漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

秋に聴く定番のはなし・6

2005年10月29日 | 音楽のはなし
 今日は、仕事の帰りに阿佐ヶ谷にちょっと寄りました。
 「阿佐ヶ谷ジャズストリート」という、街を上げてのイベントがあったからです。
 とはいえ、駅前での演奏などをちょっと聞いただけだったんですが。
 さて。

 The Early Years Vol.1&2
 Tom Waits

 トム・ウェイツのアルバムで一番好きなのが、この「The Early Years」だ。タイトル通り、デビュー前のデモテープに近い作品なのだが、そのシンプルさがとてもいい。トム・ウェイツは、年齢を重ねるにつれて次第に前衛的な作風になっていった。もちろんそれらもよいと思う。しかし僕はやはり初期の作品が好きだ。
 そういった意味で、このアルバムはとてもいい。これ以上殺ぎ落とすところのない音は、素敵だと思う。

乳白色の砂が

2005年10月27日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 乳白色の砂が、明るい陽射しを反射している。砂の道は、だから、何だか膨れ上がって見えた。
 私はその道を、岬に向かって歩いた。空は、もう夏のものではない。雲もなく、すっきりと透き通っていて、その中に、ゆっくりと廻る鳶が見えている。だが、その鳶の姿が、どこか遠いもののようだ。時々小さく鳴き声が聞こえる。それに混じって、自動車の音も、柔らかい地響きのように聞こえてくる。風が、からかうようにちょっと頬を撫でて、消えた。
 岬へ向かう道は、所々で鬱蒼とした草の間を通り抜けるようにして、行かなければならない。左右の視界を遮られ、背の高い草の間を歩いていると、まるで自分の体が小さくなってしまったかのようだ。春から夏にかけて、何度も歩いたこの道を一人で歩いていると、思ったよりも寂しく、私は何かに追い立てられるかのように、淡々と先を急いだ。そして、歩きながら思った。夏はあれほど青く茂っていた草が、どこか少し色褪せている。そのせいか、海から吹いてくる風に鳴る草の音が、何となく乾いていた。もう少し経って、冬になったら、ここから海も見渡せるかもしれない。
 草の小径を抜けると、目の前にさっと海が広がった。青い海の色彩と、潮の香りが一斉に降って来る。そして、そのずっと向こうには、くっきりとした輪郭の、美しい山が見えた。
 富士山だ。
 空気が澄んでいるから、もしかしたら見えるかもしれないとは思ったが、まさかこんなにくっきりと見えるとは思わなかった。山の稜線まで、はっきりと見える。胸を突かれたようで、私は思わず足を止めた。今までは、何度ここに足を運んでもこれほど綺麗に富士山が見えたことはなかったからだ。美しい青さだと、私は思った。
 道が二手に分かれている場所まで来ると、私は海岸へ降りる方の道は選ばずに、岬の先端に向かう道を辿った。波の音が、柔らかく聞こえている。沖には船が見える。船はじっと動かない。
 岬の先端にまで来ると、私は立ったまま辺りを見渡した。明るい空と、穏やかな海。そして、富士山。これだけ恵まれた光景には、めったに出会えない。私は少し微笑んだ。こうした風景の中に身を置いている自分は、幸せなのだ。私は自分に、そう言った。それから頭を巡らせた。岬から見えている砂浜にも、夏のようには人はいない。サーフィンをしている人が少し、いるだけだ。その中の一人はとても上手くて、波の上を踊るように滑っていた。私はしばらくその波上の舞踊を眺めていた。
 私は草の上に座った。そして鞄から保冷ケースに入れておいたビールを取り出して、一口飲んだ。体から、一気に力が抜けて行くようだった。様々な音が、風の音の中に混ざってしまい、全てが遠いもののように感じた。いや、と私は思った。多分私が一番遠いと感じているのは、自分の体なのだ。
 岬にも、草の香りと土の香りが漂っていた。潮の香りに負けないほどの、強い香りだった。いや、それだけじゃない。光にも香りがあるようだ、と私は思った。それに、手触りだってある気がする。私は手を伸ばした。指の間を、潮を含んだ風が通り抜けていった。私はゆっくりと手を結び、それからまたビールを少し飲んだ。
 どのくらいそこでぼんやりとしていたのか。誰かがやってくる気配にはっと気がついて、振り返った。そして、思わず腰を浮かせた。
 そこにいたのは、一匹の犬だった。それも、相当大きなレトリバーだ。それが、ごく近くで私を覗き込んでいた。襲ってくる気配はないので、ほっとしたが、こんなに近くに来るまで気がつかなかったなんて、と私は思った。犬は、私と海の方を交互に見ている。やがて、犬のずっと後ろから、初老の男性がゆっくりと現れた。手には綱を持っている。飼い主なのだろう。
 「どうもすみません」男性は言った。「人がいると思わなかったので」
 「いえ」私は言った。そして、ふと気が付いた。そういえば、この男性も、この犬も、何度か見かけたことがある。この近くに住んでいるのだろうか。「お散歩ですか」
 「そうなんですよ」彼は言った。「日課なんですよ」
 「あの、実は何度かあなたを見かけたことがあるんです」私は言った。「それから、このワンちゃんも」
 「ああ、そうですか」彼はもう私のすぐ側までやってきていた。「そういえば、私もあなたを見かけたことがあるような気がします」
 それから、こう付け加えた「だからですかね、こいつが吠えなかったのは」
 私が答えかねていると、彼は言った。「いえ、こいつは富士山が見えていると、必ず富士山に向かって吠え立てるんですよ。それが吠えなかったというのは、もしかしたら、あなたを驚かせまいと考えたのかもしれないと、思ったんですよ」
 「富士山に?」私は犬を見た。犬は、相変わらず私と海を見比べている。いや、そうではない。犬は私と富士山を見比べていたのだ。
 「やっぱり、あなたを驚かせたくないと思ったんでしょうなあ」男は言った。
 私は犬を見詰めた。犬も、じっとこちらを見ている。私は微笑んだ。
 「ところで、あなたもこの辺りの方ですか?」男は言った。
 「いえ、全然」私は言った。「遠いところに住んでいるんです。ただ、時々、ここに来るだけです」
 「ああ、そうなんですか」
 「ええ、好きなんです」私は言った。
 それから少し、私はその男性と話をした。ぽつりぽつりとした会話だった。その間、犬は退屈そうに辺りをふらふらと歩いていた。そして、ときどき切なそうに、富士山を盗み見ていた。
 やがて彼らが去った後も、しばらく私は岬に座ったまま、しばらく海を見ていた。手を伸ばすと、風が指の間を通り抜けていった。だが、もう自分の体が遠いものだとは感じなかった。
 立ち上がり、ふと見ると、砂浜のサーファーたちも、もう帰る仕度を始めていた。
 まだ日没には随分時間があるが、私ももうそろそろ帰る時間だと思った。
 私は岬から細い道を歩いて、一度だけ浜に下りた。そして、岩場にまわって、岩の上から手を差し伸べて、海の水に浸した。ヒザラガイとイソギンチャクの間に、私の指が揺れて見えた。水はまだ温かかった。私は濡れた指先を少し舐めた。指を舐めながら、いろいろなことを少し思い出した。
 それから私は踵を返して、来た道を引き返し始めた。
 
 

秋に聴く定番のはなし・4

2005年10月25日 | 音楽のはなし
 今日は、仕事を休んで、区でやっている健康診断へ行きました。
 数年ぶりの健康診断。会社ではやってくれないので、安心のためにも。
 年齢を重ねたなあ。
 それにしても、バリウム、あれは飲めたものじゃないですね。いつも思いますが。濃く溶いた歯磨き粉みたい。

 というわけで、日本のおっさん繋がりで一枚。

 
孤独の太陽
桑田佳佑

 

 桑田佳佑のソロアルバムの中で、一番好きなのがこれ。
 クセも強いアルバムなので、嫌いな人は嫌いかもしれない。
 個人的には、曲で言えば、「月」、「飛べないモスキート」、「Journey」が好きだが、一枚を通して聞くのが一番好き。

生田緑地のメガスターⅡ

2005年10月23日 | 雑記
 今日は、思い立って生田緑地の青少年科学館へ行った。もちろん、最近ちょっとした話題になっている、大平貴之さんの作ったプラネタリウム「メガスターⅡ」を見るためだ。お台場の日本科学館にもあるのだが、こちらはなかなか競争率が高いため、これまでずっと見ることが出来ないでいた。それならば、広い緑地も楽しめるし、生田へ行こうと思ったのだ。
 科学館は、お台場とは随分違って、写真でも分かるように、「こんなところに、日本で二台しかない『メガスターⅡ』があるんだろうか?」というような建物。でも、ちゃんとありました。入り口で立派な双眼鏡を渡され、入ったドームの中には、昔ながらのプラネタリウムと、メガスターが並んで置いてあった。
 メガスターは、思ったよりも随分と小さな機械だった。ほんと、拍子抜けがするくらい小さい。
 プログラムは、最初昔ながらのプラネタリウムで始まる。そして途中で、「それでは遮るものの何も無い宇宙空間から、星空を眺めましょう」ということになって、メガスターに切り替わる。ドームには、びっくりするくらいの星が映し出される。確かに、桁が違う。そこで、皆は入り口で渡された双眼鏡で、天の川やアンドロメダ銀河などを捜すことができるのだ。
 ただ、確かに星は凄いのだが、余りの心地よさに、僕は途中で少し眠ってしまった。結構沢山、眠っている人がいたような。。。

秋に聴く定盤のはなし・3

2005年10月22日 | 音楽のはなし
 最近は、立ち寄るとついいろいろと欲しくなってきりがないので、あまりCDショップには足を運ばないのだが、今日はちょっと立ち寄ってみた。すると、新譜の棚に、ニール・ヤングの新作が並んでいるのを見つけた。「PRAIRIE WIND」というタイトル。とても素晴らしいジャケット。ショップの推薦文を読むと、どうやら「ハーヴェスト三部作の完結編」(!)ということらしい。試聴できるようになっていたので、試聴してみた。
 ヤバイ。
 試聴しながら、ちょっと泣きそうになった。
 時代を画する名盤とはいえないのかもしれないが、音のむこうに広がる光景に目頭が自然に熱くなる。いや、動揺したというべきか。参ったなあ。
 買おうかと思ったが、来週にはDVDがセットの日本盤が出るというから、とりあえず見送った。でも、帰り道にちょっと思った。ニール・ヤングは、ビジュアルが無い方が、むしろいいかもしれないなぁ、と。
 あ、ごめんなさい、ニール兄貴。そんな意味じゃないんです。

 とりあえず、だからまだ「PRAIRIE WIND」はちゃんと聞いていないのだが、秋の定盤といえば、やはり

Harvest Moon
Neil Young


でしょうね。
 羽男のジャケットも素晴らしいし、楽曲もいい。表題作の「Harvest Moon」は、先のカサンドラ・ウィルソンのアルバムの最後を飾っていた名曲である。また、本アルバムの最後を飾っている「Natural Beauty」は、ライブ録音で、虫の音とともに終わって行くのだが、その形式はカサンドラのアルバムでも再現されていた。

秋に聞く定盤のはなし・2

2005年10月21日 | 音楽のはなし
 二十代に、僕が最もよく聴いたアルバムを一つ挙げるなら、多分それは


The Trinity Session
Cowboy Junkies


だと思う。何せ大好きなアルバムで、今でもよく聴く。多分、僕が今までに一番聴いているアルバムなのじゃないかと思う。

 このアルバムが発売されたのは1988年。僕がちょうど二十歳の時だ。
 今でも憶えているのだが、渋谷の「La.MaMa」というライブハウスで、僕はその頃の友人から、このアルバムをダビングしたテープを貰った。「ルー・リードの『スィート・ジェーン』のカヴァーが素晴らしいアルバムを見つけた」と言って、友人は僕にそのテープを手渡してくれた。何の気なしに受け取ったそのテープを、それから僕は、テープが完全に伸びきってしまうまで、何度も繰り返し聴いたものだ。
 今、こうして書きながら、また僕はこのアルバムに耳を傾けている。何度聴いても、飽きるということがない。「午前零時の音楽」と評された、カウボーイ・ジャンキーズのこのデビューアルバムは、文句の付け様がない。奇跡のような作品だと、僕は確信している。
 このアルバムは、カナダのトリニティ教会を借り切って、マイク一本のみでライヴ収録した作品である。したがって、殆どお金は掛かっていない。いわば、デモテープのような作品だった。それをBMGが買い取って、リリースしたのだ。
 また、このアルバムはオーディオマニアにも有名な作品だとも聞く。ものすごく拘ったオーディオセットで聴くと、気持ちが悪くなるほどの低音が流れているのだという。それはどうやら、教会の持つ独特の音響によるものらしい。
 このアルバムに収録されている楽曲は、オリジナルとカヴァーが半々だが、どれも甲乙つけがたく素晴らしい。だが、中でも僕が好きなのは、ハンク・ウィリアムズの「I'm So Lonesome I Could Cry」のカヴァーである。先のカサンドラ・ウィルソンのアルバムでもカヴァーされていたこの曲だが、ジャンキーズのカヴァーは極北であると思う。
 ところで、ルー・リードのカヴァー「Sweet Jane」は、オリバー・ストーン監督の映画「ナチュラル・ボーン・キラーズ」で、映画のテーマとして、効果的に使用されていた。映画も面白かったので、重ねて紹介したい。

秋に聞く定盤のはなし・1

2005年10月19日 | 音楽のはなし
 「音楽のはなし」というカテゴリーは、本当は作りたくなかったのだが、もう仕方が無いと観念して、新しく設定した。音楽のはなしは、できれば他のカテゴリーに分散したかったのだ。理由は、漠然としていて、自分にも上手く説明できない。

 生まれ月が10月のせいか(風邪で寝込んでいた、10月8日でした。ジョン・レノンと一日違いなのが、惜しい!)、秋とは相性がいい。好きな季節は夏なのだが、肌にあうのは秋かもしれない。
 秋には、特に音楽が聴きたくなるような気がする。書くことが他に思いつかないので、秋に僕がよく聴く、あるいは秋に似合うと思う、定盤をちょっと紹介しようと思う。



New Moon Daughter
Cassandra Wilson

 真夜中の声を持つ、カサンドラ・ウィルソンの名盤。水面に映る月のような、アルバム。二曲目の、U2のカヴァー、「Love Is Blindness」がとりわけ印象的。

「不運な女」 リチャード・ブローティガン著

2005年10月14日 | 雑記
 数日前に書店で、「不運な女」というタイトルの、何と「ブローティガンの新作」が並んでいるのを見つけた。
 ぱらぱらとめくってみる。死後に発見された小説で、正真正銘、最後の作品だという。
 だが、僕は買わなかった。いずれ買うかもしれないが、ちょっと見ただけでもなんだかやりきれない作品のようで、今は読みたくない。そんな風に思ったからだ。
 だが、こんな風に書いていながら、やはり何となく気になっている。

七瀬三部作

2005年10月13日 | 読書録
 seedsbookさんのブログで、SFについて書かれているのを読んだ。
 それで、僕がSFをよく読むようになったきっかけの小説についてちょっと考えたのだが、それは多分、中学一年の時に読んだ筒井康隆の「家族八景」から始まる、いわゆる「七瀬三部作」が最初だろうと思い当たった。

 三部作の最初にあたる「家族八景」は、テレパスである七瀬が、うわべは平穏な家庭に、お手伝いさんとして入ってゆくという連作短編である。テレパスである七瀬によって、幸せそうな家庭の裏側にあるどろどろとしたものが、白日のもとに晒されて行くというのが、基本設定だった。青臭い中学一年生の自分には、衝撃的だった。
 次の「七瀬ふたたび」では、前作の静けさから一転して、アクションの占める割合が大きくなる。七瀬が、自分と同じようなエスパーたちとの邂逅を果たしてゆくのだが、最後には国家(らしきもの)によって抹殺されてしまうという物語だった。この小説の中で、タイムトラベルと平行宇宙の問題に触れられていたのが、印象に残った。この小説の最後に七瀬が死んで行く場面で、その情景の美しさに、いっぺんに参ってしまった。
 最後の「エディプスの恋人」は、難しい小説だった。前作の最後で死んだはずの七瀬が、何事も無かったかのように登場するからだ。しかも、前二作のような超然とした姿はない。自分の存在に対する違和感ととまどいが、ずっと支配し続けている。最後に用意されていた事実は、あまりに寂しく、この三部作を強引に閉じてしまう。このラストシーンの先に、語られることはもう残されていない。

 筒井康隆の小説を、この三部作をとっかかりにして読み始めたのが、多分僕がSF小説を読み始めたきっかけだったと思う。もっとも、もともと手塚治虫とか、そうしたSFまんがも好きだったから、いずれはSFを読むようになったと思うが、それにしてもともかくは。
 ところで、筒井康隆は、そのエッセイでよく自虐的に「士農工商犬SF」とか言っていたから、僕はつい今でもSFを擁護してしまう。