「蔵書一代―なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」 紀田順一郎著 松籟社刊
を読む。
フィクション以外の本は、読んでもあまりブログで取り上げないのだが、これは取り上げないわけにはゆきません。
紀田順一郎といえば、ぼくにしてみれば「あの」紀田順一郎といった感じで、読書の水先案内人として絶大な信頼を置いている方の一人です。紀田さんと荒俣さんがタッグを組んで編纂した「怪奇幻想の文学」全七巻や、世界でも例を見ない叢書「世界幻想文学大系」全45巻は、若者が道を踏み外すには十分な香気を放っていたように思います。ともかく紀田さんといえば、本のスペシャリストとして、泣く子も黙る存在という印象がありました。
その紀田さんが、様々な事情の果てに、蔵書のほとんど全てを手放すことになってしまったという。その数、三万冊に及ぶ。この本は、そのことについて書かれた、哀切と諦念と呪詛に彩られた一冊です。本を愛するひとなら、胸の痛み無しでは読めない一冊であると思います。
だって、悲しすぎませんか?もともと横浜に住んでいた紀田さんが、岡山に大きな書棚をしつらえた書斎を持つ家を持ち、妻にも「あなたに何かがあったら、この本はあなただと思って大切にする」というようなことまで言われて、そこで福々と暮らしていたところ、親の介護などの事情で岡山の家を引き払わざるをえなくなり、横浜に戻ったはいいが、本を置くスペースが激減し、あれこれ思案していたところ、妻が怪我をして、身体に不自由が出てしまう。そして彼女の言ったことばが、「わたしは本と心中なんてしたくないから、本を処分してくれないなら、ひとりでも施設に入ります」。そこで泣く泣く本を処分して、手元に600冊だけ残して、手狭なマンションに移ることになるのです。別に誰が悪いわけでもなく、それ以外に道がなかったわけですが、多分紀田さんにとって、本は自分の生きてきた証のようなものだったのでしょう。憤り。この本の中で、紀田さんはずっと憤り続けています。誰よりも本を愛してきた自分には、それぞれの本の本当の価値が多くの人よりもわかるという自負があるのに、そうして一冊一冊、丹念に集めてきた蔵書の「塊」を、誰一人本気で評価し、保存してくれようとはしない。本を手放すことは、我慢ができる。だけど、全てが散逸してしまうことは耐え難い。無理やり納得はしているけれども、やはり諦めきれない、恨み節のようなものが文章の合間から滲み出しています。自分の蔵書を積んだトラックを見送りながら、「足下が何か柔らかなマシュマロのような頼りないものに変貌したような錯覚を覚えて」気を失ってしまったという紀田さんの気持ちは、想像するに余りあります。本を平気で捨てることのできる人には、絶対にわからない感覚ではあるのでしょうが。
この本を読みながら、ぼくは以前ほぼ日のサイトで読んだ、紀田順一郎さんの愛弟子ともいうべき
荒俣宏さんのインタビューを思い出しました。
この中で荒俣さんの語っている言葉は、愛書家の至言ともいうべき言葉の宝庫なのですが(例えば、「中身をいちいち読んでいたら、一生が終わってしまうのです」とか「いや、もう、手に入れたいと思う本は一回は買いましたね。」とか「重要なのは『次の人に渡す』ということ」とか)、特に驚いたのは、荒俣さんの蔵書は、総数の四分の一ほどは古書店の雄松堂さんに預かってもらっていて、残りの半分が母校の慶応大学に、さらに残りが武蔵野美大と国会図書館に買い取られていったということ。このインタビューが行われたのが2011年。紀田さんが岡山の自宅を引き払うことになったのも、その同じ2011年。もしかしたら、荒俣さんは紀田さんが蔵書で困っているという話を聞いて、自分がまだ元気で名前の知られているうちに、その蔵書を未来に託すために、さっさと行動することを選ばれたのかもしれません。かつて博物学の蔵書を武蔵野美大に寄贈されたという話を聞いたときは、少し驚いたものでしたが、そういうことだったのかと、今さなながら勝手に納得しました。
紀田さんは自分のその体験から、個人蔵書というものについて思索を巡らせ、さらにはそうした蔵書の貴重な資料の受け入れを渋る図書館などの公共の施設の持つ問題点に話を広げます。
図書館といえば、少し話は違いますが、最近文春の社長だかが、「図書館は文庫を入れるな」というようなことを言っていて、話題になっていましたが、ぼくもやっぱりあれはおかしいと思います。ちくま文庫を始め、文庫でしか手に入らない(しかも、決して安価とも言えない)本も今は多いですし、文庫というものは、ぼくなどはそうなのですが、値段が安いというより、スペースが少なくて済むから重宝する媒体と考えるべきものになっている気がします。紀田さんの本の中でも書いていますが、本を買うのが好きな人にとって、スペースの問題は、決してバカにならない問題です。本音を言えば、広いスペースさえあれば、それこそ世界幻想文学大系クラスの立派な装丁のハードカバーをずらりと並べたいのですが、そんなことはもう物理的に無理です。本好きの大半は、そう思っていると思います。ああ、できれば壁四面にびっしりと本が並べられる、小ぶりな離れの書庫兼書斎が欲しい、と。なので、文庫は安いから買えというのは、ちょっと違うと思います。第一、そんなことをしたら、図書館に本が売れなくなる筑摩や岩波のような出版社は困るんじゃないでしょうか。
それよりはむしろ、
・新刊は数ヶ月くらいは貸し出さない
・どんなベストセラーも、一館に一冊しか入れない
・小部数の本を積極的に入れるようにする
・貸出実績という考え方をやめる
という風にしたほうが、いろいろと良いんじゃないかと、単純に思います。そう思っている人は、多いんじゃないでしょうか。本が売れないのは、単に本を読む人が減っているせいです。出版社の儲けは、一部のベストセラーの売上がほとんどですが、現在のようにあまり本が売れない時代では、一部の人は必ず買うような小部数の良書の売上も、決してバカにならななくなっていると思います。なので、そうした本が図書館にも売れるのなら、ある程度の部数が出るんじゃないかという気がします。そうすることで、良書の出版点数も増えて、読書家の数の底上げも期待できるかもしれません。もともと図書館は無料で本を読むことができる場所であると同時に、多くの種類の本を保存しておくための場所でもある、いやむしろそちらの意義のほうが高い場所であると思うので、貸出実績を上げろというのは、おかしな話です。図書館は、貸出をすることで利益を得ているわけではないはずです。文化のプラットホームとして、来館者数を増やす努力は、してもいいとは思いますが。
蔵書という問題は、結構悩ましいものです。例えばうちには、一体何冊の本があるのか、全くわからないのですが、二、三千冊は間違いなくあります。具体的には、ニトリのグレンという三列の書架が三竿(うちひと竿は娘のもの)、同じく四列の書架がひと竿、スライド式のハーフサイズの書架がひと竿、飾り棚がふた竿、クローゼットの中に作った本棚がだいたいニトリの三列の書架とおなじくらい、それ以外に、いくつかダンボール箱の中に入った本があるといった感じで、結構な量です。しかも、なるだけ嵩張るハードカバーを買わないようにしているので、冊数自体はスペースに比して多いはずです。本が並んでいるのは、嬉しい半面、時々ふと虚しい気分にもなったりします。自分が死んだら、うちにはもう読む人もいないんだなとか、読んでない本もたくさんあるし、そもそも読んでも忘れてる本もたくさんあるんだから、ここにあるだけでもうこの先一生分くらいの本があるなとか、ふと思う。なので、どうしても欲しい本は別ですが、高価な本を買おうかと思ったときには、ふと、虚しさが去来してやめてしまったりします。家族には、もし自分が死んだら売ってしまっていいけど、できればブックオフは避けてくれとは言っています。それなりの古書店ならともかく、あそこに並ぶと思うと、さすがに耐え難いと。面倒でなければ、それなりに貴重な本も結構あるので、オークションに出せば多少潤うかもしれないとも。荒俣さんや紀田さんとは比べるべくもない、比べるのもおこがましい、ぼく程度の蔵書家は、そのくらいしかやりようがありません。本を集めるというのは、つまりは物欲なわけで(読むだけなら、それこそkindleでもいいんですよね)、これはもう業のようなものですから、なかなか抗えないのですが、家族と共有することは難しいです。代々家が受け継がれてゆくようなお屋敷ならともかく、簡単には子孫へと受け継がれてゆかない。興味がなければ、単に家の狭いスペースを圧迫する邪魔ものでしかない。まさに、蔵書一代、という気分ですね。