漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 8・死の家・1

2008年01月27日 | 月の雪原
 目覚めは穏やかで、澄みきったような心地がした。辺りは明るく、しんとして、音がなかった。ツァーヴェはじっとしたまま、天井を眺めた。そして少し経ってから、ようやくそこが自分の家であることに気付いた。何年も眠っていたかのような気分だった。小さく鼻を鳴らして、部屋の冷たい大気を吸い込むと、褪めた背表紙の古い本のような、そんな香りが漂っている気がした。
 時間をかけて、ようやく自分が長く病気で伏せていたということを思い出した。何日伏せていたのか、まるで分からない。一週間だろうか。十日だろうか。それともたった一日のことだろうか。いずれにせよ、自分の中から時間の感覚が抜け落ちてしまっていた。時間の流れの外側に放り出されてしまったかのような感覚だ。そして、そのせいだろうか、奇妙な喪失感があった。とても長い旅をしてきて、そしてその旅の中で何かを失ってしまったかのような、そんな感じだった。どうしてそんな風に感じるのかはわからなかった。ずっと生死の境を彷徨っていたから、そんな風に感じるのかもしれない。だが、病に伏せて長い眠りにつく前の自分と、こうして回復して目覚めた自分とでは、確かに少し違う人間であるように思えた。
 だが決して悪い気分ではなかった。熱はすっかりと退いて、ゆっくりと休息を取った身体も軽やかだった。そのように新鮮な気分ではあったが、身体から力が抜けてしまっていて、動く気になれなかった。ツァーヴェは少し頭を動かして、窓を見た。窓からは明るい光が差し込んでいる。その光の様子から、今は朝なのだろうと踏んだ。これだけ明るいのだから、外では眩しい朝の光が、雪に覆われた森を照らしているに違いないとツァーヴェは思った。眠る前に雪が降っていたのを思い出したからだった。
 少しづつそうして眠る前のことを思い出したが、眠っていた最中に見ていた夢のことはどうしても思い出せなかった。夢が思い出せないことは珍しいことではないのだが、その時のツァーヴェにはなぜかそれがもどかしく感じた。今自分が感じている喪失感、例えるならば、まるで自分が半分に薄まってしまったかのような奇妙な喪失感の原因が、その夢にあるように思えて仕方なかったからだった。だが、いくらじっと天井を見詰めて考えても、夢は朝の光の中に霧散してしまって、ひとかけらも思い出せない。もどかしくても、諦めるしかなかった。