漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



 「困ったときの友」 サマセット・モーム著
 
 原題は「A friend in need is a friend indeed」。直訳すれば「困った時の友が真の友」。うわべだけではない、まことの友を指す、英語のことわざである。
 この短い小説は、「コスモポリタンズ」という短篇集に収録されていて、ちくま文庫のモーム・コレクションの一冊として瀧口直太郎訳で出ている。他に、平凡社ライブラリーの「ゲイ短篇小説集」にも、「まさかの時の友」のタイトルで、大橋洋一訳で収録されている。そう、この小説自体からはそれほど同性愛的な感じは受けないけれども、モームが同性愛者だったらしいというのは、スパイであったという話と並んで、結構有名な話。
 さて、この短編だけれども、神戸市の垂水区が舞台になっている短編ということで、モームの短編の中では、比較的有名な一編である。
 こういう物語。

 神戸で会社を経営しているバートンという紳士が、ブリッジ仲間である若い同国の青年に仕事の斡旋を頼まれた時のことを聞き手に話すところから物語は始まる。青年は本国からの仕送りがなくなり、おまけに博打で全財産をスってしまったらしい。彼はこれまで仕事らしい仕事をしたことがないという。青年が水泳が得意だと聞いたバートンは、じゃあ塩屋クラブから平磯灯台を回って垂水川まで泳ぎ着くことができれば仕事をやるよ、と約束する。青年は少し渋ったが、最終的にはその提案を受け入れることにする。だが、結局青年は潮の流れに流されて、溺れ死んでしまう。遺体は三日間上がらなかった。その話を聞かされた男が、どうしてそんな賭けを仕掛けたのかと聞くと、バートンは、ちょうどそのとき仕事に空きがなかったんでね、と答える。

 皮肉なタイトルの、ブラックな小品である。作中の塩屋クラブは、昭和初期に建てられ、外国人の社交の場であった、ジェームズ山にある現在の塩屋カントリークラブのことだろう。先日読んだ三橋一夫の「魔の淵」にも名前が出てきた施設である。神戸異人館といえば北野町が有名だが、実はこの塩屋のジェームズ山にもたくさんの異人館があった。過去形なのは、今のことを知らないからだ。ただし一般には公開されていなかったので、余り知られてはいない。ついでに言うなら、このジェームズ山には80年代の終わり頃、巨大迷路があった。日本各地に巨大迷路が作られた頃である。ただしこちらは、ぼくは結局一度も行かないままで、いつのまにか無くなってしまった。垂水川というのは、福田川のことだろう。子供の頃、何度か友達と釣りをしたことがあるが、フナがよく釣れた。平磯灯台は、塩屋と垂水の間、山陽電鉄の東垂水駅の沖合あたりにある。だけど、平磯灯台と聞いても、地元の人以外にはあまりピンとこないかもしれない。垂水区のホームページから、平磯灯台についての記述を抜粋してみる。

「垂水のシンボルとして「垂水の灯台」は明治時代から有名になっています。 この灯台付近は「平磯」といって暗礁になっていて、昔から明石海峡の難所で、たくさんの船が難破しました。 そのため江戸時代から木製の灯標を何度も立てたのですが、潮流が激しいので、すぐに流されてしまいました。
1893年に、英国人技師の指導で、鉄筋コンクリート造りの灯台が建ったのです。それが現在でもそのまま使われているのです。 山口県小野田市にある旧小野田セメント工場内に、日本で最初に造られた(1883年)セメント燃結炉が、山口県指定史跡として保存されています。 そこには、この燃結炉で作られた第一号のセメントで垂水の灯標が造られた-と書かれています」

 比較的岸に近いところにある、ほんの小さな灯台なのだが、結構歴史的意味のある灯台なのである。そうした歴史を背負っているせいか、小さいくせに、なんだか妙に存在感があったのを憶えている。
 小説中で、バートンが指示したコースは、だいたいこんな感じだと思う。
  


 垂水から対岸の淡路島を眺めると、これくらいの距離なら、水泳の得意な人なら泳げるんじゃないかと思ったものだ。垂水から淡路まで、距離にしてだいたい4キロくらいだと聞いた。それなら、それなりに泳げる人なら、さほど苦労もなく泳げてしまえるような距離である。仮にシュノーケルやフィン、それにウェットスーツなどを身につけていれば、距離だけで言えば楽勝だろう。だが、もちろん海とプールは全然違う。子供の頃から、この明石海峡は流れが早くて、絶対に泳いでは渡れないと聞かされてきた。小学校の教室の窓からは明石海峡がよく見えたが、まさにその教室で、先生から、実際に泳いで渡ろうとした泳ぎ自慢の人がいたが、流されてしまい、伴奏の船に溺死寸前で助けられたこともあるとも聞かされたことがあった。随分昔のことなので、うろ覚えだが、それこそオリンピック選手級の泳ぎ手だったとか。そんな人でも泳げないんだと、つくづく窓の外の明石海峡と淡路島を眺めていたことを憶えている。34キロもあるイギリスのドーバー海峡を泳いで渡ったという人の話は時々聞くが、難易度はたった四キロのこちらの方がずっと高く、Wikiによると、

「最狭部の幅が3.6kmで最深部は約100mである。海峡としては狭い部類に入り、さらにその内1.3kmが潮流の主流部である。主流部の淡路島側(南側)に最も潮流の強い部分があり、大潮のときには主流部の流速の1.4倍に達して最大7kt (13km/h)を超え、松帆崎からは川のように流れるのが見られる。潮流の速さに加えて船の往来が多いため、人間が泳いで横断するのは自殺行為である」

ということ。波の穏やかな瀬戸内海で、一見優しい海に見えるが、外から見ただけではその流れの速さがわからないのだ。
 今では、明石海峡には巨大な明石大橋が架かってしまっているし、垂水の海岸は埋め立てられ、巨大なアウトレットモールになってしまったから、随分と変わってしまってはいるけれど、モームが世界を旅して回っていた頃の垂水は、随分と牧歌的な景勝地だったんじゃないかと思う。なんというか、神戸の都心から西へと向かうと、鉢伏山の辺りから、風景がしっとりとしてくる感じが今でも少しは残っている。ジェームズ山は、外国人にしてみれば別荘地のような感じで、使われたのだろう。そうした、穏やかでゆったりとした空気の中で、モームはこの物語を着想し、舞台に設定して、執筆したのだ。一見穏やかな紳士に見えるバートンと、明石海峡の姿を、重ねあわせるようにして。
 

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「縛り首の丘」 エッサ・デ・ケイロース著 弥永史郎訳
白水Uブックス 白水社刊

を読む。

 ケイロースはポルトガルの作家だが、弁護士、ジャーナリスト、外交官と、様々な顔を持っている。昔の作家には、こういう人が結構多かった。多分、本国ではかなりよく知られた作家なのだろう。
 薄い本で、二つの中編(短編というべきか)が収録されている。どちらも、説話的な物語。
 一つ目は、「大官を殺せ」。世界各国で翻訳出版されているという、著者の代表的短編。地味で、しょぼくれているとさえ言える一人の冴えない公務員の男が、偶然手に入れた古書に封じ込められていた悪魔(という解釈でいいのかな)の誘惑に屈して、大富豪となる。悪魔は、ただ呼び鈴を鳴らすだけで、何の骨折りも、リスクもなく、あなたが会ったこともない、それどころか、その存在さえ知らない、中国の死にかけている大官の息の根を止め、その財産を全て相続できるのだ、と囁いたのだ。半信半疑のまま、彼は鈴を鳴らすが、やがて悪魔の言葉は真実であったと知ることになる。悪魔からは何の見返りも求められることもなく、何一つ努力せずに大富豪になった彼をとりまく環境は、激変する。これまでは全く見向きもされなかった彼を、あらゆる人々が持ち上げはじめるのだ。最初の頃こそ、放蕩を尽くすことに身を任せていた彼だが、次第に心の中に、会ったことさえない大官を殺したという事実が大きく影を落とし始め、実際に、その幽霊をみるようになってしまう。その苦しみから逃れるため、彼が大官を殺したことによって不幸のどん底ひ落とされてしまった多くの人々を救おうと、中国に旅立つ。だが彼の望みは、ことごとく叶えられない……といったような内容。解説によると、もともと西欧で知られていた「大官のパラドックス」という説話をもとにした物語であるということ。つまり、「何のリスクもなく欲望を欲しいままにできるとしたら、誰がためらうであろうか」という、人間の倫理を問う例え話がもとになっているらしい。まさに内容もそのとおりのものだが、中国という、西洋人にはエキゾチックな土地に展開される物語の鮮やかさが、おそらくはこの物語をひときわ有名にさせたのだろう。
 二つ目は、表題作の「縛り首の丘」。ある敬虔な青年騎士が教会で、礼拝に訪れた美しい女性を見て、ひと目で恋に落ちる。だが、それは隣の大富豪の愛妻であった。その事実を知っても、青年は諦めきれず、なんとか思いを伝えることは出来ないかと色々と努力するものの、その美女はまったく彼の存在を気に留めることさえない。そればかりか、その女性の夫である貴族は、妻を愛する余り、他の男の目にはできる限り彼女を触れさせまいとするほどに嫉妬深い男であって、青年が自分の妻をどうやら気にかけているらしいということに気づいていた。妻のことが心配でたまらない彼は、妻を連れて、少し離れた別荘に移ることにする。それでも安心できない彼は、ついに謀り事をして、青年を殺してしまおうと考える。妻に偽りの手紙を書かせ、青年を呼び出し、殺してしまおうと考えたのだ。その手紙を受け取った青年は、喜び勇んで馬を走らせるが、途中、縛り首の丘と呼ばれる刑場を通るときに、吊るされている男のひとりから「どうか自分を連れて行って欲しい」と声をかけられる。いろいろと考えた末、青年は吊るされている屍体を下ろし、ともに愛する美女のもとへと急ぐのだが……という内容。
 ヤン・ポトツキの「サラゴサ手稿」もそうだったけれども、西欧の幻想小説にはしばしば、縛り首にされた屍体が男を惑わせたり、導いたりするという場面に出くわす。見せしめにされた屍体が不気味なのは分かるが、例えば日本のさらし首ともちょっと意味が違うように感じるのは、どうやらキリスト教の教えがその根底にあるかららしい。旧約聖書の申命記に、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」という一文があって、この言葉を根拠に、中世の身分の低い平民は絞首刑に処せられたという背景があるせいだ。つまり、「悪いことをすると、こんなふうになるぞ」という脅しに加えて、「この人間は、悪いことをしたことによって、神に呪われ、地獄に堕ちたものとなった」という、教会側からの脅しもあるわけである。つまり、気持ちが悪いものである以上に、穢らわしいものであるということだ。この物語の中で、三体吊るされていた屍体の一つが青年に話しかけ、あなたの役に立つことでご褒美をいただけるのだと語ったのには、おそらくはこの屍体はまだ救われる要素がいくらかは残っていた男であり、信心深い青年と美女のために働くことで、魂が地獄に落ちることから救われるという契約を神さまから頂いたのだろうと考えることができる。まあ、妻を愛する余りおかしくなってしまった貴族が、ちょっと気の毒な気がしないでもない物語ではあるのだけれど。


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 「週刊少年マガジン完全復刻版:三つ目がとおる:イースター島航海」(手塚治虫著 /講談社)を買った。
 これは2014年に出版されていたのだが、そんなものが出ていたことを全く知らなくて、ついこの前、偶然見つけて思わず買ったものだ。
 この本がすごいのは、連載当時のままの「三つ目がとおる:イースター島航海編」が完全収録されていること。
 今まで、「三つ目がとおる」は何度も単行本として出版されてきたが、これこそが決定版と言えるものは、なかなかなかった。一番最初に単行本として出たKCコミックス版は、「イースター島編」手前の6巻で中断してしまった。ちょうど出版されはじめた「手塚治虫全集」がその後を引き継ぐ形となってしまったかららしい。このとき、きちんとした順序で全話が収録されていればよかったのだが、どういうわけか、本来なら単行本の七巻目として収録されるべき「イースター島航海編」が「全集版三つ目がとおる」の第一巻目とされてしまったため、相当の混乱が起きてしまった。単行本を絶版にせず、しかも全集を売るための苦肉の策だったのだろうが、これでは全集だけを読んだ人にとっては全く前後の繋がりがつかめないから、かなり問題のあるやりかただった。さらに、このときかなりの描き換えが行われた上、多くのエピソードが削られてしまった。初めて本来の発表順と言える状態で出たのは、KCデラックス版だったが、全集未収録のままになってしまったエピソードは復活しなかった。そのため、例えば文福というキャラクターがなぜ唐突に登場するのか、よくわからないという状態になってしまった。もともと、手塚治虫は単行本化の際に書き換えを行うことで有名で、それは作品の完成度に満足できず、少しでもよいものを残したいという気持ちの現れなのだろうが、雑誌連載を夢中になって読んでいた読者にしてみれば、「あれ、読んだのとちょっと違う」という、不思議な違和感を感じる原因ともなった。
 その後、コンビニコミックなどで削除されたエピソードが拾われて、最終的に晴れて全話が読めるようになったのが2003年。だが、話はそれで終わらない。その後、「三つ目がとおる完全版」を謳った全集が小学館クリエイティブから刊行されると予告され、「完全版というからには、今度こそは雑誌版も収録されるのでは」と多くのファンの潜在的な期待を集めたのだ。だがそれは叶えられず、がっかりした人も多かったはずだ。それだけに、この完全復刻版が出版されたことの意味は大きい。
 そう書いても、ファンでない人にとっては「そんな些細なこと」と思われるかもしれない。だが、実際に連載中に夢中になって読んでいたぼくのようなファンにとっては、そう些細なことでもないのだ。まず、現行単行本版は連載版よりも、50ページ以上も短い。特に、現行版では後半部分を中心に大幅にカットされてしまっているのだ。主要登場人物も一部変更になっているし、ラストも少し違う(少しとはいえ、これでかなり印象が違ってしまう)。写楽が小さな穴に入らされるエピソードも、連載中に読んでいて妙に強く印象に残っていたのだが、ばっさりカットされていた。だから、小学校1年生の頃に夢中になって読み、強い影響を受けたと断言できる「三つ目がとおる イースター島編」のKCデラックス版を、高校生の頃に初めてまとまった形で読んだ時には、なんとも言えない違和感を感じてしまった。自分の記憶にあるのと違うのだから、それは混乱もする。当時は、単行本になったときに描き換えられたのだとは知らなかったから、自分が読んだのは幻だったのかと、しばらく頭をひねったものだ。それが、連載から40年近く経って、初めて最初の形で陽の目を見たのだ。記憶が、ようやく補完された。長い間、なんとなく残っていたしこりのようなものが、やっと解きほぐされた。そう言えば、幾らかは伝わるのではないかと思う。
 もっとも、ぼくのように連載中に夢中になって読んでいたという世代の人以外には、現行版でも全く問題はなく、むしろ雑誌スキャンの本書は「汚くて読みにくい」と感じるだけかもしれない。だけどまあ、いくら今読んでも結構面白く読める作品も多い手塚作品とはいえ、発表されてから何十年も経ったような少年漫画に今の子どもたちが積極的に食いついてくるとも思えないし、読者の大半は、かつて手塚作品に親しんでいた大人たちだろう。もともと子供向けに書かれた漫画を新たに大人になってから読み返すというのは、ほとんどノスタルジー以外の何ものでもないわけで、したがって何十年も経ってから完全版を謳って出版されるのであれば、こういう形で出る方が正解なのではないかという気がする。そういう意味では、小学館クリエイティブ版は見当外れの編集方針だったと言わざるを得ない。完全版を謳うなら、現行版と雑誌掲載版を、両方出さなければいけなかったはず。著者が生きていれば拒否されたかもしれないけれど、わざわざ値の張る完全版を買うような読者が本当に読みたいのは、自分が夢中になった「あれ」なのだから。だから、例えばだけれど、作者が手を入れなおし続けている現行版の永井豪の「デビルマン」とか、ああいうのは多分、誰も望んでいないんじゃないかな。


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「雨は降るがままにせよ」 ポール・ボウルズ著 飯田隆昭訳
思潮社刊

を読む。

 ボウルズの、唯一読んでなかった長編。
 読み始めてすぐに、「ああ、ボウルズの小説だ」と分かる語り口に、すっと馴染んでしまう。乾いているのに、ひたすら不吉で仕方がない文体。物語は、決してハッピーエンドでは終わらないだろう。最初から、そんな予感が充満していて、今にも爆発しそうだ。だが、分かってはいても、まるでモロッコの迷宮のような町に幻惑されてしまったかのように、読み進めるのをやめることができなくなる。
 ボウルズの長編は、どれをとっても、西欧人がモロッコの迷宮の中で自分の存在を見失ってゆく物語ばかりであり、これも例外ではない。同性愛や薬物の見せる幻覚も頻繁に登場する。この作品にも、レズビアンの女性が出てきて、主人公のダイアーと売春婦の少女を奪いあったり、キフやマジューン(大麻の入ったお菓子)の幻覚に溺れるシーンが出てくる。だがボウルズの場合、そうした退廃的な世界に溺れることを誇るようなところはない。どちらかといえば、それがある一線を象徴するものであるとして、幾分かの怖れを持って描かれる。その辺りが、非常に危うい感じがする理由のひとつなのだろう。
 ボウルズの作品は、面白いとか、面白くないとか、そういうものではなく、読むことがひとつのイニシエーションなのだ、という気がする。


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「アルラウネ」(上・下) H.H.エーヴェルス 著 麻井倫具/平田達治 訳
世界幻想文学大系27 国書刊行会刊

を読む。

 アルラウネ(マンドラゴラ)伝説を下敷きにした、ドイツの流行作家エーヴェルスの、最大のヒット作。1911年の刊行で、23万部ほども売れたそうである。現代ならいざ知らず、その当時としては破格の発行部数だろう。それほど人気を博した作品なのだから、さぞかし面白いのだろうと思って読み始めたのだが、うん、それはやはり古い作品だけあって、読みやすい作品ではなかった。特に前半は、展開が遅い上に、そもそも人物の関係からしてなかなか上手く理解できなくて、かなりの忍耐が必要だった。同一人物に対して様々な呼び方をするものだから、余計に。まあそれでも、だんだんと慣れてくるので、なんとか読みきることができた。
 ストーリーとしては、ある不良青年の思いつきがきっかけで、放蕩娘に殺人者が処刑された時に漏らした精液を受精し、人工的にひとりの女性を産ませ、その娘に「アルラウネ」という名前をつけて育てるのだが、長じるにつれてその娘は次第に魔力とさえ呼べるような力を身につけた悪女に育ち、その魅力に魅入られた人々を次々に破滅に導いてゆく、というようなもの。処刑された男の精液が大地を孕ませ、そこにマンドラゴラが生えるという伝説を踏んだ作品。読み終えてみれば、物語自体は、特に複雑で凝ったものではなく、むしろあっけないほどストレートなものだった。途中、男装を初めとするいろいろなコスプレをして見せたり、フェティシズムが全開の記述があったりと、今の基準ではさほどではないにせよ、おそらく当時にしてはかなり刺激的なシーンがあるので、そのあたりが人気の秘密だったのかもしれない。ちょっと、七十年代後半から八十年代前半頃の少女漫画のようだとも、思った。

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 前回の更新以降に読んだ本を、いくつか。これ以外に、小説本以外も数冊読んでいるが、それは挙げない。


「小説家の作り方」 野崎まど著
メディアワークス文庫 アスキー・メディアワークス刊

 大作「2」へと繋がるシリーズの中の一冊。テーマは、「この世で最も面白い小説」。その作品のあまりの完成度の高さに、世界を変質させてしまうというあたり、デビュー作でありこのシリーズの第一作である「アムリタ」にも低通している。


「霧が晴れた時」 小松左京著
角川ホラー文庫 角川書店刊

 小松左京の自選ホラー作品集。さすがに完成度の高い作品ばかりが並んでいて、どれを読んでも外れがない。ほとんどが既読の作品だったが、なにせ随分と昔に読んだものばかりだから、きちんと覚えておらず、かなり楽しませてもらった。


「日の名残り」 カズオ・イシグロ著
ハヤカワepi文庫 早川書房刊

 映画化もされた、ブッカー賞受賞作品。近代の波にさらわれ、古き良きイギリスが遠くなってゆくことへの哀惜が、ひとりの執事のパーソナルな記憶とともに浮かび上がる。黄昏のように穏やかで、胸をかきむしられるほど痛切な一作だった。


「復讐の序章 魔王子シリーズ1」 ジャック・ヴァンス著
ハヤカワ文庫SF 早川書房刊

 魔王子シリーズの第一作目。復讐譚なのだが、どこかコミカルなのは、ヴァンスらしいというべきか。想像の斜め上を行く感じ。カバーの萩尾望都の絵は、とてもいいのだけれど、この内容にしてはちょっと美麗すぎるような。巻数が進むにつれて、どんどんと面白くなってゆくとも聞くが、とりあえずは一冊だけでいいかな。


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