漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




 今日は上野の森美術館で開催されている「生頼範義展」を観に行ってきました。
 開催は明日までという、滑り込みだったせいか、かなりの混雑。そこまで混んでないという話だったから、油断してましたが、さすがに閉幕直前はそうはゆかなかった。入場までに30分ほど待たされ、中へ。並んでいた方々は、さすがに年齢層高め、男性率高め、でした。自分も含めて。
 入場してすぐにあるのは、生頼範義さんの「自分は生活者として、肉体労働者として、絵を描いてきたのだ」という言葉。芸術家を目指すことを諦め、プロとして売るための絵を描くことに自ら徹してきたのだという複雑な心情が覗え、同時に、ちょっとした時代性も感じました。今ならば、これほどまでに悲愴な決意をする必要など、ないだろうからです。
 さて、その生頼さんの言葉のある部屋には、これまでに手がけた書籍の一部をピラミッド型の展示スペースに並べた、いわゆる「生頼タワー」がありました。これが圧巻で、テンションが一気に上がりました。持っている/持っていた本がたくさんあり、なんだか、ちょっとこみ上げてくるものがありました。その部屋には、他にもポスターがたくさん展示されており、撮影も可能でした。一応撮影もしてみたのですが、テンションが上がっていたので、それどころではなく、あまり良い写真は撮れていません。ネット上には、もっとちゃんとした写真がたくさんあると思うので、そちらの方を探して頂ければと思います。
 次の部屋には、ゴジラやスターウォーズの原画という、いきなりのクライマックスがやってきます。ここは、さすがに混雑していて、ゆっくり観れませんでした。それでも、これまでに何度もポスターで目にしてきた絵の実物を見れたのは、嬉しかったです。ただまあ、正直言えばこのあたりにはそれほどの思い入れもなかったんですよね。
 思い入れがあったのは、どちらかといえばその後の小松左京や平井和正のカバー絵、ハヤカワ文庫のカバー絵、それにSFアドベンチャーの表紙絵などです。
 絵を見ながら、いろいろなことを思い出しましたね。なんで角川文庫の小松左京作品のカバー絵にはミケランジェロの絵の模写が必ず入ってるんだろうと不思議に思っていたこととか、幻魔大戦が映画化したときに、大友克洋さんの描いたベガを見て「なんじゃこのおっさんみたいなベガは!」と思ったこととか。一時期、幻魔大戦のカバーが大友さんのものに差し替えられたことがあって、嫌だったんですが、多分いまではそちらの方がレアなんでしょうね。そうそう、生頼さんの描いたベガを竹内隆之さんが立体化したものが展示されていたのですが、これがものすごく格好よかった。やっぱりベガはこうだよな、とつくづく思いましたね。
 幻魔大戦といえば、平井和正さんももう随分前に亡くなってしまいました。一時期はかなり読んでいて、好きだったんですが(いちばん好きだったのが、「エイトマン」をノベライズするにあたって、黒人を主人公に据えた「サイボーグ・ブルース」でした。これは本当に傑作だったと思います。初期のウルフガイも好きでした)、幻魔大戦の途中、GENKENが出てくるあたりからだんだんと宗教がかってきて、話がちっとも進まないまま延々と霊的なことばかり話すようになってしまい、次第に気持ちが離れてゆきました。SFアドベンチャーで連載されていた真・幻魔大戦も、途中までは読みましたが、いつ脱落したのかさえ覚えていないくらいです。結局、幻魔大戦シリーズでいちばんおもしろかったのは、新・幻魔大戦だったように思います。ウルフガイシリーズも、人狼白書あたりからそんな感じになって、読まなくなりました。ちょうど無印幻魔大戦が全20巻で終わった後くらいに、これからはあまり文庫では出したくないというようなことを言い出して、ハードカバーでの刊行が続いたことも、お金のない学生にとっては買わなくなる理由には十分だったように思います。そうした変化は、後から思えば平井さんがある宗教に傾倒していたからだったのですが、当時はそんなことは知らなかったから、いったいどうしたんだろうという感じでした。いずれにせよ、平井さんの小説はそれ以来読まなくなってしまいました。どう考えても終わりそうになかった幻魔大戦は、亡くなる少し前にまさかの完結をみているとは聞いていますが、いまさら読む気にもなれないというのが正直なところです。
 SFアドベンチャー表紙の生頼美女は、安定の迫力でしたね。
 さて、展示最後の部屋には、生頼さんのオリジナル絵画が数点、かなりの迫力で展示されていました。絵画作品なのですが、長年イラストレーターとしてやってきた生頼さんですから、タッチはもうイラストレーターとしてこなれた感じのままです。ただ、大きさが全く他とは違う。それに、扱っている題材も違う。仕事として描いていた絵は、どちらかといえば「格好いい戦い」といった感じのものなのですが、その部屋に展示されていた絵は、明らかに「戦いの悲惨さ」に焦点を当てて描かれたものでした。特に七年を費やしたという大作「破壊された人間」は、生頼さんはもともと兵庫県明石市の生まれなのですが、幼い頃に自ら体験した空襲などの記憶から感じた、戦いの中では人は殺されるのではなくただ破壊されるだけであるという、力強いメッセージが込められた壮絶な作品でした。
 ともかく点数が多く、十分に堪能できる展覧会でした。近年では、こうしたどこか泥臭いというか暑苦しいというか、そうした絵が使われることも少なくなり、どちらかといえばデジタルで描かれたすっきりとした絵ばかりが本の表紙を飾るようになりましたが、筆で描かれた一枚の大きな絵というものの持つ意味を少しばかり考えました。生頼範義さんの誠実さは、その完璧な技術力に、計算された構図に、雄弁に現れていると思いました。良い展覧会でした。


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 一昨日は恵比寿の「LIBRAIRIE6/シス書店」で開催されていた「まりの・るうにい『月街星物園』展」の最終日でしたが、今回は妻を伴って、再訪してきました。
 午前中からちょっと用事で小手指の方まで出かけていて、6時までの開館時間内に間に合うかどうか、かなり微妙だったのですが、この機会を逃すと後悔することになるかもしれないし、閉店ぎりぎりかもしれないけれども、ともかく急いで行くだけ行ってみようと、駆けつけることにしました。その思いが通じたのか、乗り換えなどがとてもスムーズに行き、5時半頃には到着することができました。
 最終日ということで、画廊は賑わっており、るうにいさんも在廊されていました。改めて展示作品をひと通り鑑賞した後、前回には実物を見てしまうと発色の違いがどうしても気になってしまって買わなかったポストカードを、やっぱり買っておこうと五枚のうち四枚を購入。それから、画廊の中央に置かれたベンチに座っていたるうにいさんに、思い切って、お願いがあるのですが、この本にサインを頂けないでしょうか、と話しかけました。
 実は今回、ぼくが初めてるうにいさんの絵に出会った一冊、妖精文庫の「ナイトランド」(W.H.ホジスン著)の上巻を持ってきていました。三十年ほど前に買った、思い出の一冊です。その本にサインを頂けないでしょうか、と頼んだのでした。るうにいさんは快く了承して下さり、ペンを手にしましたが、そのまま少し考えて、「ひらがなでいいんですか?」と一言。すぐに、これはきっと、この頃の絵のファンならもしかしたらサインはアルファベットの方がいいのかもしれないと、気を回してくださったのだと思いました。確かに、本当は見慣れたアルファベットのサインの方が欲しいという気持ちがありました。それで、「できればアルファベットがいいのですが」とお願いすると、るうにいさんは銀のマーカーで「M.Lounie」とサインをしてくださいました。やはり、こちらのほうがしっくりきます。
 それからしばらく、妖精文庫のことから、ルフラン社のパステルのことまで、いろいろと話をさせていただきました。やっぱりかなり緊張していたので、支離滅裂な応答をしてしまっていなければいいのですが、それでも高校の頃からファンだったこと、妖精文庫の絵で展覧会を開いて欲しいということなどを、どうにかこうにか伝えました。すると、るうにいさんは言います。「わたしもぜひ開いてみたいけれど、こういうファンタジーって、今、需要があるんでしょうか?」
 ぼくは何と答えれば良いのかわからなくて、なんだか色々とゴニョゴニョと言った後、「ぜひ開いてください。ぜったい行きますから」と言いました(あんな姿は見たことがないかも。声が裏返ってたわよ、と後で妻にからかわれました)。妖精文庫のようなファンタジーの需要が今あるのかどうか、ぼくにはわかりません。けれども、妖精文庫の表紙絵の数々には、他の画家の絵には感じなかった奥行きや気配が、それこそ粒子のように、濃密に浮かび上がっているように思います。足穂ワールドも素敵だけれど、しっとりと深いファンタジーの世界を、るうにいさんの独自の視点と色彩でファンタジックに描き出した絵の数々は、もしかしたらそれ以上に素敵だとさえ思っています。夜の光景なのに、夢見るような色彩で鮮やかに描き出された絵の世界は、まるで時間の彼方で、物自体が自ら光を放つ力を得て、夜の中に浮かび上がっているかのようです。このままひっそりとしまわれたままになってしまうのは、とても惜しい。
 るうにいさんは、ルフランのパステルを主に使用するようです。るうにいさんによると、ルフランのパステルは、例えばゴンドラのパステルなどとはのび方が違うし、青のパステルも、濃い青は他のものでも代用できるのだけれど、薄い色の青は、替えがきかないそうです。ただし、ルフラン社は倒産してパステルもすでに入手ができなくなっており、手持ちの残りがもうわずかしかないとのことでした(指で一センチくらいの長さを示して、「もう、このくらい」と。ルフランのパステル、どこかで手に入らないものでしょうか?)。
 話は、いくらでもしたかったのですが、サインを待っている方もいることですし、適当なところで切り上げて、失礼しました。それでも、どうしても伝えたいことは伝えたので、満足しました(もし今度個展をひらくことがあればお知らせします、と約束してくださいました)。
 画廊を出たあと、本当はどこかで食事でもして帰りたいとも思いましたが、家で娘が待っているので、そうも行きません。それで、あまりゆっくりもしていられなかったのですが、少しだけ寄り道をして、散歩がてら、渋谷まで歩くことにしました。途中、暖かかったこともあって、休息がてら公園に立ち寄って、星のマークのビール(つまり、黒ラベルです)を一本、飲みました。ふと妻が、「ベンチから見える公園の感じが、なんだかまりの・るうにいさんの絵みたいに見える」と言いました。なるほど、確かにそんな気もします。そういえばぼくにも、るうにいさんの絵を見た後では、ずっと街の光景がどことなく、るうにいさんの絵めいて見えるように思えていたのでした。



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 昨日は、「まりの・るうにい『月街星物園』展」に出かけた。
 仕事を早めに切り上げることができたので、恵比寿のギャラリー「LIBRAIRIE6/シス書店」にいそいそと到着したのは17時半頃。初めて伺うギャラリーで、恵比寿駅からもすぐ近く、古いけれども雰囲気のあるアパートのような建物の一室にあった。今日はるうにいさんが在廊の日ということで、もうすでにいらっしゃってるんじゃないかとも思っていたけれど、それらしき姿はない。こんな機会はもう二度とないかもしれないから、ひと目でもお会いしたい。それで、展示作品を鑑賞しながら、待つことにした。
 展示作品は、作品集「月街星物園」に収録されていた絵を中心に、20点ほど。新作の小品を入れれば、もう少しあったかな。本などで見覚えのある絵が、ずらりと並んでいる。妖精文庫の飾画がないのは少し残念だが、実際に実物を見ると、どんなふうに描かれているのかがよくわかる。部分的にちょこちょこ絵の具も使っているんだな、とか、厚塗りの絵とそうでもない絵があるんだな、とか。
 ギャラリーに入って、入り口にいちばん近いところに飾られていた絵「土星の夜」をひと目見た瞬間から、心が持ってゆかれた。「あっ、本物だ」と思った。こうやって書いてしまうと馬鹿みたいだが、ぼくにしてみれば感無量の、静かな感動だった。なにせ、神戸の西の片隅に住んでいたぼくが、初めて妖精文庫のカバーに描かれたるうにいさんの絵を見て衝撃を受けた16歳の頃から、今年でちょうど30年経つのだ。
 当時、新刊で簡単に手に入る、るうにいさんの絵が使われている本や雑誌はせっせと買い集めたし、倒産したばかりの月刊ペン社から妖精文庫の揃いを一括で買って(倒産した会社に、いきなりお金を送りつけて、売ってくれと言ったのだから、今ではかなり無茶なことをしたんだなと思う)、夜ごと書架から取り出して眺めていたこともあった。当時よく利用していた神戸市中央図書館にたまたまあった「遊」の野尻抱影、稲垣足穂追悼号を借りてきて、大きな絵が載っているのでどうしても欲しいと思い、るうにいさんの絵を、三ノ宮の四階建ての大きな文具店で、その頃にはまだほとんど普及していなかったばかみたいに巨大なカラーコピー機を使ってコピーをしてもらい、その再現率の低さにちょっとがっかりしたのも、懐かしい。ゴンドラパステルの大きいやつを買って、「パステル飾画」を参考に、パステル画の練習をしたものの、どうも上手くゆかず(使いこなせず)、使い慣れたアクリル絵具でなんとかそんな感じの質感を出す工夫をしたりもした。東京に出てきた二十の頃、当時住んでいた阿佐ヶ谷の、今にも潰れそうな小さな古本屋で、ずっと探していた「月街星物園」を見つけて小躍りしたこともあった。今では古書価が高価になってしまっているが、その時は600円だったということもよく覚えている。書き出すと、きりがない。時が経つとともに、一時の熱狂は失われたものの、ずっとファンだったし、自分が絵を描く上で、一番影響を受けた画家さんなのだから、感無量な気分になっても仕方がないと思う。
 絵は、思っていたよりも少し大きく思った。本の飾画でしか見たことがなかったから、そう思ったのだろう。随分と昔に描かれた絵なのに、パステルの色彩はあまり退色していないように見えた。厚めに塗られたパステルの発色や質感は、ふわりと生々しい。数点、ハガキサイズの紙に描かれた新作の小品があって、それらは販売していたようだったが、すでに完売状態。きっと初日には早々と売り切れていたのだろう。残念だが、仕方がない。画廊内には、タブレットにレナウンのCMが流れ続けていた。るうにいさんの絵が実写化された、伝説的なCMである。展示作品には、そのCMでも使われていた「ツァラの住んでいた街」や「黄昏色の方向」、「土星酒場」といった絵も展示されていた。
 少し遅れるのかなと思っていると、画廊の方が、「るうにいさんと連絡がとれなくて、もしかしたら一時間くらい遅れるかもしれない」とアナウンス。るうにいさんの姿をひと目見ることなく帰るつもりはさらさらなかったけれども、さてどうしようかと思っていたところ、しばらくして、るうにいさんが来廊された。
 再刊された「月街星物園」をその場で買い、るうにいさんに金の色えんぴつでサインをして頂いた。丁寧に、ゆっくりと、「まりのるうにい」と。マイペースで、ゆったりとした雰囲気を纏った方だった。なんだか、年甲斐もなく変に緊張してしまって、サインをお願いするだけでせいいっぱいで、他に何も言えない。言葉が出てこない。ちょっと情けなかったけれども、特に何か言うことを前もって考えていたわけでもなかったから、仕方がないのかもしれないと自分を慰める。帰りがけにふと、「今度はぜひ妖精文庫の絵で個展を開いてください。妖精文庫の表紙絵がとても好きなんです」と言ってみようかと思いついたものの、他のお客さんとの会話が弾んでいたようなので、結局言えずに出てきてしまった。これは、ちょっと悔いが残っている。時間が経つにつれ、その悔いが、沸々と大きくなっているような気もする。やっぱり、それくらいは言っておくべきだったかもしれない。実現するかどうかはともかくとして、声を届けることはできたのだし。機会があれば、もう一度くらいお会いして、そう言ってみたい気もする。
 今回購入した新装版「月街星物園」は、正確には以前に北宋社から出版されたものとはかなり異なっている。サイズが一回り小さいし、何より収録されている絵が異なっている。細かい情報は省くが、北宋社版はカラーが8葉、モノクロが16葉だったけれどもLIBRAIRIE6版はカラーが12葉のみでモノクロは無し。収録作品にも多少、異同がある。エッセイに関して言えば、以前は縦書だったのが横書になり、文字も小さくなっているけれども、内容は同じようだ。ただし、あとがきが以前とは差し替えで、新たに書き加えられている。したがって、LIBRAIRIE6版の「月街星物園」は、復刊というよりも、今回の展覧会の図録と考える方が良さそう。


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火事  



 今朝、いつも起きる二十分ほど前に、けたたましい消防車のサイレンで目が醒めた。うるさいなあと思っていたら、すぐ近くで止まり、さらにいくつかのサイレンが。布団から這い出して、窓の外を見た妻が、「火事よ」と言う。驚いて見ると、家から百メートルほどしか離れていないところから、ものすごい量の煙。幸い火は短時間で消し止められたようだが、夜になって、仕事帰りにちょっと見にゆくと、その家はもう黒焦げの骨組みしか残っていなかった。警察の人がまだ近くにいた。現場の検証をしているのだろうか。騒がしい夜明けで迎えた一日だったが、最近いろいろとあるので、多少麻痺している感じもする。

 最近、ちょっとまた忌野清志郎の話を耳にすることが増えた気がする。この前もラジオで「激しい雨が」が流れていた。軽く鳥肌の立つ歌詞。清志郎と言えば、チェルノブイリの後で高まった反原発運動の中心にいた一人だったのを覚えている人は多いと思う。今回の原発事故で、最初に頭をよぎった人の一人がこの忌野清志郎。
 もう一人は、野坂昭如。「乱離骨灰鬼胎草」というなんとも言えない強烈な短編集があった。今このタイミングで読むような本でもないのだろうけれども。

 

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 子供の頃は、本当に蛇がこのヘビイチゴを食べにくるのだと思っていた。そう思ってじっと見ると、確かに毒々しく見えてくる。赤いブツブツが、妙にビラビラしているような気になって。きっとヘビにしか食べることの出来ないイチゴで、まちがって人が食べると、ヘビになってしまうのかもしれない。本気でそう思ったこともある。それで、周りにヘビがいないかどうか確かめたりしていた。
 実際には、別にヘビが食べる訳ではない。毒があるわけでもない。食べられることは食べられるが、全く味がなくてフワフワしていて、不味いだけだという。ベリー類とは違うんだな。ちょっとくらい甘くてもよさそうなのに。
 ヘビイチゴ類は、ヘビイチゴと、ヤブヘビイチゴの二種だけらしい。写真はヤブヘビイチゴ。ヤブヘビかあ。どっちにしても変な名前。でも、草原の中で、ぽつりぽつりと赤い色彩があるのは、可愛い。ちょっとした宝石を見つけたような気分になる。
 今度、ためしに食べてみようかな。どれだけ不味いか調べるために。
 

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 昨日は家族でディズニーランドへ。
 クリスマス・ファンタジーのイルミネーションで園内はとても鮮やかだった。
 最近は余りイルミネーションを意識して見ないが、やはりここは別格。
 最近、街の中のイルミネーションは、青色ダイオードのものが多く、あれは何と言うか、ちょっと淋しくなる気がする。エコじゃないとか言われてしまいそうだけど、明りはやはり暖色系のほうが、この時期にはあっている気がする。

 娘も来年は高校受験だし、年頃にもなってきたし、家族だけでこうしてディズニーランドに出かけるのも、もしかしたらこれが最後かもしれない。


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 昨日の休日は、薄曇の一日。腰痛で、遠出することもできないから、丁度いい。そう思いつつ、ついふらふらと、自転車で井の頭公園へ。ちょっと寒かったけれど、公園で昼食を取る。早咲きのオオカンザクラが満開。桜の木には、野生化したインコが四羽ほど止まっていて、花をついばんではどんどんと落としていた。インコは、さすがに綺麗で、通りがかった人たちはみんな携帯で写真をとっていた。





 公園の木の根元にあった、ちいさな「いぬのおはか」。
 本当に犬が埋まっているのだろうか?
 妻が、「禁じられた遊び」みたいだと言う。

 犬や猫を、あちらこちらに埋めると嫌がられそうだが、僕も子供の頃に飼っていた猫を、川原に埋めたことがある。
 今でも、その川原に作った墓をありありと思い出せる。
 それはまるで、記憶の座標の一つのようだ。

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 まだ、本当に幼い頃の話だ。
 夏の夜だった。寝苦しさに、真夜中にふと目を覚ました。喉が渇いて、母に水を汲んできてもらおうと思ったが、見渡しても母の姿はない。まだ起きていて、隣の部屋にでもいるのかとも思ったが、その気配もない。その頃住んでいた家は、古い日本家屋で、部屋はすべて襖一枚で隔てられていたし、天井近くには複雑な飾り彫りのある欄干があって、光や空気が自由に行き来する。そこに光がないのだから、誰も隣で起きているとは思えなかった。
 タオルケットを跳ね除けて、ふと気づくと、枕もとの掃き出し窓の網戸から、明るい光が差し込んでいた。身体を起こして、窓に擦り寄って見上げると、空に煌々とした月がある。思わず網戸を開けて、外へ出た。すると、いつの間にか目を覚ました弟と妹が後に続いてきた。それから、一体どのくらいの時間だろうか、僕たちは三人で夜の月明かりの下で遊んでいた。やがて両親が帰ってきて、酷く叱られ、眠りについた。
 あの夜のことは、今でもよく思い出す。そして思う。あのたった一夜の経験がなかったら、今とは違う自分がいたのかもしれない。
 記憶とは、そうした「瞬間の断片」が集まった、モザイクのようなものだと思うことがある。その断片は、もちろんそれが独立して刻まれたものではなく、その前後の様々なことが結晶化した瞬間を捕らえたものであるが、それゆえに一つの啓示として深く心に刻まれる。そして記憶の断片で構成されたモザイクは、長じた後に新たに入ってくる情報の照射に様々な表情を見せ、人の心の動きを支配するのではないだろうか。

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 昨日の祭日、天気がよかったので、娘を連れて、二人で平和島にある「平和の森公園フィールドアスレチック」に出かけた。
 都内で尤も充実したフィールドアスレチックだということで、以前からずっと気になっていたのだが、ようやく機会を得たというわけである。
 全部で45のポイントがあり、中には大きなものも多く、確かにかなり充実している。水上を渡るコースもちゃんとある。大人が360円で子どもが100円だったから、この内容にしては結構リーズナブルである。

 フィールドアスレチック。
 小学生の頃、何度か父親にフィールドアスレチックに連れて行ってもらったことがあった。場所は忘れてしまったが、車でないと行けないような山の中にあった。
 アスレチックは山の斜面にあった。沢山のポイントがあって、難度の低いものから高いものまであった。身体を動かすことが好きだった僕は、はじめてそこに連れて行ってもらったとき、余りの楽しさに心底夢中になったのを覚えている。
 そのフィールドアスレチックには、結局三回か四回ほど連れて行ってもらったのだが、特に記憶に残っているのは、最後に連れて行ってもらったときの記憶である。詳しいことは忘れたが、無理を言って連れて行ってもらった。いつもは弟と一緒だったのだが、そのときは僕一人だった。それで、「×時になったら迎えに来るから」と、お小遣いを貰って、一人で放っておかれたのだ。それでも別にかまわなかった。此処ではとても愉しい時間が過ごせるはずだし、一人で遊ぶのは嫌いではなかったからだ。
 だが、その時にはもう僕も結構大きくなっていて、しかもたった一人ということで、時間が経つにつれて、思ったほど楽しめないことに気付いた。だが、時間はまだたっぷりとある。その場所は山の斜面にあったから、見晴らしがよかった。とはいえ、山間部だったから、眺めが特によいというわけでもない。ただ、遠くの山まで見えただけだ。
 その余った時間の大半、父が迎えにくるまで、僕は帆布で出来た揺れる大きな滑り台に寝転んで、空を見ていた。辺りからは草や樹や土の匂いがしていたのを覚えている。人も少なく、ここがどこなのかも分からない。父が本当に迎えに来てくれるだろうかと、次第に不安になってくる。だが、僕にできることは何もない。僕は辺りを見渡す。ここは愉しいフィールドアスレチックだ。だが、それにも増して、ここは山の中で、自分はたった一人なのだ。そう思った。その事を今でもはっきりと覚えている。

 娘ももう小学校を卒業しようとしている。しかも、女の子だ。だから、もうそれほどアスレチックのような遊具は愉しく感じないのかもしれない。それでも娘は、それなりに楽しみながら、一通りポイントをこなしてみせた。だが、これがもう最後の機会だろう。なんとかぎりぎりで、僕のフィールドアスレチックに対する小さなノスタルジーに付き合って貰えたようだ。

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 今日ラジオを聴いていたら、どこかの映画館で世界のCMばかりを一晩流しつづけるというイベントがあると言っていて、へえ、コマーシャルのファンは結構いるんだなと思った。
 僕はまさしくそうで、普段からあまりテレビは見ないのだけれど、実はコマーシャルがテレビの本編よりも好きだったりする。
 コマーシャルなんてただの宣伝には違いないのだが、小さな短編映画を見たような気分になることもある。そのインパクトは、尋常じゃない。子供の頃に見たCMで、いまだに頭に残り続けているものは数に限りがない。
 昔、仲のよかった友人が好きだったCMで、妻もとても印象に残っているというものに、サントリーローヤルのCMがある。ランボーのCM、と言ったら、分かるひとも多いと思う。そのエントリーを、Youtubeに見つけた。
http://www.youtube.com/watch?v=cfve3SzJOS4&feature=related
 ドアーズのまぼろしの世界めいたこのCMは、今なおインパクトがある気がする。

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 海に入って行く。
 海に潜る、というよりも、入って行く、と言う方がしっくり来る気がする。
 
 かつては、僕には海は恐ろしい場所だった。
 僕は小学校の高学年になるまで泳げなかった。低学年の頃、泳げないでいる僕を一人の男の先生がプールの一番深い場所に投げ込み、危く溺れそうになったことがある。恐ろしさとともに、学年中の生徒が見ている前でそんなことをするなんてと、先生を恨んだ。それから、僕はずっと水が怖かった。神戸の海岸線に住んでいて、目の前が海だといっても、足の着かない場所になどどうしても行く事が出来なかった。いち早く海に慣れて、平気でどんどんと沖へ出てゆく弟たちが眩しくて仕方なかった。普段は下僕のように扱っている弟の浮かんでいるあの場所は、僕には辿り着くことのできない場所だと思った。僕は足の着くような浅瀬で、浮き輪に捕まっているだけで精一杯だったのだ。
 だが、高学年になってスイミングスクールに通うようになり、転機がやってきた。通い始めて比較的早いうちに、僕は泳げるようになり、水泳も嫌いではなくなった。そして次第に、海がとても好きになっていった。足の着かないところでも平気で行けるようになった。だがそれからも長い間、僕にとって海はちょっと泳ぐ場所であり、それ以上に、眺める場所であった。僕にとって海は、常に傍らにいる心地よい風景の一部だった。夏の昼間に防波堤の上に横たわったり、夕方の浜辺を散歩したり、また、真夜中の海を見ながら花火をしたり、誰かと海を見ながら歩いたり、例えばそうした場所だった。東京に移り、その心地よい風景が失われるまで、僕には海はあって当たり前のものだった。それが有難いとさえ、感じることはなかった。
 
 波間にたゆたい、目の前に一面の青さが広がる時、大きく息を吸い込み、身体を二つに折って、真っ直ぐに潜行する。それはその揺れる透明な青さの中に身体を滑り込ませるためだ。青さの中に滑り込むと、海中をゆっくりと進む。そこはもう地上とは別の世界だ。ここで大きく息を吸い込むと、僕は命を失うだろう。疑いもない。ここには、僕のための大気はないのだ。だから、静かに身体の中に地上を蓄えたまま進む。身体を捻り、上を見上げると、ちらちらと白く揺れる水面が見える。あの光のある場所が、本来の僕のいる場所なのだと思う。そう思いながら、水の中を進む。やがて息が苦しくなってくると、怖くなってくる。そして浮上する。シュノーケルから水を少しづつ吐き出しながら浮上し、それでもじっと水面下の光景を見詰めている。ここからの光景と、海の中に入っていって見る光景は違う、と思う。海には幾つもの相貌がある。波上で揺れている僕はまだ傍観者だ。だが、海の中に入って行けば、僕はこの世界と背中合わせになった世界に身を置くことができる。異邦人として、束の間の時間にすぎないのだが、確かにその一端には触れることができる。そして再び身体を折り、潜行する。海の中にも森があり、花がある。だが、それは地上の森や花ではない。海の中でも、様々な音が聞こえる。常に音が舞っている。だが、その音は、地上の音ではない。それは地上の世界に寄り添って存在する森であり、花であり、音なのだ。
 いつか年を取ったとき、最後の旅先は海の中がいい。今はまだ束の間の時間しか訪れることの出来ない別の世界を、ゆっくりと時間をかけて巡りたい。

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 連休中は台風に見舞われ、身動きも取れない状態だったが、今日はまずまずの天気。朝からプールへ行き、午後は美容院へ。髪をバッサと切って、夏仕様のベリーショートに。ここ数年、冬はそこそこ髪を伸ばして、夏は坊主に近くなるというのがパターン。今年は、切るのがちょっと遅れたけど、すっきり。

 昨日の夜、ふと「銀河鉄道の夜」のことが頭に浮かぶ。
 特に理由もないのだが、無性に読みたくなる。いや、もしかしたら最近Mercedesさんに、読書感想文に銀河鉄道の夜を取り上げたということをコメントしたせいかもしれない。それで、夏だから思い出したのだろう。
 書架を漁ってみる。だが、うちにあるのは国書刊行会から出ていた日本幻想文学集成の中の一冊、別役実編「宮沢賢治」だけ。以前は、いろんなバージョンを持っていた気がするのだが、みんなどこへ行ってしまったのだろう。
 いや、別にその本が悪いというわけではない。ただ、僕の頭の中には、できれば現行の決定稿としての第四稿と、その前の第三稿、いわゆる「ブルカニロ博士版」を読み比べてみたいという気持ちがあった。それで、両方がないか、捜したのである。
 それで、青空文庫をあたった。宮沢賢治の作品は著作権がきれているのでちゃんとあったが、両方のバージョンがあったのは、さすがというべきか、嬉しかった。

 僕が初めて宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んだのは、小学校五年生のときで、夏休みの読書感想文を書くために岩波書店のハードカバー版を読んだのだ。カバーの絵が、透明感があって、とても印象的なやつ。だから、僕にとって長く銀河鉄道の夜は、その本に収録されていたバージョンだった。
 そのバージョンが、実はかなり特殊なものだと知ったのは、随分後になってからだった。宮沢清六さんらの尽力によって完成した決定稿を読んだのは、中学生の頃だったと思うが、かなりの違和感を感じた。最後が違うし、何と言っても、ブルカニロ博士が登場しない。当時の僕にはその決定稿が物足りなく感じたし、それから長い間、ずっとそう思っていた。
 だが、ふと昨日「銀河鉄道の夜」を思い出した時、最初に思ったことは、ブルカニロ博士はやっぱりいらないということだった。そう思ったことは、自分でも驚いたのだが、素直にそう感じたのだ。
 もしかしたらそれは、年齢のせいかもしれない。だが、今ではブルカニロ博士が存在しない第四稿の「銀河鉄道の夜」の香気が感じられるのが、悪くないと思える。物事は、ブルカニロ博士が語るほど分かりやすいものではない。だが、それほど悪いものでもない。ごく自然な気持ちだ。そして、それと同時に、宮沢賢治という人が少し理解できた気もした。

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 先日、seedsbookさんのところにコメントした時、ふとユトリロの名前を出した。それで、ちょっとユトリロについて書きたくなった。結局、何を書きたいのか分からなくなるかも知れないけれども。

 モーリス・ユトリロは、海外よりも、多分、日本人に馴染みの深い画家だと思う。フランス人で、モンマルトルの何気ない街角を、白い色彩で描いた画家として、知られている。
 僕が初めてユトリロの絵を見たのは、小学校の時、美術の教科書で、「コタン小路」を描いたものだった。僕はこの絵に、どういうわけかとても強い印象を受けた。何でもない絵には違いないのだが、惹かれた。それで、小さな絵だったが、切り抜いて、大事に持っていた。

 それからもユトリロの絵はずっと、何となく気にはなっていたのだが、だんだんと絵の趣味も変わり、特に追うということは無かった。だから、ユトリロという人物がどういう人物なのか、全く知らなかった。ただ、何となく勝手に、こんな風に思っていた。ずっと年老いた老人が、消え行く命を見つめながら、懐かしむように自分の街を描いているのだと。
 
 それが全く僕の勘違いだと知ったのは、ほんの数年前のことだ。
 ユトリロの最良の作品群である「白の時代」の絵──ユトリロの絵は、この頃に描かれたものしか、殆ど価値がないと言っていい──は、アルコール中毒治療のために絵筆を執るようになった、二十歳台の後半の僅かの時期に描かれたものだった。

 ユトリロは、母シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれた。父は誰だか分からず、生まれて間もなく祖母に預けられた。母は、ルノワールやロートレックなどのモデルとなるほどの人気者だったようだが、身勝手で奔放だった。もっとも母を欲する幼年期に、ユトリロは両親の愛情も知らずに育った。だが、奔放で人生を謳歌する母は、ユトリロにとっては聖母のようにも見えたらしい。だからなおさら、時々姿を見せる母の愛情を、ユトリロは希求し続けたのだろう。

 ここまでなら、よくある話と言えなくもないだろう。だが、酷いのはここからである。
 ユトリロの祖母は、愛情に飢えて精神不安定になるユトリロに手を焼いて、まだ幼児のうちから、スープにぶどう酒を混ぜて与えるようになる。勿論、子供だから、手もなく酔いつぶれて眠ってしまう。ユトリロは15歳でもう立派なアル中だったらしいが、これでは当然だろう。
 その後、治療のために入院した先で、絵を描く事を勧められ、いやいやながら絵筆を執るようになった。これが、その先で、さらに悲劇を呼ぶ事になるとは思わなかっただろう。
 絵を描く事を、母は喜んだ。ユトリロはそれを励みに絵を描くようになったのだが、やがて絵が売れるようになると、その絵の代金がさらなる酒の代金に変わった。さらに、その頃、信頼していた唯一の親友が、よりにもよって自分の母と恋に落ち、結婚してしまったのだ。ユトリロは荒れて、この頃、警察の世話になることも多かったという。だが、ユトリロが孤独になればなるほど、絵は静謐さを増していった。絵を描いているあいだは、何とかアルコールを断っていることもできるし、やりきれない気持ちも紛らすことができたせいなのだろう。そうした絵は、街の人々に人気が出て、高く売れるようになった。
 すると、母と元親友は、ユトリロを鉄格子のついた部屋に監禁し、絵葉書を見ながら絵を描くことを強要し始めた。絵が売れるからだ。ユトリロはもはや逆らう気力も無く、淡々と絵を量産し始めた。そして、ユトリロの絵は、完全に死んでしまった。もはや、看板絵と変わらない絵を、ユトリロは、大量に描いた。

 と、まだ悲劇は続くのだが、ユトリロの絵とは、そういう絵だ。
 以前、展覧会で見たとき、「白の時代」の絵の素晴らしさと、その後の絵のギャップに、あまりに驚いた。そして、その場でユトリロの生涯を知り、一人の人間が壊れて行く姿を見たような気がした。

 ユトリロは、同時期のモディリアーニに比べられることも多いが、あくまで一アーティストとしての誇りを持っていたモディリアーニとユトリロとでは、比べるのは難しい気がする。ユトリロの才能は、酷い環境(とんでもない母親もいたものだ)のせいで無理矢理引き出されてしまったものだ。そして、無理矢理摘み取られてしまった。
 今、googleで検索すると、ユトリロの絵を廉価で!というような宣伝のあるサイトが大量にヒットする。今に至っても、ユトリロは消費され続けている。
 ユトリロのような才能を見るとき、これをどう考えるべきなのか、分からなくなる。これはアーティストなのだろうか。それとも、ただの犠牲者なのだろうか?

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 先日訪れた松本で、立ち寄った「あがたの森公園」。
 そこには、重要文化財の「旧制松本高校」がある。
  


 作家の北杜夫さんや辻邦生さんは、この学校の出身。
 現在、その一部は市民のために開かれていて、申し込めば教室が利用できるようだ。
 また、市民の図書館としても利用されている。



 あがたの森公園の池の魚。……あがた森魚。
 ……。

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 先日、長野県の松本市に行ったのだが、せっかく松本に寄ったのなら、ぜひとも見ておきたかった場所があった。
 重要文化財の、旧開智学校だ。
 旧開智学校は、現存する最古の小学校の一つで、明治6年(1873)に開校され、昭和38年(1963)まで、約90年間に渡って現役だった。特徴的なのは、和風と洋風の入り混じった「擬洋風」の建築方法だ。松本の大工棟梁立石清重が様々な工夫を凝らして作り上げたもので、「ギヤマン学校」の通称が示しているとおり、レトロで、ロマンティックで、とても可愛い学校である。

 この学校のことを知ったのは、もう随分前のことになる。
 
 <まりの・るうにい>という画家がいる。 
 稲垣足穂の単行本の飾画や、「妖精文庫」の第二期のカバーなどを手がけていた画家だ。
 その<まりの・るうにい>さんの画文集に「月街星物園」というものがあったのだが、その中に収録されていたエッセイの中に「アンチパリン氏のガラス製造工場」と題された一編があって、そこでこの学校のことがちょっとだけ触れられていた。書き出してみる。

 「長野県の高原都市、松本にある旧開智小学校の、薄暗い建物の中からみた紅色の明りとりは印象的でした」

 たったそれだけの一文だったのだが、僕には妙に印象に残った。ただし、そのときは、長野の廃校か何かなのかなと思ったのだが、後になって、重要文化財だと知ったのだ。

 

 その明り取りの窓というのは、この窓かもしれない。
 当時は、日本にはガラスを作る技術がなく、棟梁が、わざわざ買い付けに出かけて、手に入れたという色ガラス。
 細部にまで、見る場所が沢山ある、よい建築でした。

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