漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

ナイトランド

2009年01月28日 | W.H.ホジスンと異界としての海

 姉妹ブログ「Sigsand Manuscript」で、W.H.ホジスンの大長編「ナイトランド」の翻訳をちびちびと始めた。完訳を目指している。
 終わるのは、何年後になるやら。そんな程度の気合だが、もともと荒俣宏さんの翻訳が、完訳ではないものの、あるので、分からない場所は大いに参考にさせて頂ける。だから、意外と大変でもないかもしれない。英語の勉強のつもりもあることだし。

シャイニング

2009年01月25日 | 映画
「シャイニング」 スタンリー・キューブリック監督

を観る。

 夜中に見ていたのだけれど、原作を読んでいたせいか、ちっとも怖くなかった。原作者のキングはこの映画を酷評したそうだが、分かる気がする。確かに映像は結構綺麗だったけれども、ストーリーの厚みは、どうしたって原作の十分の一もない。まあ、時間が切られているわけだから、仕方ないのだろうけれども。
 でも、考えてみると、ホラー映画で「これは怖い」と思ったことって、あんまりない気がする。いや、もしかしたら一度もないかも。それほど観ていないせいもあるのだろうけれども。この「シャイニング」は、ウィキペディアによると、「数学的に計算された世界最高のホラー映画」だということだが、これが最高峰なら、「ホラー映画の怖さなんて知れたもの」と嘯いてしまいそうだ。

水声通信

2009年01月21日 | 読書録
 先日「日本ジュールヴェルヌ研究会」の会合に参加したのだが、そこで水声社から発行されている雑誌「水声通信」の最新号である27号を頂いた。特集はもちろん「ジュール・ヴェルヌ」である。
 この本には、研究会のメンバーが全面的に参加している。それだけあって、本邦初訳の短篇や書誌情報など、充実したものとなっている。ヴェルヌの名前は誰でも知っているほど有名だろうが、意外にもこうして特集されることは少なく、そういった意味でも貴重な一冊。
 日本の翻訳史は、ヴェルヌとともに花ひらいたと言ってもいいのだが、その割には今では軽く扱われ、児童文学か、そうでなければSFの祖の一人といった扱いしかされない。だがそれだけではない、なかなか一筋縄ではゆかない作家なのだということは、横尾忠則氏のインタビューをはじめ、この一冊から伺えるだろう。実際のところ、日本の漫画にもヴェルヌは最大級の影響を(様々な面から)与えているのだから、もっと再評価されていいはずではないかと思う。

ジュリアとバズーカ

2009年01月19日 | 読書録

 アンナ・カヴァンの短編集「ジュリアとバズーカ」を読んだ。買ったわけではなく、杉並区の図書館で所蔵していることがわかったので、取り寄せてもらい、借りてきた。サンリオSF文庫から出ていたこの本は現在稀覯書になっていて、入手はなかなか困難である。ごく稀に見つけることもあるが、ただの文庫本に一万円近い値段がつくから、なかなか買う気になれなかった。同じサンリオから邦訳のある「氷」と「愛の渇き」は出版された時に買っていて、読んでいるから、これで邦訳のあるカヴァンの本は全部読んだことになる。
 「ジュリアとバズーカ」は短編集だが、どの作品も同じ話という印象。命あるものへの嫌悪感と歪んだ自己愛の羅列で、ストーリーなど、ないに等しい。いや、アンナ・カヴァンの小説は、邦訳のある他の二冊の長編も含めて、全て同じ話といっていいかもしれない。アンナ・カヴァンの小説を読むということは、彼女の自伝を読むことと同義であり、その自伝は一方向のモノローグである。
 晩年を精神病院で過ごしたアントナン・アルトーは「器官なき身体」という言葉で自らの到達点を夢想し、同じく精神病院で過ごしたことのあるヘロイン中毒のカヴァンは、自らの最終地点を「穢れのない真っ白な粉」の中に見た。言い方は違うが、二人の幻視していた先は、「生物としての人間からの脱却」であったと思える。しかも、感情を抱えたままで。
 彼女たちは、あるいは彼らは、一体何処を目指しているのだろう。「寂しい、孤独だ」と叫びながら、同時に「ぶよぶよとした生身の」現実を拒否している。絵や写真の二次元の世界に、自分たちが存在出来たらと願っている。
 だがもちろん、それは不可能なのだ。「身体の内側から綺麗になろう」とテレビから流れるコマーシャルが言っている。あるいは、「オーラを綺麗にしよう」と宗教家が言っている。そうしたものは全て、絵や写真の中にしかない、二次元の考え方だ。それはこの世界では実現しない。
 おそらくそのことはカヴァンにしても分かっているのだろう。だが、その気持ちを捨てきれない。だから、死の直前まで同じ話を書き続けた。だからこそ、カヴァンの書く小説には魅力がある。それが「人をうんざりするような気持ちにさせる」という種類の魅力であっても、確かな魅力だ。カヴァンの小説を書架に収めるとき、その場所がうっすらと寒く白い場所のように思える。なぜなら、彼女の本がすなわち彼女自身の孤独であるからだ。
 ところで、アンナ・カヴァンの代表的な短編集「アサイラム・ピース」は、中から数編が翻訳され、NW-SF誌に掲載されたことがあるが、一冊にまとめられたことはない。代わりに、現在ウェブ上でこの短編集から数編を、翻訳で読むことができるようだ。
 
 アサイラム・ピース

月の雪原 / 第一部・雪原 / 8・死の家・8

2009年01月18日 | 月の雪原
 ツァーヴェは助手席で小さくなって、声を殺して泣いていたが、次第に我慢ができなくなって、大きな声を上げて泣き始めた。アトレウスはツァーヴェの肩に手を掛け、もう一方の手の指で、零れ落ちてきた涙を拭った。アトレウスは言った。「車を出そう。オルガが一人きりだ」
 白い雪原の上を、アトレウスの車はゆっくりと動きだした。そして次第に速度を上げ、森の中へ入っていった。
 
 オルガの葬儀は、アトレウスが全てを取り仕切って行うこととなった。というのも、オルガやトゥーリには身内と呼べる人間は少なく、しかも長い間没交渉となっていたこともあって、連絡が容易にはつかなかったのだ。唯一連絡が容易くついたのはオルガの姉夫婦だったが、住んでいたのは、陸続きであるとはいえ他国であった。しかも彼女は今体調を崩しているということで、旅をするのは不可能であるということだった。彼女の夫も、丁度仕事で海外に出かけているという。アトレウスはオルガらの残した住所録を調べ、彼らの元同僚らのうちの何人かには連絡をつけたものの、住んでいる場所が遠いため、残念だがこちらには来れないという返事ばかりだった。それでアトレウスは、長い間の付き合いでオルガやツァーヴェが他人とは思えなくなって来ていたし、彼自ら葬儀を仕切ることにしたのだった。そしてツァーヴェの身元も、とりあえずは自分が預かることにした。
 葬儀はごく簡単に済ませた。費用の問題もあったし、参列者も少なかった。それでもアトレウスは町の人々から慕われていたから、皆の助けもあって、それほど惨めな葬儀にはならずに済んだ。オルガは、共同墓地に葬られるという可能性もあったのだが、アトレウスとツァーヴェの強い希望で、彼女の小屋の近くに葬られた。アトレウスがツァーヴェから土地を買い取るという形で、墓を小屋とともに保存することにしたのだ。
 葬儀の後、ツァーヴェは小屋からいくつかの身の回りのものを抱えて、アトレウスのアパートに移った。その中には、彼の宝物を詰めたクッキーの箱も含まれていた。
 アトレウスのアパートは町の中ほどにあった。白い外観が随分と煤けていて、それほど新しくはないアパートだが、部屋は三つあり、二人ならそれなりにゆったりと暮らせそうだった。アトレウスは、見かけによらず結構綺麗好きのようで、部屋はそれなりにきちんと片付いていた。とはいえ、神経質といった感じでもなく、埃はあちらこちらに白く積っている。物が散乱しているのは気になるが、埃はそれほど気にならないらしい。アトレウスは彼の友人と一緒にツァーヴェの小屋から運んできたベッドを部屋の中に運び入れ、一番小さな部屋の中に据えつけた。そしてツァーヴェに、これからしばらくはここがお前のベッドだと宣言した。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 8・死の家・7

2009年01月15日 | 月の雪原
 そうしてどれだけ進んだだろう。ふと、ツァーヴェは低い唸りのような音を聞いた気がした。思わず立ち止まり、伸び上がって、辺りを見渡した。すると遠くに黒いものが見えた。眼を凝らすと、それは確かに動いていて、こちらに向かっているようだった。
 ツァーヴェは息を呑み、信じられない気持ちでさらに伸び上がって眼を凝らしたが、間違いなかった。雪原の上を、一台の黒い自動車がゆっくりとした速度でこちらに向かってくる。そしてその自動車は、ツァーヴェには見覚えのあるものだった。
 あれは、アトレウスの車だ!
 ツァーヴェは疲れを忘れ、必死に車の方を目指した。もし今アトレウスに気付いてもらえなければ、もう自分はここで死んでしまうしかない。そんな切羽詰った気持ちだった。だが、遮るものもない平原だから車はすぐにツァーヴェに気付いたらしく、ゆっくりと方向を変えて、真っ直ぐにツァーヴェを目がけて進んできた。そしてツァーヴェのすぐ近くまで来ると停車し、中から、アトレウスが慌てたように飛び出してきた。
 「ツァーヴェ!」
 アトレウスはそう言って、じっと彼の顔を見た。上気したツァーヴェは、息を荒くしながら、大きく見開いた眼でアトレウスの顔を見ていたが、やがて抑えきれない涙が溢れてきた。そしてじっと突っ立ったまま、顔をくしゃくしゃにして、ぼろぼろと泣き続けた。アトレウスはそんなツァーヴェの肩を抱いて、言った。「大丈夫だ……。ともかく、寒いから車に入ろう」
 アトレウスに促されて助手席に滑り込んだツァーヴェは、それでもしばらくはボロボロと泣き続けていた。アトレウスは黙ってエンジンをかけ、車を出した。
 しばらくはそうして黙ったまま車を走らせていたが、やがてアトレウスが落ち着いた声で言った。「たった一人でこんなところにいるなんて、いったいどうした?」
 ツァーヴェは小さく頷いた。言葉が出てこなかった。
 「お母さんはどうした?きっと心配してるだろう?」
 ツァーヴェは唇を噛み締めた。身体が小さく震えて、止まらなかった。その様子を見ていたアトレウスは車を止めた。そしてツァーヴェが口を開くのを待った。随分してから、ツァーヴェはぽつりと、母が死んだことを告げた。
 「何だって?」アトレウスは明らかに動揺していた。「死んだって……オルガがか?」
 ツァーヴェは頷いた。それから今朝から今までのことを訥々と話した。
 「とりあえず家に行こう」ツァーヴェの話を聞き終えたアトレウスは言った。「とても信じられない気分だが。ツァーヴェ、辛かったろうな。だが、お前も命が危なかったんだぞ。さっきの場所から町までは、まだ随分と距離がある。もしかしたら、道に迷っているうちに日が暮れてしまったかもしれない。そうなったら、もう助からなかっただろう。この辺りの冬の夜がどれほど恐ろしいか、お前だって知っているだろう?今朝、俺はふと気になったんだ。それで、冬が本格的になる前にお前の家に行こうと思い立った。気まぐれを起こして、本当に良かったよ。虫のしらせというやつなんだろうな。お前は運のいい子だぞ。こんな奇跡は、めったにあるもんじゃない。だから、大丈夫だ。神様は、きっとお前を見ていてくれてるんだ」

漂着文庫コレクション/ 7・幼年期の終り

2009年01月14日 | 漂着文庫コレクション

「幼年期の終り」 アーサー.C.クラーク著 福島正実訳
ハヤカワ文庫SF 早川書房刊

再読。

 最近、光文社古典新訳文庫から、この本の改訂版の翻訳が出たのを見て、再読しようと思った。
 言わずと知れた、SFの古典中の古典。クラークの代表作である以上に、SFファンなら必読の一冊として、真っ先に挙げられる作品のひとつ。後のSFに与えた影響は言わずもがなだが、日本のサブカルチャーに与えた影響も、計り知れない。最近なら「エヴァンゲリオン」などは間違いなくこの作品の影響下にあるし、大友克洋の「AKIRA」も、最後にアキラが鉄男を飲み込んで「行ってしまう」辺り、この作品のラストシーンを思い浮かべてしまう。そういえば、80年代に流行ったニューサイエンス、特にライアル・ワトソンの「生命潮流」などは、モロにこの作品の思想から多くを得ていた。つまり、オカルト的な要素も強いSF作品なのだ。それでも、「幼年期の終り」は一級の作品である。
 前半は、やや都合の良すぎる話が続き、陳腐にも思えるけれども、半ばを超えた辺りから、急速に別の次元に物語が変化してゆく。そして感動的なラストまで、どこまでもリリカルな寂しさを内在した高揚感が膨らんでゆく。ややキ宗教的な思想が鼻につくところもないではないけれども、間違いなく感動的な物語である。
 個人的には、クラークの作品では「都市と星」の方が好きだったのだけれども、後への影響の大きさから見ると、やはり「幼年期の終り」の方が代表作に相応しいかもしれない。
 それに、かつては知らなかったのだけれども、この作品は、ウェルズ、ホジスン、ステープルドン、リンゼイ、ルイス、クラーク・・・と続く、コズミックな哲学的SFの系譜に連なっている、記念碑的な作品である。そういう意味でも、とても興味深い。その系譜は、グレッグ・ベアやスティーブン・バクスターらを経て、オーストラリアの作家、グレッグ・イーガンの「ディアスポラ」に至っているようだ。

湘南

2009年01月11日 | 三浦半島・湘南逍遥

 年始恒例の江ノ島詣でに出かけた。
 寒いというので、覚悟して出かけたのだが、風がそれほどなくて、思ったほどではなく、有難かった。それで、お参りを済ませた後、磯の方には行かないで、鎌倉方面にむかって親子三人で散歩。途中の海岸で、僕はビールを、妻娘はアイスを、楽しむ余裕さえあった。大潮で、海は波がよく立っていて、サーファーが沢山いた。
 途中で疲れたら江ノ電に乗るつもりだったけれど、結局、散歩は鎌倉駅まで続いた。

ずっとお城で暮らしてる

2009年01月09日 | 読書録

「ずっとお城で暮らしてる」 シャーリイ・ジャクスン著 山下義之訳
学研ホラーノベルズ 学研刊

読了。

 スティーヴン・キング絶賛の、モダンホラーの古典「丘の屋敷」(たたり)の著者による長編。僕が読んだのは学研版だが、これは現在絶版で、現在は別の訳者によるものが創元文庫で読める。

 去年の年末に読んだ「たたり」に比べると、展開が読めてしまうというところはあるにせよ、この物語の本質はストーリーそのものにあるわけではないから、その衝撃は相当なものだ。透明で、グロテスクで、ひどく病んだ、哀しい物語。ラストシーンは、まるで一枚の絵のようになって、いつまでも印象に残る。こんな世界は、絶対に女性にしか書けないだろう。

エドガー・ハントリー

2009年01月07日 | 読書録
「エドガー・ハントリー」 C.B.ブラウン著 八木敏雄訳
ゴシック叢書10 国書刊行会刊

読了。

 分かりやすい話ではなかった。ストーリーそのものは特に難しいというわけではないのだが、主に行動の上でどうしてそうなるのか理解し難い部分が多く、難しく感じる。結局のところ、この物語はいったい何だったのだろう。登場人物は、いったい実際はどういう人物たちだったのだろう。深読みをしようとすれば、いくらでも出来そうだが、どうもすっきりとしない。ストーリーの分かりやすさよりも象徴的な要素を重視した作品という印象なのは、まさにゴシック小説というべきか。
 この小説は18世紀の終わりに書かれた作品で、著者のC.B.ブラウンがアメリカ小説の父と呼ばれていることから、多分、インディアンと白人の対立を書いた作品としては最初のものだろう。また、この作品の中で最も印象が強かったのは、洞窟を抜けた先にある山岳の光景で、この場はまるでこの物語を象徴する場のように、いささかイコン的に描かれていて、とても美しい。

病める心の記録

2009年01月05日 | 読書録

 昨日の記事を書いて、ふと隣の書棚を見たとき、眼についた本があった。

 「病める心の記録」 西丸四方著 中公新書 中央公論社刊

である。
 この本は、僕がこれまで読んできた本の中でも、とりわけ印象深い本の一冊だ。
 著者の西丸氏は精神科医であり、この本は、氏の担当した一人の19歳の分裂症患者の青年が自ら記した記録と、精神科医である西丸氏による分析によって成り立っている。
 この本のすごいのは、患者自身が記した生身の記録が読めるという点で、下手な幻想小説より遥かに読み手を引き込んでゆく。何といっても、感覚が鮮やかで、夢の中でのみ成立するような理論の飛躍が、ごく普通に納得されてゆく。それは五感全てに訴えかけてくる。異様な世界なのに、読み手にさえ共感できるほどの説得力なのだ。そして、なんとも言えず怖い。この怖さは、ちょっと凄い。異様な迫力を持つ文体なのだ。この語りの沸き立つような幻視力の前では、P.K.ディックの幻覚世界でさえ作為的に思えてくる。そしてそれを、第二部では西丸氏の分析によって解体してゆく。それはまるで、言葉は悪いかもしれないが、推理小説的でさえある。

心の泉

2009年01月04日 | 雑記
 
 正月休みも今日で終わり。
 明日は仕事初め。

 年初に、ネットを始めた当初からの付き合いの方からメールを頂いた。
 嬉しかったのだが、その中でちょっと「心の泉」という話が出た。

 心の泉。それは、感性の源泉。あるいは、感動する気持ち。魅惑される気持ち。そうしたものをあらわす言葉。
  
 心が枯れる。磨り減ってゆく。失われてゆく。心の泉を感じられなくなるとき、そういう言い方をする。誰にも覚えのある感情。それは恐怖感に近い。

 だが、心の泉が枯れるということがあるのだろうか、とも思う。枯れたのではなく、埋もれてしまっているだけなのではないか。そう思う。あるいは、そう思いたいのか。
 日々の中で、間違いなく鈍くなっているとは思う。それは否定しようがない。だが、ゆっくりと一人で時間をかけて、自分に向き合うなら、自分が思っているよりもずっと、まだ自分の中に湿った部分があることに気付くように思える。それには集中力が必要で、確かに簡単なことではないが、求めることができる。なぜなら、心の泉とは自分の生命そのもののことであり、自分が存在する限り、失われてしまうものではないからだ。

 年を重ねるにつれ、経験が増すごとに、逆説的に鈍くなってゆく。それは、自分の見知った場所から離れることが難しくなるからだ。心理的にも、距離的にも。それは仕方のないことかもしれない。だが、自分の中にあるものは、ずっとそこにある。だから、恐れる必要はないはずだ。

 年初から、そんなことを思っていた。自分に言い聞かせるかのようにして。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 8・死の家・6

2009年01月02日 | 月の雪原
 だが長く呆けている余裕はなかった。進むにせよ退くにせよ、出来るだけ早く心を決めなければならない。ツァーヴェは一分ばかり立ち尽くし、ちょっと後ろを振り向いて自分の進んできた道を見詰めたが、そのまま意を決して向き直ると、前に向かって勢いよく雪を蹴って滑り出した。
 平原の雪は一面白く滑らかで、強い照り返しを放っていた。眩しくて眼を細めると、まるで自分が遥か北の海の上を進んでいるような気分になった。もっとも、ツァーヴェは海を見たことはない。ツァーヴェにとって海とは、父がくれた絵本に描かれていた北の海だった。歩きながら、ツァーヴェは絵本の物語を思い出していた。彼が繰り返し読んだ絵本の中の冷たい海の上には、無数の流氷が浮かんでいた。その氷の海の向こうから、一人の男が氷の上を渡って駆けて来るのだ。男はオーロラから海上に滑り落ちたのだった。やがて男は氷を渡って、その果ての大地にたどり着き、出合った白熊と友情を交わし、その地に住みつくようになる。時が経って、あるとき氷の海の向こうから、流氷に乗った一人の女が現れる。女は口がきけないが、美しい娘で、やがて二人は結婚し、息子をもうける。だが、友情を交わしたはずの白熊がそれを面白く思わず、男の眼の前で彼の妻に爪をかけて殺してしまう。そこで初めて男は、妻が実はアザラシであったことを知る。海上で男を見初めたアザラシが、姿を変えて男のもとにやってきたのだった。友と妻を同時に失い、悲しみに沈んだ男は、息子を連れて、さらに流氷に乗って北へ向かうのだ。
 随分と長い時間一心に滑り続けた気がして、ツァーヴェは立ち止まり、辺りを見渡した。そして自分が、本当にただ広い場所の只中にぽつりといるのだということに今更ながら気付き、酷く心細くなった。心なしか、光もやや翳り始めている気もした。もう戻ることは出来ないんだとツァーヴェは自分に言い聞かせ、先に進んだ。心には一抹の余裕もなかった。泣くことさえ忘れて、ただどこかへ辿りつくことだけを願っていた。だが、いくら進んでも先は見えない。何処までも真っ白な世界があるだけだった。