漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




 「週刊少年マガジン完全復刻版:三つ目がとおる:イースター島航海」(手塚治虫著 /講談社)を買った。
 これは2014年に出版されていたのだが、そんなものが出ていたことを全く知らなくて、ついこの前、偶然見つけて思わず買ったものだ。
 この本がすごいのは、連載当時のままの「三つ目がとおる:イースター島航海編」が完全収録されていること。
 今まで、「三つ目がとおる」は何度も単行本として出版されてきたが、これこそが決定版と言えるものは、なかなかなかった。一番最初に単行本として出たKCコミックス版は、「イースター島編」手前の6巻で中断してしまった。ちょうど出版されはじめた「手塚治虫全集」がその後を引き継ぐ形となってしまったかららしい。このとき、きちんとした順序で全話が収録されていればよかったのだが、どういうわけか、本来なら単行本の七巻目として収録されるべき「イースター島航海編」が「全集版三つ目がとおる」の第一巻目とされてしまったため、相当の混乱が起きてしまった。単行本を絶版にせず、しかも全集を売るための苦肉の策だったのだろうが、これでは全集だけを読んだ人にとっては全く前後の繋がりがつかめないから、かなり問題のあるやりかただった。さらに、このときかなりの描き換えが行われた上、多くのエピソードが削られてしまった。初めて本来の発表順と言える状態で出たのは、KCデラックス版だったが、全集未収録のままになってしまったエピソードは復活しなかった。そのため、例えば文福というキャラクターがなぜ唐突に登場するのか、よくわからないという状態になってしまった。もともと、手塚治虫は単行本化の際に書き換えを行うことで有名で、それは作品の完成度に満足できず、少しでもよいものを残したいという気持ちの現れなのだろうが、雑誌連載を夢中になって読んでいた読者にしてみれば、「あれ、読んだのとちょっと違う」という、不思議な違和感を感じる原因ともなった。
 その後、コンビニコミックなどで削除されたエピソードが拾われて、最終的に晴れて全話が読めるようになったのが2003年。だが、話はそれで終わらない。その後、「三つ目がとおる完全版」を謳った全集が小学館クリエイティブから刊行されると予告され、「完全版というからには、今度こそは雑誌版も収録されるのでは」と多くのファンの潜在的な期待を集めたのだ。だがそれは叶えられず、がっかりした人も多かったはずだ。それだけに、この完全復刻版が出版されたことの意味は大きい。
 そう書いても、ファンでない人にとっては「そんな些細なこと」と思われるかもしれない。だが、実際に連載中に夢中になって読んでいたぼくのようなファンにとっては、そう些細なことでもないのだ。まず、現行単行本版は連載版よりも、50ページ以上も短い。特に、現行版では後半部分を中心に大幅にカットされてしまっているのだ。主要登場人物も一部変更になっているし、ラストも少し違う(少しとはいえ、これでかなり印象が違ってしまう)。写楽が小さな穴に入らされるエピソードも、連載中に読んでいて妙に強く印象に残っていたのだが、ばっさりカットされていた。だから、小学校1年生の頃に夢中になって読み、強い影響を受けたと断言できる「三つ目がとおる イースター島編」のKCデラックス版を、高校生の頃に初めてまとまった形で読んだ時には、なんとも言えない違和感を感じてしまった。自分の記憶にあるのと違うのだから、それは混乱もする。当時は、単行本になったときに描き換えられたのだとは知らなかったから、自分が読んだのは幻だったのかと、しばらく頭をひねったものだ。それが、連載から40年近く経って、初めて最初の形で陽の目を見たのだ。記憶が、ようやく補完された。長い間、なんとなく残っていたしこりのようなものが、やっと解きほぐされた。そう言えば、幾らかは伝わるのではないかと思う。
 もっとも、ぼくのように連載中に夢中になって読んでいたという世代の人以外には、現行版でも全く問題はなく、むしろ雑誌スキャンの本書は「汚くて読みにくい」と感じるだけかもしれない。だけどまあ、いくら今読んでも結構面白く読める作品も多い手塚作品とはいえ、発表されてから何十年も経ったような少年漫画に今の子どもたちが積極的に食いついてくるとも思えないし、読者の大半は、かつて手塚作品に親しんでいた大人たちだろう。もともと子供向けに書かれた漫画を新たに大人になってから読み返すというのは、ほとんどノスタルジー以外の何ものでもないわけで、したがって何十年も経ってから完全版を謳って出版されるのであれば、こういう形で出る方が正解なのではないかという気がする。そういう意味では、小学館クリエイティブ版は見当外れの編集方針だったと言わざるを得ない。完全版を謳うなら、現行版と雑誌掲載版を、両方出さなければいけなかったはず。著者が生きていれば拒否されたかもしれないけれど、わざわざ値の張る完全版を買うような読者が本当に読みたいのは、自分が夢中になった「あれ」なのだから。だから、例えばだけれど、作者が手を入れなおし続けている現行版の永井豪の「デビルマン」とか、ああいうのは多分、誰も望んでいないんじゃないかな。


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 前回、吾妻ひでおの「カオスノート」のことについて書いたけれども、書きながら、吾妻ひでおが1978年に「不条理日記」を発表してから今年「カオスノート」を発表するまでの約36年間に、マンガを取り巻く環境が随分と変わったなとつくづく思った。1975年に数百人の参加者によって第一回が開催されたコミックマーケットだが、55万人を超える参加者に膨れ上がった現在の参加者の中に、吾妻ひでおがその草創期に果たした役割の大きさを知っている人がどれくらいいるだろう。SF大会の影響の下にコミックマーケットを創設し、1980年から2006年まで代表を務めた米澤嘉博氏は熱狂的な吾妻ファンで、吾妻ひでおについての評論を書くときにのみ使うペンネームを持っていたし、1979年に吾妻らがコミケで販売した同人誌「シベール」は、ロリコン同人誌のさきがけとして、歴史的な意義を持っている(とても有名なので、名前は知っているが、残念ながら読んだことはない。現在、一冊二万円ほどで取引されているようだ)。もし吾妻ひでおがいなかったらロリコンブームも現在のコミケもなかった、とまではさすがに言わないが、あるいはかなり違ったものになっていた可能性はあると思う。もちろんそれは、「たられば」の話にすぎないのだけれど。
 正直にいえば、僕はべつにマンガにそれほど詳しいわけではない。けれども、80年代にはサブカルチャーにどっぷりと漬かっていたから、その移り変わりをなんとなくリアルタイムで見ていたように思う。それで、「現在のマンガに最も影響の大きい漫画家10人」というのを、考えてみようと思った。
 けれども、これがなかなか難しい。そんなもの、とても10人に絞れるはずはないのだけれども、試しに挙げてみる。

グループA ---------

手塚治虫
石ノ森章太郎
萩尾望都
大友克洋
吾妻ひでお
つげ義春
高橋留美子

グループB ---------

藤子不二雄
松本零士
永井豪
赤塚不二夫
鳥山明
ちばてつや
あだち充
本宮ひろ志

グループC ---------

横山光輝
楳図かずお
大島弓子
高野文子
池田理代子
水木しげる
さいとうたかを
荒木飛呂彦
原哲夫
井上雄彦
丸尾末広
竹宮恵子
車田正美
岡崎京子

 とても挙げきれないけれども、思いつくままに書くと、こんな感じだろうか。もちろん、漏れている人はたくさんいると思う(特に、少女漫画の作家はあまり詳しくないので)が、ちょっとしたお遊びなので、まあ、とりあえず。
 少し説明をしておくと、

 グループAの漫画家7人は、絶対に外せないと思う作家。したがって、10人を選ぶなら、残りは3人ということになる。その際、普通ならグループBの作家の中から3人選ぶべきなのだろうが、問題は圧倒的な個性を持つグループCの作家。あるいは、ここからその3人のうちの一人、ないし二人を選んでもいい。この一覧は、そういうつもりで作った。
 順当なら、藤子不二雄、松本零士、鳥山明、あたりになるのかもしれないとも思うのだけれど……。



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「カオスノート」 吾妻ひでお著 イースト・プレス刊

を読む。

 1978年に発表され、当時のSFファンたちに衝撃を与え、吾妻ひでおの名前を強く印象づけたた名作「不条理日記」。「カオスノート」は、それを彷彿とさせる日記形式の不条理漫画ということで、読む前から期待していた。
 けれども、一読して思ったのは、確かにかつての不条理日記からSFパロディを除いた、失踪日記以降の、私小説的な不条理日記ではあるのだろうけれども、ちょっとした違和感も感じるということだった。
 違和感を感じるのは、絵柄が昔と変わったというのもあるだろうし、内容がSF作品のパロディではないということもあるだろう。それに、ギャグがどこか鉄拳の「こんな○○は××だ」みたいな感じなのが気になったというのも、確かにある。だけどそれ以上に、なんだろう、妙な生々しさを感じてしまったのだ。
 別にそれが悪い訳じゃない。「不条理日記」と比べる必要なんて、そもそもないわけだし、それを勝手に比べておいて、違和感なんて言葉を使うほうがおかしいのだ。それでも、「不条理日記」を始めとする、奇想天外社から出版されていたコミックスの諸作で吾妻ひでおファンになった身としては、やはり無意識のうちにどうしてもつい比べてしまう。そして、「不条理日記」から「カオスノート」へと至った、その間に流れた時間について考えてしまう。
 僕が「カオスノート」にちょっとした違和感を感じるのは、鬱と死の気配が濃厚に漂っているように感じるせいじゃないかという気がする。これまでの吾妻作品には、不安や虚無感を感じささせる作品は多々あっても、これほど生々しく直接的に死を感じさせる作品はあっただろうかと思う。記憶を探っても、ちょっと思いつかない。
 きっとこの「カオスノート」は、アイデアが作品として昇華される以前の、吾妻ひでおの素直な独り言のようなものなのだろう。


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 木曜日の仕事帰り、池袋の西武リブロで開催されている「吾妻ひでお原画展」を覗いた。
 先着100名に配布されるというポストカードはもうなかったけれど、展示が充実していたので、嬉しかった。
 デビューの頃から、最近出た「アル中病棟」に至るまでの代表作が網羅されていた。
 漫画で見ると、何気なく読んでしまうような可愛い絵なのだが、いざ実物の原画を目にすると、その繊細さに感心する。
 決してごちゃごちゃと書き込んでいるわけではないのだが、線の一本一本がとても綺麗。ほとんどホワイトの修正もない。「アル中病棟」の中で、「完璧主義者は身を滅ぼす」と念仏のように唱えていたのが印象的だったが、なるほど、この美しい原稿を見ると、その言葉も頷ける。本当に丁寧で、手が抜けない人なのだ。
 刊行当時、「綺麗な本だな」と思っていた双葉社のハードカバーの選集、「Hideo Collection」のカバー原画がすべて展示されていたが、実際に実物を目にすると、その時の印象を上回るほどの、思わず欲しくなってしまうほど美しい絵で、ため息が出た。実際は背景と少女の絵が別になっていたということも、今回初めて知った。なるほど、それでカバーを外した本の本体には、モノクロの背景だけの絵が描かれていたのだ。
 漫画作品では、「不条理日記」や「陽射し」などのような、ある時期の吾妻ひでおを代表するような名作もあったが、それ以上に印象に残ったのは、最近作の「地を這う魚」の原画。すごいとは思っていたが、実物を目にすると、唖然とさえする。何という情報量なのだろう。還暦を迎え、さらに進化しようとする意志には圧倒される。還暦を過ぎて、「うまくなりたいから絵を習いに行ってる」なんていう一時代を築いた漫画家が、他にいるだろうか。「いやいや、吾妻さん、もう充分上手いですよ」と言うのは簡単だ。だが、吾妻ひでおは、それではまだ満足できないのだ。すごいことではないか?
 吾妻ひでおは、最初「ふたりと5人」でエッチ漫画家として注目を集め、次に「不条理日記」でSFマンガのニューウェーブとして大きく注目を集めた。そしてさらに、「失踪日記」によって、一般の人たちからも認知され、最大の注目を集めるに至った。一人の漫画家が、三度も大きなピークを迎え(しかもその波がどんどんと大きくなっている)、なおかつ絵が進化しているという例は、手塚治虫を除いて、他には知らない。大抵は、漫画家のピークは一回か二回。その後は年とともに絵は荒くなり、イメージも固定されてしまうものなのだというのに。
 漫画やイラスト以外にも、東京精神科病院協会主催の「心のアート展」に出品されたスケッチ作品(ちゃんとリアルな少女の裸婦像のデッサン。なのだが、なぜか背景にカツオノエボシと古代魚が描かれている)二点や、「アル中病棟」に登場する、拾い物で作ったオブジェが多数、展示されていた。
 展覧会の最後に物販のコーナーがあり、カタログがないかと思って探したけれど、それはなかった。代わりに、複製原画やTシャツなどが販売されていた。複製原画は、一枚が十五万円ほどもするのに、結構売れているようで、驚いた。Tシャツは、タバコオバケやのた魚などがあり、買おうかとも思ったが、一枚四千円ほどとやや高かったし、それに買っても着るわけがないので、やめておいた。



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 昨日の帰りに、池袋のリブロに寄ったとき、「文藝別冊 吾妻ひでお」というムック本が出ているのを見つけ、購入。サイン会があるらしく、その整理券もついてきた。内容はかなり充実していて、執筆陣も萩尾望都、諸星大二郎、坂本龍一、高橋留美子、菊池成孔などなどと豪華。未発表作品なども多数収録されている。
 ちょっと前のことだが、お茶の水の明治大学の米澤嘉博記念館で開催されている「吾妻ひでおマニアックス」という展示を見てきた。原画などに加えて、伝説的な同人誌「シベール」や、クルムヘトロジャンの「へろ」などの特装版や原画版なども、手には取れないものの、見ることができた。
 考えてみれば、昔読んでいた漫画家の作品で、今でも読んでいるのはこの吾妻ひでおと高野文子くらいかもしれない。吾妻ひでおといえば、ロリコンのイメージがあるけれども、一応断っておくけれども、僕には全くそんな趣味はない。でも、いつでも面白く読めるという不思議な漫画家。他の作家とは、根本的に何かが違うのだろう。サイン会は、ぼくはちょっと行けそうにないので、娘に行かせようと思っているが、きっと浮くだろうな。でも、いいんだろうか?

 それはそれと、最近はついブログの更新が途切れがちである。「紫の雲」の翻訳は、毎日ちょっとづつは必ずやるようにしているので、ざっとではあるが、今公開しているよりもかなり先の、90%程度まではもう終わっているのだが、この前やっていたところがちょうど地震で津波がというところがあって、なんとなくアップする気がそがれていた。そんなこともあって、滞りがちになっていたのもある。
 それにしても、今回の震災で最大の問題が、人災である原発であるということは、色々と考えてしまう。原発が被害を受けたと最初に聞いたときには、これであの辺りにはもう人が住めなくなるだろうし、土地の人は婚姻のときなどに嫌な思いをすることになるだろうとすぐに思った。けれども、それどころではない差別的なことも、ちらほらと耳にするようになってきた。僕には実際のところどれほどの被害になっているのかはよくわからないし、原発を取り巻く環境や状況もよくわかっていない。だから色々と言うのも難しく、言葉を失ってしまう。それでも、ごく素朴に、思うことならたくさんある。

 ・・・原発の近くには、もう当分人が住むことなどできないだろうな。作物だって、もう当分流通させるわけにはゆかないだろう。風評被害とか言うけれど、これは風評とは言わないと思う。「がんばろう」もいいけれども、精神論で被爆から免れることはできないんだし。それに、そもそも偽りだらけの発表に対する不信感が不必要なほどの風評を生み出したのだ。この辺りで農家などに従事していた方々は本当に気の毒だが、現在過疎化している場所が日本にはたくさんあるのだから、そこで続けることができるように考えてあげるとか、そうしたことを考えるほうが本当はいいんじゃないかな。原発のある、あの辺りで出来た作物は、いくら大丈夫だと言われても、きっと消費者からこの先も長く避けられることになると思うし、悪いけれども僕だって買わない。そうなると、仕事として成立しなくなるんだし、生活の安定ができなければ、治安だって悪化するだろうし、いいことは何一つない。当事者の気持ちを無視したような発言だけれども、少なくとも若い人は土地を離れるべきだと、率直にそう思う。あの辺りは、この先のことを考えると、例えば風力や太陽光などの自然エネルギーによる発電の施設のための土地にするとか、したほうがいいんじゃないかな。反省も込めて。復興のための財源の確保のために、増税が検討されているけど、それ以前に公務員の給与を全体に少し下げるとか(中小企業では、給与はどんどんと下がっているんだし)、無駄な歳出を徹底的に減らすとかを、今回ばかりは本気で、手本を見せる感じで、まずすべきだと思う。ただでさえ高齢化社会になるから財源が足りないとか言っているのに、このままでゆくのは無理があることくらいは、誰でも分かる。自粛ムードの中には、懐が寒いという現実的な事情もあるのは間違いないんだから、増税増税だと、ますます景気は冷え込んで、八方塞がりになりそうだ。こうして書いていると、いくらでもたらたらと書いてしまいそうだけれども、そうしたことは大抵の人が思っていることだろう。現在、街の様子は次第に元の状態に戻りつつあるように思う。なんだ、原発なくても意外といけるじゃん、なくても良くない?原発。夏はわからないけどさ、上手く考えればなんとかなりそうじゃないか?そう思っている人は多いんじゃないか。実際のところ、どんなものなのかは僕には分からない。でも、原発がリスクの大きすぎる発電であることだけは、はっきりした。そのことに異を唱える人は、今ではいないんじゃないか。そういや、斉藤和義、よくぞ歌った。ストレートな問題提起は、正しい正しくないじゃなくて、その行為自体が必要なんだと思う。それにしても、なぜこんなに原発を作る必要があるのだろう。もしかしてウランのストックが欲しいのか?そう思う人も、結構いるんじゃないか。孫正義、百億すごいな、そういや日本の経団連会長とか、なにしてんだろ。そう思っている人も、たくさんいるんじゃないかな。・・・

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 昨日は、明治大学で行われたシンポジウム「ヴィジュアル・カルチャーと漫画の文法」に出かけてきた。荒俣宏氏が出るというので、一度実物を見てみたいと(笑)思ったのだ。
 荒俣さんは、観相学の周辺のことについて色々と話されていて、興味深い話が聞けた。この人の話なら、幾らでも聞きたいと思わせるものがあった。
 シンポジウムは二部に分かれていて、メインは第二部だとは思ったのだが、ちょっと用事があったので、第一部しか参加できず、残念だった。



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 今日は冬至。最も夜の深い日。空は澄んでいる。

 先日、「萩尾望都原画展」に妻と出かけた。
 妻は、一番好きな漫画かもしれないという、「ポーの一族」の原画を見ることが出来て満足だったようだ。萩尾望都の漫画は、僕も結構好きなものがあるので、楽しめた。カラー原稿が丁寧で、繊細だった。見る価値のある展覧会だったと思う。
 初めて萩尾望都作品を読んだのは、「この娘うります」で、小学校の四年生頃だったが、別に読みたかったわけではなく、熱が出て寝ているときに、父に漫画が読みたいと言ったら、買ってきたのがそれだったのだ。正直言って、小学生の男子には全然面白くなかった。でも、なんでそんなものを買ってきたのか、いまだによくわからない。
 次に読んだのは、随分と経ってからで、「恐るべき子供たち」だった。これは、原作が好きだったので、読んだ。でも、この時点でもあまりよくわからなかった。面白いと思ったのは、何かに再録されていた「あそび玉」と、たまたま読んだ「半身」からだと思う。その後、「エッグ・スタンド」や「メッシュ」、それから「ポーの一族」を読んだのだと思う。このあたりは、どれも面白かった。
 今回の展示で、原稿に「返却希望」とか、「切ってばらばらにしないでください」とか書かれてあったのが、当時の漫画の原稿に対する扱いが垣間見れて、興味深かった。

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 政権が民主党に移ってしばらく経つが、鳩山首相はなかなか精力的に動いているように見える。どれだけのことが出来るのかはまだ分からないが、少しでも良い方向へ向かうように頑張って欲しいと思う。
 ただ、今朝のニュースで、予算案の見直しの流れの中で改めて「アニメの殿堂」の建設中止ということが大きく取り上げられていてるのを見て、これはかなり残念だと思った。しかも、なぜ「国立メディア芸術総合センター(仮称)」と言わないで、「アニメの殿堂」なんて言い方をするのだろう。別にアニメに偏った施設にするわけでもないだろうに、これは言い方が変だ。僕は、これはぜひ実現すべきだと思う。コレクションを持たず、従って重要な美術品の保存にも全く貢献しない「国立新美術館」なんてものを作るくらいなら、こちらの方がどれだけ意味があるか知れない。新しいハコを作るカネがないなら、いっそ今の国立新美術館を国立メディア芸術総合センターに変えてしまったらどうか。あるいは、都内の閉鎖した学校を使うとか。色々と考えようはあるだろう。別に無理に新しいハコを作る必要はなく、要するにこれまでないがしろにされていたメディア、サブカルチャーを保存、収集、評価する場所があればいいのだから。
 いろいろと調べていても、サブカルチャーに関する資料を集めるのは本当に大変で、とても一人の力できるものではないといつも無力感に襲われる。さらには、こうしたサブカルチャーはずっと今に至るまで不当なほど軽く扱われすぎていたから(昔は、平気でマンガの原稿を一コマずつ切り取って、読者プレゼントにしていたりした)、散逸の度合いも半端ではなく、一部の個人の収集家の努力によってかろうじてある程度保存されているといった有様のようだ。こうした個人の収集家も、これは想像だけれど、自分のコレクションを見ながら、「こうして集めたけれど、大抵の人には多分ゴミにしか映らないんだろうな。もし自分が死んだら、これはどうなってしまうのだろう」と感じているのではないかと思う。昔の雑誌などは、下手をすれば「この一冊がなくなれば、この世からこの本は一冊もなくなってしまう」という状況すれすれにあるはずだ。こうしたものが間違って捨てられてしまうことは、とても残念だ。ついでに言うと、こうしたサブカルチャーは、同時代の人間にしか本当には理解できないのだから、そうした同時代の人間が生きているうちに、ちゃんと時代的な位置づけを確立させておくべきだ。何と言っても、サブカルチャーは多岐に渡りすぎていて、迷宮のようで、案内人がいないことには悪戯に迷うだけだ。こうした作業は、中枢となる施設があるほうが、絶対に上手くはかどるはずだ。個人の収集家にしても、自分のコレクションに行き場があると思うと、随分気が楽になるんじゃないか。これは、先日訪れた弥生美術館のSF画の展覧会でつくづく感じたことだ。
 念のために書くと、僕はアニメは殆ど観ない。正直言って、余り好きでもない。でも、こうして花開いている以上、意味はあると思う。最近、中野のブロードウェイに行くことがあったけれども、外国人の余りの多さに驚いた。これだけ海外から注目されているメディアを(あるいは一部の人だけかもしれないが)、放置しておいていいとは思えない。勿体無い。ここから何かが生まれることはあるだろう。そう思う。それに、アニメといっても、いろいろあることくらいは、わかるはずだ。僕は子供の頃にNHKの「みんなのうた」が大好きだったが、あれもアニメの力が大きかった。アニメはつまり「動く絵」であり、秋葉系、萌え文化というのはその一形態にすぎず、可能性は無限に秘めていると思う。普通の映画の俳優は「セレブ」なんて言い方をされて、もてはやされるのに、同じ映像メディアであるアニメとなると、とたんに軽く扱われるのは、おかしな話だ。こちらのほうが、多分「アート」に近いはずなのに。実際に原画を見ると、その繊細さに驚くはずだ。
 「国立マンガ喫茶」なんて言い方もあるようだが、これはさらに変だ。こんなもの、いくらでもクリアできる問題ではないか?別にマンガを開架する必要はないし、図書館的な機能を持たせるにしても、一度に数冊までと決めて、申し込むことによってのみ読めるようにすればいいわけだし、成人向けのものは年齢を証明する身分証を必要とすればいいだけだ。飲食、喫煙ができるわけでもなし、マンガ喫茶になどなりようがない。基本的には「メディア」に絞った博物館、もしくは美術館を作ろうとしているのだろうから。
 サブカルチャーは、言い方は悪いが、ある意味で確かに「ゴミの山」かもしれない。それは確かにそう思う。だが、一般にカルチャーと呼ばれるものは、そうしたサブカルチャーというゴミの山の中から、滋養を得て、生まれてくる花のようなものだ。江戸時代の浮世絵だって、言葉どおり、もともと単なる風俗画だ。それがフランスの美術界に影響を与えたりした。だから、上澄みだけを観ているだけでは、その奥にある深みは見えてこないだろう。この辺りで、一度ちゃんとそうした「堆肥の山」にスポットライトを当ててみてもいいのではないかと思う。いや、この機会を逃すと、鬼籍に入るクリエイターもどんどん増えるだろうし、どんどん難しくなるだろう。他のもっと無駄に思える予算案を問題にせず、これだけを無駄遣いの代表として「潰そう」という意図が見えると、例えば、サブカルチャーのクリエイターの地位が上がることによって安く使えなくなるということを恐れている勢力でもあるのかなとか、いろいろと余計なことを勘ぐりたくもなるではないか。

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 一昨日、高田馬場のツタヤを覗くと、コミックスのレンタルが始まっていた。いわゆる、新たなタイプの貸本。特に何を読みたいというわけでもなかったが、キャンペーンということでレンタル代が50円だったから、最近よく書店でポップを見かける

「聖☆おにいさん」 中村光著

の二巻を借りた。ちょっとどんなマンガなのか、興味があったのだ。二巻を借りたというのは、この一冊しか残っていなかったから。でも、まあいいかと。
 よくもまあこんなに馬鹿馬鹿しい(笑)マンガを思いつくなあと。基本的に仏陀とキリストの掛け合い漫才で、それぞれの説話からとった楽屋オチの連続。なかなか面白いマンガだった。

 今日は吉祥寺がゴールデンウィークのお祭り。
 駅前をサンバ隊がパレードしていた。
 サンバは嫌いじゃないが、だからといって何でもサンバを呼べばいいってもんじゃないと思うんだけど、どうだろう。それに、日本人の女性にあの衣装は余り似合わないとも思う。どういうわけだか、妙に淫靡な感じがして。

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 このところ、腰痛に悩まされている。
 ちょっと良くなったと思ったら、また悪化するという感じで、騙し騙しやっていたのだが(それがいけなかったんだろうね)、今朝起きたらもうどうしようもなくなっていた。ともかく、立っていても座っていても横になっていても、何をしてても痛いという状態。寝返りも打てない。座ったはいいが立てない。歩くのもやっとである。それで、ついに諦めて医者に行った。
 レントゲンを取ったが、骨などには異常はなく、ヘルニアの心配もない。一応血液検査もしているが、多分大丈夫だと思う。こちらの予想どおり、筋肉の炎症による腰痛だろう。それでもどうしようもなく痛いのは違いないわけで、生まれて初めてコルセットを装着する羽目になった。まあ、でもしょうがないか。また悪化しないように、気をつけよう。

「地を這う魚」 吾妻ひでお著 角川書店刊 

を読む。

 マニア向けなんだろうけれども、やっぱり天才的な才能だなと思う。こんなの、他の誰にも描けない。オリジナルのパワーは底が知れないというか。本の後半に向けて、絵が過剰に加速して行くさまが圧巻。

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 引き続いて、漫画の話。

「火星探險」 大城のぼる/画・旭太郎/作 透土社刊

を読む。

 元々は昭和15年に中村書店から「ナカムラ繪叢書」の一冊として出版され、手塚治虫氏をはじめ、さまざまな人々に決定的な影響を与えた本。日本の漫画史の中でも、最重要作品のひとつ。その復刻版。ただし、元の本は三色刷りのオールカラーでだったが、今回の復刻版では表紙と扉以外はモノクロになっている。一度、1980年に晶文社からオールカラーの完全復刻版が出たようだが、現在は絶版。どうせなら、そちらの方を手に入れたいというのは本音。というのも、わずかに収録されたカラーページが、抜群にいい感じだからだ。この味は、ちょっと出せない。
 でも、この本も悪くない。元々の内容が良いせいもあるが(今読んでも面白い)、本の三分の一以上に渡って収録されている解説が貴重というのもある。特に、大城のぼる氏と手塚治虫氏と松本零士氏の対談などは、戦争前後の出版環境などについてリアルな話が沢山盛り込まれていて、読んでいて思うことがいろいろとあったし、原作者である旭太郎こと詩人の小熊秀雄のキャラクターも興味が尽きないのだけれど、それはまたいずれ。
 ところで、これはミニ知識のようなものなのだけれども、漫画の冒頭に出てくる天文台の絵は、三鷹の国立天文台にあるアインシュタイン塔を参考にして描いたのだとか。アインシュタイン塔は現存していて、何度も見たことがあるだけに、時間を越えてゆくような不思議な気分になった。

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「正チャンの冒儉」 画/樺島勝一・作/織田小星
発行/小学館クリエイティブ 発売/小学館

を読む。

 1923年(大正12)に「アサヒグラフ」で連載が始まって、瞬く間に国民的な漫画となり、「正チャン帽」の呼び名の由来になった作品が、この「正チャン」シリーズだ。この本は、何種類もあるシリーズをまとめて、一冊にして復刻したもので、すべての作品が収められているというわけではなさそうだが、その変換の歴史の全貌を伺うことができる。
 とはいえ、シリーズが連載されていたのは実質大正12年から15年頃までで、その後昭和25年頃になってから一度復活したものの、連載期間は意外と短い期間だったようだ。だが、実質四年ほどのその間にも、驚くほど絵が変わっている。本のカバー絵を見て、誰もが思うのは、タンタンシリーズだろうが、実はこの「正チャン」シリーズのほうが、六年ほど先行している。当時、この作品がいかにモダンに映ったか、想像できるだろう。
 ところで、どうしてこの本を読んだのかといえば、先日書いたように僕は「日本ジュール・ヴェルヌ研究会」会員の末席に名前を連ねている。それで、僕は特にヴェルヌに詳しいわけでもないのだけれど、日本における現代のサブカルチャーはヴェルヌなしには語れないと思っていて、その源流のひとつはやはり漫画だろうと思い、興味を持ってちょっと調べてみた、というわけである。
 「正チャン」シリーズは、日本初のSF漫画という評価もあるようで、それは大正13年1月10日から朝日新聞に連載された「正チヤンノバウケン」の「ホウライサン」というシリーズを指す。この本にも収録されているが、これをSFと呼んでいいのかどうかはともかく、夢で見た蓬莱山にプロペラ飛行機で向かい、天の川のほとりにまで行くものの、エーテルのような雲をはじめとする妨害に阻まれて果たせず、ついには諦めて星に連れて帰って来て貰う、といった足穂的な作品である。ちなみに、足穂の一千一秒物語は大正12年で、前年に発表されているから、もし影響を受けているとしたら、それはこの「正チャン」シリーズの方である。
 そうそう、影響といえば、先日亡くなった鴨沢祐仁さんの「クシー君」は、明らかにこの「正チャン」シリーズの末裔だろう。
 ちなみに、この作品の絵を担当した樺島勝一氏は、この後講談社の雑誌などで少年向きの冒険小説の挿絵で一時代を築いた画家で、船を描かせたら天下一品だった。このあたりからも、いろいろと調べてみると面白そうだ。

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「漂流教室」 梅図かずお著 
少年サンデーコミックス 全11巻 小学館刊

を読む。

 天文古玩の玉青さんに勧めていただいた本。云うまでもなく、余りにも有名な漫画。いや、さすがに今だに読み継がれているだけあって、単に面白いだけではなくて、様々な要素を読み取ることができる作品。連載時に読んでいたら、かなりどきどきしたんじゃないかと思う。途中、殆ど思いつきじゃないかと思うほど凄いことになっていったが、それが最後にきちんと纏まったのも見事。以前紹介した、日野日出志さんの「恐怖!四次元の町」は、この作品の成功を踏まえたものだったんだろうなと思った。
 ところで、よく知られていることだと思うが、著者の梅図かずおさんは吉祥寺に住んでいる。僕もたまに見かけることがある。で、例の貸本屋のおやじさんに、「梅図先生って、吉祥寺に住んでいるんですよね。この店に来た事ってありますか?」と聞いたところ、「いや、ないね。一度くらい顔を見せてくれてもいいんだけどね」とのこと。なるほど。

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 B級の話ついでに。
 
 先日貸し本屋の話を書いたが、この店はずっと昔からあるのは知っていたものの、比較的最近まで入ったことがなかった。ところが、ふらりと入って見て、すぐに会員になったのは、棚に並んでいた一冊の本が目に入ったからだ。
 その本とは

「恐怖!四次元の町」 日野日出志著 レモンコミックス 立風書房刊

である。

 この本は、知っている人は知っているだろうが、1979年頃に「少年マガジン」に「サブの町」のタイトルで連載されていた作品が単行本化されたもので、ストーリーは、ある朝目が醒めたら、主人公のサブら数名の子どもたちを残して、世界中の全ての人がいなくなってしまうというもの。僕は当時小学校の三年生頃だったので、もちろん日野日出志という人のことは知らなかったのだけれど、妙に印象に残っていた。日野日出志という人の作品をそれほど読んでいる訳でもないが、例の「宮崎勤」事件の時に、彼の作品を映像化した「ギミーピック」(だっけ?)のことでちょっと話題になったのを覚えている。この「サブの町」という作品は、少年誌に連載されたものでもあって、彼の作品の中では健全といってもいいサスペンス作品だったのだが、それでも印象に残ったというのは、やはり普通とは違うものを感じたのだろう。
 小学校の六年間、僕はずっと「少年マガジン」を読んでいたのだが、当時のマガジンには、「聖マッスル」だとか「地上最強の男竜」だとか、軽くトラウマとして残っているような漫画が多くあって、この「サブの町」もその一つだった。でも、まさかここに来て、貸し本屋さんで再会するとは思わなかった。

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 最近、帰り道にある小さな貸し本屋さんに、時々だけれども立ち寄って、漫画を借りてくることがある。
 ひっそりとある貸本屋さんで、場所は内緒にしておきたい。
 いわゆる貸本時代の本まではないけれども、比較的古くからある貸し本屋さんらしく、古書店に並ぶと数千円はするような漫画本もごろごろしている。数万冊の在庫があるとかで、まさに所狭しと本が詰め込まれている様は、ちょっと圧巻である。

 seedsbookさんの記事を読んで、この記事を書こうと思い立ったのだが、ちょっとビールも入っているし、上手く纏められるかどうか。

 僕はそれほど漫画を沢山読むわけではないけれども、それは嫌いだからではなく、単に機会がないからだ。これほど沢山の漫画が出版されていると、どこから手をつけてよいのかわからないし、新刊書店では軽く立ち読みもできないので、自然と買う機会も減る。漫画は、買い始めるときりがなく、あっという間に書架を占拠してしまう。ちょっと読みたいからといって、片っ端から買う気にはなれない。だから、基本的には漫画は買わない。漫画喫茶にゆく習慣もないし、買わなければ、読む機会もないというわけだ。

 最近、日本の漫画が世界で大人気だという話をよく聞く。
 それはそうだろうと思う。日本の漫画は、良くも悪くも、明らかに別格である。呆れるほど下らないものも多いが、はっとするような作品もたくさんある。少なくともハリウッドの下らない娯楽映画や、テレビの連続ドラマなどよりは、漫画のほうがずっと優れているんじゃないかと僕は思っている。文化が全てサブカルチャーになってしまうことはよくないと思うが、漫画には確かに大きな可能性があるのは間違いない。
 ただ、漫画に対する批判もかなり多くなっているようだ。その多くは、子どもの情操教育によくないというものだ。
 まあ、それは多少あるかもしれない。だけど、それならばテレビでおかしな心霊商法まがいの番組を放送するのはどうなのだろう。あるいは、意味のない贅沢を煽るような宣伝はどうなのだろう。漫画なんて、テレビに比べれば全く罪がないんじゃないだろうか。
 漫画そのものが悪いのではなく、今の漫画の本当の問題は、商業主義に牛耳られているところにあると思うのだ。週刊誌連載なんて、人気がなくなれば打ち切りである。次第に過激になってゆくのは、どうしたって避けられない。本人も、何を描いているのか分からなくなってくるのではないか。ケース・バイ・ケースだろうが、中には本来は作品志向の作家だっているはずだ。だが、主導権は常に出版社側にあるのである。
 漫画がこれから先、芸術の一つの分野として認められるためには、漫画家やアニメーターの地位の向上が不可欠だろう。だって、あれだけの作品を作りだすのがどれだけ大変か、考えてみたことがありますか。労働に見合った地位や収入があるとは、とても言えないはずだ。漫画家たちがもっとアーティストとして認められるようになれば、作品の質もきっと底上げされるだろうと僕は思うし、本来はそうであるべきじゃないのだろうか。

 うーん、やっぱり上手く纏まらなかったかな。

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