漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



(2・《最後の閣砦(ラスト・リダウト)》つづき)

 それでは「未来」の話を続けよう。だがその前にもう一つだけ言っておくべきことがある――そうして私が若さを失った姿で目覚め、この「現在」にいるのだと気がついた瞬間に、愛の渇きが時を越えて「未来」の私に届いたということだ。それは単なる夢の記憶ではなく、痛みを伴った「現実」としてであり、それで私は自分が「失ったもの」について、突然知ることとなったのだ。そしてこの時から先、私は自分の人生が磨り減ってしまったかのように感じ、その声に耳を澄ますようになった。
 やがて、(新たな肉体を得た未来の)私は、その新たな人生においても愛しきミルダスへの激しい渇望を感じ、彼女の存在が自分とともにあることを知っているが故に、私と同じように生まれ変わっているかもしれないと思った。それで既に言ったように、私は渇望を覚えつつ、耳を澄ましていたのだ。
 随分と横道に逸れたが、記憶を手に入れたことによって、決して知りえないはずの太陽の輝きやこの時代の明るさといった、これまではもっと漠然とした曖昧な想像の賜物でしかなかったものが、はっきりとした形を取って知覚されたということに驚かされた。だからこうして知識を手に入れた今となっては、アエスワープスは真実を知らなかったのだと私には思えたのだった。
 この時から暫くの間に私が知ったこと、考えたこと、感じたことの全てが想像を絶していた。そして時間が経つにつれ、いにしえの日々で失った女性――かつて確かに存在した光溢れる夢のような日々に私のために歌を歌ってくれた女性――への思慕が、狂おしいほどに増幅して行った。そして未来の私はしみじみと、忘却の淵に沈んだ古えの素晴らしい世界に思いを馳せたのだった。
 やがて私は霧がかった夢の記憶の疼きから自分を取り戻し、今一度巨大な銃眼を通じて、《ナイトランド》の想像を絶する奇妙な光景を眺めた。そこに広がるぞっとするような神秘の光景を眺めて、退屈を感じるような人間はかつて一人もいなかったに違いない。だからこそ老いも若きも、物心がついてから死を迎えるその時まで、我ら人類を匿ってくれる最後の砦から《ナイトランド》の漆黒の世界を眺めて来たのだ。
 《赤い窪》(レッド・ピット)の右手には《赤い火の谷》(ベール・オブ・レッド・ファイア)と呼ばれる長く曲がりくねった火道が横たわっており、その向こう側には《ナイトランド》の漆黒の闇が不気味に何マイルにも渡って続いていた。そしてその闇の中には《青い火の原》(プレイン・オブ・ブルー・ファイア)が横たわり、冷たい光を放っていた。
 そして《未知の領域》(アンノウン・ランド)の境界線上には低い火山が幾つも連なって火を噴いており、そのさらに彼方の闇の中には《黒の丘陵》(ブラック・ヒルズ)が、永遠に揺らぎも瞬きもしない《七光》(セブン・ライツ)を輝かせていた。その辺りになると、この巨大な望遠鏡でさえはっきとは伺えない。さらに言えば、このピラミッドから冒険の旅に出て、何らかの情報を持ち帰った者もいない。ここで言い添えておくが、《閣砦中央図書室》(グレート・ライブラリー・オブ・ザ・リダウト)の奥深くには、生命ばかりか魂までもを賭して《ナイトランド》の恐るべき領域へ冒険に出かけた人々の歴史が、彼らの持ち帰った様々な発見と共に所蔵されているのだ。
 もちろんこうしたことは何もかもが語るには余りにも奇妙で驚異に満ちたことだから、私にこの仕事が完遂できるのだろうかと思うと、ほとんど絶望的な気分になる。語らなければならないことは山のようにあるが、目の前に広がる光景や身の回りのこと、それにその時代の人々が持っている一般的な知識について明確に語って聞かせるには、手持ちの言葉が余りにも乏しいのだ。
 これからありのままに語ろうとしている物事の大きさ、現実感、そして恐怖について、私がそれを真実であると知っているように、読者に伝えることが出来るだろうか。私たちにしてみれば、自分たちの人生の記録の僅かな期間にさえ語るに足る偉大な歴史があるに違いないというのに、そうした年月の中で少しでもはっきりと細部まで知っていることなど、ほんの数千といったところだ。だが私は、この人生の僅かな期間の中で、人生の満ち足りた日々について、そして巨大なピラミッドの内と外との日々について、これを読む人々にはっきりと示し、真実を語らなければならない。しかも偉大な《閣砦》(リダウト)の数奇な歴史は数千年どころではない。数百万年にも及ぶのだ。ああ、あの時代の人々が遥か昔に思いを馳せ、地球の幼年期を想像したとしても、太陽は世界の夜空の鈍く暗い球体でしかないかもしれない。しかし太陽は完全に姿を消して、神話の中にしか存在しない存在になってしまっているのだから、半信半疑にならざるを得ないし、正気の人間や分別を重んじる人にとっては、信じ難いことだろう。
 そして私は……いったいどうやって読者にこうしたことを完全に分かってもらえばよいのだろう?とても不可能には違いない。だが私は自分の辿ってきた道について語らなければならない。これほどの驚異を目の前にして口を噤んでいるのは、胸が痞えるような気がする。だから私は難しくても力を尽くして自分の過去と未来について語り、魂を落ち着けたいのだ。ああ、遠い未来の若者、つまり私だが、ずっと幼い頃、「あの」時代の乳母にあやされながら、未来のお伽噺の中に出てくる、今ではピラミッドの上空に広がっている闇の中をかつては横切っていたという、既に神話と化した太陽の、荒唐無稽な子守唄を唄って聞かせて貰っていたという記憶もあるのだ。
 そうしたことは、遥か未来の若者である私の目を通して見た未来の光景である。
 それでは物語に戻ろう。私の右手、つまりは北の方角の遥か彼方に、《沈黙の家》(ザ・ハウス・オブ・サイレンス)が、小高い丘の上に建っていた。その《家》の内部は溢れんばかりの光で満ちていたが、全く音というものがなかった。それは太古の昔から変わることがない。いつでも安定した光があり、クスリとも音がしない――例え遠距離マイクロフォンのようなものを使おうとも、音を拾うことは出来ないだろう。そしてこの恐ろしい《家》は、この領域で最も危険な場所と考えられていた。
 そして《沈黙の家》(ザ・ハウス・オブ・サイレンス)に沿って、《無言のやつらの歩む道》(ロード・ウェアー・サイレント・ワンズ・ウォーク)が湾曲しながら伸びていた。この《道》については、《未知の領域》(アンノウン・ランド)の向こうから現れ、常に緑色に発光する霧が立ち込めている《亜人の土地》(プレイス・オブ・ザ・アブ=ヒューマン)にまで伸びているということ以外には、何も知られていない。ただ一つ分かっていることは、巨大ピラミッドに付随したあらゆる作業の中でも、それだけは健全な人間の労苦によって、遠い昔に作り出されたものであるということである。そしてこの点においてだけでも、千冊、あるいはそれ以上の本が書かれてきた。もっとも、こうしたことが大抵そうであるように、答えなどは出ていない。
 《無言のやつらの歩む道》に沿ってゆくなら、他の恐ろしいものにも全て触れることになる……ここにある図書室には、それらのことについて特化したものがいくつもあるくらいだ。そして十億冊以上にも及ぶ書物が、時とともに塵と化して忘れ去られていった。
 ふと思いついた私は、間もなく《閣砦》の第一千階層を横断する中央移動帯に乗った。この道は《ナイトランド》の原野から六マイルと三十ファザム上方にあって、全長が一マイルかそれ以上ある。数分後、私は南東の壁に到着し、巨大な銃眼を通して正面の《銀火の三穴》(スリー・シルバーファイア・ホールズ)を眺めたが、その輝きは南東の遥か彼方の《うたた寝するもの》(シング・ザット・ノッズ)のずっと手前にあった。その南、しかしよりこの場所の近くには、《南東の監視者》(サウス=ウェスト・ウォッチャー)――南東を監視するもの――の巨体が聳えていた。そして蹲る怪物の左右には、松明が燃えていた。どちらの松明も、監視者からは半マイルほどは離れているようだった。だがその光は、決して眠ることのない怪物の、前に張り出した頭を照らし出すには十分だった。

"The Night Land"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
Transrated by shigeyuki




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「うたかたの日々」 ボリス・ヴィアン著 伊藤守男訳
ハヤカワ文庫 早川書房刊

再読。

 「日々の泡」のタイトルでの邦訳もある、ヴィアンの代表作。「日々の泡」の方が訳がいいという話もたまに聞くけれど、高校の頃に僕が読んだのはこちらの方で、すごく感動したから、今更どちらでもいい。そもそも翻訳に完璧なんてことはありえないんだから。
 この小説は、何度か再読している。十指に入るほど好きな小説だ。今回、ハヤカワ文庫と表記したが、正直言うと「ボリス・ヴィアン全集」版で再読した。
 ヴィアンの小説は、何度読んでも心が震える。笑いがとても悲しい。この小説をはもちろんそうだが、「赤い草」も「心臓抜き」も、どうしたらこんなに悲しい小説を書けるんだろうと思ってしまう。ヴィアンの小説がこれほど心に訴えかけてくるのは、それが神話の創造であると同時に、限りなくリアルな小説だからだ。哀しくて可笑しいエピソードの全てが、常に人々のすぐ近くにある日常のエッセンスなのだ。

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 「ナイトランド」の続きです。
 ここからが第二章になりますが、いよいよ「ナイトランド」の頭脳部です。
 ここ(と次の第三章)をどれだけじっくりと読み込み、想像力を膨らませることが出来るかで、この作品への愛着が変わってくると言って過言ではないと思います。この「ナイトランド」を、アメリカでの著作権を主張するために自ら短く刈り込んで出版した小冊子「The Dream of X」でも、この第二章はほぼそのまま採録されています。
 この章は、いわば「ナイトランド」のガイドブックというか、マップに当たります。最初にマップが与えられて、読者の想像力に訴えるというわけです。従って、この章が上手く訳せなければ、この作品の翻訳は失敗だと思います。
 荒俣宏さんは、さすがにナイトランドの風物に名前を与えるのが上手でした。この命名の妙に、僕はやられた口です。従って、僕もほぼそのままそれを利用させて頂こうと思います。ただし、いくつかは敢えて変えました。
 そのうちの一つは、ラスト・リダウトの訳名で、荒俣さんは《最後の角面堡》としていましたが、こちらでは《最後の閣砦》としました。造語です。これが良いかどうか、分かりませんが、角面堡というイメージからはかけ離れて大きい構造物なので、色々考えた結果です。でも、本来はそのまま《ラスト・リダウト》とする方が良いのかもしれません。







2・《最後の閣砦》(ラスト・リダウト)

 
 愛するミルダスが死んで、たった一人この世に取り残されてからというもの、私が味わった苦悶や、彼女を求めてやまない絶望的な気持ちは、とても言葉では言い表せない。私にとって、彼女との甘い愛や交流と共にある世界こそが全てであり、生命の悦びや愉しさを実感させてくれるものであったからだ。だからその孤独の深さに、私は心底打ちひしがれてしまったのだ。
 だが私は再びペンを執る。近頃になって驚くべき希望が芽生えたのだが、それというのも、夜の眠りの中で私はこの世界の未来に目醒め、不思議な事物や圧倒されるような驚異を目の当たりにして、生きることの喜びを今一度知ったのだ。私は未来の約束を知り、それから夢の中で『時』の子宮の中に存在している場所を訪れ、そこで彼女と私が結ばれ、離れ、そしてまた巡り合った……そう、耐え難い苦しみを味わいながら引き裂かれ、そして見知らぬ時の彼方で、また喜びと驚きの中で再会したのだ。
 これは私が目にしてきた、とても奇妙な物語である。私の手には負えないかもしれないが、それでも語らねばならない。それは、語ることで心が慰められるかもしれないからだが、さらに言えば、妻の死によって悲痛な思いに苛まれている私と同じような思いをしている他の不幸な人々への、慰めとなるかもしれないと思うからだ。
 この物語を読んで、こんなことはありえないという人はいるだろうし、違った意見を持つ人もいることだろう。だが私にはただ「読んで欲しい!」としか言えない。そしてここに書き記したものを読み進みながら、私とともに「永劫」を……その扉の向こうを、覗き見て欲しい。それでは、語り始めよう。
 私にとって、これから語ろうとしている終末の光景は、“夢を見ている”という感じではなかった。それはいわば、“この世界の未来”に、暗闇の中で“目が醒めた”という感じだった。そこでは太陽は終末を迎えていた。後で思い返してみると、「未来」で新たに目を醒ました時には、私にとってこの「今の時代」というものは、自分の魂がリアリティを持って知っている夢の記憶を辿っているかのようだった。しかしそうした新たな獲得した目で見ると、遠い幻というよりは、穏やかさと光に包まれて不思議な神聖さを纏っているように見えた。
 私が「未来」で、世界を包み込む「永遠の夜」の中で、目を醒ました時には、いつも近くに私を取り巻く朧ろな灰色の靄が見えた。だがやがてその灰色の靄は薄れ、薄暗い雲のように周りから消え去り、私はあちらこちらに奇妙な光景が浮かび上がっている闇の世界を見渡しているのだった。「未来」で目を醒ました時、私は何も分からないという状態ではなかった。《ナイトランド》に浮かび上がる様々な事物についての知識は十分に持っていたのだ。人が毎朝眠りから醒めた時には、同時代に存在する事物の名前や知識をちゃんと持っているように。そして同時に、私がたった一人で孤独に生活をしているこの「現在」――この「前世」についての知識も、二次的な意識として持ち合わせていた。
 “あの”場所で私が最初に得た知識は、自分が十七歳の若者であるということであり、そうして最初に目覚めた時、あるいは「未来」で我に返ったというべきかもしれないが、私は《最後の閣砦(ラスト・リダウト)》(ラスト・リダウト)――この世界の最後の数百万人を《殺戮者》(スレーヤー)の脅威》から守っている、灰色の金属で出来た巨大なピラミッド――の銃眼の一つの中に立っていたのを覚えている。
 私にはあの「場所」の知識が豊富なのに、ここでは誰も知らないということが信じられない。そうした困難を抱えているから、自分の知っていることを当たり前のこととして語ってしまうかもしれない。だから私は説明が不足しないよう、これを現代の人々が読まなければならないのだと心に留める必要があるだろう。その場所で、佇みながら辺りを見渡していた私は、“こちら”の時代の人間であるというよりはむしろ“あちら”の若者であり、そこで十七年間生きてきて、“そこ”での人生について、自然な知識が身についていたのだから。だが最初の幻視の時までは、(この「現在」の)私は、そうしたことも「未来の生」のことなども知らなかった。朝の陽が輝き始めるとベッドから起き出すこの場所での生活が自然だと思っていたし、太陽という名称も知っていたから、それが特別なことだとは思っていなかった。しかしそこで巨大な銃眼の中に佇んでいた私は、自分の裡の深い所に、私たちの前世の知識、あるいは記憶を既に持っていた。だが夢の光輪に触れた時、一人の女性に対する渇望、つまりミルダスに関する記憶の断片をも知ったのだ。
 既に語ったように、最初の記憶の中で、私はピラミッドの上部にある銃眼に立ち、奇妙な望遠鏡を通じて北西の方向を覗き見ていた。そう、溢れるほどの冒険心を備えた若さと、それに半ば慄く気持ちを胸にして。
 私の頭の中は、既に述べたように、《閣砦》(リダウト)で育ったこれまでの日々の知識で満たされていた。そしてその瞬間までは、“この現在に生きている人間”である私には、未来の生についての知識などなかった。だがそうして佇んでいた私に、突然その奇妙な場所で過ごした日々の記憶と自分の深い場所に潜在していた前世の記憶、それに恐らくはさらに多くの潜在的な記憶が、一度に蘇ったのだ。
 不思議な望遠鏡を通じて北西の方角を見ると、そこに広がるのは、この世に生を受けて以来ずっと子細に眺め暮らしてきた光景で、私はそこに存在しているものたちも、それらの名前がどうして名づけられたのかも知っていたし、さらにはそれらの一つ一つが、日々の研究のために訪れる《数学の間》にある、長さも幅もない磨かれた金属で作られたピラミッドの《中心点》(センター・ポイント)からどれだけ離れているかも知っていた。
 北西の方角を眺める時、望遠鏡の広い視野の中に映るのは、《赤い窪》(レッド・ピット)から漏れる炎のゆらゆらと揺らめく火影が、《北西の監視者》(ノースウェスト・ウォッチャー)――北西を監視するもの――の巨大な顎を下から照らし出している、平原の光景だった……「創世の時から監視を続けるその者は、《永劫の門》が開く時までその役をやめない」という言葉が、望遠鏡を通じて眺めていた私の脳裏に浮かんだ……それは“古代”詩人アエスワープス(私たちから見れば、信じられないほど未来の人物である)の言葉だった。しかし、突然その言葉が偽りではないかと思えてきた。というのは、私は自分の中深くに降りて行って、まるで夢を見るかのように、この「今の時代」の太陽の輝きや光溢れる世界を見たからだった。それで、私は驚かされたのだ。
 ここではっきりとさせておかなければならないことは、私はこの「今の時代」から目が覚めて、「未来」の生に突然滑り込んだということで、だからこそ(銃眼に立つ「未来」の若者である)私は、遥か昔の私たちが生きていた世界についての知識を覚醒した時には既に持っていたのであり、世界の黄昏の時代にいる「未来」の私にとって、それは永遠の始まりの光景に思えたのだ。ああ、努力はしているつもりだが、「現在」の私と「未来」の私がどちらも同じ「私」であること――同じ魂を持っていることを、上手く説明できているだろうか。「未来」に存在する私には過去(私が今「現在」生きている時代である)の生が漠然と見えている。そしてこの時代の私は、まだ存在していない人生を眺めているのだ。何と奇妙なことだろうか!
 もっとも、こうして神聖な真実を語っている私だが、「未来」の私が覚醒する以前に「今の時代」の生活や時代のついて知識を持たなかったかったのかどうかは分からない。というのは、目覚めて気付いたのは、私が他の若者たちからは浮いた存在であるということを知ったからで、その時には既に過去の朧げな知識を、いわば空想のような混沌とした形で、持っていて、それがその時代の学識を身につけた人々を怒らせたのかもしれなかった。だがそのような話はまた後にしよう。ただこのことから分かったのは、覚醒の時以前からの“過去”に関する確信と知識が十倍になったということだ。ここでの私の人生の記憶が加わったのだから。


"The Night Land"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
Transrated by shigeyuki




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葉陰  



 風が強い日、林の中に佇んで空を見る。
 枝が揺れ、葉が踊り、その向こうに真っ白な空がちらちらと見える。
 その白く切り抜かれた空が、不意に何かに見える。
 一瞬ののち、その何かは姿を消す。

 次の瞬間、その空は何を映し出すだろう。
 風や樹や葉のデータを入力したら、分かるのだろうか。
 とっても厳密に計算したら。
 でも、そんなの絶対分かりゃしないないだろうなあ、と思う。

 風は草の匂いがする。
 遠くの雨の匂いがする。

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(「1.麗しきミルダス」続き)

 それから一ヶ月ほどは抜け道には近寄らなかった。愛ゆえに苦しい思いをしたし、プライドも傷付けられたからだ。実際、ミルダス嬢の仕打ちは正当なものではなかった。
 しかしその月の間に、愛も次第に成熟し、以前には持つことの出来なかった優しさや柔らかさ、それに思いやりなどが生まれてきた。真実の愛と痛みこそが、人を成長させるのだ。
 ひと月が過ぎる頃、私は理解をしようという気持ちと共に人生の中に仄かな光を見出し、また以前のように抜け道を抜けての散歩を始めた。だがミルダス嬢が姿を見せることはなかった。ある夕方には、彼女がそれほど離れてはいない場所にいるのではないかと思ったこともあった。森から彼女の飼っているボア・ハウンドが一匹現れ、かつてのように親しげに鼻を摺り寄せてきたからだ。
 だが犬が私の側を離れてから随分と長い時間待っては見たものの、ミルダス嬢が姿を現すことはなく、私はまた重い心で歩き始めた。それでも理解の心が自分の中に育ちつつあったから、辛くはなかった。
 さらに空虚で孤独な二週間が過ぎたが、次第に彼女のことを思うと居ても立ってもいられなくなってきた。それでついに意を決し、抜け道を通り抜けて敷地に入り、ホールの方へ向かって行けば、彼女の姿を一目なりとも見ることができるかもしれないと考えた。
 そう思い立ったのはとある夕方のことだった。私はすぐに実行に移し、抜け道に辿り着くとそこを通り抜けて庭園に入り、玄関までの長い道のりを歩いた。やがて玄関の近くに辿り着いたところ、そこには角灯や松明の灯りが煌々と灯っており、沢山の人々が踊りに興じていた。誰もが着飾っていたから、何かの祭事があるのだろうと思った。だが次の瞬間、もしかしたらこれはミルダス嬢の婚礼の儀なのかもしれないという悪夢のような予感が私を襲った。しかしそれは馬鹿げた考えだった。もし結婚などということがあるなら、私の耳にも知らせが入ってしかるべきである。それからすぐに思い出したのは、今日が彼女の二十一歳の誕生日であり、後見人の手から離れる日であるということだった。ということは、これはそのための儀礼の祭事に違いなかった。
 それはとても賑やかで美しい光景だった……孤独と叶わぬ思いに塞ぎ込んでいる私を除いては。訪問客は誰もが立派な出で立ちで陽気に騒いでいた。樹々には灯りが渡され、大きな芝生の庭にある東屋にも光が入り、辺りは光に包まれていた。大きなテーブルには銀やクリスタルで出来た器に盛られたご馳走がいっぱいに並べられ、ブロンズと銀の大きなランプが、テーブルの隅々から芝生に至るまでを明るく照らし出していた。そしてダンスは、曲目を変えながら絶え間なく続いていた。
 すると踊りの輪の中から、可憐なドレスを纏ったミルダス嬢が現れた。だが、ぼんやりとした灯りの中に浮かび上がる彼女の顔は、私の目にはやや青ざめて映った。彼女は腰を下ろして休める場所を探していた。だがあっという間に地方の名家の若者たちが大勢集まってきて取り囲み、愉しげに会話を繰り広げ、誰もが熱心にその気を惹こうとしていた。彼女は彼らの輪の中で愛想を振りまいていたが、どこか上の空のような感じで、先ほども感じたように、やはり少し青白く見えた。彼女の視線は、周囲の男たちのずっと先の方をちらちらと伺っていた。それで私はすぐに、彼女は恋人がそこにいないから、心ここに在らずといった状態なのだと思った。だが、どうして彼がここにいないのかは推し量りかねた。あるいは法廷から呼び出されたのかもしれなかった。
 若者たちが彼女の周りに集まって来るのを見ているうちに、激しくも悲壮な嫉妬心が芽生えてきた。もしも近づくことが出来るなら、彼女の前に飛び出して腕を取り、その輪の中から連れ出したかった。そして彼女の愛が身近に感じられたかつての日々と同じように、互いに手を取り合って森を歩きたかった。だが実際のところ、そんなことをして何になるというのだろう?見たところ、ここにいる誰一人として彼女の心を捕らえてはいないのだから。それに彼女を見詰めていると、その熱く孤独な心と共にあるのは、恋人であるあの小柄な判事ただ一人であることが分かるのだから。
 私はその場を立ち去り、それから三ヶ月近くもの間、抜け道には近寄らなかった。喪失の悲しみに耐えられそうになかったからだ。だが三ヶ月が過ぎようとする頃、どうしてもそこに行きたいという衝動が、もう二度と行きたくないという辛い気持ちに打ち勝った。それである夕方、気がつくと私は抜け道に佇み、心を騒がせながらも一心不乱に、抜け道と森の間に広がる芝生の風景を見詰めていた。この場所は私にとって聖なる場所だった。なぜならそこは、あの夜私が初めて《麗しきミルダス》に出会い、心奪われた場所だったからだ。
 随分と長い時間そうして佇み、儚い希望を胸に目の前の風景を見詰めながら、彼女を待った。すると唐突に、何かがこちらの方に向かってやって来て、私の腿にそっと触れた。見下ろすとそれは一匹のボア・アウンドで、私は胸が激しく高鳴った。ミルダス嬢が近くに来ているのだと思ったからだった。
 私は高鳴る胸を抑え、息を殺して待った。すると樹々の向こうから、何とも悲しげな低い歌声が微かに聞こえてきた。ああ!それはミルダス嬢の唄う失恋の歌であった。彼女はただ犬たちだけを供にして、薄闇の中をたった一人で彷徨い歩いているのだった。
 その歌を聞いた私は、彼女の胸の痛みを自分の痛みのように感じた。それで彼女を慰めてやりたいと心の底から思ったが、衝動をぐっと堪えて、抜け道にじっとそのまま佇んでいた。
 そうして歌声に耳を傾けていると、やがて樹々の向こうから、白くほっそりとした人影が現れた。その人影は何かを叫んでぴたりと足を止めたが、暗くて私には誰とも判別しかねた。しかし次の瞬間、名状し難い希望が突如私の中に沸き起こってきた。それで私は抜け道から飛び出してミルダス嬢の方へ駆けて行き、低い声で、力強く情熱的に彼女の名を呼んだ。「ミルダス!ミルダス!ミルダス!」
 こうして私は彼女の元に向かった。犬たちも私と供にやって来て傍らで跳ねていたが、どうやら何かの遊びだと思ったようだ。そうしてミルダス嬢の傍らに辿り着いた時、私は我知らず手を広げていた。だがその時私を突き動かしていたのは、彼女の胸の痛みを和らげてやりたいという一念が全てであった。ところが彼女は両手を差し伸べ、小走りに私の腕の中に飛び込んできたのだ!そして驚いたことに、堰を切ったように啜り泣きを始めた。だがその姿には安らぎが感じられた。そしてその安らぎは、思いがけず私の心の中にも訪れたのだった。
 それからいきなり彼女は腕の中で身体をよじり、愛しげに腕を絡ませて、まるで幼い子供のように愛らしい仕草で、私の方に向かって唇を突き出した。私は唇を重ねた。今や彼女は、私が真実の愛を捧げる、一人の成熟した女性であった。
 これが私たちの婚約の儀であった。シンプルで、言葉さえなかった。だがそれで十分だった。愛には、これで足りるということがないのだから。
 やがて彼女は私の腕から離れた。それから子供のように手を取り合い、静かに森を抜けて家路を辿った。しばらく歩いた頃、私は件の判事のことを尋ねてみた。すると彼女は、静かな森の中に谺するほどの愛らしい笑い声を上げた。だがその答えは、広間に辿り着くまでお預けにしてしまった。
 屋敷に辿り着くと、彼女は私を大広間に招き入れ、優美で大げさなお辞儀をして、揶揄うように見詰めた。それから彼女はそこに座って刺繍をしていた一人の女性を紹介してくれたが、その女性も妙に取り澄ましていて、ミルダス嬢に負けず劣らず、何かを企んでいるように見えた。
 実際には、ミルダス嬢は無作法な大笑いをしたという訳ではなかったが、楽しそうに上気して、少し肩を震わせながら、喉から可愛いらしい声を漏らした。それから彼女は、私が刺繍をしていた女性と命を賭した決闘をするようにと、銃架から二挺のピストルを取ろうとした。するとその女性は手に持った刺繍に顔を埋めて、それでも隠し切れないほど悪戯っぽく、肩を震わせて笑うのだった。
 ひとしきり笑うと、その“刺繍をしている女性”はいきなり顔を上げて、私の顔を下から覗き込んだ。その瞬間、私はようやく彼女たちの仕掛けた悪戯の一端を伺い知った。何故なら彼女の顔は、ミルダス嬢の恋人であったあの法曹界の男そのものであったからだ。
 ミルダスが私に明かしてくれたことによると、ミストレス・アリソン(それが彼女の名前だ)は大切な親友であり、法服を身に着けて、まるで彼女の恋人の青年であるかのように振舞ってふざけていただけだったというのだ。ところがそこへ私が通りかかり、嫉妬の余り顔をはっきりと見ることもせず、かっとなってしまった。そして自分の親友を押しのけてしまったものだから、当然のことながら彼女は私が考えていたよりもずっと腹を立てた、という訳だった。
 これが事の真相だったが、それから二人は私を懲らしめようと企み、それで毎夕抜け道に集っては、まるで恋人同士のように振る舞ったのだ。たまたま私が通りがかれば、きっと嫉妬に身を焦がすだろうから、それが私に対するまたとない仕返しになると考えたわけだ。私はそのせいで、随分と長い間苦しい思いをしたのだった。
 しかし、私が二人の前に現れた時には、ミルダスは半ば後悔していたのだ。私と同じく、彼女も私を愛していたのだから、それは自然な感情だった。思い返してみると、だからこそ彼女は親友から離れたのであり、後に告白したところによると、私のことを思うと突然不思議なくらいに胸が苦しくなったのだという。だが私はそっけなく頭を下げて立ち去ってしまったから、懲罰はその後も続くことになってしまったが、あるいはそんなことはなくて済んだかもしれなかったのだ。
 だがこれでようやく全ては丸く収まり、私の心の中には神への感謝と、気も狂わんばかりの喜びが満ち溢れていた。私はミルダスを抱きしめ、それからゆっくり堂々と、大広間の中を踊って回ったが、その間、ミストレス・アリソンは巧みに口笛を操り、私の知らない沢山の曲を披露して、私たちを囃し立ててくれた。
 この素晴らしい日の後には、ミルダスと私は決して離れはしなかった。何処へ行くのも常に寄り添い、共にいることの尽きることのない喜びを味わった。
 私たちが喜びの中で一つになれたのは、千に一つのことだった。私たちは共に、夕焼けの翼の向こうに広がる永遠の青を愛するものたちであった。そしてまた、世界に降り注ぐ星明かりの音のない音を愛するものであった。《眠りの塔》が黄昏の神秘の中に聳え立つ静かな灰色の宵を、月明かりの中に粛々と広がる緑なす牧草地を、楓の樹がブナの樹に囁きかけるのを、憂いに沈む時の海の緩やかなうねりを、夜空の雲がサラサラと流れて行く優しい音を、愛するものたちであった。また、私たちは共に《夕陽の中で踊るもの》と、彼女の纏う奇妙な衣装を目にした。そして《暁の貌》の上に響く静かな雷鳴を聞いた。その他にも様々なことを、共に見たり、知ったり、理解したりしたのだった。
 この頃、ミルダスの死を招いた原因となったのかもしれない、とある事件が起こった。ある日、いつものように私たちは満ち足りた子供のようにそぞろ歩きをしていたのだが、ふと私は、ミルダスが二匹だけしかボア・ハウンドを連れていないことに気が付いた。すると彼女は私に、もう一匹は病気で犬舎にいるのよ、と言った。
 しかしその言葉は不意に断ち切られた。彼女が指を差し、何かを叫んだのだ。ハッとした私の目に映ったのは、三匹目の犬がこちらに向かって走ってくる姿だったが、その行動がなんとも異様だった。するとすぐにミルダスが、あの犬は狂っているわ、と悲鳴を上げた。実際私の目には、犬がまるで野獣のように涎を垂らしながら走ってくる様子が映った。
 すぐに犬は私たちに追いつき、それまで聞いたこともないような唸り声を上げた。そして間髪入れず私に飛び掛った。考える暇もないほど、全てはとっさの出来事だった。だがミルダスは、心から愛する私を守ろうと、自ら獣の前に身体を投げ出し、他の犬たちを呼んだ。次の瞬間、彼女はその獣の毒牙にかかったが、それでも獣を私から引き離しておこうと必死だった。私は慌てて獣の首と胴体を抱え込み、二つにへし折って、一息に絶命させた。それから犬を地面に放り出すと、ミルダスを抱き上げ、傷口から毒を吸い出した。
 作業は出来る限り手際良くやったが、彼女は私を止めようとした。全てを終えた後、私は彼女を両手で抱き上げて、うんざりするほど遠い玄関までの道を精一杯の速さで駆けて行くと、熱した焼き串を傷を焼いた。医者がやって来たとき、彼は私に、彼女の命が助かったとしたらそれはあなたの処置がよかったからだと言ってくれた。しかしそもそも彼女が私をその優しさで救ってくれたのだから、誉を受ける資格は私にはなかった。
 彼女はとても青ざめていた。しかし心配そうにしている私に向かって笑いかけ、すぐに良くなります、と言った。実際、傷はすぐに治ったが、完全に回復して以前のように戻るまでには長く辛い時間が必要だった。
 ミルダスがまた以前の元気を取り戻した時、私たちは婚礼の日を決めた。その日、ブライダル・ドレスを身に纏った彼女の佇む姿を、私ははっきりと覚えている。ほっそりと愛らしくて、まるで《生命の夜明け》に佇む女神のようだった。美しい彼女の瞳は甘く澄んで、悪戯ばかりしているとは思えないほどだった。それから彼女のゆったりとした歩みと、愛らしい髪。上品でしなやかな身のこなし。魅力的な唇には、少女と大人の女性の微笑みが同居していた。だがそうした言葉の全ては、我が麗しのミルダスの魅力を垣間見せることしか出来はしないのだ。
 こうして私たちは結婚した。
 
 ******************
 
 ミルダス、私の美しい妻は、死の床にあった。私には死神を引き止めておくだけの力はなかった。隣の部屋から、幼な子の泣く声が微かに聞こえた。妻はその声に意識を取り戻し、白い手をベッドカバーの上で探るように震わせた。
 私はミルダスの傍らに跪き、そっとその手を取り、自分の方に引き寄せた。しかし何かを求めるかのような手の震えは止まらなかった。そして彼女は無言で私を見詰めた。その眼差しは、何かを訴えかけていた。
 私は部屋を出て、静かな声で看護婦を呼んだ。看護婦は、白いローブに柔らかく包んだ幼な子を連れてやってきた。すると愛しい妻の瞳が明るい光を宿し、澄み渡った。私は看護婦に、赤ちゃんを側に連れてきてくれるように手招きした。
 妻は手をベッドカバーの上で力なく動かし、私は子供に触れたがっているのだと思った。それで看護婦に合図し、子供を自分の手に受け取った。看護婦が部屋から出てゆくと、私たちは三人だけになった。
 静かにベッドに腰を掛けた。そして幼な子を妻の側に寄せて、そのちっぽけな頬を死に行く妻の真っ白な頬に触れさせた。しかし子供の重みが妻の負担にならないように気を配った。
 するとすぐにミルダスが、我が妻が、無言のまま赤ちゃんに手を伸ばそうと懸命になっているのに気がついた。それで子供をさらに彼女の方へ寄せて、赤ん坊の手を妻の弱々しい手に握らせてやった。そして細心の注意を払い、妻に寄りかかる赤ん坊を支えた。すると死に行く妻の瞳が幼な子の無垢な瞳の中を覗き込んだ。それはほんの僅かな時間のことだったが、まるで永遠のようにも思えた。やがて妻は目を閉じ、静かに横たわった。それで私は子供をドアの向こうに立っていた看護婦に預けた。そしてドアを閉め、二人きりで残り僅かな時間を過ごすために、妻の傍らに戻った。
 妻の手はとても白く、じっと動かなかった。だがしばらくするとまた力なく緩やかに動き始め、何かを探ろうとした。私は自分の手を彼女の方に伸ばし、そっとその手を取った。そしてしばらくはそのままじっとしていた。
 ふと彼女の目が開いたが、その穏やかで灰色の眼差しは、少し虚ろに見えた。それから枕の上で頭を少し動かして、私を見た。見詰める彼女の瞳からはぼんやりとした様子が消え、柔らかい愛らしさと慈しみに満ちた眼差しが戻ってきた。
 私は彼女の顔を覗き込んだ。すると彼女の瞳が、最後の瞬間を私の腕の中で迎えたいと語っていた。私はベッドの上にそっと身体を滑り込ませ、身体を注意深くそっと抱き上げた。すると彼女は驚くほど安心しきった様子で、ぐったりと私の胸に身体を預けてきた。彼女の身体を支えきれたのは、愛の力だった。そして愛は、私たちが離れ離れになってしまう前のその僅かな時間に、妻に甘いやすらぎを与えてくれたのだ。
 私たちは二人で一つだった。そして愛は、死神を私たちの間際で引き留め、誰にも邪魔されない二人だけの時間を与えてくれた。辛く長い時間を通じて、引き裂かれるような想いばかりを感じ続けていた私の張り詰めた心にも、安らいだ微睡が訪れた。
 妻に愛の言葉を静かに囁きかけると、瞳がそれに答えてくれた。奇妙に美しく、そして恐ろしいひとときが、永遠の静寂の中で過ぎていった。
 そして突然、私の愛しい妻が、口を開き、何かを囁いた。私はそっと首を傾け、耳を欹てた。すると彼女はまた口を開いた。ああ!それは共に過ごした愛の日々の中で彼女が私のことをそう呼んでいた、懐かしい呼称であった。
 そしてまた私は妻に愛の言葉を囁いた。それが死を遠ざけてくれるとでもいうかのように。ああ、だが次の瞬間、彼女の瞳から光が消えた。愛しい妻は、私の腕の中で息を引き取った……我が麗しのミルダス……

"The Night Land"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
Transrated by shigeyuki








 長くなりましたが、ここまでが第一章です。
 ここで翻訳の基準として決めたことを少し書いておきます。
 まずは、出来る限り短くすること。抄訳するのではなく、日本語としてまとめられる部分はまとめて、少なくとも原文のボリュームより余り大きくならないようにしようと考えました。ただでさえ長い作品なのだから、これ以上長くしたくなかったので。
 英語特有の、コンマで延々と続く文書も、迷いましたが、やっぱりこれはできるだけ分けずに一つの文として訳すことにしました。そのほうが多少は短くなるし、なんとなく、そうすべきじゃないかという気がしたので。
 あとは、英語は同じ名詞のくり返しを嫌うようですが、それをいちいちそのまま訳すとわけがわからなくなるので、この辺りは適当に置き換えました(第一章では、特にミルダスの名前についての表記です)。
 一番困ったのは、大文字で始まる複合名詞や固有名詞です。ホジスンはこれを多用するので、いつもどう処理するべきが迷っています。全部《》でくくってしまうのも変ですし、「」や『』や“”をどういう基準で混在させるべきなのかというのは、結構頭を悩ませます。これについては、まだ確立した基準がないのが現状です。そのうちちゃんとした基準を確立したいと思います。


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(「1.麗しきミルダス」続き)

 それからというもの、私は毎夕、自分の地所からジャールズ卿の地所へ続く静かな田舎道を散歩するようになった。そしていつも生垣の抜け道から中へ入り込んだ。すると大抵は森の辺りを歩いているミルダス嬢を眼にすることが出来た。彼女はいつでも大きなボア・ハウンドを従えていたが、それは私が身の安全のためにぜひそうして欲しいと頼んだためだ。彼女は私の喜ぶようにしたいと望んでいるように思えた。だが実際には、様々な場面で全理解し難い態度を取る事がよくあった。それはまるで、私を困らせることで、忍耐力はどの程度あるのか、どのくらい怒らせることが出来るのか、推し量ろうとしているかのようでさえあった。
 鮮明に覚えていることがある。ある夜、生垣の抜け道へ向かう道で、私はジャールズ卿の森から二人の村娘がやってくるのを目にしたのだ。しかし私は彼女たちに興味はなかったから、いつものようにそのまま抜け道をくぐり抜け、敷地の中へ入り込んだ。ところが傍らを通り過ぎる時、野暮な村娘にしてはいささか優雅すぎる会釈を交わしてきた。それで私ははっと思い当たって、二人を追いかけ、もっと間近から見てみた。すると背の高い方の娘は確かにミルダス嬢であるように思えた。しかし確証は持てなかった。というのも、私が彼女の名を呼んだ時、その娘はただ作り笑いをして、また会釈を返してきただけだったからだ。それはいかにも怪しい振る舞いだった。それで二人の後に付いて行った私は(ミルダス嬢のことについて、いくらかは理解し始めていたつもりだっただけに)さらに驚かされることとなった。
 二人はまるで、私が暴漢か何かかもしれないから夜道で一人きりになったりしないよう十分に用心しなければといった風で、落ち着き払って見せつつも、足早に歩いていった。そしてついには村の広場にまで辿り着いたが、そこでは盛大なダンスパーティーが宴もたけなわとなっていて、松明が焚かれ、巡回のバイオリン弾きは調べを奏で、盛大にビールも振舞われていた。
 二人は踊りの輪に加わり、心ゆくまで踊った。しかし二人は互い同士を相手とするだけで他の人とは踊ろうとはせず、しかも用心深く松明の側を避けていた。こうした行動から、私は二人がミルダス嬢と彼女の待女であると確信した。それでこちらの方へ踊りながらやって来た機会を捉え、二人の前に歩み出て、一緒に踊って欲しいと真っ向から申し込んだ。ところが背の高い娘の方は作り笑いをして、先約がありますの、と答えた。そしてすぐに図体ばかり大きい粗野な若者に手を差し伸べ、植え込みを回って行ってしまった。しかし彼女は気紛れな振る舞いをした報いを受けたらしく、全神経を集中して、男の無粋なステップから自分の足を守らなければならない羽目に陥ってしまった。だから踊りが終わった時には心の底からほっとしたようだった。
 もうこの時点で、いくら村娘のドレスと靴で変装し、薄暗い場所で品のないステップを踏んで見せようとも、娘がミルダス嬢であることは明らかであった。私は娘の方へ歩いて行き、声をかけて、その名を囁いた。そしてただ一言、馬鹿なことはもう終いにして一緒に家に帰りましよう、と言った。だが彼女は私に背を向けて歩いてゆき、また若者の所に戻った。そしてやっとの思いでもう一曲を踊りきると、その男に、途中まで送ってくれないかしら、と頼んだ。男は喜んでそれに応じた。
 すると男の仲間である別の若者が現れ、中に加わってきた。そして一行が松明の明かりの届かぬ所にまで離れるや否や、粗暴な男たちは躊躇うこともなくさっと彼女たちの腰にそれぞれ手を回してきた。そうなるとミルダス嬢はもはや我慢が出来なくなり、恐怖心と嫌悪感のあまり叫び声を上げ、抱きついてきた男を払いのけた。それが余りに強い力だったので、男は一瞬彼女から離れ、酷い悪態をついた。だがすぐにまた彼女の所へ戻り、さっと抱え込んだかと思うと、キスをした。彼女は嫌悪感を露わにして、男の顔を狂ったように両手で叩きつけた。私は彼らに近づいたが、手は出さずにいた。するとその直後、彼女は私の名前を大声で呼んだ。それで私は男を掴まえて一発食らわしたが、それ以上叩きのめそうとは思わなかった。ただし男が思い知るようにと、そのまま彼を道の脇へ放り投げてやった。するともう一人の男は、私の名前を耳にすると、怯えている待女から離れて尻尾を巻いて逃げていった。この一帯には私の勇名が轟いていたのだ。
 私はミルダス嬢の肩を両手で掴み、怒りにまかせて強く揺さぶった。それから私は待女を先に行かせた。待女は女主人から留まるようにという命令は受けなかったから、少し先を歩いていった。そうして、ようやく垣根の抜け道にまで辿り着いた。ミルダス嬢は押し黙っていたが、それはまるで私の側にいることが嬉しいと密かに感じているかのようでもあり、寄り添って歩いていた。抜け道を潜り抜け、私は彼女を玄関まで送り届けた。そして彼女が鍵を持っている脇戸の所でおやすみを言った。彼女も落ち着いた静かな声で、おやすみなさいと言った。それはまるで、今夜はまだしばらく私と一緒に居たいと言っているかのようであった。
 けれども翌日に会った時には、やはり彼女は酷く人を困らせる態度を取り続けた。仕方なく私は彼女を放っておいたが、黄昏時が迫ってきた頃になって、どうか我侭な振る舞いをするのはやめてくれないだろうか、と言った。私は語らいの時を持ちたいと心底願っているのに、いつもつれない素振りだったからだ。すると彼女は急にしおらしくなった。そして明るく思いやりに満ちた態度になった。それから彼女は、私が寛ぎたいのだと察し、ハープを持ち出してきて、日が暮れ行く中、幼い日々の懐かしいメロディを奏でてくれた。それが彼女に対する愛をさらにかけがえのないものにしたのだった。その夜、彼女は三匹のボア・ハウンドと一緒に垣根の抜け道から私を見送り、家路を辿っていった。だが私は彼女の後をそっと付いていって、無事に玄関に辿り着くまで見届けた。その夜は彼女を一人きりにしたくはなかったのだ。彼女はきっと私が遠く離れた田舎道を歩いていると思っていただろう。彼女は犬たちと歩いていたが、その中の数匹がこちらの方に向かって走ってきて、親しげに私に鼻を擦り付けてきた。だが私は犬たちをさっさと追い払った。だから彼女は何一つ気付くこともなかった。そして家路を辿りながら、小さな声でラヴ・ソングを唄っていた。だが彼女が私を愛しているのかどうかは、何とも言いかねた。好感を持ってくれてはいるにしても。
 次の夕方、私は少し早い時間に抜け道へ行ってみた。ところが何ということだろう、誰かが抜け道に立って、ミルダス嬢と話をしているではないか!それは身だしなみの良い男で、法曹界に属する人間のような雰囲気を纏っていた。男は私が近づいて行って抜け道を通ろうとしても、道を譲ろうとはしなかった。そればかりか、じっと不動だにせずに、私を蔑んだような眼差しで見詰めるのだった。それで私は手を伸ばし、彼を押しのけて道を空けさせた。
 ところが、意外なことにミルダス嬢は私に向かって非難の言葉を投げ掛けてきたから、私は驚き、酷く傷ついた。それでとっさに、彼女は私を愛しているという訳ではないのだと確信した。そうでなければ、自分よりも小柄な人間に対してそれは余りに粗暴で卑怯じゃありませんかなどと、他人の前で私を恥じ入らせるようなことを言う筈はなかった。その時の私の心情は、分かって頂けるだろう。
 しかし、ミルダス嬢の言う事にも一理あるということは認めざるを得なかった。確かに、男として紳士らしい振る舞いをすべきだったのかもしれない。さらに言えば、ミルダス嬢にしたところで、彼女の真の友人であり従兄でもある私を、本気で貶めようとは思ってはいないに違いない。だから私は弁明することはせず、ただミルダス嬢に向かって深々と頭を下げた。それから男の方にも少し頭を下げ、謝罪した。実際のところ、彼は背も低かったし、頑強でもなかった。私は彼に対して、紳士として礼儀正しく振る舞うべきだったのだろう。少なくとも、初対面の時には。
 そう考えた私は、自分の為すべきことは一つしかないと察して踵を返し、幸せそうな二人を残して歩み去った。
 それから自邸に戻るまでに、恐らく二十マイル以上は歩き回ったと思う。夜通し、いや夜が明けても、心が落ち着くということがなかったのは、ミルダス嬢を愛する気持ちが、制御できないほどに膨らんでしまっていたからだ。だから突然訪れた深い喪失感に、身も心も、そして魂までも、打ちのめされてしまっていた。
 私は散策の路を変え、獏とした一週間が過ぎた。だがその週の終りになって、どうしてもミルダス嬢の顔を一目見たいという気持ちに逆らえなくなり、通い慣れた道を散策してみた。だがそこで目の当たりにしたのは、激しい胸の痛みと嫉妬心に苛まれる光景だった。私が抜け道から伺い見たのは、ちょうど深い森の淵から離れ、こちらに歩いて来るミルダス嬢の姿だった。そしてその傍らには、あの身なりのよい法曹界の男が彼女の腰に腕を回して共に歩んでおり、それで私は二人が恋人同士なのを知った。ミルダス嬢には兄弟はおろか、若い男の親類さえいなかったのだから。
 だがミルダス嬢は路上の私の姿を認めると、一瞬戸惑ったようだった。彼女は恋人の腕を振り解き、少し顔色を変えて、会釈をした。私は深々と頭を下げた――打ちひしがれた気持ちで。今や私の心は死んだも同然だった。歩み去ろうとした時、私は男が再び彼女に歩み寄り、また彼女の腰に腕を回すのを見た。きっと二人は、悲しみに打ちのめされてよろよろと立ち去ってゆく私の後姿を見詰めているのだろう。だが私には、彼らを振り返って見る余裕などなかった。

"The Night Land"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
Transrated by shigeyuki




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 別サイトで、ウィリアム・ホープ・ホジスンの「ナイトランド」の翻訳をちまちまとやっているのですが、二章分終わったところで、ちょっと最初から手を入れようと考え直しました。大きくは変わっていないのですが、つまり推敲版です。で、それをこちらに載っけようと考えました。理由は、向こうに載せるとごっちゃになって、色々煩雑になりそうだからです。
現在書いている《ミッドナイトランド》は、この小説からインスパイアされたものなので、こちらに載せてもそれなりに煩雑になるのかもしれませんが。
 こちらには、原文は載せません。訳文だけです。

 始める前に、少し。ホジスンという人は、日本では映画「マタンゴ」の原作者として知られていますが、実は原作というよりは、原案といった方が近いようです。もとの作品は、あの映画とは全くといっていいほど別のものです。
 「ナイトランド」は、もともとは妖精文庫という叢書の一冊として、荒俣宏さんによる翻訳で刊行されたことがあります。ただし、この翻訳は完訳ではないため、今回僕がちょっとづつ完訳を目指して訳しているというわけです。とはいえ、荒俣さんの翻訳を随分参考にさせていただいています。
 「ナイトランド」は、その作品としての不安定さにも関わらず、SFやファンタジーの歴史を語る上で避けては通れない「異常作」としての評価が定着しています。この作品の魅力の一部は、誤解を恐れず言うなら、ダークな世界観を持つアクションRPGの世界観にも通じるように思えます。したがって、時代がこの作品に追いついたのだとも考えられるかもしれません。
 第一回目には、巻頭文と第一章の一部を載せます。
 その前に、もう少し。
 「ナイトランド」は、この第一章でまず読者を殺します。
 これはない方がいいという人も多いくらいです。でも、なければないで、後に上手く繋がらなくなるので、やはり必要ではあると思いますが、それにしてもこれだけベタなロマンスは、読んでいて恥ずかしくなるほどですね。ホジスンという人はハンサムでしたが、十三歳から二十一歳を過ぎる頃までずっと水夫をやっていて、この作品の刊行年に幼馴染と結婚したという人ですから、ロマンスが上手く書けないのも仕方ないのでしょう。それに、この作品全体がヴィクトリア朝的な雰囲気を意識しているため、余計にそうなってしまったのでしょうね(多分、丁度恋愛中に書いた作品だというのもあると思います)。






ナイトランド



儚き夢想



「愛し合うということ、それはあなたの魂が最愛の人と共に自然な敬虔さの中で生きること、二人の肉体が麗しい神秘を失わず、甘く自然な喜びと共にあること……そこには羞恥の心は生まれず、全ては深い慈しみ合いの果てに、健やかさと美しさに包まれるのだ。男は女の前では英雄にも子供にもなる。そして女は魂の神聖なる光であり、完璧な伴侶であり、そして同時に、男にとっての輝かしい宝物でもある……これが人の愛というものなのだ……」

「……それが愛の讃えるべき栄光であり、あらゆる優美さと偉大さを育み、浅ましき心を焼き尽くす。この世界のあらゆる人が最愛の人に巡り合えたなら、悪しき心は死に絶え、悦びと慈愛の日々に包まれることだろう」


1.麗しきミルダス



"その頬に触れることもできず
その髪を撫でることも叶わず
ただわたしは虚ろな面影に跪く─
それは貴女のたおやかな記憶……
貴女の声が風の中に谺する
暁のざわめきの中に
夜に咲く花々の間に
夜明けの小川から
夕焼けの海原から
そして私は虚しく呼び返す……"


 心地よい夕暮れが、私たちが言葉を交わすきっかけを運んできてくれた。私は家から遠く離れ、独り散策の途にあったのだが、時折足を止めては宵闇の胸壁が地平より築き上げられてゆくさまを眺め、自分の周りの世界全てを黄昏が覆い尽くしてゆく、その愛惜しくも不思議な光景を味わっていた。
 最後に足を止めた時、私は“夜の訪れの神秘”の厳粛な悦びにすっかりと自分を失くしてしまった。そうして世界を覆う黄昏の中心にたった一人佇んで、どうやら喉の奥で小さな忍び笑いを漏らしていたようだ。すると、驚いたことに、右手の田舎道に沿った木立から、私の悦びに答えるものがあった。それはまるで誰かが「お仲間ですね!」と共感の言葉を返してくれたかのようだった。私はまた喉の奥で少し笑い声を出してみた。というのも、自分の笑い声に答えてきたものが本当に人間であったのかどうか半信半疑だったからで、あるいは私の気分が生み出した妄想か、さもなくば精霊だったのかもしれないと思ったのだ。
 だが彼女は声を出して私の名前を呼んだ。少しでも姿を見ることができれば見知った顔だかどうか確かめられると思い、道の際に向かったが、そうして分かったことは、彼女はその美しさ故に《麗しきミルダス》として、この素晴らしいケント州の隅々にまで遍く知れ渡っている令嬢その人であった。そしてまた私の隣人でもあった。彼女の後見人の地所が私の地所と接していたからだ。
 しかしこの時まで私は彼女と会ったことがなかった。というのも、私は長期間に渡って外国で過ごすことが多かったし、自宅にいる時には主に勉学と鍛錬に時間を割いていたからで、彼女についての知識は、時折耳にする風聞以上のものを持ってはいなかったのだ。しかしそれで充分に満足していたし、気にも留めていなかった。先述したように、私は書物の虜になっていた上、身体の鍛錬にも余念がなかったのだ。私は常に一人のアスリートであったから、物語や大風呂敷の法螺話の中以外では、自分と同じくらい屈強な人間にも、あるいは俊敏な人間にも、これまでに出会った試しがなかった。
 私はすぐに帽子を手にして姿勢を正し、出来る限り上品な立ち居振る舞いで応対したのだが、そうしながらも、葉陰の向こうに垣間見える彼女の姿を、嘆息しつつじっと見詰めていた。この初対面の少女の美しさは、噂に違わぬものだった。彼女は気さくに立ち話を始めたが、実を言えば、私は自分たちが従兄妹同士だと告げられて初めて、ようやく我に返るという有様だったのだ。
 そう、彼女には全く取り澄ました所がなかった。私を幼名で気さくに呼び、笑いかけ、自分をミルダスだと名乗った。だがそれだけだった─その時は。それから彼女は、生け垣を超えてこちらに上がって来るなら、自分しか知らない秘密の抜け穴があるからそこを使うといいわ、内緒だけれど、村でお祭りがある時には、召使と一緒に村娘の格好をしてそこからこっそりと忍んでゆくこともあるのよ、と教えてくれた。しかしそれで多くの人の目を欺けると考えるのは、厚かましいというものだろう。
 それで私は生垣の隙間を通り抜けて上って行き、彼女の傍らに並んだ。見上げていた時から背の高い女性だとは思っていたが、実際にその通りであった。しかし私は彼女よりも頭ひとつ分高かった。彼女は、自分と一緒に家に行って後見人に会って、こんなに長い間沙汰無くしていたお詫びを申し上げましょうと、私を屋敷に招待してくれた。私の不義理を指摘しながらも、彼女の瞳は悪戯っぽさと嬉しさを宿していて、本当に輝いて見えた。
 だがその直後、彼女はさっと神妙な顔になって指先で私を制し、黙るように促した。彼女は何か物音を、右手に広がっている森の中に聞きつけたのだ。そして実際、私も何か物音を耳にした。葉の擦れ合う音がして、それから枯れた小枝の折れる音が、確かに鋭くはっきりと、静寂の中に響いた。
 次の瞬間、三人の男が森の中から飛び出し、こちら目がけて駆けてきた。それで私は彼らに向かって、近くに寄るんじゃない、さもなくば痛い目に会うことになるぞと鋭く言い放った。同時に私は彼女を左手で後ろに庇い、持っていた樫の杖を構えた。
 だが男たちは聞く耳を持たず、こちらに走り寄って来た。ナイフの閃きのようなものを目にした私は、少し考えたものの、望むところだとばかり、その襲撃を受けて立とうと決めた。すると背後で銀の笛の音が甘く甲高く響いた。彼女が犬を呼んだのだが、それは同時に屋敷の使用人を呼ぶ合図でもあったのだろう。
 しかし、実際のところ、ここに居もしない助力など意味がなかった。助けが必要なのは今この瞬間なのだ。私は美しい従妹の前で自分の力を披露することを躊躇わなかった。忠告通りに、私は前にさっと踏み込んだ。そして持っていた杖の尻を左側の男の身体に突き入れると、そいつは木偶のように倒れた。それから私は極めて鮮やかにもう一人の男の頭を打ち付けたが、その一打はどうやら頭骨を割ったようで、男はすぐに地面に転がった。三人目の男には拳で迎え撃ったが、二発目の止めを繰り出す必要もなく、すぐに仲間たちと同じ運命を辿っていった。こうして戦いは始まる前からあっけなく終わってしまい、私は誇らしげに鼻で笑ったが、静けさを取り戻した黄昏の中に従妹のミルダス嬢が佇み、感服の眼差しでこちらを見詰めていることに気付くと、決まり悪さを感じた。
 けれどその直後に、彼女の笛の音で解き放たれた三匹の大きなボア・バウンド(訳注・現在ではグレート・デーンと呼ばれている)が飛びかかってきた。彼女は犬たちを私から引き離すのに苦労したし、私の方といえば、犬が大地に横たわっている男たちを酷く傷つけたりしないよう、追い払おうとした。間もなく男たちの呼び騒ぐ声が聞こえ、夜の闇の中にランタンの光が見えた。それからランタンと棍棒を手にした屋敷の下男たちが駆けてきた。犬と同じく、最初は私に対してどう対処すべきなのか戸惑っていたが、横たわっている男たち目にし、またこちらの名前と顔をはっきりと確認すると、しかるべき敬意を持った態度で接するようになった。しかし私の美しい従妹はそれ以上だった。彼女は私から離れようとはしなかった。最初私に対して彼女が見せていた親愛の情が、より深く、新たになったかのようだった。
 下男たちは、意識を取り戻しつつある暴漢たちをどうしましょうかと聞いてきた。だが私は下男たちに銀貨を渡して、後の処置を任せた。彼らは暴漢らに十分な制裁を加えたようだ。何故なら、私たちがその場を後しにてからも随分と長い間、男たちの悲鳴が聞こえていたのだから。
 そうして私たちがホールに到着すると、従妹は私を後見人の元に連れて行った。後見人のアルフレッド・ジャールズ卿は、老齢の、尊敬に値する人物で、我々の地所のかなりの部分が互いに接していたことから、過去に多少の面識はあった。彼女は私に向き合い、いささか大げさに誉めそやした。それに答え、老後見人は私に対して、礼節を尽くした、丁寧な感謝の言葉を述べてくれた。このことがあってから、私は賓客として歓迎されるようになったのだった。
 私はその宵をそこで過ごし、晩餐を共にして、食事の後はミルダス嬢と共に再び庭に出た。彼女は、これまでに出会ったどんな女性よりも親しみを込めて私に接してくれた。それはまるで、彼女が私のことをずっと昔から知っているかのように思えるほどだった。だが実を言うと、私も彼女に対して同じような印象を持ったのだ。というのは、説明することが難しいのだが、まるで私たち二人は共に相手の性癖だとか嗜好だとかを既に知っていたかのようで、互いの中に通じるものを見つけ出し、確認し合うことに悦びを感じていたのだから。だが、そのことに驚きはしなかった。余りにも自然に分かり合える、その心地よさを除いては。
 それからもう一つ、私はその夜のミルダス嬢の心の中に蟠っていることがあるのに気付いた。それは、私が三人の暴漢たちをいとも簡単にあしらっただけで満足してしまったということである。彼女は私に向かって率直に、あなたは実際にはそんなに強くないのかしら、と訊いてきた。若さゆえのプライドが首をもたげ、私は笑ったのだが、すると彼女はいきなり私の腕を掴み、自分の手で私が一体どれほど強いのか確かめようとした。しかしその太さと固さに驚いて、掴んだ時よりもなお唐突に腕を放し、小さな驚きの声を漏らした。その後は、彼女はすっかりとしおらしくなって黙り込み、私に並んで歩いたが、何か物思いに耽っているように見えた。それでも彼女は、決して私から離れようとはしなかった。
 だが、もしミルダス嬢が私の力強さに奇妙な満足感を感じたのだとしても、私はそれになお勝る驚きと戸惑いを、夕餉の席でのキャンドルの灯りの下ではさらに引き立って見えていた彼女のその美しさに感じていたのだった。
 だが後の日々には、それは私に更なる大きな喜びをもたらしてくれた。彼女は私に、《宵の神秘》であるとか、《夜の魔法》であるとか、《黄昏の喜び》であるとか、そうしたもの全ての中にある幸福感をくれたのだから。
 今でも思い出す。ある夕方のこと、二人で庭園を散歩していた時に彼女は、半ば口から突いて出たという感じで、まるで妖精たちの夜ね、と言いかけた。そしてはっとして足を止めた。まるで私が何の話か分からずに首をひねっているのではないかと思ったかのように。だが実を言うと、私は幸福感に酔いしれている最中だった。それで私は普段と変わらぬ声で穏やかに答え、そんな夜には《眠りの塔》が聳え立つでしょうから、間違いなく《巨人の墳墓》を見つけるのにはうってつけだし、《極彩の樹冠を持つ樹》や、あるいは……。そこで私ははっと我に返って話を止めた。というのも、彼女が突然私に取り縋り、その手で私を揺さぶったからだ。そして一体どうしたのかと訊ねる間もなく、切羽詰ったような声で、ねえ話して、続けて、と懇願してきたものだから、私はよく分からぬままに、いや、《月の庭園》のことは取り立てて話すほどのことじゃないんです、何せずっと昔の、私の夢物語なんですから、と言った。
 するとミルダス嬢は奇妙に低い声で何か叫び、私の足を止めさせて、向き合った。そして真剣な様子で私に質問を投げかけてきた。私はそれに対して真摯に答えた。というのも、彼女もそのことについて知っているということに突然気が付いて、興奮してきたからだった。事実、彼女は私に向かって、わたしも知っていますわ、と語った。しかし彼女は、そんな自分の夢の中の奇妙な世界の記憶を持っている人間なんて、この世にいるはずはないとずっと思っていたのだ。ところが今、私もその奇妙な夢の世界を彷徨ったことがあるのだと知った。それで、本当に驚いてしまった……吃驚しました!彼女は幾度となくそう言った。それからまた歩き始めたが、彼女は私に、あの日の夕方、道で一休みしていた私を目にして声を掛けようと思ったのは、それほど不思議な事ではないのだと言った。というのも、彼女は私たちが従兄妹同士だということを以前に聞いていたし、また馬で出かけてゆく私の姿を何度も目にしたこともあったし、さらには私の噂も人に聞いたことがあったのだからだ。それに、おそらくは私が《麗しきミルダス》嬢に殆ど関心を持たなかったのも、ちょっと面白くなかったようだ。だが私は他のことでずっと頭が一杯だっただけで、もしこうして出会う前にきちんと彼女と挨拶を交わす機会があったなら、とても無関心でなどいられなかっただろう。
 しかしお互い他には誰も知らないだろうと思っていた夢の世界を共有していたというのは、驚くべき事実ではあったが、全てが細部に至るまで完全に一致していたというわけではない。さらに話を進めた時には、私の夢が彼女にはまるで馴染みがなかったり、あるいは彼女が慣れ親しんだ夢が私には何のことだか分からないということも出てきた。そんな時には私たちは少しだけ残念な気持ちにもなったが、それでも幾度となく、片方が何か新しいことを話すと、もう片方もそのことを知っていてその話を補うことが出来たというのは、二人ににとっては歓喜であり、驚嘆すべきことであった。
 どうか私たちが時の経つのも忘れて驚きと共に語り合い、次第に知識や友情を深めていった様子を思い浮かべて頂きたい。
 実際、どれだけの時が流れたのか私には分からなかった。しかしそのうち辺りが騒がしくなり、犬の吼える声と男たちの叫ぶ声がして、ランタンの灯りが見え、私はいったい何があったのだろうと思った。だが、私たちがすっかり時間を忘れて話し込んでいたせいだということにミルダス嬢が突然気付いて、小悪魔めいた小さな笑い声を漏らした。要するに、彼女の保護者が(三人の暴漢たちのこともあり、心配をして)捜索させたのだ。しかしその間、私たちは肩を並べて、幸せに時を忘れてそぞろ歩いていたのだった。
 私たちは帰途につき、明かりの方へと向かった。しかし私たちが帰り着くより早く、犬が私たちを見つけた。犬たちは、もうすっかり私のことは覚えてくれたようで、周りを跳ね回り、親しげな声で吠えてきた。するとすぐに下男たちは我々に気付き、ジャールズ卿に私たちが無事であるということを報告するために戻っていった。
 これが私たち二人の馴れ初めであり、ミルダスへの愛の始まりであった。

"The Night Land"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
Transrated by shigeyuki



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 「よく迷いませんね」書棚の間を躊躇うことなく歩いてゆくオルラに感心して、僕は言った。
 「大したことではないんですよ。まず最初に研修することがそれですから」オルラは立ち止まって、言った。そして手近な棚に向き合った。「本は、デタラメに並んでいるわけではないんです。本の分類については、大体は分かってますよね?それに従って本が配置されているんです。どのフロアもだいたい同じ。だから並んでいる本を見れば、だいたいの方角も自分のいる位置もすぐに分かるようになっているんです」
 「ああ、なるほど。でも、頭では分かりますが……」
 「後は慣れ、ですよね。大丈夫、こんなのはすぐに慣れますから」オルラはそう言った後、小さく頷いて、続けた。「……あっ、でも最下層に近づくにつれて、段々とそれだけでは無理になるんです。現在の分類法になる以前の本や、そもそも分類さえまだされていない本が山のようにあって、未整理のまま並べられているんですね。その量が余りにも膨大で、果てしのない作業になっているんです。私や、ええっと、ディールさんも今こうして研修中ですが、そうした書庫担当の司書が懸命になって作業をしてはいても、人手も少ないですし、どうしても捗りません。分かりやすい本ばかりなら良いのですが、意味不明の言語で書かれた本だとか、そもそも何について書かれているのか理解しがたい本だとか、手に持つとどんどんと崩れて行く本だとか……ともかく厄介なものが大量にあって、一々時間がかかるんです。まあ、一度に全部を説明することは難しいですし、それにそうしたことにはいずれ直面することになると思うので、その時にまた説明しますが……」
 僕は、よろしくお願いしますと頭を下げた。そして床を見詰めながら、遥かな地下に広がる書物の迷宮を思い浮かべた。すると、足元がスッと透き通ってゆくような気がした。遥かな深淵の闇の中に消えて行く所まで、夥しい数の書物の山が、足下に見えた気がした。僕はしばらくじっとその光景を見詰めていた。
 「ところで」と僕のその様子を不審に思ったらしいオルラが声をかけてきた。「ディールさんは、どうして一級書庫資格を取ろうと思ったんですか?」
 「本が好きだからです」と僕は言った。「とても興味があるんです。誰からも忘れられた書物に」
 「確かに『誰からも忘れられた書物』なら、ここには膨大にあるわ」とオルガが笑った。「どちらかというと、そんな本ばかりですね。理由はそれだけなんですか?他に理由は?」
 「いえ、すぐに思いつくのは、それだけです」僕は言った。「あの、オルラさんは?」
 「私ですか?私は覚えておいた方がいいと思っただけなんです。仕事として。本は好きだったんですが、特に書庫に興味があったわけでもないですし。でも、みんなが言うほど嫌な仕事とは思わないし、やっていて結構愉しいと思うので、多分、私には向いているんでしょうね」
 「向き不向きがあるんですね?」
 「ええ。それはあると思います。それも、かなり。というのも、この仕事に向かない人の中には、時々おかしくなってしまう人もいるんです。閉所恐怖症、という言葉だけでは説明できないほど、打ちのめされてしまうようなんです。正直に言って、私には理解できないんですが、そうして壊れてしまった人を何人も見てきました。だから、この地下の書庫での作業に向いていない人は、早めにここの持ち場から離すことにしているんです」
 「そのほうがいいのでしょうね。僕は多分大丈夫です。でも、そうなる人の気持ちが全く分からないということもないですね」
 オルラは微笑んだ。そして、それでは今から最初の研修を始めることにしましょうと、きっぱりと告げた。

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「マラカンドラ―沈黙の惑星を離れて」 C.S.ルイス著 中村妙子訳
ちくま文庫 筑摩書房刊

を読む。

 有名な作品だけれど、これまで読まずにきていた一冊。感想としては、まさに神学SFといった感じで、時代遅れなのかといえば、まあそうとしかいえない。それに、当時の社会環境への風刺というか、戯画的な感じが、ちょっと鼻につく。
 ちょうど「天使と悪魔」の映画の予告などがテレビで流れていて、これはガリレオに関する映画のようである。つまり、科学と宗教の対立がテーマとしてあるようだ。ガリレオは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に出てくるブルカニロ博士にも似て、科学で全てが説明できるのではないかという思想を持っていたとも聞く。それが教会の逆鱗に触れたようなのだ。西欧では、昔からこの手の論争がずっと盛んであるようだ。
 このルイスの「マラカンドラ」も、そうした科学対宗教の流れの中にある物語と言える。ウェルズで花開いたSFという分野が、ホジスンらを経てステープルドン、クラークへと続く「キリスト教ではない宇宙意識」という流れに繋がって行くことに対する、ルイスの抵抗とも取れる一冊なのだ。ルイスという人は、ナルニア物語でもそうだったように、芯までキリスト教中心の人だったから、科学というものが神や心の問題を無視してゆくことに我慢ならなかったのだろう。それも分かるが、神が介在した時点で、とたんに話が浅くなることも事実。それでも、ルイスにはどこか身が軽いところがあって、物語を語ることは上手いので、それなりに楽しめた。科学的な知識は皆無に近いようだが、骨董品的な神学SFとしての香気はあるかもしれない。

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 ぼくは医者になることを選び、医学大学の中で最も偉大な――ケンブリッジに入学し、学ぶことにした。そこでぼくは一人の男に出会ったのだが、彼の名前はスコットランドといって、世界について奇妙な見解を持っていた。彼はトリニティのニュー・コートに幾つも部屋を持っていて、ぼくたちは大抵そこにいた。彼はかねがね《黒の力》と《白の力》について話していたが、からかいの種になるほどで、皆は彼のことを『黒と白の謎の男』と呼んだものだったが、それというのは、ある時誰かが『宇宙の暗黒の謎』について何やら話していた時、スコットランドは彼の話を遮って、こう言ったのだ。『黒と白の謎だ』。
 スコットランドについて、今ぼくが思い出すことは――感じの良い、優しい心を持っていて、猫とサッフォーとアンソロジーが大好だったといこと、背がとても低かったということ、ローマ風の花をしていて、いつでも首を真っ直ぐに伸ばしておこうとしていたということ、それにお腹を引っ込めようとしていたということ、などである。彼は常に宇宙は二つの力のせめぎあいによって成り立っているといっていた。つまり、『白』と『黒』の力である。『白の力』は強いが、この独特の惑星上では勝利するだけの充分な下地が見つからなかったのだ。『白の力』は、ヨーロッパの中世に力の頂点を極めたものの、それ以降は次第に圧倒的な『黒の力』の前に屈していった。そして最終的には『黒の力』が勝利するだろう――あらゆる場所でではないだろうが、少なくとも“この星”では――そしてもし他の世界が手に入れられなくても、少なくとも“この”世界は、『黒の力』の手中に落ちるだろう。
 これはスコットランドの説だったが、彼はそれを飽きずに繰り返した。多くの人々にしてみればそれは単に考え方の自由にしかすぎなかっただろうが、一部の人にしてみれば、内面の苦悩に対する啓示にも感じただろうし、ぼくなどは、彼のことばに皮肉な笑みを浮かべたものだった。その言葉がぼくに与えた影響は、甚大だった。
 
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****************


A doctor I became, and went to what had grown into the greatest of medical schools--Cambridge; and there it was that I came across a man, named Scotland, who had a rather odd view of the world. He had rooms, I remember, in the New Court at Trinity, and a set of us were generally there. He was always talking about certain 'Black' and 'White Powers, till it became absurd, and the men used to call him 'black-and-white-mystery-man,' because, one day, when someone said something about 'the black mystery of the universe,' Scotland interrupted him with the words: 'the black-and-white mystery.'
Quite well I remember Scotland now--the sweetest, gentle soul he was, with a passion for cats, and Sappho, and the Anthology, very short in stature, with a Roman nose, continually making the effort to keep his neck straight, and draw his paunch in. He used to say that the universe was being frantically contended for by two Powers: a White and a Black; that the White was the stronger, but did not find the conditions on our particular planet very favourable to his success; that he had got the best of it up to the Middle Ages in Europe, but since then had been slowly and stubbornly giving way before the Black; and that finally the Black would win--not everywhere perhaps, but here--and would carry off, if no other earth, at least this one, for his prize.
This was Scotland's doctrine, which he never tired of repeating; and while others heard him with mere toleration, little could they divine with what agony of inward interest, I, cynically smiling there, drank in his words. Most profound, most profound, was the impression they made upon me.

* * * * *


"The Purple Cloud"
Written by M.P. Shiel
(M.P. シール)
Transrated by shigeyuki




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 先日の日曜日、森林と渓流を見たくて、奥多摩へ。
 新緑が始まったころからずっと行こうと思いつつ、延び延びになっていた。
 多摩川の川岸に降りたときから、すっと目の奥が癒されるような感じがした。目の疲れが、一気に引いてゆく感じ。自分でも驚くほど。

 山道で、やたらと大きな蟻を見た。お腹の上部が赤くて、二センチ近くある。初めて見る蟻。家に帰って調べたら、どうやらムネアカオオアリの女王らしい。へえ、女王蟻なんて初めて見たよ、とちょっと嬉しかった。踏み潰すのを止めてよかった。

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 そう、覚えている。ぼくは大声で笑ったのだ!だが心の奥底では、まさにその瞬間に自分の人生が転機を迎えていることを、自分の若さゆえに、かつて地球上に存在したことのあるあらゆる生物が直面したこともないほどの事態を引き起こすことになるということを、知っていたのだ。それは第一には二つの夢のためで、第二には、クラークが去った時、婚約者に会いに行こうと手袋に手を通しながら、ぼくは自分の中に聞き覚えのある二つの『声』を確かに聞いたからなのだ。一つの声はこう言っていた「行かないですぐに彼女に会いに行くんだ!」そしてもう一つの声はこう言っていた。「いいね、行こう、行こう!」
 ぼくの中の二つの『声』!普通の人ならば、その言葉はきっと二つの矛盾した衝動か――あるいは揺れ動く気持ちにすぎないのだと、受け取ってくれるだろう。現代人であれば、そうした声がどれだけ大きく、またどれほどリアルに思えるか理解してくれるだろうし、何度となくぼくは、そうした二つの声が、「呼吸よりも近しく」、詩的な言い方をすれば「手と脚よりも親密に」、自分の中で争っているのを聞いた。
 初めてそうしたことがあったのは、七歳の頃だった。ある夏の宵、ぼくは父の松林で遊んでいた。そこは石切り場の崖から半マイル離れた場所だったが、遊んでいるうちに、いきなり自分の内側で誰かがぼくに向かってこういっているかのように思った。「今すぐ崖に向かって歩けよ」そしてまた他の誰かがこう言っているかのように思った。「絶対にそっちには行くな」――それは最初は単なる囁きだったが、次第に大きくなり、ついには言い争う怒号のようになったのだ!ぼくは崖に向かった。崖は険しくて、三十フィートほどの高さがあり、ぼくはそこから落下した。数週間後、口が利けるほどに回復した時、ぼくは驚いた顔の母に向かって、崖の縁で「誰かがぼくを押して」、別の誰かが崖の下で「ぼくを受け止めた」んだ!と語った。
 十一歳の誕生日を迎えた直後のある夜、ベッドに横たわりながら、ぼくの人生というのは何か重大な意味を持っているか、さもなくばぼくには計り知れないものに違いないという考えが頭をよぎった。二つの「力」は、互いに相反し、ぼくに付き纏い、一方はどういう理由でだかぼくを殺そうとしているが、もう一方はぼくを生かそうとしていて、一方がぼくにああしろこうしろと望めば、もう一方はそれとは逆の行動を取らせようとするのだった。ぼくは他の男の子たちとは違っていたが、それを言うなら、生物はそれぞれ違った個性を――いくらかは持っているのだ。既にぼくには雰囲気の手触りや直感の閃きといった、オカルト的とも原始的とも言えるような概念が備わっていたが、そうしたものは初期の人類には発達していたものだと確信していた。だから、「神はかく言い給うた」といったような聖書風の表現でその聞こえてくる“声”が心に浮かんだ疑問に対して示唆を与えるというようなことはまずなかった。ぼくには原初の人類が二つの耳とは別の耳を持っていたという考えを理解し難いということがよく分からなかった。だから後になって、ぼくが多かれ少なかれそうした原初の人類に似ていたるのだということを知っても、それほど驚きはしなかった。
 だが、おそらくは母を除けば、どんな創造物でさえその時のぼくの状態を想像できたものはいなかった。八年生になったとき、ぼくは自分のことを、試験のための詰め込み勉強をやったり、クラブでふらふらと過ごしたりしている普通の若者だと思っていた。専門課程を決めなければならなくなった時、あれこれと考えた挙句、心の声に耳を澄ませて、自分がそのことに対して興味がないのだということに気付いた―ー辛いことに、心の中では二つの声が声を荒げて言い争っていた。片方が「科学者――医者になれよ」と言うと、もう片方は「法律家か、エンジニアか、芸術家か……ともかく、医者以外になるべきだ!」と言うのだった。

****************


Yes, I remember: I pretended to laugh loud! But my secret heart knew, even then, that one of those crises was occurring in my life which, from my youth, has made it the most extraordinary which any creature of earth ever lived. And I knew that this was so, firstly, because of the two dreams, and secondly, because, when Clark was gone, and I was drawing on my gloves to go to see my fiancée, I heard distinctly the old two Voices talk within me: and One said: 'Go not to see her now!' and the Other: 'Yes, go, go!'
The two Voices of my life! An ordinary person reading my words would undoubtedly imagine that I mean only two ordinary contradictory impulses--or else that I rave: for what modern man could comprehend how real-seeming were those voices, how loud, and how, ever and again, I heard them contend within me, with a nearness 'nearer than breathing,' as it says in the poem, and 'closer than hands and feet.'
About the age of seven it happened first to me. I was playing one summer evening in a pine-wood of my father's; half a mile away was a quarry-cliff; and as I played, it suddenly seemed as if someone said to me, inside of me: 'Just take a walk toward the cliff'; and as if someone else said: 'Don't go that way at all'--mere whispers then, which gradually, as I grew up, seemed to swell into cries of wrathful contention! I did go toward the cliff: it was steep, thirty feet high, and I fell. Some weeks later, on recovering speech, I told my astonished mother that 'someone had pushed me' over the edge, and that someone else 'had caught me' at the bottom!
One night, soon after my eleventh birthday, lying in bed, the thought struck me that my life must be of great importance to some thing or things which I could not see; that two Powers, which hated each other, must be continually after me, one wishing for some reason to kill me, and the other for some reason to keep me alive, one wishing me to do so and so, and the other to do the opposite; that I was not a boy like other boys, but a creature separate, special, marked for--something. Already I had notions, touches of mood, passing instincts, as occult and primitive, I verily believe, as those of the first man that stepped; so that such Biblical expressions as 'The Lord spake to So-and-so, saying' have hardly ever suggested any question in my mind as to how the Voice was heard: I did not find it so very difficult to comprehend that originally man had more ears than two; nor should have been surprised to know that I, in these latter days, more or less resembled those primeval ones.
But not a creature, except perhaps my mother, has ever dreamed me what I here state that I was. I seemed the ordinary youth of my time, bow in my 'Varsity eight, cramming for exams., dawdling in clubs. When I had to decide as to a profession, who could have suspected the conflict that transacted itself in my soul, while my brain was indifferent to the matter--that agony of strife with which the brawling voices shouted, the one: 'Be a scientist--a doctor,' and the other: 'Be a lawyer, an engineer, an artist--be anything but a doctor!'

"The Purple Cloud"
Written by M.P. Shiel
(M.P. シール)
Transrated by shigeyuki




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 もう二週間以上前のことになるけれども、SF作家のJ.G.バラード氏が亡くなったらしい。享年78歳。
 二ヶ月ほど前には、P.J.ファーマー氏も亡くなったというから、僕が一時期熱狂的に読んでいたSF作家が、二人相次いで他界したということになる。もっとも、ファーマーの場合は既に91歳だったから、かなりの長命だった。
 バラードの作品の中では、僕は「ヴァーミリオン・サンズ」のシリーズが一番好きだった。さびれかけた、架空のリゾートを舞台とした連作短編である。だが、考えてみれば晩年の「コカインナイト」や「スーパーカンヌ」、あるいは「楽園への疾走」なども、このシリーズの延長線上にあった気がする。バラードの魂は、今頃きっと懐かしいヴァーミリオンサンズを再訪しているのだろう。
 ファーマーの作品では、「リバーワールド」のシリーズが大好きだった。この地球にかつて生まれたあらゆる人類が、どことも知れぬ星の、巨大な河の側に一斉に転生するという物語である。そこでは、もう人は年を取ることも、死ぬこともない。仏教の輪廻の思想がそのまま舞台となったような世界。ファーマーは、きっとそこへ向かう準備を終えたのだろう。

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 研修は、次のような流れに沿って行われた。
 最初の一年間は、地下十一階から始まり、そのまま下に向かって、月に二フロアーずつ研修する。つまり最初の月には地下十一階と十二階、次の月には地下十三階と十四階、というわけである。その各月には、そのフロアに納められている書物の概要と、それに加えて様々な書物の取り扱いに関する項目を学習する。そして次の年には、地下三十五階から下を、月に一フロアーずつ研修することになるのだが、この年にはさらに様々な書物に関する学習項目がある。これは、非常に細部に渡ったものだ。そうして地下四十五階までの研修を終えると、最後の月にはそれまでのおさらいがある。残りの五階分は、研修が終わり、テストに合格した後にしか立ち入りが許されない。そしてこの五階分の最下層にこそ、最古の文献が眠っているのだった。
 初めての研修で、一級司書のオルラに連れられて地下十一階の書庫に入った時のことは、今でもよく思い出す。地下十階までとそれ以深とでは、全く部屋の様相が違っていたから、印象が鮮烈だったのだ。
 先ずは部屋の天井までの高さが違った。地下十階までは各部屋の高さは五メートルほどはあったのだが、地下十一階ではその高さが二メートル半ほどしかなかった。そしてその高さ一杯に書棚があり、ぎっしりと書物が並んでいる。書物間に隙間は殆どない。そして書棚は、広いフロアの中に整然と配置されているわけではなかった。図書館の地階のフロアは、ほぼ正方形をしていて、その一辺の差し渡しがだいたい三百メートルほどあるのだが、その広大なフロアに、上と下の階を繋ぐ階段は二箇所しかなく、それ以外にはエレベーターがたった一基あるだけだ。したがって、それはまるで書物で出来た迷宮のようだった。一部の場所を除けば、書棚に並ぶ書物以外には、自分の現在の位置を確かめる方法がなかった。書棚はどれも同じで、硬く丈夫な、叩いても音が全く響かない黒っぽい金属で出来ていたが、これらは天井を支える支柱のような役目も果たしているようだった。書棚の設置の仕方には、その辺りのことが多分に関係しているのだ。フロアの天井には無数の灯りが据え付けられていたが、自動的に人がいることを察知し、その周囲五メートルほどだけを照らし出すような仕組みになっていた。少しだけ黄色い灯りは、書架の本を読むためには支障がない程度の最小限の明るさで、遠くの方までを照らし出すだけの光力はない。したがって、遠くの方は真っ暗なままだ。もちろんフロアの全ての灯りを灯すことも可能ではあったが、それは稀なことで、普段はエネルギーの節約と書物の保護のため、そういうシステムになっている。書庫に常に人がいるわけではないから、いやむしろ誰もいない時間の方が多いのだから、それで充分なのだ。そしてそれが、ますます書庫を迷宮のように見せていた。従って、その場所に収められている書物のことを知るということは、ある意味で、迷宮の地図を手に入れることにも似ていた。手近な書物の名前を読みながら、自分の位置を把握するわけである。《ミッドナイトランド》に住む者は誰しも暗闇に慣れてはいるが、それでもこの閉塞感は奇妙な感覚だった。暗い書庫の中を彷徨うように歩きながら、ふと遠くに仄かな明かりが見えたりすると、『ああ、誰かがいるのだな』と、ほっとした気持ちになったりもしたものだった。そしてその閉塞感は、下の階に降りて行くほどに自然と強くなって行くのだ。例えば地下四十階辺りのフロアでたった一人で作業をしているとき、ふと自分の頭上と足下に広がる迷宮に意識が行ったりすると、たまらなく恐ろしくなることがあった。まるで自分が、二度と出ることの出来ない迷宮の奥深くにたった一人で閉じ込められてしまったかのような、そんな気がしてくるのだ。辺りを見回しても、見えるのはせいぜい自分の半径十メートル程度の範囲でしかない。もちろん、音らしい音もない。この状態が平気な人間はむしろ少ないだろう。司書の誰もがこの地下深くの書庫に出入りできる資格を取ろうとは考えないというのも、あるいは言い方を変えれば、適性を越えてまで敢えて資格を取るように強制させないというのも、この圧倒的な孤独と恐怖の中に身を置いてみると、充分に頷けるのだった。

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 久々に三浦半島へ。
 三戸浜周辺で半日を過ごす。
 天気は良かったのだが、風がすごかった。
 一日風に吹かれると、さすがに疲れる。
 それでも、よい気分転換になった。

 今朝、忌野清志郎さんの訃報を聞いて驚いた。
 きっと持ち直すと思っていたのだけれど。
 坂本龍一とのコラボで「いけないルージュマジック」を聴いて(というよりも、映像も込みで観たという方が正しいのかもしれないが)驚いたのが、忌野清志郎という名前を知った最初だった。子供だったから、世の中にはなんて変な人がいるんだろうと、軽くショックを受けたものだった。あれから随分たつが、曲を聴くと、いろいろと思い出すことがある。そういう人は、多いだろうと思う。
 合掌。

追記:
 youtubeにアップされていた、ハナレグミとの「サヨナラcolor」を見つけたので、リンクを貼ります。曲は、永積タカシさんの曲なんですけどね。

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