漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




トニ・モリスン『ビラヴド』(吉田迪子訳/ハヤカワepi文庫)読了。

 「124番地は悪意に満ちていた」という文から始まる、哀しみの過去と再生の物語。奴隷制度のもとで実際に起きた悲劇を下敷きにしつつも、決してそれだけではない、さまざまなものを読み取ることができる厚みを持った小説だった。

 以下、ネタバレ有りの簡単なあらすじ。
 124番地というのは、かつて奴隷であり、追い詰められた末に、心中を図って幼いわが娘を殺害したという悲劇の過去のあるセサが、残ったもうひとりの娘デンヴァーとともに住む家の住所。彼女たちの住む家には、セサが殺した名もない娘の霊が取り憑いていて、彼女たちを苦しめ、外からやってきた者たちを排斥しようともする。しかし彼女たちは決してその家を離れようとしない。あるとき、かつてセサがいたスウィートホーム農園の仲間であったポールDが、長い流浪の果てにやってくる。彼は自分を排斥しようとする霊を力でねじ伏せ、追い出してしまう。そして、幸せな日々がやってくるかと思ったのも束の間、ある日、ビラヴド(beloved)と名乗る、謎めいた少女が現れる。セサもデンヴァーも、抗いがたい衝動のもと、彼女の関心を買おうとするようになるが、ビラヴドがかつてセサが殺した自分の娘であり、デンヴァーにとっては姉でもある存在であって、それがふたたびこの世に戻ってきたのだという確信を得てからは、次第に最悪の形の共依存の様相を帯びるようになってゆく。さらには、セサの過去の隠されたエピソードを知らされたポールDは、自ら124番地を去ってしまう。そうした閉塞した関係の中からただひとり抜けだそうとしたデンヴァーは、近所に働き口を求めようとする。それを契機に、近所の人々が124番地を訪れるが、彼女たちがそこに見たのは、ビラウドではなく、自らの過去の幻であった。そうして訪れた人々に対して、セサは、アイスピックを持って襲いかかろうとする。
 セサの行動は、拍子抜けするほど、あっけなく未遂に終わる。しかしそれが、この物語のひとつのカタストロフである。ビラヴドは姿を消し、124番地には、セサと、デンヴァーだけが残される。そこに、一度は去ったポールDが帰ってくる。

 物語そのものは、そこで終わる。しかし、いちばん最後に、短いモノローグの章が挿入される。まるでこの物語が、単にセサとビラヴドの物語ではなく、もっと普遍的な、偏在する物語であるかのように、語り手が宙に浮いた章。そして、「人から人へ伝える物語ではなかった」という言葉が、何度か繰り返される。この長大な本を閉じるにあたっては、余りにも矛盾に満ちたこの短い文の中に、この物語が書かれた意味があり、物語として語る言葉さえ失った、あらゆる哀しみが内在されているかのように感じる。
 そもそもこの物語には、はっきりとした主人公がいない。一応はセサが中心となって物語は進んでゆくのだが、話者は場面によって度々変わり、読者は、さまざまな登場人物たちの視点に立って物語を読むことになる。奴隷としての悲惨と多くの黒人たちの言葉にならない思いについては、ベビー・サッグスとスタンプ・ベイドの口を借りて最も多く語られるが、登場人物たちは誰もが、白人たちでさえ、奴隷制度の下で、形は違えどそれぞれ何らかの歪みを内面に抱えることを強いられて生きており、その南部ゴシック的なグロテスクさが、物語を一面的なものになることを拒否する。最近話題になった作品では、同じくピューリッツァー賞を受賞しているコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』もやはりアメリカの奴隷制度を扱っているが、やや受ける印象が違うのは、『ビラヴド』は、奴隷制度を糾弾する物語であるのと同じくらい、あるいはそれ以上に、決して完全に癒やされることのない、秘められた個人的な哀しみについての集合体的な物語であり、登場人物たちの口がことごとく重い、という点なのかもしれない。

 物語は、南部ゴシックの濃厚な香気を纏いつつ、どこかマルケスやイザベル・アジェンデらに代表されるデラテンアメリカ文学に顕著な、マジック・レアリスム的でもある。しかしもともとマルケスらマジック・レアリスムの作家は南部ゴシックの作家フォークナーに影響を受けており、同じくゴシックの末裔なのだから、どちらの印象もあるのはむしろ自然な流れではある。ぼくは時々思うのだが、ゴシックでしか語りえない領域というというものがあるのではないか。

 それにしても、『ビラヴド』とは結局何者だったのだろうか。セサが殺してしまった娘が実体化した超自然的な存在という風に読めば、すっきりと分り易いけれど、白人によって幼児の頃から幽閉されていた少女かもしれないという可能性がさらりと仄めかされていたりで、実際のところ、著者は明確にしていない。ビラヴドがまだ名前も与えられないうちに殺されてしまったセサの娘が投影された存在であるというのは確かだが、おそらくはそれだけではない。そうでなければ説明のつかない部分が多すぎる。間違いないのは、『ビラヴド』の存在は万華鏡的であるということだ。おそらくビラヴドを見るということは、自らの内面の、補いようもなく欠落した場所を見るということなのだろう。様々なものに変わりうる、のっぺらぼうのような存在、それがビラヴドなのかもしれない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 エドワード・ブルワ=リットン『ザノーニ(Ⅰ.Ⅱ)』(富山太佳夫・村田靖子訳/ゴシック叢書/国書刊行会)読了。

 時間がとれず、読了までに時間がかかりました。なかなか読むのも大変なところもありましたが、特に理解に苦しむことはなく、エンターティメント性のある小説でした。

 以下があらすじとなります。ネタバレ全開です

*****

 冒頭の序文で、この物語を公表した人物は、この物語はふとしたきっかけで古書店で知り合った、とある老紳士の手による暗号文で書かれた草稿であるとしている。この老紳士が何者であるのかは、読了後に推測できるようになる。
 名声には恵まれないが優れた音楽家であるピサ―ニの娘ヴィオーラ。父の死後、美貌の歌姫として名を馳せるようになった彼女は、その時社交界で噂の的になっていた美男子の富豪ザノーニと出会い、心を奪われる。しかしザノーニは彼女の求愛をやんわりとかわして、若い貴族であるグリンドンとの婚礼を勧める。グリンドンは絵をたしなむ貴族で、人は良いのだが、享楽的なところがある一方で慣習の縛りからはなかなか離れることはできない人物。ヴィオーラは彼に対しては全く魅力を感じず、かえってザノーニへの愛を募らせてゆく。また、ザノーニも彼女に対しては愛情を感じており、彼女をめぐる様々な謀略からことあるごとにその不思議な力で彼女を守ろうとする。
 ザノーニが彼女の愛を避けていたのは、実は自分は遥か昔から生きている不死の存在であり、それを維持するためには、俗世的なものから遠く離れている必要があったからである。しかし最終的に彼は彼女の愛を受け入れ、不死者から人間へと戻る決意をする。そして彼女との間には子供も生まれる。
 一方、グリンドンは最初はザノーニへのライバル心を募らせていたが、彼の幻視家としての存在に惹かれ、弟子入りを望むようになる。ザノーニは彼のために、自分の師であり現存の唯一の仲間でもあるメイナーを紹介する。メイナーは信じがたいほど昔から生きており、彼に言わせると、ヘルメス・トリスメギストスやパラケルススさえ「いいところまで行った」存在にすぎない。しかしグリンドンは、卑しい身分の女フィリーデに心を奪われるなど、その試練の最初ですでに躓き、破門されてしまう。しかし彼はその戸口までは進んだのであり、全く元のようには戻ることはできなくなっている。彼は自分を慕う妹の家に転がり込むが、最終的には自分の背後に潜む影に怯えた妹が、恐怖のあまり死んでしまうという結果を産むことになる。やがて彼はふたたびヴィオーラに会おうと試みる。そしてその結果、ヴィオーラもザノーニの背後にある影に怯えるようになり、子供をつれて、パリへと出奔してしまう。
 ちょうどその頃、パリではフランス革命の最中にあった。フィリーデとともに暮らすグリンドンは、罪の意識からつましい暮らしをしているヴィオーラを助けようするが、嫉妬に狂ったフィリーデと、長きに渡って常にグリンドンと因縁のあるジャン・ニコらの策略によってヴィオーラは収監されてしまう。グリンドンからヴィオーラの居場所を知らされたザノーニは、すでにほぼただの人間でしかなくなってはいたが、最後の力を使って彼女の救命を試みる。しかしそれには彼の命が引き換えとなる契約をもってする他はなかった。彼の策略は成功するが、命を救ったはずの彼女も、結局彼の後を追うように息絶え、子供だけが孤児となって残される。

(おそらく冒頭の老紳士は、グリンドンだと思われる)

*****

 深い叡智を持った不死の存在が、愛する女性に出会い、その超越性を捨てて、人間としての幸福を選び、自ら犠牲となっても愛する女性を救おうとする。
 ざっと要約するとそういう小説でした。ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』ともちょっと共通するモチーフですね。
 物語の序盤や転換のシーンなどの大げさな語り口にはやや辟易させられますし、なかなか面白くならない上に、物語そのものは、やや説得力を欠いた部分のあるラブロマンスなのですが、恐怖を象徴する「戸口に住まう者」や聖なる存在を象徴する「アドナイ」との交歓のシーンなどは非常にコズミックな神秘を感じさせてくれます。リットンの持つオカルトの知識がどれだけこの小説に反映されているのか、そもそもオカルティズムにさほど詳しいわけではない自分にはいまひとつわかりにくかったのですが、特に何の疑問もなく読めたので、今では特に特殊な考え方というわけでもない範囲なのではないかという気がしますし、ことさらそれを前面に出そうとしているわけでもない気もします。どちらかといえば、真に知の求道者であるメイナーよりも、人間の情感を選んだザノーニに対する共感的な眼差しの方に軸足があり、オカルティズム賛美とは真逆の印象さえ受けます。
 今読むと確かに冗長ですが、当時はなかなかエンターティメント性に富んだ小説で、フランス革命という史実と絡め、ロペスピエールやサン・ジェストといった実在の人物を登場させることで、なおさらそれぞれのキャラクターが立ち、興味を持って読まれたのではないかと想像しました。

 この小説の中で、興味深い人物をひとり挙げるとすれば、ジャン・ニコを推したいと思います。画家くずれの彼は非常に嫌な人物として描かれていますが、その執念深さと利己的な欲深さは最後までぶれることがありません。彼について書かれた文章で、面白い箇所がありました。
 
「学問にしろ、芸術にしろ、ある分野に没頭し、あるレベルに達しようと努力する者は、必ず、並の人間をはるかにうわまわる量のエネルギーを持っている。普段それは、その分野での野心の対象に差し向けられ、そのために、他の人間の営みにはまったく無関心になるものである。ところが、そうした目標達成の道が阻まれ、しかも、エネルギーの適切なはけ口がみつからないと、そのエネルギーは、その場でわき立ってその人間の全体に取り憑く。そして、もしそれが万全とした計画に使われるか、ある主義と良心にのっとって鈍化されるしかないと、社会の中の破壊的な危険分子となり、暴動や混乱を引き起こすことにもなりかねない。だからこそ、賢い君主が統治する国では――いや、しっかりとした構造を持つ国では、芸術や学問のために回路を開くことに必ず特別な注意を払うのだ。たとえ政治家自身は、絵を見てもただの色の塗ってある画布としか思わず、学問上の問題をただの手のこんだ謎としか考えないとしても、平和のために捧げられるべき才能が、政治的陰謀や私欲のためにのみ使われるとき、その国は最大の危機に直面する。栄誉にめぐまれない才能は、人間を敵にまわす(以下略)」

 ちょっとヒトラーを予感させるような文章ですが、学問や芸術に限らず、間違った方向へ暴発したエネルギーには、飢えだけがあって、たやすく歯止めをかけることが出来ないということでしょうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





石野重道『不思議な宝石』(盛林堂ミステリアス文庫)読了。

 石野重道の名前は、稲垣足穂の代表作のひとつ『黄漠奇聞』の原型となったという石野の散文『廃墟』との関連性で取り上げられることがほとんどであり、他の作品への言及はほぼされてこなかったし、知られてもいなかったようで(ダダイズムの文芸誌『GGPG(ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム)』の同人であることはそれなりに有名だったようだ)、ぼくも先日未谷おとさんから伺うまで、全く知らなかった(あるいは気に留めたことがなかった)。しかし、手元にある足穂の本を見当をつけてざっとあたってみると、確かにいくつかには彼の名前が見られる。
 たとえば『随筆ヰタ・マキニカリス』には「衣巻省三並びに石野重道は、関西学院中等部では私の一級下であったが、学校では殆ど関係はなかった。共に卒業後において親しくなったのである。(中略)『彩色ある夢』の著者、石野重道は、「レッド・イシ」で、これはショールと靴下が雛ゲジ色であった」とあり、また、自作を解説した『タルホ・コスモロジー』の『黄漠奇聞』の項には、「大正十年の新緑の候に、明石の公会堂で神戸の長田教会の親睦会があった。私の友人の石野重道がこれに加わっていたので、私は出向いて、濤声が聴える廊下で石野に向かって『月取り物語』のすじを語ったところ、聞き手の方が自分より先にそれを書いてしまった。それは二十五枚くらいだったが、この石野文を元にして、私は改めて八十余枚を、例の渋谷の化物屋敷の三階で描き上げたのであった。(略)石野の『バブルクンドの滅亡』は、彼の非常に特色のある散文詩集『彩色ある夢』の中に収められている。これは彼の自費出版で、新潮社刊、佐藤春夫の序文が付き、私が装幀を受け持った。(略)私の『黄漠奇聞』の書き出しが石野調の微分なので、いったん中央公論に発表されると、その最初の数行がかなり世間に広まったようである」とある。
 その彼の唯一の著作本である『彩色ある夢』は、前掲書で足穂も書いているように、後に古書価が高騰したというから、足穂ファン(と佐藤春夫ファン)にとっては、確かに気になる一冊ではあったのだろうが、肝心の彼の作品そのものへの評価はほとんどされてこなかったというのが現状だろうと思う。いわば完全に忘れられた詩人であり、今回こうして、まるで導かれるように、古い雑誌の中からいくつかの彼の手になる童話が、おそらく世界一のダンセイニファンでなかろうかというをとタン、もとい未谷おと氏の目に触れてサルベージされたというのは、ダンセイニが繋いだ奇縁というか、ほとんど奇跡に近い僥倖とさえ言えそうだ。
 収録作品は全部で十作品。なかなかバラエティに富んでいて、純然たる創作童話からナンセンスな作品、宗教説話風作品、ギリシャ神話のナルキッソスの物語を書いたものまであるが、興味深いのはもちろん、彼の手になる創作童話である。
 表題作の『不思議な宝石』は、悪魔の悪戯に翻弄された宝石商人の話。悪魔が投げたただの石を珍しい宝石だと思い込んだ商人は、一生懸命にその石を研磨するが、一向に宝石らしさがでてこない。嫌になって放り投げたところ、実はそれは太陽の光を吸い込んで夜に輝く夜光石だったということが分かり……という物語。
 『夜の国の物語』は、太陽の光が射したことのない夜の国を舞台にした物語。最初に読んだ時には、「おお、『ナイトランド』じゃん!」と思った。ちなみに、この作品が発表されたのは1925年で、ホジスンの『ナイトランド』は1912年。年代的には矛盾はないが、さすがに影響を訝しむには無理がありそうだとはわかっている。ホジスンファンのぼくが勝手に盛り上がっただけである。しかしこの時代に、どこかシュールレアリスティックなイマジネーションに溢れた象徴的物語を紡いだことには素直に驚かされる。また、星を捕まえてきて街を照らす光とするというこの物語は、一見足穂的のようだが、読み終えた時に感じる印象はかなり違うように思った。石野の作品には、足穂とは違って、私小説的なところがほとんど見られないのがその理由なのかもしれない。
 『不思議な塔』も注目に値する作品。空の色を染料にするというアイデアは、やはり足穂的のようにも思えるが、『夜の国の物語』と同じく、その寓意性のせいか、受ける印象はやはり違うように思える。ロシアやヨーロッパへの憧憬を強く感じる石野の作品には、足穂のようなポップなセンスはないが、代わりにどこか昏いロマンティシズムとセンチメンタリズムがあるように思える。ところで、ブルガリアの作家にスヴェトラスラフ・ミンコフという人がいて、『ルナチーン! ルナチーン!ルナチーン!』という作品を書いているのだが、これは月の光を精製してロマンスを感じさせてくれる薬を精製するという物語。発想が似ているので、ふと思い出した。
 『セデアとお星さま』は、月が星を呑んで明るく輝くのを見て、自分も星を食べれば元気に鳴るに違いないと考える、病床にある男の子の妄想が紡ぎだす物語。この透明なやるせない寂しさは、静かな余韻を残す。
 石野の活躍は、ほんの僅かな期間だけだったようだが、この本に収録された作品が紡がれたのは、すべて大正13年から14年にかけて。大正ロマンに陰りが見え、その時代に束の間咲いた徒花にも似た、彼のような作家が生きづらい、軍靴の響きが聞こえ始める、暗い昭和初期へと向かおうとしていた頃。大正14年には、普通選挙法とともに、治安維持法が制定されている。石野道重の童話は、もしかしたらそうした時代の狭間の路傍に放り投げられた、ある種の人々の目にのみ輝いて見える、不思議な宝石なのかもしれない。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





マーガレット・アトウッド「侍女の物語」(斎藤英治訳/新潮社)読了。

 ディストピアもののSFとしてもフェミニズムを扱った文学作品としても高い評価を受けている、名作の誉れ高いアトウッドの代表作。多くの賞を受賞し、未見だが、映画化もされている。出版された当時からずっと何となく気にはなっていた作品だったが、ようやく読んだ。一言でいえば、圧巻だった。しかし、もしこの小説を若い頃に読んでいたとしたら、男性である自分は、単なるひとつの可能性としてのディストピアものとしか思わなかっただろう。しかしこれまでの経験に加え、Twitterなどで、自分が「ただ単に男性である」という理由だけで、経験せずに済んでいることがこんなに沢山あるのだということを知るようになった今、この小説は決して荒唐無稽な未来のディストピアを描いた物語ではなく、今この日本にも、いやむしろ日本にこそと言うべきか、根深く残っている女性差別に対する諷刺小説であり、すぐそこに現在進行形で存在する現実を描いた物語であり、いつでもシームレスに移行しうるディストピアを描いた物語であると、ようやく読めるようになった気がする。
 ことさら強く非難に満ちた言葉が声高に散りばめられているわけでもない、むしろほとんど詩的とさえ言える、最も弱い者の口から紡がれる諦念に満ちた静かで淡々とした文体が続く。しかしその文体こそが、この小説の根底をしっかりと支え、力と説得力を与えている。ナチス政権下で、ドイツ人とユダヤ人のもとに生まれたハーフの少女の寄る辺ない悲劇を描いた、イルゼ・アイヒンガー「より大きな希望」が、少女に寄り添うような視点からの、まるで夢の中の出来事を描いているかのような高揚感のある詩的な文体を持ち、それが深い孤独を描き出していたように。いずれにせよ、迫害される存在の多くには、声高に叫ぶ力などありはしない。ただ諦念を含みつつも、なんとか先へと、明るい光などは見えないが、それでも狭まった視界のいくらかでもほの明るい先へと、やっと進もうとすることができるだけなのだ。
 
 物語の舞台は近未来のアメリカ(本編中でははっきりとは書かれていないけれども、最後に挿入されている「歴史的背景に関する注釈」の章でそれが分かるようになっている)が、キリスト教原理主義者たちによって起こされたクーデターによって制圧され、代わりに成立したギレアデ共和国。それこそ、いまこの小説を読んでいる自分がいる時間から、二年とか三年後の、ごく近未来だと思って読むと良いと思う。そのことによって、今現在の自分たちの権利や自由というものが、いかに脆い同意の上に成り立っているのかということを考えることになるからだし、そう意図されて書かれている。決して遠い未来に起こるかもしれない可能性ではないのだ、ということである。
 登場人物たちは、ほんの数年前までは普通の民主主義国家で生きており、その記憶もまだ生々しく残っているが、新たに成立した国家に反逆する気持ちはすでに失われている。新たなる国家が成立した背景には、環境汚染や核汚染などによって著しく低下した出生率がある。実際に子供を産める女性の数が、極めて貴重になっているわけである。そのため、妊娠する能力のある女性は、政府によって強制的に取り立てられ、政府の高官たちの「侍女」として、彼らの子供を生むための「道具」、あるいは「財産」という立場にされている。主人公は、of fred、つまりフレッドという司令官の所有物として、元の名前を奪われ、新たなるオフブレッドという名前をつけて呼ばれるようになっている。彼女は、数年前には夫も娘もいたのだが、クーデターの際に国から脱出しようとしたものの、失敗し、子供を産んだ実績があるということから引き立てられて、そういう立場に置かれてしまっている。夫も娘も、生死さえわからない。街のメインゲートの傍には、クーデター以前に堕胎などに関わったことのある医師らが処刑され、見せしめとして吊るされている。
 「侍女」たちにとって、子供を授かるということが、何よりのステータスになっている。もしいつまでたっても子供ができないと分かると、立場を追われて、汚染物質の清掃や娼婦のような、最も卑しい仕事につかざるを得なくなってしまうからだ。しかし、オフブレッドをはじめ、侍女たちはなかなか子供を授かることができない。彼女たちの使えている高官たちが「種なし」になっている可能性もあるというのに、それは認めようとはしない。彼女たちはなんとか妊娠しようとあらゆる努力をする。その挙句、検査医師らとの間に子供を作ろうとしたりもする。もちろん発覚すれば処罰の対象になるが、彼女たちも必死なのである。
 こうした背景の中、かつての「自由」だった時代や、夫や娘や母に思いを馳せながら、侍女としての生活を淡々と続けるオフブレッドの独白がこの「侍女の物語」という物語になっているが(ちょっと回りくどい書き方をしたのは、実はこの物語は枠物語になっているからである。それは、先ほどもちょっと書いたが、「歴史的背景に関する注釈」という実際の最終章を読めばわかるようになっている)、この小説が優れている点は、彼女が決して英雄的ではない、いわば「名無し」の一人として、淡々と世界とそこに生きる人々を見る「涙も枯れた目」になっていることだろう。親友だったモイラのエピソードなどは非常に辛いし、司令官ブレッドのエピソードも、何とも嫌な気分にさせられる。そして彼女がそうしたことを目にして感じる思いは、非常に感覚的、自閉的で、時にはアンビバレントなものであり、たやすく揺らいでしまう。ここでもアトウッドは、これはもしかしたらあなたの物語なのかもしれない、ということを読者に突きつけているわけである。
 この小説の最後には、ちらりと「女性の地下鉄道」という言葉が出てくる。「地下鉄道」というのは、地下鉄のことではなく、ウィキによると、「19世紀アメリカの黒人奴隷たちが、奴隷制が認められていた南部諸州から、奴隷制の廃止されていた北部諸州、ときにはカナダまで亡命することを手助けした奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たちの組織」という定義がされている。この小説を読みながら何度も思い出したのは、まさにその「地下鉄道」というタイトルのもと、ややSF的なガジェットも利用しながら、19世紀のアメリカ南部の黒人差別を描いて昨年話題になった、コルソン・ホワイトヘッド「地下鉄道」だったかもしれない。容赦のない、淡々とした筆致も通じるものがある。
 当然のことだが、人種差別も女性差別も、性的マイノリティーや困窮者、身体障害者など、その他さまざまな弱者に対する差別も同根であり、差別が社会的に必要悪として認可されて横行する世界は、必ず歪んだディストピアになるわけで、そういった意味でも、この小説は単にフェミニズムを描いた物語としてではなく、すぐその先の未来に、あるいはまさに今この現在に、もしかしたら自分が陥るかもしれない、あるいは陥っている、「被差別者としての立場」に創造力を働かせるためのきっかけとなる物語になりうる作品として読まれればいいと思う。

最後にいくつか、パラパラとめくって目に着いた文章を引用しておきます。文脈がないと、いまひとつ伝わらないかもしれませんが。

「自由にはに種類あるのです、とリディア小母は言った。したいことをする自由と、されたくないことをされない自由です。あの無秩序な時代にあったのは、したいことをする自由でした。今、あなた方にあたえられつつあるのは、されたくないことをされない自由です」

「何事も突然変わりはしない。人は次第しだいに厚くなってゆくお風呂の中で、気づかないうちに茹でられて死んでしまうのだ。(略)わたしたちにとって新聞の記事は夢の出来事だった。(略)でも現実感は伴っていなかった。それらは大げさで、わたしたちの日常生活とは異なる次元の出来事だった」

「でも、それは間違っている。誰もセックスの欠如によって死にはしない。人は愛の欠如によって死ぬのだ。ここには、わたしが愛せる人が一人もいない。わたしの愛する人は、みな死んでしまったか、どこか他の場所にいる。(略)わたしもまた行方不明者の一人だ」

「正気でいることは、貴重な財産だ。わたしはかつて人々がお金を蓄えたように、正気を貯蓄しておく。いざというときに困らないように」

「彼はその雑誌をまるで釣りの餌のようにわたしの目の前にぶら下げていた。(略)昔はこいう雑誌をすごくバカにしていたからだ。わたしはこういう雑誌を歯科医の待合室で、ときには飛行機の中で読んだ。(略)そしてざっと目を通すと捨ててしまった。本当に捨ててもかまわないような代物だったのだ。そして一日か二日後には、何が書いてあったかも思い出せなくなるのだった。でも、今なら思い出せる。そこに書かれていたのは希望だったのだ。雑誌は変化を扱っていた」

「僕がそれをどうにかすることにしよう、とルークは言った。彼が猫を『あの娘』ではなく『それ』と言ったとき、わたしは彼が殺すつもりでいることを知った。それこそ、人が殺すときにまずすることなのだ。人は以前はそうではなかったものをまず『それ』に変える。頭の中でまずそうしておいて、それから現実に殺すのだ。そう、だからこそ彼らには殺すことができるのだ、とわたしは思った」



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





J・S・レ・ファニュ「ワイルダーの手」(日夏響訳/世界幻想文学大系・国書刊行会刊)読了。

 19世紀のヴィクトリア朝時代にウィルキー・コリンズらとともに人気を博した作家J・S・レ・ファニュが、1864年に発表した長編小説。なんと、これに負けないほどのボリュームを持ち、最大の傑作とされる長編小説「アンクル・サイラス」と同年の発表ということで、いささか驚かされる。よほど旺盛な創造力に満ちた時期だったのか、それとも長く平行して書かれていたものがたまたま同時期に完成したものなのかは分からないけれども。
 正直に言えば、読む前は、古くさくて冗長で読みにくいんだろうなと覚悟していたのだが、いざ読んでみるとそれは全くの杞憂で(とは言うもののまあ確かに古くないといえば嘘になるが、それは時代ものだと考えれば特に気になるほどのものではなく)、むしろその語りの上手さと構成の巧みさ、それにリーダビリティの良さに舌を巻きながら、夢中になって読み耽ることになった。
 以下、簡単なあらすじを紹介すると――

 舞台はイングランドの田舎。その土地で最も有力な貴族がブランドン家で、いわば本家に当たる。その分家で、力を持っている一族がワイルダー家とレイク家。ところで、ブランドン家の跡継ぎに男子がおらず、未成年の美少女ドーカス・ブランドンが本家の資産を受け継ぐということになったことから、それを狙う分家のワイルダー家の長男マーク・ワイルダー(結構イヤな奴。ちなみに、彼の弟ウィリアム・ワイルダーは貧しい牧師で、結婚しており、病気で命も危ぶまれている幼い子どもがいるのだが、若い頃に書物を出版するためにこしらえた借金に今なお悩まされている)が、彼女と婚姻を結ぶことで、自分の資産とブランドン家の資産を統合して莫大な力を持つことを企む。そしてその話は実際にトントン拍子に進んで行くのだが、そこにやはり資産を目当てにした、レイク家の放蕩者、スタンリー・レイクが突然都会から舞い戻ってきて、絡んでくる(彼の妹のレイチェル・レイクはやはり美しい女性で、ドーカスととても仲が良い)。そうして、ドーカスとマークの婚姻が近づいてきたある日、突然マークが失踪してしまう。婚姻は宙に浮き、混迷する彼らのもとに、失踪したマークからの手紙が届き始める。しかし、彼自身は決してその姿を見せないで、移動を続け、手紙を送り続ける。やがてその手紙の中で、婚約の解消が告げられ、ドーカスも実はもともとスタンリーのことが好きであったことから、今度はスタンリーとドーカスの結婚が進められることになる。一方、そうした一族のゴタゴタに、敏腕だが腹に一物ある弁護士ラーキンは、その背後にある秘密に旨味を嗅ぎつけ、法律の許すギリギリのやりかたで、スタンリーからは地所の一部を、いよいよ窮したウィリアムからは、騙して財産復帰権を奪おうと奔走する…。

 基本的にはブラントン家の財産をめぐる静かな争いが物語のテーマとなっているのだが、そこにマーク・ワイルダーの失踪という謎が絡んできて、全体としてはゴシック的陰鬱さに彩られたミステリー、あるいはサスペンスと言った方が正確なのかもしれないが、そういった作品になっている。ここで言葉を濁したのは、おそらくは犯人もそのトリックも読者が最初に考えたそのまんまだからで、そういった意味では、ミステリーとして読むとしたら、きっと物足りないかもしれないからである。物語には明白な探偵役は出てこないし、強いていえば弁護士のラーキンがそうだが、これも彼の身勝手な企みのために色々と嗅ぎまわって手に入れた事実から想像した「かりそめの真相」を持つにすぎず、すべてが彼によって解決されるわけではない。真実は、もともと最初から内在していた破綻が次第に隠蔽に耐え切れなくなり、自ずと真相が表面に押し出されてきて、運命のような偶然によって突然明らかにされる。したがって、これは多分、ミステリーとしてではなく、ゴシック趣味に彩られたスリリングな物語として読むべきなのだと思う。同時期に書かれた多くの長大な物語と同じように勧善懲悪で(ウィリアムのエピソードなんて、ハラハラして読んだ)、読後感も決して悪くないが、主な登場人物たちは誰をとっても、ほとんど共感のできないような人物ばかりで、それだけにむしろ「わかりみの深い」存在感があるというのも、物語としての深みになっている。
 語り手がやや混乱するところがあったりという欠点もないではないけれども、物語は本当にゆったりと始まり、それが次第に支流が集まって太くなり、緊迫感に溢れた大きな流れになってゆく感じで、次第にページを繰る手が早くなる。しかも、レ・ファニュの状況描写、風景描写が簡潔でありながら非常に的確で、読み手の創造力を刺激するため、鮮やかな映像すら目の前に浮かぶようである。レ・ファニュの他の作品の、誰の訳文でも、この点は変わらない。クライマックスの、絵画的でドラマチックな鮮やかさも見事である。解説を読むと、レ・ファニュが最初に才能の片鱗を見せたのが六歳のときに『ポンチ』という雑誌の挿絵を真似て描いたスケッチと小文であったというから、物語とともにイメージを喚起させる能力は、そもそも天性のものだったのかもしれないと思った。
 もうひとつ、これはぜひとも書きたかったのだけれど、全てとは言わないにせよ、ほぼ確実にゴシック・ロマンスには恋愛の要素が出てくる。それこそがゴシック・ロマンスだからである。この「ワイルダーの手」にももちろん出てはくるのだけれど、興味深いのは、最終的にその「愛」が成就するのが、なんと女性同士であるということである。時代的にも、もちろんはっきりとレズビアニズムが描かれているとまでは言えないのだが、ほぼそう読んでかまわないのではないかと思えるだけの描写が、何度も伏線としても挿入されつつ、最終的になされている。この「ワイルダーの手」が書かれたのが1864年。そしてレ・ファニュが、吸血鬼小説の歴史に燦然と輝く「カーミラ」で初めて同性愛的な要素を吸血鬼ものに持ち込んだのが、約8年後の1872年。この作品は、「カーミラ」に先行している。つまり言いたいのは、レ・ファニュには、そもそも百合的なものを好む嗜好があったのではないか、ということである。したがって、「カーミラ」は、もともとそういった感性を持つレ・ファニュだからこそ必然的に生まれた作品なのではないかという気がする。
 そういった意味でも、レ・ファニュは現代のゴスに非常に近い、「逸脱する感性」を持った作家だと思うし、ただの前時代的な作家ではなく、今また改めて注目を集めるに値する、稀代のストーリー・テラーであるとも思う。現在はその長編はすべて絶版になり、古書価も高騰して、なかなか読まれづらい状況になってはいるが、再評価を期待している。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ルーシャス・シェパード「竜のグリオールに絵を描いた男」(内田昌之訳/竹書房文庫)読了。

 待望の邦訳出版ということで、去年(一部で)かなり話題になった一冊をようやく読んだ。面白かった。「グリオール」という名の巨大な竜をめぐる連作短編集。
 時代は19世紀を舞台にしたものがほとんど。しかし、我々が知識として知っている19世紀とは少し違う、現実に竜や魔法使いの存在する、この世界とごく近いパラレルワールドを舞台にしている。
 グリオールというのは、そうした竜の中でも最大にして最強の存在。かつてとある強力な魔術師に動きを封じられてしまったが、死にまでは至らず、大地に横たわったまま成長を続け、その思念によって人々に影響を与え続けている。このグリオールの存在感がすさまじい。体高が750フィート(約230メートル)、体長が6000フィート(1.8キロメートル)。ピクリとも動かないが、時の流れのエネルギーを糧に成長を続け、死ぬこともない。身体は草木に覆われ、遠目にはまるでなだらかな丘の連なりのようにも見える。人々は、竜の思念による影響を畏れながらも、時には竜の生み出す鱗や分泌物などを利用したりして、半ば共生するように生きている。体内や羽根の下などにも入り込むことができる。そこには様々な寄生生物が存在し、独自の生態系が出来ており、まるで生きた廃墟か、別の世界のようである。こうした設定だけでも、想像力が掻き立てられ、非常に魅力的ではないか。
 解説によると、既に作者は物故しているので、遺された『グリオール』の連作は全部で7篇。この本にはその前半の4篇が収められている。おそらく、評判次第では残りの3編の出版もあり得る?
 表題にもなっている冒頭の「竜のグリオールに絵を描いた男」は、最初からいきなりだが、メリックという一人の画家が、誰も考えつかないような方法で、これまで誰にも出来なかった「グリオールを殺す」ことに成功する物語。その方法というのがなんと、グリオールの身体にびっしりと絵を描き、その絵の具の毒でじわじわと殺すというのだから、呆れつつも驚かされる。一種の廃墟であるグリオールが、鮮やかに彩られてゆくというイメージは鮮烈。そうして始まった数十年にも渡る気の長いプロジェクトの中で、人々は年を重ねてゆき、時とともにすべてが移り変わってゆくハイ・ファンタジー。
 「鱗狩人の美しい娘」は、子供の頃からグリオールの身体の上で眠るという習慣を当たり前のものとして強いられて育った少女キャサリンの物語。彼女は美しく成長するが、男を弄ぶことに何の呵責も覚えないため、恨みを買って、竜の胎内に逃げ込むことを余儀なくされる。しかしそれも結局は竜の意思によるもので、彼女は竜の胎内に住む、独自の進化を遂げた人類の末裔フィーリ―たちと生活をともにしながら、竜の胎内を探検し、その秘密を研究することに何年もの時間を費やすことになる。まるでピノキオの物語のように、巨大な生物の胎内での生活という描写がとても興味深い。「地球の長い午後」的なSFが好きな人には、楽しめるはず。
 続く二篇は、ともにグリオールの意思によってまるで人が駒のように使われるという物語。この二つは、内容に触れるとネタバレしないではいられないので、軽く。
 「始祖の石」は、ある殺人事件をめぐる法廷ミステリー仕立ての物語。前作のキャサリンもちょっとだけ出てくる。人間ドラマで、グリオール自体は物語の背景に引っ込んでおり、あまり出てこない。
 「嘘つきの館」はグリオールとは別の雌の竜が出てくる物語。竜が人にも変化できるという設定が明かされる。クライマックスあたりのシーン、条件反射的にどこか清姫伝説的な図像が浮かぶが、物語自体は最初の二作のような鮮烈さはない。著者による自著解説によると、この物語が最後の作品への布石となっているらしいが、もちろん未読なので、それについては語れない。
 というわけで、非常に楽しめたが、この設定を使ってもっといろいろと出来そうな気がするので、残りの3篇の邦訳がどういうものなのかが気になる。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 一通りは読んだが、読み込めたという気はしていない。途中で道に迷い、それでも先へと読み進み、全体の2/3を過ぎたあたりでなんとなく全体の手がかりのようなものがまた見えてきた。そこで本来なら最初に戻って読みなおすべきだったのだろうが、しないまま最後まで読みきった。したがって、物語の中に流れる時間や人物の混乱がきちんと腑に落ちきってはいないというのが正直なところだ。従って、以下の感想もやや覚束ないところがあるが、とりあえず初読時の感想ということで。
 この時間的にも空間的にも人物的にも混乱をきたしている混沌とした物語をすっきりと整理して理解することは、なかなか簡単ではなさそうである。しかも、そこにメタの要素までが入り込んでいる。そのメタの部分をきれいに分けて取り出せれば、多分ある程度はすっきりするのだろうが、それもなかなか難しい。
 この小説をもっともシンプルに説明するなら、ムディート(=ウンベルト ペニャローサなのだが、実はこのあたりもやや微妙なところがある)の、上院議員ドン・ヘロニモの妻イネスに対する愛の物語、ということになると思う。つまりこれが縦軸。そこに、イネスの産み落とした奇形の息子〈ボーイ〉の物語が横軸として重なるが、物語を複雑にしているのは、この二つの軸は、どちらも少し「ぶれている」ということ。多分、縦軸の騙りが横軸の矛盾を誘発することによって生まれる「ぶれ」。そうしたぶれが生み出す、見ようによってはいくつもの縦軸と横軸のある物語の中を、「夜のみだらな鳥」、例えるなら欲望が生み出す妄想のようなものが、自在に飛び交っているように思える。そしてその鳥の描き出す軌跡が、物語を曖昧で複雑な文脈へと、つまり迷宮へと導く。
 読みながら、語り口や時間軸の移動の仕方はスティーヴ・エリクソンの初期作を思い出させたが、全体の構造としては、夢野久作の「ドグラ・マグラ」を連想させた。しかし、同じように閉じられた時間の中で反復される悪夢としての物語でありながら、「ドグラ・マグラ」は、物語の最後で主人公が「これは胎児の夢なのだ」と考えるが、そうした円環構造を持つ閉じた悪夢の物語として理解し得ることに対して、この「夜のみだらな鳥」という物語は、体中の穴という穴を縫い塞がれてしまったインブンチェという怪物と(精神的に、物語の最後ではある意味では肉体的にも)一体化してしまった、作家でもあるウンベルト ペニャローサの妄想、何度も形を変えて繰り返される自家中毒的に反芻される悪夢の物語とも読める。そうでなければ、物語の最後で袋の中に閉じ込められたムディートを含め、インブチェのイメージが何度も繰り返される理由がうまく説明できないのではないかと思う。「ドグラ・マグラ」と大きく違うところは、こちらの方が能動的・有機的であるという点である。
 と、多少無茶かもしれないとは思うが、「ドグラ・マグラ」と「夜のみだらな鳥」を比較して、物語の構造についてちょっとした分析をしてみたけれど、この物語の本当の楽しみ方は、そうしたところよりも、魔術的な語りの心地よさや、猥雑なエピソードの氾濫を楽しむことにあるのだと思う。特に、奇形の〈ボーイ〉が自らを奇形だと感じることのないようにと、様々な奇形の人物ばかりを集めて作り上げたまるでテーマパークのような場所「リコンナーダ」の様子、特に臓器製造所と化したウンベルトのエピソードや、修道院での「おかあさんごっこ」のエピソードなどは強烈で、夢に出てきそうである。また、修道院での賭けドッグレースのエピソード、老婆たちが追い剥ぎに変わってゆくエピソードなども印象に強く残る。
 あとひとつ気になったのは、要所要所で出てくる「黄色い牝犬」。これが何を象徴しているのか、いまひとつ汲み取れなかった。「黒い犬」といえば、黒い犬の姿をした不吉な妖精を指すことがあると同時に、うつ病の象徴だったりするが、黄色い犬も、例えば差別の象徴とか、何かを象徴していたりするのだろうか。気になったのは途中からなので、再読すれば分かるような気もするのだけれど……。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ダフネ・デュ・モーリア「人形」(務台夏子訳/創元推理文庫)読了。

 全14篇収録の初期短編集で、近年発見されたという表題作などはデビューの三年前、著者が21歳の時の作品だというから恐れ入る。デュ・モーリア版「ひとでなしの恋」ともいうべきこの作品の完成度が恐ろしく高い。乱歩の作品では、男性が少女の人形に恋する物語だったが、こちらはその逆で、女性が少年の人形に恋している物語。乱歩の作品よりも、かなり現代的でもある。しかもこの作品にはもうひとつ特筆すべき点があって、なんと主人公の女性の名前がレベッカというのである。もちろんあの名作長編「レベッカ」との直接の関連性があるわけではないだろうが、著者の頭の中には、ごく初期からレベッカという名前が存在していたという事実は、無視できる事実ではない。
 「レベッカ」といえば、「幸福の谷」という短編も、レベッカへと繋がる作品ではないかと解説にある。確かに物語のトーンが似ている。「レベッカ」に組み込まれたと言われても、納得する短編である。ぼくがこの短編集の中でいちばん好きなのが、ややゴシックの香りが漂うこの幻想小説。
 乱歩の名前がでたからというわけではないが、冒頭の「東風」は小さな島を舞台にした物語りで、長年に渡って孤立している小さな共同体の常として近親婚などが進み、独自の文化を持つようになっているところに、台風を避けた外国からの船がやってきたことで島の人々に小さな波乱を起こす、といったもの。横溝正史の小説に出てきそうなシチュエーションであるが、閉鎖的な世界の外に憧れる女性の心情を描き、ちょっと忘れがたい印象を残す。
 他の作品も、若書きだから今ひとつなのではという危惧は無用の作品が並ぶ。「ピカデリー」と「メイジー」は娼婦を描いた小説。「いざ、父鳴る神に」と「天使ら、大天使らとともに」は共通した主人公の連作で、自分のことをなかなかイケてる男だと思っている、権力に阿り弱者の痛みなど口先だけで全く理解しようともしない、かなり最低でスノッブな牧師の物語。「性格の不一致」は、ちょっと思い当たるところがあるなあと感じる男性も多いのではないかという、男の身勝手さについての物語。「満たされぬ欲求」は生活力がまるでない男の物語で、オチがなかなか洒落がきいてて面白い。「痛みはいつか消える」は浮気をされた女性の物語。「ウィークエンド」は、最初は女性にいい顔をして格好をつけてみせるが、自分の思い通りにならないとそれをすべて相手のせいにしてキレる男の物語。「そして手紙は冷たくなった」は、書簡のみで構成されている小説だが、女性に対して非常に熱烈な感情を抱いているところから、相手をうとましく感じるようになってゆく様子を描いている。などなど、全体的にクズ男を書いた作品が多いが、というより男の身勝手さを描いた作品が多いというべきか、なかなか辛辣である。やや毛色の違うクズ男作品としては、「飼い猫」は、中年の男と子持ちの女性の恋愛の物語なのだが、男は密かにその娘の方を狙っているという小説で、これもなかなか嫌な感じである。
 また、この本の末尾を飾る「笠貝」はこの本の中でも最も印象的な作品のひとつで、身勝手の塊ともいうべき女性の独白である。登場人物たちはみな、この女性に関わることで、ひどい被害を被るが、語り手の女性はただひたすら自分が被害者であると語り続ける。解説にもあるが、ちょっと関わりたくないタイプである。
 という感じでデュ・モーリアは、この初期作品集の中で人の嫌な部分を、多くはちょっとしたユーモアとともに、描き出す。こうした人を観察する目の確かさが、後の傑作群につながってゆくのだなと、改めて感じる短編集だった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





今年最初の更新が、個人的なメモみたいなものというのもなんですが。

古い怪奇幻想文学の話をしていて、「あれ、どっちが早かったっけ?」となることがよくあります。本格的に怪奇幻想文学に取り組んでいない証のようなもので恥ずかしいんですが、頭の中を整理するためにも、やっぱり大まかな縦の流れはきちんとしておきたい。
というわけで、自分用の防備録としての「個人的な理解による、1900年までの、怪奇幻想文学のざっくりした縦の流れ」です。

1705 「ミセス・ヴィールの幽霊」デフォー (英。最初の怪奇小説ともされる作品)
1764 「オトラント城」ウォルポール (英。ゴシック小説の始祖。近代エンターティメント小説の原点)
1776 「雨月物語」上田秋成 (日。日本の幻想文学の金字塔)
1785 「ソドム百二十日」サド (仏。ゴシックの影響下にある「マンク」に先駆ける暗黒小説の最高峰)
1786 「ヴァセック」ベックフォード (英。「ゴス」に連なるゴシックの分流の起点)
1794 「ユードルフォの謎」ラドクリフ (英。ゴシック・ロマンスの代表的作品)
1796 「マンク」ルイス (英。「ゴス」に連なる暗黒派ゴシックの原点)
1798 「ウィーランド」ブラウン (米。アメリカン・ゴシックの原点)
1815 「悪魔の霊液」ホフマン (独。ドイツ・ロマン派の隆盛。代表的作家ホフマンの代表作)
1818 「フランケンシュタイン」シェリー (英。ゴシック小説のひとつの完成形。SFの始祖)
1820 「放浪者メルモス」マチューリン (英。ゴシック・ロマンス隆盛の最後を飾る大作)
1833 「ファウスト」ゲーテ (独)
1839 「アッシャー家の崩壊」ポー (米。ポーの代表作。アメリカン・ゴシックの記念碑的作品)
1847 「嵐が丘」ブロンテ (英)
1858 「ファンタスティス」マクドナルド (スコットランド。トールキン、ルイスらへ連なるファンタジーの源流)
1860 「白衣の女」コリンズ (英。ゴシックの流れを汲む、スリラーの大ヒット作品)
1865 「月世界旅行」ヴェルヌ (仏。最初の本格的科学小説)
1872 「吸血鬼カーミラ」レ・ファニュ (アイルランド。吸血鬼小説の古典にしてレズビアン小説)
1884 「さかしま」ユイスマンス (仏。フランス・世紀末デカダンス文学の象徴的作品)
1886 「未来のイヴ」リラダン (仏。スチームパンクの原風景。アンドロイドの初出。人工楽園)
1895 「タイムマシン」ウェルズ (英。時間SFの原点。悲観的な未来と世界の終末)
1897 「吸血鬼ドラキュラ」ストーカー (英/アイルランド。吸血鬼小説のひとつの完成形)
1898 「ねじの回転」ジェイムズ (米/英。シャーリー・ジャクスンらへと繋がる、曖昧で嫌な物語の原点)


こうやって見ると、何となくそれぞれの名作と呼ばれる作品が、互いに影響を及ぼし合いながら成立してゆく、その流れが見えてくるような気がしてくるものですね。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





 今年はブログからツイッターに半ば移行してしまった一年でした。
 最初はツイッターは情報を集めるためにだけ開設したのですが、いつのまにか使い勝手の良さから、そちらばかりになってしまって。
 まあそれは良いのですが、少し困ったのが、今年読んだ本のベストを選ぼうを思って、記憶を辿ろうとしたとき。今まではブログにまとめていたので、すぐに一覧できたのですが、ツイッターだとそれが非常に煩雑になり、過去ログのダウンロードまでしなければいけないという状態になってしまいました。
 やっぱりブログという形である程度まとめておくことは必要ですね。
 で、今年は圧巻だったなあと思える本はさほどなかったなあという印象だったのですが、実際に読了本をピックアップしてみると、結構面白い本を読んでました。今年読んだ本は、だいたい80冊くらいだと思います。これが多いのか少ないのかは、微妙なところですね。
 では、なかなか絞れなかったのですが、今年のベスト10をピックアップしてゆきます。ちなみに、順位はつけていません。

バリントン・J・ベイリー「カエアンの聖衣」
ブラウリオ・アレナス「パースの城」
アン・ラドクリフ「イタリアの惨劇」
マイクル・ビショップ「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?」
アイザック・B・シンガー「短い金曜日」
カーソン・マッカラーズ「黄金の眼に映るもの」
W.G.ゼーバルト「アウステルリッツ」
吉屋信子「鬼火/底の抜けた柄杓」
シャーウッド・アンダスン「ワインズバーグ・オハイオ」
「ヴィクトリア朝怪異譚」三馬志伸編訳

以上、10冊。
 
 今年の総括としては、ゴシック・ロマンスに傾倒した一年だったように思います。このリストを見ても、それがはっきりと現れています(勢いで、ゴシック叢書を揃えてしまったりもしました。まだ半分くらいしか読んでないのですが……)。
 ラドクリフ、アレナス、シンガー、マッカラーズ、吉屋信子、ヴィクトリア朝怪異譚の6冊には、多かれ少なかれ、ゴシック・ロマンスの香りが漂っています。
 特にアン・ラドクリフは、ゴシック・ロマンスの始祖とさえ呼んでよい作家です。
 ウォルポールの「オトラント城」から始まるとされるゴシック小説には、大きく分けて、ゴシック・ロマンスのベストセラー作家ラドクリフの系統と「ヴァセック」のベックフォードから「マンク」のルイスへと続き、耽美的なゴスのイメージを形作った暗黒ゴシック小説の系統があるように思うのですが、今年ぼくが特に気になって読んだのは、ラドクリフに始まって、今年読んだ本の中ではブロンテの「嵐が丘」を経て「忘れられた花園」のケイト・モートンに至るロマンスとしてのゴシックでした。また、そうしたゴシック・ロマンスを半ば揶揄しているようなジェーン・オースティン「ノーサンガー・アビー」もとても面白かったです。
 日本のゴシック的なところのある作家では、吉屋信子を初めてちゃんと読んだのですが……好きですね。中井英夫「虚無への供物」を再読したりもしました。また、ゴシックといえば屋敷がつきものですが、最近の日本作家の作品として、木犀あこ「奇奇奇譚編集部 幽霊取材は命かげ」はシリーズものの第二作ですが、この中に収録されている「不在の家」という話が、幽霊屋敷を描いた小説として出色でした。ギルマン「黄色い壁紙」やジャクスン「丘の屋敷」が好きな方はぜひ。
 ところで、ここに挙げた作品の中で、順位はつけないとは書いたものの、特に印象的だったのは、シンガー「短い金曜日」とマッカラーズ「黄金の目に映るもの」でした。
 同じユダヤ系の作家レオ・ペルッツの「アンチ・クリストの誕生」も見事なストーリーテイリングで素晴らしかったのですが、珍しいイディッシュの作家であるシンガーには、ストーリーテラーとしての才に加えて絶妙な土着的な香りがあって、ぼくには非常に魅力的でした。
 マッカラーズは、現在ほとんどの本が絶版になっていて、古書価が高騰する一方なのですが、このあたりでまとめて選集の形で代表作をどこかから出してはくれないものか、と心底思っています(「悲しき酒場の唄」の復刊と同時に、とかならないかな……)。そのくらいこの薄い本の衝撃は鮮烈で凄かったです。他の作品もぜひ読みたい。
 ベイリー「カエアンの聖衣」とビショップ「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?」はSF枠で。同じようにどこかおかしすぎる話として、ボイス「キャッチワールド」も迷ったのですが。
 SF枠かどうかは微妙ですが、再読した中では、サンリオSF文庫に入ってたオブライエン「失われた部屋」も久々に読んで、収録されていた「手から口へ」がこんなにすごい話だったっけと、改めて驚いたりもしました。
 ベストに入らなかった作品で、最後まで迷った作品もいくつかピックアップしようかとも思ったのですが、それをやるときりがなさそうなので(笑)、このあたりで。
 それではみなさま、よい年をお迎えください。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






 ゴシック小説が好きだと言うと、ゴシック小説ってどういうものなのかと聞かれたりするのですが、正直なところぼくにもよく分かってないところがあるので、答えに窮したりします。最近出た「ゴシックの炎」もまだ読んでません(笑)。でも、怪奇小説とは明らかに違うのは確か。ホラーという言い方だと、もっと違う気がします。他方、音楽のゴシックロックやファッションのゴスロリに代表されるアート寄りの「ゴス」は、確かにゴシックの末裔であるとは思うけれども、怪奇小説と同じように、もともとのゴシックから枝分かれした分枝の一つのように思えます。◯◯ゴシック(例えば、テクノゴシックとか)、あるいはゴシック◯◯(ゴシックミステリーとか)というような言い方をされる多くのものもそう。だけど、ぼくが最近興味のあるのは、ホラーでもゴスでも◯◯ゴシックでもゴシック◯◯でもなくて、オールドスタイルのゴシックの香りが高い小説。
 このあたり、自分でも漠然としているところがあって、考えを整理するために、ちょっと長くなりそうですが、思っていることをつらつらと書き連ねてみようかと思います。あくまでも個人的な定義であり、実際とは違うところも多くあるかもしれませんが、興味のある方は読んでいただければ。
 それでは、オールドスタイルのゴシック小説とはどういうものだとぼくが思っているのか。それを一言で表すとするなら、こういう言い方になると思います。

「迷宮的な建物やいわくのある場所を舞台にして、超自然的な事象(後にそれが超自然的なものでなかったと判明しても可)や神秘的なものが介在した恐怖に主人公が呑まれ、人智を超えた運命のようなものに翻弄される、大げさで過剰でドラマティックな物語」

 ゴシック小説がゴシック小説として成立するためには、まず最初に、物語がそれらしく成立するために相応しい、いわゆる「ゴシック的」な舞台を用意することが不可欠のように思えます。ゴシックには、大々的な舞台装置が必要なのです。具体的には、好まれる舞台としては、ヨーロッパでは主に古い城や僧院、もしくは広大な貴族の屋敷など、アメリカではそういった古い建築物がないので、先住民族の気配の残る、あるいは無慈悲な、広大なアメリカの大地を舞台とすることが多いようです。ところで、日本にオールドスタイルのゴシック小説があるとするなら、それは旧家や孤島を舞台とする一族の物語になることが多いように思えます。日本のゴシックは、世間から隔絶したところにある古い因習がゴシックを喚起する最大要素じゃないかと思います。
 これがゴシック以外の文学作品とは大きく異なるところで、あるいはゴシックは、どちらかといえばファンタジーに近い部分があるのかもしれないとも思うことがあります。しかもその舞台は、人工的に用意されたものであるにも関わらず、どこか人智を超えたような存在感がなければならない、というアンビバレントさが共存している必要があります。分り易い例で言えば、ピークの「ゴーメンガースト」でしょうか。ついでに言うなら、ゴシックは、外に向かっては閉じられ、内に向かっては開かれているようなところがあるように思います。
 もともと、ゴシック小説の始まりとされる「オトランド城」は、実際に見た夢を手がかりに、ウォーポールが自らの趣味的な世界を書いた小説であり、どちらかといえば神秘性を纏った趣味的な舞台を魅力的に描きたいがために、過剰にドラマティックな物語が要求されたもの。そうしたゴシック小説がいかにもゴシック小説らしくあるための「場所」や「小道具」へのフェティッシュなこだわりが、独自の発展をして、現代のゴシックに多く受け継がれています。そしてその方法論が、後の様々なアート作品やエンターティメント作品に利用されているため、現代のカルチャーシーンにおいて、ゴシックの影響は非常に強くなっています。
 ウォーポール以降は、ラドクリフらを中心に、彼の打ち出した「ゴシックっぽさ」が、そうした大げさな物語が成立するために相応しい舞台として流用されました。ピクチュアレスクが重要な要素としてフューチャーされたのも、純粋な娯楽として「心を浮遊させる」物語にはどこか神秘的で現実離れした舞台が求められたためで、それがよりヒロイックで選民的な特別な存在として小説の主人公たちを彩り、物語の雰囲気を高める役割を果たしたしました。ゴシックロマンスを読みながら、しばし読者は現実を離れ、時間と空間を超えた読書体験が出来たわけです。
 ただし、ほとんどのオールドスタイルのゴシックロマンスにおける「恐怖」は、重要ではあるもののあくまでも物語を盛り上げるための装飾であり、怪奇小説、特にいわゆるモダンホラー以降のホラー小説との決定的な違いは、恐怖そのものが目的となるわけではないという点だと思います。ゴシックロマンスにおける物語は、あくまでも神秘なるものの前に晒された登場人物たちの戦慄やドラマティックな運命に主眼が置かれ、恋愛、財産、身分、血縁等の現実的な物事が重要視されつつ、どちらかといえば通俗的な、はっきりと人間ドラマ的な物語性を志向します。従って、後に幽霊や怪奇現象だと思われていたものが実際にはそうでなかったと判明することも多い(むしろ、そちらの方が主流と言ってもいい)。そして、奇をてらい、扇情的ではあるものの、物語は大抵あるべきところに落ち着き、どちらかといえば一応は勧善懲悪的な結末になることの方が多く、例え悲劇に終わるとしても、後味はそれほど悪くはありません。
 恐怖そのものが目的とされないというのは、ゴシックロマンスが下火になった後の、現在までさまざまな形を取りつつ書かれているゴシック小説にしても例外ではなく、それがまさにゴシックとホラーを分けているものと考えます。ゴシックが目指すものはその恐怖の彼方にあるもの、つまり人の力では為すすべもない神秘に「圧倒されること」にあります。従って、ゴシック小説の多くは運命論的なところがあり、登場人物たちは神秘なるものを前にして受け身であることが多く、裕福な女性に熱心な読者が多かったこともあって、物語そのものがどこか女性的であるように思えます。

 といった感じでしょうか。ゴシック小説の定義は難しく、もちろんこれが正解というわけではありません。あくまでも、自分が「ゴシック」と呼ばれる小説群から受ける印象です。
 オールドスタイルのゴシックは、確かに現代的な小説とは言えないのですが、妙な魅力があって、そういった「昏い夢にひたすらどっぷりと浸りきった」ドラマティックな物語を読むのが、最近はちょっと好きなのですよね。ゴシックに面白さを感じるかどうかは、身も蓋もない言い方をしてしまうと、結局は「ゴシック的感性」としか言いようのない感性の有無に依るのではないかと思います。良くも悪くもゴシックは、書き手にも読者にも、それが非常に要求される分野だという気がします。ゴシック的な雰囲気が好きかどうか、ということですね。
 まあ、結局なんだか漠然とした記事になってしまいましたが、とりあえず。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





「たんぽぽのお酒」 レイ・ブラッドベリ著 北山克彦訳
文学のおくりもの 晶文社刊

を読む。

 長らく積んでいた本ですが、ようやく読みました。正直、あまり期待もしていなかったのですが、面白かったし、読んで良かったです。この本に関して言えば、今がちょうど読み時だったのかもしれません。
 この本に書かれているのは、少年の頃、この本について言えば1928年の「あの夏」、を永遠にしたいという強い渇望にも似た思いです。ブラッドベリの作品に流れるノスタルジーを何かで割ることなく、そのままストレートな(たんぽぽのお酒という)原酒として出したもの、という感じがしました。長編小説ですが、短いエピソードの寄せ集めで構成されたひと夏の物語で、一応主人公はおそらくブラッドベリ自身を投影したダグラスということになるのでしょうが、実際のところは彼の住むアメリカの片田舎の小さな町とそこに住む住人たち、何よりもそのすべてが確かにあったあの夏のあの場所に違いありません。
 物語は、夏の最初の日の早朝、町でいちばん高い塔の上から夏の始まりを告げるシンフォニーを指揮するダグラスのシーンから始まり、その三ヶ月後の夕刻に、同じ場所で夏の終わりを告げて指揮棒を下ろすシーンで終わります。そのひと夏に、町ではささやかではあるけれどもさまざまなことが起こり、ほんの少しダグラスは大人になってゆきます。しかしそれは、いわゆる少年の成長物語というのとは少し違っています。ダグラスがその夏に向き合うことになったもの、それは「幸福な少年時代はいつか終わり、やがて必ず死がやってくる」という現実です。誰にでも、子供の頃にその事実に気がついて、怖くなった経験はあると思います。実際、ダグラスはその事実から目をそらそうとする余り、病気になってしまい、物語の終わりの方で高熱を出して死の縁を彷徨うという体験をします。彼はその死との戦いから生還するのですが、彼を救ったのは、ある男が彼のために紡いだホラ話、そう、ファンタジーでした。いかにもブラッドベリらしくはありませんか?
 また、たとえばこの小説の主題のひとつは、ダグラスの思索の中のこんな場面に述べられています。
 ……どこかに、かつてなにかの本で読んだことだが、これまで話されたすべての話し、これまでに歌われたすべての歌がいまだに生きていて、振動しながら宇宙に出てきており、もしケンタウロスの星座まで行けるものならば、ジョージ・ワシントンが寝言を言っているのや、シーザーが背中にナイフを突き立てられて驚くところを聞くことだってできるのだそうだ。音についてはそのくらいにして、それでは光はどうだろう?あらゆるものは、ひとたび見られたとなると、そのまま死に絶えたりはしないんだ。それはありえないことだ。とすれば、世界を探せば、きっとどこかに、おそらくは花粉に焼かれた蜜蜂が、光を琥珀色の活液として蓄えている、蜜のしたたる幾層もの箱からなる蜜蜂の巣に、あるいは正午のとんぼの、宝石をちりばめた頭蓋骨の三万個のレンズのなかに、あらゆる年の一年間のすべての色彩と光景とがみつかるかもしれない。あるいは、このたんぽぽのお酒のたった一滴を顕微鏡の下に注げば、おそらく七月四日の独立記念日の世界全部が花火となって飛び散り、ベスビアス火山の爆発のように、降り注ぐことだろう。これはたぶん信じなければならないことなのだ。……
 
 この物語の中には、数多くの老人たちが登場します。それぞれ魅力的な人物で、それぞれが忘れ難い言葉を残します。例えば、南北戦争で活躍したという老人フリーリー大佐が、勝った記憶について尋ねるダグラスに語る、こんな言葉がありました。
「わしはいつだろうと、どこだろうと、だれかが勝ったなどという記憶はないね。戦争は勝つものじゃないんだ、チャーリー。いつだって敗けるだけで、最後に敗けたほうが降参するのだよ。わしの覚えていることといえばたくさんの敗北と悲しみだけで、よかった記憶は終戦のほかにはなにもない」

 ブラッドベリといえば短編作家というイメージがあって、あまり長編に良い作品がないという印象があります。「華氏451」は中編扱いが普通らしいので、後はといえば「何かが道をやってくる」が比較的評価されているくらいでしょうか。けれども、個人的な感想を言わせて頂ければ、「何かが道をやってくる」はそのプロトタイプである「黒い観覧車」の饒舌な劣化版のように思えます。「火星年代記」や「刺青の男」などがそうですが、ブラッドベリには、短編連作による長編や、あるいは本作のような、エピソードの積み重ねによる長編の方が向いているような気がします。

 さて、本を最後までめくり終え、奥付を見ると、1985年7月20日発行とあります。初版が1971年で、この本は44刷。
 44刷!
 今の外文の状況を思うと何だか隔世の感がありますが、ともかく新刊書で買ってからずっと積んでいた本なので、三十年をゆうに超えるだけの時間、積んでいたことになります。読みたくなかったから読まなかった訳ではなく、むしろその逆で、ここぞという時に読もうと、当時の自分は読むのを我慢し、その結果、読む時期を逸してしまったのです。
 十代半ばの当時、一年か二年ほどのあいだ、ブラッドベリに結構はまっていた時期があって、早川と創元から出ていた文庫は全部読みあさりました。で、この本は文庫ばかりの自分のブラッドベリのコレクションの中で唯一のハードカバーとして購入したのですが、評価が高いということを知っていたし、すぐに読むのが勿体無いような気がして、「今日こそこの本を読む日だ」と感じる時まで置いておこうと、そんな感じの半ば本を神格化してしまったかのような特別感にとらわれて敢えて読まなかったんだったと思います(馬鹿ですね)。多分、その頃に読んだ川又千秋さんの「夢の言葉・言葉の夢」の影響もあった気がします(この評論集は、その文学青年然とした感傷性がとても心に響く、まるでエッセイのようなユニークな評論集でした)。けれども、ある時期に読書の傾向がやや変わってくると、突然ブラッドベリ作品をあまり読む気になれなくなって(新しめのブラッドベリ作品が、ややマンネリに感じ始めたせいもあります)、この本もそのまま本棚の隅に取り残されたままになってしまいました。何度か読もうかとも思ったのですが、どうも上手くのれなくて、ということを繰り返して、気が付くと数十年が経ったというわけです。ブラッドベリという作家は、十代の早いうちに読むのがベストという作家のような気がするし、もう読まないかもなあと思っていましたが、今度参加する読書会でブラッドベリをやるというので、これが最後の機会かもと、一念発起して読むことにしたのです。
 「たんぽぽのお酒」をようやく読み終えることができて、何だかブラッドベリにやっとお別れをきちんと言えるような、そんな不思議な気分になりました。この一冊を読んでないことが、ずっと心の片隅に棘のように残っていたということですね。
 ブラッドベリの本はもちろんですが、若い頃に買った本の一冊一冊は、手に取るとその本を買った時の記憶とか読んだ時の気持ちだとか、部屋の様子だとかが思い出されます。それこそが、確かにそんな、「たんぽぽのお酒」の一杯のようなものなのだということなのでしょう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 気が付くと、随分とブログを放置してしまっている。最近はただの読書録になってしまっているから、twitterで「読了」と書いてしまうと、なんとなく満足してしまうせいだ。でも、きちんと記録に残すという意味ではブログは貴重なので、まだ細々と続けてゆくつもりではある。

 来週、「奇妙な世界の片隅で」のkazuouさんが主催している読書会に参加する予定なのだが、その中の企画で、「自分だけのベスト10」を作って持ってゆくということになり、最初は軽く考えていたのだけれど、ぼくは何度かそうしたベスト的なリストを作っているので、何となくオールタイム的なものを選ぶと同じようなものになってしまうため、うーんと思ってしまった。で、色々と考えていたが、結局、最近好きなゴシック小説でゆくことにした。でも、ただ選ぶだけだと、ゴシック叢書をなぞるような感じになってしまう。で、考えたのが、国書刊行会の「ゴシック叢書」(全26巻34冊)を補完するようなラインナップを作ったらどうか、ということ。そもそもゴシックの定義は人によってかなり違うそうなので、もちろん個人的な趣味最優先。既訳作品のみで。
 で、色々考えた結果、とりあえず出来たのが以下のようなもの。(完全じゃないけど、なるだけ国書から出ているタイトルは避けました)

***

ゴシック叢書プラス

海外篇

●アン・ラドクリフ 「ユードルフォの謎(完訳版)」 (Ⅰ、Ⅱ)
●トルーマン・カポーティ/カーソン・マッカラーズ 「遠い声遠い部屋/悲しき酒場の唄」
●マルキ・ド・サド 「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」 (Ⅰ、Ⅱ)
●ジュリアン・グラッグ/ジョルジュ・ローデンバック 「アルゴールの城にて/死都ブリュージュ」
●シャーリイ・ジャクスン 「丘の屋敷」
●スティーヴ・エリクソン 「彷徨う日々」
●ガルシア・マルケス 「百年の孤独」 
●ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」(Ⅰ、Ⅱ)
●デュ・モーリア 「レベッカ」
●ジェイン・オースティン 「ノーサンガー・アビー」
●マーヴィン・ピーク 「タイタス・グローン」
●短編集(Ⅰ、Ⅱ)
  シャーロット・パーキンス・ギルマン 「黄色い壁紙」
  ウィリアム・フォークナー 「エミリーに薔薇を」
  カルロス・フェンテス 「アウラ」
  アンナ・カヴァン 「母斑」
  コルタサル 「占拠された屋敷」
  エッサ・デ・ケイロース 「縛り首の丘」
  M.R.ジェイムズ 「秦皮の樹」
  マルキ・ド・サド 「ロドリグあるいは呪縛の塔」
  デュ・モーリア 「モンテ・ヴェリタ」
  ヴァージニア・ウルフ 「憑かれた家」
  エリザベス・ボウエン 「猫は跳ぶ」
  イサク・ディネセン 「ノルデルナイの大洪水」
  ポール・ボウルズ 「優雅な獲物」
  アンリ・ボスコ 「シルヴィス」

全12巻16冊。

 編集する際に意識したことといえば、もともとのゴシック小説の中に通底する「ゴシック性」という漠然とした縛りを意識するすることと、それにはある意味で反するものになるかもしれないが、あくまでもゴシック叢書「プラス」ということで、意識的に英語圏から離れたり、確かにゴシック性を持っていると思われるが、ゴシック小説の文脈ではあまり語られないような作品も取り上げるということだった。しかし、あまり範囲を拡大しすぎないようにも心がけたつもりである。映像作品やスチームパンクから強く影響を受けていると思われる、ファンション性の高い現代のゴスは入れなかった。

 「邦訳のあるものを」と書いたので、最初にリストアップした「ユードルフォの謎」に関してはやや強引な反則技に近いが、一応ダイジェスト版は出ている。なので、完訳を出して欲しいという意味で、ラインナップに入れた。ゴシック・ロマンスは、この作品の邦訳が出ない限り、まともな議論にはなりそうもないからである。
 カポーティとマッカラーズ、グラッグとローデンバックは、それぞれが短いのでカップリング巻として。一応、共通するところのある作家を合わせたつもり。
 カポーティとマッカラーズは、どちらもアメリカ南部の作家で、かつ同性愛者。どちらの作品も、そうした二人の資質がよく出ていると思う。どこか乾いた、アメリカン・ゴシックらしい掌編二編だと思う。
 グラッグとローデンバックは、フランスとベルギーという、どちらもフランス語圏の作家。シュールレアリストと象徴派ということだが、いずれにせよゴシックの影響下にあるのではないか。ゴシックは、どこか作り物めいたところがあるものだとぼくは思っているので、より知的で芸術性高めのゴシックの代表作として選んだ。
 サドは、そもそも存在そのものがゴシックという感じさえある。思い込みの激しさも、見事なくらいで文句なし。ぼくの考えでは、ゴシックというのは、ある意味で作家の存在そのものに「ゴシック性」があるかどうかが、非常に重要であると思っている。ゴシックの感性を持つ作家がつくり上げるものは、何でもどこかゴシック性を持つものであり、ゴシック性を持たない作家は、決して本当の意味でのゴシックは作れない。それは別に小説に限らず、絵画でも、音楽でも、映画でもそうである。そういうところがあるのではないか。で、代表作のこれを、完訳版で。
 北米マジックレアリスムとか言われる作家、スティーヴ・エリクソンは、何でもよかったのだが(笑)、デビュー作のこちらを。映画を題材にしているのもいい。ハリウッドは、ある意味でゴシック・ロマンスの、かなり血の濃い、子孫であるように思えるからである。対立候補として、ポール・オースターの「ムーン・パレス」も考えたが、ハリウッドが題材という点で、こちらに軍配が上がった。
 「アメリカの小説には、ゴシックの血が流れている」というようなことが言われることがあるが、近代的なエンターティメントの原点となっているのがゴシックであると捉えるなら、確かにそうかもしれない。アメリカの初期ゴシック小説には確かに城や僧院などは出てこないかもしれないが、そもそも歴史の浅いアメリカにそんなものがあるはずもない。代わりに「謎めいた場所」の舞台として選ばれたのが、「アメリカの非情なまでに広大な大地」であるとぼくは思う。怪奇小説の「恐怖」に対してゴシックが重視するのは「崇高」だとはよく言われること。新世界であるアメリカの複雑で圧倒的な自然は、崇高さを演出する舞台として十分であったはず。
 入れるかどうか迷ったマルケスは、南米マジックレアリスムの作家だが、「百年の孤独」は特にゴシック性が高いような気がするので。南米マジックレアリスムとゴシックの関係性は、どういうものなのだろうか。何となく近いものがあるように思うのだけれど。
 エーコは、極めて知的で現代的なゴシックミステリーの代表として。他には特に述べることもない。
 ジェイン・オースティンは、ゴシック・ロマンスのパロディとして名高い作品。ゴシック叢書を補完するなら、悪くはない気がする。
 最後のピークは、ファンタジー分野から一つということで。ホジスンの「異次元を覗く家」と迷ったのだが、やはりこちらの方がよりゴシック的だということで、「ゴーメンガースト三部作」の一番最初のこの作品を。
 ジャクスンとデュ・モーリアに関しては、文句なしだと思う。一作だと分量が足りないので、ジャクスンの巻には、短編も入れたい。あるいは「ずっとお城で暮らしてる」とのカップリングも悪くないし、さらに言えば、ヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」とのカップリングでも悪くないかもしれない。ただ、ジェイムズはゴシック叢書に入ってるのですよね(まあ、ラドクリフも入ってますが)。
 短編集の方なのだが、まあこんなものかなと。記憶力があてにならないので、落としているものが多そう。ぼくは、基本的にゴシックは長い作品こそが本流だと思っているので、やや杜撰なリストになったかもしれない。それでも、挙げた作品はすべて名作であると思う。

 ついでに、日本篇も考えてみたが、こちらはかなり中途半端。日本の小説は、余り数を読んでないので。

日本篇

●夢野久作 「ドグラ・マグラ」
●村上春樹 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」
●江戸川乱歩 「孤島の鬼」
●山尾悠子 「ラピスラズリ」
●澁澤龍彦 「高丘親王航海記」
●中井英夫 「虚無への供物」
●桜庭一樹 「赤朽葉家の伝説」
●小野不由美 「残穢」
●野阿梓 「凶天使」
●短編集
  上田秋成 雨月物語より「浅茅ケ宿」「蛇性の婬」
  筒井康隆 「遠い座敷」
  星新一 「門のある家」
  野坂昭如 「骨餓身峠死人葛」
  平井呈一 「真夜中の檻」
  小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
  小川未明 「火を点ず」
  小松左京 「くだんのはは」
  半村良 「箪笥」
  内田百閒 「サラサーテの盤」
  吉屋信子 「童貞女昇天」
  吉村昭 「少女架刑」

全10巻。

 三大奇書は全部入れるべきなのだろうが、読んでないものは入れられない。なので、「ドグラ・マグラ」と「虚無への供物」のみ。ただし、虚無の方はあまり覚えてない。
 山尾悠子は、日本では数少ない「幻想文学作家」を名乗る作家なので、入れざるを得ない。桜庭一樹も、そのものずばり「ゴシック」という人気作品を持つ作家として入れておきたい。この作品は、日本のマジックレアリスム作品として、面白さと文学性を兼ね備えた名作。
 「日本のゴシック」というものを考えるなら、ヨーロッパの城、アメリカの大地に対して、もっと土着的な「家」というか因習というか、閉鎖的な共同体が舞台になるように思えるので、島なんて良い舞台である。ピクチュアレスクという面でも申し分ない。江戸川乱歩や横溝正史は入れるべきなのだろと思ったが、横溝は余り知らないので、入れられなかった。「獄門島」は、良い候補であるとは思うのだが。
 ゴシック・ロマンスには、過去と現在の連続性、もっと言うなら、過去の現在に与える影響というものが重要な役割を果たしていて、しかも舞台の派手さ、物語の波乱万丈さに比して、実は結構小さな範囲の関係性の物語にすぎないというところがある。そういった面では、日本の風土とは相性がよさそうではある。
 村上春樹は一作、ぜひ入れたかった。あんまり言う人はいないけれど、村上春樹は、アメリカ小説の強い影響下にあるせいか、かなりゴシック性の高い作家だと思う。近年、どんどんその傾向が強くなっているようにも思える。ただし、近年の作品はあまり好きではないので、個人的に面白かったといえる最後の作品「ダンス・ダンス・ダンス」とこれで最後まで迷ったのだが、独立した作品ということで、やっぱりこちらを。
 澁澤龍彦は、小説作品で最も完成度の高いこれを。日本の幻想文学としても一級品だと思う。
 小野不由美と野阿梓は、やや苦し紛れ。デビュー以来、独特の世界を貫いている野阿さんだが、ゴシックと言っていいのか、よく分からない。小野さんの残穢は、家の怪異と正面から向き合ったユニークな作品で、非常に怖い。ただし、ゴシックなのかどうかは……。
 中上健次や倉橋由美子や三島由紀夫や森茉莉は、入ってくる可能性があるのだろうが、あまり作品を知らないので入れられなかった。それを言うなら、日夏耿之介や堀口大學などの昔の詩人も重要なのだろうが、詳しくないので入ってない。彼らに限らず、落としてる作家や作品は沢山ありそう。しかし、日本の小説から「ゴシック」という視点で選ぶと、なかなか難しい。いわゆる幻想文学ならたくさんあるのですが。ぼくがよく知らないだけかもしれない。詳しい人にガチで選んで欲しいと思った。
 短編集は、アンソロジーに常連の名作ばかりになってしまったかも。あんまり日本の小説を知らないせいもある。変わった作品としては、ひとりだけ作品が重複している小川未明の「火を点ず」。これは、「入れたかったから入れた」感が強い。ゴシックというよりは、未明の短編が童話と比べてかなり異質な味わいがあるということを示したかった。
 吉屋信子の「童貞女昇天」は、かなりゴシック的味わいの深い良い短編だと思う。
 日本でゴシックを考えるなら、「ゴシック」というより、むしろ「ゴス」という考え方で選ぶ方が良いのだろう。それはわかっている。最後の「少女架刑」は、ややそっち寄りで選んだ。以前twitterで、怪奇幻想文学研究家の中島晶也さんが「ゴスは衣装という形で城を身に身に纏っているという点で、ゴシックの正統な末裔」というようなことを仰っていて、なるほどと思ったのだが、翻ればそれだけゴシックが小さくポータブルなものになってしまったということでもある。ゴスロリが日本で人気を博したのも、もしかしたら現代日本の事情を鑑みてサイズ的にちょうど良かったから、といった感じなのだろうか。

 ということで、完成した「ゴシック叢書プラス」のラインナップですが、結局さほど物珍しさもなくて、なかなか微妙かも。特に、日本篇はかなり手を入れる必要がありそう。読書量と記憶力が圧倒的に足りない。これでもそれなりに試行錯誤したんですが(笑)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?」 マイクル・ビショップ著 小野田和子訳
ドーキー・アーカイヴ 国書刊行会刊

を読む。

 「スティーヴン・キング非推薦!?の錯乱必至メタ・ホラー・エンターテインメント!」という、強烈なキャッチコピーの一冊。
 なぜ非推奨なのかといえば、まずタイトルのスティーヴィ・クライという人物名がスティーヴン・キングにちょっと似てるから。これが意識的であることは、作者も認めている。次いで、内容が当時一世を風靡し、大量に生産されていた「モダンホラー」のパロディ的な側面を持っているから。しかしあとがきで、マイクルは自分はキングに対して、称賛以上のものを持っていると言っている。この小説でちょっと茶化したかったのは、キングその人ではなく、彼の亜流として金儲けを企む有象無象の「モダンホラー」作家だったらしい。しかし、キングがそんなことを知るはずもないから、面白いわけがない。馬鹿にされたと感じるに決まってる。したがって嫌っていた――「非推奨」と言うわけである。
 この小説を読んだ感想としては、これが含まれるシリーズ『ドーキー・アーカイヴ』の編者の一人である横山茂雄さんの作品紹介の言葉――〈モダン・ホラーの卓越したパロディ、複雑な構造を備えたメタ・フィクションにして、リアルな南部小説――しかも、読者を底知れぬ恐怖に陥れるという驚異の離れ業〉――に、ほぼ全てが語られているように思えるが、それは一読したからこそ簡潔で見事な紹介文だと感じ入るわけで、内容を知らない人には何のことやら分からないだろう。

 以下、あらすじを紹介しつつ、感想を。感想とあらすじを、ほぼ同時にやってます。
 ただし、このブログは、最近読んだ本の内容をすぐに忘れてしまう自分のための防備録を兼ね始めているので、かなり無遠慮にネタバレをしています。お気をつけください。


 本を開いて、目次の次に、最初に前付けのタイトルページがあるのだが、そこには「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?――あるアメリカ南部の物語」とある。ページをめくると、そこにはもうひとつ別のタイトルページがあって、そこには「タイピング――ウィックラース郡の狂女の人生における一週間/モダン・ホラー小説/A.H.H.リプスコム」とある。つまり、この本にはもうひとつのタイトルと著者がいるということで、この時点でこの作品がメタ・フィクションであることがわかる。同時に、狂女を主人公にした「モダンホラー小説」であることが宣言されている。
 次のページからは、普通に物語が始まる。
 主人公はスティーヴィ・クライ。13歳の息子と8歳の娘を持つ未亡人で、フリーでライターの仕事をしている。夫は数年前に癌であっさり亡くなってしまっている。病気とほとんど戦おうとさえせずに。彼女はそのことに対して、裏切りにも近いものを感じている。夫が残してくれたものといえば、彼女が現在仕事で使っているタイプライターだけである。もともと上位機種であるとはいえ、時代は次第にワープロに移行しつつある時代。しかし、女手ひとつで不安定な仕事をしながら二人の子供を養う彼女には、もちろんそんなものを買うような余裕はない。ところが、そのタイプライターが突然壊れてしまった。仕事をする上で、タイプライターはなくてはならないものである。販売元に問い合わせると、修理には最低52ドルかかるという。金銭的な余裕のない彼女はその値段が気に食わず、友人に相談したところ、自分の知っている人がタイプライター修理の名人だと教えてくれた。喜んだスティーヴィはタイプライターを持ってその男シートン・ベネックのもとを訪ねる。彼は子供がそのまま大きくなってしまったような風貌をしており、明らかに変人だったが、腕は確かで、しかも実費の10ドル67セントで修理してくれる。スティーヴィは満足する。しかし、彼は修理の終わりに、タイプライターにちょっとした細工をしたようだった。
 たった52ドルをケチってシートンに修理を頼んだそのことが、悪夢の始まりとなる。その夜、悪夢にうなされて目を醒ました彼女は、隣の部屋からタイプライターの音が聞こえてくることに気づく。おそるおそる部屋に向かうと、音が消えた。部屋の中を覗き込むと、タイプライターが長い文章を打ち出した紙が残されている。それは、夫の死にまつわる悪夢を再現したような支離滅裂なワンシーンだったが、その最後は、夫が彼女にこう語るところで終わっていた――「もしぼくがあきらめたように見えたのなら、スティーヴィ、その理由はただひとつ」
 もともと夫の死に納得のゆかないものを抱えていたスティーヴィは、それが異常な現象であったにも関わらず、その言葉の続きを知りたいと思うようになり、積極的にタイプライターに自動書記させようと試みるようになる。夫の真意は何だったのか。そしてついには、タイプライターと対話さえ行うようになってゆく。しかしタイプライターの打ち出す文章は、次第に悪夢と一体化してきて、ついには現実とタイプライターの打ち出す悪夢との境界線を脅かすようになってくる。途中にスティーヴィの眠りが介入するところがミソで、ここから先は、スティーヴィがそうである以上に、読み手に夢と現実の混乱を促すような記述になってゆく。暑がる息子の布団を剥ぐと、身体が溶けてしまっていたり、また、友人たちと比べて遅れていると悩む息子と性的関係を持ったり。そうした悪夢が、まるで現実にあったかのように真に迫って、次々と彼女を襲う。しかも、彼女の家に突然訪ねてきたシートン・べネックスがその悪夢をさらに酷いものへと推し進める。シートンは一匹のクレッツという名前の猿を連れてきたのだが、子供たちがその猿に喜ぶこととは対象的に、スティーヴィは彼とその猿の存在を非常に薄気味悪いものと感じる。
 しかし同時に、彼女はタイプライターを積極的に利用しようともする。タイプライターを脅迫(!)して、夫の言葉の真実を語らせようとしたり(実際、ある程度語ったりもする)、さらには、あるとき突然出版社から電話がかかってきて、彼女にフィクションを書かないかと持ちかけてくるのだが(この電話の中で、A.H.H.リプスコムの名前がさり気なく登場する)、その後彼女は(あるいはタイプライターは)、なかば共同作業のようにしてひとつの短編を書いたりもする。それが作中作である「猿の花嫁」。しかしこの短編自体、彼女の置かれている現実と悪夢の境界線上にあるものである(これが、なかなか面白い短編だった。どこか昔のゴシック小説の作中作を思わせる)。
 この辺で、物語は急速に畳みに入る(急展開で、しかも複雑なメタ構造になっているので、あらすじをまとめるのが難しい)。
 小説を書いた後、それを娘に読んで聴かせてやっていたところ、突然の意識の断絶があって、気が付くと自分が息子のベッドの端に座っていることに気がつく。一体どこまでが現実にあったことなのか分からず、ふたたび娘の部屋をのぞくと、娘の枕元に、まるでガーゴイルのように、猿がいることに気がつく(有名なフュースリーの<夢魔>の絵を意識しているように思える)。電話がいきなりかかってきて、取ると、相手は何も喋らず、受話器の向こうからは不気味な息遣いしか聞こえない。直感的にそれがシートンであると感じた彼女は、ふとしたことで知り合ったシスター・セレスティアルという占い師に電話をかけて、家に来てくれるように頼む。
 この辺から、さらにメタ化が加速する。筋を追うのが大変なので、なるだけ簡潔にしたいが、なかなか難しい。この先は、さらに物語の核心、さらにはオチに言及するので、知りたくない方は読まないでください。


 電話をした直後に、家のメンテナンス業者を名乗る男が家を訪れる。変装をしているものの、スティーヴィはそれがすぐにシートンであることがわかる。やがてセレスティアルがやってきて、二人とシートンの戦いといった様相になる。不思議なことに、セレスティアルはシートンの手によってタイプライターが打ち出した現在のスティーヴィの物語を持っているという。つまり、彼女はここに至るまでのすべての物語と、さらにはこの先どうなるかについての物語を既に手にしているというのだ。しかし、彼女はそれをスティーヴィには見せない。見ないほうがいいという。しかし、さらに少し物語が進んだところで、ここはもうわたしの読んだ物語とは異なっていると言い出す。そしていよいよシートンとの直接対決となる。
 シートンはスライド投影機を使って、彼女にスライドショーを見せ始める。そのスライドに映されていたものは、シートンの若き母親と、そしてスティーヴィの夫であったテッドの不倫現場の写真であった。ここに至ってシートンの目的が、自分の母親を奪ったテッドへの復讐心が行き場を亡くした挙句、その妻であったスティーヴィへと向かったという、屈折したものであることが明らかになる。しかし結局復讐は思いとどまり、姿を消す。その後、彼女のもとに一通の封筒が届けられる。中に入っていたのは、「タイピスト…」という、冒頭でも紹介した、A.H.H.リプスコムの作品で、彼女の体験したことが書かれていた。しかも、最終章が空白のままになっている(つまり、ここまでの話は、すべてこの本の内容そのままであり、実際には多少異なっていた可能性が示唆されている)。後日、スティーヴィのもとへと大量のタイプライターが届けられる。それは、罪滅ぼしのためにシートンが送りつけてきたものだった。シートンは、これらには何も仕掛けはしていないと受け合う。スティーヴィはそのタイプライターをすべて屋根裏へと運ばせる。その夜、屋根裏からはタイプライターの音が聞こえてくる。彼女がそっと覗くと、思っていたとおり、そこにはクレッツをはじめとする沢山の猿たちが、一心にタイプライターを叩いている姿があった。猿たちの打ち出した用紙を見ると、ほとんどは意味をなさないものであったが、猿のクレッツなどは、偶然モダンホラー小説の最初の章の前半をものにしていた。それを見て、スティーヴィはほくそ笑む。うまく調教すれば、自分は何も書かずとも、すばらしい作品を手にすることができるだろう、と(これは、「無限の猿の定理」と呼ばれるものを連想させるようになっている。「無限の猿の定理」とは、ウィキペディアによれば「ランダムに文字列を作り続ければどんな文字列もいつかはできあがるという定理である。比喩的に「猿がタイプライターの鍵盤をいつまでもランダムに叩きつづければ、ウィリアム・シェイクスピアの作品を打ち出す」などと表現されるため、この名がある」とのこと。ここでの場合、要するに「駄作でも濫発すれば中には傑作が生まれることもある」というニュアンスを暗に匂わせているように思われる。雨後の筍のように次から次へと似たようなB級ホラーが濫発される当時の状況を皮肉ったものだろうか。そうだとすれば、かなり黒いオチだと言って良さそう)。しかし、実を言えばそれだけでこの物語が完全に閉じたわけではない。最後の、見過ごしてしまいそうな一文は、考えようによっては、その段落までの物語もがタイプライターが打ち出したフィクションであるとさえ考えられる可能性があることを示唆しているのではないかと思う。このクドさは、もしかしたら「モダンホラー」だけではなく、「メタ・フィクション」さえもパロディーの対象としているとさえ言えそうな気もする。そうそう、つい忘れそうになるけれど、そもそも一番外側の箱とも言えるこの本のタイトルからして、「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?」という思わせぶりなものだった。

 
 最後まで読み終えてみるとどこかユーモラスなこの小説だが、シートンとの対決のシーンまでは非常に怖く、読んでいて先が気になって仕方がないほど読ませる。主人公をごく普通の小市民に設定し、超自然的な、例えば悪魔や怪物とかではなく、タイプライターというごく日常的なものが恐怖の対象になるというあたりも、いかにもキングが得意とするタイプのホラーである。それだけにしておけば、十分に及第点のモダンホラーなのだが、そこにメタフィクション的要素ととんでもないオチを付け加えたことで、この作品は稀に見る怪作となった。
 また、この本の著者によるあとがきも、当時のモダンホラーをめぐる情勢を伝えていて、興味深かった。

 

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





「短い金曜日」 アイザック・B・シンガー著 邦高忠二訳 晶文社刊

を読む。

  アイザック・B・シンガーはポーランド生まれのユダヤ系作家。生まれたのは1902年。イディッシュ作家として1978年に初めてノーベル文学賞を受賞しました。没年は1991年。もともと限られた人々にしか読まれなかったイディッシュという言語で書かれたシンガーの作品が世に広まるようになったのは、この本にも収録されている「ばかものキンベル」という短編が、ソール・ベローの手によって1953年に英訳されたためらしく、それが起爆剤となって、一気に世界中に広まりました。
 イディッシュといえば、ユダヤの言語というイメージがあったのですが、本のあとがきによれば、少し違うようです。ウィキペディアから引用すると、

イディッシュ語はドイツ語の一方言とされ、崩れた高地ドイツ語にヘブライ語やスラブ語の単語を交えた言語である。高地ドイツ語は標準ドイツ語の母体であるため、イディッシュの単語も八割以上が標準ドイツ語と共通しており、残りはヘブライ語やアラム語、ロマンス諸語、そしてスラブ諸語からの借用語である。初期にはヘブライ文字を伝統的に使用していたが、現在では標準ドイツ語に準じたラテン文字表記も存在している。
 世界中で400万人のアシュケナージ系・ユダヤ人によって使用されている。

 ということ。イディッシュは多くのユダヤ人たちによって話される言語ではあるが、ユダヤ語=イディッシュというわけでもないようです。
 しかし、イディッシュ語で忘れてならないのは、もともとユダヤ人たちによって主に話されていた言語であるという点です。そのため、第二次大戦のホロコーストによってイディッシュを話す人々のほとんどが虐殺されてしまった結果、「死んだ言語」であるとされた時代があったとか。そうした状況の中で、ヨーロッパに吹き荒れる反ユダヤ主義から逃れてニューヨークで生活していたシンガーは、あくまでイディッシュで書くことにこだわりました。自らのルーツに対する誇り、言語とともにあるアイデンティティ、そうした強い思いがそうさせたのでしょうか。

 この本は、初版が1971年。ということは、ノーベル賞を受賞するより前の出版ということになります。ぼくが初めてこの本を書店で見かけたのは、多分1984年頃だったと思いますが、あれは初版がそのまま売れ残っていたのか、それとも何度か版を重ねたものだったのかは、わかりません。なぜそんなことを覚えているのかといえば、ずっとこの本のことが、何となく気になっていたからです。自分の手元にあるこの本は、最近古書店で買ったものですが、初版なので(しかも、折がそっくり入れ替わっているページがあるというひどい製本ミス本)、増刷されたのかどうかもよくわからないのです(ノーベル文学賞を受賞した作家なので、その時に増刷がかかったんじゃないかなという気はするけれども)。
 この「短い金曜日」という短編集は残念ながら現在絶版になっているますが、新刊で買えるシンガーの作品も結構たくさんあるようで、根強い人気が伺えますが、それも納得できるほど、彼の作品はちょっと癖になりそう。
 ともかく、他の作家とは明らかに違う、奇をてらったというのではない、唯一無二さがあります。多くの優れた短編作品に時折見られるように、おそらくは土着的な説話が想像力の根にある文学なのだろうという推測はつきますが、そう言って説明した気になれるものでもありません。ほとんどの物語が、ごく普通のユダヤ人の庶民の物語です。しかし、ごく普通の物語とはやはりいいかねるのです。それは、背景にしっかりと存在するユダヤ教の影のせいばかりではないでしょう。
 収録作品は、以下の12篇。

ばかものキンベル
クラコフからやって来た紳士
老人

ただひとり
ヤチドとイェチダ
イェシバ学生のイェントル
短い金曜日
降霊術
コケッコッコッココー
天界の倉庫
ヤンダ

 以下、いくつかの短編のあらすじを。ややネタバレしてますが、それで面白くなくなるとは思えません。

 ソール・ベローによる英訳でシンガー人気に火をつけたという「ばかものキンべル」のあらすじは、次のようなもの。
 村人から「ばかものキンベル」と呼ばれるお人好しの男の物語。キンベルは村人らから身持ちの悪い女を妻にあてがわれ、結局、自分の子供ではない子供を6人も授かる。妻は死ぬ間際にそのことを告白するが、どこまでも良い人間であるキンベルは怒らないばかりか、死後に辛い思いをしている妻のことを気遣う。
 
クラコフからやって来た紳士・・・貧しいが正直な人々の住む村にクラコフからやってきたという男が現れる。彼は村に富をばらまき、人々を魅了するが、その正体は恐ろしい悪魔だった。

血・・・レブ・ファリクという誠実な男の二番目の妻になったリシャという女は、屠殺人ルーベンと出会ったことで、自らの内に秘められた残虐性に目覚め、楽しみのために屠殺をすることをエスカレートさせた挙句に、人狼となってしまう。ともかく、リシャの描写がすさまじい。

イェシバ学生のイェントル・・・イェントルは、女性ではあったが、女性の興味のあるものにはまるで興味が持てず、男性のように勉強したいと願っていた。父親が死んだあと、彼女は男装をして、アンシェルという名前を名乗り、遠くの町の学校へと入学する。その途中で知り合ったアヴィグドルという青年と男として友情を結ぶ。そして、彼の紹介でハダスという、かつてアヴィグドルの婚約者であった女性の親の家に下宿することになる。しかしアヴィグドルは、実はハダスのことが忘れられず、他の男性と一緒になるくらいなら、親友の君と結婚して欲しいと言い出す。そしてアヴィグドルは別の女性と結婚してしまう。実はイェントルはいつの間にかアヴィグドルのことを愛しており、悩んだ末に一度はハダスと婚約するが、不幸な結婚をしてしまいボロボロになってしまっているアヴィグドルの姿に自らの正体を明かし、ハダスと結婚するように勧め、去ってゆく。トランスジェンダーものというか、まるで少女漫画のような物語。

短い金曜日・・・敬虔な貧しい夫婦の、一年で最も日が短い聖なる金曜日の夜の出来事。つつしまやかだが、幸せな食事をして、愛を交わしたその夜に、一酸化中毒によって並んで天に召されてゆく様子を描いた、静かで忘れがたい余韻の物語。

 他の作品も、どれも粒ぞろいで、楽しめます。どの作品にも、バックグランドにユダヤ教の倫理観というものがはっきりとあって、それがどこかエキゾチックです。そして、こちらの想像のやや斜め上を、あれよあれよという間に、物語がさっさと進んでゆきます。しかしそれが実にスムースなのは、語りの上手さのせいでしょう。崇高さと猥雑さが何の違和感もなく一体となっているシンガーのすばらしい短編世界。ラテンアメリカの小説が好きな人には、きっと肌に合うんじゃないかという気がします。もちろん、あらゆる短編小説ファンにとっても。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ