漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




「フランケンシュタインの子供」 風間賢二編
角川ホラー文庫 角川書店

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 風間賢二さん編集による、「フランケンシュタインもの」のアンソロジー。全12編。
 メアリ・シェリーによるオリジナルの「フランケンシュタイン」という作品は、様々なアプローチが可能で、非常に現代文学的なテーマを内在しているとぼくは思っている。そういう意味では、もっといろいろなフランケンシュタインもののアンソロジーが出ていてもよさそうなのだが、いざ探すと、これというものが意外と見当たらない気がする。解説で風間さんも書いているけれど、「」フランケンシュタインテーマ」といえば大抵は人造人間テーマを指し、実は「フランケンシュタイン」というよりは、リラダンの「未来のイヴ」に近いことが多い。実際このアンソロジーに収録されている12の作品のうち、「新フランケンシュタイン」を始めとする少なくとも5編は、「未来のイヴ」直系であり、同じ物語のバリエーションであると思う。フランケンシュタインを「人造人間/ロボットもの」の元祖とする考え方も違うとは言わないけれども、ぼく自身の印象では、オリジナルの「フランケンシュタイン」はやや哲学的で、アイデンティティーの問題を扱い、文学性の高さに重きを置いており、むしろ「ドッペルゲンガーもの」、あるいは「ゾンビもの」に親和性が高い気もする。そういう点で、むしろ非常に現代文学的だと思うのだ。
 冒頭に収録されている、メアリ・シェリーの短編二編は、このアンソロジーの白眉だろうが、最初の「変身」はドッペルゲンガーもの、「よみがえった男」はゾンビものの、バリエーションであるという点は、「フランケンシュタイン」という作品の出自をよく表している。ちなみに「変身」は、自分中心的な男が財産を食いつぶした挙句、悪魔との取引によってしばらくの間身体を取り替えるが、結局そのことで自らの非を悟り、心を入れ替えるという話で、「よみがえった男」は、雪山で氷漬けになっていた男が100年の時を経て蘇るという物語である。メアリ・シェリーという人は、あまり知られてはいないが、「最後のひとり」という世界の終わりの物語を書いていたり、来年早々に彩流社から翻訳出版される予定の、近親相姦を扱った「マチルダ」という作品を書いていたりと、かなり興味深い人物。オリジナルの「フランケンシュタイン」が、名声の割に読まれていないという統計もあることだし、もう少し再評価が進んでもいい作家なのではないか。
 このアンソロジーに収録されている作品の中で、最もオリジナルのフランケンシュタインに近い味わいがあって、完成度も郡を抜いて高い作品は、おそらくラヴクラフトの名作「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」だと思うが、個人的には、他に面白かった作品を挙げるなら、ヴォネガットのシナリオ作品「不屈の精神」である。これは、死なせてもらえない老婦人のグロテスクな物語で、よく出来ていると思う。


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 「昭和のくらし博物館」で開催中の、「高野文子の描く 昭和のこども原画展」を観にゆく。
 五反田から東急池上線に乗った。東急池上線に乗るのは、考えてみれば初めて。乗ってみて、驚いたのは、車内がレトロな感じになっていたこと。車内の壁が木目調。電灯も少し黄色くて、レトロな雰囲気をさらに盛り上げる。木目調の車内といえば、神戸に住んでいた頃によくお世話になった阪急電車がとっさに思い浮かぶが、まさか東京にも木目調の車内を持つ電車が走っているとは思わなかった。そういえば、東急と阪急、ちょっと名前が似ているんじゃないかと妻に言われ、そういえばそうだねと、スマホでちょっと検索。分かったことは、そのどこはかとなく漂うハイソな雰囲気から、昔から東の東急、西の阪急と言われているということ。初期の日本の民間鉄道事業が阪急を手本にして発展してきたという経歴があって、しかもその阪急の創始者である小林一三という人物は、渋沢栄一から依頼されて、現在の東急電鉄の始祖となった田園都市開発株式会社の経営を任され、無報酬かつ役員として実名を連ねないことを条件に、実質的に経営を主導したということ。また東急の実質上の創始者である五島慶太は、小林を師と仰いでいたという事実があったということ、など。なるほど。
 池上線を、久が原にて下車。そこからごく普通の住宅街を十分弱歩き、昭和のくらし博物館に到着。はっきり言って、結構わかりにくい場所にある上に、今では少なくなってきたタイプの建物とはいえ、特に珍しいという印象もない、ちょっと古めの、旗竿地に建つごく普通の民家である。
 門を入って、左手の離れのようなところで入場料を払い、引き戸の玄関から中へ。懐かしい感じは、すごくする。ぼくが子供の頃には、どこにでも普通にあったような家である。家の中は、昭和30年代くらいの、ごく普通の家庭の様子が再現されている。館長を務める生活史研究所代表の小泉和子さんの言葉によると、彼女の家族が実際にこの家で暮らした平成8年までの45年間に、様々なことがあって、最終的には空き家となってしまったこの家を、一度は壊してしまうことも考えたらしいが、「この時期に建てられた住宅が現在、ほとんど残っていないこと、一軒分の家財がそっくり残っていることから、決して立派な家でも家財でもありませんが、これはまるごとが戦後の庶民のくらしの資料ではないかと考えて、このまま残しておくことにきめました」ということ。確かに、生々しい生活の空気は感じる。ぼくが、特に珍しいという印象もないと感じた家だが、そうか、そう思っているうちにどんどんと失われていってしまうものなのか、とふと思う。
 今回この博物館を訪れた、肝心の目的の高野文子原画展は、二階の八畳ほどの小さな部屋の中で開催されていた。展示されていたのは、かつて綺譚社から箱入りのハードカバーで発行され、現在は筑摩書房からソフトカバーの新装版が出ている「おともだち」収録作「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」の本文2ページ目から5ページ目までの多色刷りページを始め、「棒がいっぽん」収録の「美しき町」から数ページと「奥村さんのお茄子」から数ページ、「黄色い本」から表題作の「黄色い本」数ページ、他には「絶対安全剃刀」のカバー絵、「おともだち」のカバー絵、「青い鳥」のカバー絵、絵本「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」のカラー絵など。本音を言えば、もっとたくさん展示があると思っていたので、ちょっと少ないかなと思ったが、「おともだち」のカバー絵が思いの外小さい絵だったんだという発見があったり、「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」の絵はやはり神がかっているなと思ったりできたのは良かった。でもやっぱり、もっと見たい絵は(特に初期の漫画の)、他にもたくさんあったんだけれども。「玄関」とか、「ふとん」とか、「田辺のつる」とか。。。
 帰りは下丸子駅から東急多摩川線で多摩川駅へ。そこで一時下車して、近くの多摩川台公園に立ち寄った。
 多摩川を挟んで、正面に、この十年ほどで急速に発展した、武蔵小杉のぴかぴかの高層マンション郡が見えた。

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「蔵書一代―なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」 紀田順一郎著 松籟社刊

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 フィクション以外の本は、読んでもあまりブログで取り上げないのだが、これは取り上げないわけにはゆきません。
 紀田順一郎といえば、ぼくにしてみれば「あの」紀田順一郎といった感じで、読書の水先案内人として絶大な信頼を置いている方の一人です。紀田さんと荒俣さんがタッグを組んで編纂した「怪奇幻想の文学」全七巻や、世界でも例を見ない叢書「世界幻想文学大系」全45巻は、若者が道を踏み外すには十分な香気を放っていたように思います。ともかく紀田さんといえば、本のスペシャリストとして、泣く子も黙る存在という印象がありました。
 その紀田さんが、様々な事情の果てに、蔵書のほとんど全てを手放すことになってしまったという。その数、三万冊に及ぶ。この本は、そのことについて書かれた、哀切と諦念と呪詛に彩られた一冊です。本を愛するひとなら、胸の痛み無しでは読めない一冊であると思います。
 だって、悲しすぎませんか?もともと横浜に住んでいた紀田さんが、岡山に大きな書棚をしつらえた書斎を持つ家を持ち、妻にも「あなたに何かがあったら、この本はあなただと思って大切にする」というようなことまで言われて、そこで福々と暮らしていたところ、親の介護などの事情で岡山の家を引き払わざるをえなくなり、横浜に戻ったはいいが、本を置くスペースが激減し、あれこれ思案していたところ、妻が怪我をして、身体に不自由が出てしまう。そして彼女の言ったことばが、「わたしは本と心中なんてしたくないから、本を処分してくれないなら、ひとりでも施設に入ります」。そこで泣く泣く本を処分して、手元に600冊だけ残して、手狭なマンションに移ることになるのです。別に誰が悪いわけでもなく、それ以外に道がなかったわけですが、多分紀田さんにとって、本は自分の生きてきた証のようなものだったのでしょう。憤り。この本の中で、紀田さんはずっと憤り続けています。誰よりも本を愛してきた自分には、それぞれの本の本当の価値が多くの人よりもわかるという自負があるのに、そうして一冊一冊、丹念に集めてきた蔵書の「塊」を、誰一人本気で評価し、保存してくれようとはしない。本を手放すことは、我慢ができる。だけど、全てが散逸してしまうことは耐え難い。無理やり納得はしているけれども、やはり諦めきれない、恨み節のようなものが文章の合間から滲み出しています。自分の蔵書を積んだトラックを見送りながら、「足下が何か柔らかなマシュマロのような頼りないものに変貌したような錯覚を覚えて」気を失ってしまったという紀田さんの気持ちは、想像するに余りあります。本を平気で捨てることのできる人には、絶対にわからない感覚ではあるのでしょうが。
 この本を読みながら、ぼくは以前ほぼ日のサイトで読んだ、紀田順一郎さんの愛弟子ともいうべき荒俣宏さんのインタビューを思い出しました。
 この中で荒俣さんの語っている言葉は、愛書家の至言ともいうべき言葉の宝庫なのですが(例えば、「中身をいちいち読んでいたら、一生が終わってしまうのです」とか「いや、もう、手に入れたいと思う本は一回は買いましたね。」とか「重要なのは『次の人に渡す』ということ」とか)、特に驚いたのは、荒俣さんの蔵書は、総数の四分の一ほどは古書店の雄松堂さんに預かってもらっていて、残りの半分が母校の慶応大学に、さらに残りが武蔵野美大と国会図書館に買い取られていったということ。このインタビューが行われたのが2011年。紀田さんが岡山の自宅を引き払うことになったのも、その同じ2011年。もしかしたら、荒俣さんは紀田さんが蔵書で困っているという話を聞いて、自分がまだ元気で名前の知られているうちに、その蔵書を未来に託すために、さっさと行動することを選ばれたのかもしれません。かつて博物学の蔵書を武蔵野美大に寄贈されたという話を聞いたときは、少し驚いたものでしたが、そういうことだったのかと、今さなながら勝手に納得しました。
 紀田さんは自分のその体験から、個人蔵書というものについて思索を巡らせ、さらにはそうした蔵書の貴重な資料の受け入れを渋る図書館などの公共の施設の持つ問題点に話を広げます。

 図書館といえば、少し話は違いますが、最近文春の社長だかが、「図書館は文庫を入れるな」というようなことを言っていて、話題になっていましたが、ぼくもやっぱりあれはおかしいと思います。ちくま文庫を始め、文庫でしか手に入らない(しかも、決して安価とも言えない)本も今は多いですし、文庫というものは、ぼくなどはそうなのですが、値段が安いというより、スペースが少なくて済むから重宝する媒体と考えるべきものになっている気がします。紀田さんの本の中でも書いていますが、本を買うのが好きな人にとって、スペースの問題は、決してバカにならない問題です。本音を言えば、広いスペースさえあれば、それこそ世界幻想文学大系クラスの立派な装丁のハードカバーをずらりと並べたいのですが、そんなことはもう物理的に無理です。本好きの大半は、そう思っていると思います。ああ、できれば壁四面にびっしりと本が並べられる、小ぶりな離れの書庫兼書斎が欲しい、と。なので、文庫は安いから買えというのは、ちょっと違うと思います。第一、そんなことをしたら、図書館に本が売れなくなる筑摩や岩波のような出版社は困るんじゃないでしょうか。
 それよりはむしろ、

 ・新刊は数ヶ月くらいは貸し出さない
 ・どんなベストセラーも、一館に一冊しか入れない
 ・小部数の本を積極的に入れるようにする
 ・貸出実績という考え方をやめる

 という風にしたほうが、いろいろと良いんじゃないかと、単純に思います。そう思っている人は、多いんじゃないでしょうか。本が売れないのは、単に本を読む人が減っているせいです。出版社の儲けは、一部のベストセラーの売上がほとんどですが、現在のようにあまり本が売れない時代では、一部の人は必ず買うような小部数の良書の売上も、決してバカにならななくなっていると思います。なので、そうした本が図書館にも売れるのなら、ある程度の部数が出るんじゃないかという気がします。そうすることで、良書の出版点数も増えて、読書家の数の底上げも期待できるかもしれません。もともと図書館は無料で本を読むことができる場所であると同時に、多くの種類の本を保存しておくための場所でもある、いやむしろそちらの意義のほうが高い場所であると思うので、貸出実績を上げろというのは、おかしな話です。図書館は、貸出をすることで利益を得ているわけではないはずです。文化のプラットホームとして、来館者数を増やす努力は、してもいいとは思いますが。

 蔵書という問題は、結構悩ましいものです。例えばうちには、一体何冊の本があるのか、全くわからないのですが、二、三千冊は間違いなくあります。具体的には、ニトリのグレンという三列の書架が三竿(うちひと竿は娘のもの)、同じく四列の書架がひと竿、スライド式のハーフサイズの書架がひと竿、飾り棚がふた竿、クローゼットの中に作った本棚がだいたいニトリの三列の書架とおなじくらい、それ以外に、いくつかダンボール箱の中に入った本があるといった感じで、結構な量です。しかも、なるだけ嵩張るハードカバーを買わないようにしているので、冊数自体はスペースに比して多いはずです。本が並んでいるのは、嬉しい半面、時々ふと虚しい気分にもなったりします。自分が死んだら、うちにはもう読む人もいないんだなとか、読んでない本もたくさんあるし、そもそも読んでも忘れてる本もたくさんあるんだから、ここにあるだけでもうこの先一生分くらいの本があるなとか、ふと思う。なので、どうしても欲しい本は別ですが、高価な本を買おうかと思ったときには、ふと、虚しさが去来してやめてしまったりします。家族には、もし自分が死んだら売ってしまっていいけど、できればブックオフは避けてくれとは言っています。それなりの古書店ならともかく、あそこに並ぶと思うと、さすがに耐え難いと。面倒でなければ、それなりに貴重な本も結構あるので、オークションに出せば多少潤うかもしれないとも。荒俣さんや紀田さんとは比べるべくもない、比べるのもおこがましい、ぼく程度の蔵書家は、そのくらいしかやりようがありません。本を集めるというのは、つまりは物欲なわけで(読むだけなら、それこそkindleでもいいんですよね)、これはもう業のようなものですから、なかなか抗えないのですが、家族と共有することは難しいです。代々家が受け継がれてゆくようなお屋敷ならともかく、簡単には子孫へと受け継がれてゆかない。興味がなければ、単に家の狭いスペースを圧迫する邪魔ものでしかない。まさに、蔵書一代、という気分ですね。

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「天来の美酒/消えちゃった」 アルフレッド・エドガー・コッパード著 南條竹則訳
光文社古典新訳文庫 光文社刊

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 どこかユーモラスな、奇妙な味わいの短編を書く作家として有名なコッパードの短編集。
 冒頭に、この作品集の中でもとりわけ変な「消えちゃった」が入っていて、一気にコッパードの奇妙な世界に引き込まれる。これはちょっとデ・ラ・メアの「なぞ」にも似た小品で、非常に奇妙なことが起こっているのだけれど、説明は一切ないというもの。こういうのが好きな人にはたまらない、印象的な作品だが、ちょっと一発芸のようなところもあって、こういう作品ばかりだとちょっと欲求不満がたまるかもしれないとも思う。ひとつの短編集に一編くらいがちょうど良さそう。こういうのは、アイデアよりも、いかにストンと物語世界に感情移入させるかのほうに力をいれなければならないので、意外と良い物を書くのは難しい気がする。
 さすがに「消えちゃった」ほど変な作品はないが、他にもやはりユーモラスで頓智の効いた奇妙な作品ばかりが並ぶ。例外は、最後の「天国の鐘を鳴らせ」。この本の中で最も長く、数少ないコッパードの中編の一つらしいが、なんと普通に感動した。一人の男の、少年時代のターニングポイントともいうべきシーンから始まり、様々な経験を経て、晩年にふたたびそのシーンを回顧して終わるというこの作品は、一人の人間の人生という長い時間を一つの円環の中に封じ込めたものである。変な話ばかりを書く作家の、まさかの物語の王道。ぱっと思いつく例でいえば、スケールこそは違うものの、筒井康隆の「旅のラゴス」、あるいは鈴木翁二の漫画「マッチ一本のはなし」などが同じ構造を持っている。そして、こうした物語に特徴的な、奇妙な静けさ。この不意打ちも、短編の奇才コッパードにしてやられたというべきか。


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「角笛の音の響くとき」 サーバン著 永井淳訳
ハヤカワSFシリーズ 早川書房刊

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 国書刊行会から配本されている叢書「ドーキー・アーカイヴ」。知られざる作家、埋もれた異色作を紹介することをコンセプトに始まったシリーズだが、その初回配本がこのサーバンの「人形つくり」だった。この作品を読んで、ぼくはサーバンに興味を持ち、奇跡的に、と言っていいのかどうかわからないが、代表作であるこの「角笛の音の響くとき」が1968年(ぼくの誕生年!)に既に訳されているようなので、読んでみたいと思っていた。それを、ようやく読んだ。
 「角笛の音の響くとき」は、日本ではすぐに忘れ去られてしまった作品なのかもしれないが、SF史の上では(さほど大きな扱いではないにせよ)結構言及されることが多いようで、グラフィック社の「SF大百科事典」にもサンリオの「SF百稼図鑑」にもちゃんと載っている。だいたい、ディックの「高い城の男」と並べて論じられることが多いようだ。どちらも、もし第二次世界大戦にナチスが勝利していたらという仮想未来、パラレルワールドの物語である(英米には、もしナチスが勝利していたら、という小説は結構ある気がするが、もし日本が勝利していたら、という小説はあまり聞かない。あるのだろうか?)。
 ストーリーは、以下のようなもの。
 ドイツの捕虜になった主人公は、地下トンネルを掘るという方法で脱走を企て、成功するかに見えたが、光の輪のようなものに触れ、気を失ってしまう。そうして次に気がついたのは、病院の中だった。看護婦や医者との会話で、どうやら彼はハッケンベルグ伯爵の支配下にいる病院にいるらしいということを知るのだが、どうも話が上手く咬み合わない。やがて彼は、自分がナチスが戦争に勝利してから百年が過ぎた時代にいるらしいということがわかってくる。病院の医師と仲良くなった主人公は、彼から伯爵と謁見する機会を用意してくれるという言葉を引き出すことに成功するが、森で、角笛の音とともに始まる伯爵の狩りの場に行き会った主人公は愕然とする。伯爵は、人間の女性に鳥のような扮装をさせて逃げ回らせ、それを狩るという遊びに興じていたのだ。やがて城内に侵入した主人公は、その晩餐会のテーブルの上に、さきほど捕獲された鳥女が、すっかり羽根をむしられ、マスクだけになった姿で手足を縛られて巨大な皿の上に載せられているところを目にする。さらに、豹のような扮装をした女性たちが、鹿にとびかかって仕留め、生肉を食らうというショーも目にする。あまりのことに驚いた主人公は逃げようとするが、すぐに伯爵に見つかり、彼自身も狩りの対象とされてしまう……
 ストーリー以前に、「人形つくり」でも感じたサーバンの持つ変態性が強く感じられる異色のSFといった印象。もちろん半裸の美女が出てくるSFは、「火星のプリンセス」を皮切りに、山のようにあるけれど、何かがちょっと違う。サーバンの作品は、なんというか、純粋に著者の趣味で書かれた小説という感じがする。この作品でサーバンが書きたかったのは、きっと、鳥女であり、猫女であり、松明女であり、そして奇妙な支配関係だったのだろうと思う。
 ちなみにサーバンは、英国の覆面作家で、本名をジョン・ウィリアム・ウォールと言い、本業はなんと外交官だったらしい。そりゃ名前を表に出したがらないはずである。内容的に。外交官としてのキャリアは三十年以上で、多くの活躍をしたが、作家としてのキャリアは50年台の初め頃にはもう終わっていたため、長い間謎の作家だったようだ。この本の序文でキングスリー・エイミスが作品を絶賛しているが、あとがきで訳者の永井淳さんが「想像にすぎないが、もしかしたらサーバンとは、エイミスの変名で、自作にもっともらしい序文をつけて喜んでいるのではないか」というようなことを書いている。その推理は外れたわけであるが、ある意味で、もっと驚きの正体だったのではないか。ちなみに、ウィキによればアーサー・マッケンやデ・ラ・メアの影響を受けているということで、それは納得である。
 

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「羊と鋼の森」 宮下奈都著 文藝春秋刊

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 本屋大賞受賞作。ピアノが趣味の妻が、「わたしは結構面白かった」と言うので、読んでみた。
 「羊と鋼の森」というのは、ピアノのことである。正確に言えば、ピアノの内部。鋼はピアノ線、羊は、そのピアノ線を打つハンマーのこと。森というのは、ピアノの内部を包み込む、ボディのこと。ピアノという楽器にさほど興味のない人はあまり考えたことがないかもしれないが、ピアノという楽器は、打楽器(正確には打弦楽器)。簡単に言えば、張られたピアノ線を、羊毛の張られたハンマーが打って、それが響板に反響して大きな音が鳴るわけである。音を増幅する響板は換えのきかない心臓部だが、いわば消耗品であるピアノ線とハンマーは音色を決める大事な部分であり、定期的な調律が必要になる。この小説は、そのピアノの調律を行う、調律師の物語である。
 物語のあらすじは、だいたい次のようなもの。
 主人公の外村は、高校生のとき、偶然体育館兼講堂の片隅にあったピアノの調律にやってきた天才的な調律師、板鳥の仕事を見て、感銘を受ける。戸村は、ピアノの中に羊と鋼の森を感じたのだ。それはどこか彼の育った北海道の森にも似ていた。高校を出た彼は、調律師になるための勉強を始め、板鳥の職場に就職をする。そこで彼は、様々な人やピアノと出会い、成長してゆく。
 特に目新しいものでもないけれども、爽やかで面白かったし、なにより日本語が丁寧だという印象を受けた。最近、かなり読みにくい翻訳書ばかりを読んでいたから(翻訳が下手という意味ではありません)、余計にそう思ったのかもしれない。
 それにしても、調律でそれほど大きな違いが出るものなのだろうか。妻に聞いてみると、「お気に入りの調律師がいる演奏家はいくらでもいるし、ここに書かれているほど繊細なことまではわからないけれど、人によって当たり外れがあるのは確か」ということ。例えば以前に妻が弾いていたアップライトのピアノは、調律師が変わって、「このピアノはこんないい音が出るんだ」と驚くほど変わったという。この物語に出てくるような、天才的な調律師というものが存在するのかどうか、それはわからないけれど、やはりどの世界にも、いい仕事をする人とそうでない人はいるということは確かなのだろう。
 妻は、このタイトルを見ただけで、すぐにピアノのことだとわかったらしい。すごく良くわかる、と言う。ぼくは、ピアノといえば、学校にあったグランドピアノの内部を思い出す。ぼくはそこに、羊と鋼の森は見なかった。ものすごくメカニックなものを感じた。同時に、ところどころに色がついていて、ちょっと人体模型のようだとも思った。



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