「伝授者」 クリストファー・プリースト著 鈴木博訳
サンリオSF文庫 サンリオ刊
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今ではSF作家の枠を超えて支持されているプリーストだが、その記念すべき処女長編がこれ。サンリオから刊行された本の中でも、とりわけ美しい表紙絵を持つ一冊。再刊はされていない。しかし、それも仕方がないかなと思えるほど、全体的にはアンバランスな印象を受けた一冊でもあった。
物語は全部で三部に分かれており、「起・承転・結」といった感じ。第一部で謎が山のように提示され、第二部でその謎解き、第三部で結び、という構成だった。
第一部の「監獄」は、ともかくよくわからない。ストーリーがわからないわけではなく、主人公の置かれているその状況が唐突で受け入れ難く、主人公のとまどいがそのまま読者のとまどいになる。シュールレアリスム映画の中に予備知識もなく突然投げ入れられたような感じといえば、少しは伝わるだろうか。
以下が、ややネタバレを含む、おおまかなストーリー。
主人公はウェンテイックという、南極の地下にある研究所で何かの研究をしている博士である。ところが、その研究のさなかに、突然研究所を訪れた二人の男、マスグロウブとアストラウドたちによってブラジルへと連れだされることになってしまう。ウェンテイックとマスグロウブはブラジルの密林を散々苦労しながら進み、やがてウェンテイックたちは唐突に、どこまでも開けた草原にたどり着く。そして、マスグロウブから、そこはプラナルト地域と呼ばれる場所であり、密林とプラナルト地域とでは、約200年という時間の断絶があるのだと聞かされる。つまり、密林は1979年であり、プラナルトの平原は2189年であるというのだ。二人は平原を進み、やがて先にヘリコプターでそこに向かったマスグロウブと、平原の中にポツリとあるその場所には似つかわしくない「監獄」と呼ばれる建物にたどり着く。ここでいきなり場面が変わり、ウェンテイックが建物の中で精神的に追い詰められるような拷問と尋問を受け続けるシーンになる。その建物には、壁に耳が生えていたり、机に手が生えていたりする。この「監獄」の中での物語が、第一部。全く重要な情報が主人公にも読者にも知らされないため、不条理としか言いようのないシーンの連続に身を委ねるしかない。
続く第二部は、サンパウロが舞台。第一部の終わりで「監獄」から連れだされたウェンテイックとマスグロウブだが、ウェンテイックはマスグロウブと間違われた状態で、病院に入院させられている。やがて間違いが判明し、そこにいたジャクソンという博士に、現在の世界の状態や、なぜウェンテイックがここへ運ばれてきたのか、その真相を聞かされる。ジャクソンによると、現在は2189年なのだが、世界のほとんどの場所は、第三次世界大戦による核の汚染によって壊滅的な状況にあり、住めなくなってしまっているが、そもそもその原因を作ったのが、ウェンテイックらの研究の結果生み出されたディスターバンス・ガスの影響によるものであったのだということだった。だからこそ作成者であるウェンテイックに、このガスを無効にするための研究に力を注いで欲しいのだという。しかし博士は、自分は研究が途中の段階で南極の研究所から灼熱のブラジルへと連れだされたのだから、研究は途絶しており、自分の力によってガスが完成されたはずはないのだと主張する。そして、もしガスを完成させた人物がいるのだとしたら、共同研究者であったンゴゴであろうと告げる。
第三部では、博士がンゴゴの研究をやめさせるために、単身南極へと向かう。果たして、ウエンテイックは研究を中止し、第三次世界大戦を防ぐことができるのか……。
第一部の異様さが、第二部に入って急に普通のSFらしくなり、逆にやや戸惑いつつも、ちょっとホッとしたのも確か。第一部を読んでいるときにはいったいどうしたものかと思っていたが、いざ読み終わってみると、さほどわかりにくい作品ではない。登場人物たちの行動には、いささか首をかしげたくなるところがないではないし、ラストも、個人的にはちょっとこれは……という感じではあったけれども。
解説によると、これはもともと独立した「審問者」と「迷路」というカフカ的な二つの短編小説だったものをくっつけて再構成し、一つの長編にしたものだという。そのうち「審問者」の方は、テッド・カーネルの編集した「ニュー・ライティングSF15」に掲載されたが、より謎めいた「迷路」の方はボツを食らい、さらに当時もっともわけのわからないSFを掲載していたマイケル・ムアコックの「ニュー・ワールズ」誌にも掲載を断られたらしい。それがどうしてこのような形で長編化されたのかといえば、プリーストの才能を認めたフェイバー&フェイバー社のチャールズ・モンティーヌという編集者に、そうすることを勧められたからだという。結果として、意図的に曖昧に書かれたニューウェイブSF的短編は、謎めいた部分を残しながらも、普通に読める長編小説として生まれ変わった。その過程で、おそらくは最初の短編の段階ではプリーストにも正直はっきりとした解釈はなかったものを、無理やり辻褄のあった作品として仕上げたものだから、ややバランスの悪いものにならざるを得なかったのだろう。本人は、「すべての謎を解明するのは、非常に骨の折れる作業だったし、すべきではなかったと思っている」と語っているというが、同時に「処女作であるという理由で、いささか過剰とも言える愛着を抱いている」とも語っているらしいから、この自分でもよくわからないイメージからひとつの筋の通った物語を作り出すという作業は、その先の作家としての方向性や物語る技術を高める上で、得るものが多くあったに違いない。ぼくはプリーストの作品をさほど多く読んでいるわけではないけれども、現在のプリーストがこの処女作の延長線上にいるというのは、間違いのないことだろうと思う。決して名作ではないと思うが、プリーストファンにはなかなか興味深い一冊なのではないか。