漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

七枚綴りの絵/最後の絵/日輪の城郭・37

2007年04月30日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 歩きながら、ふと草原に目を遣ると、その揺れる仄かな光の隙間に、小さな家を見た。この辺りにまで、家はあるのだと私は思った。家は石ころのように小さく、窓に灯りはない。立ち止まった私に、彼女が並んだ。私は彼女の裸の腰に手を回した。そうして、塔に向かって歩いた。
 
 目が醒めて、ベッドの中で身体を起こした。隣には、彼女が眠っていた。私は部屋の中を見渡した。部屋には、壁に無数に穿たれた窓から差し込む仄かな青い光があったが、それは何かをはっきりと見るには十分な光ではなかった。じっと見詰めていると見えなくて、少し余所見をしていると見えてくる、そうした種類の光だった。私は彼女を見詰めた。彼女の肌は、そうした光の中でも、驚くほど白かった。私がじっと彼女を見詰めていると、彼女はふっと目を覚ました。私は手を彼女の頬に当てて、滑らせた。それから私は立ち上がり、部屋を横切って、広く開いた窓に向かった。
 私は窓から外を見た。平原は、一面の青さだった。しかしその青さは、よく見ていると一様ではなかった。ある場所ではその青さはコバルトブルーに近く、また別の場所ではややターコイズブルーに近かった。それは、例えばまるで珊瑚礁の海のようだった。そうだ、珊瑚礁、と私は思った。懐かしい響きだった。かつて見たのは、いったいどのくらい前のことだっただろう。今となっては、ほとんど神話のように思える。
 私は上を見上げた。昏い空の中に、目が醒めるほど白い《太陽の果実》の、膨れ上がった「腹」が見えた。時が来たのだと私は思った。
 肩に触れる手を感じて、振り返ると、彼女が立っていた。
 私は言った。ちょっと行ってくる。
 彼女は私の背中に身体を添わせた。背中に、彼女の乳房を感じた。私はそっと身体を滑らせた。そして、彼女を抱きしめた。それからくちづけを交わし、裸のまま、窓から身体を乗り出した。
 最初に手をかけたのは、紫色の樹だった。しっかりと手を掛けて掴まり、身体を持ち上げた。そうして随分昇ったあと、赤い樹に移り、やがて青い樹に移った。きちんと足場を確保しながら、できるだけ体力を消耗しないように気をつけて行かなければならないと私は自分に言い聞かせた。そして手を緑の樹に掛け、身体を持ち上げた。緑の樹の枝にしっかりと掴まりながら数メートル登ったあと、今度は黄色の樹に移った。そこで一休みして下を見ると、彼女が身を乗り出して、こちらを見上げているのが見えた。彼女の顔が、恐ろしく白く見えた。それはまるで陥穽のようにさえ思えた。私は微笑み、手を振った。それからまた上を見た。余りにも高くて、下を見ていると足がすくんで動かなくなりそうだった。私は橙の樹に移った。その樹は太くて、良い足場だった。それで、随分長い距離をその樹に頼って登っていった。
 最後に頼りにした樹は、白い樹だった。もう《太陽の果実》は、目の前だった。見上げると、《太陽の果実》は、確かに呼吸するように微かに動いていた。よく見ると、《太陽の果実》の表面には、細くて透き通った糸のようなものが無数に見えた。そして、風はなかったが、それがさわさわと揺れていた。

七枚綴りの絵/最後の絵/日輪の城郭・36

2007年04月29日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 あの果実は、《新しい太陽》を孕んでいます、と彼女は言った。太陽は、決して滅びはしません。古い太陽が燃え尽きると、代わって、新しい太陽がその役目を継ぎます。ですが、それは交代であると同時に、再生でもあります。なぜなら、《新しい太陽》の胎内には、 《古えの太陽》の記憶が組み込まれているからです。時間は、決して戻りはしませんが、ただ真っ直ぐに進むわけでもありません。過去と現在と未来は、半ば混然としながら移り変わって行くのです。それは、太陽にしても同じことです。《新しい太陽》は、交代した太陽であると同時に、再生された太陽でもあるのです。
 彼女の言葉は、私には半ば理解できなかったが、再び太陽が生まれようとしているということだけはわかった。
 私は言った。では、あの中に《太陽》が?
 ええ。
 それでは、じっと待っていれば、いずれは再び太陽が世界を照らす日が来ると言うのですね?
 いいえ、と彼女は寂しそうに言った。懶惰な日々を過ごすだけでは、《太陽の果実》は熟れ果て、腐り落ちてしまうだけでしょう。
 それでは、どうすれば?
 《太陽の果実》に触れてください。
 触れる?あの果実に?
 ええ、あなたの手のひらで、果実の表面に触れてください。それが刺激となって、《新しい太陽》が生まれるはずです。
 私は彼女の顔を見詰めた。彼女の目は、懇願するかのように、しっかりと私に注がれていた。私は振り返ってまた塔を見た。起立する塔の表面には、びっしりと色とりどりの樹が這い、その塔の先端には、巨大な、白く柔らかそうな果実が見える。果実は、震えるように、少しづつ膨らんでゆくように見えた。私は自分があの樹を登り、果実に触れる様を思い浮かべた。気が進むことではなかった。
 それは、いつやればよいのでしょう?私は言った。
 《果実》が塔の頂からはみ出すほどの大きさになるまでには、もうそれほどの時間はかかりません。彼女は言った。そうしたら、すぐにでも。わたしとあなたの時間が溶け合っているうちに。
 では、もう間もなくということですね。
 彼女は黙って頷いた。それから暫くは二人とも無言だった。
 戻りましょう。随分して、彼女は言った。私は頷き、踵を返した。

蜘蛛の家

2007年04月27日 | 読書録

 「蜘蛛の家」 ポール・ボウルズ著 四方田犬彦訳
 ポール・ボウルズ作品集Ⅳ 白水社刊

 を読了。

 それほど沢山の作品を読んでいるわけでもないが、ボウルズの作品には、いつでも絶大な信頼がある。僕にとってボウルズは、替えがきかない作家の一人だ。
 初めて読んだボウルズ作品は、人から勧められた「優雅な獲物」という短篇集。次が、映画化した「シェルタリング・スカイ」、そのあと「世界の真上で」(これは英語の勉強をかねて、ペーパーバックで読んだ)。それから、短篇集「遠い木霊」、そしてこの、ボウルズ最大の長編「蜘蛛の家」である。どの作品をとっても、乾いた、優雅なグロテスクさが影のように纏わりつく、魅惑的な作品ばかりだった。
 この「蜘蛛の家」は、モロッコの街と人に真正面から向き合おうとしている点、政治的な激動を描いている点などで、他の作品とはやや趣が違う。だが、やはりボウルズはボウルズだ。彼の語り口は、常に心地よい不安感を味わわせてくれる。そして、いつものような、突き放したようなラストまで、本を置く事ができなくなる。ボウルズは、いつも女性には辛辣な視点を持つが、だからといって、女性から支持を受けないといった作家ではないはずだ。
 この作品には、ウィリアム・バロウズから名前を取った、アメリカ人”女性”が登場する。以前、ボウルズに憧れてモロッコまで尋ねてきたバロウズに本を貸したところ、麻薬を打つときに跳ねた血で汚されて、酷く怒ったという話を聞いたことがある。そうしたエピソードを知っていると、ちょっと面白かったりもする。

七枚綴りの絵/最後の絵/日輪の城郭・35

2007年04月26日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 《新しい太陽》?
 ええ、と彼女は言った。時が満ち、全ての準備が整った。後は、生まれるのを待つだけ。
 彼女は私の身体に腕を絡ませた。そして、私の肩に口付け、歯を立てた。
 あなたのおかげよ。
 私の?
 ええ、と彼女は言った。そう。あなたが種を蒔き、大事に育ててくれたから。
 彼女は裸のまま、するりとベッドから抜け出した。そして、言った。
 来て。
 私もやはり裸のまま、ベッドから抜け出した。彼女は部屋を横切り、階段を降り始めた。私もそれに続いた。床はひんやりとしていたが、心地よかった。身体が、仄かに青白く光って見えたが、それは彼女の身体も同じだった。私は彼女に続いて、今や目を瞑っていても降りる事ができるであろう暗い階段を辿った。少し前に、階段を下って行く彼女の青白い裸身が見えていたが、それはまるで死蝋のようでもあった。階段を下りながら、私はかつて壁面にぎっしりと並んでいた書物のことを思った。それらの書物は、今はもうかなり少なくなってしまって、書架は隙間だらけになってしまっていた。だが、書物は失われたのではないと私は思った。書物の中には世界があるが、それが大地に満ちたのだ。
 やがて私たちは塔を下りきり、扉から外へ出た。彼女は暫く、青白く揺れる草原の中の道を、振り返りもせずに歩き続けた。私も後を追った。裸足の足に、土の乾いた感触が心地よかった。透き通った夜の香りがした。緩やかで、低い音が聞こえていた。草の間を通り抜ける風の音だろう。時々、爆ぜたように光が舞った。草が、風に舞ったのだ。
 不意に彼女が立ち止まった。そして、振り返って、言った。
 見て。
 私は今来た道の方を振り返った。視線の先には、塔があった。夜の中に、慄然と起立していた。見慣れた光景のはずだったが、その塔の先端に、巨大な、見慣れぬものが乗っていた。私は目を凝らした。それは白く、柔らかな卵型をしていた。さらに目を凝らすと、その周りには沢山の糸のようなものが見えた。他に表現のしようがない。それは、確かに繭だった。
 繭だ。私は呆けたように言った。
 果実です、と彼女は言った。あの繭は、七色の樹の生み出した果実です。あなたが種を蒔き、育てた樹が、ようやく本当の果実を実らせることが出来たのです。
 果実?あの繭が?
 ええ、まるで繭のようですが、果実です、と彼女は言った。あれは、《太陽の果実》です。
 《太陽の果実》?その言葉が、不思議な響きに聞こえた。私はじっと《太陽の果実》を見詰めた。黒い空を背景にして、その白さが浮かび上がり、映える《果実》。まるで、呼吸をしているかのように膨らんだり萎んだりして見えたが、それはおそらく錯覚であっただろう。だが、それほど圧倒的な存在感を持って聳えていた。

尾崎豊

2007年04月25日 | 音楽のはなし

 仕事から帰って来て、新聞を読んでいた時、小さな記事に目が止まった。
 尾崎豊が亡くなった場所に隣接した民家をかつて「尾崎ハウス」として開放していた方の記事だ。それを読みながら、そうか、今日は尾崎豊の命日なんだと思った。
 もう、何年前だろう。十五年?それとも十六年?いずれにしても、もうそれだけの月日が過ぎたことに驚かされる。

 問答無用の名盤というものがある。
 僕にとってそれは、例えば邦楽では、古くはあがた森魚の「乙女の浪漫」だったり、桑田佳祐の「孤独の太陽」であったり、最近ではシャーベッツの「シベリア」であったり、他にもいろいろあるが、する。そうしたアルバムの中に、尾崎豊の最初の三枚のアルバム、とりわけファーストの「十七歳の地図」が、含まれている。
 十代の頃、何度聞いたかわからない。その頃僕はこのアルバムをカセットテープに録音して聞いていたのだが、「街の風景」から始まり、パーソナルな「十五の夜」でA面が終わる。そして暫くの空白のあと、テープを裏返して、「十七歳の地図」からまた始まる。今でも思い出せる。「十五の夜」が終わった後の、不思議な高揚感が。僕はこのアルバムの中に、いろいろなものへのいらだちと、東京への憧れを投影していたのだ。

 尾崎豊が死んだ時、僕は東京にいた。
 だが、もはや彼の曲を聞くことも殆どなくなっていた。
 だから、その死には驚いたものの、今に至るまで、「尾崎ハウス」を訪れようとしたこともない。ただ、時々彼の曲を思い出し、もはや裏返す必要もないCDをデッキに差し入れるだけだ。
 この数年、尾崎豊の名前を聞くことも、めっきりと減った気がする。
 今の学生には、もはや尾崎豊の描き出した詩の世界は、牧歌的な神話に映るのかもしれないとも思う。学校はもはや敵としては余りにも脆弱で、彼らが立ち向かわなければならないものは、もっとつかみ所のない、現実の世界そのものだろうからだ。
 それでも、尾崎豊の音楽を聴くと、その声の説得力に、僕はいつも心を動かされる。声には、やはり理屈を超えた力があると感じる。日本で、これほど完璧なカリスマとなったミュージシャンは、他にはいないのではないだろうか。思い当たるのは、阿部薫やhideだが、やはり次元が違う。

 今から二十年ほど前、東京に出てきて、新宿の副都心のビル群を歩いた時のことを思い出す。あれは、とても風の強い日だった。僕は行き場を無くしたような気持ちで歩いていた。その時、オレンジ色の夕陽がビルの窓に反射して、目を射た。その時のことを。
 センチメンタルな、昔ばなしだけれど。

七枚綴りの絵/最後の絵/日輪の城郭・34

2007年04月23日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 太陽が死に絶えた?いったい、太陽が死ぬなどということがあるのだろうか……?
 彼女の瞳は、じっと私に注がれていた。その瞳は、揺れる事もなく、私を見据えていた。私は耐え切れず、窓の外に目を遣った。
 まるで城壁に穿たれた銃眼のような窓から見える外の光景は、時の終りのように凍てついて見えた。夜は余りにも深かった。地平まで広がる平原のどこにも、朝の予感はなかった。あるのはただ、深い夜がさらに深く沈みこんでゆく予感だけだった。光は有機的だったが、感情を移入するには余りにも冷たかった。死に絶える光の最後の輝きのようだった。風に揺れた青い光は、時々さっと散ったように見えることもあった。それはまるで蛍が舞ったかのように見えたが、ただの残像なのは明らかだった。空を見上げても、見えるのはただ漆黒の宇宙と、疎らになった星々の小さな光だけだった。私はその寂しい光景に、今こうして彼女と二人でいるというのに、絶えがたい孤独を感じた。塔に住むようになってから、これほどの孤独を感じたことはなかった。気が付くと、私は静かに震えていた。震えは、収まらなかった。
 肩に彼女の細い腕が触れ、這うように私の首を抱えた。
 それも素敵だとは思わない、と彼女は言った。こうして、永遠の夜の中で、たった二人きりで過ごすというのも。二度と朝は来ないわ。濃密な、幻のような色彩が漂う夜の中に滑り込んで、全てと溶け合って行くのよ。
 首筋に、彼女の唇を感じた。私は腕を伸ばし、彼女の身体を抱きかかえた。身体の震えは止まらなかったが、それだけになお、彼女を抱きたくて、仕方なかった。私たちはもつれ合って、床の上に倒れた。それから私は唇を彼女の身体の隅々にまで這わせた。
 
 私はこれまで習慣にしていた一切のことを止めてしまった。種を蒔く事も、本を蒔くことも、それから塔の下へ降りて行くことも。食料は、窓から手を伸ばせば簡単に手に入ったし、水も樹木から賄えた。実際、随分前から塔の下に降りて行く必要などなかったのだ。そして私は常に、起きている時はほぼ常に、彼女に触れて過ごした。彼女と再会してから、通常の時間ではもう何日も過ぎていたが、その間に何度彼女を抱いたか、分からなかった。それはまるで、数万年分の孤独を一気に埋めようとするかのようだった。ベッドに寝転んで、天蓋の闇をぼんやりと見詰めていると、あの首を吊った男の影が見えた。けれども、相変わらずそれは実態を伴わない影のようだった。
 一度、彼女が言った。あの首を吊った男は、実はあなたかもしれないと、考えたことはないかしら?
 私は彼女を見詰めた。
 彼女は、冗談だと呟いて、横を向いた。そしてその話題を切り替えるように、《日輪の城主》はこの瞬間も、私たちを支配しているはずだわと言った。
 私は頷いた。そして、それ以上その話はしなかった。だが、彼女の言葉は刺さった棘のように、ずっと何日も私の頭の中を去らなかった。そしてその棘が、私をさらに孤独にした。夜の闇が、次第に実態を持った物質のように感じるようになっていった。
 
 夜は、終わります。
 ある時、彼女が唐突に口に出した。
 夜が終わる?私は言った。太陽は、死んでいなかったのですか?
 太陽は死にました。彼女は言った。燃え尽きて、死んでしまった。かつての太陽は、もういないわ。
 それなら、どうして夜が終わると言うんだ?
 《新しい太陽》が生まれるから。

七枚綴りの絵/最後の絵/日輪の城郭・33

2007年04月21日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 見せなかったのではなく、見せることが出来なかったのです、と彼女は言った。なぜなら、私たちは別の時間にいたから。そして今、ようやくわたしとあなたの時間が重なったのです。
 私は言った。時間の話は、これまでにも何度も聞いています。あなたからも、それから、この場所で出会った男からも。ですが、率直に言って、私には理解できません。
 わたしにも、本当に理解できているというわけではないのです。彼女は私から離れた。この場所は、特異な場所なのです。この塔には、幾つもの時間が重ね合わせになって存在しています。あなたにとって存在しているものが、わたしには存在していなかったり、その逆だったり、するのです。全てが同時に起こっていることなのですが、互いには認識できません。あなたはこの塔でたった一人で生活していましたが、わたしは同じ場所を使って、主人とともに生活しておりました。
 というと、私が眠っていたその同じベッドで、あなたはご主人と眠っていたと、そういう意味になるのでしょうか?
 まさにそうです、と彼女は言った。互いに認識することも触れることもできませんでしたが、事実です。
 とても信じられない!
 ですが、事実ですから、そのようにしか申し上げることができません。
 私は言葉を失い、彼女を見詰めた。彼女は私の視線を受けると、目を伏せ、私に縋りついた。私は嫉妬に駆られた。私が眠っていたベッドで、まさにその同じ時間同じ場所で、彼女が夫に抱かれていたのかと思うと、自分がとんだ道化に思えた。だが、私は感情を抑えた。そうしないことには、自分が余りに惨めだったからだ。私は辛うじてこう言った。
 それでは……ご主人も、この塔に?
 ええ、おります。彼女は答えた。主人は、この《日輪の城郭》の城主ですから、おらぬ筈はありません。
 それから、一呼吸を置いて、彼女は続けた。あなたも、会ったことのある人です。
 では、あの男が!
 ええ、そう。彼女は言った。そして、上を見上げた。
 あそこで縊れている男、あれが私の主人であり、この《日輪の城郭》の城主です。
 私は上を見上げた。確かに何かが見える。だがそれが何か、これだけの月日を経ても、はっきりと捉えられたことはない。ただ「縊れた死体」だと聞かされたから、そうだろうと思っていただけである。だが、あれが自分だと聞かされる時点で、おかしいのである。
 あなたの言葉は、私を一層深い疑念の中に追い落としてしまいます。私は言った。考えてもみてください。あれがあなたのご主人だとしても、あの男は私がここに来た時からずっとあそこにぶら下がっていました。なのに、あなたはずっと彼とともにここで暮らしていたと言う。私には意味がわからない。あなたの言葉は、鵜呑みにするには辻褄の合わないことばかりだ。
 信じられないのは、仕方ありません、と彼女は言った。ですが、私は一言たりとも嘘は申しておりません。わたしはあなたを愛しています。それもやはり嘘ではありません。
 私は言葉を詰まらせた。そのように言われると、言葉を継ぐことができなかった。そうした私を見詰め、彼女は続けた。
 そう、わたしはあなたに会える日をずっと待ち望んでいました。ですが、それさえ実は私の主人の手の内にあったことなのです。わたしはそのことを十分にわかっていましたが、逆らうことができませんでした。いつかわたしはあなたに言いましたね。主人は恐ろしい人です、と。主人は《日輪の城主》であり、全てを見通しているのです。自らは縊れてなお、わたしたちを支配し続けているのです。
 私たちが彼の傀儡であったと?
 私は愕然とした。そして、言った。
 それは、耐え難いことだ。
 わたしにとっても、それは同じ気持ちです、と彼女は言った。ですが、わたしたちには、選択の余地はもうありません。
 なぜ?
 それは、と彼女は言った。外をご覧なさい。広がっているのは、永遠の夜です。
 私は窓の方へ歩いた。そして窓の外を眺めた。何時の間にか彼女も私の側に立って、外を眺めていた。窓の外の風景は、寒々しい、夜の光景だった。燐光のような光を放つ草が、緩やかに揺れていた。冷たい風が、吹いていた。
 太陽が昇らないのです。私は言った。もう、ずっと長い間。
 太陽が、死んだのです。彼女は言った。太陽が燃え尽きて、死に絶えました。だから、もう二度と昇ることはありません。これから先は、永遠の夜。
 私ははっとして、彼女を見詰めた。彼女の顔が、青白く光って見えた。

ウィーランド

2007年04月20日 | 読書録

 昨日から、風邪と偏頭痛でまともにものを考えられないでいるが、ちょっとだけ落ち着いたので、先日読んだ本のことを少し。

「ウィーランド」 チャールズ・ブロックデン・ブラウン著 志村正雄訳
世界幻想文学大系3 国書刊行会刊

を読む。

 「アメリカ小説の父」とされるブラウンは、1771年、フィラデルフィア生まれ。この「ウィーランド」などの四作品でホーソーンやポーなどに影響を与えたことから、その称号を与えられているらしいが、一説には、エドガー・アラン・ポーはこの作品から、推理小説という分野を考え出したのではないかとも言われているらしい。
 この作品は、ヨーロッパのゴシック小説をアメリカに持ち込んだものということだが、印象はいくらか違う。この作品の背景が、アメリカの原野だというのが、その理由だろう。読みながら、僕はポール・オースターの「ムーンパレス」を少し思い出した。
 オースターを思い出したのは、その初期作品「幽霊たち」で登場人物の名前を全て色の名前に統一してコンテンポラリーな雰囲気を出していたが、あの中で「そもそもの始めにはブラウンがいる」という部分があり、ブラウンという名前をそもそもの始めとしたのは、もしかしたらこのC.B.ブラウンのことが頭のどこかにあったのかもしれないと思った、そのせいなのかもしれない。

 この「ウィーランド」は、最後が余りに唐突だけれど、導入部もいいし、雰囲気の盛り上げ方も上手い、なかなか面白い小説だった。

七枚綴りの絵/最後の絵/日輪の城郭・32

2007年04月18日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 懐かしい彼女だった。横を向いていたから、一層身体の線が優美に見えていた。声が詰まって、何も言葉が出て来なかった。だがその一瞬が過ぎると、今度は声を出すと彼女が幻と消えてしまいそうで、声を出すのが躊躇われた。余りにも長い間、私は一人で過ごしすぎたのだ。
 それで、落ち着くまでじっと彼女を見詰めていた。彼女は、まるでこちらには気が付かないといった風で、横を向いたまま、佇んでいた。彼女は白い服を着ていたのだが、その服に光が反射していたせいなのだろうか、周りがどことなくぼんやりと光って見えた。
 私は彼女を呼んだ。小さな声だったが、彼女の耳には届いたようで、こちらを振り返った。それから、彼女も初めて私に気がついたというように、驚いた表情で、手を口に持って行った。私は身体を滑らせて、ベッドから立ち上がった。それから彼女の方に向かって歩いた。彼女も数歩、こちらに向かって歩みを進めた。そして、私たちは固く抱擁を交わした。腕には確かに彼女の身体の重みがあり、決して幻ではなかった。
 会いたかった、と私は言った。どれほど長い時間、私はあなたに会いたいと思いながら過ごしたか、とても分からぬ程です。
 それはわたしも同じことです、と彼女は言った。けれども、きっと会えると信じておりました。
 私は、時々は疑いたくなることも、ありました、と私は言った。余りにも長い時間でしたから。
 あなたの前から、突然消えたことを恨んでいるのですね?
 恨んではいません。ただ、不安だったのです。ですが、今はもう、何も言う事はありません。
 私は再び彼女を強く抱擁した。彼女の身体の柔らかさが、嬉しかった。
 あれから、幾星霜の年月が流れ去りましたが、と私は言った。あなたは全く変わってはいない。
 それはあなたも同じですわ、と彼女は言った。けれどもそれは、不思議なことではありません。この場所では、年を取ることがないのですから。
 というと?
 この塔は、別の時間に属しているのです、と彼女は言った。あなたもわたしも、この塔に属している限り、決して年をとることがないのです。
 まさか!
 本当です。彼女は言った。その証拠は、あなたとわたしではないですか?
 しかし……。私は言いかけて、ふと気が付いた。
 それは、あなたはこの塔にずっといたと、そういう意味ですか!
 ええ。ここは、私の城ですから。
 それは余りに酷い!それなら、どうして今まで姿を見せてはくれなかったのですか!

オトラントの城

2007年04月17日 | 読書録

「オトラントの城」 H.ウォルポール著 井出弘之訳
ゴシック叢書27 国書刊行会刊

 を読む。

 1764年に刊行された、ゴシックロマンスの先鞭として名高い作品。「オトラント城奇譚」という邦題で平井呈一氏によって訳されたこともあり、そちらの方が名前としては通りがいいかもしれない。
 
 ゴシックロマンスは、ウォルポールが見た夢を元に書いたこの小説から始まり、マチューリンの「放浪者メルモス」で終わったというのが、よく言われることであり、一度は読んでおかないとと思っていた。この前に読んだ「悪魔の恋」と並び、幻想文学史を辿る上では欠かせない、記念碑的作品というわけだ。で、ようやく読んだわけである。
 古臭い古臭いと散々聞いていたから、覚悟していたが、意外とそうでもなく、なかなか面白かった。人を書くのが、なかなか達者だなという印象。
 本当は、平井版で読むほうが、もっと感じが出たんでしょうね。

国立科学博物館

2007年04月16日 | 雑記
 
 昨日は、科学博物館へ出かけた。
 改装を経て、ここは本当に見所のある博物館になったと思います。
 新たに設置された、シアター360は、これだけのためにここに出かけても損はないくらい。これは、愛・地球博で披露されたものを移築したものですが、新たなプログラムが公開されていて、迫力満点。愛・地球博で放映された映像も同時に放映されてますが、迫力は新たに製作されたものの方が上。
 その他にも、様々な工夫が凝らされた展示が、圧巻。写真は、江戸時代のツボ人形ですが、こんなものまで展示されています。もちろん、これは際物で、エレキテルとか、江戸時代の地球儀とか、貴重なものがいろいろあります。
 一日では回りきれないくらい。500円でこれは安い。おすすめです。

 ところで、最近、「新国立美術館」がオープンしましたね。「所蔵作品を持たない美術館」として話題ですが、これってどうなんだろう?と僕は思います。これは美術館ではなく、オープンスペースなんじゃないですか?美術館の役割は、話題になる展覧会を開いて、集客することでしょうか?現実問題として、客を呼べないようじゃしかたないわけですから、勿論それも大事でしょうが、所蔵作品を守る、つまり文化を守るというのも、役割だと思います。こうしたやり方は、資本主義の悪い部分が、露骨に出ているのではないでしょうかね?

七枚綴りの絵/最後の絵/日輪の城郭・31

2007年04月15日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 何日分もの夜が過ぎた。太陽は姿を見せなかった。闇に閉ざされた塔の中を、ランプの灯りだけで行き来するのは、骨が折れた。だが私は、毎日の勤めだけは欠かさなかった。その来れば分かるとあの男は言ったが、この闇が「その時」であるとは思えなかった。だから私は、夜が晴れる日を待ち続けることにしたのだ。
 毎日、闇に向かって種を蒔き、書物を解いた。時間などわからない。全ては自分の感覚で捉えた一日だった。そうした中でも、塔を包み込む樹は、確実に生長していた。だが、いったいどこまで伸びているのだろう。小さな星の光だけが頼みのこの闇の中では、はっきりと捉えることができなかった。私は窓から手を伸ばして、樹に触れた。それは、まるで生き物のように、生暖かく感じた。さながら、塔を這う血管だ。
 ある時、ランプの灯りの傍らに座って、いつものようにぼんやりと窓の外を眺めていると、辺りが何となくぼんやりと明るく感じた。空ではなく、大地の方が、微かに明るいようなのだ。私はランプの灯りを消して、目を凝らした。目が闇に慣れてくるにつれて、その疑いは確かなものとなった。平原を、見渡す限り覆っている草の波が、仄かに燐光のような光を放っているのだった。それは余りにも微かで、頼りなげだったが、確かに光だった。それが、ふと吹いた風に揺れる様は、幻想的としか言いようがなかった。まるで海一面に夜光虫が漂っているかのようだった。
 私は言葉がなかった。世界は確かに動いていて、次にやってくるものの予感を孕みつづけていた。どれほどの停滞も、真実の停滞ではなかった。仄かな明かりの中で、私は自分の手を見詰めた。手は、いくらか年をとったようにも見えるが、殆ど変わらない。私はその手を、頬に当てた。手は、この数日剃っていない髭に触れた。私は年をとらない。だが、髪や髭は伸びる。私はそんなことを考えていた。
 草原の青い光は、それから数日かけて、少しづつ明るくなっていった。そして、ある地点で落ち着き、もはやそれ以上にはならなくなった。
 
 誰かの気配で、目覚めた。
 少なくとも、そう感じた。目覚めながら、私はこの部屋の空気がいつもとは違う香りに満ちていることに気が付いた。それは懐かしい香りだった。香りは私を刺激した。私の目が自然と潤み、頬に涙が伝うのを感じた。
 私は身体を起こした。仄かに青い部屋の中に、私はその香りの元を捜そうとした。だが、実際には殆ど捜す必要などなかった。部屋の、かつてあの男が立っていた場所に、人影があった。
 彼女だった。

七枚綴りの絵/最後の絵/日輪の城郭・30

2007年04月14日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 
 白の樹にナイフで傷をつけると、白い樹液が流れる。それは甘いミルクの味がする。私の一日は、その樹液を集め、火にかけて暖めて、窓際で太陽が東から昇ってくるのを見ながら、ゆっくりとそれを味わうことから始まる。それが長い間の習慣になっていた。だが、いつからだろう、少しづつだが、一日のリズムに違和感を感じるようになっていた。最初、それは単なる違和感だったが、ある時、確信した。
 太陽の光が、弱くなっている。
 それだけではなかった。一日が、確実に、長くなっている。
 私の時計は、動かなくなって久しかった。だから、時間を測るものは、太陽と月の運行しかない。太陽と月の運行は、毎日規則正しく為されていたし、だから最初はただの気のせいだろうと考えていたのだが、そう思うことにも限界が来ていた。一日が、こんなに長いはずはないのだ。時間は、主観によって多少は伸縮するかもしれないが、それも程度ものだ。だとしたら、考えられることは、ただ一つだった。
 太陽と月の運行が、遅くなっているということ。
 それが事実だとしたら、この星の自転が遅くなっているということになるのか。だが、光までが弱くなってきているというのは、どういうわけなのだろう。それの意味するところは?私には分からなかった。事実を辿ることが、出来る精一杯のことだった。
 毎日、太陽が昇るたびに、光はほんの少しづつ鈍くなっていった。そして、一日がほんの少しづつ、長くなっていった。それが、何度も何度も繰り返された。時間は、確かに同じ速さで進んでいた。というのは、塔に巻きつく樹は、同じ速さで伸びていたからだ。だが、太陽だけは、その動きを変えていた。いまや、時間は揺らいでいた。私には、どの時間が確かな時間なのか、わからなくなっていた。太陽が昇り、空を横切り、鈍い夕陽を残して地平に消えた。月は、ぼんやりとした、膨れた水蜜桃のようだった。世界から、鮮やかな色彩が失われていった。だが、私には為す術がなかった。
 そしてある日、ついに太陽は昇らなかった。月も、姿を見せなかった。世界は夜に包まれたままだった。私は窓辺で、永遠とも思える時間、太陽を待ちわびた。だが、太陽はいつまでたっても姿を見せはしなかった。空気も、滞っていた。その夜は、滓のような微睡だった。すべてが飽和した闇のようだった。

ヴァテック

2007年04月12日 | 読書録

 「ヴァテック」 ウィリアム・ベックフォード著 私市 保彦訳
 バベルの図書館23 国書刊行会

 を読む。
 とはいえ、これは上・下巻に分かれていて、正編が上巻、挿話が下巻となっているのだが、僕は怠けて上巻しか読んでいない。
 千夜一夜物語風の、背徳の果ての地獄落ちの物語。
 なかなか面白く、二百年以上も前の作品という気がしない。
 ところで、ラヴクラフトの作品中に出てくる「ネクロノミコン」は有名な偽書だが、その正式なタイトルは「アル・アジフ」という設定になっている。その書名は、この「ヴァテック」の中から採られたらしい。


 ところで、カート・ヴォネガット氏が亡くなったそうです。
 享年84歳。最近、また氏の作品を幾つか読み直したりしていたので、驚きました。
 ご冥福をお祈りします。