漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




「伝授者」 クリストファー・プリースト著 鈴木博訳
サンリオSF文庫 サンリオ刊

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 今ではSF作家の枠を超えて支持されているプリーストだが、その記念すべき処女長編がこれ。サンリオから刊行された本の中でも、とりわけ美しい表紙絵を持つ一冊。再刊はされていない。しかし、それも仕方がないかなと思えるほど、全体的にはアンバランスな印象を受けた一冊でもあった。
 物語は全部で三部に分かれており、「起・承転・結」といった感じ。第一部で謎が山のように提示され、第二部でその謎解き、第三部で結び、という構成だった。
 第一部の「監獄」は、ともかくよくわからない。ストーリーがわからないわけではなく、主人公の置かれているその状況が唐突で受け入れ難く、主人公のとまどいがそのまま読者のとまどいになる。シュールレアリスム映画の中に予備知識もなく突然投げ入れられたような感じといえば、少しは伝わるだろうか。
 以下が、ややネタバレを含む、おおまかなストーリー。

 主人公はウェンテイックという、南極の地下にある研究所で何かの研究をしている博士である。ところが、その研究のさなかに、突然研究所を訪れた二人の男、マスグロウブとアストラウドたちによってブラジルへと連れだされることになってしまう。ウェンテイックとマスグロウブはブラジルの密林を散々苦労しながら進み、やがてウェンテイックたちは唐突に、どこまでも開けた草原にたどり着く。そして、マスグロウブから、そこはプラナルト地域と呼ばれる場所であり、密林とプラナルト地域とでは、約200年という時間の断絶があるのだと聞かされる。つまり、密林は1979年であり、プラナルトの平原は2189年であるというのだ。二人は平原を進み、やがて先にヘリコプターでそこに向かったマスグロウブと、平原の中にポツリとあるその場所には似つかわしくない「監獄」と呼ばれる建物にたどり着く。ここでいきなり場面が変わり、ウェンテイックが建物の中で精神的に追い詰められるような拷問と尋問を受け続けるシーンになる。その建物には、壁に耳が生えていたり、机に手が生えていたりする。この「監獄」の中での物語が、第一部。全く重要な情報が主人公にも読者にも知らされないため、不条理としか言いようのないシーンの連続に身を委ねるしかない。
 続く第二部は、サンパウロが舞台。第一部の終わりで「監獄」から連れだされたウェンテイックとマスグロウブだが、ウェンテイックはマスグロウブと間違われた状態で、病院に入院させられている。やがて間違いが判明し、そこにいたジャクソンという博士に、現在の世界の状態や、なぜウェンテイックがここへ運ばれてきたのか、その真相を聞かされる。ジャクソンによると、現在は2189年なのだが、世界のほとんどの場所は、第三次世界大戦による核の汚染によって壊滅的な状況にあり、住めなくなってしまっているが、そもそもその原因を作ったのが、ウェンテイックらの研究の結果生み出されたディスターバンス・ガスの影響によるものであったのだということだった。だからこそ作成者であるウェンテイックに、このガスを無効にするための研究に力を注いで欲しいのだという。しかし博士は、自分は研究が途中の段階で南極の研究所から灼熱のブラジルへと連れだされたのだから、研究は途絶しており、自分の力によってガスが完成されたはずはないのだと主張する。そして、もしガスを完成させた人物がいるのだとしたら、共同研究者であったンゴゴであろうと告げる。
 第三部では、博士がンゴゴの研究をやめさせるために、単身南極へと向かう。果たして、ウエンテイックは研究を中止し、第三次世界大戦を防ぐことができるのか……。
 
 第一部の異様さが、第二部に入って急に普通のSFらしくなり、逆にやや戸惑いつつも、ちょっとホッとしたのも確か。第一部を読んでいるときにはいったいどうしたものかと思っていたが、いざ読み終わってみると、さほどわかりにくい作品ではない。登場人物たちの行動には、いささか首をかしげたくなるところがないではないし、ラストも、個人的にはちょっとこれは……という感じではあったけれども。
 解説によると、これはもともと独立した「審問者」と「迷路」というカフカ的な二つの短編小説だったものをくっつけて再構成し、一つの長編にしたものだという。そのうち「審問者」の方は、テッド・カーネルの編集した「ニュー・ライティングSF15」に掲載されたが、より謎めいた「迷路」の方はボツを食らい、さらに当時もっともわけのわからないSFを掲載していたマイケル・ムアコックの「ニュー・ワールズ」誌にも掲載を断られたらしい。それがどうしてこのような形で長編化されたのかといえば、プリーストの才能を認めたフェイバー&フェイバー社のチャールズ・モンティーヌという編集者に、そうすることを勧められたからだという。結果として、意図的に曖昧に書かれたニューウェイブSF的短編は、謎めいた部分を残しながらも、普通に読める長編小説として生まれ変わった。その過程で、おそらくは最初の短編の段階ではプリーストにも正直はっきりとした解釈はなかったものを、無理やり辻褄のあった作品として仕上げたものだから、ややバランスの悪いものにならざるを得なかったのだろう。本人は、「すべての謎を解明するのは、非常に骨の折れる作業だったし、すべきではなかったと思っている」と語っているというが、同時に「処女作であるという理由で、いささか過剰とも言える愛着を抱いている」とも語っているらしいから、この自分でもよくわからないイメージからひとつの筋の通った物語を作り出すという作業は、その先の作家としての方向性や物語る技術を高める上で、得るものが多くあったに違いない。ぼくはプリーストの作品をさほど多く読んでいるわけではないけれども、現在のプリーストがこの処女作の延長線上にいるというのは、間違いのないことだろうと思う。決して名作ではないと思うが、プリーストファンにはなかなか興味深い一冊なのではないか。



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「魔女の丘」 ウェルウィン・W・カーツ著 金原瑞人訳
福武文庫 福武書店刊

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 ジョン・ソールの「暗い森の少女」を半分くらいまで読んだのだが、なんだか面白くないので放り出し、代わりに積んでいたこの本を何気なく手にして読み始めた。すると、これがなかなかの掘り出し物だった。 
 福武書店は、進研ゼミでお馴染みのベネッセ・コーポレーションの元々の社名である。今でこそ出版社というイメージはないが、かつてはかなりコアな文学作品を多く紹介していた中堅の出版社だった。「海燕」という月刊文芸誌を発行し、吉本ばななや小川洋子、島田雅彦らを排出したが、 売れ行き不振から休刊に追い込まれ、ついには文芸出版からの完全撤退を余儀なくされたようだ。文芸出版に対してかなり志が高い印象があったが、それが仇になった形である。ベネッセの文芸出版部門の廃止に伴い、個性的なラインナップで一部の読書家たちの支持を集めていた福武文庫も廃刊となった。福武文庫は、統一感のあるブックデザインも印象的だったし、創刊時のラインナップに澁澤龍彦「犬狼都市」が入っていたことに象徴されるように、幻想文学に強い文庫だった。日本文学としても、内田百閒が文庫として初めて現代仮名遣いでまとまった形で紹介されたり、澁澤作品を始め、色川武大「狂人日記」、野坂昭如「乱離骨灰鬼胎草」など、異色な文学に寄り添ったラインナップだったが、そうした傾向は海外作品では更に顕著で、発刊された作品のほとんどが広義の幻想文学だとさえ言えるほどで、有名作家であるモーパッサンやスティーブンスン、それにフォークナーらの短編集も、怪奇幻想作品に特化したものだった。また、同文庫は「JOYシリーズ」という、ローティーンからミドルティーンあたりを対象にした児童文学のシリーズも持っており、チムニクの「クレーン/タイコたたきの夢」など、ちょっと変わった優れた児童文学を紹介していた。この「魔女の丘」も、その中に含まれた一冊。
 ストーリーは、だいたい以下のようなもの。

 作家である父ロバートとともに、ガーンジー島という、古い伝統を根深く持った島を訪れた14歳の少年マイク(ガーンジー島はチャンネル諸島にある実在の島である)。島では父の友人のトニーとその妻である美貌の女性ジャナイン、それにマイクの一つ年下の娘リザが二人を出迎えた。どういうわけか最初からマイクに対して釣れない態度をとり続けるリザはトニーの娘ではあるが、連れ子なので、彼女にとってジャナインは義母ということになる。そしてリザは、どういうわけかジャナインを嫌っているようだった。ふたりが腰を落ち着けた古い屋敷は、ソピエール邸と呼ばれており、それは「石の下」という意味で、屋敷の裏手にそびえる丘に由来した名前だという。丘はトレピエの丘と呼ばれており、ストーンヘンジを思わせる巨石があちらこちらにあり、丘の頂上には先史時代の埋葬用石室が存在している。そこでは、つい最近、ほんの15年ほど前まで、魔女が集まって黒ミサが行われていたという。
 その夜、なかなか眠れないマイクはベッドを抜けだして窓から外を眺めた。すると、丘の上に灯りが仄かに灯り、誰かの影が見えた。驚いたマイクは好奇心から家を抜け出し、丘へと向かう。すると途中で、深くフードを被った人が降りてくるのに出くわす。慌てて身を隠し、その人物をやり過ごすが、その少し後で、まるで追いかけるようにそっと降りてくる小柄な人影を目にする。ひと目でマイクはそれがリザだとわかり、彼女に話しかける。するとリザは怒ったように、「間に合わなくなるから、離して」と彼を振り切って歩いていってしまう。マイクは憤慨するが、ふたりのやってきた道を辿って丘の上へと向かう。そこで彼が目にしたのは、石室の屋根に生け贄として捧げられた血塗られた仔犬と、一人の人影だった。そこでは、明らかに黒ミサが行われていたのだった。
 翌日、マイクはリザを問い詰めた。彼女によると、黒ミサは実は今でも密かに行われていて、島には「魔導会」という魔女グループがあり、メンバーはリーダーとふたりの補佐役を含めて13人いるという。リザはメンバーではなく、メンバーが誰なのか、集会のたびにこっそりと見張りにでかけているのだという。数十人しかいない村の人口の中で13人というのは、かなり多い割合だった。昨日は、マイクのせいで追いかけていた人物を見失ってしまったのだという。リザによると、義母のジャナインはそのメンバーのひとりだということだった。
 ソピエール邸の隣には、ロック館というやはり古い屋敷があり、そこにはシートン・ゴスという人物が住んでいた。彼は膨大なオカルト関連の蔵書を持っていることで知られていた。リザによると、彼もその「魔導会」の一員であるという。父のロバートは彼の蔵書を見せてもらうために皆を連れてロック邸を訪れる。そこにはシートン・ゴス以外にもイーノック・ゴスという人物がいた。彼らの話を聞くうちに、魔道書の中でも特に「古アルバート」と呼ばれる書物は特別で、最も古いものであり、この島から持ち出すことはできず、また、持ち主には絶大な魔力を与えるが、その資格のないもの手に渡ると、その持ち主の命を奪って、別の持ち主のもとへと渡るという、まさに「魔の書物」であるということを知る。シートンは、その書物を持っているのだという。ところが、そうした話をしている間に、突然シートンが苦しみ始める。そして医者であるトニーの介抱の甲斐もなく死んでしまう。トニーによると、シートンは毒殺されたのだということだった。しかしその混乱の中、ジャナインとイーノックは図書室に向かっていた。図書室にはロバートもいて、書棚に隠し扉を発見するが、その奥にはなにもなかった。
 シートンの死後、トニーの容体が次第に悪くなってゆく。まるで魂の抜けたようになった彼は「いななるときに本は本でないのか」とつぶやく……。

 ダラダラとあらすじばかり書いていても仕方ないので、このくらいにしておくけれども、ここまででだいたい全体の1/3程度。この後、「古アルバート」をめぐるイーノックとジャナインの密やかな争いや、「古アルバート」の秘密の真相、リザをめぐっての戦いなどが展開されてゆくのだが、児童文学とは思えないほど怖いし、さまざまな伏線もきちんと回収され、父と子の物語としてもなかなか薀蓄があって、非常に面白い本になっている。作中、どういうわけかマイクがブラッドベリの「華氏451度」を読んでいるシーンが何度も登場するのだが、それも実はちょっとした伏線になっていたりして、楽しい。なかなかの佳品なので、復刊されてもいいのではないかと思うのだが、今の時代の日本の子どもたちにどれだけ訴えうる内容なのかは、正直ちょっとよくわからない。ある程度本を読んでいる子なら、時代や国は関係なくきっと楽しめる本だとは思うんですが。


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「バレエ・メカニック」 津原泰水著
ハヤカワ文庫JA 早川書房刊

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 何と言ったら良いのだろうか。まるでフラッシュバックのように、次々と既視感に襲われる長編小説だったといえばいいのか。70年代から80年代末にかけてのサブカルチャーシーンが、どういうわけか頭をよぎって仕方がなかった。
 ストーリー自体は、それほど複雑なものでもないのだろうが、よく分かったとは言えないというのもまた確かである。小説は全部で三部に分かれている。第一部と第二部に関しては特に問題ないのだが、第三部がやや難解で、よくわからないところがいくつかある。もっとも、手札はすべて見せているという感じではあるので、再読すれば納得がゆくのかもしれない。
 そう、小説は全部で三部に分かれているのだが、その各部のタイトルがそれぞれ「バレエ・メカニック」、「貝殻と僧侶」、「午前の幽霊」となっている。クラシックな映画に詳しい方にはすぐにわかるだろうが、これはどれもが1920年代の前衛的なモノクロ映画のタイトルである。
 第一部のタイトルとなっている「バレエ・メカニック」は画家のフェルナン・レジェ制作で、撮影はマン・レイ、音楽はジョージ・アンタイル。1924年制作。
 第二部の貝殻と僧侶」はジュルメーヌ・デュラック監督で、脚本が俳優のアントナン・アルトー。1927年制作。最初のシュルレアリスム映画とも呼ばれている。
 第三部の「午前の幽霊」はハンス・リヒター監督の映画。漂う帽子が印象的な映画。1928年制作。
 どれも積極的に自分で意味を見つけなければならないという種類の、極めて難解で前衛的な、はっきり言ってしまえばよくわからない映画だし、そうした作品を作品の各部のタイトルにしている意味もよくわからないのだが、一応年代順になっていることだけはわかる。あえて推測するなら、この小説もそうしたシュルレアリスム的な映画の末裔であるということを暗に宣言しているのかもしれない。解釈の座りの悪さの余り、推測ばかりになってしまって嫌になるが、この小説に関して言えばそうとしか言えないのだから仕方がない。
 第一部は「バレエ・メカニック」。どうして採用されたのかわからない二人称という奇妙な書き方が挟み込まれながら、物語は進んでゆく。大まかなストーリーとしては、自らの不注意で招いた植物状態の愛娘を持つバイセクシュアルの木根原というアーティストが、その娘の無意識に侵食された現実の世界で、それでも娘を少しでも長く生きながらえさせようとする物語。少し書き方が悪かったかもしれない。木根原のひとり娘の理沙は、水難事故によって大脳を損傷し、かろうじて生きてはいるが、全く意識のない状態にいる。しかしその理沙の意識がどういうわけか現実の世界を飲み込み始め、街を変容させてしまうのである。それは後に「理沙パニック」と呼ばれるようになる。ぼくがこの第一部を読みながら脳裏に浮かんだのは、村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」やJ.G.バラードの「夢幻会社」を始めとする諸作、それに飛浩隆の「グラン・ヴァカンス」などである。その辺が好きな人には、きっと波長が合うだろうと思う。シュールレアリスティックな描写は、津原さんの得意とするところのようで、非常に心地よく読める。ぼくがこの本でいちばん好きなのが、この第一部。
 第二部は、「貝殻と僧侶」。アントナン・アルトーの脚本による映画からとったタイトルだが、映画との関連はよくわからない。アルトーによるこの映画のシナリオは、「貝殻と牧師」のタイトルで邦訳がある(余談だが、ぼくは二十歳頃の一時期、アルトーに傾倒して、小劇団に入ったりしたことがある。「器官なき身体」を提唱した、あの危ない感じがとても魅力的に映ったのだ。もはや黒歴史に近いけれども)。この第二部は、第一部で死んだ理沙がいまだにネットワークの中に生きていると信じて、彼女を探すことだけに残りの人生をすべて捧げる木根原と、理沙の主治医であったトランスジェンダーの龍神の物語。この第二部は、ややミステリっぽいが、もちろん普通の意味でのミステリとは違う。なにせ、ネットワークの中に生息する幽霊を探す話なのだから。
 第三部は「午前の幽霊」。第二部の終わりから40年後。主人公は〈ドードー〉と呼ばれている龍神と、第一部で木根原の買った男娼であったトキオ。その時代には、かつて龍神の恋人であった蓮花が代表をつとめる企業「コグレクトロ」によって、かつての「理沙パニック」を再現したような擬似世界が現実と平行して存在している。そして、その世界で永遠に生き続ける不死者というものが存在するとされている。龍神はトキオに、その世界にいまだに存在する理沙を殺害したいと持ちかける。
 この第三部は、かなりややこしくて、はっきり言って上手くあらすじを説明できない。再読すれば多少できるようになるのだろうが、そういうわけなので、申し訳ない。なんとなく理解するところでは、コグレクトロによって作り出された仮想世界と不死者というものが実は幻であったとされた後で、実はそうではなくて、実際に理沙がいまだに世界に存在している、つまり不死者の実在が明かされて終わるといった感じなのではないかと思う。最後に沼澤千夏が登場するのは、ちょっと唐突で驚いたが、つまりそういう意味なのかなと今のところ思っている。これも再読すれば、もっとちゃんと分かるかも。
 第三部は明らかにサイバーパンクなのだが、そのサイバーパンクというのが、どこか懐かしい感じがするあたり、きっとこの小説の既視感を助長している要因なのだろうと思う。この第三部を読みながら思い浮かぶのは、現在のすっかり市民権を獲得して特別でもなんでもなくなったサイバーパンクではなく、テクノが新しい音楽の世紀を宣言し、「ソフト・マシーン」(ちょっと「バレエ・メカニック」と似た表現である)だとか「ニューロマンティック」だとかいう言葉が頻繁に使われるようになった80年代初頭から、エヴァンゲリオンが流行った90年代半ば頃までの、硬質な輝きを放ちつつも、どこかふわふわした時代である。かつて坂本龍一が、レジェの「バレエ・メカニック」に影響を受けた曲を収録したアルバム「未来派野郎」をリリースしたのが1986年。その頃にはまだ、サイバーパンクの波が吹き荒れていた。ペヨトル工房が(今はなき)西武系のCDショップWAVEと組んで出していた「WAVE」という雑誌などが、そうしたサブカルチャーとしてのサイバーパンクを扇動しようとしていたという印象があるが、日本におけるサイバーパンクは、西武の没落と歩調を合わせるかのように次第に下火となり、SFというジャンルをそっくり巻き込みながら、冬の時代に入っていったように思う。日本においてSFが再び盛り返すのは、グレッグ・イーガンの紹介を待たなければならなかったが、現在のサイバーパンクには、もはやそうしたふわふわとした感じはない。で、話を戻すが、この小説でのサイバーパンクは、どちらかといえば80年代に流行したサイバーパンクに近いように思える。つまり、ある種の幻想文学としてのサイバーパンクという意味である。テクノロジーの帰結としてのサイバーパンクではなく、夢を小説化する際にサイバーパンクというモチーフが選ばれたということだ。従って、この小説は、SFを幻想文学の一形態として捉えた小説であり、そもそもテクノロジーに寄り添っていないのだから、どこか懐かしさを感じたとしても、それはもともとそういう作品として生み出されたものである以上、おかしくはないのだろう。



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「カエアンの聖衣」 バリントン・J・ベイリー著 大森望訳
ハヤカワ文庫SF 早川書房刊

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 長らく絶版になっていて、古書価の高騰していた本の新訳版。古書価が高くなっていた最大の理由は、アニメ「グレンラガン」や「キルラキル」の元ネタになっていたかららしいが、そもそもどちらも観ていないので、その辺のことはぼくにはよくわからない。
 ベイリーといえばワイドスクリーン・バロックの作家として有名だが、この作品はまさにその代表的作品。白状すると、ワイドスクリーン・バロックの意味もぼくにははっきりとは分かっていないのだが、「比較的チープなネタが宇宙的な規模で加速度的に大げさになって展開され、ある種のカタストロフィーを生む派手な大法螺話」と考えてさほど間違っていないんじゃないかと思う。
 それだけに、なにせ派手である。派手ではあるのだが、もともとのアイデア自体は、正直、かなりバカバカしい。要するに、服が人を支配するという、それだけのことである。有体に言えば、馬子にも衣装というか、つまりそういうちょっとした当たり前の事実から、これだけ物語を膨らましたのかなと思うが、まさにそれこそがワイドスクリーン・バロックの醍醐味、ということなのだろう。蝿でびっしり覆われた惑星とか、その蝿が集まって服を着るとか、異質な姿になって戦いを続けている日本人とロシア人の日露戦争の成れの果てとか、いかにも活躍しそうなフラショナール・スーツを着る5人が全く活躍しないで終わるとか、ベイリーらしい悪趣味も、これでもかというくらい満載だった。むしろ、ストーリーより、そっちの方がこの本の本体なのだろう。とはいえ、ラストの、ちょっとヴォネガットの「タイタンの妖女」やディックの「暗闇のスキャナー」を彷彿とさせるような、ペーソスに溢れた幕引きもいい。全く褒めていないようだが、ぼくは精一杯この作品の魅力を語っているつもりである。この哀しいほどのバカバカしさは、多くの本を読み慣れている人にこそおすすめしたいと思う。


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「パースの城」 ブラウリオ・アレナス著 平田渡訳
文学の冒険シリーズ 国書刊行会刊

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 チリのシュルレアリストによる、ゴシック風味の小説。ゴシック風味、というのは、この小説全体が夢であるから。これは別にネタバレでも何でもなくて、最初にそう宣言されている。物語全体が、ダゴベルトという青年が、自室の長椅子の上でうたた寝をしながら見た夢なのである。
 以下、あらすじと感想。
 斜陽にある古い城塞都市で、巨大な邸宅に住む、有力者の息子ダゴベルトという21歳の青年が主人公。毎日が同じ日常の繰り返しのような日々が続くその街で、彼が幼い頃に、城門の前を流れる川にかかる橋を掛け替えるという事業があった。その街の住民にしてみれば大きな出来事であり、いつまでも語り継がれる出来事となった。その事業のために、遠くの街からパースという技師が招かれ、彼は妻と娘を連れて、街に移ってくる。娘の名前はベアトリスといい、年齢は10歳ほど、妻の名前はイザベルという。ダゴベルトは、年が近かったこともあり、ベアトリスと遊ぶようになる。やがて工事が終わると、パース一家はふたたび街を離れて、もとの街へと帰ってゆく。それから十年ほどが過ぎ、ダゴベルトが偶然手にした新聞で、ベアトリスの死亡記事が載っているのを目にする。もはや顔もうろ覚えになっていたが、明らかに初恋でもあったベアトリスの死に、ダゴベルト青年はうろたえ、新聞を手にしたまま長椅子に横たわる。すると、何かに誘われるように、さっと眠りがやってきて、長い夢を見始める。部屋の中に、ひとりの若くて美しい娘が入ってきたのだ。ダゴベルトは、これはきっと自分が悲しさの余り空想で生み出したのだろうと考える。しかし彼はその空想に身を委ねて、娘に導かれるまま、部屋を後にする。
 ここまでが導入部で、この先、ダゴベルトの冒険が始まるのだが、その部分を要約することは結構難しい。おおまかに言えば、悪役であるパース伯爵を倒すために様々な人物が入り乱れて活躍するというものなのだが、この作品のすごいところは、物語が夢の文法で書かれてるのである。つまり、夢というものは、見ているときにはその話の流れになんら不自然さを感じないのだが、あとから考えれば、辻褄の合わないところだらけで、基本的に一つの空気感に貫かれた、断片的なシーンのつなぎあわせになっていることが多いのだが、この小説はまさにそんな感じなのである。登場人物は、主人公のダゴベルトのほかに、ベアトリス、パース伯爵、イザベラ夫人、ファニー、アジアの皇帝、船頭とその妻、透明な悪魔、などで、モンサンミッシェル的な、海上に浮かぶ12世紀のパースの城を舞台に、これらの人物の関係が、入り乱れて展開される。語り手であり、「目」の役割をも持つダゴベルトは、これが夢であるという自覚を持ちながら、物語の中で奔走させられる。誰が真実の語り手であるか、どこかはっきりしないからである。ダゴベルトには自分が誰であるのか、はっきりとした意識がないまま物語の世界に連れて来られたわけであるが、登場人物らの口を通して、パース伯爵の妻イザベラが不義の果てに産み落としたベアトリスの兄であり、同時にパース伯爵を倒す役割を演じることになっているアジアの皇帝であるとされる。しかし、彼にそっくりなアジアの皇帝はまた別に存在していたりする。しかしそれが、矛盾とはされない。
 こうした、古い城を舞台にした壮大なお家騒動は、ゴシック小説の典型的なスタイルであるが、そのご都合主義的な部分を極端なまでに、それこそまったく辻褄が合わないまでに推し進めて語られるのがこの作品である。しかしここでひとつ大きなポイントは、実際のダゴベルトが田舎の城塞都市から決して出てはゆけない立場にある青年で、幼い頃に経験したベアトリスとの淡い恋愛や、外の世界からやってきた一家という、おそらくは別の世界への憧憬のようなものがいつまでも心の片隅に残っており、それが様々な自らの読書経験などと絡み合って、夢の中で再構成された結果生み出されたものという点である。つまり、ベアトリスの死という出来事によって21歳の孤独な青年ダゴベルトの心の中に起こった波紋と潜在意識下にある夢想を描いた小説というわけで、さまざまな象徴が散りばめられた、ゴシック風味のシュールレアリスム小説というのは、まさにその言葉通りだと思う。おそらく、夢が夢として夢の文法で描かれ、しかもそれが成功している数少ない作品ではないだろうか。ストーリーを追うよりも、次々と現れるイメージに揺られながら、読み進む方がいいのだろう。

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 今日は上野の森美術館で開催されている「生頼範義展」を観に行ってきました。
 開催は明日までという、滑り込みだったせいか、かなりの混雑。そこまで混んでないという話だったから、油断してましたが、さすがに閉幕直前はそうはゆかなかった。入場までに30分ほど待たされ、中へ。並んでいた方々は、さすがに年齢層高め、男性率高め、でした。自分も含めて。
 入場してすぐにあるのは、生頼範義さんの「自分は生活者として、肉体労働者として、絵を描いてきたのだ」という言葉。芸術家を目指すことを諦め、プロとして売るための絵を描くことに自ら徹してきたのだという複雑な心情が覗え、同時に、ちょっとした時代性も感じました。今ならば、これほどまでに悲愴な決意をする必要など、ないだろうからです。
 さて、その生頼さんの言葉のある部屋には、これまでに手がけた書籍の一部をピラミッド型の展示スペースに並べた、いわゆる「生頼タワー」がありました。これが圧巻で、テンションが一気に上がりました。持っている/持っていた本がたくさんあり、なんだか、ちょっとこみ上げてくるものがありました。その部屋には、他にもポスターがたくさん展示されており、撮影も可能でした。一応撮影もしてみたのですが、テンションが上がっていたので、それどころではなく、あまり良い写真は撮れていません。ネット上には、もっとちゃんとした写真がたくさんあると思うので、そちらの方を探して頂ければと思います。
 次の部屋には、ゴジラやスターウォーズの原画という、いきなりのクライマックスがやってきます。ここは、さすがに混雑していて、ゆっくり観れませんでした。それでも、これまでに何度もポスターで目にしてきた絵の実物を見れたのは、嬉しかったです。ただまあ、正直言えばこのあたりにはそれほどの思い入れもなかったんですよね。
 思い入れがあったのは、どちらかといえばその後の小松左京や平井和正のカバー絵、ハヤカワ文庫のカバー絵、それにSFアドベンチャーの表紙絵などです。
 絵を見ながら、いろいろなことを思い出しましたね。なんで角川文庫の小松左京作品のカバー絵にはミケランジェロの絵の模写が必ず入ってるんだろうと不思議に思っていたこととか、幻魔大戦が映画化したときに、大友克洋さんの描いたベガを見て「なんじゃこのおっさんみたいなベガは!」と思ったこととか。一時期、幻魔大戦のカバーが大友さんのものに差し替えられたことがあって、嫌だったんですが、多分いまではそちらの方がレアなんでしょうね。そうそう、生頼さんの描いたベガを竹内隆之さんが立体化したものが展示されていたのですが、これがものすごく格好よかった。やっぱりベガはこうだよな、とつくづく思いましたね。
 幻魔大戦といえば、平井和正さんももう随分前に亡くなってしまいました。一時期はかなり読んでいて、好きだったんですが(いちばん好きだったのが、「エイトマン」をノベライズするにあたって、黒人を主人公に据えた「サイボーグ・ブルース」でした。これは本当に傑作だったと思います。初期のウルフガイも好きでした)、幻魔大戦の途中、GENKENが出てくるあたりからだんだんと宗教がかってきて、話がちっとも進まないまま延々と霊的なことばかり話すようになってしまい、次第に気持ちが離れてゆきました。SFアドベンチャーで連載されていた真・幻魔大戦も、途中までは読みましたが、いつ脱落したのかさえ覚えていないくらいです。結局、幻魔大戦シリーズでいちばんおもしろかったのは、新・幻魔大戦だったように思います。ウルフガイシリーズも、人狼白書あたりからそんな感じになって、読まなくなりました。ちょうど無印幻魔大戦が全20巻で終わった後くらいに、これからはあまり文庫では出したくないというようなことを言い出して、ハードカバーでの刊行が続いたことも、お金のない学生にとっては買わなくなる理由には十分だったように思います。そうした変化は、後から思えば平井さんがある宗教に傾倒していたからだったのですが、当時はそんなことは知らなかったから、いったいどうしたんだろうという感じでした。いずれにせよ、平井さんの小説はそれ以来読まなくなってしまいました。どう考えても終わりそうになかった幻魔大戦は、亡くなる少し前にまさかの完結をみているとは聞いていますが、いまさら読む気にもなれないというのが正直なところです。
 SFアドベンチャー表紙の生頼美女は、安定の迫力でしたね。
 さて、展示最後の部屋には、生頼さんのオリジナル絵画が数点、かなりの迫力で展示されていました。絵画作品なのですが、長年イラストレーターとしてやってきた生頼さんですから、タッチはもうイラストレーターとしてこなれた感じのままです。ただ、大きさが全く他とは違う。それに、扱っている題材も違う。仕事として描いていた絵は、どちらかといえば「格好いい戦い」といった感じのものなのですが、その部屋に展示されていた絵は、明らかに「戦いの悲惨さ」に焦点を当てて描かれたものでした。特に七年を費やしたという大作「破壊された人間」は、生頼さんはもともと兵庫県明石市の生まれなのですが、幼い頃に自ら体験した空襲などの記憶から感じた、戦いの中では人は殺されるのではなくただ破壊されるだけであるという、力強いメッセージが込められた壮絶な作品でした。
 ともかく点数が多く、十分に堪能できる展覧会でした。近年では、こうしたどこか泥臭いというか暑苦しいというか、そうした絵が使われることも少なくなり、どちらかといえばデジタルで描かれたすっきりとした絵ばかりが本の表紙を飾るようになりましたが、筆で描かれた一枚の大きな絵というものの持つ意味を少しばかり考えました。生頼範義さんの誠実さは、その完璧な技術力に、計算された構図に、雄弁に現れていると思いました。良い展覧会でした。


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 先日の読書会で、ウィリアム・ホープ・ホジスン作の「ナイトランド」に出てくる「ラスト・リダウト(最後の角面堡)」について、それがどれだけ大きな建造物であるかをちょっと話したのですが、せっかくなので、ここにも少し書いておこうかと。
 まずは、当日持って行った、簡単なメモの内容を貼り付けます。

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「ラスト・リダウト」

・灰色の金属で作られている
・長さも幅もない、輝かしい金属でできた物体で、「数学の間」に置かれた「中心点」。ピラミッドの中心。
・1320層から成り、高さは約8マイル弱(12000メートルくらい?)。その上にはさらに塔があり、そこで怪物警備官(モンストルワカン)が見張りを行っている。
・「中央移動道」は千階層にある。原野から6マイルと30ファソム上方にあり、差し渡しが1マイル以上ある。外を覗く窓は「大銃眼」と呼ばれる。
・リダウトの周りには、約1マイル離れたところに「地流(アースカレント)」と呼ばれるエネルギーを得て輝くチューブ状の防護物がある。
・最下部の半マイル分は締め切りになっている。
・基部は一辺が5マイルと1/4。
・1320の都市がある。
・17歳から、一日に一都市を回る巡礼を行うという試練が課されている。
・「地下の原」こそが、リダウトをも凌ぐほどのすばらしい建築物。約100マイルの深さに最下層があり、そこは「沈黙の園」と呼ばれ、死者を弔う場所になっている。その場所では、一辺の差し渡しが約100マイル(約160km!)あり、その上に360の平面層が積み重なって、上に行くほど面積が少しづつ小さくなるようにつくられている。「地下の原」の最上層が「リダウト」の最下層に接している。その地点での一辺の差し渡しは4マイル。

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 少し説明を加えてゆきます。
 まず、簡単に〈ナイトランド〉の成り立ちを説明しておきます。〈ナイトランド〉とは、数百万年後の地球のことであり、その時代には、太陽は既に光を失っています。さらには、かつての科学の過ちから、「生命防護層」と呼ばれるこの世界を邪悪なものたちから守ってくれている層を破壊してしまい、外宇宙からの恐ろしい「もの」たちが地球になだれこんでくるという事態を招いています。地球はすでに人類が生きてゆけるような場所ではなく、隙あらば人を餌食にしようとする怪物たちの跋扈する世界となっており、残された数百万人の人々が、「ラスト・リダウト」と呼ばれる巨大なピラミッド形の建物の中で、まるで身を寄せ合うようにして、人類に残された「永遠の黄昏」を生きています。つまり、「ラスト・リダウト」とは、その名のとおり、人類に残された最後の砦なのです。
 ここでは、ナイトランドの非常に魅力的な「外の世界」については説明しません。あくまで、「ラスト・リダウト」についてのみ、書くことにします。
 まず、「ラスト・リダウト」について語ろうとすれば、その巨大さに驚かされます。
 地上部のリダウトは、四角錐をしたピラミッド型で、底辺がそれぞれ5と1/4マイル、高さが九マイル足らずということです。大雑把ですが、計算しやすいように1マイルを1.6kmとした場合、メートル換算で、8400m×8400m×12000mの正四角錐ですね。高さが12000mといったら、もう成層圏です。エベレストより遥かに高い。しかも、その上に見張塔があるというのですから、凄いです。
 しかし、こんなことで驚いていてはいけません。「ラスト・リダウト」の本当に凄いところは、実は地下にあるのです。なんと、リダウトの最深部は、100マイルもの深さにあるのです。その最深部は、「地下の原」(その時代には単に「原」と呼ばれている)と言い、「沈黙の園」という、死者たちを安置する場所があります。その最下層の差し渡しは、各辺がそれぞれ100マイル。つまり地下部分は、160000m×160000m×160000mの正四角錐形をしているわけです。で、その最上部は約4マイル四方になっていて、地上部の最下層につながっています。つまり、全体を透かして見るならば、「ラスト・リダウト」は、底辺が160000m(160km)四方で、高さが約172000m(172km)の、ピラミッド型の建築物となります。残された人類が力を振り絞って建造したということですが、余りにも巨大で、ちょっと、気が遠くなりますね。
 ちなみに、建物は、灰色の金属で出来ています。その金属の調達先は、わかりません。地下を作る際に出た土は、地球に出来た底しれない裂け目に捨てたということになっています。ちなみに、この深い裂け目に海の水はすべて吸い込まれてしまったということになっています。
 地上部の話に戻ります。地上部は、全部で1320階あるということです。単純に計算すれば、各階はだいたい9mくらいの高さになります(実際には、床や天井の厚みがあるので、もう少し低い)。結構ゆったりとしたスペースをとっていますね。で、そのリダウトですが、大地から半マイル分は誰もいない締め切りの状態になっています。外の怪物たちの万一の侵入に備えて、ということらしいです。かつて危ういことがあった教訓からということですが、リダウトから1マイル離れた場所に「地流(アースカレント)」と呼ばれるエネルギーを使って作られた、輝くチューブ状の防護物(サークル)が置かれてからは、そういう被害はないということになっています。逆に言えば、そのエネルギーが枯れた時が人類の終わりの時、ということになります。このサークルは、どうも「聖なる光」のような役割を持つものらしく、「魔」は入れないということのようです。「幽霊狩人カーナッキ」を読んだ方は、電気五芒星というものが出てきたことを覚えているんじゃないかと思いますが、あれの巨大版のようなものと考えて、間違いないと思います。このあたり、牧師の息子であるホジスンらしいです。ホジスンには、基本的に、そうしたキリスト教的な絶対的な聖悪の強い縛りを感じます。
 地上部のリダウトには、1320の都市があり、誰でもというわけではないのかもしれませんが、17歳になったら一日に一つづつの都市を回るという、試練が課されることになっています。下半マイルが締め切りになっているので、各階が一つの都市というわけではないのでしょうが、それぞれの階が結構独立しているということなのでしょうか。また、リダウトの中心には「数学の間」と呼ばれる部屋があり、そこには「中心点」と呼ばれる輝かしい金属でできた長さも幅もない物体があるとされていますが、それがどういうものなのかは、ちょっとよくわかりません。おそらく、知性や精神の拠り所になるようなもの、という感じなのかと思います。また、最上部のさらに上にある見張り塔には、「怪物警備官」(モンストルワカン)という役職にある精鋭たちが詰めています。
 「ラスト・リダウト」全体は、「地流」から得たエネルギーによって灯りを得ていて、地下であっても明るく保たれているようです。一応時計のようなものもあるようで、第一時が夜明け、第十五時が夜の始まりという感じで、一つのリズムが保たれています。また、地下は作物などが栽培されているようです。地下は、100マイル(160000m)の深さに360の層ですから、各層の高さはだいたい440mになり、かなりの天井の高さになります。こうした構造物全体を照らし続けるだけのエネルギーを供給し続ける「地流」は、単純に未知のエネルギーであるというものではなさそうです。もっと画期的な、例えば質量からエネルギーを可能な限り取り出すような技術によるものであるように思えます。おそらく、そうした技術を生み出した科学が、反面では世界を守っていた「防護層」の破壊をも招いたということなのでしょう。科学の二面性を、ホジスンは語っているわけです。


 というわけで、ざっとではありますが、「ラスト・リダウト」の巨大さについて、少し書いてみました。「ナイトランド」の世界では、最後の人類は、こんな場所で生活しているわけです。ちなみに、「ナイトランド」の魅力はもちろん「ラスト・リダウト」だけではなく、それはほんの序の口であるとは書き添えて置きたいです。もっとも、ホジスンは自ら創造したそうした魅力的な世界を、この一作では十分に活かしきれてはいないように思えるのが少し残念ではあるのですが。


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