「週刊少年マガジン完全復刻版:三つ目がとおる:イースター島航海」(手塚治虫著 /講談社)を買った。
これは2014年に出版されていたのだが、そんなものが出ていたことを全く知らなくて、ついこの前、偶然見つけて思わず買ったものだ。
この本がすごいのは、連載当時のままの「三つ目がとおる:イースター島航海編」が完全収録されていること。
今まで、「三つ目がとおる」は何度も単行本として出版されてきたが、これこそが決定版と言えるものは、なかなかなかった。一番最初に単行本として出たKCコミックス版は、「イースター島編」手前の6巻で中断してしまった。ちょうど出版されはじめた「手塚治虫全集」がその後を引き継ぐ形となってしまったかららしい。このとき、きちんとした順序で全話が収録されていればよかったのだが、どういうわけか、本来なら単行本の七巻目として収録されるべき「イースター島航海編」が「全集版三つ目がとおる」の第一巻目とされてしまったため、相当の混乱が起きてしまった。単行本を絶版にせず、しかも全集を売るための苦肉の策だったのだろうが、これでは全集だけを読んだ人にとっては全く前後の繋がりがつかめないから、かなり問題のあるやりかただった。さらに、このときかなりの描き換えが行われた上、多くのエピソードが削られてしまった。初めて本来の発表順と言える状態で出たのは、KCデラックス版だったが、全集未収録のままになってしまったエピソードは復活しなかった。そのため、例えば文福というキャラクターがなぜ唐突に登場するのか、よくわからないという状態になってしまった。もともと、手塚治虫は単行本化の際に書き換えを行うことで有名で、それは作品の完成度に満足できず、少しでもよいものを残したいという気持ちの現れなのだろうが、雑誌連載を夢中になって読んでいた読者にしてみれば、「あれ、読んだのとちょっと違う」という、不思議な違和感を感じる原因ともなった。
その後、コンビニコミックなどで削除されたエピソードが拾われて、最終的に晴れて全話が読めるようになったのが2003年。だが、話はそれで終わらない。その後、「三つ目がとおる完全版」を謳った全集が小学館クリエイティブから刊行されると予告され、「完全版というからには、今度こそは雑誌版も収録されるのでは」と多くのファンの潜在的な期待を集めたのだ。だがそれは叶えられず、がっかりした人も多かったはずだ。それだけに、この完全復刻版が出版されたことの意味は大きい。
そう書いても、ファンでない人にとっては「そんな些細なこと」と思われるかもしれない。だが、実際に連載中に夢中になって読んでいたぼくのようなファンにとっては、そう些細なことでもないのだ。まず、現行単行本版は連載版よりも、50ページ以上も短い。特に、現行版では後半部分を中心に大幅にカットされてしまっているのだ。主要登場人物も一部変更になっているし、ラストも少し違う(少しとはいえ、これでかなり印象が違ってしまう)。写楽が小さな穴に入らされるエピソードも、連載中に読んでいて妙に強く印象に残っていたのだが、ばっさりカットされていた。だから、小学校1年生の頃に夢中になって読み、強い影響を受けたと断言できる「三つ目がとおる イースター島編」のKCデラックス版を、高校生の頃に初めてまとまった形で読んだ時には、なんとも言えない違和感を感じてしまった。自分の記憶にあるのと違うのだから、それは混乱もする。当時は、単行本になったときに描き換えられたのだとは知らなかったから、自分が読んだのは幻だったのかと、しばらく頭をひねったものだ。それが、連載から40年近く経って、初めて最初の形で陽の目を見たのだ。記憶が、ようやく補完された。長い間、なんとなく残っていたしこりのようなものが、やっと解きほぐされた。そう言えば、幾らかは伝わるのではないかと思う。
もっとも、ぼくのように連載中に夢中になって読んでいたという世代の人以外には、現行版でも全く問題はなく、むしろ雑誌スキャンの本書は「汚くて読みにくい」と感じるだけかもしれない。だけどまあ、いくら今読んでも結構面白く読める作品も多い手塚作品とはいえ、発表されてから何十年も経ったような少年漫画に今の子どもたちが積極的に食いついてくるとも思えないし、読者の大半は、かつて手塚作品に親しんでいた大人たちだろう。もともと子供向けに書かれた漫画を新たに大人になってから読み返すというのは、ほとんどノスタルジー以外の何ものでもないわけで、したがって何十年も経ってから完全版を謳って出版されるのであれば、こういう形で出る方が正解なのではないかという気がする。そういう意味では、小学館クリエイティブ版は見当外れの編集方針だったと言わざるを得ない。完全版を謳うなら、現行版と雑誌掲載版を、両方出さなければいけなかったはず。著者が生きていれば拒否されたかもしれないけれど、わざわざ値の張る完全版を買うような読者が本当に読みたいのは、自分が夢中になった「あれ」なのだから。だから、例えばだけれど、作者が手を入れなおし続けている現行版の永井豪の「デビルマン」とか、ああいうのは多分、誰も望んでいないんじゃないかな。