漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

本にだって雄と雌があります

2016年04月23日 | 読書録
「本にだって雄と雌があります」 小田雅久仁著 新潮社刊

を読む。

 第三回Twitter文学賞作。
 タイトルだけ聞くと、なんだかバカバカしそうなんだけれど、これは面白かった。思わず膝を叩いてしまいそうな傑作。今年に入って読んだ本の中で、今のところ一番面白かったんじゃないかな。時々出逢う、読書の悦楽を堪能させてくれる本の一つだと思う。
 わかりやすい作品かと言われれば、なんとも言えないとしか答えられない。amazonの紹介文を見ると、「マジック・リアリズム」とある。それだけで厄介な作品であることがわかる。したがって、あまり本を読まない人には薦めにくい作品かもしれない。けれども、その饒舌体が時には本当に冗長に感じられるところもないわけではないが、本が好きな人ならきっとこの小説を気に入るはず。そう書くと、なんだか踏み絵のようだけれど、決して小難しい本ではなく、時にくすりと笑いながら愉しく読める文学作品である。

「アケルダマ」と「世界の涯ての夏」

2016年04月19日 | 読書録
 懐かしき「ジュヴナイル小説」的な味わいの小説を、続けて二つ、読んだ。

「アケルダマ」 田中啓文著
新潮文庫 新潮社刊

 は、伝奇ジュヴナイル。
 題材になっているのは、イエス・キリストは実は日本で死んだという、あまりにも有名なネタ。それを、実はイエスは邪悪な存在であって、ユダこそが正義の味方だったという、これまたベタなアイデアを使って料理している。ふた昔前ならともかく、いまさらそれかと、思う人も多いはず。そう書くとまるでバカにしているようだけれど、ベタなアイデアであることを著者が十分に理解した上でできる限りの肉付けをし、冗談と本気のスレスレのところで楽しんで書いているのがわかるので、くだらないといえばくだらないのだけれど、悪い印象は受けない。作中で胡散臭い万能細胞「MARS」を発見したという科学者に「MARS細胞は、あります」などと言わせたり、明らかに沢田研二がモデルの沢田敬二というスターが出てきたり、チュパカブラ人間というわけのわからないものが出てきたり、他にもいろいろと、さりげなく世代感覚を無視したギャグをねじ込んできたりする。山田風太郎や半村良の作品のように、バカバカしさに身を委ねて、楽しんで読むのが良い一冊。


「世界の涯ての夏」 つかいまこと著
ハヤカワ文庫JA 早川書房刊

 は、第三回ハヤカワSFコンテストで佳作に輝いた作品の文庫化。
 ある時、突然世界に「涯て」が現れた――世界の終わり。夏の海。淡い少女の記憶。終わらない少年期。
 つまりは、そういう小説。
 「ビューティフルドリーマー」から「エヴァンゲリオン」を経て――
 わかりやすく、そんな風にも言いたくなる。つまり、オタクと呼ばれる少年たちに代表されるような、ナイーヴな人たちにとっての神話ともいえるような「光景」を描いた作品のひとつといえるんじゃないか。昔から、いわゆる「セカイ系」の作品を大量に含む、「決して体験したことのない、できるはずもない青春」を描いたこの分野には、名作が多い。「セカイ系」のライトノベルで言えば、「イリアの空、UFOの夏」とか(最初の方しか読んでないけど)が、多分それに当たるのだろうか。
 だけど、この作品はライトノベルとは少し違うように感じた。例えるなら、菊池秀行の「インベーダー・サマー」と飛浩隆の「グラン・ヴァカンス」の間にある作品といえばいいか。要するに、どちらかといえば、ライトノベルというよりも、やはりジュヴナイルに近いような感じがしたのだ。それは、著者がどちらかといえばジュヴナイル世代だからかもしれない。
 あとがきで、著者はインタヴューに応えて、ライトノベルは「了解の文芸」であるというようなことを答えていて、それはとても納得がいった。
 ぼく自身、少し前にそれなりの数のライトノベルをまとめて読んだ。最初は物珍しくて面白かったものの、正直、だんだんと飽きてきてしまった。それはつまり、なんだかライトノベルにはひとつの「型」というか、そういうものがあることに気がついて、だんだんと新奇さを感じなくなってしまったからだった。有名なアニメや先行するライトノベルやマンガを基礎知識として共有しているということを前提とした上で、他とはちょっと違ったアイデアを競い合っているのだが、登場する人物が、どれもマンガ的なキャラクターでしかないので、数を読んでいるうちに醒めてしまうのだ。ライトノベルは文章で書かれたマンガに近く、キャラクターの力で物語を引っ張ってゆくことが普通だが、もともとぼくには架空のキャラクターに「萌える」という感覚がいまひとつよくわからないので、そもそもライトノベル的なものは向いてないのだろう。せっかくこれだけ面白いアイデアがあるのだから、もっと別の書き方があるだろうにとか、そもそもそういうことじゃないとは分かっているのだが、余計なことをつい思ってしまうのだ。その点、この作品の登場人物はどれも、常識的ではあるけれど、そこまで類型的なキャラクターとしての言動をするわけではないので、これはジュヴナイル的だなと感じる。
 ただ、小説としてはさほど目新しいアイデアが使われているものではないので、評価としては、やはり佳作作品といったところなのだろうとも思った。
 
 ジュヴナイルという小説形態自体は、すでに過去のものだとも思うけれども、ライトノベルという小説形態も、もう袋小路に入り込んでいるような気がする。最近、少しばかりジュヴナイルが復権しつつある気配があるのも、つまりはあまりに独自進化を遂げすぎてしまったライトノベルについてゆけない人が増えてきたせいか、あるいはライトノベルくらいしか読んでいない人たちの時間が、スマホに取られてしまっているせいじゃないかと思う。