漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

未来のイヴ

2016年05月29日 | 読書録
「未来のイヴ」 ヴィリエ・ド・リラダン著  斎藤磯雄訳
創元ライブラリ 東京創元社刊

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 最近、積読になっている本を少しでも片付けておこうという気になっている。ここ数年で、積読になっている本が、膨大な数になってしまっているからだ。
 もちろん、読むスピードより買うスピードの方が早いから積読になってしまうわけだが、実は読める量より買う量の方が多いというわけではない。買ったものをすぐに読めば、きっと読破してしまっているのだろうと思う。本を読む速さは、ぼくはそれなりに速いのだ。じゃあなぜ積読本が増えるのか。
 つまり、そもそもそんなにすぐに読みたいわけではないが、なんとなく欲しいという本を、古書店の均一棚などで随分と相場より安い値段で並んでいるのを見つけた場合、そのうち読むだろうと思いつつ、買ってしまうからだ。それで、手元にあるという安心感を抱いたまま、結局読まずに、図書館で借りた本とかをどんどん読んでしまうわけである。そうしたことを繰り返しているうちに、いつのまにかこんなことになってしまった。本を新刊書店でしか買わなければ、多分こんなことにはならなかっただろう。数えたことはないけれども、積読になっている本は、多分、百冊を遙かに超えてしまっているはず。以前よりも本を置くスペースが出来た途端、この有り様である。しかもその大半は、多分、この先も読むことはないだろう。中には読もうとは思ったもののどうも読みにくくて、投げてしまったという本も少なからずある。古いSFの文庫にそういうものが多いが、もともとSFが好きだから、サンリオ文庫の火星人やハヤカワの青背は並んでいるのを見るだけでも嬉しいので、そういうのはもう一種のコレクションだと思って、罪悪感からは目を逸らすことにしている。
 そうした、そもそも読むつもりがそんなにない積読本以外に混じって、いずれきっと読もうと思っている積読本もかなりあって、この「未来のイヴ」などはその代表格だった。幻想文学の文脈からも、SFの文脈からも、「超」がつくほどの重要作であるから、タイトルは十代の頃からよく知っていた。なのに、これまで読んでこなかった。文庫になる前は結構高価な本だったし、いろんなところで言及されているのに触れてきたので、なんとなく読んだような気になってしまっていて、読みそびれていたのだ。正漢字、歴史的仮名遣いを使った名訳とされる翻訳も、一見とっつきが悪くて、読もうという気持ちを萎えさせるのに十分であった。
 ストーリー自体は、極めてシンプル。登場人物も多くない。最重要な登場人物は四人。まずは発明家のトマス・エディソン。もちろん「あの」発明王エジソンがモデルなわけだが、ここではあくまで「エジソンをキャラクター化した人物」である。それから、その若き日の困窮して死にかけていたエディソンに手を差し伸べてくれた恩人、エワルド卿。彼は女性に対する幻想ににっちもさっちもゆかなくなっている青年であり、その恋わずらいのせいで自殺さえ考えている。まあ、言ってしまえば中二病をこじらせたような、めんどくさい人物である。それから、そのエワルド卿の恋わずらいの原因となっている絶世の美女、アリシヤ・クラリー。彼女は女優であり、完璧な容貌とスノッブな内面を持つ女性である。そしてもう一人、というか、もう一体。それはハダリーという人造人間である。彼女はエディソンが、クラリーの顔は好きだが内面はどうしても受け入れがたいから、一体どうしたらいいのだろうというエワルドの悩みを解消してあげようと、外面はクラリーそのものだが内面は遙かに高貴な存在として作り上げた人造人間、「未来のイヴ」である。で、肝心のストーリーだが、この登場人物紹介だけで、ストーリーの大半は語り尽くした感があるほどだ。つまり、クラリーに対する複雑な恋に苦しむエワルド青年のために、万能の発明家エディソンが究極の理想の女性とも言うべきアンドロイドをつくり上げるが、結局そのアンドロイドは運搬の最中に海中に沈んでしまう、というだけの物語である。はっきり言ってしまえば、ストーリー性が希薄な上に、登場人物たちの感情に共感できるという人も少ないだろうから、かなり読み手を選ぶ作品だといえそうだ。しかし、読み手を選ぶとはいえ、今に至るまで人造人間テーマの古典にして金字塔である。
 では、物語性や文学性に期待できないなら、いったいどんな取り柄があるのかといえば、それはハドリーをめぐる綺想の数々である。例えば、エディソンの家の地下には、「江戸川乱歩かよ」というような、人工楽園が広がっていて、ハドリーはそこに安置されている。地下の人工楽園と人造の美女という取り合わせは、ちょっと出来すぎだ。それに、物語の大半を占める、ハドリーの設計図とも言える部分。皮膚はどうだとか、肉はどうだとか、そんな細かい部分について、それなりの説得力を持たせながら、事細かに描かれている。最期の最期でちょっとオカルトに頼る部分はあるものの、本当に細かく描かれているので、当時これを読んだ人の中には、なんだかすぐにでもこうした人造人間が出来そうな気がしてきたという人も多いのではないだろうか。現代的に言えば、ある種、スチームパンクの極みとも言える部分である。この小説の肝はここにあるので、この部分を愉しめなければ、どうしようもなさそうだ。

「ヘミングウェイごっこ」と「小金井3.4.1号線」「小金井3.4.11号線」

2016年05月26日 | 読書録
 最近、夜になると目が疲れてしまって、あまりPCの画面を眺める気にならない。何かを書くのは、大抵は夜。それで、何かを書くことが億劫になってしまい、つい防備録のようなこのブログの更新も滞ってしまう。書くことがないわけでもないのだけれど。


「ヘミングウェイごっこ」 ジョー・ホールドマン著 大森望訳
ハヤカワ文庫SF 早川書房刊

を読む。

 ヘミングウェイを専門とする大学教員のジョンは、絶対記憶の持ち主である。ある時、キャッスルメインという詐欺師に、紛失したと言われている若き日のヘミングウェイ作品の贋作をでっちあげれば億万長者になれるという話を持ちかけられる。最初は乗り気でもなかったジョンだが、次第にその作業にのめりこんで行く。しかし、そんなジョンの前に、ヘミングウェイに瓜二つの人物が現れる。その男は、もしジョンがヘミングウェイの贋作を書けば、取り返しのつかない変化をこの時空に与えることになる、すぐにその作業を中止しなければきみの命を奪うしかない、と迫るのだった……。
 スト―リーとしては、だいたいそんな感じで進んでゆくのだけれど、並行宇宙が絡んできて、次第にややこしくなってくる。まさかそんなにややこしい話であるとは思わなかったので、なんとなく流すように読んでいたから、結末に至る急展開に置いてけぼりを食ってしまった。え、つまりどういうこと?っていう感じである。
 で、実際、どういう話だったんだろう?
 注意して再読すれば、もしかしたらはっきりと分かるのかもしれないが、なんだか、再読する気にならない。
 ジョンが完全記憶を持っているというのは、何かの伏線だろうか?同じ人物が、同一時空上には存在できないというルールも、やはり伏線なのか?ヘミングウェイのスーツケースを盗んだのがジョンだったというのは、多分確かなのだろうが、その人物の容貌がヘミングウェイだったり、また、ジョンを追う人物の容貌がヘミングウェイだったりするのは、どういう意味があるのか?
 正直、よくわからない。最終的には、多分、ジョンが同一時空上には存在できないというルールすら超えた、時空のさすらい人となって、ヘミングウェイと一体化したのかなと思うのだが、果たしてそういう解釈で合っているのかどうか。ぼくの読み込みが足りないせいなのだろうが、なんだか、すっきりしない読後感になってしまった。

 ところで今、舛添都知事のことが随分と問題になっている。あまりにセコくて、全く呆れるしかないのだが、実はこの問題が出る前から、都知事に対しては相当の不信感を持っていた。というのは、昨年末に突然浮上した、都市計画道路3.4.1号線および3.4.11号線の事業化計画のせいである。これは、今から50年以上も前に計画された道路計画で、ずっと塩漬けにされていたもの。誰もがもうその必要性を感じておらず、なくなったものと思われていたその無謀とも言える道路を、なぜ今になって急に持ち出すのか。もしこの計画が実現されると、貴重な小金井のはけの風景が一変してしまう。今更そんなことを望んでいる人は、ほとんどいないはずなのに、都は全く聞く耳を持たないと言う。もちろん今も、「はけの自然と文化をまもる会」を中心に、計画の中止が叫ばれている。
 ぼくは、このはけの風景がとても気に入って、小金井に移ってきた。こんなに美しい場所は、東京でも珍しいと本気で思っている。武蔵野公園は、ぼくの最も好きな場所の一つである。だから、この降って湧いた計画には本当に憤りを感じる。こんな計画を実現してしまったら、小金井市にとっても大きな損失になるはずだ。この風景が好きだという人は、本当に多いのだ。様々な文学の舞台にもなっている場所だ。人口が減っている今、これ以上の道路なんてなぜ必要なのか。今回の計画道路のすぐ北には連雀通りがあり、すぐ南には東八道路が走っている。新しい道路の必要性が、さっぱりわからない。都は、災害時に必要だとか言っているようだが、馬鹿馬鹿しい。「災害時に備えて」といえば、どんな横暴な計画でも通していいというのか。そんなものを作るより、それこそ保育園を作れよ、という感じである。
 そこで今回の舛添氏の問題である。つい、いろいろと、勘ぐってしまう。都民の声にちゃんと耳を貸さないことも、会見で明らかになってしまった。都長には、もう少し都民の声に耳をちゃんと傾ける人になってもらいたいものだ。