漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

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『平成怪奇小説傑作集3』

2020年03月09日 | 読書録

『平成怪奇小説傑作集3』を読み始める。

京極夏彦『成人』
冒頭から「断っておくが、これから記す事柄は実話ではない」という挑戦的な文から始まるが、もちろんそれはレトリックであって、子供の作文などから組み上げられた、とある家の二階の部屋にいるであろう、ある存在を浮かび上がらせた小説。その存在は、最後まで明確な形は描かれないが、何ともいえない気味悪さが残る

高原英理『グレー・グレー』
これは『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』に収録されているのを読んだことがある。ウォーキング・デッドを描いたものだが、パニック小説というよりも、穏やかな終末を描いた作品。

大濱普美子『盂蘭盆会』
お盆という、死者たちが帰ってくるという特異日に、自分以外はだれもいなくなってしまった古い日本家屋の中で、かつての日々を回想するという物語。生者と死者の時間が一瞬重なりあう様子が悲しくも美しかった。

木内昇『こおろぎ橋』
時代物。病に伏せる母のために、長年勤めて、天職であるとも思っていた漆問屋を辞めて、介護に専念することに決めた男の物語。良い薬屋があるというので、訪れたその店で、さらに奥へゆくように促された男は、そこでひとりの女性に出会い、毎日薬をもらって帰るという日々を始めるのだが…という物語。明かされてしまうと、ああなるほどと思うが、語りが滑らかなので、最後までその可能性には思い至らなかった。

有栖川有栖『天神坂』
美食と幽霊の組み合わせという、ちょっと異色なゴースト・ハンターもの。木星あこ『美食亭グストーの特別料理』などもグルメ+怪異だったが、こちらはあくまで粋で上品なのが、むしろ異色なのか。

高橋克彦『さるの湯』
東日本大震災の年に発表された作品ということで、あまりにも多くの失われた命に対する愛惜が色濃い。いとうせいこう『想像ラジオ』なんかもそうだった。

恒川光太郎『風天孔参り』
山の中にふと現れる、風天孔と呼ばれる別の世界への「入り口」をめぐる物語。いくつか読んだことのある恒川さんの作品は、この作品も含めて、異界への入り口を描いたものが多く、独自の宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)の感覚を持っている印象。

小野不由美『雨の鈴』
これも単行本で読んだことがある。ゴーストハンターものだけれど、幽霊を退治するという感じではない。共存するという感じ。静的で、ジェントルなゴーストハンターもの。

藤野可織『アイデンティティ』
昔、雑誌『ムー』などで人魚や鬼のミイラを見たときの衝撃はすごかったが、あれが実は日本が海外に輸出していた一種の工芸品であると知ったときの驚きもすごかった。これはそのあたりのことをちょっとユーモラスに描いた短編。

小島水青『江の島心中』
しっとりとした怪談。美しい女性の幽霊とともに、築地から江ノ島へと電車で向かうという旅愁。この第三巻は特にこうした情緒のある怪談が多い気がするが、それがここ数年の傾向ということなのか。江ノ島は数えきれないくらい訪れている場所なので、楽しく読めた。

舞城王太郎『深夜百太郎(十四太郎、十六太郎、三十六太郎)』
百太郎といえばどうしても、つのだじろう『うしろの百太郎』を思い出すが、命名するにあたって、無関係のはずはないんだろうな。もともとはツイッター上で連載された作品らしく、百物語をSNS上で行うという趣向だったようだ。収録されているのは、広緒ダムという同じ場所を舞台にした作品三つ。怖いのだが、何とも理解できない上に、どこかユーモラスで、とても面白く、全部を読んでみたいと思った。

諏訪哲史『修那羅(しよなら)』
泉鏡花の文体を意識したらしい、旅芸人を主人公に、八百比丘尼を絡めつつ、同性愛を描いた、やや耽美的な夢幻譚。

宇佐美まこと『みどりの吐息』
山間の限界集に住む、落人に似て人にあらざる、滅び行く『山の民』を描いた作品。もっと怖くも書けるのだろうが、どちらかといえば哀しみの方に軸足がある。

黒史郎『海にまつわるもの』
これは実話なのか、それとも創作なのか?いずれにしても、ぼくはとても面白かった。事実だけを書き記したというような、簡潔な描写がとてもよく、想像力を掻き立てる。組み立て方もとてもいい。イメージが脳裏に張り付いて、離れないくらいだ。個人的には、この本のベスト。

澤村伊智『鬼のうみたりければ』
この巻の最後を飾るこの作品も、とても上手いと感じさせられる一作。以前に読んだ『ぼぎわんが、来る』の前半部とも共通するシチュエーションで、こうした、現代の日本ならではの歪みの部分が新たなるホラーを生み出すのだろうと強く感じさせられる。恐怖は、現実の歪みから生まれ出るものだと思うからだ。一時期隆盛を極めた海外のモダンホラーがほとんど紹介されなくなったのは、日本のホラー作家の躍進が(質的にも量的にも)著しいため、需要が足りているのが理由であると思っているが、それはやはり恐怖というものの多くが、自らが属している社会と密接に結びついているからで、本来なら自国のホラーの方が怖いに決まっている。そういった意味でも、この傑作集の末尾を飾るのに相応しい作品だと思う。

ちなみに、第三巻で特に好きなのは、

舞城王太郎『深夜百太郎(十四太郎、十六太郎、三十六太郎)』
黒史郎『海にまつわるもの』

で、次点が

大濱普美子『盂蘭盆会』
木内昇『こおろぎ橋』
澤村伊智『鬼のうみたりければ』

あたりでしょうか。

というわけで、以上で『平成怪奇小説傑作集』(東雅夫編 創元推理文庫)全三巻、読了です。
不思議なもので、やっぱり時間を旅したような気分になりました。一見普遍的とも思える「恐怖」でも、主にその扱い方において、やっぱり流行というものがあり、しかしそれとは別に、そうしたものとは関係のない、圧倒的な不気味さというものもあると、改めて感じました。好みもありますし、正直、この傑作集に収められた作品がオールタイム級の作品ばかりだとは思いませんが、単なるベストを集めた傑作集だけを読んでいたら分からない、この日本に生きてきた同時代の人間として、切々と肌に感じる「恐怖の流れ」を、三十年余という平成の時間とともに追体験できたような気がして、非常に得難い読書体験でした。
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古井由吉『杳子・妻隠』

2020年03月07日 | 読書録

古井由吉『杳子・妻隠』(新潮文庫)読了。
『杳子』は、強迫神経症めいた病を持つ杳子という大学生の少女と青年の物語。『妻隠』は不意に襲われた熱病によって仕事を休んでアパートで数日間伏せる男の物語。どちらの作品も、理解し得ない世界を見つめる主人公の、どこへも行き着かない思考の流れを追うような小説だった。
ぼくは一部の作家を除いてあまり日本文学を好んで読む方ではなく、特に「内向の世代」と呼ばれる作家についてはほとんど読んだことがない。したがって、古井さんの名前はもちろん知ってはいたが、読むのは多分、これが初めて。
感想としては、十代から二十代にかけての間に読んでいたら、もしかしたら強い印象を残した作品だったかもしれないというものだった。とても上手い作家だとは思ったけれど、この年になってしまうと、もうこうした作品に描かれている感情は過ぎ去ってしまったものだという感がどうしても強くなってしまう。『杳子』は、精神の病を書いているだけになおさら。見守るような気持ちになってしまう。だから、芥川賞をとった『杳子』より、『妻隠』の不穏な感じの方が、やや面白く読めた。
この本は、日本文学が好きな妻の本棚から借りた。読後、感想を言うと、多分初期のそれより後期の『野川』とかの方がぼくにはいいんじゃないかと返された。ただ、その本はうちにはない。そう云うことなら、機会があったら読んでみたいと思う。
コメント

シャルル・バルバラ『赤い橋の殺人』

2020年03月05日 | 読書録

シャルル・バルバラ『赤い橋の殺人』(亀谷乃風訳/光文社古典新訳文庫)読了。

 『蝶を飼う男』が非常に面白かったので、こちらの中編(とはいっても日本では十分に長編と言える長さだが)を読んでみた。
 主に語り手となるマックスはしがないバイオリン奏者。彼が同情と恋心を抱いているティエール夫人は、かつては裕福だった証券仲買人の妻だった。ところが、あるときその夫がセーヌ川から死体で引き上げられ、彼には財産というものがほとんどないことが分かり、残された夫人とその母は困窮の生活へと転落し、マックスの口利きで得意のピアノを演奏することでなんとかしのいでいた。
 そんなとき、マックスは旧友のクレマンに出会う。無神論者で貧窮にあえぐボエーム(放浪芸術家)だった彼は、いつの間にかマックスの知人でもあるロザリと結婚をし、安定した生活を送るようになっていた。しかしロザリは病に伏せがちで、その子供は里子に出されている。やがてクレマンは社交界でも名を知られる人物になってゆくが、それと比例するように、妻のロザリの容体は悪化してゆく。あるとき、その社交界でとある殺人事件の話題が出る。偶然がそうみせかけただけの、実際には存在しなかった殺人の話であるが、その話を聞いた途端、クレマン夫婦は不思議なほどの動揺を見せる……。

 序盤はなんだかよく分からず、これはあまりおもしろくないかもなと思いながら読み進めたのだが、物語は次第に緊迫し、文学性を持ち始め、最後にははっきりとしたゴシック性まで帯びて幻想文学の様相さえ持つようになる。
 追い詰められてゆくクレマンの独白を中心に、非常に面白かったが、この作品は解説を読むとさらに面白みが増す。解説の中で、バルバラ再発見の立役者となった訳者さんは、この作品の中にある当時まだ存在しなかった様々な小道具を作中に登場させていることをあげて、この作品の隠れたSF性を指摘し、さらにはエミール・ガボリオー『ルルージュ事件』に先行する、フランス探偵小説の先駆けであるとしている。バルバラはボードレールの友人であり、ポーを彼に紹介したのが実はバルバラであったという説まであるらしいので、つまりSFとミステリーの共通の祖としてよく名前を挙げられるポーの正統な後継者であると言えるのかもしれない。
 そればかりではなく、真偽はわからないが、この作品がドフトエフスキー『罪と罰』に与えた影響の可能性まで指摘している。ぼくは『罪と罰』は読んでないので、このあたりはよく分からないけれども。
 子供のくだりなんかは、非常にゾッとするものがあった。
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アンナ・カヴァン『草地は緑に輝いて』

2020年02月09日 | 読書録

アンナ・カヴァン『草地は緑に輝いて』(安野玲訳/文遊社)読了。

『草地は緑に輝いて』
 表題作。旅先で、色を失ったような風景ばかりを目にしていた語り手の目に、まばゆくエメラルドのように輝く草地の丘の斜面が目に飛び込んでくる。よく目を凝らすと、その斜面には黒い滲みのようなものがいくつも見える。それは…という物語。鮮やかな差し色も相まって、その深淵までも描き出したシュールな絵画を見ているかのような、強烈なインパクトを残す一篇。

『受胎告知』
 おそらくは治安もよくないであろう植民地に住む、裕福な白人の幼い娘が初潮を迎える物語。何が起きたかわからず不安に苛まれる中、その日を堺に、周囲に対する見方を変えるように強いられる少女を通して、彼女を取り巻く環境の不穏な空気を描き出している。

『幸福という名前』
 裕福な家庭に生まれたが、幼い頃に父親にスポイルされてしまい、自分の人生を失ったまま零落し、安ホテルの一室で老境を迎えている女性の物語。重い。

『ホットスポット』
 ある港の手前に停泊した船の上で交わされる会話のワンシーン。船から海を見ているうちに、ここから身投げをしたらどうなるだろうと思った女性が、パーサーに、船から身投げをした人を見たことがあるかと尋ねる。彼はあると答え、少し不思議な話を聞かせてくれる。

『氷の嵐』
 ニューヨークでの生活に見切りをつけるつもりで、列車でコネチカットへと向かうが、雪と氷に覆われた町を歩きながら、その氷に惹かれつつも怯え、再びニューヨークへと戻る決意をするという物語。惹かれつつ、というところが興味深い。間に新聞の見出しが挟み込まれるのが不思議な効果。解説にもあったけれど、長編『氷』へと繋がる掌篇なのかもしれない。

『小ネズミ、靴』
 孤児院で育った少女が、10歳のとき引き取り手が現れて、自分とさほど変わらない年頃の少年の下女として売られてゆく、その瞬間を描いた掌編。短い中に、少女の期待や不安、この先の生活についてが描き出されている。

『或る終わり』
 命が尽きようとしているオットセイの視点と、そのオットセイを発見するカップルの男女の視点が交互に語られる。解説によると、ヘミングウェイの同題の短編を意識しているのではないかということ。なるほど、簡潔な台詞といい、そうかもしれない。

『鳥たちは踊る』
 自然を満喫したいと思い訪れた町だったが、その願いは叶えられず、泊まっている宿の支配人も町の外の自然あふれる場所へ行きたいという彼女の願いには奇妙なほど冷淡だった。もう帰ろうと決め、最後にその町の外れの湖へとゆく。そこで彼女が目にしたものは…。
静寂に包まれた前半部から狂騒の後半部への移行が、まるで不意に現れた幻覚のようで、強烈なインパクトを残すが、謎は一切解明されない。まるでいつか見た夢を描いたスケッチのような、静けさと幻想と残酷さの共存する、鮮烈な短編。

『クリスマスの願いごと』
 南洋の心地よい情景から物語は始まる。しかしいささか書割りめいたその穏やかさは急速に遠ざかってゆき、クリスマスにたったひとりで寒い部屋の中にいるという現実が現れて…という物語。対比の中から、なんとも寂しい、おそらくは多くの人が感じたことのあるであろう、孤独の姿が浮かんでくる。それにしても、世界中を旅し、ミャンマーでは結婚生活も送っていたカヴァンにとって、南国とはどういうものであったのだろう、と思う。カヴァンと南国というのは、結構興味深いテーマの気がする。

『睡眠術師訪問記』
 ちょっとした風刺SF風の掌編。自分の人生が自分のものではなくなる、ということを描いているのだが、しかし一体何を風刺しているのか。愛のようなものだろうか。あるいはもしかしたら、後に彼女を死へと導くこととなった、ヘロインなのかもしれない。

『寂しい不浄の島』
 解説によると、おそらくはバリ島を舞台にした、スケッチ風の掌編。人物も含めた光景の描写が主で、さほどストーリーらしいものはない。しかし、バリにはもう30年も前になるけれど、一度行ったことがあるので、懐かしく読めた。

『万聖節』
 これはちょっとわかりにくいんだけど、解説によると散文詩的な小品ということで、確かにそうなんだろうと思った。印象に残るのは最初は青、それから白だのすみれ色だのといった、様々な色彩が次々に用意されて、そのカラフルな色彩の中をドブネズミが貫いているという構図。もうちょっと読みこめば、もっと上手く表現できるかもしれないけれど、今はそんな程度しかわからない。

『未来は輝く』
 両親を亡くした少年は、〈高楼都市〉と呼ばれる都市で「常任主席サイバネティックス顧問」という重要な役職についているという伯父を頼って船旅をする。しかし、到着するやいなや、まるで汚いもののような不当な扱いを受けるものの、伯父の役職を出した途端、扱いは一変する。どうやらその都市には、想像を絶するような格差が存在するらしい。裕福な上流階級の人々が住む〈ハイシティ〉と、貧しい下級階級の人々の住む〈レーンズ〉。彼は伯父に連れられて〈ハイシティ〉でのなんの不自由もない生活に入ってゆくが…というディストピアSF風の中編で、この本の約1/3を占めている。ただしSF風なのはその外見だけで、限りなく不条理な物語が展開される。カヴァンの小説は大抵そうだが、この世界の成り立ちについての説明は一切されないし、物語は限りなく絶望に近いところで途切れるように幕が下ろされる。どう考えたって楽しくない、暗闇でさえない白い白痴的な暗闇をまっすぐに見つめ、そこに説明もできないような奇妙な安らぎを見いだせる人だけがカヴァンを読む資格がある。そんな風に改めて感じさせられた気がした。

 というわけで、全13篇。シュールで、少し白の混じった、それでも多彩な色彩を感じることのできる作品集。
 特に好きだったのは、表題作の『草地は緑に輝いて』と『鳥たちは踊る』の二篇。
コメント

『平成怪奇小説傑作集2』

2020年02月02日 | 読書録

『平成怪奇小説傑作集2』(東雅夫編/創元推理文庫)読了。

小川洋子『匂いの収集』はよく出来た短編。阿刀田高の小説を村上春樹風に書いた感じ、というか。

飯田茂美『一文物語集』はすごい。一冊だと濃厚過ぎるかもだが、アンソロジーにこうしてそっと入ってると、ピリリと効いていて、忘れがたくなりそう。

鈴木光司『空に浮かぶ棺』はヒット作『リング』シリーズのスピンオフ短編。これ一作でどれだけ面白いのか、ちょっとよくわからないところもあるけれど、平成のホラーを語る上で『リング』は欠かせないので、一種のマイルストーン的な意味もありそう。

牧野修『グノーシス心中』は、美少年+耽美+スプラッターというか。とても牧野修さんらしい作品。東京グランギニョルとか丸尾末広とか、ああいう流れのものが好きな人には多分たまらないと思う一篇。

津原泰水『水牛群』は連作長編『蘆屋家の崩壊』より。これは昔読んだことがあるので、さらりと読んだ。連作長編という言い方はおかしいかな。細かいところは忘れてしまったけど、バディものとしてかなり面白かった記憶があったが、今回もとても楽しく読めた。このシリーズはあと二冊ほど出ているようだが、そちらは未読。

福澤徹三『厠牡丹』は、牡丹の花に導かれて開かれる暗い記憶の物語の中で、客体と主体が転換する語りに時間や空間が溶けてしまう小説だった。

川上弘美『海馬』。これはずっと昔読んだことがあるが、例によって忘れてた。一種の人魚譚。なぜタイトルが海馬というのか、一瞬脳の海馬との関連も考えたが、よくわからず、単に海馬がトドやジュゴンやタツノオトシゴといった生物を指すせいなのかもしれない。此岸と彼岸が融け合うような川上さんの小説は昔からかなり好き。

岩井志麻子『乞食柱』は、土着的な蛇への信仰と性をからめた物語。ほとんど自分では動くこともできない巫女となった女性の視点から描かれていて、息詰まるような気配が満ちていた。

恩田陸『蛇と虹』は、ちょっと「胎児の夢」のような感じだった。

朱川湊人『トカビの夜』。トカビとは朝鮮で幽霊を指すらしい。ぼくも関西なので、良くも悪くも、この小説の中の空気感はとてもよくわかって、怖いというより少し懐かしかった。物語自体も、ジェントルなゴースト・ストーリー。それにしても、パルナスのCMソングなんてもう…。

浅田次郎『お狐様の話』は狐憑きの少女の話。手慣れた感じの短編らしい短編。破綻のないのが破綻と言いたいくらい。

森見登美彦『水神』は琵琶湖近くを舞台にした、これも一種の人魚もの。美しい文章でしっかり紡がれつつも、破綻のさらに先に向かう。これはすごく好きで、今のところやや特殊な飯田茂美さんを除けば、ベスト。ぼくは怪奇幻想のうちあまり怪奇の方には重心を置いてなくて、小説としての美しさや得体の知れなさの方に嗜好があるので、こういう幻想小説は理想的なもののひとつ。

光原百合『帰去来の井戸』。尾道あたりが舞台かと思ったが、やはりそうみたい。ひとつ前の『水神』にもちょっと通じるところがある内容を扱っているが、こちらはもっとジェントルで分かり易いゴースト・ストーリー。

綾辻行人『六山の夜』。「五山送り火」を題材とした短編(ぼくには「大文字焼き」という呼び方の方が馴染みがあるが)。しかし、どうやらこの短編の中で行われているの送り火はこの世界のものではないようで、そのズレの部分が奇妙な不安を募らせてゆくが、ぼくにはこの作品の上手い解釈ができない。どうやら連作の一篇らしいので、一冊を読めばもう少しわかるかもしれない。綾辻さんは、欅坂46ファンということで勝手に親近感を持っているので、今度読んでみよう。
ここからの三作は『てのひら怪談』より採ったということで、見開き一ページの作品。でもちょっと感想は保留。

山白朝子『鳥とファフロッキーズ現象について』
これはちょっと面白いなと思った。ストーリーそのものは別に目新しいものではないのだけれど(むしろベタなくらいだけど)、そこに異形の「鳥」が当たり前のように介在することで、不思議な味わいになっている。こういった感覚は、どちらかといえば少数に支持されるマンガによくあるものだろうが、なるほど怪談の世界も日常と異形のものがシームレスに同居するようになってきているのかとふと思った。

というわけで、個人的なこの本のベストは
『一文物語集』
『水神』
『鳥とファフロッキーズ現象について』
でした。
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『平成怪奇小説傑作集1』

2020年02月01日 | 読書録

『平成怪奇小説傑作集1』(東雅夫編/創元推理文庫)読了。

吉本ばなな『ある体験』は出た当時に読んだことがあった。すっかり忘れていると思ったけど、文章の所々に覚えがあり、若い頃の記憶力ってすごいものだ、取り戻したいなあと変な感想を…。

菊地秀行『墓碑銘〈新宿〉』は極端に影の薄い人の物語。読みながら、ぼくもどっちかと言えば飲食店で注文を忘れられるタイプなんだよなあ、と思った。タイトルを見ると、魔界都市〈新宿〉のスピンオフかと思ってしまうけど、関係なかった(多分)。

赤江瀑『光堂』
新宿のミニシアターの前を通りがかった主人公が、行列に何かと思い足をとめて訊ねると、カルト化した映画が数十年ぶりに公開されるのだという。しかしその映画は、自分がかつて関わったことのある映画であった…という物語。怪奇小説というよりは青春の光と影を描いた物語という方がしっくりくるかも。
ところで、第二巻を読んでいる時も思ったのだが、この傑作集、編年体の形式をとってはいるのだけれど、それと同時に、前後の物語にとても緩いつながりのようなものがあるような気がする。説明も難しいような、とても緩くささやかなつながりなので、もしかしたらぼくに「ないものが見えている」だけなのかもしれないけれども。

日影丈吉『角の家』
この小説は面白い。読みながらも、ぼくはいったいこれが怪談なのかユーモア小説なのか、考えあぐねながら読み進めることになった。物語の先が見えず、そして最後にはちょっと唖然とするような結末を迎える。傑作というより、変な小説としか言いようがない。

吉田知子『お供え』
ある時から、家の角のところに、空き缶にさした花が置かれるようになった…という導入から始まる、なんとも薄気味悪く怖い小説。この本で、ここまで読んできた中では一番怖い。というか、この小説はかなり怖い。シャーリー・ジャクスン『くじ』をちょっと思い出した。

小池真理子『命日』
これも家の物語。幼くして死んだ少女の霊に取り憑かれるという話だけれど、筆致がスティーヴン・キング的というか、まさにモダン・ホラーといった感じ。『リング』とかともちょっと近い。嫌な話だったなあ。だけど、個人的にこの小説でいちばん怖いと思ったのは、その家の間取りの記述だったかもしれない。すごく嫌な間取り。なんだかゾッとした。

坂東眞砂子『正月女』
病のせいで余命がどれほどなのかも分からない女性の物語だが、伏線が分かりやすいので、結末はだいたい想像がついたけれど、登場する女性たちのエゴがからみ合って、まあ、嫌な話だった。

霧島ケイ『家――魔象』
通称『三角屋敷』と呼ばれる、実話系怪談の中では最も有名な話の、おそらく最初に発表された形での作品(『幻想文学48号/1996年』)。それだけに比較的シンプル。語り手である著者が実際に住んだことのある、Y字路に建つ三角形の形をした三階建てのマンションの怪異について記録したもの。非常に不穏な空気に満ちている。これも家についての怪異だが、決定的に違うのは、最初から悪意のもとに、わざと怪異を呼びこむように計算されて建てられた物件であるという点(この建物は現存しているらしい)。ちなみに、この作品の中で著者が相談を持ちかけた友人というのが、この本にも収録されている作家加門七海氏で、この話がネットなどで騒がれるようになったのは氏の著書『怪談徒然草』で紹介されたのがきっかけだとか。
怪談実話というのは昔からあるし、例えばぼくが昔に親しんでいたのはテレビ『あなたの知らない世界』だったり、雑誌『ムー』の『わたしのミステリー体験』のコーナーだったりするけれども、実際に単純に怖いというなら、実話(実際にそうなのかは別として)がいちばん怖いとはぼくは昔から思っていた。特に、「亡くなった祖母の霊が」とかいった因果がはっきりしたものではない、わけのわからない現象についての話は、「もしかしたら他人事ではないかもしれない」と肌で感じる分、怖い(記憶にあるものでいえば、例えば「夜中に目が覚めて階下のトイレに行こうとしたら、廊下の突き当りに置いてある使っていない古いミシンを目のない女性が一心に踏んでいた」とか)。ただし、そういった「実話」は、どこまでも自由な「怪奇小説」とは決定的に違っているとも思っていた。ところが、本職の作家がそうした物語を書くことが昔からままあって、そうしたものはやはりさすがに怖いし、「実話」と「怪奇小説」の間にあるものだという風に思う。この作品などは、さらにネットロア的なものまで付加していった、興味深いサンプルなのかもしれない。

篠田節子『静かな黄昏の国』
近未来。世界の経済的発展から取り残された日本では、普通の人々は高価過ぎて、生鮮食品を食べることさえできなくなっている。高齢化が進み、開発も行き着くところまで行って、広大な自然などほとんど存在しなくなっている。ある夫婦が人生の最後を過ごすために、自然に囲まれた「リゾートピア・ムツ」と呼ばれる終身介護施設に入居することに決める。あらゆるものが揃っている上に、ただし、その場所は教えられないという。一見理想的な場所に思えたが、妻はふと既視感を感じ、やがてその場所の秘密に気づく…
東日本大震災以前に書かれたこの作品は、ホラーというよりもディストピアものの近未来SFといった方が良さそうだが、いまここにあえてこの作品を収録した意図は…といろいろ考えさせられる中篇。

夢枕獏『抱きあい心中』
釣りを趣味にしている語り手は、電車の中で一人の男と出会う。彼はそのあたりの川に詳しく、とっておきの穴場ポイントを教えてくれ、さらに自作の針もプレゼントしてくれる。そこで、地元の釣具店の人にその場所を尋ね(なぜその場所を知ってる、と怪訝な顔はされるが)、その淵へと向かう…
比較的オーソドックスな因縁ものだが、夢枕さんの山や川といった自然を描く筆致はいつも鮮やかで、すっと目に浮かんでくる。

加門七海『すみだ川』
この作品は、川から立ち上る幻燈のようで、わかるようなわからないような感じだった。

宮部みゆき『布団部屋』
江戸時代の、ある商家の秘密と姉妹の強い絆を描いた作品。上手くまとまった、怪談という言葉がしっくりくる一篇。

というわけで、この本でぼくがベストだと思ったのは、ダントツで
吉田知子『お供え』
でした。次点で
日影丈吉『角の家』
霧島ケイ『家――魔象』
あたりかな。
コメント

ミゲル・デ・セルバンテス『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難(上・下)』

2020年01月24日 | 読書録

ミゲル・デ・セルバンテス『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難(上・下)』(荻内勝之訳/世界幻想文学大系/国書刊行会)読了。

 超絶美男子のペリアンドロとその妹(ということになっている)の超絶美女アウリステラが、その美貌ゆえ(どのくらい美貌かといえば、兄は女装させると類まれなる美女に変身し、妹はあらゆる男性から求婚されるほど)、様々なちょっかいを出されながらも、「ローマ巡礼の途中ですので」の一言でその求愛を退け続け、貞淑を守り通し、様々な人々の奇妙な人生に耳を傾けたり、数奇過ぎる運命に弄ばれ続けたりしながら、念願のローマ巡礼を果たし、最後にはすべての謎が明かされるという物語。
 ともかく物語の展開が早く、登場人物たちは揃って饒舌で、我先に自分の話を語り、そしてよく動く。そのあまりの波乱万丈さには、読む方がだんだんその展開のでたらめさに麻痺してくるほど。ご都合主義的な展開や邂逅も多く、正直、だんだん何が何だか、誰が誰だか、わからなくなってしまう部分もあった。
セルバンテスの遺作ということで、推敲もされておらず、著者にしてみれば不本意なところもあるかもしれないが、天性のストーリーテラーであるということは十二分に伝わってくる。代表作である『ドン・キホーテ』がまだ未読なので、近いうちに必ず読みたいと思う。
コメント

シャルル・バルバラ『蝶を飼う男』

2020年01月22日 | 読書録

シャルル・バルバラ『蝶を飼う男』(亀谷乃里訳/国書刊行会)読了。
リラダンが『未来のイヴ』を書くより20年も前にこんな作品が書かれていたということに本当に驚いた。もちろんヴェルヌやロニー兄よりもずっと早い。間違いなく最初期に書かれたSFと断言できる作品のひとつだろう。他でもない、この本の収録作『ウィティントン少佐』のことである。以下は簡単なあらすじ。
パリ郊外に3ヘクタールほどの、周囲を高い外壁に囲まれた秘密めいた地所がある。ある時期からその中から様々な騒音が聞こえるようになり、近所の住民たちの苦情に、交渉のため三人の役人がその敷地にある屋敷を訪れる。彼らはすんなりと中へと招き入れられるが、出迎えた召使はなんと歩くのではなくレールの上を滑ってくる。やがて案内された部屋は、ただ広いだけで、赤い服を来た屋敷の主とその椅子を除いて何もない部屋だった。だが主は、手元のボタン等を操作することで、部屋に仕掛けられた様々な驚異を見せてくれるのだった…
この小説でバルバラは、様々なSF的アイデアを次々と展開してみせる。もちろんロボットも出てくるのだが(さすがにアンドロイドとは呼ばれない)、『未来のイヴ』のハドリーほど完璧ではなく、外見は人間そっくりだが、自立した行動はとれず、言葉もたどたどしい。ただ、この小説の主人公がイカれてると思うのは、自分の妻のみならず子供や娘、その婚約者や家庭教師などといった存在まで作り上げていることである。ある意味でリラダンよりも狂ってる。その他にも驚くようなアイデアがいくつもあって、ひとつひとつはとても紹介しきれない。そこまで紹介してすっかりネタバレじゃないかと思われるかもしれないが、いや待って欲しい、最後にとびきりの驚きが待っている。今では新しくもなく普通に受け入れられるだろうアイデアだろうが、もしかしたらこれを小説に使ったのは、この作品が初めてではないだろうか?
他に収録されている作品もどれもが非常に素晴らしく、紹介したいが、文字数を費やしすぎた。ともあれバラエティにも文学性にも奇想性にも富んでおり、こんな本が150年近くも埋もれていたなんて信じられないくらいである。
そうなのだ、訳者によると、この邦訳の原書である『僕の小さなお家たち』は、フランスの国立図書館にも収蔵されておらず、古書店にさえ見つけられないという状態で、研究者にとってさえも長らく幻の本だったらしい。それを、機構本を多数所持しているというある先生のお宅におじゃまして、とてもコピーなんてとれる状態ではない当書の全ページをカメラで撮影するという方法で入手し、訳したものがこの本だという(ただし、同書に収録されていた中編は未収録)。それだけに思い入れも非常に強いようで、300ページ足らずのこの本のなんと80ページほどが、非常に詳細な訳注と解説に費やされている。
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ハイリンヒ・フォン・クライスト『チリの地震』

2020年01月18日 | 読書録

ハイリンヒ・フォン・クライスト『チリの地震』(種村季弘訳/河出文庫)読了。

 解説で「古典主義とドイツ・ロマン派の間にあって、そのどちらにも属さなかった孤高の詩人・劇作家」と紹介されている。確かに印象としては、ウェットさがほとんどない、突き放した硬質な文体で書かれたゴシックといった感じも受けたし、その結果、物語がほとんど神話性さえ帯びて迫ってくるようにも感じられた。

 表題作の『チリの地震』は、舞台がチリだからというだけではないと思われるほど、まるでラテンアメリカの文学を読んでいるようだった。主人公たちのダイナミックな運命に呼応するかのように、時を同じくして起きた地震がリズムを作り、壮絶なカタストロフへと雪崩れ込む。

 『聖ドミンゴ島の結婚』は奴隷の黒人たちの反乱を描いたクレオール文学。非常に冷徹な筆致で、運命的な悲劇を描いている。

 『ロカルノの女乞食』は、様々なアンソロジーに収録されている小品。ゴシックの一挿話としての怪談のよう。

 『拾い子』はまたどこまでも救いのない物語で、よくもまあこんな嫌な物語を淡々と書くものだという気分にさせられる。『嵐が丘』などもちょっと思い出した。

 『聖ツェツィーリエあるいは音楽の魔力』は、ひとつのキリスト教の奇跡譚。ここまでの惨憺たる物語群の後ではややほっとするが、単純に「神様ぱねぇな」とも思った。

 『決闘』はまさにゴシックそのものといった感じの愛と身分と財産の争いを描いた短編だが、見事な物語の展開に加えて公平さもあり、古典的なゴシックの短編としてはかなり佳品なのではないかと思う。
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フィリップ・K・ディック『ヴァリス』

2020年01月16日 | 読書録

フィリップ・K・ディック『ヴァリス』(山形浩生訳/ハヤカワ文庫SF)読了。

 かつて80年代にディックがブームになった時、この『ヴァリス』に始まる三部作は特別な意味を込めて語られていたように思う。ほとんど、ディックという作家を神格化してしまいかねないような勢いで。実際、サンリオから出ていた大瀧啓裕訳は非常に難解な印象だった上に、これでもかというくらいの注釈が巻末につけられており、しかもカバーにはシュルレアリストの藤野一友氏の絵が使われていて、「これはちょっと違うぞ」という匂いがプンプンと漂っていた。ぼくは読もうとは思ったものの、どうしても読めなかった。で、敗けた気分で今までいたわけである。
 ところが、ここに来て山形浩生氏による新訳が出た。
 『ヴァリス』はディックの作品の中でも特別な位置を占めており、難解な問題作であるというのが、長らくなんとなく皆の了解の中にあったように思うけれど、この新訳版を読めば、ディックはやはりディックなのだということがよく分かるのではないかと思った。この作品を難解であるとさせてきた主な原因であろう、作中で展開される神学談義は、言いたいことがわからない訳ではないが、はっきりいってきちんと理解できる方がどうかしてる。ディック本人も、それがイカれていることが自分でよくわかっているから、作中で人格を二つに分けて、醒めてそれを見ている自分を登場させているのだろうし。ファットの語る神学は理論的なものではなく、耐えられない哀しみに直面した人間が、その哀しみを受け止めるためにつくり上げた、自らを慰めるための神学にすぎず、初めから他人に理解されるとは考えていないに違いない。
 この作品から浮かび上がってくるのは、難解なディック神学ではなく、不器用な優しさゆえに身を引き裂かれる思いにのたうちまわり、挙句に周りまでがっつり巻き込んで、涙にまみれたディックの痛々しい姿である。人が最後の救いをオカルトに求めようとするその姿を、混乱に呑まれて泣き崩れながらも、それでも真摯にみつめて、ある程度は醒めた知性を通して自嘲的に、絞りだすようにして描き出した偉大なる失敗作がこの『ヴァリス』なのではないか。そういった意味で、やはりディックの遺した傑作のひとつであることに間違いはないと思う。
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アーダルベルト・シュティフター『森の小道・二人の姉妹』

2020年01月14日 | 読書録

アーダルベルト・シュティフター『森の小道・二人の姉妹』(山崎章甫訳/岩波文庫)読了。

 『森の小道』は、スポイルされて育った裕福な青年が、その導き手を相次いで亡くした後、物を買うことで満たされようとするが、次第にひきこもりとも言える状態になり、精神にも危うさを感じるようになる。その頃たまたま知りあった変わり者の医者から勧められて、湯治へと行くことにするが…という物語。
 『二人の姉妹』は、ウィーン偶然知り合ったパガニーニに似た老人と交流を深めた主人公が、数年後イタリアのガルダ湖近くの山岳部に住む老人を訪問し、彼とその妻、そして二人の娘と出会い、そこで満ち足りた時間を過ごすというもの。(こちらは、翻訳がやや直訳調で、少し読みにくかった)
 どちらの物語にも共通するのは、都会でやや疲れた主人公が、豊かな自然の中で本来の自分を取り戻し、美しい女性の愛を得るという、かなりベタなモチーフだ。
 オーストリアの作家であり、風景画家としても多くの作品を残すシュティフターの小説は、素朴とさえ言えるストーリーと美しい山河や森の風景描写が特徴で、好き嫌いが別れるというよりも、そもそも飽きずに読めるかが試される作家であると言う方が正しいような気がする。しかし、ぼくがそうであるように、「チャンネルが合う」人の口からは、「なんかいいんだよね」という、極めて素朴な感想が漏れるのではないかという気がする。実際、彼の長編『晩夏』を、ヘッベルが「通読した者にはポーランドの王冠を進呈する」と言い、ニーチェは「繰り返し読まれるに値する作品」であると評したのは有名な話。
 ジャン・パウルに影響を受けたというシュティフターは、ドイツ・ロマン派とは別の方向に分岐した、孤高(あるいは孤島)のロマン派であると思う。怪奇幻想には彩られてはいないけれど、そこにはまた別の、さまざまな光に満ちた崇高さへの感覚と陶酔がある。
 シュティフターほど速読に向かない作家はあまりいないのではないかと思う。それでは全く良さが伝わらない。さらに、物語の新奇さを求める人には、全く向いていない。この本に収められた二つの中編のどちらにも、悪人はほぼ出てこないどころか、こんな人がいるのかというほど徳の高い人ばかりが出てくるし、物語の背後には悲劇が見え隠れするものの、それがテーマになることはない。シュティフターの描く小説世界は、一種のピクチャレスクであり、読者はその物語風景の中に、旅をするように、歩みを遅くして、語り手とともに彷徨わなければならない。シュティフターを読むというのは、美しい自然風景の中に旅をすることであり、日常と重なりあった非日常(あるいは非現実)を体験するということだと思う。
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吉屋信子『屋根裏の二處女』

2020年01月13日 | 読書録

吉屋信子『屋根裏の二處女』(国書刊行会)読了。

 自伝的要素の色濃い初期の長編小説ということと、レズビアニズムを前面に押し出しているということで、作品の完成度とは別に注目されている作品ですが、色々凄かったです。
 まずは文体。熱に浮かされたような、どこか要領を得ない饒舌な文体には、時々辟易させられます。さらに物語としの完成度も決して高くはありません。にも拘わらず、これは書かれるべくして書かれた小説なのだという気が、読み終わった今でもしますし、主人公の章子の、暴走するその思いと濃厚な情熱には、読み手までも振り回してしまうような力がありました。読後、彼女たちの過ごした屋根裏部屋の密やかで幸福な光が心に残ります。
 また、この小説は百合小説の嚆矢であると同時に、はっきりとフェミニズム小説でもあります。それは作中に出てくる傍若無人な兵士たちに対する違和感や、寄席での男たちとの遣り取り辺りにしっかりと表れていますし、登場人物の少女たちが、それぞれ個人として、はっきりと自分の考えを表明する辺りにも表れています。そしてラストも暗示的です。当時には、かなり先鋭的な小説だったに違いないでしょうね。
 そういえば今年の春だったか、鎌倉の旧吉屋信子邸に立ち寄ったことがありますが、平屋の、解放感のある家でした。写真はそこで撮影した、吉屋さんの仕事机(撮影が下手くそで、やや斜めってますが)。シンプルな部屋で、前に庭が眺められるようになっていました。寝室は、執筆が夜中心ということで、昼間でも眠りやすいように、照明が設置されていないということでした。
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メアリ・シェリー『最後のひとり』

2020年01月03日 | 読書録

メアリ・シェリー『最後のひとり』(森道子ほか訳/英宝社刊)読了。

 何とも救いのない、終末の物語。色々と欠点はあるだろうが、それでもこの時代にこれだけの長さの、ひたすら暗い人類の未来の物語を描き切ったというのはやはり特筆ものだろうと思う。タイトルでネタバレしてるから言うけど、見事に誰も生き残らなかったからね。
 前半はゴシック・ロマンス風で、そういうことなのかなと思っていると、いきなり飛行船らしきものが出てきたりで、不意をつかれる。やがて読み進めているうちに、なんとこの物語ははるか未来の物語として設定されていることが判明する。やがて物語は急転直下、疫病に冒されてなすすべもない人類の物語へと滑りこんでゆく。
 やや構成上で分かりにくいところがあるのは欠点かもしれない。冒頭の序の部分とそのあとの本文の時間的な関係などは最たるもので、これはおそらく、本文の方を予言的なものとして読むべきなのだろうかと思うのだが、あるいは別の読み方を許容する可能性も含んでいる。つまり、冒頭の部分は、一度滅んだあとに再び復活した人類の歴史という時間軸にあるという可能性である。
 SF史ではさほど大きく扱われることもない本ではあるけれど、しかし読んだ感想としては、ここにすでに、SFの破滅テーマの雛形が完全に完成されているように思った。ややロマン的な彩りに染められているという点まで含めて。
 解説によると、当時にはクーザン・ド・グランヴィル『最後の人』(1805)に代表される「この世の終わり」「最後に一人生き残る人間」のテーマが人気を博したことがあったということで、この小説もその流れの中に位置するようだ。ただし、これだけのボリュームは珍しかったのではないか。
 そのブームの中で、バイロン卿も『闇』と題する詩が最も人口に膾炙されたしく、印象としては、メアリはこの詩から多くのイマジネーションを得ているように感じた。『フランケンシュタイン』と同じく、メアリの名前は、良くも悪くもバイロンと夫のパーシーの名前抜きでは語れないのかもしれない。
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グスタフ・マイリンク『ゴーレム』

2019年12月19日 | 読書録

グスタフ・マイリンク『ゴーレム』(今村孝訳/河出書房新社刊)読了。

 読み始めた最初の時に、何となく受ける印象として『ドグラ・マグラ』が思い浮かんだのだけれど、読み進めるうちに、やっぱりちょっと似てるんじゃないかと思うようになった。カフカと比較されることが多いようだけど、時間が円環を描いていると思われるシーンがあったり、夢と現実が融け合ってそのどちらとも判断のつかないシーンがあったりして、ぼくの印象としてはむしろ『ドグラ・マグラ』的な、一筋縄ではゆかないミステリーだという気がした。
 ともかく掴みどころのないエピソードが積み重ねられた小説だが、古道具屋のヴァッサートゥルムの財産と犯罪をめぐる物語というおおまかなストーリーはある。ただ物語が語り手の記憶喪失者のペルナートの目を通じて進むため、極めて足場が不安定で、常に物語が揺らぐ。それで読者もペルナートとともに、物語そのものに不安を感じながら読み進めることを強いられる。この物語の筋を整理して理解するためにもっとも重視するべきものは、物語の最初に自分が何者かもわからないままに目覚めるペルナートと、物語の最後に立派な邸宅に住んでいるペルナートが出会うシーンである。まるでドッペルゲンガーの物語のようなシーンだが、ここから何を読み取るか。さらにもうひとつ。物語の終わりの酒場で、ペルナートがラポンダーやカルーゼクと同一視されたシーン。これも、さりげなく重要なのではないかと思う。
 ぼくは、これはオリジナルのペルナートが複数のゴーレムを駆使して財産を手に入れた物語なのではないかと思ったのだが、果たして。もちろん、途中で何度も道に迷いそうになったので、勘違いしている可能性は大いにある。
 この小説の解釈は、いくつも存在していて不思議ではないと思う。再読すれば、また違った解釈も生まれるのかもしれない。本当なら、すぐに再読すべきなのだろうけれど、今はちょっとしんどい。いずれまた、今回の印象を胸に、再読したい。
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トニ・モリスン『ビラヴド』

2019年08月31日 | 読書録

トニ・モリスン『ビラヴド』(吉田迪子訳/ハヤカワepi文庫)読了。

 「124番地は悪意に満ちていた」という文から始まる、哀しみの過去と再生の物語。奴隷制度のもとで実際に起きた悲劇を下敷きにしつつも、決してそれだけではない、さまざまなものを読み取ることができる厚みを持った小説だった。

 以下、ネタバレ有りの簡単なあらすじ。
 124番地というのは、かつて奴隷であり、追い詰められた末に、心中を図って幼いわが娘を殺害したという悲劇の過去のあるセサが、残ったもうひとりの娘デンヴァーとともに住む家の住所。彼女たちの住む家には、セサが殺した名もない娘の霊が取り憑いていて、彼女たちを苦しめ、外からやってきた者たちを排斥しようともする。しかし彼女たちは決してその家を離れようとしない。あるとき、かつてセサがいたスウィートホーム農園の仲間であったポールDが、長い流浪の果てにやってくる。彼は自分を排斥しようとする霊を力でねじ伏せ、追い出してしまう。そして、幸せな日々がやってくるかと思ったのも束の間、ある日、ビラヴド(beloved)と名乗る、謎めいた少女が現れる。セサもデンヴァーも、抗いがたい衝動のもと、彼女の関心を買おうとするようになるが、ビラヴドがかつてセサが殺した自分の娘であり、デンヴァーにとっては姉でもある存在であって、それがふたたびこの世に戻ってきたのだという確信を得てからは、次第に最悪の形の共依存の様相を帯びるようになってゆく。さらには、セサの過去の隠されたエピソードを知らされたポールDは、自ら124番地を去ってしまう。そうした閉塞した関係の中からただひとり抜けだそうとしたデンヴァーは、近所に働き口を求めようとする。それを契機に、近所の人々が124番地を訪れるが、彼女たちがそこに見たのは、ビラウドではなく、自らの過去の幻であった。そうして訪れた人々に対して、セサは、アイスピックを持って襲いかかろうとする。
 セサの行動は、拍子抜けするほど、あっけなく未遂に終わる。しかしそれが、この物語のひとつのカタストロフである。ビラヴドは姿を消し、124番地には、セサと、デンヴァーだけが残される。そこに、一度は去ったポールDが帰ってくる。

 物語そのものは、そこで終わる。しかし、いちばん最後に、短いモノローグの章が挿入される。まるでこの物語が、単にセサとビラヴドの物語ではなく、もっと普遍的な、偏在する物語であるかのように、語り手が宙に浮いた章。そして、「人から人へ伝える物語ではなかった」という言葉が、何度か繰り返される。この長大な本を閉じるにあたっては、余りにも矛盾に満ちたこの短い文の中に、この物語が書かれた意味があり、物語として語る言葉さえ失った、あらゆる哀しみが内在されているかのように感じる。
 そもそもこの物語には、はっきりとした主人公がいない。一応はセサが中心となって物語は進んでゆくのだが、話者は場面によって度々変わり、読者は、さまざまな登場人物たちの視点に立って物語を読むことになる。奴隷としての悲惨と多くの黒人たちの言葉にならない思いについては、ベビー・サッグスとスタンプ・ベイドの口を借りて最も多く語られるが、登場人物たちは誰もが、白人たちでさえ、奴隷制度の下で、形は違えどそれぞれ何らかの歪みを内面に抱えることを強いられて生きており、その南部ゴシック的なグロテスクさが、物語を一面的なものになることを拒否する。最近話題になった作品では、同じくピューリッツァー賞を受賞しているコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』もやはりアメリカの奴隷制度を扱っているが、やや受ける印象が違うのは、『ビラヴド』は、奴隷制度を糾弾する物語であるのと同じくらい、あるいはそれ以上に、決して完全に癒やされることのない、秘められた個人的な哀しみについての集合体的な物語であり、登場人物たちの口がことごとく重い、という点なのかもしれない。

 物語は、南部ゴシックの濃厚な香気を纏いつつ、どこかマルケスやイザベル・アジェンデらに代表されるデラテンアメリカ文学に顕著な、マジック・レアリスム的でもある。しかしもともとマルケスらマジック・レアリスムの作家は南部ゴシックの作家フォークナーに影響を受けており、同じくゴシックの末裔なのだから、どちらの印象もあるのはむしろ自然な流れではある。ぼくは時々思うのだが、ゴシックでしか語りえない領域というというものがあるのではないか。

 それにしても、『ビラヴド』とは結局何者だったのだろうか。セサが殺してしまった娘が実体化した超自然的な存在という風に読めば、すっきりと分り易いけれど、白人によって幼児の頃から幽閉されていた少女かもしれないという可能性がさらりと仄めかされていたりで、実際のところ、著者は明確にしていない。ビラヴドがまだ名前も与えられないうちに殺されてしまったセサの娘が投影された存在であるというのは確かだが、おそらくはそれだけではない。そうでなければ説明のつかない部分が多すぎる。間違いないのは、『ビラヴド』の存在は万華鏡的であるということだ。おそらくビラヴドを見るということは、自らの内面の、補いようもなく欠落した場所を見るということなのだろう。様々なものに変わりうる、のっぺらぼうのような存在、それがビラヴドなのかもしれない。

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