漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



「想像ラジオ」 いとうせいこう著 河出書房新社刊

を読む。

 いとうせいこうが、長い沈黙を破って発表した長編小説。東日本大震災を受けて書かれた小説として、発表当時にかなり話題になったのは知っていた。それを、ずいぶん経った今になって、ようやく読んだ。
 ネタバレ云々というほどのことでもないだろうから、書いてしまうけれども、「想像ラジオ」というのは、東日本大震災の津波によってさらわれ、木のてっぺんにひっかかってしまったひとりの死者が、テレパシーのようなものというか、共感のようなものというか、そうしたものによって放送を行っているラジオ放送のことである。もちろん、それは実際のラジオ放送というわけではなく、実際にはある一つの焦点とも言える象徴的な存在に対して、強い関心というか意識を持つことによって共有される共同意識のようなものである。そしてこの小説はまさに、そうした状態が存在するのだということを描いている。ストーリー自体は、あってないようなものである。
 したがって、面白いのかどうかといえば、小説として成功しているとは言いがたいとしか言えないと思う。ただ、作品としての完成度によって失われるものを恐れたがゆえの未完成作品という感じも確かにする。積極的に何かを汲み取ろうとして、時には深読みをしすぎることさえ恐れない、そうした人の心にしか刺さらない可能性のある作品だが、そうしたところがつまり「想像ラジオ」にチューニングを合わせるというところなのだろうか。

 最近、ついブログを書く間が広くなってしまう。本を読んでいないわけではなく、大体週に二冊くらいは必ず読んでいるような気がするのだが、ちょっとした感想さえ書かないままになっている。書くことがないわけではないのだが、つい面倒で、気がつくと日が経ってしまっているのだ。それに、パソコンに向かっている時間よりも、庭の草花に向かっている時間のほうが、長くなっている気もする。じっと画面を睨んでいるのが結構な負担になる年齢になってしまったということか。

 昨日は、世田谷文学館で開催されている「日本SF展・SFの国」を見に行ってきた。
 灼熱とさえ言える蒸せる陽気の中、物好きにも、小金井から世田谷まで、夫婦揃って散歩がてら自転車で。
 途中、野川のほとりで休憩し、缶ビールを一本。そこから東八道路にでて、仙川にたどりつくと、その流れに沿って自転車を漕ぎ進んだ。途中、小さな公園で昼食。走っているうちに、なんだか空模様が怪しくなってきたが、雨に会うことはなく、無事に世田谷文学館に到着。
 あんまり人がいないんじゃないかと思っていたが、少ないにせよ、思ったよりも見学者がいた。
 展覧会は、ほとんどが「SF第一世代」と呼ばれる人々、つまり作家では小松左京、星新一、筒井康隆、漫画家では手塚治虫、画家では真鍋博といった人々についてのものに限定され、日本SFの歴史全体を俯瞰しようとしたものではなかった。その点では、同時代の人々にしか強く訴えかけるものがないものだったかもしれないが、真鍋博氏の絵は美しかったし、わかる人にはわかるといった、貴重な史料も多く並べられていた。
 SF展を見た後は、常設展へ。そこで、ムットーニのからくり人形を見る。
 ムットーニの名前は知っていたが、実物を見るのは初めて。
 見たのは、「猫町」、「月世界探検」、「山月記」の3つ。
 これが、すばらしかった。特に凝っていたのは、「猫町」。この儚くも妖しい感じ、ほとんど完璧といってもいいんじゃないかと思った。「月世界探検」もとても美しかった。その二つに比べれば、「山月記」はやや地味だったが、悪くはない。ムットーニの作品を見れたのは、「めっけもん」だった。ひとつ家に置いておきたいくらいだ。
 展覧会を見ている間に、大きな音がした。外では雷が鳴り、大雨が降ったのだった。けれどもすべてを見学し終える頃にはほとんど止んでおり、少しショップを覗いている間には完全に晴れ間が戻った。それで、来るときに比べれば格段に涼しくなった路を、家に向かって自転車を漕いだ。

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「グランド・ミステリー」 奥泉光著
角川文庫 角川書店刊

を読む。

 900ページを軽く超える大長編。
 もともと上下巻に分かれていたものを、新装版として再刊する際に一冊にしてしまったものだから、とても分厚くて持ちにくかったけれども、それはまあそれとして、物語を読んだ、という満足感は十分に味わえた。
 物語の中心となるのは、水雷艇「夕鶴」の謎の爆破事件と航空母艦「蒼龍」における遺書紛失事件、川崎三整の失踪、それに榊原大尉の謎の服毒自殺が、実は一本の糸でつながっていたという歴史ミステリー。だがもちろんこの大冊が描きだそうとしているものは、その謎解きといういうよりはむしろ、それを狂言回しとした、別の何かのように思える。著者は、シャレにならないような大きな歴史的事件の背後にある卑小さや暗愚を描き出してゆく。そうして浮かび上がる戦争の姿は、英雄など存在しない、自立した意思を欠いた、虚しいものである。
 時代背景は、おおむね第二次世界大戦下。主人公は潜水艦乗りの加多瀬で、物語は、彼が真珠湾攻撃に向かう潜水艦の中に始まり、硫黄島で玉砕した後に一人歩き始めるところで終わる。ただし、物語の舞台がずっと戦場にあるわけではなく、東京や鎌倉を舞台に、それなりに日常の生活が営まれている部分が半分を占めている。おおむね、と断ったのは、時間を超えた場所も舞台として含まれているからだ。つまり、単なる歴史ミステリーものではなく、SF小説としての側面も持つ作品なのだが、そのあたりが、評価の別れるところでもあるだろう。カバーに使われている「グランド・オダリスク」と呼ばれるドミニク・アングルの有名な絵は、とても艶かしくてハッとさせられるような娼婦の絵だけれども、これは実はデッサンがひどく狂っていて、リアリズムに欠け、解剖学的におかしいとされている。確かに、ぱっと見は変には思わないけれども、じっと見ていると、背骨が変だということに気づく。だがもちろん、描いた画家はそれを知っていて、わざとデフォルメして描いているのである。どうもそういうことらしい。奥泉氏のこの小説も、どこか変だとは思うのだけれども、全体としては完成されている。わざわざこの絵がカバーに使われているのは、そういう意味もあるのかもしれない。
 この物語全体を背後から操っているのは、グランド・オダリスクたる榊原志津子だろうが、印象に残る人物は、他に大勢いる。中でも、友部と梶木と佐々木は名脇役だし、日本軍の中に漂う空気感を擬人化したかのような「どた馬、貧乏神、豆だいふく」には、普遍的な卑小な悪意を感じて、薄ら寒い気分にさせられる。
 書店で、「永遠の0」の隣にそっと並べて置いておきたいような一冊。

 実は、この小説を読んだのは先週のこと。今週になって、安倍総理により集団的自衛権が閣議決定された。A級戦犯を祖父に持ち、自らは戦争体験を持たない安倍氏が思い描く「美しい日本」というのは、いったいどういうものを指すのだろう。アメリカというボスの影をちらつかせて虚勢を張るチンピラのような国なのか。経済界に便宜を図ることで保身を図り、弱者を切り捨ててゆくのもやむなしとする、傀儡宰相の治めるハリボテの経済大国か。安倍氏の政策からは、自分を強く見せたいという意思は感じられても、良い国にしようという意思は感じられないのだが、それは僕の色眼鏡のせいなのか。一度目に政権をとった時には、野党に押されて体調を崩し、辞職したのだったと思うが、その安倍氏の頭の中では、美しさとマッチョな強さは同義なのだろうか。


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