿はどこにもない。辺りを見回すと、足跡が幾つも見える。その中の一つは父のものだろう。それが、崖の所で消えている。それが何を意味するものなのか、もちろんツァーヴェにも理解できたが、実感として感じられなかった。だって、なぜ父が崖から身を投げる必要があるのだろう。ツァーヴェには、そんなことはありえないと思えた。きっと何かの間違いだと思った。ツァーヴェは数歩だけ崖の方に向かって歩いた。そして、恐々と下を覗き込んだ。だが、何も見えなかった。ぞっとするほど遥かな下方に、黒々とした、雪を頂いた針葉樹の影が見えただけだった。恐ろしくなって、彼は後ずさりした。それと入れ替わるように、母がゆっくりと立ち上がろうとした。母の目は完全に虚ろで、ツァーヴェはぞっとした。それで、思わず母の方に手を遣った。その手に、母は我に還ったようにツァーヴェを見た。そして、彼を抱きしめた。母は、涙の匂いがした。だが、じっとツァーヴェは抱かれていた。そして、母の肩越しに空を見ていた。空はコバルト色だった。どこまでも澄んだ、幻のような青さだった。
 翌日はアトレウスが荷物を届けてくれる日だった。それも天候次第だったが、運良くとても穏やかな日で、昼過ぎにはアトレウスがやってきた。ツァーヴェもオルガも一睡もできずに、彼の到着を待ちあぐねていた。オルガから一部始終を聞いたアトレウスはその足で町にとって返し、皆に声をかけて、トゥーリのための捜索隊を組んでくれた。だが、崖下にまで行くにはかなりの迂回路を取る必要がある上に、道なきタイガの中を延々と進む必要があるため、雪の降ったあとのこの季節には特に、捜索は最初から困難が予想された。それでも何とか捜索を行い、それは三日間に渡って続けられたが、トゥーリの遺体の発見はおろか、彼の落下の形跡さえ見つからなかった。とはいえ、そういうことは結構あることで、春になって意外なところで遺体が見つかったりするものだ。それで少し範囲を広げて捜してみようとしたのだが、丁度襲ってきた吹雪のために、もうこれ以上の捜索は出来ないということになった。
 残念ですがここまでです、と先頭に立って捜索をしてくれていたイワージュは言った。イワージュは、町の警察に勤めている五十代の太った男で、アトレウスとは親しかった。彼は首を振りながら続けた。後は、雪が溶けるまでどうしようもありません
 ありがとうございました。母は涙を流しながら、やっと言った。
 本当に残念です。イワージュは俯いた。この時期には、ときどきこういうことがあるのです。とても強い心を持った人が、思いもがけない行動に出たりするのです。心が、少し狂うのでしょう。言ってみれば、ご主人はこの地方の風土病にやられたようなものです。

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 「沈黙のフライバイ」 野尻抱介著
 ハヤカワ文庫SF 早川書房刊

 を読む。

 名作「太陽の簒奪者」の著者による短篇集。
 とても面白かった。最後の「大風呂敷と蜘蛛の糸」が一番面白くて、次に表題作の「沈黙のフライバイ」が良い。中学生くらいでこの作品集に出会えれば、きっと強く印象に残るんじゃないかと思う。

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 根府川の駅を降りて、浜へ向かう。
 根府川は真鶴の手前の駅で、東海道線唯一の無人駅。
 どこか遠くに来たような気分になる。
 ホームからは、海が広く見渡せる。

 駅は崖にへばりつくようにしてある。
 浜は、駅のすぐ下に広がっている。
 細い路地の急な階段を下り、鮮やかな赤い橋梁を潜り抜ける。
 赤い橋梁は、青い空にしっかりと映えて見える。

 ベン・シャーンの絵を思い出す。
 赤い階段を上る男を描いた絵。
 ベン・シャーンはアメリカの画家。
 第五福竜丸の被爆に衝撃を受け、核実験に抗議した絵を沢山残した。

 国道を渡り、ゴロタの浜に辿り着く。



 1923年の関東大震災では、根府川の駅舎が列車もろとも海に落下した。
 死者112名、負傷者13名。根府川周辺の住民も、200名ほどが亡くなったという。
 列車は、戦時中に金属回収(!)のために引き上げられたというが、ホーム跡は今でも海の中に残され、漁礁となっている。ここにはダイビングショップがあって、ダイビングポイントとなっている。この日は、僕は(ショップとは関係なしに)素潜りをしたのだが、ショップ前には海中に金属のフックやロープがあって、潜り易くなっている。ただ、ビーチ前の海中の環境ははっきり言ってあまりよくないということが、あの酷い透明度の中でさえ分かった。

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鳴子  




 酒田からは陸羽西線、陸羽東線と乗り継いで、鳴子温泉へ。
 陸羽東線のほうは、山間部を通る路線で、鳴子峡の写真が有名なのだが、一瞬だったで、撮影できなかった。
 ところで、ここに掲げた写真は、鳴子温泉の路地で撮影したもの。
 僕は愉しんでいると写真を撮ることを忘れていることが多くて、鳴子温泉では殆ど写真を撮らなかった。撮ったものといえば、つまりこんな写真。ここまで来て、一体何を撮影しているのだろう。
 この鳴子温泉には湯めぐりチケットというものもあるのだが、なにせ時間的にはそれほど余裕もなかったため、共同湯に入ることにした。鳴子には二つの共同湯があって、一つは早稲田の学生が発見したという「早稲田桟敷湯」で、もう一つが鳴子最古の湯で、1000年の歴史があるとも言われている「滝の湯」。僕たちは「滝の湯」の方に入った。大人が150円という驚きの値段。勿論建物は最近のものだが、風情は残っている。強烈な硫黄の匂いで、芯まで温まった。


 
 ところで鳴子は、画家谷内六郎ともゆかりの深い温泉。
 この寂れているというか、鄙びているというか、その雰囲気が彼に触れたのだろうか。
 最初この温泉地に着いたときは、温泉地としての名前が有名なだけに、その鄙び方に驚くほどだったのだが、風呂を上がって、だれもいない路地を歩き、道端で休んで空を見ているうちに、次第に肌にしっくりと馴染むような気がしてきた。今、こうして書いていても、何となく懐かしくなってくる。

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「飛行する少年」
ディディエ・マルタン著 村上香住子訳
サンリオSF文庫 サンリオ刊

を読む。

 「SF文庫」と銘打ちながら、SFとは全く関係のない一冊。サンリオSF文庫お得意の秘技。それはそれでいいのだが、ただし内容がよければの話。これはフランスの現代文学だが、あまり面白くなかった。どうしてこんな本を出したのだろう。しかも、SF文庫として。
 この本だけではないけれど、サンリオのラインナップは、ものによっては、どうも作家名とタイトルだけ見て直感で決めているような節さえある。国書刊行会の「文学の冒険」シリーズがそこそこ売れている今なら、サンリオSF文庫ももっと売れたかもしれないが、当時はこれでは駄目だったろう。カバー絵は、相変わらずシュールなサンリオSF文庫節で、目を奪われずにはいられないのだが。僕は安価で以前に買っていたのだけれど、店によってはこの本でも古書価が数千円もしたりする。少なくとも、この本を読むためにそんな金額を出す価値はないんじゃないかと思う。
 といろいろ書いたけれど、サンリオSF文庫、その趣味的な手触りから、妙な愛しさを覚える文庫だ。

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 あんなことがあったから。あんなことがあったから。ツァーヴェは頭の中で何度も反芻した。そして最後には小さく「あんなことがあったから」と呟いた。呟いた後で、彼ははっとして辺りを見渡した。だが、誰の姿も見えなかった。見えるはずもないのだ。こんな深い森の中では、人に出会うなんて稀なことだ。辺りが一層静かになった気がした。ツァーヴェは少し寂しくなって、再びハンドルに手をかけた。そして、所載なくハンドルを回した。だが、空想の自動車はさっきのようには彼を連れて行ってはくれなかった。むしろハンドルを回すたびに孤独が歩を詰めてくるようだった。
 ツァーヴェの脳裏に、最後に見た父の後姿が浮かんだ。窓越しに見た父の姿。目に焼き付いていたから、すっと浮かび上がって見えてくるるほどだった。呼吸が速くなり、身体が震え、喉が渇いた。今でも慣れるということがない。父は遠ざかって行く。ツァーヴェは思わず手を伸ばしそうになった。だが、その父の姿はするりとすり抜けるようにして、いきなり消えた。そして、それを追って響く、母の狂ったような絶叫。
 ツァーヴェは身体を硬くして、その光景の通り過ぎるのを待っていた。あの夜から何度も繰り返される悪夢。逃れる術はなかった。
 そう、あの日のお父さんは確かにちょっと変だった、とツァーヴェは思った。夕方家に帰ってきてからも、どこかずっと焦点が定まらないような目をしていた。お母さんだって、それは気がついていたはずだ。あんなにおどおどとした様子のお父さんの姿は、僕は初めてだった。部屋の中に入っても、ずっと窓から外ばかり見ていて、何を考えているのだろうと思ったのだ。
 あの夜はジャガイモを食べたっけ、とツァーヴェは思った。ジャガイモなんていつも食べているから珍しくもないのに、どういうわけか目に焼き付いている。食事の間、あまり話をしなかった。小さな電球の灯りが、あの日は普段よりも暗く感じた気がする。それはもしかしたら、外の月の光が鋭かったせいかもしれない。余りに明るかったから、僕は窓辺に寄って外を見たのだ。空には丸くて巨大な月が煌々と輝いていた。そして、一面のタイガの森とアラースの開けた大地にその白金の光を注いでいた。
 その夜は皆、早く床についた。だが、ツァーヴェは真夜中に不意に目を覚ました。部屋の中は、窓からの月の光で幻のように明るかった。見渡すと、両親のベッドには父の姿がない。身体を起こしたツァーヴェに母が気付き、どうしたの、と声をかけてきた。
 眼が醒めた、とツァーヴェは言った。それから、お父さんは?と訊いた。
 さっき起きだして外に出て行ったみたい、と母は言った。大丈夫よ。トイレだと思うわ。
 僕もトイレに行くよ、とツァーヴェは言った。
 我慢できないの?
 漏れちゃうよ。
 仕方ないわね、と母は言って起き上がった。そして二人で寝室から居間へ向かった。居間で二人は上着を羽織りながら、ふと窓から外を見た。
 あれ、お父さんだ、とツァーヴェは言った。
 本当ね。母は言った。どうしたのかしら、あんなところで。
 あんなところで、と母は言ったが、確かにそうで、父は崖すれすれの所に立って、彼方の月を眺めているようだった。
 あんまり月が綺麗だから、眺めているんだよ。ツァーヴェは言った。
 そうね。母はそう言って微笑んだが、その瞬間、父の姿が崩れるように消えた。一瞬の沈黙があって、それから、母の悲鳴がツァーヴェの耳を裂いた。

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 昨日は、世田谷・多摩川花火大会に出かけてきました。
 正確には世田谷花火大会と川崎多摩川花火大会の共同開催で、二子橋を挟んで二つの花火大会が行われるわけです。
 僕は川崎側の、打ち上げ場所間近(200メートルも離れていないくらいでした)で見ました。さすがにこれだけ近いと(時々火薬のカスが降ってくるのですが)、迫力が違います。内容も、どこか宇宙を思わせるような演出をしているような印象で、これまで見た花火大会の中でも特に満足のゆくものでした。
 中盤の、連続した三つのスターマインショーは、印象的でした。



 スターマイントパーズ。空一面に黄金色の花火が打ちあがり、幻想的でした。



 スターマインエメラルド。緑色の花火による輝きが綺麗でした。



 スターマインビックバン。その名の通り、白く明るい色彩の花火が激しい音とともに一斉に炸裂して、まさに爆発したかのようで、圧巻でした。
 僕の下手な写真では、実際の花火の臨場感を百分の一も伝えられないのが残念です。

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 どうしても読めない本というものがある気がする。
 今日、鞄に入れて出かけたのは、レイ・ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」。
 もう二十年も前に買った本。
 だが、いまだに読めないでいる。今日も読めなかった。
 最初は、大切に読みたいから、時間が出来てから読もうと思っていた。
 だけど、そのうちにブラッドベリの作品自体が読めなくなった。何度か、読もうと試みたことがある。だけど、読むことが出来ずにそっと書架に戻すことを繰り返していた。そして時間が流れた。この「たんぽぽのお酒」は、その間ずっと書架の隅で埃を被りつづけていた。

 今日、ふと思い出して、そろそろ読んでみようと思った。
 だが、やはり50ページも読めない。
 どうしてなのだろう。いつも途中で読み進めなくなってしまう。
 ブラッドベリの作品は、かつてはあれほど輝いて見えたのに、ある時期からぷつりと読めなくなった。そして、懐かしい記憶だけが残っている。ノスタルジーを書く彼の作品自体が、遠いノスタルジーのようだ。

 いつか僕は「たんぽぽのお酒」を読み終えることができるのか。
 それとも、決して読み終えることのできない本として、書架の隅に存在しつづけるのか。

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 真鶴のウツボ。
 このウツボは、ちょっと小さめの固体。

 ウツボは、どこにでもいる。
 縄張り意識が強いようで、自分のテリトリーを巡回しているように見える。

 ウツボといえば、思い出す小説が一つ。
 アントニオ・タブツキの「島とクジラと女をめぐる断片」という連作短篇集の中の一編、「ピム港の女」。この中で、ウツボは高く澄んだ声で唄われる歌が好きだから、月夜に歌で呼び寄せて釣るのだというくだりがあった。
 ウツボは、食べると結構美味しいとも聞くが、僕はまだ食べた事がない。釣ろうにも、僕は音痴なので、歌で呼び寄せるのは無理そうだ。

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酒田  



 秋田から酒田へ向かい、一泊した。
 日本海に面した街である。
 かつてNHKで放送されていた「おしん」の奉公先がこの酒田だった。
 僕は知らなかったのだが、妻に言われて知った。
 「本間様には及びはせぬが せめてなりたや 大尽に」
 とまで唄われた豪商がいた市。
 だが、その面影はもはやないという印象。

 この市で泊まった宿は最上屋旅館という、大正時代からあるという宿。 
 しかし、宿泊費は安く、手ごろ。
 この旅館はネットで捜したのだが、「ただ古いだけの旅館です」というキャッチフレーズに、どうだろうかと思ったのだが、なかなか良い旅館だった。
 何より、僕は神戸の出身なのだが、東京に中学校の時に修学旅行に来た際泊まった、本郷の森川別館と似た印象だったのがとても懐かしかった。各部屋に行くのにそれぞれの階段があるという、複雑な造りの宿。出来た頃が同じなのだろう。実際、僕たちが泊まった日も新潟の方の高校から運動部の子たちが試合のために宿泊していた。
 宿の食堂にアルバムがあって、開くと、まるで戦争の後のような荒廃した町の写真が沢山収められていた。しかし、終戦後の写真にしてはちょっと変だ。それで宿の主人に聞いてみると、1976年に起こった「酒田大火」の写真だという。強風に煽られて、火は街の22.5ヘクタールを焼き尽くしたらしい。
 「それからはすっかりさびれてしまって」と旅館の女将さんは寂しそうだった。

 写真は山居倉庫。酒田の代表的な観光場所である。
 

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 目の前に広げられた一枚の絵がある。
 大きさは一メートル四方くらいの正方形。紙は画用紙。固い木板に貼り付けられている。
 紙には大きな顔が描かれている。ガッシュで描かれた巨大な顔。子どもの手によるもののよう。のっぺりと塗りつぶされている。顔の色ははっきりとした肌色。その顔の輪郭の上部にはぺったりとした髪の毛がちょんと乗っけられたようにして描かれている。
 口はなだらかな半円。まるで切られた西瓜のよう。鼻は鉤型に茶色で描かれている。
 髪も口も鼻もとても小さい。歪な円の上にちょこんと乗っている。
 でも代わりに眼はとても多い。大きいではなくて多い。小さい眼が沢山ある。一面にある。
 幾つくらいあるのだろう。数えるのが馬鹿馬鹿しくなるほど。それくらいある。
 その眼のひとつひとつの虹彩には小さな取っ手が付いている。二本の指の指先でやっと摘めるほどの小さな取っ手。
 私はその一つの取っ手にそっと指を添えて引く。すっと丸い瞳の扉が開く。そして中から声が聞こえる。それは笑い声。そしてひとしきり笑い声が漏れた後にはしんとした空気感を置き去りにして瞳が消えた。残ったのは私の指が摘んでいる取っ手だけ。
 私はさらに別の取っ手に指を這わしてみる。そして開く。中からは明るい光が漏れる。そして光がひとしきり漏れた後にはまた瞳が消えた。私は面白くなって次々と取っ手を摘んで扉を開く。甘い香りが漏れることもある。悲しげな泣き声が聞こえることもある。誰かがこちらを覗いている気配がすることもある。動物の息遣いが聞こえることもある。そっと秘密を告げてくれる囁き声がすることもある。だがどれも束の間の幻のように用事が済むとすっと消えてしまう。
 だけど私はそれでも構わない。私は大事なお菓子を摘むように扉を開く。そして最後に二つだけ残してちゃんとした顔の絵にしたいのだがどれを残そうかと考えている。

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「川の名前」 川端裕人著
ハヤカワ文庫JA 早川書房刊 

 を読む。

 「夏のロケット」の著者による作品。
 これは、面白かった。
 ライトノベルなんてものが出てくる以前の、SFジュブナイルの香りがする小説。
 小中学生が読んでも、面白いんじゃないかと思う。いや、むしろそちらに向けて書かれた小説なのかもしれない。
 ストーリーは、多摩川の支流に野川という川があるのだが、そのさらに支流の桜川(この川は架空の川)にペンギンの一家がいるのを子供たちが見つけ、それがやがて大きな騒動になってゆくというもの。多摩川のタマちゃんの一件が、この作品のインスピレーションの元となったことはすぐにわかるが、テーマはそれだけではない。子供たちの成長を見守ること、それがこの小説の根底にあるテーマとなっている。

 写真は、昨日行った真鶴で撮影したミヤコウミウシ。
 夏には海難事故が増えますが、波や流れの様子をよく見て、無理をしないようにしましょうね。 
 

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 「魔性の子」 小野不由美 著
 新潮文庫 新潮社刊

 を読む。

 電車の中で読むのに肩の凝らなさそうなものをと思い、持って行った本。
 途中までは結構面白くて、どういう結末になるのだろうと思っていたら、なんともっと大きな物語の序章というか外伝というか、そんな流れの結末で、唖然とする。調べてみると、これは「十二国記」というシリーズの一部だった。そういう人気シリーズがあることは知っていた。それで、最近の人気作家の作品だからと読んでみたのだが、これは独立した作品だと思っていたのだ。書く力のある人だとは思ったけれども、さすがにシリーズを全て読もうとは思わない。

 写真は、羽越本線の下浜にある、下浜海水浴場。
 秋田から酒田へ向かう道中、途中下車して、次の列車が来るまで一時間ほどぼんやりとしていた。
 少しだけ、泳いでもみた。
 写真の位置は遊泳禁止区域だけれども、沖に飛島が見える、日本海に面した広い海岸線を持つ海水浴場。

 ところで、水平線の少し上のあたりに、真っ直ぐに明るい線が延びていた。
 雲の下部のようで、その上の部分が霞んでいる。島の上部が、見えない。



 変わった現象だ。
 何と言う現象なんだろう。

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