漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



 「ちょっとだけ」わたしは答えた。「話をするというより、理解してるの」
 わたしの声の調子は弁解がましいものだった。わたしに向けたその声はやや刺のあるものだったし、この若者の美しさは、それ自体が、考えていることを表現することよりも、もっとずっと計り知れないほどに完成された、叱責のようなものだったからだ。
 「きちんとした勉強をするべきだな。なぜそんなに不精なことをするんだ」彼はわたしの罪の意識と従順さを手玉にとりながら、続けた。「たかだがちょっと努力して、日々の練習をするだけじゃないか。猫とちゃんと話をしたいという気持ちがもしあるのなら、流暢な会話をしちゃいけない理由なんてないだろう。そんなのは、単純に応用力の問題だ」
 そうやって話をしていると、灰色猫が意見を述べた。
 「彼女が応用力に富んでいるようには見えないわね」
 「だけどこの娘はやさしい心を持ってるわよ」毛の長い猫が言った。三毛猫は、わたしがいい匂いがすると付け加えてくれた。
 こうした一連の「不思議の国のアリス」そのままの世界にぼうっとなって、わたしは今まで彼よりもハンサムな若い男性を見たことがなかったなあと考えたり、それから彼がどこからやってきたのかしらと想像を巡らせたりしながら、ずっとゲートにもたれていた。わたしは彼が近づいてくるのに気がつかなかった。彼は樹から降りてきたのかも知れないし、ライラックとかバイカウツギとかの下から現れたのかもしれない。狩りが習性である猫でさえ、こんなにぎょっとするほどこっそりと忍び寄ってきたりはできないだろう。背が高く、細身で、グレーの瞳に真っ直ぐなアッシュブロンドの髪を持った彼は、誰もが考えるような、古いがきちんと手入れの行き届いたとても仕立てのよい服を身につけている、クラシカルな典型的な英国人のイメージそのものだった。だが実際の彼は、買ったばかりの既製品のコーデュロイのパンツを履き、ハーレムかCent Mille Chemisesのどこかの裏通りで買ったに違いない、イチゴ色のコットンシャツを着ていた。髪のひと房を片目の上に垂らした彼の手には、熊手が握られていた。
 その一方で、その声の中には少しばかりの傲慢さや冷淡さが窺えた。彼はわたしに応用が不可欠であると促したが、その間にも、長い毛をした猫は、わたしが彼女の仔猫たちを見にゆくべきだという要求を続けていた。わたしは彼と彼の家を見つめることが楽しかったし、彼の猫たちも好きだった。だがしばらくして、なぜおかしな若者から講義を受けなくちゃいけないんだと考え始めた。それで、わたしは言った。
 「確かにあなたには練習をする機会がいくらでもあるでしょうね。いったい何匹の猫たちを飼っているのかしら?」
 「その時によるな。目下のところは十九匹だ。だが、ぼくが猫たちを飼っているなどと早合点をしないでもらいたい。そうじゃなくて、猫たちはここに住んでいるんだ。実際、ミセス・オトゥワディは、ぼくがこの家を購入する以前からここにいるんだぜ。その黒猫もやっぱり、オトゥワディと言うんだ」

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 「紫の雲」をやりっぱなしのまま、他の翻訳ばかりやっていますが(笑)、また別のやつを始めます。実は、「紫の雲」の方は、とっくの昔(二年ほど前かな)に下訳は完成してしまっているのですが、この先はあまり面白くもないので、見直すのが面倒になって、ついほったらかしになってしまっています。 

 これから訳そうとしているこの作品「The Cat's Cradle-Book」の著者、シルヴィア・タウンゼント・ウォーナー女史は、月刊ペン社から出ていたシリーズ「妖精文庫」の「妖精たちの王国」の著者で、最近「フォーチュン氏の楽園」が20世紀イギリス小説個性派セレクションに収録されました。「フォーチュン氏の楽園」が、ちょっとホモセクシャル的な作品だと思ったけれど、彼女は「Summer will show」という、レズビアン小説も書いているようです(未読)。まるでトーベ・ヤンソンみたいですね。ぼくは「妖精たちの王国」から気になっていた作家だったのですが、去年読んだ「フォーチューン氏の楽園」ですっかり気に入り、「妖精たちの王国」のあとがきで荒俣宏氏が「まだ入手できていない、まぼろしの本」扱いしていたこの古書をネットで見つけて、取り寄せました。内容は、「母猫が仔猫たちに語る寓話集」といったもので、この物語の数々を入手することになったいきさつを書いた長い序文と、短い寓話がたくさん入ったものです。出版年が1940年で、著作権は切れていないのですが、ベルヌ条約の特例により、翻訳は自由にできるようです。なので、試訳の訳文だけを掲載します。ご了承ください。なおタイトルは、「猫のゆりかご」としましたが、cat's cradleには「あやとり」という意味があり、cradle bookには「ベッドの中で読み聞かせしてもらう本」という意味があります。

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猫のゆりかご (The Cat's Cradle-Book)

シルヴィア・タウンゼント・ウォーナー (Sylvia Townsend Warner) 著  / shigeyuki 訳


 序文

 彼よりも素敵な若い男性を、わたしは見たことがなかった。
 家も素敵で、長い年月使い込まれてきたせいで、とても落ち着いて見えた――長いファサードと葦の藁葺屋根を持つ、十七世紀に建てられた家だった。古いスプーンのような滑らかさと薄さを持ったその造りが、すらりと細長い印象を与えていた。戸口は狭くてさりげなく、窓の中枠と鴨居は極めて繊細だった。白いペンキは色あせて、たんぽぽの綿毛のように銀色になっていた。家はレンガ造りで、黄味を帯びた石灰塗料で塗り固められていたが、ともに色あせて、レンガの色はすっかりとくすんでしまっており、そのせいで家の全体の風合いは、その肌にぼんやりとしたバラ色の筋とくすんだ茜色の赤みの入った、熟した西洋梨のようだった。
 周りを樹々に覆われ、その前には芝生が伸び放題になっている屋敷は、まるで木から落ちて転がっている西洋梨のようだった――わたしは、西洋梨は深い眠りに入ろうとしているんだと思った。それは五月半ばのこと。鳥たちは声を限りに歌い、完璧な静寂に包まれた家の周りでさえずりを交わしていたから、もし家に誰もいないというのでなければ、すっかりと眠りこけているのだろうという気がした。それなら、幅の広いゲートの上に身を乗り出して、家をじっと観察したところで、失礼にはあたらないだろう。ゲートの上に身を乗り出さなければ家がちゃんと見えなかったのだが、それはほつれた垣根が木と低木の木立ちで補われていたからだった――アメリカスグリ、そしてライラック、バイカウツギ、それにジプシー・ローズ(訳注:マツムシソウ)、そういった木々があったのを覚えている。
 最初の猫がアメリカスグリの下から歩み出してきた。それでわたしは、なんてぴったりなんだろう、アメリカンスグリの花の香りは、猫の匂いにとてもよく似ているのだから、と思った。その雌猫は明るい鼈甲色で、どちらかというと、まるで自然が家と調和する色彩を彼女に与えたかのように見えた。猫はあくびと一緒に後ろ脚を伸ばしながら、わたしの方に向かってやってきたが、ゲートのところまで来ると、柵に身体をすり寄せ始めた。すぐに二匹の灰色の猫がライラックの下からやってきて、合流した。猫たちは白目色で、毛は短く、逞しい、しっかりとした肩を持ち、頭は丸く、脚は短かった。自分が最初にわたしのところにやってきたのだと示すように、三毛猫はゲートの横木の一番上によじ登ると、わたしの肘に身体を擦りつけ、尻尾で頬に触れて、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。二匹の灰色猫は座って、傍観していた。
 しばらくして、四匹目の猫が群れに合流した。彼女は他の猫たちよりも年寄りで、明らかに社会的な地位は下だった。彼女は長い毛を持ってはいたが、ガラクタの山の近くや、家畜小屋の客間を好んで、社会的な階級を落とすことを選び、くたびれてみすぼらしくなってしまった、ペルシャ猫との混血だった。その行儀もまた、上品さに欠けていた。彼女は他の猫たちがぶらぶらとやって来たのに反して、走ってやって来た。走りながら、ニャーニャーと鳴いていた。そして横木に飛び乗ると、身体でわたしをグイと押した。わたしは、彼女の喉には黄色い染みがついていて、卵の殻のひとかけらが口に張り付いているのに気がついた。
 「ムネアカヒワの巣を襲ってきたのね」わたしは言った。
 巧みに話を逸らして、彼女は言った。
 「あたしの仔猫ちゃんたちを見るといいわよ!みんな立派よ――それに、食欲旺盛なの!でも褒めたげることだわね、育ち盛りだもの」
 「それで、鳥の卵を仔猫たちの前に運んでいったのね」わたしは繰り返した。
 そうしている間にも、三毛猫は横木の上を何度も行き来しながら、わたしの身体に自分の右側と左側を交互にこすりつける作業に夢中になっていたが、それはまるで身体のどちらの側がいちばん心地良い感覚を味わえるかを決めかねているかのようだった。
 「あたしの生まれ変わりよ」鳥の巣の猫が言った。黒い子猫が一匹、ヨーロッパグリの木の幹を滑り降りてきた。樹の太い幹の上の、一分間の不屈の冒険家だ。仔猫は野性的にニャーオと鳴いて、(まるで暴走列車みたいに)門柱に飛びかかった。そこで落ち着くと、勿体ぶって念入りに顔を洗っていた。
 その時だ、わたしは呼びかけてくる人間の声を耳にした。
 「そうやって猫と話しているのか?」


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「マルドゥック・スクランブル 改訂新版」 冲方丁著 早川書房刊

を読む。

 山本弘「神は沈黙せず」を抑えて、第24回日本SF大賞を受賞した、冲方丁の代表作。
 攻殻機動隊みたいな小説なのかなと、なんとなくぼんやりと思っていて、なんとなく読む気が起きないままスルーしていた。というのも、漫画の攻殻機動隊は、実は発売当初に高校の頃に友人が面白いからと貸してくれたものの、絵がどうしても苦手で読み進むことができず、そのまま読まずに返してしまい、それ以来読もうともしていないからだ。どちらの作品も、つまり読んでもいないのに変な苦手意識だけが育ってしまっているわけである。
 今回、天地明察が面白かったので、やっぱり代表作を読んでみようと図書館でこの一巻本を借りてきて読んでみた。ところがこれが、本当に面白かった。ファンになってしまいそうだ。印象としては、カンバスの部分がサイバーパンクとスチームパンクの違いはあるが、どちらかというとパオロ・バチガルピ の「ねじまき少女」に近い気がした。
 この小説は、映画の「レオン」を見た後で強い衝動に駆られて出版のあてもないまま書かれたものだという。出版が決まるまで何年もかかって、いくつもの出版社から断り続けられたらしい。その理由の主なものは、1800枚という分量と、これ以前の著者の作品がさんざんな売上げだったという点にあったようだ。ところが、いざ出版されてみると代表作とされて、漫画化や映画化もされるほどの人気を得た。過去のデータばかりを重視する出版社の姿勢が、この傑作を闇に葬ってしまうところだったわけである。
 物語は、一言で言ってしまえば、殺される寸前で助けられた少女が、自らを殺そうとした男を裁きの場へと追い詰めてゆく復讐譚。その中に、様々なアイデアがたくさん盛り込まれている。圧巻なのが、その最大の見せ場が、物語後半の大半を占める、カジノでの博打勝負。こうして書いてしまうと、面白くもなさそうだが、これが圧巻だ。単なる戦闘シーンの羅列にしなかったところに、この小説の凄さがある。
 ぼくの読んだのは、改訂新版だが、この後でハヤカワ文庫から「完全版」として三分冊が出ている。寺田克也の絵もぴったりだし(読んだ後でみると、つくづく上手く合ってる絵だと思う)、こちらを今度買おうと思う。

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「去年はいい年になるだろう」 山本弘著 PHP刊

を読む。

 最近、続けて山本弘の本を読んだけれども、これは「うーん」という感じ。時間とパラレルワールドを扱った小説というよりは、どちらかというと半自伝的小説なので、作者にしてみれば、切実なところのある作品なのだろうということは分かるのだけれども、読んで面白いかどうかはまた別。こういうのはきっと、筒井康隆が上手なんだろうなと思った。それでも、ところどころで吐露される本音には、頷けるところも多々あった。

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 あるいは、それは半分が笑いで、半分はすすり泣きのようなものにも思われた。そして、一匹の遠ざかってゆく昆虫の羽音の中に消えていった。
 笑い、すすり泣き、そして馬鹿馬鹿しい幻覚、かつて何度も聞いた、歩いていると後を付いてくる音だ。そして、さらにその音を耳にした時でさえ、ぼくにはそれが何でもないものなのだと分かっていた。だが、この感覚を一言で言えば、それはやはりとてもスリリングな”現実”であり、このちっぽけな心臓に与えた衝撃は、いわば殺人的な衝撃であり、ぼくは左手で鼓動を打つ胸を押さえ、右の手の平で身体を支えて、後ろの苔の山の中に倒れた。そしてそこで、なんとか息を整えながら、ぼくはじっと横になったまま、全ての神経を耳に集中させた。だが今では何の音も聞こえず、ただ世界の沈黙という唸り声が、大きく聞こえていただけだった。

 けれども、そこには足跡があった。もしも耳と目が共に謀ってぼくを欺こうとしているのだとしたら、それはずいぶん酷い話だとぼくは思った。
 ぼくは同じ格好でじっと横になったまま、動かなかった。気分が悪く、口の中がカラカラに渇き、あれこれと思いつめて、消え入るような呼吸をしていた。だが、神経を研ぎ澄まして――伺っていた。
 待とう、とぼくは自分に言い聞かせた、蛇のように狡猾に、たとえどうしようもなくうんざりとして、弱り果てようとも。音は立てるまい……
 数分が過ぎて、ぼくは自分が横目を使っている――ある一つの方向にじっと狙いを定めて横目を使っているということに気がついた。そしてほどなく、確かに「実際に」何かの音を耳にして、自分の方向感覚が正しかったということがはっきりした!ぼくは懸命に――何とかして――体を持ち上げようとした。そして力無くふらふらと揺れ動きながらも、まっすぐに立ったが、それは死の恐怖が胸の中にあるせいばかりではなく、支配者としての威信があったせいだ。
 ぼくは移動した。力が戻ってきていた。
 そっと忍び足で、音を立てないように歩いて、ぼくは苔の山へと移動し、空地から薮の中へと、曲がりくねった道に沿って段差を下りながら、音のする方向へと進んで行った。漂い始めた小川のサラサラと流れる音を聞きながら、ぼくは苔むした小径を辿り、いつしか自分の頭よりも二、三フィートだけ高い、苔に覆われた低木の茂みへと入り込んだ。そこを通り抜け、泥棒猫のようにうろつきながら、どうにかこうにか骨の折れる道を歩いてゆくと、長い草の生えた開けた場所に出たが、そのときぼくが面していたのは、三ヤード前の、アカシアの木、トゲだらけの梨の木、それにpichulasの壁で、それとぼくが超えてきた森との間には、流水のきらきらとした輝きが見えた。
 手と膝で這うようにしてぼくはアカシアの茂みの方へと向かい、そこに少し入り込むと、ぐっと前の方へと身を乗り出して、じっと眼を凝らした。そしてそこに――すぐに――十ヤード右手に――ぼくは見た。
 その興奮について、言うべきことは一つ、卒倒して死んでしまう代わりに、そうして実際に現実の光景を前にしてしまうと、いくらか落ち着いたかのように思えた。悪意を持った、不信感に満ちた眼差しを投げかけながら、ぼくは立ち尽くし、確かにそこにいる彼女をじっと見つめていた。

*********

++++++++++++++++++++++++++++

Or it seemed half a laugh, and half a sob: and it passed from me in one fleeting instant.
Laughs, and sobs, and idiot hallucinations, I had often heard before, feet walking, sounds behind me: and even as I had heard them, I had known that they were nothing. But brief as was this impression, it was yet so thrillingly real, that my poor heart received, as it were, the very shock of death, and I fell backward into a mass of moss, supported on the right palm, while the left pressed my working bosom; and there, toiling to catch my breath, I lay still, all my soul focussed into my ears. But now I could hear no sound, save only the vast and audible hum of the silence of the universe.
There was, however, the foot-print. If my eye and ear should so conspire against me, that, I thought, was hard.
Still I lay, still, in that same pose, without a stir, sick and dry-mouthed, infirm and languishing, with dying breaths: but keen, keen―and malign.
I would wait, I said to myself, I would be artful as snakes, though so woefully sick and invalid: I would make no sound....
After some minutes I became conscious that my eyes were leering―leering in one fixed direction: and instantly, the mere fact that I had a sense of direction proved to me that I must, in truth, have heard something! I strove―I managed―to raise myself: and as I stood upright, feebly swaying there, not the terrors of death alone were in my breast, but the authority of the monarch was on my brow.
I moved: I found the strength.
Slow step by slow step, with daintiest noiselessness, I moved to a thread of moss that from the glade passed into the thicket, and along its winding way I stepped, in the direction of the sound. Now my ears caught the purling noise of a brooklet, and following the moss-path, I was led into a mass of bush only two or three feet higher than my head. Through this, prowling like a stealthy cat, I wheedled my painful way, emerged upon a strip of open long-grass, and now was faced, three yards before me, by a wall of acacia-trees, prickly-pear and pichulas, between which and a forest beyond I spied a gleam of running water.
On hands and knees I crept toward the acacia-thicket, entered it a little, and leaning far forward, peered. And there―at once―ten yards to my right―I saw.
Singular to say, my agitation, instead of intensifying to the point of apoplexy and death, now, at the actual sight, subsided to something very like calmness. With malign and sullen eye askance I stood, and steadily I watched her there.

*********

"The Purple Cloud"
Written by M.P. Shiel
(M.P. シール)
Translated by shigeyuki



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 おお、何たる神の御心か!計り知れない天の狂気か!これから書くことは、これまでに書いておくべきだったのだ!ぼくはそれを、どうしても書く気にはならない……

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 くだらない!それは狂った夢だ!髪の毛を根元から引き抜き、サトゥルヌスの荒れ狂う嵐に撒き散らす夢にすぎない!手が、それをどうしても書こうとはしないのだ!

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 神の名に於いて――!炎が吹き荒れたあとの四夜、ぼくが眠った家は――本などで見たことのあるような、フランス風の、おそらくは大使の家で、とても広い庭と美しい海の眺望を持っており、坂道の多い、ペラの街の東の下り坂に位置していた。ぼくはミナレットの近くに立っている、避難所にしていた数少ない大邸宅のひとつを離れたが、そこから眺められたミナレットは、ペラの町とフォンドゥクリの間のタクシムの高台の、古いムスリム居住区のいちばん高いところに存在していた。丘のふもとのファウンドゥクリの港とトファナの港の両方に、安全のための保険として、二隻のカイークを安全な場所に係留しておいたが、一隻はサルタンの金メッキを施した船で、船首に金の拍車がついており、もう一隻はzaptiasのボートで、水上警察として、かつてはゴールデン・ホーンをパトロールしていたものだった。そのどちらかの船を使ってスペランザ号に戻るつもりだったが、その時スペランザ号は、少し離れたボスフォラス海峡の沿岸に、安全に錨を下ろしていた。そうして五日目の朝、ぼくはトファナ湾を出た。柔らかい雨が一晩中降っていて、まるで消火するときの蒸気のような微かな灰色の煙が新たなる興奮を生み出したが、それには多少アバッドンの地区の強い悪臭があり、炎の気配はもう影も形もなかったが、黒い焦土と化した何マイルもの広大な区域からは、いまだに蒸気が立ち上っていた。そのせいで涙が止まらず、喉は締め付けられるようで、道も平坦ではなかったから、そうしたあらゆる種類の『残滓』を超えてまで前に進むことはしなかった。すぐにぼくは言った。「引き返そう、墓の領域とペラの背後に広がる荒廃した不毛の土地を横切って、丘を下り、ファウンドゥクリの港でzaptiaボートに乗り込んで、スペランザ号に向かおう」
 というわけで、ぼくは歩みを煙の立ち込める領域の外へと向け、荒廃と死の煙る場所の先へと進んでゆき、ほどなく豊かな森林地帯に入ったが、最初こそはやや焼け焦げてはいたものの、すぐに緑が繁ったジャングルになった。涼しくなって一息付くと、のんびりと船へとたどり着いたら、やや北西の方角に向けて、どこまでも向かおうと考えた。どこかこの辺りに「甘水」と呼ばれる場所があったと思い出したぼくは、そこに行きあたることを漠然と考えながらその日を過ごし、午後になるまで森の中にいた。ここの自然は、たった二十年で溢れんばかりの野生を取り戻していて、今では暗く鬱蒼とした谷に、逞しい植物、繊細なミモザ、大きな垂れ下がったフクシア、椰子、糸杉、桑、黄水仙、水仙、ラッパスイセン、シャクナゲ、アカシア、イチジクなどが生い茂り、その木陰の間に、小川がせせらぎの音を奏でていた。一度ぼくは、完璧に草に隠れて見えなくなっていた、金箔を貼った古い墓がいくつもある墓地で躓いて、そして三度、むせ返るような森の中で、小さな格子のあるヤリを垣間見た。アーモンドやオリーブをモグモグと食べながら、のろのろと疲れた足を引きずるようにして進んだが、そうしながらも、もともとオリーブはこんな北の大地には自生してなかったんだがな、と悪態をついていた。けれども今ではここに豊富に実っていて、単純なものではあったけれども、それゆえに遺伝子が変異したものであり、ぼくにはあらゆるものが確かに進化しているとは判断できなかったが、その日に見た糸杉のいくつかは、かつてぼくが目にしたどれよりも大きかった。そして記憶では、ぼくの考えていたことは、もし小枝あるいは葉っぱが鳥に変化するのなら、あるいは魚が翼を得て、目の前を飛ぶのならば、いったいどうすればいいのだろうかということであり、ぼくは訝しむように枝をじろじろと眺めた。随分と長い間、陰気な林の中を見つめていた。その日の森の外は明るくて暖かく、とても静かで、葉や花は全く動かなかった。まるで世界の虚ろな静寂を聞いているような気がして、ぼくは小枝の上を踏んで歩き、ピストルの発射音を響かせた。やがて茂みの中にぽっかりと開けた場所に出たが、八ヤードほどその場所を横切った辺りで、ライムとオレンジの香りが漂ってきた。そこには充分な薄明かりがあって、古い骨をいくつかと頭骸骨を三つ発見したが、花をつけた野生のトウモロコシの茂みからはタムタムの端が覗いていて、そこかしこに金色の金香木と麝香バラの群生が周りに咲き誇っていた。ぼくは足を止めた――”なぜ”気持ちが落ち着かないだろう――おそらくは、もし「甘水」に近づいているのでないなら、真剣に出口を探すべきなんじゃないかと思っていたからだろう。そうしてぼくは立ち尽くし、周りを見渡しているうちに、何かふらふらと飛びまわる昆虫が、耳元でブンブンと羽音を立てていたということを思い出した。
 ハッとして、ぼくは我に返り、息を呑んだ。
 空想だ――夢だ――苔とスミレの生い茂っている中に、押しつぶされた跡があったのだ、「作られたばかり」の!この思いがけない出来事に、ぼくはほくそ笑みながら立ち尽くした。空想だ――夢なんだ――狂ってしまったんだ!――ぼくは笑い声を聞いたのだ……!なんてことだ、人間のものだ。

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O wild Providence! Unfathomable madness of Heaven! that ever I should write what now I write! I will not write it....

*****

The hissing of it! It is only a crazy dream! a tearing-out of the hair by the roots to scatter upon the raving storms of Saturn! My hand will not write it!

*****

In God's name――! During four nights after the burning I slept in a house―French as I saw by the books, &c., probably the Ambassador's, for it has very large gardens and a beautiful view over the sea, situated on the rapid east declivity of Pera; it is one of the few large houses which, for my safety, I had left standing round the minaret whence I had watched, this minaret being at the top of the old Mussulman quarter on the heights of Taxim, between Pera proper and Foundoucli. At the bottom, both at the quay of Foundoucli, and at that of Tophana, I had left under shelter two caiques for double safety, one a Sultan's gilt craft, with gold spur at the prow, and one a boat of those zaptias that used to patrol the Golden Horn as water-police: by one or other of these I meant to reach the Speranza, she being then safely anchored some distance up the Bosphorus coast. So, on the fifth morning I set out for the Tophana quay; but a light rain had fallen over-night, and this had re-excited the thin grey smoke resembling quenched steam, which, as from some reeking province of Abaddon, still trickled upward over many a square mile of blackened tract, though of flame I could see no sign. I had not accordingly advanced far over every sort of débris, when I found my eyes watering, my throat choked, and my way almost blocked by roughness: whereupon I said: 'I will turn back, cross the region of tombs and barren waste behind Pera, descend the hill, get the zaptia boat at the Foundoucli quay, and so reach the Speranza.'
Accordingly, I made my way out of the region of smoke, passed beyond the limits of smouldering ruin and tomb, and soon entered a rich woodland, somewhat scorched at first, but soon green and flourishing as the jungle. This cooled and soothed me, and being in no hurry to reach the ship, I was led on and on, in a somewhat north-western direction, I fancy. Somewhere hereabouts, I thought, was the place they called 'The Sweet Waters,' and I went on with the vague notion of coming upon them, thinking to pass the day, till afternoon, in the forest. Here nature, in only twenty years has returned to an exuberant savagery, and all was now the wildest vegetation, dark dells, rills wimpling through deep-brown shade of sensitive mimosa, large pendulous fuchsia, palm, cypress, mulberry, jonquil, narcissus, daffodil, rhododendron, acacia, fig. Once I stumbled upon a cemetery of old gilt tombs, absolutely overgrown and lost, and thrice caught glimpses of little trellised yalis choked in boscage. With slow and listless foot I went, munching an almond or an olive, though I could swear that olives were not formerly indigenous to any soil so northern: yet here they are now, pretty plentiful, though elementary, so that modifications whose end I cannot see are certainly proceeding in everything, some of the cypresses which I met that day being immense beyond anything I ever heard of: and the thought, I remember, was in my head, that if a twig or leaf should change into a bird, or a fish with wings, and fly before my eyes, what then should I do? and I would eye a branch suspiciously anon. After a long time I penetrated into a very sombre grove. The day outside the wood was brilliant and hot, and very still, the leaves and flowers here all motionless. I seemed, as it were, to hear the vacant silence of the world, and my foot treading on a twig, produced the report of pistols. I presently reached a glade in a thicket, about eight yards across, that had a scent of lime and orange, where the just-sufficient twilight enabled me to see some old bones, three skulls, and the edge of a tam-tam peeping from a tuft of wild corn with corn-flowers, and here and there some golden champac, and all about a profusion of musk-roses. I had stopped―why I do not recollect―perhaps thinking that if I was not getting to the Sweet Waters, I should seriously set about finding my way out. And as I stood looking about me, I remember that some cruising insect trawled near my ear its lonely drone.
Suddenly, God knows, I started, I started.
I imagined―I dreamed―that I saw a pressure in a bed of moss and violets, recently made! And while I stood gloating upon that impossible thing, I imagined―I dreamed―the lunacy of it!―that I heard a laugh...! the laugh, my good God, of a human soul.

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"The Purple Cloud"
Written by M.P. Shiel
(M.P. シール)
Translated by shigeyuki



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1Q84  



「1Q84」 book1 & book2 村上春樹著 新潮社刊

を読む。

 三冊のうち、最初に出ていた二冊を読んだ。読みながら、「面白いかも」と「何じゃこりゃ」の間を行ったり来たり。最終的には、これなら伊坂幸太郎の「魔王」と「モダンタイムス」のほうがよかったよな、という感想に落ち着く。比べるものでもないのかもしれないけれども。
 文章はさすがに上手くて、すらすら読めるのだが、どうしても感じる違和感は拭えない。何が言いたいのかよくわからないし、カルト集団の存在が抽象的すぎるし、セックスシーンが無意味に多すぎる気がする。人びとの無意識的総意のようなものは、簡単には表現できないのはわかるけれども、こんな書き方では余計にわからない。これじゃまるでエヴァンゲリオンだと思った。考えてみれば、「スプートニクの恋人」でぼくの頭の中にビッグクエスチョンマークが浮んで以来、村上作品で「これは」という作品に巡りあえていない。なんだかんだで、結構読んではいるのだけれど、正直なところ、ほとんど惰性に近い気もする。まだ一冊残っているけれども、やれやれ、あまり期待はできなさそう。


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