漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



「ウルフヘッド」 チャールス・L・ハーネス著 秦新二訳
サンリオSF文庫 サンリオ刊

を読む。

 積読になっている本がやたらと多いサンリオSF文庫だが、少しでも減らさなければと、読んでみた。
 ストーリーは、以下のようなもの。
 
 舞台は未来の地球。核戦争が起こり、世界が壊滅状態になってからいろいろあって長い時間が流れ、ゆっくりと復興を遂げつつある時代というのが基本的な物語の背景である。主人公は、ウルフヘッドと呼ばれる一族の後継者たる青年ジェレミー。彼は「われわれの一族のだれかが大神の頭を手にして地底へと降り、大いなる悪の文化を打ち砕き、ふたたび生きて戻るであろう」という謎めいた予言の下にある一族の青年である。彼はふとしたことで見初めた女性と結婚をするが、<神々の目>と呼ばれる宇宙に弧を描いて消える星、おそらくはかつて人類が打ち上げた人工衛星だが、を見るために新婚早々でかけたところで、妻を地底人に攫われ、自分も瀕死の重症を負う。一命を取り留めたジェレミーは、負傷がもとで偶然手にいれることとなった超能力を使い、暗闇でも目が見えるという雌狼ヴァージルとともに、妻を奪還するために地底へと下ってゆく。やがてその旅は、二つに分裂した人類を再びひとつにすることとなる……

 というような感じだが、正直、かなりくだらない小説だった。以前に翻訳してみた、シェーバーの「レムリアの記憶( I Remember Lemuria !)」にちょっと似ているところがある。というより、パルプフィクションによくあるフォーマットというべきか。底人の正体が、かつて核戦争の後に地下に潜って生き延びたアメリカのホワイトハウス周辺の人々であるというあたりは、なかなかブラックではあるが、ありふれた、遠未来を舞台にしたヒロイック・ファンタジーである。
 このチャールス・L・ハーネスという人は、「十億年の宴」の中でブライアン・オールディスによって初めて「ワイドスクリーン・バロック」という名称が与えられて絶賛された作品「Flight into Yesterday」の著者であり、この作品の時点で、30年以上の作家歴で長編が4冊という寡作だというから、結構期待して読んだのだけれど、まあそんな感じだった。どうせなら、その「Flight into Yesterday」の翻訳が欲しかったところであるが、まあ、未だに翻訳されていないということは、推して知るべし、ということなのだろうか。

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「終わりの街の終わり」 ケヴィン・ブロックマイヤー著 金子ゆき子訳
ランダムハウス講談社刊

を読む。

 ネビュラ賞短編部門ノミネート作品を長編化したものとのこと。

 人は死んだ後に、これまでとはあまり変わらない死後の世界での生活があるというのが、作品の大前提となっている。その世界では、現実の世界と同じような街がきちんと存在し、ちゃんと機能している。煉獄界のようなものだろうか、その死後の街で、死んだ人は、その人のことを知っている人が誰一人現実世界にいなくなったときに消滅するということになっている。従って、たくさんの人々に知られている人、寿命の長い人が知り合いにいる人などは、その世界で長く生き続けることになる。そして、現実の世界で、死別してしまった家族などが、ふたたびその場所で幸せに暮らしていたりするわけである。ところが、その街の住民がある時期を境にして、急速に減少し始める。それはつまり、現実の世界から彼ら死者を記憶している人物が急激に減少し始めたということを意味しているわけである。
 場面が変わって、現実の世界。主人公はローラという女性。コカ・コーラ社によるあるプロジェクトのために、南極にいるのだが、外界との連絡が突然つかなくなって、何が起こっているのか、わからないでいる。いったい、何が起きているのだろうか。先に調査のために出かけた同僚とも連絡がつかなくなってしまった彼女は、単身、基地を出て北へと向かう……。

 というのが、。おおまかなストーリー。
 言うまでもなく、破滅ものである。極地にいる人物ただ一人だけが生き残る、という物語といえば、M.P.シールの「The Purple Cloud」(「紫の雲」のタイトルで翻訳していて、一応ひととおり訳了しているのですが、最後までアップしていません……)とも共通しているが(あっちは北極だけれども)、「紫の雲」とは違って、その後主人公による破滅した世界の廃墟観光とはならないし、世界の再生も示唆されない。死後の世界サイドはともかく、現実の世界サイドは、ひたすら暗く、シビアな、世界の終わりの物語である。この作品の中で、世界を破滅に導くものは、核ではなくてウィルスである。細菌兵器として開発された、空気感染する致死率100%のウィルスが、どこかのテロリストの手でばらまかれ、極地を除く世界中にあっという間に広がってしまう。作中で、その拡散に使われたのがコカ・コーラであることは示唆されるのだが、誰が何の目的で、というあたりは、詳らかにならない。誰一人生き残ることの出来ない状況がある以上、もはやそんなことを知ったところで何の意味ももたない、ということなのだろうか。あまりにも成すすべなく物語が終わってゆくので、読みながら、「え、これで終わりなの?」と、僅かに動揺した。
 読者を選びそうな作品ではある。個人的には、長編の醍醐味がないので、もしかしたら短編のままでよかったんじゃないかなという気もしたが、短編バージョンは読んでいないので、わからない。
 読みながら思ったのは、この小説はある意味で究極の「セカイ系」とも言えるのだろう、ということだった。死後の世界とはいえ、ひとりの女性の命に、世界の存在そのものが委ねられているのだから。


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「エルフランドの王女」 ロード・ダンセイニ著 原葵訳
妖精文庫 月刊ペン社刊

「牧神の祝福」 ロード・ダンセイニ著 杉山洋子訳
妖精文庫 月刊ペン社刊

を、続けて読む。

 多分再読なのだろうけれど、そう書かなければならないほど、ほとんど何も内容を覚えていなかったので、初読に近い二冊(それとも、「牧神の祝福」の方は、途中で投げ出したままだったんだっけ?)。いずれにせよ、三十年ほども昔のことである。

 「エルフランドの王女」は、ダンセイニの長編の中では、多分最も評価の高い作品だろうと思う。
 ストーリーは、以下のようなもの。

 ある国の王子が、国民の希望に応えて、エルフランドへと赴き、そこの王女を連れて帰り、女王とて、ひとりの息子を産んだ。しかし彼女は人間の世界に馴染めず、エルフランドの王である父親の呪文によってふたたびエルフランドへと帰ってしまう。王子は血眼になって妻を探すが、エルフランドは飛び去ってしまい、どうしても見つけることができない。王子は、狂気に侵された部下たちを連れて、エルフランド探索の旅に出る。そうして長い年月が過ぎ、夫と息子に会いたいと願う娘の願いを聞き入れたエルフランドの王は、最後にして最大の呪文を唱えるのだった……

 ストーリー自体はどこか説話のようで、現代的な物語とはちょっと違うが、もちろんそこがいいわけである。ほとんど時間というものが存在しない、夢見るような色彩の中に微睡んでいるエルフランドの描写が素晴らしい。最後もただ「めでたしめでたし」といった感じではなく、虚空の中で物語が閉じられるような感じがいかにもらしくて、ダンセイニを読む愉しみは十二分に堪能できるだろうと思う。

 「牧神の祝福」の方は、やや毛色が変わっていて、ひとりの少年の葦笛に導かれて、古代の世界に還ってゆく村を描いた作品である。太古の神々とキリスト教の対決というテーマは決して珍しいものではないが、この作品の変わっているところは、村がなすすべもなく牧神の導く世界に屈してゆくという点である。ネタバレになるが、村はそうして世界から孤立して、物語はあっさりと終わる。カルトに耽る村が一丁あがり、という感じである。村を覆ってゆく牧神の笛の音に孤軍奮闘するのは、この物語の主人公である村の教会の牧師であるが、彼も最終的にはあっけなく屈してしまう。よくある普通の物語なら、ここまでがプロローグで、これから先が本編になりそうな感じである。だが、ダンセイニにとって物語はここまでで終わりなのである。ダンセイニは、先の「エルフランドの王女」もそうだが、世界から今現在の秩序が失われて、なすすべもなく別の世界に覆われてゆくことを、肯定するようなところがある。ダンセイニは、人間の側に立って物語を紡がない。そこが、ダンセイニ作品から感じる「巨大さ」の秘密なのだろうか。


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「書物愛 日本編」 紀田順一郎編
創元ライブラリ 東京創元社刊

を読む。

 読書人の中の読書人とも言うべき紀田順一郎氏が編んだ、書物に関する短編を集めたアンソロジー。国内編と海外編に分かれており、今回読んだのは国内編。夢野久作の「悪魔祈祷書」(これだけは既読)に始まり、全部で九篇が収録されている。さすがに紀田氏が編んだだけあって(この人が関わっているなら間違いないなと思わせるものが、紀田氏にはある)、なんと言うか、単なる面白みだけではない、芳醇な味わいのある作品ばかりが並ぶ、良アンソロジーである。気負わず、スッとシンプルだけれども気の利いた美味しい料理を出してくれる小料理屋風、というかね。特に、戦後最初の芥川賞を受賞した由起しげ子 の『本の話』などは、初めて読んだけれども、さすがに印象深い短編だった。自分の部屋の、大量の本をぐるりと見渡してみて、さらにひとつ小さなため息が出る。いつか自分が死んだら、この本たちはいったい、どこへ行くんだろうな。
 紀田順一郎といえば、かつて国書刊行会から出版された、ほとんど出版史における一事件といっていいほどの一大叢書、「世界幻想文学大系」の発起人である。いわばブレインである紀田氏が、荒俣宏氏という超強力なエンジンを得て、70年台から80年台にかけて、ほとんど力技でたくさんの海外の幻想文学を日本に紹介してくれたことは、ぼくのような幻想文学ファンにとってはいくら感謝してもしきれないほどである。今現在でも国書刊行会からは様々な通好みの海外文学が刊行されているが、それももとはといえば、紀田氏と荒俣氏の情熱の賜物なのであろうと思う。


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 先日、とある機会に洋書の古書価の話をちょっとしたことがあって、その際に「ホジスンやラグクラフトの古書は高いが、アルジャーノン・ブラックウッドの古書価は意外と安い」と口にしました。まあ、本当のことを言うと、ホジスンやラヴクラフトが高すぎるのです。ホジスンは、生前に出版された本の初版は軒並み30万円以上で、署名本に至っては、100万超えも見たことがあります。ラグクラフトはさらに高くて、「The Outsider」は40万ほど、署名入りに至っては400万円の値がついているのを見たことさえあります(かなりボッている可能性もありますが)。それにしても、日本では怪奇作家御三家と呼ばれるうちのひとりであるブラックウッドだから、もう少し古書も高いのではないかと思い、調べたことがあったのですが、かなり安いのに驚いたのでした。
 で、家に帰ってから、ちょっと調べ直してみたところ、長編第二作の「The Education of Uncle Paul」の1909年の初版本が激安で出品されているのをみつけ、状態はまああまり良くはなさそうだけれど、なにせ値段が値段だし、売り主のコメントの中で「同時代の本の中では状態はそれほど悪くない」というようなことも書いてあったので、思わず買ってしまいました。それが、数日前に届きました。



 本を開いたところ。赤ジャケットのハードカバーです。写真ではわかりませんが、天金になっており、タイトルも金押しです。長い間、ほかの本の下敷きにでもなっていたのでしょうか、本自体がやや斜めに変形していて、背は汚れています。見返しには、虫の食った跡もあります。ただし、本自体はしっかりしていて、カビ臭さもなく、読むのには何の問題もなさそうです。紙が厚いので、触っていても危なげはありません。110年近くも前の本にしては、まあ、上出来ではないでしょうか。



 上は本のタイトルページ。出版社の情報などが載っています。かなり立派な虫食い跡が(笑)。
 ブラックウッドの著作は、デジタル化され、Project Gutenbergなどのサイトで無料で読める作品も結構あるのですが、この作品はデジタルテキスト化されていません。ただし、Internet Archiveで初版本をスキャンしたものを読むことができます。ぼくは以前、このサイトからファイルをダウンロードして、途中まで読んだのですが、挫折してしまっています。。。PCの画面で読むのは、ちょっと疲れるんですよね。もともと、英語はあまり得意ではありませんし。一応、テキストファイルにしてダウンロ―ドすることもできるようですが、どうやらOCRソフトで抽出したものそのままのようで、まともに使えるものではありませんでした。ひとつだけ気にかかることは、このInternet Archive版はジャケットの色がグリーンなんですよね。洋古書にはこうした異装版がけっこうあるのですが、いろいろと複雑そうで、よくわかりません。
 肝心の内容ですが、最初の方だけを読んだ限りでは、「ジンボー」から「ケンタウロス」へと橋渡しをする作品のような印象で、かなり面白そうでした。ちょっとロリコン的なところも、生涯独身だったブラックウッドのことを鑑みると、興味深い感じです。この本を買おうと思ったのも、そのうち読み通したいからでした。本当は、誰かが訳出してくれれば嬉しいのですが。。。



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「引き潮」  R・L・スティーヴンスン+ L・オズボーン 著  駒月雅子訳
国書刊行会刊

を読む。

 「コナン・ドイル、チェスタトン、ボルヘスも愛読した知られざる逸品」などと煽られたら、スティーブンスンだし、面白くないということはないだろうから読んでみよう、という気になるではないか。で、読んでみた。
 物語は、南海の楽園タヒチから始まる。主人公は、タヒチにまでやってきたものの、元来の甘っちょろい性格のせいで、結局は食い詰めてしまった青年ヘリック。教養はそこそこあり、性格も悪くはないのだが、打たれ弱く、壁にぶち当たった時、それに真正面から向き合って解決しようとすることをせず、そこから目をそらして、そうして目をそらした自分を正当化する言葉を探す、といったタイプである。そのヘリックと連れ立っているのは、かつては自分の船を持っていたものの、沈没させてしまった元船長のデイヴィスと、欠点を補う美点というものがほとんど見つからない、ケチなゴロツキのようなヒユイッシュである。このまま落ちるところまで落ちていって、最後には野垂れ死ぬのだろうと思われたが、ふとしたことから、天然痘という疫病が発生したため誰も乗り手がいなくなってしまった船を任されることになる。ツキが回ってきたと思ったデイヴィスは、航海中に船と積荷を売り払い、金を手に入れるという計画を立てるのだが……というような物語。
 ハズレのほぼないスティーヴンスンだから、面白さはお墨付きである。しかしその面白さは、痛快な冒険物語のそれではない。それは、明るい南海の太陽のもとで、自らの不徳のため、死地へと向かうことが最初から運命づけられた、崩壊してゆく航海を見守るスリルである。


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「鳥の巣」 シャーリイ・ジャクスン著 北川依子訳
DALKEY ARCHIVE 国書刊行会刊

を読む。

 シャーリイ・ジャクスンの長編を読むのはこれで三冊目だが、相変わらずの強烈なジャクスンワールド。何がって、これは一応多重人格ものということになるのだろうが、何というか、その題材を、読者をいらいらさせるために使っているような、そんな印象さえ受ける辺りが、である。他の作家とはまるで違う発想のもとに物語を紡ぐという印象が、シャーリー・ジャクスンにはある。最も近い資質を持った作家として思い浮かぶのがアンナ・カヴァンだが、ジャクスンは喜劇性を帯びている分、ある意味カヴァンよりも重症ではないだろうか。
 この小説を読みながら、ぼくは始終、よくもまあこんないらいらする小説を書いたものだと思っていた。主人公はもとより、例えば主人公を犯人とするなら探偵役であるはずの医師にも、まるで感情移入ができない。唯一、多少は同情的な気持ちになれるのが、二人にふりまわされている叔母である。そしてもちろん、ジャクスンの作品のほとんどがそうであるように、すっきりとした結末は用意されていない。ジャクスンの作品は、常に開かれており、読み手の解釈に委ねられる。「鳥の巣」も、一見ささやかなハッピーエンドのようにも取れるが、実は何一つ保証されてはいない。読み終わった後、思う。「この小説は、様々な辛い経験の結果として生じた、屈折した内面を持つ一人の女性の、四つの極端な一面が争う作品だった。しかし、本当のところ、この小説は、いったい、なんだったんだろう」
 そういう、最後で読者が遠い場所に置いてゆかれてしまうような感覚が、シャーリイ・ジャクスンにはある。そこが、彼女の魅力なのだろうと思う。

*****

 今日は、妻と二人で久々に葉山へ散歩に出かけた。
 逗子から葉山へと歩いたのだが、逗子海岸は、まだ海の家が出ていて、賑わっていた。
 しかし、海の家も本当に昔とは様変わりしてしまったと思った。別に悪いわけではないけれど、完全に若い人向けである。
 葉山の森戸海岸や、一色海岸はもう海の家は営業を終えていたから、比較的のんびりとしていた。
 驚いたのは、一色海岸の外国人率の高さ。海水浴客の、七割から八割は外国人だったのではないか。一色海岸は、外国人に人気が高いのだろうか。
 一色海岸の、御用邸前の芝生の上でしばらくのんびりビールを飲んだ。
 数年前だったらきっと、三点セットを持って海に入っていただろうな、と思いながら。
 

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