漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




 気が付くと、随分とブログを放置してしまっている。最近はただの読書録になってしまっているから、twitterで「読了」と書いてしまうと、なんとなく満足してしまうせいだ。でも、きちんと記録に残すという意味ではブログは貴重なので、まだ細々と続けてゆくつもりではある。

 来週、「奇妙な世界の片隅で」のkazuouさんが主催している読書会に参加する予定なのだが、その中の企画で、「自分だけのベスト10」を作って持ってゆくということになり、最初は軽く考えていたのだけれど、ぼくは何度かそうしたベスト的なリストを作っているので、何となくオールタイム的なものを選ぶと同じようなものになってしまうため、うーんと思ってしまった。で、色々と考えていたが、結局、最近好きなゴシック小説でゆくことにした。でも、ただ選ぶだけだと、ゴシック叢書をなぞるような感じになってしまう。で、考えたのが、国書刊行会の「ゴシック叢書」(全26巻34冊)を補完するようなラインナップを作ったらどうか、ということ。そもそもゴシックの定義は人によってかなり違うそうなので、もちろん個人的な趣味最優先。既訳作品のみで。
 で、色々考えた結果、とりあえず出来たのが以下のようなもの。(完全じゃないけど、なるだけ国書から出ているタイトルは避けました)

***

ゴシック叢書プラス

海外篇

●アン・ラドクリフ 「ユードルフォの謎(完訳版)」 (Ⅰ、Ⅱ)
●トルーマン・カポーティ/カーソン・マッカラーズ 「遠い声遠い部屋/悲しき酒場の唄」
●マルキ・ド・サド 「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」 (Ⅰ、Ⅱ)
●ジュリアン・グラッグ/ジョルジュ・ローデンバック 「アルゴールの城にて/死都ブリュージュ」
●シャーリイ・ジャクスン 「丘の屋敷」
●スティーヴ・エリクソン 「彷徨う日々」
●ガルシア・マルケス 「百年の孤独」 
●ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」(Ⅰ、Ⅱ)
●デュ・モーリア 「レベッカ」
●ジェイン・オースティン 「ノーサンガー・アビー」
●マーヴィン・ピーク 「タイタス・グローン」
●短編集(Ⅰ、Ⅱ)
  シャーロット・パーキンス・ギルマン 「黄色い壁紙」
  ウィリアム・フォークナー 「エミリーに薔薇を」
  カルロス・フェンテス 「アウラ」
  アンナ・カヴァン 「母斑」
  コルタサル 「占拠された屋敷」
  エッサ・デ・ケイロース 「縛り首の丘」
  M.R.ジェイムズ 「秦皮の樹」
  マルキ・ド・サド 「ロドリグあるいは呪縛の塔」
  デュ・モーリア 「モンテ・ヴェリタ」
  ヴァージニア・ウルフ 「憑かれた家」
  エリザベス・ボウエン 「猫は跳ぶ」
  イサク・ディネセン 「ノルデルナイの大洪水」
  フレデリック・マリアット 「人狼」
  アンリ・ボスコ 「シルヴィス」

全12巻16冊。

 編集する際に意識したことといえば、もともとのゴシック小説の中に通底する「ゴシック性」という漠然とした縛りを意識するすることと、それにはある意味で反するものになるかもしれないが、あくまでもゴシック叢書「プラス」ということで、意識的に英語圏から離れたり、確かにゴシック性を持っていると思われるが、ゴシック小説の文脈ではあまり語られないような作品も取り上げるということだった。しかし、あまり範囲を拡大しすぎないようにも心がけたつもりである。映像作品やスチームパンクから強く影響を受けていると思われる、ファンション性の高い現代のゴスは入れなかった。

 「邦訳のあるものを」と書いたので、最初にリストアップした「ユードルフォの謎」に関してはやや強引な反則技に近いが、一応ダイジェスト版は出ている。なので、完訳を出して欲しいという意味で、ラインナップに入れた。ゴシック・ロマンスは、この作品の邦訳が出ない限り、まともな議論にはなりそうもないからである。
 カポーティとマッカラーズ、グラッグとローデンバックは、それぞれが短いのでカップリング巻として。一応、共通するところのある作家を合わせたつもり。
 カポーティとマッカラーズは、どちらもアメリカ南部の作家で、かつ同性愛者。どちらの作品も、そうした二人の資質がよく出ていると思う。どこか乾いた、アメリカン・ゴシックらしい掌編二編だと思う。
 グラッグとローデンバックは、フランスとベルギーという、どちらもフランス語圏の作家。シュールレアリストと象徴派ということだが、いずれにせよゴシックの影響下にあるのではないか。ゴシックは、どこか作り物めいたところがあるものだとぼくは思っているので、より知的で芸術性高めのゴシックの代表作として選んだ。
 サドは、そもそも存在そのものがゴシックという感じさえある。思い込みの激しさも、見事なくらいで文句なし。ぼくの考えでは、ゴシックというのは、ある意味で作家の存在そのものに「ゴシック性」があるかどうかが、非常に重要であると思っている。ゴシックの感性を持つ作家がつくり上げるものは、何でもどこかゴシック性を持つものであり、ゴシック性を持たない作家は、決して本当の意味でのゴシックは作れない。それは別に小説に限らず、絵画でも、音楽でも、映画でもそうである。そういうところがあるのではないか。で、代表作のこれを、完訳版で。
 北米マジックレアリスムとか言われる作家、スティーヴ・エリクソンは、何でもよかったのだが(笑)、デビュー作のこちらを。映画を題材にしているのもいい。ハリウッドは、ある意味でゴシック・ロマンスの、かなり血の濃い、子孫であるように思えるからである。対立候補として、ポール・オースターの「ムーン・パレス」も考えたが、ハリウッドが題材という点で、こちらに軍配が上がった。
 「アメリカの小説には、ゴシックの血が流れている」というようなことが言われることがあるが、近代的なエンターティメントの原点となっているのがゴシックであると捉えるなら、確かにそうかもしれない。アメリカの初期ゴシック小説には確かに城や僧院などは出てこないかもしれないが、そもそも歴史の浅いアメリカにそんなものがあるはずもない。代わりに「謎めいた場所」の舞台として選ばれたのが、「アメリカの非情なまでに広大な大地」であるとぼくは思う。怪奇小説の「恐怖」に対してゴシックが重視するのは「崇高」だとはよく言われること。新世界であるアメリカの複雑で圧倒的な自然は、崇高さを演出する舞台として十分であったはず。
 入れるかどうか迷ったマルケスは、南米マジックレアリスムの作家だが、「百年の孤独」は特にゴシック性が高いような気がするので。南米マジックレアリスムとゴシックの関係性は、どういうものなのだろうか。何となく近いものがあるように思うのだけれど。
 エーコは、極めて知的で現代的なゴシックミステリーの代表として。他には特に述べることもない。
 ジェイン・オースティンは、ゴシック・ロマンスのパロディとして名高い作品。ゴシック叢書を補完するなら、悪くはない気がする。
 最後のピークは、ファンタジー分野から一つということで。ホジスンの「異次元を覗く家」と迷ったのだが、やはりこちらの方がよりゴシック的だということで、「ゴーメンガースト三部作」の一番最初のこの作品を。
 ジャクスンとデュ・モーリアに関しては、文句なしだと思う。一作だと分量が足りないので、ジャクスンの巻には、短編も入れたい。あるいは「ずっとお城で暮らしてる」とのカップリングも悪くないし、さらに言えば、ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」とのカップリングでも悪くないかもしれない。ただ、ジェイムズはゴシック叢書に入ってるのですよね(まあ、ラドクリフも入ってますが)。
 短編集の方なのだが、まあこんなものかなと。記憶力があてにならないので、落としているものが多そう。ぼくは、基本的にゴシックは長い作品こそが本流だと思っているので、やや杜撰なリストになったかもしれない。それでも、挙げた作品はすべて名作であると思う。

 ついでに、日本篇も考えてみたが、こちらはかなり中途半端。日本の小説は、余り数を読んでないので。

日本篇

●夢野久作 「ドグラ・マグラ」
●村上春樹 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」
●江戸川乱歩 「孤島の鬼」
●山尾悠子 「ラピスラズリ」
●澁澤龍彦 「高丘親王航海記」
●中井英夫 「虚無への供物」
●桜庭一樹 「赤朽葉家の伝説」
●小野不由美 「残穢」
●野阿梓 「凶天使」
●短編集
  上田秋成 雨月物語より「浅茅ケ宿」「蛇性の婬」
  筒井康隆 「遠い座敷」
  星新一 「門のある家」
  野坂昭如 「骨餓身峠死人葛」
  平井呈一 「真夜中の檻」
  小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
  小川未明 「火を点ず」
  小松左京 「くだんのはは」
  半村良 「箪笥」
  内田百閒 「サラサーテの盤」
  吉屋信子 「童貞女昇天」
  吉村昭 「少女架刑」

全10巻。

 三大奇書は全部入れるべきなのだろうが、読んでないものは入れられない。なので、「ドグラ・マグラ」と「虚無への供物」のみ。ただし、虚無の方はあまり覚えてない。
 山尾悠子は、日本では数少ない「幻想文学作家」を名乗る作家なので、入れざるを得ない。桜庭一樹も、そのものずばり「ゴシック」という人気作品を持つ作家として入れておきたい。この作品は、日本のマジックレアリスム作品として、面白さと文学性を兼ね備えた名作。
 「日本のゴシック」というものを考えるなら、ヨーロッパの城、アメリカの大地に対して、もっと土着的な「家」というか因習というか、閉鎖的な共同体が舞台になるように思えるので、島なんて良い舞台である。ピクチュアレスクという面でも申し分ない。江戸川乱歩や横溝正史は入れるべきなのだろと思ったが、横溝は余り知らないので、入れられなかった。「獄門島」は、良い候補であるとは思うのだが。
 ゴシック・ロマンスには、過去と現在の連続性、もっと言うなら、過去の現在に与える影響というものが重要な役割を果たしていて、しかも舞台の派手さ、物語の波乱万丈さに比して、実は結構小さな範囲の関係性の物語にすぎないというところがある。そういった面では、日本の風土とは相性がよさそうではある。
 村上春樹は一作、ぜひ入れたかった。あんまり言う人はいないけれど、村上春樹は、アメリカ小説の強い影響下にあるせいか、かなりゴシック性の高い作家だと思う。近年、どんどんその傾向が強くなっているようにも思える。ただし、近年の作品はあまり好きではないので、個人的に面白かったといえる最後の作品「ダンス・ダンス・ダンス」とこれで最後まで迷ったのだが、独立した作品ということで、やっぱりこちらを。
 澁澤龍彦は、小説作品で最も完成度の高いこれを。日本の幻想文学としても一級品だと思う。
 小野不由美と野阿梓は、やや苦し紛れ。デビュー以来、独特の世界を貫いている野阿さんだが、ゴシックと言っていいのか、よく分からない。小野さんの残穢は、家の怪異と正面から向き合ったユニークな作品で、非常に怖い。ただし、ゴシックなのかどうかは……。
 中上健次や倉橋由美子や三島由紀夫や森茉莉は、入ってくる可能性があるのだろうが、あまり作品を知らないので入れられなかった。それを言うなら、日夏耿之介や堀口大學などの昔の詩人も重要なのだろうが、詳しくないので入ってない。彼らに限らず、落としてる作家や作品は沢山ありそう。しかし、日本の小説から「ゴシック」という視点で選ぶと、なかなか難しい。いわゆる幻想文学ならたくさんあるのですが。ぼくがよく知らないだけかもしれない。詳しい人にガチで選んで欲しいと思った。
 短編集は、アンソロジーに常連の名作ばかりになってしまったかも。あんまり日本の小説を知らないせいもある。変わった作品としては、ひとりだけ作品が重複している小川未明の「火を点ず」。これは、「入れたかったから入れた」感が強い。ゴシックというよりは、未明の短編が童話と比べてかなり異質な味わいがあるということを示したかった。
 吉屋信子の「童貞女昇天」は、かなりゴシック的味わいの深い良い短編だと思う。
 日本でゴシックを考えるなら、「ゴシック」というより、むしろ「ゴス」という考え方で選ぶ方が良いのだろう。それはわかっている。最後の「少女架刑」は、ややそっち寄りで選んだ。以前twitterで、怪奇幻想文学研究家の中島晶也さんが「ゴスは衣装という形で城を身に身に纏っているという点で、ゴシックの正統な末裔」というようなことを仰っていて、なるほどと思ったのだが、翻ればそれだけゴシックが小さくポータブルなものになってしまったということでもある。ゴスロリが日本で人気を博したのも、もしかしたら現代日本の事情を鑑みてサイズ的にちょうど良かったから、といった感じなのだろうか。

 ということで、完成した「ゴシック叢書プラス」のラインナップですが、結局さほど物珍しさもなくて、なかなか微妙かも。特に、日本篇はかなり手を入れる必要がありそう。読書量と記憶力が圧倒的に足りない。これでもそれなりに試行錯誤したんですが(笑)。

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「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?」 マイクル・ビショップ著 小野田和子訳
ドーキー・アーカイヴ 国書刊行会刊

を読む。

 「スティーヴン・キング非推薦!?の錯乱必至メタ・ホラー・エンターテインメント!」という、強烈なキャッチコピーの一冊。
 なぜ非推奨なのかといえば、まずタイトルのスティーヴィ・クライという人物名がスティーヴン・キングにちょっと似てるから。これが意識的であることは、作者も認めている。次いで、内容が当時一世を風靡し、大量に生産されていた「モダンホラー」のパロディ的な側面を持っているから。しかしあとがきで、マイクルは自分はキングに対して、称賛以上のものを持っていると言っている。この小説でちょっと茶化したかったのは、キングその人ではなく、彼の亜流として金儲けを企む有象無象の「モダンホラー」作家だったらしい。しかし、キングがそんなことを知るはずもないから、面白いわけがない。馬鹿にされたと感じるに決まってる。したがって嫌っていた――「非推奨」と言うわけである。
 この小説を読んだ感想としては、これが含まれるシリーズ『ドーキー・アーカイヴ』の編者の一人である横山茂雄さんの作品紹介の言葉――〈モダン・ホラーの卓越したパロディ、複雑な構造を備えたメタ・フィクションにして、リアルな南部小説――しかも、読者を底知れぬ恐怖に陥れるという驚異の離れ業〉――に、ほぼ全てが語られているように思えるが、それは一読したからこそ簡潔で見事な紹介文だと感じ入るわけで、内容を知らない人には何のことやら分からないだろう。

 以下、あらすじを紹介しつつ、感想を。感想とあらすじを、ほぼ同時にやってます。
 ただし、このブログは、最近読んだ本の内容をすぐに忘れてしまう自分のための防備録を兼ね始めているので、かなり無遠慮にネタバレをしています。お気をつけください。


 本を開いて、目次の次に、最初に前付けのタイトルページがあるのだが、そこには「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?――あるアメリカ南部の物語」とある。ページをめくると、そこにはもうひとつ別のタイトルページがあって、そこには「タイピング――ウィックラース郡の狂女の人生における一週間/モダン・ホラー小説/A.H.H.リプスコム」とある。つまり、この本にはもうひとつのタイトルと著者がいるということで、この時点でこの作品がメタ・フィクションであることがわかる。同時に、狂女を主人公にした「モダンホラー小説」であることが宣言されている。
 次のページからは、普通に物語が始まる。
 主人公はスティーヴィ・クライ。13歳の息子と8歳の娘を持つ未亡人で、フリーでライターの仕事をしている。夫は数年前に癌であっさり亡くなってしまっている。病気とほとんど戦おうとさえせずに。彼女はそのことに対して、裏切りにも近いものを感じている。夫が残してくれたものといえば、彼女が現在仕事で使っているタイプライターだけである。もともと上位機種であるとはいえ、時代は次第にワープロに移行しつつある時代。しかし、女手ひとつで不安定な仕事をしながら二人の子供を養う彼女には、もちろんそんなものを買うような余裕はない。ところが、そのタイプライターが突然壊れてしまった。仕事をする上で、タイプライターはなくてはならないものである。販売元に問い合わせると、修理には最低52ドルかかるという。金銭的な余裕のない彼女はその値段が気に食わず、友人に相談したところ、自分の知っている人がタイプライター修理の名人だと教えてくれた。喜んだスティーヴィはタイプライターを持ってその男シートン・ベネックのもとを訪ねる。彼は子供がそのまま大きくなってしまったような風貌をしており、明らかに変人だったが、腕は確かで、しかも実費の10ドル67セントで修理してくれる。スティーヴィは満足する。しかし、彼は修理の終わりに、タイプライターにちょっとした細工をしたようだった。
 たった52ドルをケチってシートンに修理を頼んだそのことが、悪夢の始まりとなる。その夜、悪夢にうなされて目を醒ました彼女は、隣の部屋からタイプライターの音が聞こえてくることに気づく。おそるおそる部屋に向かうと、音が消えた。部屋の中を覗き込むと、タイプライターが長い文章を打ち出した紙が残されている。それは、夫の死にまつわる悪夢を再現したような支離滅裂なワンシーンだったが、その最後は、夫が彼女にこう語るところで終わっていた――「もしぼくがあきらめたように見えたのなら、スティーヴィ、その理由はただひとつ」
 もともと夫の死に納得のゆかないものを抱えていたスティーヴィは、それが異常な現象であったにも関わらず、その言葉の続きを知りたいと思うようになり、積極的にタイプライターに自動書記させようと試みるようになる。夫の真意は何だったのか。そしてついには、タイプライターと対話さえ行うようになってゆく。しかしタイプライターの打ち出す文章は、次第に悪夢と一体化してきて、ついには現実とタイプライターの打ち出す悪夢との境界線を脅かすようになってくる。途中にスティーヴィの眠りが介入するところがミソで、ここから先は、スティーヴィがそうである以上に、読み手に夢と現実の混乱を促すような記述になってゆく。暑がる息子の布団を剥ぐと、身体が溶けてしまっていたり、また、友人たちと比べて遅れていると悩む息子と性的関係を持ったり。そうした悪夢が、まるで現実にあったかのように真に迫って、次々と彼女を襲う。しかも、彼女の家に突然訪ねてきたシートン・べネックスがその悪夢をさらに酷いものへと推し進める。シートンは一匹のクレッツという名前の猿を連れてきたのだが、子供たちがその猿に喜ぶこととは対象的に、スティーヴィは彼とその猿の存在を非常に薄気味悪いものと感じる。
 しかし同時に、彼女はタイプライターを積極的に利用しようともする。タイプライターを脅迫(!)して、夫の言葉の真実を語らせようとしたり(実際、ある程度語ったりもする)、さらには、あるとき突然出版社から電話がかかってきて、彼女にフィクションを書かないかと持ちかけてくるのだが(この電話の中で、A.H.H.リプスコムの名前がさり気なく登場する)、その後彼女は(あるいはタイプライターは)、なかば共同作業のようにしてひとつの短編を書いたりもする。それが作中作である「猿の花嫁」。しかしこの短編自体、彼女の置かれている現実と悪夢の境界線上にあるものである(これが、なかなか面白い短編だった。どこか昔のゴシック小説の作中作を思わせる)。
 この辺で、物語は急速に畳みに入る(急展開で、しかも複雑なメタ構造になっているので、あらすじをまとめるのが難しい)。
 小説を書いた後、それを娘に読んで聴かせてやっていたところ、突然の意識の断絶があって、気が付くと自分が息子のベッドの端に座っていることに気がつく。一体どこまでが現実にあったことなのか分からず、ふたたび娘の部屋をのぞくと、娘の枕元に、まるでガーゴイルのように、猿がいることに気がつく(有名なフュースリーの<夢魔>の絵を意識しているように思える)。電話がいきなりかかってきて、取ると、相手は何も喋らず、受話器の向こうからは不気味な息遣いしか聞こえない。直感的にそれがシートンであると感じた彼女は、ふとしたことで知り合ったシスター・セレスティアルという占い師に電話をかけて、家に来てくれるように頼む。
 この辺から、さらにメタ化が加速する。筋を追うのが大変なので、なるだけ簡潔にしたいが、なかなか難しい。この先は、さらに物語の核心、さらにはオチに言及するので、知りたくない方は読まないでください。


 電話をした直後に、家のメンテナンス業者を名乗る男が家を訪れる。変装をしているものの、スティーヴィはそれがすぐにシートンであることがわかる。やがてセレスティアルがやってきて、二人とシートンの戦いといった様相になる。不思議なことに、セレスティアルはシートンの手によってタイプライターが打ち出した現在のスティーヴィの物語を持っているという。つまり、彼女はここに至るまでのすべての物語と、さらにはこの先どうなるかについての物語を既に手にしているというのだ。しかし、彼女はそれをスティーヴィには見せない。見ないほうがいいという。しかし、さらに少し物語が進んだところで、ここはもうわたしの読んだ物語とは異なっていると言い出す。そしていよいよシートンとの直接対決となる。
 シートンはスライド投影機を使って、彼女にスライドショーを見せ始める。そのスライドに映されていたものは、シートンの若き母親と、そしてスティーヴィの夫であったテッドの不倫現場の写真であった。ここに至ってシートンの目的が、自分の母親を奪ったテッドへの復讐心が行き場を亡くした挙句、その妻であったスティーヴィへと向かったという、屈折したものであることが明らかになる。しかし結局復讐は思いとどまり、姿を消す。その後、彼女のもとに一通の封筒が届けられる。中に入っていたのは、「タイピスト…」という、冒頭でも紹介した、A.H.H.リプスコムの作品で、彼女の体験したことが書かれていた。しかも、最終章が空白のままになっている(つまり、ここまでの話は、すべてこの本の内容そのままであり、実際には多少異なっていた可能性が示唆されている)。後日、スティーヴィのもとへと大量のタイプライターが届けられる。それは、罪滅ぼしのためにシートンが送りつけてきたものだった。シートンは、これらには何も仕掛けはしていないと受け合う。スティーヴィはそのタイプライターをすべて屋根裏へと運ばせる。その夜、屋根裏からはタイプライターの音が聞こえてくる。彼女がそっと覗くと、思っていたとおり、そこにはクレッツをはじめとする沢山の猿たちが、一心にタイプライターを叩いている姿があった。猿たちの打ち出した用紙を見ると、ほとんどは意味をなさないものであったが、猿のクレッツなどは、偶然モダンホラー小説の最初の章の前半をものにしていた。それを見て、スティーヴィはほくそ笑む。うまく調教すれば、自分は何も書かずとも、すばらしい作品を手にすることができるだろう、と(これは、「無限の猿の定理」と呼ばれるものを連想させるようになっている。「無限の猿の定理」とは、ウィキペディアによれば「ランダムに文字列を作り続ければどんな文字列もいつかはできあがるという定理である。比喩的に「猿がタイプライターの鍵盤をいつまでもランダムに叩きつづければ、ウィリアム・シェイクスピアの作品を打ち出す」などと表現されるため、この名がある」とのこと。ここでの場合、要するに「駄作でも濫発すれば中には傑作が生まれることもある」というニュアンスを暗に匂わせているように思われる。雨後の筍のように次から次へと似たようなB級ホラーが濫発される当時の状況を皮肉ったものだろうか。そうだとすれば、かなり黒いオチだと言って良さそう)。しかし、実を言えばそれだけでこの物語が完全に閉じたわけではない。最後の、見過ごしてしまいそうな一文は、考えようによっては、その段落までの物語もがタイプライターが打ち出したフィクションであるとさえ考えられる可能性があることを示唆しているのではないかと思う。このクドさは、もしかしたら「モダンホラー」だけではなく、「メタ・フィクション」さえもパロディーの対象としているとさえ言えそうな気もする。そうそう、つい忘れそうになるけれど、そもそも一番外側の箱とも言えるこの本のタイトルからして、「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?」という思わせぶりなものだった。

 
 最後まで読み終えてみるとどこかユーモラスなこの小説だが、シートンとの対決のシーンまでは非常に怖く、読んでいて先が気になって仕方がないほど読ませる。主人公をごく普通の小市民に設定し、超自然的な、例えば悪魔や怪物とかではなく、タイプライターというごく日常的なものが恐怖の対象になるというあたりも、いかにもキングが得意とするタイプのホラーである。それだけにしておけば、十分に及第点のモダンホラーなのだが、そこにメタフィクション的要素ととんでもないオチを付け加えたことで、この作品は稀に見る怪作となった。
 また、この本の著者によるあとがきも、当時のモダンホラーをめぐる情勢を伝えていて、興味深かった。

 

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「短い金曜日」 アイザック・B・シンガー著 邦高忠二訳 晶文社刊

を読む。

  アイザック・B・シンガーはポーランド生まれのユダヤ系作家。生まれたのは1902年。イディッシュ作家として1978年に初めてノーベル文学賞を受賞しました。没年は1991年。もともと限られた人々にしか読まれなかったイディッシュという言語で書かれたシンガーの作品が世に広まるようになったのは、この本にも収録されている「ばかものキンベル」という短編が、ソール・ベローの手によって1953年に英訳されたためらしく、それが起爆剤となって、一気に世界中に広まりました。
 イディッシュといえば、ユダヤの言語というイメージがあったのですが、本のあとがきによれば、少し違うようです。ウィキペディアから引用すると、

イディッシュ語はドイツ語の一方言とされ、崩れた高地ドイツ語にヘブライ語やスラブ語の単語を交えた言語である。高地ドイツ語は標準ドイツ語の母体であるため、イディッシュの単語も八割以上が標準ドイツ語と共通しており、残りはヘブライ語やアラム語、ロマンス諸語、そしてスラブ諸語からの借用語である。初期にはヘブライ文字を伝統的に使用していたが、現在では標準ドイツ語に準じたラテン文字表記も存在している。
 世界中で400万人のアシュケナージ系・ユダヤ人によって使用されている。

 ということ。イディッシュは多くのユダヤ人たちによって話される言語ではあるが、ユダヤ語=イディッシュというわけでもないようです。
 しかし、イディッシュ語で忘れてならないのは、もともとユダヤ人たちによって主に話されていた言語であるという点です。そのため、第二次大戦のホロコーストによってイディッシュを話す人々のほとんどが虐殺されてしまった結果、「死んだ言語」であるとされた時代があったとか。そうした状況の中で、ヨーロッパに吹き荒れる反ユダヤ主義から逃れてニューヨークで生活していたシンガーは、あくまでイディッシュで書くことにこだわりました。自らのルーツに対する誇り、言語とともにあるアイデンティティ、そうした強い思いがそうさせたのでしょうか。

 この本は、初版が1971年。ということは、ノーベル賞を受賞するより前の出版ということになります。ぼくが初めてこの本を書店で見かけたのは、多分1984年頃だったと思いますが、あれは初版がそのまま売れ残っていたのか、それとも何度か版を重ねたものだったのかは、わかりません。なぜそんなことを覚えているのかといえば、ずっとこの本のことが、何となく気になっていたからです。自分の手元にあるこの本は、最近古書店で買ったものですが、初版なので(しかも、折がそっくり入れ替わっているページがあるというひどい製本ミス本)、増刷されたのかどうかもよくわからないのです(ノーベル文学賞を受賞した作家なので、その時に増刷がかかったんじゃないかなという気はするけれども)。
 この「短い金曜日」という短編集は残念ながら現在絶版になっているますが、新刊で買えるシンガーの作品も結構たくさんあるようで、根強い人気が伺えますが、それも納得できるほど、彼の作品はちょっと癖になりそう。
 ともかく、他の作家とは明らかに違う、奇をてらったというのではない、唯一無二さがあります。多くの優れた短編作品に時折見られるように、おそらくは土着的な説話が想像力の根にある文学なのだろうという推測はつきますが、そう言って説明した気になれるものでもありません。ほとんどの物語が、ごく普通のユダヤ人の庶民の物語です。しかし、ごく普通の物語とはやはりいいかねるのです。それは、背景にしっかりと存在するユダヤ教の影のせいばかりではないでしょう。
 収録作品は、以下の12篇。

ばかものキンベル
クラコフからやって来た紳士
老人

ただひとり
ヤチドとイェチダ
イェシバ学生のイェントル
短い金曜日
降霊術
コケッコッコッココー
天界の倉庫
ヤンダ

 以下、いくつかの短編のあらすじを。ややネタバレしてますが、それで面白くなくなるとは思えません。

 ソール・ベローによる英訳でシンガー人気に火をつけたという「ばかものキンべル」のあらすじは、次のようなもの。
 村人から「ばかものキンベル」と呼ばれるお人好しの男の物語。キンベルは村人らから身持ちの悪い女を妻にあてがわれ、結局、自分の子供ではない子供を6人も授かる。妻は死ぬ間際にそのことを告白するが、どこまでも良い人間であるキンベルは怒らないばかりか、死後に辛い思いをしている妻のことを気遣う。
 
クラコフからやって来た紳士・・・貧しいが正直な人々の住む村にクラコフからやってきたという男が現れる。彼は村に富をばらまき、人々を魅了するが、その正体は恐ろしい悪魔だった。

血・・・レブ・ファリクという誠実な男の二番目の妻になったリシャという女は、屠殺人ルーベンと出会ったことで、自らの内に秘められた残虐性に目覚め、楽しみのために屠殺をすることをエスカレートさせた挙句に、人狼となってしまう。ともかく、リシャの描写がすさまじい。

イェシバ学生のイェントル・・・イェントルは、女性ではあったが、女性の興味のあるものにはまるで興味が持てず、男性のように勉強したいと願っていた。父親が死んだあと、彼女は男装をして、アンシェルという名前を名乗り、遠くの町の学校へと入学する。その途中で知り合ったアヴィグドルという青年と男として友情を結ぶ。そして、彼の紹介でハダスという、かつてアヴィグドルの婚約者であった女性の親の家に下宿することになる。しかしアヴィグドルは、実はハダスのことが忘れられず、他の男性と一緒になるくらいなら、親友の君と結婚して欲しいと言い出す。そしてアヴィグドルは別の女性と結婚してしまう。実はイェントルはいつの間にかアヴィグドルのことを愛しており、悩んだ末に一度はハダスと婚約するが、不幸な結婚をしてしまいボロボロになってしまっているアヴィグドルの姿に自らの正体を明かし、ハダスと結婚するように勧め、去ってゆく。トランスジェンダーものというか、まるで少女漫画のような物語。

短い金曜日・・・敬虔な貧しい夫婦の、一年で最も日が短い聖なる金曜日の夜の出来事。つつしまやかだが、幸せな食事をして、愛を交わしたその夜に、一酸化中毒によって並んで天に召されてゆく様子を描いた、静かで忘れがたい余韻の物語。

 他の作品も、どれも粒ぞろいで、楽しめます。どの作品にも、バックグランドにユダヤ教の倫理観というものがはっきりとあって、それがどこかエキゾチックです。そして、こちらの想像のやや斜め上を、あれよあれよという間に、物語がさっさと進んでゆきます。しかしそれが実にスムースなのは、語りの上手さのせいでしょう。崇高さと猥雑さが何の違和感もなく一体となっているシンガーのすばらしい短編世界。ラテンアメリカの小説が好きな人には、きっと肌に合うんじゃないかという気がします。もちろん、あらゆる短編小説ファンにとっても。



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 鉄道をめぐる幻想小説、漫画、映像のメモです。
 怪奇、幻想、あるいはSFの分野のみです。幻想味のない、普通のミステリーは含まれません。
 ついでにいえば、物語の中にちょっと鉄道が出てくるだけというものではなく、ちゃんと鉄道が物語の中心にあるものだけです。
 一応なんとなくリストっぽい形にはしたいのですが、とりあえず今は思いついたものを並べただけで、数も少ないし、まだリストとしての体を成してません。
 ちゃんと調べれば、多分、ものすごく沢山あると思うので、不完全にも程があります。
 それはよく分かってます。
 もとより、万全を期すつもりはありません。書誌情報さえ碌にない、単なるウェブ上に置いた「個人的なメモ」という位置づけです。
 個人的に、鉄道関連の幻想怪奇小説というものがふと気になったので、なんとなく思い浮かんだものをピックアップしてみました。
 本来なら、手元のメモ帳にでも書いて、ある程度まとまったら色々と整理してからアップするべきなのでしょう。
 しかし別に研究をしているわけでもなく、ちょっとした興味から行っているもので、ウェブ上にアップした方がもしかしたらいろいろと良いこともあるかもしれないと思い、アップしてみます。
 たくさん同ジャンルのものを並べたら、何かが見えてくるかもしれないとも思いつつ。
 一生懸命に集めているわけでもありませんが、気がついたら、順次追加をしてゆこうと思います。 
 したがって、このカテゴリーにあるページは、流動的なものになる予定です。




小説

「列車が走っている間に 」 エリック ファーユ (「わたしは灯台守」収録 松田浩則訳  フィクションの楽しみ/水声社)
「列車081」 マルセル・シュオッブ (「怪奇小説傑作集4」収録 青柳瑞穂訳 創元推理文庫/東京創元社 )*他に多数、収録本あり。
動きの悪魔」 ステファン・グラビンスキ (芝田文乃訳 国書刊行会)
   一冊すべて鉄道をテーマにした短編集
    ・音無しの空間(鉄道のバラッド) 
    ・汚れ男
    ・車室にて
    ・永遠の乗客(ユーモレスク)
    ・偽りの警報
    ・動きの悪魔
    ・機関士グロット
    ・信号
    ・奇妙な駅(未来の幻想)
    ・放浪列車(鉄道の伝説)
    ・待避線
    ・ウルティマ・トゥーレ
    ・シャテラの記憶痕跡
    ・トンネルのもぐらの寓話

「信号手」 チャールズ・ディケンズ (「ディケンズ短編集」収録 小池滋訳 岩波文庫/岩波書店)*他に多数、収録本あり。
「待合室」 ロバート・エイクマン (「奥の部屋」収録 今本渉訳 ちくま文庫/筑摩書房  ほか)
「ミッドナイト・ミートトレイン」 クライヴ・バーカー (「血の本1」収録 宮脇孝雄訳 集英社文庫/集英社)
「地下鉄道」 コルソン・ホワイトヘッド ( 谷崎由依訳 早川書房)
「地図にない町」フィリップ・K・ディック (「地図にない町」収録 仁賀克雄訳 ハヤカワ文庫NV/早川書房 )
「メビウスという名の地下鉄」 A.J.ドイッチュ (「有栖川有栖の鉄道ミステリ・ライブラリー」収録 角川文庫/角川書店)
「4時15分発急行列車」 アメリア・B.エドワーズ (「有栖川有栖の鉄道ミステリ・ライブラリー」収録 角川文庫/角川書店)
「フラッシング行列車」 マルコム・ジェイムスン (ミステリマガジン1974/11 No.223収録 北沢勝彦訳 早川書房)
「トンネル」 フリードリヒ・デュレンマット (失脚/巫女の死 デュレンマット傑作選 増本浩子訳 光文社古典新訳文庫/光文社)
「列車」 ゾラン・ジヴコヴィッチ (「21世紀東欧SF/ファンタスチカ傑作集 時間はだれも待ってくれない」 高野史緒編 山崎信一訳 東京創元社)
「夢列車」 チャールズ・ボーモント (「残酷な童話」収録 ダーク・ファンタジー・コレクション7 仁賀克雄訳 論創社)
「地獄行き列車」 ロバート・ブロック (「ポオ収集家」収録 ハヤカワ文庫NV/早川書房)
「誰も降りなかった町」 モーリス・ルブラン
「レベル3」 ジャック・フィニィ (「レベル3 異色作家短編集13」 福島正実訳 早川書房) 
「北京の秋」 ボリス・ヴィアン (「ボリス・ヴィアン全集4」  岡村 孝一 訳 早川書房)
「妖精郷の囚われ人」(上下) アルジャナン・ブラックウッド (高橋邦彦訳 妖精文庫 月刊ペン社)
「ポスター」 イルゼ・アイヒンガー (「縛られた男」収録 眞道杉訳 同学社)
「列車」 ロバート・エイクマン (「怪奇小説日和」収録 西崎憲訳 ちくま文庫/筑摩書房)
「ゴースト・トレイン」(上下) スティーヴン・ローズ (古沢嘉通訳 創元ノヴェルズ/東京創元社)
「裏世界ピクニック」 宮沢伊織 (ハヤカワ文庫JA 早川書房)
「銀河鉄道の夜」 宮澤賢治 (青空文庫 ほか)
「押し絵と旅する男」 江戸川乱歩 (青空文庫 ほか)
「線路」 夢野久作 (青空文庫 ほか)
「乗越駅の刑罰」 筒井康隆 (「懲戒の部屋―自選ホラー傑作集1」 新潮文庫/新潮社 ほか)
「X電車でいこう」 山野浩一 (「鳥はいまどこを飛ぶか (山野浩一傑作選Ⅰ)」収録  創元SF文庫 東京創元社)
「逃走の道」 星新一 (「エヌ氏の遊園地」 新潮文庫 新潮社)
「ロストトレイン」 中村弦 (新潮文庫/新潮社)
「ともだち同盟」 森田季節 (角川書店)
「横浜駅SF」 柞刈湯葉 (KADOKAWA)
「鉄道員(ぽっぽや)」 浅田次郎 (集英社文庫/集英社)
「汽車を招く少女」 丘美丈二郎 (「丘美丈二郎探偵小説選Ⅱ」収録 論創社)
「赤い月、廃駅の上に」 有栖川有栖 (「赤い月、廃駅の上に」収録 角川文庫/角川書店) 
「機関車、草原に」 河野典生 (「たそがれゆく未来: 巨匠たちの想像力[文明崩壊] 」収録 ちくま文庫/筑摩書房 ほか)
「地下鉄に乗って」 浅田次郎 (講談社文庫/講談社)
「トロッコ」 芥川龍之介 (青空文庫)
「時間線下り列車」 清水義範 (「清水義範パスティーシュ100〈5の巻〉」収録 ちくま文庫/筑摩書房)
「空想列車」 阿刀田高 (角川文庫/角川書店)
「生家へ/作品2」 色川武大 (講談文芸文庫/講談社 ほか)


漫画

「銀河鉄道の夜」 松本零士 (奇想天外コミックス/奇想天外社 ほか)
「銀河鉄道999」 松本零士 (ヒットコミックス/少年画報社 ほか)
「漂流幹線000」 松本零士 (ヒットコミックス/少年画報社 ほか)
「てるみな」 kashmir (白泉社)
「恐怖列車」 日野日出志 (ヒットコミックス/ひばり書房 ほか)
「鉄道員」 イタガキノブオ (「ペーパーシアター」収録 青林堂)
「小さなカラの中」 竜樹諒 (SFマンガ競作大全集17/東京三世社)
「不安の立像」 諸星大二郎 (「不安の立像」収録 ジャンプ・スーパー・コミックス/集英社 ほか)
「ビーング&ロス」 模造クリスタル (イースト・プレス)
「east side line」 panpanya (「枕魚」収録 白泉社)


絵本

「イバラードの旅」 井上直久 (架空社)
「急行『北極号』」 C.V.オールズバーグ (村上春樹訳 あすなろ書房)


映像

「電車かもしれない」 (歌:たま / 映像:近藤聡乃)
「あけてくれ」 ウルトラQ28話
「幽霊電車」 (ゲゲゲの鬼太郎)
「城後波駅」 世にも奇妙な物語
「ホラー・エクスプレス ゾンビ特急地獄行き」
「幽霊列車」 (世にも不思議なアメージング・ストーリー)
「ウィロビー駅で下車」 (トワイライトゾーン)
「連れてきたのは誰」 (トワイライトゾーン)
「日野日出志の怪奇劇場 恐怖列車 」
「ポーラ・エクスプレス」(原作:オールズバーグ「急行『北極号』」)
仮面ライダー電王

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「黄金の眼に映るもの」 カーソン・マッカラーズ著 田辺五十鈴訳
講談社文庫 講談社刊

を読む。

 アメリカ南部の平時の駐屯地を舞台にした、文庫で140ページほどの中編小説。決して長くはないのだが、そのサイズの中に展開されている物語は、唸るほど濃密で、少なくとも倍の長さの小説を読んだような気分にさせられた。
 ことさら登場人物への感情移入を促し、見せ場をつくって盛り上げてゆくような小説ではない。これはマッカラーズの特徴らしいのだが、誰かに自分の視点を重ねることなく、淡々と群像劇を語ってゆく。余計な描写は一切ない。内容もさることながら、筆致も、濃密でありながら非常に乾いたものだった。
 この物語の中には、これといった主人公はいない。とは言っても、もちろん主な登場人物はいる。主要な登場人物は、大きく分けて二つのグループに分けられる。

 最初のグループは、どちらかといえば主役としての位置を与えられた、ペンダートン大尉サイドの三人。
 まずはペンダートン大尉。ウィリアムの上官である。彼はややインテリ風の人物として描かれているが、「個々別々の事実についての知識は随分あるのに、大尉はかつて自分の考えというものを持ったことがなかった」とされている。また彼には軽い盗癖がある。さらには、自らは自覚してはいないが、同性愛の傾向もあり、妻が不倫をしていると知りながら、その不倫相手であるラングドンに惹かれるものを感じている。後には、馬に翻弄された挙句、疲労困憊で草原に横たわっていた自分を素っ裸でまたぎ越していったウィリアム一等兵に心を乱される。自分ではそのことを否定しつつも、激しい葛藤を抱えることになり、愛憎半ばの態度に出るようになる。彼は色々と問題を抱えた、かなり不安定な人物として描かれている。
 それから、ペンダートン大尉の妻であるレオノーラ。彼女は「いささか頭が弱い」とはっきり書かれているが、別に白痴というわけではない。余り物事を深く考えずに、いま目の前にある現在の人生を謳歌する女性という感じ。ペンダートンのことは、やや見下している。美人で、派手なゴシップの対象になることもあったが、実は結婚までは処女だったほどで、その見た目ほどには奔放というわけでもない。もっとも、結婚後に関係を持ったペンダートンの上司であるラングドンとの不倫は、二年ほども続いている。社会的な規範からの逸脱を好むわけではないが、自分のつつしまやかな欲望には比較的忠実、といった程度だろうか。
 最後にウィリアム一等兵。この物語の中で、ジョーカー的な役割を持つ。彼は何を考えているのかわからない、非常にいびつな育ち方をしたらしい青年として描かれている。周りからは、多少不気味に見えているのだろう、友人も敵もいないが、本人は至って淡々とした日々を送っている。キャンディが好きで、しょっちゅう舐めている。幼い頃に女性に対する嫌悪感を植え付けられたらしいのだが、同性愛の傾向があるわけではなく、内に秘めた性欲の放出先を見失っている。そのため、偶然目にしたレオノーラに対して、ピーピング・トム的な行動に出るようになる。彼が、そのピーピング・トム的な態度から、次第に間合いを詰めて対象に近づいてゆく様子は、「ものすごく」不気味である。

 もうひとつのグループは、どちらかといえば脇役側の、ラングドン少佐サイドの三人。しかし、こちらはこちらで、非常に物語に複雑味を添えている。
 まずはペンダートンの上司であるラングドン少佐。レオノーラの不倫相手でもある。乗馬が上手く、自信家で、人の気持ちをわかろうともしないところがある。子供が11ヶ月で死んだ時のことも、大変だった程度にしか感じていない。妻の精神的な危機にも無関心な、自分勝手な男である。
 次にラングドンの妻であるアリソン。難産の末にやっと生まれた赤ん坊の死や、夫の不義をきっかけとして、精神的に病みつつあるが、それにも関わらず、この小説の中では最も親近感を感じる女性である。夫と別れて、召使のアナクレトとともに生活してゆこうと心の中で決めているが、実社会のことをあまり知らないため、頭の中に描かれているのは、実現しそうもない計画ばかりである。心臓に持病を抱えていて、物語の半ばで舞台から退場する。
 最後に、ラングドン家の召使である、フィリピン人のアナクレト。若い頃にラングドン家に拾われてから、ずっと彼らに尽くしてきた青年。特に自分に親切なアリソンのことを崇拝しており(女性として愛しているというわけではない)、彼女のためなら命すら投げ出しかねないほどである。脇役ではあるが、なぜか非常に印象に残る人物として描かれている。

 ストーリーは、むしろ上記の人物紹介から想像していただいた方がいいだろうと思うから詳しくは語らないが、この六人が互いに関わり合いながら、最後には悲劇的な結末を迎える物語である。正確には、もともとあった二つの家庭の不安定な状態が、ひとりの人間が入り込んできたことによって急激に沸騰したという感じか。物語が終わった時点で、二人の人間が死に(一人は殺され、一人は病死)、一人が姿を消している。マッカラーズはそうした物語を、醒めた筆致で淡々と綴ってゆく。その語り口に、物語の結末にはなんら不自然さを感じることもなく、必然的な結末であったと納得してしまう。そうして読み手の心に残されるのは、感動でもなければ面白かったという手応えでもない、何ともいえない茫漠とした感情である。しかしそうした荒い粒子を掴むような頼りない空虚さは、優れた文学作品を読み終えた時に、時折感じるものではないかと思う。
 小説としての完成度も見事だし、おそらくはゲイ小説としても名品の一つに入るのではないだろうか。ストーリーだけを取り出してみれば、仮に萩尾望都が漫画化したとしたら、似合い過ぎるんじゃないかと、ふと思った。
 ちなみに、(あまりセクシャリティの問題を持ちだして、この作品のことを語るのも野暮かもしれないが)作者のカーソン・マッカラーズには同性愛の傾向があったらしい。平凡社ライブラリーから出ている「レズビアン短編小説集――女たちの時間」には、彼女の書いたレズビアン小説の短編が収録されている。


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「マチルダ」 メアリー・シェリー著 市川純訳 彩流社刊

を読む。

 メアリー・シェリーといえば「フランケンシュタイン」と反射的に出てくるほど、彼女の名前はその怪奇小説史上最も有名な怪物を描いた小説と結びついています。それは、作中のフランケンシュタイン博士とその創造物である怪物の名前が同一視されがちなことと、どこか似ているようにも思えます。
 しかし、そもそもほとんどの人は、メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」以外の小説を書いたということさえ知らないのかもしれません。
 余りにも有名で、怪奇幻想にとどまらず世界文学史上に燦然と輝く「フランケンシュタイン」の陰に隠れて、ほとんど知られてはいないものの、それなりに有名な彼女の作品というものもあります。奇跡的に邦訳のある「最後のひとり」(森道子ほか訳/英宝社刊)はそうした作品のひとつで、これは疫病によって人類が死滅する未来を描いた破滅SF小説です(と偉そうに書きましたが、ぼくは、持ってはいるのですが、まだ読んでません……)。しかし、ブライアン・オールディスが書いた有名なSF通史「十億年の宴」の中で世界最初のSFとして挙げた「フランケンシュタイン」に対して、こちらは古典SFの文脈でたまに言及されるくらいです。他にも、邦訳のあるものとしては、角川ホラー文庫から出た「フランケンシュタインの子供」というアンソロジーの中に短編が二つほど訳出されていますが、これはそれぞれ「フランケンシュタイン」と「最後のひとり」のバリエーションに近いといった印象です。他にも雑誌に訳出された短編もあるようです。
 さて、この「マチルダ」は、メアリーが「フランケンシュタイン」を書いた翌年に脱稿した中編小説なのですが、生前は一度も陽の目を見ず、出版されたのはようやく1959年になってからという作品です。また、同時収録されている短編「モーリス」は、さらに時代が下って、1997年になって初めて発見された、メアリーが友人の娘のために執筆したという児童文学です。つまり、長らく多くの人の目に触れなかったいわくつきの二作品がセットになって収録された一冊というわけです。
 「モーリス」はともかく、「マチルダ」の方は、メアリー・シェリーを研究する上で、注目に値する作品といって良さそうです。というのもこの作品、父娘の(プラトニックな)近親相姦を扱いつつも、実は「愛の渇き」をはっきりとテーマとしているからです。ちなみに、メアリーの父というのが、最近白水Uブックスから再刊された小説「ケイレブ・ウィリアムズ」で有名な、思想家であり作家でもあるウィリアム・ゴドウィン。この作品は、脱稿したあとで父に見せたところ、二度と返してもらえなかったらしいです。そうして、結局出版はされなかった。内容もスキャンダラスだったし(しかし、この内容を自分の父に見せるかね)、ゴドウィンとしては、文学的にも満足のゆく出来栄えではないと判断したせいらしいです。実際、一読して、非常に興味深い作品だとは思いましたが、「フランケンシュタイン」に比べてしまうと、確実にかなり落ちる作品ではありました。全体にゴシックロマンの雰囲気の漂う小説です。

 内容を簡単に要約すると、以下のようなもの。ネタバレで面白くなくなるといった作品でもないので、当たり前のように核心にも触れます。

・・・・・

 物語は、冒頭で、まもなく死を迎えようとしている若き女性マチルダの手記という形をとっている。
 マチルダの父は、病弱な母と暮らしている、イングランドの裕福な貴族の息子だったが、母の死後、家を受け継いだあと、近所に住む裕福な家の娘ダイアナの恋愛結婚をした。ふたりは非常に仲睦まじく暮らしていたが、マチルダを産んだ母ダイアナは産後の肥立ちが悪く、まもなく亡くなってしまった。悲しみに暮れた父は、娘であるマチルダを伯母に預け、悲しみの家を出て行ってしまう。マチルダは伯母とともに、両親の顔を見ないままで成長してゆく。
 マチルダが16歳になった時、突然父から帰宅するとの知らせが届く。長い間、一度も会ったことのない父と会えることを夢見ていたマチルダは、その日を心待ちにして過ごす。そして実際に再会した彼女は、嬉しさの余り父親にべったりと懐くようになる。父も、彼女との再会を喜ぶ。ところが、ある時マチルダにどうやらちょっとした恋心を抱いたらしい男性が家を訪れる。その時から、状況は一変する。父が急にマチルダに冷たい態度を取るようになったのだ。理由が分からず、悲しみにくれたマチルダはどうしてよいのかもわからず、父にその冷たい態度を取る理由を何度も尋ねる。父は決して答えてはくれないが、やがて根負けして、ついに告白する。自分は娘であるはずのマチルダを男として愛してしまったのだということに気がついた、許されないことだから苦しんでいるのだ、と。おそらく父は、マチルダにかつての妻の面影を幻視していたようだった。当然マチルダはショックを受ける。もちろん受け入れることはできないし、父にもそんなつもりはない。互いの苦しみの果てに、やがて父は置き手紙を残し、マチルダを置いて、ふたたび一人で家を出てゆく。それを読んだマチルダは、父が死ぬつもりであることに気づき、追いかけるが、嵐の海にひとり出てゆき溺死した父と再会することになる。
 父の死にショックを受けたマチルダは、逃げるように家を引き払い、田舎に隠遁する生活を送るようになる。絶望の中で苦しみながら過ごすうちに、マチルダはウッドヴィルという一人の青年と出逢う。牧師の息子で詩人の彼は、婚約者を亡くしたばかりで、人生に絶望していた。人生に希望を見いだせない同士の二人は、互いに傷を舐め合うように交流をするようになる。しかし、恋人どうしになることはない。しかし、やがて、自死への誘惑に傾いてゆくマチルダに対して、グッドヴィルは強く生きてゆくことを選び、マチルダを励まそうとするが、マチルダはその彼の言葉に感謝と愛情を感じ、希望の光をみながらも、急速に体調を崩してゆく。そして冒頭に戻り、死を迎える。

・・・・・

 読みながら強く感じるのは、マチルダの埋めようのない心の孤独です。生まれてからずっと、彼女は親の無条件の愛を知らずに育ちます。彼女の育ての親である伯母も、マチルダには全く愛情を注ごうとはしません。唯一、乳母だけが彼女に強い愛情を注いでくれるのですが、その乳母も、マチルダが7歳の時に暇を出されて屋敷を去ってゆきます。そうして、夢にまで見た父との出会いと悲劇的な結末。「愛の渇き」というのは、アンナ・カヴァンの小説のタイトルにもありましたが、それが常にマチルダを苛み続けるのです。無条件の愛を知らない人は、自分を完全に肯定できずに育ちます。それゆえ、彼女に対して愛情を注いでくれようとしたグッドヴィルの思いにも素直に応えることが出来ずに、死にたくはないという気持ちを抱えつつ、死んでいってしまうのです。
 
 数ある怪奇幻想文学の中で、もしジャンル内でのオールタイムベストを決めるという投票があるとしたら、ぼくは躊躇いなくメアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」に一票を投じると思いますが、この「マチルダ」には、そうした完成度の高さは望めません。しかし、彼女が「フランケンシュタイン」という作品を生み出した背景に思いを馳せるとき、この作品が何かしらの灯火のような意味を持つ可能性はあるように思えます。メアリー・シェリーの生い立ちを眺めるとき、この作品と重なって見える部分が少なくはありません。あまり深読みはよくないのかもしれませんが、たとえばメアリーの母のメアリ・ウルストンクラフトは(メアリ・シェリーと同名です)「女性の権利の擁護」(1792年)を著した女権拡張論者で、メアリーを産んだ数日後に亡くなっています。また、メアリーが16歳の時に、父のもとに出入りしていた青年パーシー・ビッシュ・シェリーと恋に落ち、パーシーはその当時、別居状態ではあったものの妻帯者であり、また父ウィリアムにも反対されたことから、駆け落ちします。そうして、父娘の間には決定的な決裂がなされます。こうしたことは全て、メアリーが「フランケンシュタイン」を書くまでに起こった出来事でした。
 というわけで、そういった意味でも、非常に興味深い作品です。メアリーが「マチルダ」を書いた理由は、いったい何だったのか。メアリー・シェリーとウィリアム・ゴドウィンにとって「マチルダ」という作品はいったいどういう意味を持っていたのか。そういったことにも思いを馳せることができます。小説としては決して傑作ではないけれど、メアリ・シェリーという人物と傑作「フランケンシュタイン」を語る上で無視していい作品ではない。そういう作品だと思います。

 併録されている短編「モーリス」は、メアリが友人の娘のために書いた児童文学ということですが、内容的には、貧しい家を出て、海辺に暮らすやはり貧しいが思いやりのある漁師の家で暮らすようになった素直で優しい少年の物語です。父のように慕っていた漁師が急に亡くなって悲しみに暮れていたとき、その漁師の兄だという男がやってきて、この家は自分のものだから一週間以内に出てゆくように告げられて、途方に暮れていた少年のもとに、ひとりの旅人がやってきます。そして、その少年を自分のところに引き取ろうとしますが、話しているうちに、その子こそが実はかつて攫われてしまったその男の実の息子であることが明らかになります。実は赤ん坊の頃に攫われた裕福な家の生まれであったという、典型的な少女漫画的なハッピーエンドの物語です。読んでいて楽しいメルヘン的な小説で、悪い作品ではありませんが、この物語に関しては特にここで語ることもなさそうです。



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 今日は午後から本を詠みながら寝落ちしてしまっていたのですが、目が醒めたあと、ふと少し前にtwitterでラノベに飽きた学生向けということで、「新入生のための海外現代文学リスト(2018年版)」というのが流れてきていたのを思い出し、改めて眺めてみました。
 なかなか読み応えのありそうなラインナップだとは思いますが、正直、ちょっとハードルが高すぎるような気もします。ぼくもそれなりに海外文学は好きですが、リスト内に名前も知らない作家もいるし、鈍器めいたボリュームの本もあります(まあぼくが知らないのは、ハードルが高い理由にはならないかもしれませんが……)。
 もちろん、ラノベに飽きた、というのも色々な形が考えられるわけで、例えばそれなりに本は読んできているけれど、最近はついラノベばかりに手を伸ばしがちだった、でも久々にもう少し読み応えのある文学的な本も読みたいと思っている人向けなのか、それとも、これまでラノベ以外の本はほとんど読んできていなかったけれども、そろそろ大学生だし、さすがにそれじゃまずいから、普通の文学作品の面白いやつをよんでみようかなと思っているのかによっても違ってきそうです。前者ならともかく、後者の人にいきなり「これが読めたら一人前だよ」とばかりに『重力の虹』を渡したり、「ちょっと厚いけど面白いよ」と『2666』を両手で渡したりするのはほとんど嫌味でしょうね。
 で、なんとなく寝ぼけた頭で、自分だったら何を勧めるだろうと考えながら、メモ帳に思いつくままにバラ打ちしたのが下のリストです。自分の読んできた本の中からだけだから、偏っているし、もともと胸を張ってのリストアップではありませんが(急ごしらえで、吟味したものでもありませんし)、どれも読んでよかったものばかりです。100冊は面倒なので、50+4冊です。+4冊は、ちょっと趣味のSFに寄りすぎているので、入れるのをためらったけど、本当は入れたかったものです。
 想定しているのは、「これまで日本作家のエンタメ作品やベストセラー作品などはそれなりに読んできていて、読書には抵抗がないけれども、海外の作家の作品はほとんど読んだことがなく、ちょっと読んでみたいと思っている18,9歳くらいの学生におすすめできる、読んでいてそれなりに楽しめて、なおかつ文学性を感じられるもの、言い換えれば違った視点に気付かされる驚きのある作品で、かつそんなに長くないもの」です。




ジャン・コクトー「怖るべき子供たち」 (東郷青児訳/角川文庫)
アーダベルト・シュティフター「水晶」 (手塚富雄訳/岩波文庫)
リチャード・ブローティガン「西瓜糖の日々」 (藤本和子訳/河出文庫)
ボリス・ヴィアン「うたかたの日々」 (伊藤守男訳/ハヤカワ文庫epi、ほか)(「日々の泡」曽根元吉訳のタイトルでの邦訳もあり)
ホルヘ・ルイス・ボルヘス「伝奇集」 (鼓直訳/岩波文庫)
アーネスト・ヘミングウェイ「日はまた昇る」 (大久保康雄訳/新潮文庫)
サキ「サキ短編集」 (多数あり)
アンブローズ・ビアス「ビアス短編集」 (大津栄一郎訳/岩波文庫)
イサク・ディネセン「冬の物語」 (横山貞子訳/新潮社)
トルーマン・カポーティ「夜の樹」 (川本三郎訳/新潮文庫)
サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝訳/白水Uブックス)
レイ・ブラッドベリ「火星年代記」 (小笠原豊樹訳/ハヤカワ文庫)
アーサー・マッケン「夢の丘」 (平井呈一訳/創元推理文庫)
レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」 (清水俊二訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)(または、「ロング・グッドバイ」 村上春樹訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)
スタニスワフ・レム「ソラリス」 (沼野充義訳/ハヤカワ文庫SF)
ポール・オースター「最後の物たちの国で」 (柴田元幸訳/白水Uブックス)
スティーヴン・ミルハウザー「マーティン・ドレスラーの夢」 (柴田元幸訳/白水Uブックス)
ガルシア・マルケス「百年の孤独」 (鼓直訳/新潮社)
ジーン・リース「サルガッソーの広い海」 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-1収録/小沢瑞穂訳/河出書房新社)
シャーリー・ジャクスン「丘の屋敷」 (渡辺庸子訳/創元推理文庫)
ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」 (多数あり)
ポール・ボウルズ「シェルタリング・スカイ」 (大久保康雄訳/新潮文庫)
カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」 (浅倉久志訳/ハヤカワ文庫SF)
ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」 (上田真而子, 佐藤真理子共訳/岩波書店)ハードカバー版
トーベ・ヤンソン「ムーミンパパ海へ行く」 (小野寺百合子訳/講談社文庫)
ウラジミール・ナボコフ「ロリータ」 (若島正訳/新潮文庫)
マルセル・シュオッブ「黄金仮面の王」 (大濱甫訳/国書刊行会) 
アンデルセン「絵のない絵本」 (多数あり)
エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」 (土屋哲訳/岩波文庫)
イルゼ・アイヒンガー「より大きな希望」 (矢島昂訳/妖精文庫、あるいは、小林和貴子訳/はじめて出逢う世界のおはなし)
ヤン・ポトツキ「サラゴサ手稿」 (工藤幸雄/世界幻想文学大系)
ダフネ・デュ・モーリア「レベッカ」 (大久保康雄訳/新潮文庫)
アントニオ・タブツキ「供述によるとペレイラは」 (須賀敦子訳/白水Uブックス)
ジョン・ファウルズ「魔術師」 (小笠原豊樹訳/河出文庫)
ウィリアム・ゴールディング「蝿の王」 (平井正穂訳/新潮文庫)
ジャック・ロンドン「マーティン・イーデン」 (辻井栄滋訳/本の友社)「ジャック・ロンドン自伝的物語」のタイトルの晶文社版もあり
フィレンツ・カリンティ「エぺぺ」 (池田雅之訳/ 恒文社)
ウィリアム・ベックフォード「ヴァテック」 (私市保彦訳/国書刊行会)
E.T.A.ホフマン「ホフマン短編集」 (池内紀訳/岩波文庫)
ジョージ・オーウェル「1984年」 (高橋和久訳/ハヤカワ文庫epi)
アゴタ・クリストフ「悪童日記」 (堀茂樹訳/ハヤカワ文庫epi)
ジュール・シュペルヴィエル「火山を運ぶ男」 (嶋岡晨訳/妖精文庫)
メアリ・シェリー「フランケンシュタイン」 (多数あり)
マルグリット・デュラス「モデラート・カンタービレ」 (田中倫郎訳/河出文庫)
アンナ・カヴァン「氷」 (山田和子訳/ちくま文庫)
ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」 (池田香代子/みすず書房)
W.G.ゼーバルト「移民たち」 (鈴木仁子訳/白水社)
サン=テグジュベリ「人間の土地」 (堀口大学/新潮文庫)
ロード・ダンセイニ「時と神々の物語」 (中野好夫訳/河出文庫)

+4

フィリップ・K・ディック「暗闇のスキャナー」(山形浩生訳/創元推理文庫)
J.G.バラード「楽園への疾走」 (増田まもる訳/創元推理文庫)
グレッグ・イーガン「ディアスポラ」 (山岸真訳/ハヤカワ文庫SF)
テッド・チャン「あなたの人生の物語」 (浅倉久志、ほか訳/ハヤカワ文庫SF)





 上のリストで、サキの短編集は、いろいろな編集版が出ていますが、とりあえず薄い岩波文庫でいい気がします。ビアスも、実は多くの編集盤が出てるのですが、一応岩波版を挙げました。でも、光文社古典新訳文庫でも、創元推理文庫でもいいと思います。また、他にも複数の版があるものが多々ありますが、基本的に何でもいいと思います。ただし、敢えて文庫名や訳者名を絞って記しているものは、(現行版ではなく絶版のものもありますが、個人的な趣味で)そちら推奨です。
 もともとの記事では、ここ50年に限定してますが、意外と古典のほうが読まれていない気もするので、その縛りは無視しました。『フランケンシュタイン』とか、有名だけれど、どれだけの人が読んでいるのか、疑問です。
 さほど目新しいリストでもなさそうですが、ちょっとしたお遊びのつもりで、読書の参考になれば。


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 最近読んだ本をいくつか、まとめて感想を。


⚫ステファン・グラビンスキ「火の書」 (芝田文乃訳/ 国書刊行会)
⚫ステファン・グラビンスキ「動きの悪魔」 (芝田文乃訳/ 国書刊行会)

 「奇妙な世界の片隅で」のkazuouさん主催の読書会に参加したのだが、そのテーマのひとつがこのグラビンスキだった。ちょっと急いで読んだので、味わって読み込んだというわけにはゆかなかったのだが、英語圏の幻想怪奇小説とは明らかに違う味わい。帯の惹句の「ポーランドのポー、ポーランドのラヴクラフト」という煽り文句はいまひとつよく分からなかったけれど(ポーの影響はまあ感じられたけれど、この二冊を読んだ限りでは、ラヴクラフトはちょっと無理筋だと思う。科学趣味ならポーにも多分にあるし、ラヴクラフトとは全然違う気がする。まだダンセイニの方が。どちらかといえば、ベルギー幻想派のトマス・オーウェンとか、ジャン・レイとか、そっちに近い印象)、ユニークな作家であることは十分に伝わってきた。
 「火の書」は炎、「動きの悪魔」は鉄道と、それぞれ統一されたテーマに沿った短編が集められた作品集。今ではこうした、ある具体的なテーマのもとで作られた作品集というのは珍しくもないけれど、20世紀初頭という時代では、よくは知らないけれど、あまり沢山はないのでは。これは、ひとつのテーマを決めてしまえば、そこからいくつものバリエーションのあるアイデアが生み出せるということで、そういった意味でも、ポーランド文学史上ほぼ唯一の怪奇小説のジャンル作家と呼ばれるように、プロフェッショナルな作家だったのだなと思う。
 「火の書」では「白いメガネザル」「火事場」「有毒ガス」などが印象に残り、「動きの悪魔」では「機関士グロット」「トンネルのもぐらの寓話」が特に印象に残ったが、全体的には「動きの悪魔」の方がより興味深く読めた。個人的に、鉄道をテーマにしたホラー小説(や漫画)というものに興味があるので、この本はどちらにしても近いうちに読もうと思っていたから、よい機会だったし、余計に興味深く感じたのだろうと思う。
 難点をいえば、どちらの作品集も、やや展開がパターン化されているところがある作品がいくつかあるということと、これは原文のせいか訳文のせいかわからないのだが、ややひっかかる文章が多くて、内容の平易さの割にはちょっと読みにくいと感じることがある点か。しかし、こうしたまだ日本ではほとんど知られていない異色の作家が紹介されるというのは非常に嬉しいことだと思った。


⚫ジャック・ケッチャム「隣の家の少女」 (金子 浩訳/ 扶桑社文庫/扶桑社)

 最近亡くなったジャック・ケッチャムだが、読むのはこれが初めて。最初にこれを選んだのは、「厭な後味の小説」といえば真っ先にこれが挙がってくるほど、非常に有名な鬱小説らしいから。初めて読む作家の作品なのだから、一番有名なのを読もうと思ったわけである。
 しかし一読してみて感じたのは、確かに酷い小説には違いなかったが、覚悟していたような嫌な気持ちにはならなかったということ。実話をもとにした作品ということで、そう思うと確かに嫌なものはあるけれども、小説としては、非常にちゃんとしていた。単にショッキングさを狙っただけの小説という印象は受けなかった。メグの造形もよかった。メグがひたすら悲惨な目にあってゆくというのを読まされ続ける小説だというのに、なぜか彼女の最後まで気高い姿に救いにも似たものを感じてしまう(非常に難しい表現ですが)。これが、この作品とただ単に嫌な気分にしかならない凡百の二流小説とを分かつ点なのだろうと思った。


⚫ウラジミール・ナボコフ「セバスチャン・ナイトの真実の生涯」 (富士川義之訳/ 講談社文芸文庫/講談社)

 ナボコフがはじめて英語で書いた小説。語り手が、自分の兄であり作家であるセバスチャン・ナイトの伝記を書くために、兄の足跡を辿ってゆくという物語。メタ・フィクションとして読もうと思えば、様々な解釈が成り立つだろうし、そうではなくて普通に書かれたままの小説として読もうと思えば、そのまますんなりと読めてしまうという作品で、内容的には特に難しくもないのだが、そこはナボコフで、単にストーリーを追うだけだとさほど面白くはなく、細部をじっくり見てゆこうとして初めて面白さがにじみ出してくるという印象。ナボコフによる小説論、あるいは実際には存在しない作品の解説など、細かく見ていけば興味深いところが沢山ありそうだ。しかし、今回ぼくはさらりと読んだだけだったので、あまり多くを語る資格もなさそうである。ただひとつ。

「いかなる物質であれ、物質の同一性というものが存在するのだ。唯一の真実の数は一であり、残りの数は単に一の繰り返しにすぎない」

という有名な言葉。以前何かで引用されているのを読んだことがあって、記憶に残っていたのだが、その引用元はこの小説であったのかと、今回気付いた。


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 最近、ちょっとブログの更新をしていない気がしますが、本を読んでいないわけではなく、今年に入ってからtwitterを平行してやっているため、そちらに「読了」と書いてしまうと、なんだかちょっと満足してしまって、こちらに長文をまとめるのをついさぼってしまうのです。結構たまってしまっているので、とりあえずは最近再読した本のタイトルと、ちょっとした感想を。

ヤン・ポトツキ「サラゴサ手稿」 (世界幻想文学大系/国書刊行会)

 ポーランドの貴族ヤン・ポトツキによって、もともとはフランス語で書かれた小説だが、その原本であるフランス語版は一部が失われてしまっているため、現在ではポーランド語に翻訳された版でしかその全貌を覗うことができない、いわば「失われてしまった書」なのだが、そのポーランド語版も後の編者たちによって手が入っているらしく、未だに決定稿というものがないという、本の成立課程そのものが伝説めいた奇書。千夜一夜物語風の、東洋趣味の感じられる、入れ子構造になった物語で、夜明けごとに一つの章が終わる。原本では全部で66夜まで物語は続くのだが、邦訳は14夜までの抄訳。著者生前に刊行されたのが13夜までだから、ほぼそれに倣ったというたてまえになっている。一応この本を翻訳された工藤幸雄さんは全部を訳し終えているらしく、過去に何度も東京創元社から完全版の刊行予告があったが、結局いまだに出版されていない。最近では国書刊行会などから5千円ほどの本も普通に刊行されており、強気な値段にも関わらず本好きからは概ね好評で、それなりに売れているようだから、多少高い値段設定にしてもきっとある程度売れるはずだとは思うのだが、ここ数年はオオカミ少年的な刊行予告さえないし、訳者の工藤さんもとっくに亡くなっているから、もう諦めた方がいいのかもしれない……。
 現在読める範囲内では、内容的には、簡単に言えば以下のようなもの。
 そもそもこの書は、ある廃屋から発見された手記という体裁をとっている。手記の中で、主人公であるアルフォンスという勇敢な兵士が、宿の主人の忠告を振りきって、自らの勇敢さを頼み、ゾゼを首領とする盗賊一味が捕まって絞首刑にされて見せしめのためにそのまま吊るされているという峠を越えようとするが、その途中の宿で夜毎艷やかな、自分の遠縁にあたるというイスラムの女性二人にかどわかされ、朝がくると絞首刑にされた二体の死体(男)とともに横たわっているということを繰り返す。途中、出てくる登場人物たちによっていくつもの物語が紡がれるが、結局のところ、アルフォンスの行軍は一向に先へとは進まない……。
 キリスト教者であるアルフォンスを誘惑するのがイスラムの美女たちであり、アルフォンスの首からかかっているロザリオを怖れ、なんとかして外させようとするということから、イスラムとクリスチャンとの争いという構図や、イスラムを邪教とみなす意図なども透けて見える。また、夜が明けると廃屋に寝ているというあたり、「雨月物語」の「浅茅が宿」などをちょっと思い出させるところがある。
 この作品は映画化もされていて、割と評判がいいようなのだが、ぼくは観ていない。「奇妙な世界の片隅で」のkazuouさんによると、映画は最終夜まで描かれているということ。途中から入れ子構造が加速し、行き着くところまで行ったところで、急速に畳まれてゆく様が圧巻だとか。奇跡的に日本語字幕のDVDが出ているようなので、ぜひ観てみたいものだと思った。



小田雅久仁「本にも雄と雌があります」 (新潮文庫/新潮社)

 第三回twitter文学賞を受賞した作品。語り手である土井博が、祖父である深井與次郎の生涯と「幻書」について、息子の恵太郎に向かって饒舌に語りかけるというスタイルをとっている。作品中の主人公は與次郎だが、この「主人公が祖父の物語を息子に語る」というスタイルそのものが実は一つの仕掛けにもなっている。
 「幻書」とは何か。本には実は性別があって、その雄本と雌本のあいだに、ごくたまに、この世に本来存在しないはずの本が生まれることがある。それを「幻書」というが、本来は存在しないはずの書物である。「幻書」は、放って置くとどこかへ飛び去っていってしまうのだが、象牙の蔵書印を押すことによって一時的な支配下に置くことができる。「幻書」が生まれるためには、膨大な蔵書が必要となる。そうして、幻書が生まれるほど本を愛した人の中には、その死後にボルネオのキナバル山にある「ラディナヘラ幻想図書館」の司書として登用される人もいる。象牙の蔵書印を押された幻書が集まり、巨大な白い象となって、主人を乗せてラディナヘラへと連れてゆくのである。ここには、ありとあらゆる書物が集められている。アリストテレスやグーテンベルグも、死後にはその図書館の司書として召され、そこで働いている。ちなみにこの作中では、人は死ぬと一冊の本になり、この世界の果ての書架へと飛んでゆき、背を「向こうに向けて」、配置されるとされている。そうしてこの世界の外側に存在する「誰か」に貸し出されるのを待っているのである。
 「幻書」には予言の書も存在する。それを悪用した代表的人物としてヒトラーが挙げられている。また、「語られなかった物語」が幻書として生まれることもある。主人子の與次郎はずっと日記をつけているのだが、第二次大戦に従軍していた間だけはその日記が欠けている。與次郎は死ぬまで、自らその従軍していたときに何があったのかを語ろうとはしなかった。しかし、ないはずのその間の日記が、「幻書」として存在しているのである。その部分が、この小説のひとつの読みどころにもなっている。物語の最後に、與次郎のライバルの釈苦利が最初に手に入れた幻書こそが恵太郎の自伝であることが明かされ、全てが実は彼の手のひらの上で踊らされていたことであることが示唆されるが、さらにその先で仕掛けがあって、與次郎はさらに幼い頃、一冊の本幻書を断片的にではあるが、見ていたことが明かされる。そのタイトルこそが「本にだって雄と雌があります」――
 全体の語り口は、町田康などにも通じるような、饒舌体ともいうべきスタイルで、読みながら何度も笑ってしまうのだが、語られる内容は結構重く、非常に読み応えがある。終盤にかけて物語が二転三転しながら、最後にピッタリと収まって物語が全貌を現してゆく様子は感動的だった。


野崎まど「小説家の作り方」 (メディアワークス文庫/アスキー・メディアワークス)

 「この世でいちばん面白い小説」をめぐる物語。小説家の物実のもとに、「この世でいちばん面白い小説のアイデアを思いついたから、小説の書き方を教えて欲しい」と頼みにやってきたのは、5万冊もの小説を読んだという美人女子大学生。物語はやがて、思いもかけない展開を見せ、自我を持ったAIをめぐるSFになってゆく。この作品ですごいのは、というより野崎作品ではしばしばあることだが、完璧に近い芸術の破壊力。なんと、AIが書き上げた「この世でいちばん面白い小説には一歩届かない作品」でさえ、読んだ人間を変質してしまい、人としての姿を保てなくしてしまうのだ。ちょっと意味がわからないと思うが、読んでいるとなんとなく納得させられてしまう。
 さらにすごいのは、実はこの作品、おなじメディアワークス文庫でそれまで出ていた

「[映]アムリタ」
「舞面真面とお面の女」
「死なない生徒殺人事件 〜識別組子とさまよえる不死〜」
「小説家の作り方」
「パーフェクトフレンド」

と同じ時間軸の中にあって、他の四作とともに、この後に書かれた「2」というボリュームのある作品の前日譚となっているということ。それぞれが完全に独立した作品なので、まさかこんな芸当ができるとはと、予備知識が全くなかった分、非常に面白かった。まあ、ここで完全にネタバレしてしまいましたが(笑)。



久世光彦「一九三四年冬―乱歩」 (新潮文庫/新潮社)

 話の骨格は、だいたい以下のようなもの。
 昭和9年冬、乱歩は連載中の小説「悪霊」が暗礁に乗り上げたことで、そこから逃れるために麻布の「張ホテル」という、中国人の美青年が働く洋風ホテルに身を潜める。都会の中での失踪である。そのホテルには、探偵小説マニア(自力でバーナビー・ロスがエラリー・クイーンと同一人物であると推測するほど)の人妻ミセス・リーなどもいる。乱歩の部屋は202号だが、隣の201号は空き室にも関わらず、何かの気配がある。乱歩はその、どこか現実と非現実の狭間にあるようなホテルで、「梔子姫」というエログロの短編小説を執筆する。
 乱歩のエッセイなどを読み込んで書かれた作品のようで、乱歩ファンには面白いのではないだろうか。乱歩の造形が、どことなくチャーミング。また、乱歩がシコシコと書いていた作中作の「梔子姫」という短編は結構な奇想で、文体は乱歩らしいといえば言えるのかもしれないが、発想的には、どちらかといえば山田風太郎っぽい気もした。そういえば、風太郎は乱歩を師のように仰いでいたはず。もちろん、作中作の「梔子姫」という作品は、乱歩にはない。
 小説自体は、「うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと」の乱歩の言葉を反映してか、現実と夢のあわいにあるものになっていて、明確な解決や結末はない。物語全体に漂う夢幻に身を委ねるようにして楽しむ本だろうと思う。文体はとても心地よい。



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「地下鉄道」 コルソン・ホワイトヘッド著 谷崎由依訳 早川書房刊

を読む。

 第8回twitter文学賞(海外)を受賞。
 あちらこちらで話題になっているので、あらすじはいまさらの感があるが、ひとことで言ってしまえば、コーラという黒人奴隷の娘が、ひどい扱いを受けていたアメリカ南部の農場から一人の少年とともに逃げ出し、地下を走る鉄道に乗って北部を目指すという物語である。地下を走る鉄道という、想像上のガジェットを使っているせいか、なぜかアーサー・C・クラーク賞を受賞しているが、SF味は全くといっていいほどない。ひたすら重い、黒人奴隷の被虐の歴史を、いやそのほんの一角を、テーマに据えた作品だった。
 黒人奴隷のことについては、ぼくは通り一辺のことくらいしか知らない。日本で普通に生きていては、知る機会の方が少ないはずである。アメリカにおける黒人に対する虐待について、思い出せる限り最も古い衝撃は、ビリー・ホリデーの「奇妙な果実」の歌詞の意味を知った時だったと思うけれども、ぼくがその事を知った頃にはヒットチャートにはかっこ良く「スリラー」や「ビート・イット」を踊るマイケル・ジャクソンが君臨しており、正直実感なんてなかった気がする。日本ではそんな差別問題なんてないのにな、と気楽に考えていた。
 しかしこの中に書かれている差別は、差別などという生易しい言葉では表現できるものではない。虐待という言葉でさえ、生ぬるく感じるほどの、圧倒的な一方的な暴力である。
 白人は、黒人奴隷を、煮ろうが焼こうが、自由にできる。なぜなら黒人奴隷には人権などなく、単なる金銭で売り買いできる所有物であるからだ。一方黒人奴隷は、白人の主人には何一つ逆らう権利を持たない。そもそも奴隷には、権利などというものは存在しないからだ。

 最近、ダウンタウンの浜田が年末の特番で黒塗りをしたことが物議を醸したことがあった。日本人の感覚なら、さほど問題になるほどのことではないように思える。かつてシャネルズというグループがあって、靴墨で顔を黒く塗っていたことがあったのを覚えている人も多いから、なおさら。もっともシャネルズは、ある番組でフィッシュボーンという黒人グループにものすごい目で睨まれてから黒塗りをやめたらしい。当時、急にやめたのはなぜだろうと思っていたのだが、そういう体験をして初めて、もしかしたらこれはやっちゃいけないことなのかと思ったのだろう。黒人によっては、そんなことを気にしなくてもいいと言う人も大勢いるだろうが、こういう歴史が背景にあるとなると、そんな固いことを言わなくても、とは言えなくなることも分かる。なぜ黄色人種にまでバカにされなくてはいけないんだ、という怒りである。そういう感情が矛盾を孕んでいるにしても、である。
 日本に観光でやってくる白人のほとんどは、そうした差別意識とは無縁だろうと思う。しかしすべてではないし、たとえば軍人としてやってくる白人の中には、そうした日本人を蔑む意識のあるひとが少なくない。ぼくが忘れられないのは、フィジーの島に旅行に行ったとき、浜辺でつまらなさそうにしている白人の子供がいたので、楽しく遊んであげていたら、しばらくして両親がやってきて、ひどく冷たい態度で、子どもたちを連れて行ってしまった時だ。あの時の「見下げられた」という直感は忘れられない。子どもたちは、南アフリカからバカンスにやってきたと言っていた。言うまでもなく、アパルトヘイトの国である。
 日本では、有色人種に対する差別はないかもしれない。しかし、誰もが知っているように、アジア圏の人々に対する蔑視はかなり激しいものがある。関東大震災時の朝鮮人の大虐殺がそうだし、根深い中国叩きがそうだ。安倍政権になって、ネトウヨが暴れるようになってから、さらに酷くなった。最近、コンビニなどで外国人が働いている姿をやたらと見かけるようになったが、頭の悪そうな日本人のバイトが、外国人のバイトを非常に邪険に扱う姿もよく見られる。普通に考えれば、外国でその国の言葉をたどたどしいながらも話し、同じ仕事をしている彼らの方が、よほどスペックが上なのだろうと思うのだが、気がついていないらしい。それに、日本における女性の地位の低さも異常だ。自分の実感としては、「使えない男ほど使えない女はいない」のだが……。

 何の話をしていたんだっけ?
 ビールを飲みながら書いていたんで、ちょっと暴走してしまった気がする。
 そうだ、差別と虐待の話だ。
 差別と虐待が許されている状況には、実際には何の根拠もない。加虐者が勝手に振りかざす理屈を、被虐者が受け入れているにすぎない。いや、受け入れさせられているにすぎない。そうはわかっていても、既に社会のしくみとして成立してしまっているその現実から個人が自由になることは難しい。
 地下を走る列車のように、窓から見える景色は漆黒の闇に塗られていたとしても、少しづつ先へと、光のある「はず」の方へと進んでゆくこと。
 この物語の中で、コーラが出会い、彼女に助けの手を差し伸べてくれた人々は、ほとんどが悲劇の死を遂げてしまった。それでも彼女は先へ進まなければならない。自分がいなければ彼らは死ななくても済んだかもしれないという負い目を抱きながらも、なお先へ。
 なぜなら、彼女の進む道こそが、この先、未来へと多くの乗客達を連れてゆく、地下鉄道の一つの支線なのだから。


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「アダムとイヴの日記」 マーク・トウェイン著 大久保保博訳
福武文庫 福武書店刊

を読む。

 エデンの園でのアダムとイヴの馴れ初めを、アダム視点からとイヴ視点から語った、二部構成の長編。前半が、自分本位でちょっと頭が悪そうなアダムの日記で、後半がアダムよりはずっと情感豊かで、やや哲学的とも言えるような自分への問いかけを続けるイヴの日記。分量的にはほぼ同じだが、アダムの日記は内容がスカスカなので、すぐに読めてしまう。けれどもただ軽いというわけでもなく、読みながら、そうそう男ってこういうところのある生き物だよなと、自嘲的に頷いていたりしてしまう。
 対して後半のイヴの日記は、女性が読んでどう思うのかはわからないけれども、男性には女性が時としてこのように見えることがあるなと思った。そんなことを言うと、女性には鼻で笑われるかもしれないとも思わなくもないけれども、あとがきの部分で、もともと旺文社文庫から出ていたこの本を福武文庫で再発しようと強く働きかけたのが女性編集者であったということから、女性にも一定の共感は得られる本であることも確かだと思う。
 ともかく、世界で最初の純愛の物語。文豪マーク・トウェインの手による物語だから、大量に収録されているイラストとともに、肩の力を抜いて楽しめるはず。

******

 ところで、この前の日曜日、久々に横浜の根岸森林公園へと出かけました。以前はたまに寄っていたのですが、気が付くともう何年も訪れていませんでした。ここには小さな梅園があって、ちょっとした梅見もできるのですが、残念ながら、満開の梅の花とはゆきませんでした。時期がずれているというのではなく、花付きが悪いという感じ。夏や冬の気候は、樹々に大きな影響を与えるようです。それでもしばらくビールを飲みつつ、花見を楽しみました。
 ところで、この根岸森林公園にはもうひとつ、とっておきの名所があります。それが「根岸競馬場一等馬見所」という建物(正確には廃墟というべきでしょうか)です。
 Wikipedia等によると、この「横浜競馬場」の歴史は幕末の1866年に遡ります。横浜の外国人居留地の娯楽施設として建設され、翌年から競馬に使用されました。競馬場は、第二次大戦の激化に伴い1942年に休止され、終戦に伴って米軍に接収されます。日本政府に施設の大部分が返還されたのは1969年になってから。しかし、米軍施設に隣接している上に、周囲の環境も変わってしまっていることから、再び競馬場として利用されることはなく、公園として整備されることとなった、ということです。



 さて、こうした歴史を経て、「根岸競馬場一等馬見所」は、その横浜競馬場の、唯一残された遺構となっています。もっとも、現在完全に放置されながらも建っているのは関東大震災後の1930年にアメリカ人の建築家J.H.モーガンの手によるものではあるけれども、まるで外国の映画の中に出てくるようなゴシッキーな建物が広い公園を見下ろすかのように建っているのだから、遠くからでも、ものすごく目立つ。近くに立つと、ものすごく入ってみたくなります。枯れた蔦が、まるで毛細血管のよう。
 しかし、残念なことにこの建物、一般公開は一切されていないんですよね。近代化産業遺産にも認定されているから、整備し直そうという話もないわけではないようなんですが、莫大な予算が必要ということで、まったくそれ以上話は進んでいないようです。周りは有刺鉄線や監視カメラでしっかりガードされています。さらに言えば、正面の「馬見所」の部分は米軍の敷地に直接面していて、回りこんで眺めることさえできません。米軍が見張っていると思えば、当然、ちょっとこっそり入ってみようかという気持ちも挫かれるわけです。



 それでも、ネットには少しですが、内部の写真をがアップされているようです。例えば在日フランス人写真家Jordy Meowさんは、(もちろんいけないことでしょうが)中に忍び込んで、写真を撮り、ウェブに公開しています(URL)。やや加工はしているようですが、見れば見るほどやっぱり入ってみたくなりますよね。もちろん、そんな度胸はありませんけどね。

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「ストーナー」 ジョン・ウィリアムズ著 東江一紀訳 作品社刊

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 なんとなく手に取って読み始めたのだが、気が付くとやめられなくなっていて、一気に読んでしまった。これは、第一回日本翻訳大賞の読者賞を受賞した作品だという。さもありなん。物語も、訳文も、すばらしかった。
 ネット上でも、帯でも、さんざん言われているように、ひたすら地味な小説。ついでに言えば、本の装丁そのものも地味。しかし、じっと目を凝らすと、そこには何層にも重なった、豊かでどこか柔らかい寂しさの層が見えてくる。その寂しさはことさら作り上げられたものではない。長く生きていれば誰の心の中にも生まれるような、本質的な寂しさであるように思う。
 ストーナーというのは、主人公の名前。貧しい農家の一人息子として生まれたが、ある時両親から、大学に入ることを勧められる。農学部である。郡の農事顧問から、ストーナーをコロンビア大学のミズーリー大学に新しくできる農学部に入れてはどうかと提案されたらしい。おそらく、ストーナーが学校で優秀だったのだろう。父親は、農業ももうかつてのようではなくなりつつあるということを肌で感じているらしく、貧しいながら、大切な働き手でもある息子の大学進学を後押ししようと考えたのだ。そうして大学に入学したストーナーは、アーチャー・スローンという英文学の教授と出会ったことから、文学に開眼する。そして、両親への後ろめたさを感じつつも、農学から英文学の課程へと移ってゆく。学校では、仲のよい友人も得る。やがて、母校で講師の仕事に就く。
 物語は、そのストーナーが、結婚をし、子供を得、その結婚が失敗であったことを知りながら離婚もせず添い遂げ、後になって学校へとやってきた教授には生涯陰湿に敵視され続け、つかの間の優秀な女子学生とのロマンスがあるがそれもひっそりと終わり、やがて病に冒されて死を迎えるという、それだけの話である。ごく普通の、どちらかと言えばさえない教師の物語。しかし、読んだひとには分かると思うが、決して「それだけ」ではないのだ。これは、上手く説明できない。しようとしても、誰の人生にもそれぞれドラマがあるとか、そうした凡庸な言葉にしかならない。雪が静かに降り積もってゆくような、簡潔かつ美しい文章で、淡々と単行本一冊分の分量で語られるストーナーの物語は、ストーリーの枠外から、シンプルだが、非常に豊かなものを語りかけてくる。
 本を閉じて、じっとカバーを見詰める。柔らかい紙質の、オフホワイトのジャケット。しかしその白さの中には、微妙な陰影がある。そして、今にも消え入りそうな、本のシルエットが見える。この物語をに相応しい、優れた装丁だと思う。


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「伝授者」 クリストファー・プリースト著 鈴木博訳
サンリオSF文庫 サンリオ刊

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 今ではSF作家の枠を超えて支持されているプリーストだが、その記念すべき処女長編がこれ。サンリオから刊行された本の中でも、とりわけ美しい表紙絵を持つ一冊。再刊はされていない。しかし、それも仕方がないかなと思えるほど、全体的にはアンバランスな印象を受けた一冊でもあった。
 物語は全部で三部に分かれており、「起・承転・結」といった感じ。第一部で謎が山のように提示され、第二部でその謎解き、第三部で結び、という構成だった。
 第一部の「監獄」は、ともかくよくわからない。ストーリーがわからないわけではなく、主人公の置かれているその状況が唐突で受け入れ難く、主人公のとまどいがそのまま読者のとまどいになる。シュールレアリスム映画の中に予備知識もなく突然投げ入れられたような感じといえば、少しは伝わるだろうか。
 以下が、ややネタバレを含む、おおまかなストーリー。

 主人公はウェンテイックという、南極の地下にある研究所で何かの研究をしている博士である。ところが、その研究のさなかに、突然研究所を訪れた二人の男、マスグロウブとアストラウドたちによってブラジルへと連れだされることになってしまう。ウェンテイックとマスグロウブはブラジルの密林を散々苦労しながら進み、やがてウェンテイックたちは唐突に、どこまでも開けた草原にたどり着く。そして、マスグロウブから、そこはプラナルト地域と呼ばれる場所であり、密林とプラナルト地域とでは、約200年という時間の断絶があるのだと聞かされる。つまり、密林は1979年であり、プラナルトの平原は2189年であるというのだ。二人は平原を進み、やがて先にヘリコプターでそこに向かったマスグロウブと、平原の中にポツリとあるその場所には似つかわしくない「監獄」と呼ばれる建物にたどり着く。ここでいきなり場面が変わり、ウェンテイックが建物の中で精神的に追い詰められるような拷問と尋問を受け続けるシーンになる。その建物には、壁に耳が生えていたり、机に手が生えていたりする。この「監獄」の中での物語が、第一部。全く重要な情報が主人公にも読者にも知らされないため、不条理としか言いようのないシーンの連続に身を委ねるしかない。
 続く第二部は、サンパウロが舞台。第一部の終わりで「監獄」から連れだされたウェンテイックとマスグロウブだが、ウェンテイックはマスグロウブと間違われた状態で、病院に入院させられている。やがて間違いが判明し、そこにいたジャクソンという博士に、現在の世界の状態や、なぜウェンテイックがここへ運ばれてきたのか、その真相を聞かされる。ジャクソンによると、現在は2189年なのだが、世界のほとんどの場所は、第三次世界大戦による核の汚染によって壊滅的な状況にあり、住めなくなってしまっているが、そもそもその原因を作ったのが、ウェンテイックらの研究の結果生み出されたディスターバンス・ガスの影響によるものであったのだということだった。だからこそ作成者であるウェンテイックに、このガスを無効にするための研究に力を注いで欲しいのだという。しかし博士は、自分は研究が途中の段階で南極の研究所から灼熱のブラジルへと連れだされたのだから、研究は途絶しており、自分の力によってガスが完成されたはずはないのだと主張する。そして、もしガスを完成させた人物がいるのだとしたら、共同研究者であったンゴゴであろうと告げる。
 第三部では、博士がンゴゴの研究をやめさせるために、単身南極へと向かう。果たして、ウエンテイックは研究を中止し、第三次世界大戦を防ぐことができるのか……。
 
 第一部の異様さが、第二部に入って急に普通のSFらしくなり、逆にやや戸惑いつつも、ちょっとホッとしたのも確か。第一部を読んでいるときにはいったいどうしたものかと思っていたが、いざ読み終わってみると、さほどわかりにくい作品ではない。登場人物たちの行動には、いささか首をかしげたくなるところがないではないし、ラストも、個人的にはちょっとこれは……という感じではあったけれども。
 解説によると、これはもともと独立した「審問者」と「迷路」というカフカ的な二つの短編小説だったものをくっつけて再構成し、一つの長編にしたものだという。そのうち「審問者」の方は、テッド・カーネルの編集した「ニュー・ライティングSF15」に掲載されたが、より謎めいた「迷路」の方はボツを食らい、さらに当時もっともわけのわからないSFを掲載していたマイケル・ムアコックの「ニュー・ワールズ」誌にも掲載を断られたらしい。それがどうしてこのような形で長編化されたのかといえば、プリーストの才能を認めたフェイバー&フェイバー社のチャールズ・モンティーヌという編集者に、そうすることを勧められたからだという。結果として、意図的に曖昧に書かれたニューウェイブSF的短編は、謎めいた部分を残しながらも、普通に読める長編小説として生まれ変わった。その過程で、おそらくは最初の短編の段階ではプリーストにも正直はっきりとした解釈はなかったものを、無理やり辻褄のあった作品として仕上げたものだから、ややバランスの悪いものにならざるを得なかったのだろう。本人は、「すべての謎を解明するのは、非常に骨の折れる作業だったし、すべきではなかったと思っている」と語っているというが、同時に「処女作であるという理由で、いささか過剰とも言える愛着を抱いている」とも語っているらしいから、この自分でもよくわからないイメージからひとつの筋の通った物語を作り出すという作業は、その先の作家としての方向性や物語る技術を高める上で、得るものが多くあったに違いない。ぼくはプリーストの作品をさほど多く読んでいるわけではないけれども、現在のプリーストがこの処女作の延長線上にいるというのは、間違いのないことだろうと思う。決して名作ではないと思うが、プリーストファンにはなかなか興味深い一冊なのではないか。



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「魔女の丘」 ウェルウィン・W・カーツ著 金原瑞人訳
福武文庫 福武書店刊

を読む。

 ジョン・ソールの「暗い森の少女」を半分くらいまで読んだのだが、なんだか面白くないので放り出し、代わりに積んでいたこの本を何気なく手にして読み始めた。すると、これがなかなかの掘り出し物だった。 
 福武書店は、進研ゼミでお馴染みのベネッセ・コーポレーションの元々の社名である。今でこそ出版社というイメージはないが、かつてはかなりコアな文学作品を多く紹介していた中堅の出版社だった。「海燕」という月刊文芸誌を発行し、吉本ばななや小川洋子、島田雅彦らを排出したが、 売れ行き不振から休刊に追い込まれ、ついには文芸出版からの完全撤退を余儀なくされたようだ。文芸出版に対してかなり志が高い印象があったが、それが仇になった形である。ベネッセの文芸出版部門の廃止に伴い、個性的なラインナップで一部の読書家たちの支持を集めていた福武文庫も廃刊となった。福武文庫は、統一感のあるブックデザインも印象的だったし、創刊時のラインナップに澁澤龍彦「犬狼都市」が入っていたことに象徴されるように、幻想文学に強い文庫だった。日本文学としても、内田百閒が文庫として初めて現代仮名遣いでまとまった形で紹介されたり、澁澤作品を始め、色川武大「狂人日記」、野坂昭如「乱離骨灰鬼胎草」など、異色な文学に寄り添ったラインナップだったが、そうした傾向は海外作品では更に顕著で、発刊された作品のほとんどが広義の幻想文学だとさえ言えるほどで、有名作家であるモーパッサンやスティーブンスン、それにフォークナーらの短編集も、怪奇幻想作品に特化したものだった。また、同文庫は「JOYシリーズ」という、ローティーンからミドルティーンあたりを対象にした児童文学のシリーズも持っており、チムニクの「クレーン/タイコたたきの夢」など、ちょっと変わった優れた児童文学を紹介していた。この「魔女の丘」も、その中に含まれた一冊。
 ストーリーは、だいたい以下のようなもの。

 作家である父ロバートとともに、ガーンジー島という、古い伝統を根深く持った島を訪れた14歳の少年マイク(ガーンジー島はチャンネル諸島にある実在の島である)。島では父の友人のトニーとその妻である美貌の女性ジャナイン、それにマイクの一つ年下の娘リザが二人を出迎えた。どういうわけか最初からマイクに対して釣れない態度をとり続けるリザはトニーの娘ではあるが、連れ子なので、彼女にとってジャナインは義母ということになる。そしてリザは、どういうわけかジャナインを嫌っているようだった。ふたりが腰を落ち着けた古い屋敷は、ソピエール邸と呼ばれており、それは「石の下」という意味で、屋敷の裏手にそびえる丘に由来した名前だという。丘はトレピエの丘と呼ばれており、ストーンヘンジを思わせる巨石があちらこちらにあり、丘の頂上には先史時代の埋葬用石室が存在している。そこでは、つい最近、ほんの15年ほど前まで、魔女が集まって黒ミサが行われていたという。
 その夜、なかなか眠れないマイクはベッドを抜けだして窓から外を眺めた。すると、丘の上に灯りが仄かに灯り、誰かの影が見えた。驚いたマイクは好奇心から家を抜け出し、丘へと向かう。すると途中で、深くフードを被った人が降りてくるのに出くわす。慌てて身を隠し、その人物をやり過ごすが、その少し後で、まるで追いかけるようにそっと降りてくる小柄な人影を目にする。ひと目でマイクはそれがリザだとわかり、彼女に話しかける。するとリザは怒ったように、「間に合わなくなるから、離して」と彼を振り切って歩いていってしまう。マイクは憤慨するが、ふたりのやってきた道を辿って丘の上へと向かう。そこで彼が目にしたのは、石室の屋根に生け贄として捧げられた血塗られた仔犬と、一人の人影だった。そこでは、明らかに黒ミサが行われていたのだった。
 翌日、マイクはリザを問い詰めた。彼女によると、黒ミサは実は今でも密かに行われていて、島には「魔導会」という魔女グループがあり、メンバーはリーダーとふたりの補佐役を含めて13人いるという。リザはメンバーではなく、メンバーが誰なのか、集会のたびにこっそりと見張りにでかけているのだという。数十人しかいない村の人口の中で13人というのは、かなり多い割合だった。昨日は、マイクのせいで追いかけていた人物を見失ってしまったのだという。リザによると、義母のジャナインはそのメンバーのひとりだということだった。
 ソピエール邸の隣には、ロック館というやはり古い屋敷があり、そこにはシートン・ゴスという人物が住んでいた。彼は膨大なオカルト関連の蔵書を持っていることで知られていた。リザによると、彼もその「魔導会」の一員であるという。父のロバートは彼の蔵書を見せてもらうために皆を連れてロック邸を訪れる。そこにはシートン・ゴス以外にもイーノック・ゴスという人物がいた。彼らの話を聞くうちに、魔道書の中でも特に「古アルバート」と呼ばれる書物は特別で、最も古いものであり、この島から持ち出すことはできず、また、持ち主には絶大な魔力を与えるが、その資格のないもの手に渡ると、その持ち主の命を奪って、別の持ち主のもとへと渡るという、まさに「魔の書物」であるということを知る。シートンは、その書物を持っているのだという。ところが、そうした話をしている間に、突然シートンが苦しみ始める。そして医者であるトニーの介抱の甲斐もなく死んでしまう。トニーによると、シートンは毒殺されたのだということだった。しかしその混乱の中、ジャナインとイーノックは図書室に向かっていた。図書室にはロバートもいて、書棚に隠し扉を発見するが、その奥にはなにもなかった。
 シートンの死後、トニーの容体が次第に悪くなってゆく。まるで魂の抜けたようになった彼は「いななるときに本は本でないのか」とつぶやく……。

 ダラダラとあらすじばかり書いていても仕方ないので、このくらいにしておくけれども、ここまででだいたい全体の1/3程度。この後、「古アルバート」をめぐるイーノックとジャナインの密やかな争いや、「古アルバート」の秘密の真相、リザをめぐっての戦いなどが展開されてゆくのだが、児童文学とは思えないほど怖いし、さまざまな伏線もきちんと回収され、父と子の物語としてもなかなか薀蓄があって、非常に面白い本になっている。作中、どういうわけかマイクがブラッドベリの「華氏451度」を読んでいるシーンが何度も登場するのだが、それも実はちょっとした伏線になっていたりして、楽しい。なかなかの佳品なので、復刊されてもいいのではないかと思うのだが、今の時代の日本の子どもたちにどれだけ訴えうる内容なのかは、正直ちょっとよくわからない。ある程度本を読んでいる子なら、時代や国は関係なくきっと楽しめる本だとは思うんですが。


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「バレエ・メカニック」 津原泰水著
ハヤカワ文庫JA 早川書房刊

を読む。

 何と言ったら良いのだろうか。まるでフラッシュバックのように、次々と既視感に襲われる長編小説だったといえばいいのか。70年代から80年代末にかけてのサブカルチャーシーンが、どういうわけか頭をよぎって仕方がなかった。
 ストーリー自体は、それほど複雑なものでもないのだろうが、よく分かったとは言えないというのもまた確かである。小説は全部で三部に分かれている。第一部と第二部に関しては特に問題ないのだが、第三部がやや難解で、よくわからないところがいくつかある。もっとも、手札はすべて見せているという感じではあるので、再読すれば納得がゆくのかもしれない。
 そう、小説は全部で三部に分かれているのだが、その各部のタイトルがそれぞれ「バレエ・メカニック」、「貝殻と僧侶」、「午前の幽霊」となっている。クラシックな映画に詳しい方にはすぐにわかるだろうが、これはどれもが1920年代の前衛的なモノクロ映画のタイトルである。
 第一部のタイトルとなっている「バレエ・メカニック」は画家のフェルナン・レジェ制作で、撮影はマン・レイ、音楽はジョージ・アンタイル。1924年制作。
 第二部の貝殻と僧侶」はジュルメーヌ・デュラック監督で、脚本が俳優のアントナン・アルトー。1927年制作。最初のシュルレアリスム映画とも呼ばれている。
 第三部の「午前の幽霊」はハンス・リヒター監督の映画。漂う帽子が印象的な映画。1928年制作。
 どれも積極的に自分で意味を見つけなければならないという種類の、極めて難解で前衛的な、はっきり言ってしまえばよくわからない映画だし、そうした作品を作品の各部のタイトルにしている意味もよくわからないのだが、一応年代順になっていることだけはわかる。あえて推測するなら、この小説もそうしたシュルレアリスム的な映画の末裔であるということを暗に宣言しているのかもしれない。解釈の座りの悪さの余り、推測ばかりになってしまって嫌になるが、この小説に関して言えばそうとしか言えないのだから仕方がない。
 第一部は「バレエ・メカニック」。どうして採用されたのかわからない二人称という奇妙な書き方が挟み込まれながら、物語は進んでゆく。大まかなストーリーとしては、自らの不注意で招いた植物状態の愛娘を持つバイセクシュアルの木根原というアーティストが、その娘の無意識に侵食された現実の世界で、それでも娘を少しでも長く生きながらえさせようとする物語。少し書き方が悪かったかもしれない。木根原のひとり娘の理沙は、水難事故によって大脳を損傷し、かろうじて生きてはいるが、全く意識のない状態にいる。しかしその理沙の意識がどういうわけか現実の世界を飲み込み始め、街を変容させてしまうのである。それは後に「理沙パニック」と呼ばれるようになる。ぼくがこの第一部を読みながら脳裏に浮かんだのは、村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」やJ.G.バラードの「夢幻会社」を始めとする諸作、それに飛浩隆の「グラン・ヴァカンス」などである。その辺が好きな人には、きっと波長が合うだろうと思う。シュールレアリスティックな描写は、津原さんの得意とするところのようで、非常に心地よく読める。ぼくがこの本でいちばん好きなのが、この第一部。
 第二部は、「貝殻と僧侶」。アントナン・アルトーの脚本による映画からとったタイトルだが、映画との関連はよくわからない。アルトーによるこの映画のシナリオは、「貝殻と牧師」のタイトルで邦訳がある(余談だが、ぼくは二十歳頃の一時期、アルトーに傾倒して、小劇団に入ったりしたことがある。「器官なき身体」を提唱した、あの危ない感じがとても魅力的に映ったのだ。もはや黒歴史に近いけれども)。この第二部は、第一部で死んだ理沙がいまだにネットワークの中に生きていると信じて、彼女を探すことだけに残りの人生をすべて捧げる木根原と、理沙の主治医であったトランスジェンダーの龍神の物語。この第二部は、ややミステリっぽいが、もちろん普通の意味でのミステリとは違う。なにせ、ネットワークの中に生息する幽霊を探す話なのだから。
 第三部は「午前の幽霊」。第二部の終わりから40年後。主人公は〈ドードー〉と呼ばれている龍神と、第一部で木根原の買った男娼であったトキオ。その時代には、かつて龍神の恋人であった蓮花が代表をつとめる企業「コグレクトロ」によって、かつての「理沙パニック」を再現したような擬似世界が現実と平行して存在している。そして、その世界で永遠に生き続ける不死者というものが存在するとされている。龍神はトキオに、その世界にいまだに存在する理沙を殺害したいと持ちかける。
 この第三部は、かなりややこしくて、はっきり言って上手くあらすじを説明できない。再読すれば多少できるようになるのだろうが、そういうわけなので、申し訳ない。なんとなく理解するところでは、コグレクトロによって作り出された仮想世界と不死者というものが実は幻であったとされた後で、実はそうではなくて、実際に理沙がいまだに世界に存在している、つまり不死者の実在が明かされて終わるといった感じなのではないかと思う。最後に沼澤千夏が登場するのは、ちょっと唐突で驚いたが、つまりそういう意味なのかなと今のところ思っている。これも再読すれば、もっとちゃんと分かるかも。
 第三部は明らかにサイバーパンクなのだが、そのサイバーパンクというのが、どこか懐かしい感じがするあたり、きっとこの小説の既視感を助長している要因なのだろうと思う。この第三部を読みながら思い浮かぶのは、現在のすっかり市民権を獲得して特別でもなんでもなくなったサイバーパンクではなく、テクノが新しい音楽の世紀を宣言し、「ソフト・マシーン」(ちょっと「バレエ・メカニック」と似た表現である)だとか「ニューロマンティック」だとかいう言葉が頻繁に使われるようになった80年代初頭から、エヴァンゲリオンが流行った90年代半ば頃までの、硬質な輝きを放ちつつも、どこかふわふわした時代である。かつて坂本龍一が、レジェの「バレエ・メカニック」に影響を受けた曲を収録したアルバム「未来派野郎」をリリースしたのが1986年。その頃にはまだ、サイバーパンクの波が吹き荒れていた。ペヨトル工房が(今はなき)西武系のCDショップWAVEと組んで出していた「WAVE」という雑誌などが、そうしたサブカルチャーとしてのサイバーパンクを扇動しようとしていたという印象があるが、日本におけるサイバーパンクは、西武の没落と歩調を合わせるかのように次第に下火となり、SFというジャンルをそっくり巻き込みながら、冬の時代に入っていったように思う。日本においてSFが再び盛り返すのは、グレッグ・イーガンの紹介を待たなければならなかったが、現在のサイバーパンクには、もはやそうしたふわふわとした感じはない。で、話を戻すが、この小説でのサイバーパンクは、どちらかといえば80年代に流行したサイバーパンクに近いように思える。つまり、ある種の幻想文学としてのサイバーパンクという意味である。テクノロジーの帰結としてのサイバーパンクではなく、夢を小説化する際にサイバーパンクというモチーフが選ばれたということだ。従って、この小説は、SFを幻想文学の一形態として捉えた小説であり、そもそもテクノロジーに寄り添っていないのだから、どこか懐かしさを感じたとしても、それはもともとそういう作品として生み出されたものである以上、おかしくはないのだろう。



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