漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

ミュージックバトン

2005年06月30日 | 雑記
 ミュージックバトンというものが流行っているらしいと、seedsbookさんのブログで知った。seedsbookさんは、バトンを気前よくばらまいてくださっているようなので、拾ってみることにした。

質問:
1.Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

 わかりません。500メガくらいは入っているかもしれないですが、パソコンで音楽は聴かないので、編集したときの残骸ファイルに近いです。

2.Song playing right now (今聞いている曲)

 Bill Evans の 「You must believe in spring」というアルバム。

3.The last CD I bought (最後に買ったCD)

 多分、David Meadの「Indiana」というアルバムだと思います。最近、あまりCDを買いません。

4.Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

 アルバムという単位なら、

1.Cowboy Junkies 「Trinity Session」
2.The Velvet Underground 「The Velvet Underground」
3.Roxy Music 「Avalon」
4.T.Rex 「The Slider」
5.Echo & The Bunnymen「Crocodiles」

でしょうか。どれも、若い頃にエンドレスできいていたアルバムです。有名なものばかりなので、新味はないかもしれません。曲単位では、また違うものになるでしょうが。

5.Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)

 これは、パス。

ビビンバ

2005年06月29日 | 記憶の扉
 「ビビンバ」というのは、言うまでも無く韓国風丼物のことだが、僕にとっては別の意味も持っている。かなり特殊な意味だから、共感を得るということは、僕の小学校の同級生で無い限り、ありえないだろう。

 そう、小学校の時の話である。
 「口裂け女」という都市伝説が、昭和54年当時には日本中を席巻していた。
 そろそろ知らないという人も増えているだろうから、簡単に説明すると、
 道を歩いていると向こうから大きなマスクをした綺麗な女の人が歩いてくる。綺麗な人だと思っていると、その女性はふと立ち止まり、「わたしきれい?」と聞いていてくるというのだ。「綺麗だよ」と答えると、やにわに彼女はマスクを外して、「これでも?」と言う。マスクの下の彼女の口は、真っ赤に、耳まで裂けている。
 そういう話だ。
 後になって、口裂け女は100メートルを3秒で走るとか、鼈甲飴が好物で、三本あげると助けてくれるとか、左肩を叩かれた時は右からゆっくりと振り向くといいとか、そういう様々な尾ひれがついた。
 そうした流れから、「ビビンバ」の話が出てきたのだと記憶している。

 「ビビンバ」とは何か。
 当時僕が通っていた学校の近くに「舞子ビラ」というホテルがあったのだが、そこの敷地に凶暴な半裸の男が出るというのだ。それが「ビビンバ」である。名前の由来は、はっきりとわからない。当時「俺たちひょうきん族」という番組があったが、その中に「ビビンバ」というキャラクターがいた。どちらが先だったのか、憶えていないのだが、多分そのあたりだろうと思う。
 「ビビンバ」の話は、後に尾ひれがついて、「カカンバ」とか「チビンバ」とかもいるということになった。今普通に考えれば、これは多分、ホームレスがいたということだと思う。尾ひれの部分は、家族がいたということか。
 あるとき、探検隊を作って、「ビビンバ」を捜しに行こうということになった。
 結局見つからなかったのだが、これは後で問題になった。教室で一列に並ばされて、先生から往復ビンタを頂いた。

 「ビビンバ」の話はそれだけなのだが、後日談がある。
 この話を妻にすると、「こっちでは『シュウゴ』というものがあった」という。内容は、ほぼ同じである。ということは、この時期、多分日本中で同じようなことがあったのではないかと推測される。子供は敏感である。当時の子供達がこうした話をリアルに感じてしまうというのは、それなりの下地があったと考えるべきだろう。
 さらに2004年、「口裂け女」の話が隣の韓国で流行したという。
 財政破綻を乗り越えた後の成長期である。
 当時の日本と、どこか似た空気が韓国を覆っていたのだろうか。

学校の教科書を

2005年06月28日 | 記憶の扉
 学校の教科書を、きちんと取っておけばよかったと思うことがある。
 あれほど退屈だった授業の記憶が、時には懐かしくなるから。
 そして、その退屈の友だったのは、教科書だったと思うから。

 考えてみれば、教科書ほど記憶が染み付いている本も無いのではないか。
 内容もさることながら、暇にあかせて書いていた落書きや、鞄の中でひしゃげたバターがこびりついてしまった背表紙も、めまぐるしく動いていた子供の頃の時間を、しっかりと記憶しているのだ。

 かつては国語の教科書に収録されていて、強く印象に残っている「どろんこ祭り」や「太郎こうろぎ」は、今ではジェンダーの問題で外されてしまっているという。ジェンダーの問題を軽く考えるつもりはないが、残念だと思うのは、僕が間違っているのか。

スマートボール

2005年06月27日 | 消え行くもの
 「パチンコ」は世の中に溢れているし、「ピンボール」も、機械は見かけなくなったものの、ソフトがウィンドウズに最初から入っている。だから、「パチンコ」や「ピンボール」を知らないという人は殆どいないだろうが、「スマートボール」は、もしかしたら知らないという人も結構いるのではないか。
 博打性も殆どないし、スピード感もないから、廃れてしまうのは仕方がないと思う。だが、かつては夏祭りの夜店で、人気の球戯だった。
 まるで亀の卵のようなボールを打ち出して、ボードに空いた穴に入れる。上手く入ればその穴に書かれている数字の分だけ、追加のボールがもらえる。あるいは、スロットのように、縦、横、斜めと、ボールが揃えば、景品がもらえる。あるい追加のボールがもらえる。そうした遊びだった。
 夜店でスマートボールをするのが、僕は好きだったのだが、それほど上手かったという記憶は無い。ただ、今のように電子ゲームのない時代だったから、面白かった。射的や輪投げとセットで、僕にはとても懐かしい遊戯だが、今殆ど見なくなったという点では、夏祭りと結びついた遊戯の中では、もしかしたら一番ノスタルジックな遊戯かもしれない。
 写真は江ノ島でのもの。江ノ島と、江ノ電から江ノ島へ向かう参道には、数箇所こうしたスマートボールと射的が楽しめる娯楽場がある。

すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた

2005年06月24日 | W.H.ホジスンと異界としての海
 最近読んだ中で、最も「ホジスンを思い起こさせた」小説といえば、

 「すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた」
 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア著

 という連作短編集だった。
 全部で三篇の作品が収められているが、中でも最後の「デッド・リーフの彼方」は、別に作風が似ているわけではないのだが、どこか「ホジスン的」だと思ったのは、僕の思い込みでなければいいと思う。ただし、ホジスンとの関連を抜きにしても、この短編集は読むだけの価値のある本だ。ティプトリー・ジュニアの視点はクールだし、キンタナ・ローの風土を書く彼女の文章が持つ色彩喚起力も、文句無く素晴らしい。バラードがヴァーミリオン・サンズを描いたように、ティプトリー・ジュニアはキンタナ・ローを描いたのだ。そう思いたい。この物語の中の、はっとするような海のターコイズブルーを、僕は摘みたい。
 収録されている作品の舞台は、すべてメキシコのユカタン半島。カンクンやコスメル島のある辺りだ。そこの海で、マヤ文明の時代と現代とが、束の間交差する瞬間を書いている。
 ここで取り上げた「デッド・リーフの彼方」という作品は、リゾート開発などの廃棄物で殺されてしまったリーフで見た幻(?)を書いた、優れた作品。そのスキャンダルな人生とアクロバティックな作風で、半ば伝説化しているティプトリー・ジュニアの、これは絡みつく潮風のような短編集だ。

「W.H.ホジスンと異界としての海」というカテゴリーについて

2005年06月24日 | W.H.ホジスンと異界としての海
 まず最初に、「W.H.ホジスンと異界としての海」というカテゴリーについて、少し書きます。

 僕はこのブログとは別に、「seaside junk foods」というサイトをやっているのですが、そのサイトの中で「The Boerderland─ William Hope Hodgson and His Works」という、20世紀初頭のイギリスの怪奇作家のファンサイトというか、研究のためのコンテンツを持っています。ホジスンというのは、主に「異次元を覗く家」や、日本映画「マタンゴ」の原作となった「夜の声」などの作品で知られるパルプ作家ですが、僕は彼の作品が大好きなのです。
 詳しくはそのサイトを見てもらえると有り難いのですが、ホジスンといえば、自身が船乗りだったこともあり、海洋怪奇譚の第一人者という評価が現在では定まっています。
 僕はその流れを受けて、「異界としての海」を取り上げた作品をいろいろと探してコンテンツとしようと考えていたのですが、現実問題、それほど暇でもない個人の手には余ると、当然のことながらすぐに気付き、やりかけのまま投げ出していました。
 でも、考えてみればそんなに大きな事を気負いこんでやる事はないわけですね。だから、もっと気軽に出来ないかと考えていました。
 ブログを始めようと考えたのは、実はその延長の中で、これはツールとしていいかもしれないと思ったからでした。気楽に更新できるし、その気になれば後でまとめることもできるわけです。それに、掲示板のような使い方もできます。
 というわけで、満を持してというほどのものではないのですが、このカテゴリーでは、ホジスンに関する作品はもちろんですが、ホジスンとそう遠くないと思われる海洋怪異譚などを紹介してみようと思います。思うことがありましたら、気軽にコメントください。

Hats

2005年06月23日 | 青を摘む
 「Hats」 The Blue Nile 

ひたすら作りこまれたアルバムを、忘れた頃に発表するという「ミュージシャンズ・ミュージシャン」的なスタンスが、例えばスティーリー・ダンなどと比較されるのだろうが、僕はこの「The Blue Nile」の方が好き。
 そもそも、本当は打ち込みを多用しているバンドは好きではないのだが、このブルーナイルの二作目「Hats」は、そのジャケットともども、印象に残って仕方が無い。まるで映画のサウンドトラックのような、しっかりとした背骨を持ったアルバムである。
 特に、三曲目の「Let's Go Out Tonight」は、ふとした弾みに思い出すことがある。曲としては、二曲目に収録されている、カバーも多い「The Downtown Lights」の方がよく出来ているのかもしれないが、なぜだかわからないが、「Let's Go Out Tonight」は、ふと口をついて出てしまう。
 このアルバムからは、真夜中を過ぎたばかりの時間の、寝静まった駅の片隅の青さを摘もう。

ピンボール

2005年06月22日 | 消え行くもの
 かつて、ゲームセンターといえば、片隅に数台並ぶピンボールが定番だった。
 学生の頃は、僕はビデオゲームが苦手だったから、よくピンボールをやっていた。単純なところがよかったのだ。それに、ピンボールの持っている、ややいかがわしいようなバタ臭さが、好きだった。
 十年ほど前だろうか、ゲームセンターから一斉にピンボールの姿が消えたのは。代わりに、ゲームセンターに並んだのは、UFOキャッチャーとプリクラだった。
 村上春樹の小説に、「1973年のピンボール」という作品があるが、そうしてピンボールで遊んだ僕らのような世代と、最近の「ゲーセン」世代とでは、この小説の読み方も違ってきているのだろうか。
 ここに載せた写真は、お台場にある、レトロを売りにしたテーマパークのような「お台場一丁目商店街」のもの。ピンボールは、既に昭和の遺物らしい。

ロブスター岩礁の燈台

2005年06月22日 | 読書録
 灯台の出てくる話。その3。

 「ロブスター岩礁の燈台」 ジェイムス・クリュス著

 1956年に発表された、ドイツの作家によるファンタジー。
 物語の中で物語が物語られるという、千夜一夜物語のような形式を採っている。
 物語は、「風のうしろの幸せの島」の資料を探している一人の男が、その探索の途中で、ふとしたことから帆布工房の親方、ハウケ・ジーヴァース氏の物語を聞くことになるというところから始まる。彼の語る物語には、船酔いしているポルターガイスト、詩の大好きな雲、など、様々な魅力的な登場人物(?)が現われるが、そうした物語が全て語り終えられた七日目に、もう一つの物語が現れる・・・。

線路に沿った細長い道を

2005年06月21日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 線路に沿った細長い道を歩いている。線路は右手の、私の歩いている道からほんの少しだけ高い場所にある。だが、先ほどから全く電車の通る気配も無い。辺りは、息をつめたように静かだ。もしかしたらもう使われていない線路なのかとも考えたが、太陽の光で時折鋭く光るレールを見るにつけて、そういうわけでもないのだろうとも思う。もしもう使われていない線路なら、もっと赤く錆びていてもいいはずだからだ。
 道はずっと真っ直ぐで、舗装もされていないのだが、それにしても妙に白い。砂の色が白いのだろうが、それにしても白いと思う。線路のある路端からは先のするりと尖った草が道に這い出てきているが、その緑が普通では考えられないほど鮮やかに見える。
 道の左手は、どこまでも続くような漆喰の白い壁である。のっぺりとした、継ぎ目の無い壁だ。大きな屋敷でもあるのだろうが、その屋敷の姿が見えないのが不思議だ。壁が余りにも高い割に、屋敷が余りにも低い建物であるからだろうか。それとも、この壁の向こうには何もないのだろうか。
 壁には、一定の間隔で、ずっと四角い穴が開いている。例えるなら、城の銃眼のような感じである。そしてそこから、アリクイだか、フェレットだか、おそらくはそのどちらでもないのだろうが、例えばそのような感じの、妙に頭の細長い生き物が顔を出している。それは穴の一箇所や二箇所ではなくて、全ての穴からである。見える範囲だけで、だから、二、三十匹はいるだろうか。そいつらは、じっと壁から頭を出してだらりとしているだけで、全く動こうとはしない。まるで壁から突き出た長い舌のようで、見ていると妙にさわさわとした気持ちになってくる。私はゆっくりと道を歩きながら、どうしてもそいつらを意識しないではいられない。それとともに、電車がいつかやってくるのかとも考えている。
 歩きながら、ふと私は思った。もしかしたらこの中のどれか一匹の頭を引っ張れば、この中の他の一匹の頭が引っ込むのではないかと。私は立ち止まって、近くのアリクイだかフェレットだかの顔をじっと見た。黒くて豆粒のような瞳は、だがまるでボタンのように無表情だった。静かに手を伸ばしても、全く反応はない。私は思い切って、そいつの頭を掴んで、手前に少し引いた。そいつは二十センチほど手前にずるりと出てきたが、それだけで、他には何の変化も無かった。

静かに横たわっていたのは

2005年06月20日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 静かに横たわっていたのは、涼しくてどこか草の香りのする畳の部屋で、身体をゆっくりと捻りながら半身を持ち上げると、どこからか水の音がする。起き上がって、見渡すと、どうやらそこはずっと奥行きが広くて、うっすらと緑色に見える部屋だった。誰もいないが、どこかこの部屋の近くには誰かがいるような気がする。
 音は、部屋の右手の、どこまでも続くように思える障子の向こうから聞こえているようだ。僕はぼんやりと障子に揺れる影の、移り変わって行く模様を眺めながら、部屋の一番隅にいたので、心細さはそれほど感じないのかもしれないと思っていた。左手の方には、ずっと白い壁があったが、一箇所だけ、襖の扉になっていた。そして、その襖はほんの少しだけ開いていた。
 僕は這うようにして、障子の傍らに行き、そっとそれを開いた。
 障子の向こうには、やはり渓流が、遥か眼下に見えた。光が、幾層にも重なった広葉樹の隙間からこぼれるように落ちて行く様子が見える。そして、渓流にはその光を受け止めようとするかのような、子供たちと、洗濯をしている女性の姿が見える。子供と女性は、交互に空を見上げて、それから流れに手を浸している。
 僕はまた部屋に視線を戻した。部屋は、随分と広いと思っていたが、さっきよりもさらに広くなったような気がした。部屋の向こうがまるで見えない。日が翳ってきたのか。だが、よく耳を澄ますと、ちいさな「ぱたん、ぱたん」という音がする。僕はその音が、畳を敷き詰めている音なのだと思った。
 窓の外に再び視線を這わす。どこからか飛んできたもっこりとした繭が、いつまでも柔らかい上昇気流に乗って、川に落ちて行かない。そうした光景が見えた。その繭からはとても綺麗な、光のような糸が何本もこぼれていて、聞こえないのだけれど、それらが擦れ合って、なんとなく音楽を奏でているようだった。

ルドンの夢見る色彩

2005年06月20日 | 青を摘む
 初めてルドンの絵を見たとき、「青っていう色は、綺麗だな」と思った。
 小学生の時だ。その時が、多分「青」という色彩を始めて意識した時だったと思う。
その時見たのは、「オルフェウス」と題された、ルドンの代表作だ。
 考えてみれば、パステルという素材を知ったのも、このときが最初だったのではないか。
 その頃は漠然と、ルドンはずっと色彩にこだわった画家だと考えていたのだが、後になって、実際に彼が絵に色彩を取り入れるようになったのは晩年になってからだと聞いて驚いた。ずっと、ルドンは色彩の無い、白と黒の世界に生きていたのだ。
 晩年になって、まるで春が突然訪れたかのように、色彩のあふれた絵を描くようになったルドンの絵は、だからだろうか、まるで世界に初めて触れる子供のように、色彩が奔放な愉しみの中で踊っているように見える。そしてその中で、青という色彩だけが、とても静かに佇んでいるように見える。
 ルドンの絵を見るとき、ときどき思い出すのが、江戸川乱歩の「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」という言葉だ。
 もしかしたら、ルドンの「青」は、その二つの世界を繋ぐ扉なのかもしれない。

「Steve McQueen」--- Prefab Sprout

2005年06月17日 | 青を摘む
 「エヴァー・グリーンな音楽」という言い方をよくに耳にする。
 「エヴァー・グリーン」という感覚は確かにある。例えるなら、それは一抹の寂しさを含んだ、心地の良い涼しさかもしれない。そしてその色彩は、実は緑ではなく、青なのだと思う。
 僕が「エヴァー・グリーンな音楽」という言葉を聞いて最初に思い浮かべるのは、プリファブ・スプラウトの音楽だ。
 プリファブ・スプラウトの音楽は、相当作りこまれているのだが、最初から一貫してどこか青臭く、だからこそ繊細な夜空のようで、時々激しく心を揺さぶられる。ついこの間もそうだった。ラジオから流れてきた彼らの「Cars and Girls」に思わず仕事の手を止め、しばらく耳を傾けた。久々に聞いたが、そのきらきらとした輝きは、全く色褪せず、そこにあった。
 どのアルバムが好きかというのは、バンドの性格上難しいが、トーマス・ドルビーがプロデュースした「Steve McQueen」「From Langley Park to Memphis」「Jordan:The Comeback」の三枚と、長いブランクの後でリリースされた「Andromeda Heights」は、甲乙つけがたい名品だった。
 セカンドアルバムの「Steve McQueen」(US版では、肖像権の問題で「Two Wheels Good」とタイトルを変え、数曲ボーナストラックが追加されている。余談だが、このボーナストラックというのは時に曲者で、「Andromeda Heights」の日本版のボーナストラックなどは、アルバムの印象を著しく損なうので、無い方がいいと思う)に収録されている「When love Breaks Down」は、彼らの初期の代表作で、まさに琴線に触れる一曲。バイクで疾走するその向こうの夜空の、群青の青さを摘みたい。

三つの「銀河鉄道の夜」

2005年06月16日 | 青を摘む
 青という色彩を摘んで、集めてみたい。
 青という色彩は、どこか別の時間の、別の場所への入り口のような気がするから。
 じっと見詰めていると、その向こうの世界が見えてくる。
 そうした「青」を捜して、ひとつづつ、並べてみよう。



 「青色コレクション」の最初は、「銀河鉄道の夜」にしたい。
 言うまでも無く、宮沢賢治の未完の小説である。
 余りにも美しい、日本の童話を代表する作品だ。
 「青色コレクション」の冒頭を飾るのに、これほど相応しい作品は、僕には思いつけない。
 カンパネルラが入ったという川の、その水面の揺れる青黒い色彩と、見上げた夜空の色彩を、僕は摘みたいと思う。

 だが、僕の中にはそれ以外にも、三つの「銀河鉄道の夜」がある。
 それらの「青」も、僕は摘まずにはいられない。

 最初の「銀河鉄道の夜」は、岩波書店からハードカバーで出ていた「銀河鉄道の夜」だ。
 それは、現在流布している定本とは違う構成の「銀河鉄道の夜」で、叙情的な印象を受ける。大きく違うのは、「天気輪の柱」の章とラスト、それにブリタニカ博士が登場するという点だ。
 実は、僕が始めて読んだ「銀河鉄道の夜」はこの本だった。
 小学校の五年生の時、夏休みの読書感想文を書くために学校の薄暗い図書室の棚から借りて、読んだのだ。ものすごく感動したことを覚えている。だから、一生懸命に読書感想文を書いた。そう書いているだけで、小学校の図書室のことを思い出して、懐かしくなる。その頃手にした本の、一冊一冊を思い出す。
 この本は、美しい本だった。図書室でそうして手にした本の中でも、特に印象的な本だった。青い色彩の中に、ペン画の銀河鉄道が描かれている。その絵が、目の奥に沁み付いて離れない。だから、僕はこの本の表紙の、青い色を摘みたい。

 次の「銀河鉄道の夜」は、宮沢賢治の作品をベースにした松本零士の漫画「銀河鉄道の夜」だ。
 今ではもう無くなってしまった出版社、奇想天外社から出ていた「ヤマビコ13号」という単行本の、冒頭に収められていた。
 しっとりと湿ったようなこの短編は、少年時代との別れを描いた美しい作品だった。単行本では、墨と藍の二色で刷られた冒頭部が特に美しかった。汚れている筈の空が青く見える。その幻の青さをそっと摘みたい。

 最後の「銀河鉄道の夜」は、ますむらひろし作画でアニメーション化された「銀河鉄道の夜」である。登場人物が殆ど全て猫で描かれたこの作品は、美しい色彩で彩られていた。余りにも美しいから、この作品のどこから青を摘もうかと迷うほどだ。
 この作品から摘むべき青い色彩は、多分ジョバンニの毛の色なのだろうが、全編を覆うトーンの中に、深い青さがあるような気もする。

村上春樹とポール・オースターは

2005年06月13日 | 読書録
 以前、村上春樹の話題で結構反応があったので、ずっと何となく思っていることを書いてみようと思った。妄想に近いかもしれないから、読み飛ばしてくれて構わない。

 僕は以前から、村上春樹とポール・オースターが似ているような気がして仕方が無かった。
 作家としての想像力と、人間としての資質が、ともに。
 村上春樹の「青春三部作」は、ポール・オースターの「ニューヨーク三部作」と、
 「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」は「最後のものたちの国で」と、 
 「ノルウェイの森」は「ムーンパレス」と
 「ダンス・ダンス・ダンス」は「リヴァイアサン」と
という風に、何と言うか、「似ている」気がするのだ。

まあ、それだけの話なのだけれど。