漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



雑誌「スペクテイター」39号 
特集:パンクマガジン『Jam』の神話

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 先日、なんとなく書店の雑誌のコーナーを見ていて、見つけた。で、早速購入した。
 実は最近、偶然にもある古書店でこの「jam」と後継誌の「heaven」を数冊ずつ売っているのを見かけて、「おお、『jam』だ!」と感動したことがあった(同名の音楽雑誌ではない)。自動販売機販売専門のエロ雑誌という位置づけだから、あまり見かけたことがなかったので、感動したわけである。買おうかとも思ったけれど、一冊五千円ほどしたので、少し迷ったけれど、やめてしまった。で、後日行ったときには、もう売れてしまっていた。まあ、もしそのときまだ残っていたとしても、内容ははっきり言ってくだらないであろうことが分かっているだけに、買わなかったかもしれないけれども。二千円くらいなら、買ったのだが。まあ、それ以来、なんとなく気になっていたから、タイムリーだったわけである。
 『jam』は、1979年3月から約一年にわたって刊行されていた月刊誌である。販売ルートは、今ではもう見なくなった、雑誌の自動販売機のみ。書店には並ばない。雑誌の自動販売機というのは、基本的にエロ本を売るための自動販売機で、一時期は全国にたくさんあった。時代が下ると、昼間には売っている本の表紙が見えなくなるような工夫もされていた。80年前後に中学生くらいだった男子には、非常に懐かしく感じる人も多いんじゃないかと思う。
 で、この自販機本だが、実は日本のサブカルチャーの中ではかなり重要な位置を占めている。自販機本は、誰も中身を見て買わないから、とりあえず裸のグラビアなりマンガなりが多少載ってさえいれば、あとは何をしてもいいというような、無法地帯だったらしい。らしい、というのは、ぼくもリアルタイムで読んでいたわけではなかったからである。というか、ほとんど読んだことがない。たまたま手元にある自販機本は、三大エロ劇画本の一つ「劇画アリス」が一冊のみである。これには、吾妻ひでおや坂口尚なども寄稿していた。ぼくの持っている号には、近藤ようこや飯田耕一郎、宮西計三らの名前もある。ちなみに、編集長は、SF作家でもある亀和田武氏である。
 で、『jam』だが、これはそうした自販機本の中でも、最も有名なものだと言っていい。創刊号で、当時人気が絶頂期であった山口百恵の自宅のゴミ箱を漁って、捨てられていたものを晒したのみならず、それを読者にプレゼントするという、今ではちょっと考えられないことをやって、悪名を高めた。もともと、のちに『jam』の編集長になる高杉弾という人が、道端に落ちていたエロ本を拾って、その中に出ていた写真に興味を持ち、版元に電話をして、この写真を撮った人物に会いたいと話したことからすべてが始まったという。その写真を撮った人物というのが、版元の社長だったらしく、気に入られて、「雑誌の次の号、8ページやるから、なんか書かないか」と持ちかけられ、それが評判よくて、「じゃあ、次は新しい雑誌、一冊まるまる作れ」となったらしい。本造りにかけては全くの素人が、友人とともに、ともかく面白そうなことをやろうと作ったのが、この『jam』というわけである。
 この『jam』だが、ぼくは昔から名前はよく知っていたのだが、手に入れることはかなわないままだった。例えば『遊』とか『Fool's Mate』とか『Zoo』とか、そうした雑誌の古い号を手に入れると、広告が載っていて、気になってしょうがなかったのだが、もう手に入れるすべもなかった。『jam』が廃刊した後、編集長が、『ガセネタ』というバンドのリーダーであり、『タコ』という、ジャケットの絵が花輪和一が手がけた変なアルバムにも参加していた山崎春美になり、『Heaven』と名前を変えて、ついでに表紙デザインも 羽良多平吉によるアートなものになり、書店でも売れるようになっていたが、それも読めないでいた。まあ、『Fool's Mate』に、雑誌内雑誌として、『Heaven』のコーナーを持っていた時期があって、それは当時読んでいたけれども。
 ともかく、それが『jam』である。胡散臭いという言葉がぴったりの、唯一無二の雑誌だが、まあ時代の徒花とも言える。それがなぜいまさら特集されるのか、不思議といえば不思議なのだが、ずっと全貌を知りたかったぼくとしては、この特集は有りがたかった。『jam』と『Heaven』、もし全号揃えるとなると、十万じゃ足りないだろうから。
 雑誌というのは、「文脈を補完する」という意味に於いて、非常に重要な媒体であると思う。例えば、ラヴクラフトを語るとき「Weird Tales」が欠かせないように、また、日本のSFを語るとき、ずっと並走してきている「SFマガジン」が欠かせないように、一見バラバラに見える個々の作品の間には、実は文脈が存在することが多い。今ではネットがその地位を奪ってはいるが、かつては確かに雑誌がその場所にあった。したがって、過去のある作品を読むとき、単に楽しむだけならばただその作品を読むだけで良いのだが、歴史の中で評価しようとすると、最初に調べなければならないのは、雑誌や新聞になる。
 今回の『jam』の特集も、もしかしたら現代のネットに最も近かったかもしれない雑誌『jam』を取り上げることで、そうして雑誌が力を持っていた時代に別れを告げる「ひとつの儀式」として企画されたものなのかもしれない、と思ったり。
 

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「レベッカ」(上・下) デュ・モーリア著 大久保康雄訳
新潮文庫 新潮社刊

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 ヒッチコックの映画でも有名な古典的サスペンス小説だが、20世紀になって突如狂い咲いた、ゴシック・ロマンスの金字塔としても知られている。ぼくはこの作品を読むのは初めてだし、映画も見たことがないので、内容は全く知らないまま読んだが、楽しめた。正直、上巻の三分の二ほどはかなり冗長で、ここで挫折してしまっても不思議ではなかったのだが、そこを乗り切ると、物語は一気に加速し、後は一息で読み終えてしまった。なるほど、「レベッカ」というのはこういう話だったのか。
 この小説で特徴的なのは、物語が主人公の独白めいた回想として語られること。そのため、物語全体がどこか淡いセピア色の色彩を帯びて感じられてくる。これが、内容的にはなかなかハードなこの物語を、どこか懐かしく、幻想的なものにしている。ちなみにレベッカというのは、主人公が結婚したマキシムの死んだ前妻の名前であり、小説の中に直接現れて活躍するわけではないが、その強烈な存在は、死してなおあらゆるところに影を落とし、支配している。一言で言えば、「レベッカ」という物語は、貧しい生まれの主人公が、由緒ある家柄の男性に見初められ、結婚し、その嫁ぎ先の屋敷を支配する前妻レベッカの幻と対峙するという物語である。そうして読みながら、読者の心の中にも、決して物語の表舞台には出てこないレベッカという稀代の悪女の強烈な幻が焼き付くようになっている。
 もともとこの本は、結婚したとき、妻が持ってきた蔵書の中に含まれていた。もう二十数年前のことである。それで、大久保訳というわけである。今は新訳が普及しているようで、確かに大久保訳には、多少古さが気になるところがないでもない。お菓子の名前とか、違和感は相当ある。だけど、書店でちょっと新訳版を見てみたところ、逆にずいぶんと読み易すぎて、この小説のゴシックな雰囲気をあまり伝えていないのではないかという気もしなくはないから、大久保訳で読んでよかった気がする。
 話が横に逸れた。で、当初から妻は面白いよと言っていたのだが、ぼくはずっと手にとっていなかった。それを、ゴシック小説の末裔として有名だからと、ちょっと読んで見ようと思った訳である。読み終えて、確かに面白くて、人気があるのはわかったけれども、多分これは、どちらかといえば女性に人気のある作品だろうとも思った。女性は、いずれ結婚すれば相手の家に入ることになるということを、ずっとどこかで考えながら成長するのだろうから、そこに一つの恐怖が入り込む場所があるわけである。男性には、それはないから、こうした、結婚相手の家で直面する怖さとその時に感じる心理というのも、想像はもちろんできるけれども、切実さが女性とはやや違う気もする。デンヴァーズ夫人やレベッカに対する感じ方も、きっと多少違ってくるのではないだろうか。この小説を読んで、ゴシック・ロマンスのロマンスたる所以が、やっと腑に落ちた気がする。

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 ファンシー・ウィローズが大人になって、結婚し、それから夫を戦争で失い、政府のために大型のトラックを運転して、愛国心から再び結婚した時、彼女は二番目の夫であるオゥエン・ウォルフ=サンダースに言った。
 「信じらんないくらい自主性に欠けた女性たちが昔はいたのよ!ローリー叔母さんを見て。おじいさんが年に五百ポンド残して死んだ時、叔母さんはもうすぐ三十歳だったけど、それでもわたしの父母と住むよりもマシな身の振り方を見つけられなくて、それからずっとそこに住んでんの」
 「独身女性が置かれたは立場は、二十年前にはずいぶん違ったんだよ」とウォルフ=サンダースは答えた。「きみもよく知ってる未亡人だろ、それからfeme couverte(愛人?)とか、そんなのしかなかったんだ」
 1902年に於いてさえ、十分にお金をもっていて、結婚の望みの薄いウィローズ嬢が、何か芸術に打ち込んだり、自由な生き方を謳歌したりするために、一人暮らしをしようとしないのはなぜなんだろうと考える、進取的な考え方を持った人も一部存在したのだ。しかしそのようなことは、ローラの血縁者には誰一人として望めなかった。父親が死んで、彼らは当然のように、ローラは兄弟の誰かの家族になるべきだと考えた。そしてローラは、まるで自分が遺言の中にひっそりと紛れ込んだ遺産の一つであるかのように感じていて、皆が一番いいと考えることを受け入れることを良しとした。
 そうした考え方は古風だが、ウィローズ家は保守的な一家だったし、古風な考え方を守った。偏屈さのせいではなく、好みの問題で、彼らはこれまでと同じやり方を貫いた。彼らはベッドで眠り、椅子に座ったが、その快適さが、ほんの少し、自分たちの先祖の趣味の良さに対する敬意のもととなった。選びぬかれた家具と吟味されたワインが、しっかりと管理されているのを見ながら、彼らはそこにも同じ精選という考え方が貫かれているのだと信じた。節度、落ち着いた話し方、精神的余裕と均整の取れた質素さは、祖先の模範が彼らに強いた、行動の規範だった。
 こうした規範を守ることで、ウィローズ家の誰一人として、高い地位にまで上り詰めた人物はいなかった。もしかしたら、三世代前のサロメ叔母が、最も名声に近づいた人物だったかもしれない。サロメ大叔母の作るパフペーストが、ジョージ三世王に褒め称えられたというのが、この慎み深い一家の自慢だった。そしてサロメ大叔母の祈祷書は、チャールズ殉教王による礼拝とロイヤルファミリーの復興、そしてハノーヴァー家の繁栄――公平な信心深さの好例である――とともに、常に一家の長の妻によって使用された。サロメは、 a Canon of Salisbury(ソールズベリー修道会の会員のひとり?)と結婚していたが、刺繍のはいった、仔ヤギの革で出来た手袋を脱いで、袖をまくりあげ、台所に入って、彼の陛下の食事のために、ベニスレースの襞を粉がたくさん入ったのボールの上に垂らしながら、パテを混ぜた。彼女は王の臣下であり、敬虔な女性信徒であり、申し分のない主婦であり、そして、ウィローズ家は彼女のことを大いに誇りに思っていた。彼女の父親であるタイタスは、インド諸国へと航海したことがあって、緑色のインコを連れて帰ってきたが、それがドーセット州では初めてのインコだった。インコはラタフィーと名付けられ、十五年生きた。インコは死んだあと、剥製にされた。そしていつもの輪の上に生前と同じように止まらされ、食器棚のコーニスから、揺れながら、ウィローズ家を四世代にわたってそのガラスの瞳で見つめていた。十九世紀の初め頃に、片方の目が落ちて、なくなってしまった。代わりの目は少し大きかったが、光沢も表現力にも劣っていた。このラタフィーは、どちらかといえばいやらしい目つきをしていたが、彼に注がれていた尊敬の念を失うことはなかった。ささやかながら、この鳥は州の歴史に刻まれ、家族はそれによって広く知られて、インコには壁龕が与えられた。
 食器棚の脇、ラタフィーの下には、エマのハープが置かれていたが、その緑のハープには、渦巻き模様の金箔と、ダビデ風のアカンサス模様の飾りがあしらわれていた。ローラが幼かった頃、彼女はときどき誰もいない居間にそっと忍び込み、まだ切れていない弦をかき鳴らしたものだった。弦は憂いを帯びた、調子外れの音で応え、ローラはエマの幽霊が、自分と同じようにそっと音もたてずに誰もいない居間に忍び込み、冷たい指先で音楽を奏でるために戻ってきたのだという心地のよい恐怖に浸った。だが、エマは優しい幽霊だった。エマは消耗性の疾患で死んだが、彼女の遺体がそっと握られた手のひらの下のユキノハナのひと束とともに横たわっていたとき、その髪のひと房が刈り取られ、白いサテンで詰物をされた墓の上に枝を伸ばす柳の木の絵の中に織り込まれた。「あれが」とローラの母は言った。「あなたの偉大なるエマ叔母さんの大事な遺品よ」そしてローラは、たった独りで死んだ気の毒な若い女性のことを可哀想に思ったが、それが彼女に、自分の血族はみんな不幸な死を迎える運命にあるのだと思わせた。
 1818年に生まれた、ローラの祖父でありエマの甥でもあるヘンリーは、二十四歳にしかならない時に、父とまだ結婚していなかった兄がどちらも天然痘で二週間もしないうちに相次いで亡くなってしまったので、ウィローズ家の家長になった。ヘンリーは若かったので、放浪癖と伝統的な体質に対する反骨精神を見せたが、幸運なことに、彼は自分自身の生き方のできる、紳士階級の下の息子としての身分を得た。彼はこの自由を良いことに、ウエールズの女性と結婚し、父が彼のために手にいれていた、共同経営のビール会社のあるヨービルの近郊に落ち着いた。一家の長となることで、ヘンリーが、ウェールズ人の妻とビール醸造所は無理でも、少なくともサマセットぐらいは諦めて、自分の生まれ育った場所へと戻ってくることを期待されたのも、自然なことだった。しかし、彼はそうはしなかった。彼は、結婚生活を送った最初の年に過ごした場所の隣人たちと付き合うようになった。ヘンリーが、自分の靴を教会に持ってきていた(訳注:貧しくて、教会に靴を売りにきたという意味?)、マザー・シプトン(訳注:15世紀頃の、英国の伝説的な預言者の女性)のように背の高い帽子を被ったウェールズ人の女性に求婚したことに対して、彼の叔父のアドミラルが思慮に欠いた中傷をしたことが心にひっかかり、彼を自分の血族から遠ざけることとなったのだ。そして――最も大きな理由は――彼が長年欲しがっていた、小さいがしっかりとした邸宅、レディ・プレイス――もし自分に十分な財産があったなら、ぜひ妻をそこの女主人にしたいと思っていた――が、ちょうど市場に出たのだ。長い年月にわたってドーセット州の家をずっと頑固に守り続けていたウィローズ一族は、ついに、州境を超えて家を移った。古い家は売りに出されて、家具や一家の財産はレディ・プレイスに運び込まれた。エマのハープの弦は何本か切れて、ラタフィーの尾羽根は少し抜け落ち、そして福音主義者として育てられたウィローズ夫人は、サロメの祈祷書の中に見つけた眉を顰めたくなるような内容のせいで、日曜日には頭を抱えたくなることがあった(訳注:カトリックとプロテスタントの教義の差を言っている?)。だがウィローズ家の伝統は、概してその引っ越しにも上手く耐えた。テーブルと椅子、そしてキャビネットは、以前と同じような位置関係を持って据え付けられた。絵は新しい壁に、同じような順番で掛けられた。ドーセット州の丘はまだ窓から見えていたが、今では北向きの窓からではなく、南向きの窓から見えた。さらに、実際には伝統的ではないビール醸造所は、すぐに風雨にさらされて、ウィローズ一族の生活様式の一部と区別がつかなくなった。

 ヘンリー・ウィローズは、三人の息子と、四人の娘を儲けていた。一番年長のエヴァラードは、またいとこのフランシス・ド・アーフェイと結婚した。彼女はさらにいくつか、ウィローズ一族の財産をサマセットの家に持ってきた。ひと揃いのガーネット。陶磁器の愛好家である提督から遺贈された、柔らかいもみ革(訳注:研磨用?)と金の茶器。それは、ウースター、ミントン、それにオリエンタルとともに、すべての彼の姪とその子供たちに贈られたものだった。そしてエマの下の兄であるタイタスが、療養のために旅行したローマで買ってきた、イタリアの画家の手による油絵が二枚。彼女はエヴァラードの三人の子供たちを産んだ。ヘンリーは1867年に生まれた。ジェイムズは1869年に生まれた。そしてローラは、1874年に生まれた。
 ヘンリーの誕生に、エヴァラードは息子の成人したときに備えて、十二ダースのポートワインを備えた。エヴァラードは醸造所を誇りにしていたので、ビールはイギリス紳士のあらゆる階級の人々にとってふさわしい飲み物であり、外国のワインよりもすばらしいと主張した。だが彼はこの主張を、ポートワインとシェリー酒にまでは広げて適用しなかったのだ。彼が特に毛嫌いしていたのは、クラレット(訳注:フランス産の赤ワイン)だった。
 さらに十二ダースのポートワインが、ジェイムズのために備蓄され、それで終わったかのように思われた。
 エヴァラードは女性というものを愛していた。彼は娘をとても欲しがっており、娘が生まれた時には、ほとんど諦めかけていたものだったから、どの子供が生まれた時よりも可愛がった。この誕生の喜びは、しかしながら、それほどたっぷりと表現できなかった。彼はローラのためのポートワインを備えることができなかった。しかしついに、彼はその難題を解決する方法を思いついた。彼は禿げてきたという不可解で不十分な名目でロンドンへと上京し、小粒で粒の揃った真珠でできた、赤ちゃんの首にぴったりと合う小さな数珠を持って帰ってきた。毎年、と彼は説明した――そのネックレスは、娘の最初の舞踏会で、成長した若い女性になった娘の首に飾られるときまで、伸ばしてゆくことができるのだ。その舞踏会は、と彼はさらに続けた――冬に行われなければならない、なぜなら、ローラがアーミン毛皮を着飾っている姿が見たいからだ。「ねえ、あなた」とウィローズ夫人は言った。「かわいそうに、娘が英王国護衛兵のように見えるでしょうね」しかし、エヴァラードは譲らなかった。彼が少年の頃に知っていた、詰物をしたオコジョの剥製がまだ彼の頭の中では魅惑的なお嬢様であったが、オコジョは清らかで艶があり、長い首の上に、小さな格好のよい頭がとても美しく、バランスよく乗っていた。「イタチですって!」と妻は叫んだ。「エヴァラード、あなた、ミンクを愛してるっていうわけ?」
 ローラは他の普通の新生児たちとは違って、少しも赤くなかった。エヴァラードにとって、彼女は夢のオコジョが現実に姿を現したようなものだった。彼は、赤ん坊を見つめた瞬間からその女性らしさにメロメロになった。「おお、なんてすてきな娘なんだ!」十二月の凍てつくような朝の鋭い太陽の光の中、ショールに包まれ、産声を上げながら、彼の前に最初にローラが姿を現した時、エヴァラードは叫んだ。雪解けから三日経って、ウィローズ氏は猟犬をつれて猟に出た。だが、彼は最初の狩りを終えたあと、戻ってきた。「雌ギツネだった」と彼は言った。「とてもかわいい、若い雌ギツネだ。それで、娘を思い出した。戻って、娘がどんなふうにしているのかを見ようと思ったんだ。ほら、これが狐のしっぽだよ」

"LOLLY WILLOWES "
Sylvia Townsend Warner
(シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナー)
翻訳 shigeyuki




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「長いお別れ」 レイモンド・チャンドラー著  清水俊二訳
ハヤカワ・ミステリ文庫 早川書房刊

を読む。

 もともとミステリーはあまり読んで来なかったので、この余りに有名な作品も、初読。村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」とどちらを読もうかと少し迷ったが、もともとはこちらで多くのファンを獲得し、定着していたので、清水訳を選んだ。
 名作の誉が高い作品だけあって、さすがに面白い。ストーリーももちろんいいのだけれど、やはり文体がなんと言っても良い。このクールで、少しユーモラスで、けれどもどこか切ない語り口は、確かに中毒性がありそう。小説というのは文章であると、改めて思い出させてくれる。
 今回、ぼくは清水訳を読んだが、「ロング・グッドバイ」のタイトルでこの作品を訳した村上春樹は、この作品への愛着を公言している。それは、一読して、ものすごく納得がいった。初めて村上春樹の「風の歌を聴け」を読んだとき、「これはカート・ヴォネガットだな」と思ったし、「1973年のピンボール」を読んだ時には、「リチャード・ブローティガンっぽい」と思ったが、「羊をめぐる冒険」と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」と「ダンス・ダンス・ダンス」は、間違いなくチャンドラーだと、この本を読み終わった今ではそう思う。内容ではなく、もちろん文体の話をしているのである。だから村上春樹がこれを訳すというのは、ごく自然な成り行きだったのかもしれない。
 しかし、だからこそこの作品は、清水訳で読んでよかったと思う。ネットでの評価をみると、村上訳の方は、かなり丁寧で正確な訳らしいし(なんと言っても、柴田元幸さんがバックについているのだ)、清水訳ではなぜか抜け落ちている部分がきちんと訳されているらしい。そもそも、村上さんがこの作品を訳そうと思ったのは、清水訳では欠落している部分があるからだともいう。これもネットで仕入れた知識なのだが、有名なセリフの訳が、どうも村上訳のほうが良さそうである。特に感じたのは、「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」という清水訳が、村上訳では「さよならをいうのは、少しだけ死ぬことだ」となっていること、それからクライマックスでgoodbyeとso longを使い分けて訳しているという点。これはどちらも、村上訳のほうがしっくりくる。特に後者は、この物語全体に影響を与えるほど、非常に重要な気がする。だから、これから初めて「The Long Goodbye」を読もうという人には、村上訳は決して悪くないのだろうけれど、ぼくはもともと村上春樹の作品を結構読んでいるので、もし「ロング・グッドバイ」の方を読んでいたとしたら、なんだか村上作品のような気がしてしまいそうで、きちんと楽しめなかったかもしれない。





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 投げっぱなしの翻訳ばかりになってますが(笑)、ウォーナー女史の「LOLLY WILLOWES」を読んでみたくなったので、懲りずに訳文をぽつぽつと不定期連載(これまでの、投げっぱなしの翻訳も、実は全部終わってるのですが、校正が面倒なので、アップしないで投げてます……)。わざわざ全訳するのは、ぼくくらい英語が苦手だと、読むのも、訳すのも、あまり手間が変わらなくなるから(笑)。読んでいて、途中でよくわからなくなると、戻って読みなおすのがかなりの手間になるんですよね。訳しながら読んでるわけだし、間違っているところだらけになると思いますが、自分が読むためのものなので、ご容赦ください。変なところを教えてくださるのは、大歓迎です。




ローリー・ウィローズ


シルヴィア・タウンゼント・ウォーナー

ベア・イザベル・オーウェに

第一部

 父が死んだとき、ローラ・ウィロ―ズは、兄とその家族のところで住み込みで働くために、ロンドンへと向かった。「もちろん」とキャロラインは言った。「わたしたちのところに来るのよね」
 「でも、お邪魔じゃないかしら。いろいろと迷惑をかけると思うわよ。本当にいいの?」
 「あら、もちろんよ」
 キャロラインは親愛の情を込めて言ったが、頭は別のことを考えていた。彼らは既に、小さな客間のベッド用のケワタガモの羽布団を買うために、ロンドンへ戻る旅を終えていた。もし洗面台をドアの方へ動かしていたなら、洗面台と暖炉の間にライティング・テーブルを置くことが出来たんじゃないかしら?もしかしたら、ビューロのほうが、引き出しの数が多いから、もっとよかったかも?ああ、そうだったわ。ローリーは、取っ手が片方別のものと取り替えられていて、卓上に埋め込まれたインク壺の側の上盤が反り返った、クルミ材のビューロを持って来れるかもしれない。それはローリーの母親の持ち物だったもので、彼女がずっとそれを使っていたから、シビルにはそれを拒むことなど出来ない。実際のところ、シビルはそれに文句など全くなかった。彼女はジェイムズと結婚して二年しか経っていなかったし、もしそのビューロが居間の壁紙に跡をつけていたとしても、何か別のものをその場所に据えることは簡単だった。
 シダと鉢植えの植物を飾ったスタンドは、とても素敵に見えることでしょう。ローリーは優しい人だったから、小さな女の子たちは彼女を慕っていたわ。すぐに新しい家に馴染むでしょう。小さな客間は、どちらかといえば惜しかったかも。小さな客間は、普段の訪問客用に手頃だったから、彼らは広い方の空き室をローリーに与えることを諦めきれなかった。二泊か三泊かするためにやってくるたった一人のお客のために、一組の大きなリネンのシーツを洗濯するのは、バカバカしいように思えたのだ。それでも、まあ実際、ヘンリーは正しかった――ローリーは彼らのところに来るべきだった。ロンドンは、彼女に良い変化をもたらしてくれることだろう。彼女は洗練された人々と出逢うだろうし、それにロンドンでは、もっと良い結婚の機会にも恵まれるかもしれない。ローリーは二十八歳だった。もし三十歳になるまでに伴侶を見つけるつもりなら、急ぐ必要があった。可哀想なローリ―!黒い色は彼女には似合わない。彼女は血色が悪く見えたし、その醒めたグレーの瞳はさらに淡く、かつて、まるで似合っていない黒いマッシュルーム型の帽子の庇の下に見えたそれよりも、さらに驚くほど色を失って見えた。服喪は、人が田舎町で受け入れるには、決して良いものではないわ。
 そうした考えがキャロラインの心の中を通り過ぎてゆく間、ローラは全く何も考えていなかった。彼女は赤いゼラニウムの花を摘み取り、左の手首に潰した花びらの樹液を塗っていた。そう、もっと若かった頃、彼女は自分の青白い頬に塗って、自分がどんなふうに見えるのか、腰をかがめて温室の貯水槽を覗き込んだことがあった。だが、温室の貯水槽にはローラの黒っぽい影が映っただけで、レオナルドとかいう、居間に掛かっていた古い宗教画の中の女性のように、とても暗くてのっぺりとしていた。
 「女の子たちは喜ぶと思うわ」とキャロラインが言った。ローラははっとした。すべて決着がついたのだ、これからは、彼女はヘンリーとその妻であるキャロライン、それから二人の娘であるファンシーとマリオンとともに、ロンドンに住むことになるのだ。これまでは、義理の妹としてときどき泊まりに行くことがあっただけの、アスプレイ・テラスの背の高い家の囚人になるのだ。彼女は、家の番地とかドアのノッカーとかに目をやるよりも早く、家の外観に何か特別なものを嗅ぎ分けて、確信を持って、足を止めることができるようになるだろう。その家の中で、彼女はどちらの磨かれたブラウンのドアがどちらなのかをためらいもせずに見分け、そして貯水槽の位置に全く違和感も感じないようになって、ある夜、眠れずに横になったまま、その外壁の箱の中の家の全体をつかもうとしている時に、なんとも言えない気持ちになるのだろう。ハイドパークの中を散歩し、ポニーに乗っている子どもたちを眺めたり、ロットン通りで流行りのスタイルの女性たちを眺めたり、それからタクシーで劇場に出かけたりするのだろう。
 ロンドンの生活は何もかもが揃っていて、エキサイティングだった。たくさんの店があり、ロイヤルファミリーや失業者たちの行進があり、ホワイトレイの金の坑道があり、そして夜を光で彩る通りがあった。彼女は街灯のことを、誰の上にも等しく、揺るぐこともなく厳かに遠ざかって消えてゆくその様子を思い浮かべ、そしてその光の眼差しを前に、居心地の悪さを感じた。次から次へと順番に、先も分からぬ通りや広場を歩いてゆく彼女の上に、彼女とその影に、その手を差し伸べる――しかし街灯は、判で押したような未来へという要求に従っているうちは、親しげなのだろう。そしてまもなく彼女は、ロンドンの人々がそうであるように、それを当たり前のものとして受け入れるのだろう。しかしロンドンには、きらきらと光る水槽を備えた温室はないだろうし、りんご室も、鉢植えも、土の香りと暖かさも、天井から吊り下がったポピーの花の束や、それから木箱に入ったひまわりの種も、それに厚手の紙袋に入った球根、タールを塗った紐の束、茶盆の上の乾燥中のラベンダーもないだろう。ジェイムズとシビルが突然同情の気持ちを示してくれない限り、ヘンリーとキャロラインがそうしたように、彼女はこうしたものすべてに別れを告げるか、あるいは単に訪問客のように楽しむだけにしなければならないが、もちろんローラはヘンリーらと一緒に住まなければならないのだ。
 シビルは言った。「愛しいローリー!そう、ヘンリーとキャロラインはあなたと暮らすつもりでいるわ……わたしたちは、言葉では言い尽くせないくらい、あなたがいないと寂しいけれど、でもきっとあなたはロンドンの方を選ぶわね。ああ、まるで絵のような霧に包まれた、古都ロンドン、いろんな人たちがいて、なんでもあって。あなたが羨ましいわ。でも、レディ・プレイスをすっかり忘れてしまっちゃだめよ。わたしたちのところに来て、ゆっくり滞在してくれなきゃ。チトーが叔母さんのことを恋しがるから」
 「わたしがいないと寂しい?チトーちゃん」ローラは言って、背中を丸めて顔を彼のちくちくするよだれ掛けと滑らかで暖かい頭部に押し当てた。チトーは手を彼女の指に絡ませた。「この子はあなたの指輪が好きなのよ、ローリー」とシビルは言った。「ローリーおばさんが行っちゃったら、残りの乳歯で、そのかわいそうな古いサンゴのおしゃぶりをちぎっちゃうかもね、かわいい坊や?」
 「ねえシビル、この子が本当にこの指輪が好きだというなら、差しあげようかしら」
 シビルは目を剥いた。けれど、彼女は言った。
 「ああ、ダメよ、ローリー。それをもらうなんて考えられないわ。だって、それは家族の指輪だもの」

"LOLLY WILLOWES "
Sylvia Townsend Warner
(シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナー)
翻訳 shigeyuki




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「時間のないホテル 」 ウィル・ワイルズ 著  茂木 健 訳
創元海外SF叢書 東京創元社刊

を読む。

 ざっくり言ってしまうと、企業向けのフェアやコンベンションへの参加代行を業務としているニール・ダブルが、その基点として世界規模で展開されている巨大なホテルチェーン「ウェイ・イン」に泊まるが、そこでホテルのあちらこちらに掛けられている抽象画に見入る赤毛の女性と出会い、この世界の時空の外にあるとも言えるホテル「ウェイ・イン」の謎を知り、チェックアウトするまでの物語。
 裏表紙の紹介文には、最後にこうある。
本邦初紹介の鬼才が、巨大建築物に潜む“魔”をかつてない筆致で描き上げたJ・G・バラード+スティーヴン・キング+ラヴクラフトともいうべき幻想SF!

 また、帯には
J・G・バラード『ハイ・ライズ』+スティーヴン・キング『シャイニング』ともいうべき巨大建築幻想譚!

 とも。
 確かにそんな気もするが、ちょっと違う気もする。バラードは、少なくとも「ハイ・ライズ」ではない。第二部あたりは、「コンクリート・アイランド」っぽいような感じもあるけれど、特定のバラード作品ではなく、バラード作品全体に漂う雰囲気を適度に取り入れているという感じだろうか。バラ―ド作品には欠かせない、濃厚に漂う「熱力学的な終末感への耽溺」は希薄だ。キングは、これまでぼくが読んだことのある中では、まあ近いのは「シャイニング」かもしれないが、未読ながら、もしかしたら「ダーク・タワー」はもっと近いのかもしれないと想像したり。ただし、「シャイニング」にある、文学的とさえ言える筆致はない気がする。「シャイニング」の怖さは、主人公が狂ってゆく過程にあった。この作品では、そうした読み手を不安にさせる狂気は入り込んでこない。ラヴクラフトに関しては、よくわからない。
 最近読んだ「横浜駅SF」と同じように、これは巨大な構造物を題材にした、迷宮の物語である。せっかく「横浜駅SF」の名前を出したのだから、ついでに言うと、ラストに至る処理がやはり多少あっけないのが勿体無い。この設定なら、もっと面白くなった可能性があったと思う。この「時間のないホテル」で言えば、黒幕として登場するヒルバートとの戦いが、まるでブラッドベリの「何かが道をやってくる」あるいは「黒い観覧車」的だったのは、あまりに通俗的で、多少興ざめだった。


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