漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



「スターシップ / 宇宙SFコレクション2」 ブラッドベリ他 
伊藤典夫、浅倉久志編
新潮文庫 新潮社刊

を読む。

 宇宙SFをまとめた、日本独自のアンソロジー。
 収録作品には、アシモフ「夜来たる」やハインライン「地球の緑の丘」をはじめ、マスターピースとも言える短篇が多く含まれている。けれども、単に有名作品を集めただけというものではなく、こだわりを持ちつつ、練って編まれた短編集という印象。もっとも、読んだことのある作品が多かったが、忘れかけていたりしたので、よい機会だった。
 この本は、「Jules Verne Page」のsynaさんにお借りしたもの。収録されている作品の中の、ジェイムズ・イングリスという作家の「夜のオデッセイ」という作品が素晴らしいというので、薦めていただいたのだ。果たして素晴らしい作品で、隠れた名作というのは、こういう作品を言うのだろう。SF小説を愛しているという人なら、これは間違いなく琴線に触れるに違いない。このそれほど長くもない一作のためにだけこのアンソロジーを買ってもいいくらいだ。
 ところがこのジェイムズ・イングリス、全くといっていいほど何も情報が知られていない作家なのだ。唯一この作品が、いくつかのアンソロジーに収録されているというので名前が残っているだけだ。つまり純然たる一発屋というか、そういう謎の作家なのだ。これだけの作品をものにしているのだから、もう少し未発掘の作品があってもよさそうに思うのだが、見つからない。どうしてなのだろう。色々と、想像力を刺激される。
 この短編集では、他にはジャック・マクデヴィット の「クリプティック」が好きだった。

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「ノルウェイの森」 村上春樹著
講談社文庫 講談社刊

 村上春樹の代表作「ノルウェイの森」が、トラン・アン・ユン監督によって映画化されるという。おそらくは刊行当時からずっと様々な監督によってオファーを受けていただろうこの作品の初映画化は、ある意味快挙かもしれないと思った。だが、日本人監督の手によるものではないという点で、「やっぱり」という気もする。

 村上春樹作品では、この「ノルウェイの森」と「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」がやはり長編では双璧だと思うのだが、特にこの「ノルウェイの森」には、村上春樹を作家に押し上げた初期衝動の全てが具体的な形を与えられつつ、しかも昇華された形で描かれている。というのは、僕にはこの作品に至るまでの村上春樹の全ての長編作品が、実は「直子クロニクル」だと思えるからだ。村上春樹という作家は、直子という存在、それが実在のものか象徴的なものかは分からないけれども、それを何とか一つの形を与えて、昇華させたかったのではないか。その試行錯誤の結果が「風の歌を聴け」から「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を経て「ノルウェイの森」に至る作品群のなのではないだろうか。
 その証拠に、これ以降に書かれた「ダンス・ダンス・ダンス」では、明らかな迷走が見られる。「ダンス・ダンス・ダンス」は、「僕」と「鼠」のクロニクルの最終巻だが、物語はここで完全に打ち切られている。完璧な袋小路で、もはやどこにも行く場所はない。物語は最後の一行と共に死に絶え、封印される。初期の村上春樹は「ノルウェイの森」で一つの完成を見たのだが、次に向かう場所が見えない。それが「ダンス」なのだろうと思う。
 「国境の南、太陽の西」(評価よりはよい作品だと思う)以降、「直子」という憑き物の落ちた村上春樹は次に語るべきものを探っているようだが、これまでのところ、僕には迷走を続けているように感じる。評価の高い近作「海辺のカフカ」も、一応読んだけれども僕には良さが分からない。初期村上作品が「直子クロニクル」だとしたら、現在の村上作品は、広い意味での「ねじまき鳥クロニクル」なのだろうと思うのだが、その「ねじまき鳥」を今だ掴めていないように感じるのだ。
 もちろんこうしたことは僕の印象に過ぎないわけだが、村上春樹の作品でひとつだけ挙げるなら、やはり「ノルウェイの森」に止めをさす。不安定な人間ばかりがあがき続けていて、何ともいえない後味の悪さを内在しているということも含め、文学史に殘る傑作であると僕は思う。

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「地球の長い午後」 ブライアン・W・オールディス著 伊藤典夫訳
ハヤカワ文庫SF 早川書房

 宮崎駿の「風の谷のナウシカ」を初めて観た時、「あ、『地球の長い午後』だ」と思った。ストーリーが似ているというわけではなく、根底にあるものが似ているのだ。「ナウシカ」にこの作品が影響を与えたのかどうかは知らないけれども、SFの古典として括弧たる地位を得ている作品である以上、「ない」とする意味もないだろう。
 この作品は衝撃だった。初めて読んだのは、高校生の時。部屋のソファーベッドに横たわり、午後をまるまる使って読んだ。そしてその想像力のスケールの大きさに圧倒された。何といっても、地球と月の間に糸が張り巡らされ、そこを行き来する生物がいるというイメージは鮮烈だった。これほど巨大な時間と空間を扱えるのは、SF小説だからこそ出来ることだ。SF小説って凄いなあと思った。
 だけど再読するのは本当に久々だった。見事にかなり忘れていた。さすがに今読むと、先ほどの「ナウシカ」をはじめとして、かなり消費されてしまっているなとは思う。だがやはり傑作には違いない。
 今読むと、この作品がウェルズの「タイムマシン」やステープルドンの諸作品、あるいはファウラー・ライトの「時を克えて」などの(社会的な意味も含めた)進化論の影響下にある諸作品や、さらにはホジスンの「ナイトランド」などのような、悲観的な未来を描いた一連の科学ロマンスの系譜にあるのだと位置づけることができる。だがこの作品の凄いところは、熱帯的かつ有機的であり、しかも人類を特別視していないという点で、そこが何とも魅力的なのである。邦訳のタイトルもいい。「長い午後」という言葉に、この作品の魅力は凝縮されている気がする。

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「火星年代記」 レイ・ブラッドベリ著 小笠原豊樹訳
ハヤカワ文庫NV 早川書房刊

 この本も再読するのは随分と久しぶりだ。もしかしたら、ちゃんと読むのは高校生の頃以来かもしれない。
 ブラッドベリは、熱狂的に読んだ時期があるのだが、ある頃から急に読めなくなって、それ以来全く興味がなくなってしまった。多分、そういう人は多いのではないかと思う。つまりブラッドベリとはそういう作家なのだろうとずっと思っていた。だから、最近ブラッドベリの作品が沢山出版されているのを見ても、手にとろうとさえしていなかった。ブラッドベリは、僕にはもう完全に通り過ぎてしまった作家だった。
 だが、久々にこの作品を読み直してみて、やはり面白いと思った。みずみずしく読めたことが嬉しかった。多分、かつて好きだった「華氏451」とかは、今読んだらもうそれほど面白いとは感じないのだろう。だが、この「火星年代記」は、今なお優れた作品としての価値を失っていない。この作品は、基本的に連作短編集だが、中に収められたいくつかの作品に流れているノスタルジックな抒情は、昔読んだときと変わらず、今でも強く胸を焦がす。舞台は火星だが、根底に流れる原風景は西部開拓時代であり、日本人の僕でさえこれほど懐かしく感じるのだから、アメリカ人にとってはいかほどであろう。そんな風に思った。
 この作品はブラッドベリの最高傑作であるのみならず、SF小説のオールタイムベストのひとつである。ややファンタジー寄りではあるものの、SF小説の入門書として、最適なのではないだろうか。

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遠くに光が見える
光が朽ちる音を聞いたはずだが
あれは小さいが鋭い光だ
辺りを照らし出している

気がつくと虫の声に包まれている
辺りの闇の四方から湧いて
呼び交わしながら池を渡ってゆく
その水面には光が映っている

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日々  


 
 ちょっと当分の間多忙になるので、更新が途切れがちになるかもしれません。

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「夢の丘」 アーサー・マッケン著 平井呈一訳
創元推理文庫 東京創元社刊

 奥付を見ると、1984年9月28日初版となっている。出てすぐ買った記憶があるから、もう四半世紀近く前だ。当時はは神戸の垂水に住んでいたのだが、駅のショッピングセンター「たるせん」の中に入っていた、日東館という細長い売り場を持つ書店で買ったのを覚えている。それ以来、部分的に読み直したりはしたが、通して読み直すのは本当に久々だ。
 好きな本は何度でも取り上げたくなる。久々に読んで、やはり傑作だという感を新たにした時には、なおさらだ。
 一読して分かるように、この「夢の丘」は、マッケンの半自伝的小説である。僕の大好きな作家W.H.ホジスンと同じように、貧しい地方の牧師の息子として生まれた主人公が、作家を目指してロンドンに移り住むものの、馴染めず、客死するまでの物語だが、読みどころはそういう大きなストーリーにはなくて、自家中毒的な孤独の中で主人公が幻視する神秘的な光景にある。
 物語の冒頭から、ド・クインシーの「阿片中毒者の手記」のタイトルが何度か出てくるから、影響があるのだろうが、そういった意味でも、日本の稲垣足穂の「弥勒」とも通じるものがある。あるいは、ユイスマンスの「さかしま」なども似たジャンルの作品だろう。だが、主人公が死ぬ時に見る光で作品の冒頭とループを描くという構造によって、閉じられながらも果てしなく広がってゆくという、奇妙な余韻を描き出す。怪奇幻想作家は数多いが、その幻視する力において、マッケンは明らかに一段高い所に位置する作家である。マッケンの筆にかかると、世界は確かな形を失い、メルトダウンする。そしてその向こうから、鮮烈な色彩を持った、別の光景が現れるのである。

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