漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

《ミッドナイトランド》/ エンドレスサマー/ 2

2009年02月26日 | ミッドナイトランド
 そこから北に眼を遣ると、《虹光の岩山》の鮮やかな岩山が、組み上げられた長い砦のように見える。その辺りは、僕には未知の領域だった。聞くところによると、この岩山が色とりどりに輝いているのは様々な色彩の光を放つ苔によって覆われているからで、その光が極度に反射率の高い露出した岩肌に反射することによってさらに輝いて見えるのだという。また空気の澄んでいる時には、そのずっと彼方に聳える《蒼壁の山脈》が、まるで幻のように、闇の中にぼんやりと浮かび上がって見えることもある。
 首を巡らせて西方に眼を向けると、そこには何処までも淡々とした暗い平原が続いている。その暗い闇の中には街と街を繋ぐ《いにしえの道》があるが、利用するのは《ミッドナイトランド》の都市間を行き来する、数少ない行商の人々だけだ。かつては《ミッドナイトランド》でも都市間の交流が盛んだったという記録が残っているが、長い年月の中で各都市間の差異も殆どなくなって、それぞれの都市の独立性が高まると、次第に敢えて命を危険に晒してまで都市と都市とを繋ぐ《いにしえの道》へ歩みを進めようとする人々の数も減り、現在では限りなく犯罪者に近い人々が都市と都市とを繋ぐ商人を名乗って、ごく稀に行き来するだけとなってしまった。そうなるとますます《いにしえの道》は、限りなく危険を伴う道として人々の往来も少なくなった。そうでなくともこの《いにしえの道》には様々な《夜のけものたち》が闊歩しているのだし、道を巡る恐ろしい風説や伝説も数多いのだから。
 最後に僕は真っ直ぐに正面を、南の遥か彼方を、見詰める。そこに広がっているのは、星光植物の明かりさえない漆黒の空間だ。だが僕はじっと目を凝らす。するとほんの僅かにだが、淡い緑色に鈍く光っている場所があるのがわかる。そして、微かに星の光を映して光が揺れているのも見えてくる。どちらもとても淡い光で、まるで幻のように見える。
 それは海だった。
 空と溶け合う水平線の向こうにまで広がる、《静寂の海》だ。
 海はたっぷりの水を湛え、寄せては返す。その波打ち際が、僕たち街の人間にとっては世界の終りに等しい境界線だった。海の向こうにまで遠く漕ぎ出してゆく人など、海を熟知した漁師の他には誰一人いないし、その漁師たちにしたところで、それほど岸辺から遠くへ離れてまで漁をするわけではない。浜から離れて海原の中にいると、自分が上を向いてるのか下を向いてるのか、だんだんと自信がなくなってくる。漁師たちは皆、口を揃えてそう言う。海の中に至っては、未知の世界と言ってよかった。水の中に潜ろうとする人間など、殆ど誰もいない。闇の海は、陸地以上に大きな危険を伴う場所だからだ。だから海は、この大地よりも、宇宙に属している場所なのだ。
 僕は今、《青の丘》の柔らかい光に包まれて、じっと彼方の海を見詰めている。そして《耳鳴梟》(みみなりふくろう)や《欄団鳥》(らんたんちょう)の鳴く声に混って、静かな波の音が聞こえては来ないだろうかと考えている。だが、波の音はここまでは聞こえてはこない。来るはずはないのだ。だが、時折ふっと空気が揺れる気がすることがある。それは繰言のような波の音の、さらに小さな呟きなのかもしれない。
 《ミッドナイトランド》の光景は、幼い頃から少しも変わってはいない。もちろん細部を見詰めるなら、その印象が誤りであることに気付く。だが僕が生まれてから今に至るまでの、ほんの二十数年の月日が《ミッドナイトランド》に与えた変化など、ほんの些細なものなのだろう。
 今は独り、僕はこの《青の丘》に横たわって、眼下の光景を眺めながら、そこに息づく様々な現象に思いを馳せては、じっと耳を澄ましている。少しだけ孤独だが、寂しくはない。丘はいつでも心が安らぐ場所だからだ。だが、かつては僕の傍らにカムリルがいたことがあった。僕と彼女は二人でよくこの丘にやってきては、長い時間を過ごしたものだった。あの頃、僕たちは何の話をしていたのだろう。ほんの数年前のことなのに、もう僕は断片しか覚えてはいない。だがその時間の柔らかさだけは、まだはっきりと覚えている。手を伸ばせば、彼女の肩の形を掌の中に感じることも出来る。
 僕は彼方の海を見詰め、じっと耳を澄ます。すると《揺子虫》(ゆすりご)の虫の音の彼方から、彼女の歌う「赤く小さな星」の、どこか淋しい子守唄のようなメロディが聞こえてくる気がする。そしてその歌声の辿り着く先に、あの不思議な少年の赤い瞳が浮かび上がってくる……

野方配水塔

2009年02月25日 | 消え行くもの

中野の哲学堂公園の近くに、異彩を放つ建物がある。
聳え立つ、ゴシック的建築物。
野方配水塔である。

ウィキペディアによると、


近代上水道の父」と呼ばれた工学博士・中島鋭治による設計で1930年に完成した。配水塔としては1966年に使用を停止した。1972年7月31日に給水所が廃止されてからは跡地及び配水塔を東京都水道局が管理してきたが、現在は中野区の災害用給水槽となっている。


ということ。

中はどうなっているのだろう。見てみたい。
ホジスンの短篇「水槽の恐怖」を思い出したり、江戸川乱歩の小説を思い出したり。
ゴシック魂が掻き立てられる、素敵な建築である。

オッド・アイ

2009年02月22日 | 

散歩中に哲学堂公園で出会った、オッド・アイの白猫。とても人なつっこい。
この公園に来て、猫を世話しているらしいおじさんがいて、話を聞くと、15歳くらいの野良猫らしい。
年寄りのせいか、舌が出しっぱなしになっている。
オッド・アイの猫は、たまにいて、とても神秘的。目の色をとって、「金目銀目」という言い方をする。白猫に多いらしい。
ここのサイトによると、白猫のオッド・アイを「オッド・アイ・ホワイト」と呼ぶそうだ。そして、青色側の耳は、生まれつき聞こえないらしい。

赤死病

2009年02月19日 | 読書録

「赤死病」 ジャック・ロンドン著 辻井栄滋訳 新樹社刊

を読む。

 ジャック・ロンドンの代表的な予見的SF作品の一つとして有名な中篇作品。とはいえ、実際のところ僕には予見的なSFという感じは余りしなくて、じゃあ何なのかというと、暴走する才気と想像力を持ったロンドンが、勢いに任せて書いた作品という感じがする。だけど同時に、とても興味深い作品だとも思う。この作品には、単なる「書き飛ばし」と処理できないだけの原石のひらめきと、人間や社会に対するロンドンの冷徹な視点がある。この作品は、小説というよりは、一つの寓話なのだろう。

ミハイル・ストロゴフ

2009年02月17日 | 読書録

 日曜日は、横浜の根岸森林公園へ。ここには、小さいけれども、梅林がある。梅見の後は、横浜散歩。横浜は、住宅街でも、散歩をしていてとても楽しい場所だ。

 「皇帝の密使 ミハイル・ストロゴフ」 ジュール・ヴェルヌ著 江口清訳
パシフィカ刊

を読む。

 シベリアを舞台にした小説で、ヴェルヌにしては珍しく、ロマンスらしきものもある。何度か映画化している作品だが、作り手にしてみれば、ロマンスがあるというのはやり易くて有難いに違いない。
 面白い小説で、まるで週刊漫画のように、ツボを押さえた見せ場が要所要所にあり、一気に読めてしまう。
 

旅に出る時ほほえみを

2009年02月14日 | 読書録

「旅に出る時ほほえみを」 ナターリャ・ソコローワ著 草鹿外吉訳
サンリオSF文庫 サンリオ刊

を読む。

 思わせぶりなタイトルの多いサンリオSF文庫。これもタイトルがそそる一冊だが、案の定というか、多少肩透かしを食らった感じ。まあそれでも、ソ連のSFというだけでちょっと珍しい。
 いや、今SFと書いたが、実際にはこれはSFというよりも、ハクスリーやチャペックのような、SFの題材をちょっと借りた風刺小説。ただし、小説としての出来はかなり落ちるかもしれない。子供向きの本なのかな、という感じが少しした。
 

赤い球体

2009年02月13日 | 読書録

「ジャック・ロンドン幻想短編傑作集」
ジャック・ロンドン著 有馬容子訳 彩流社刊

を読む。

 自然主義的文学作家とされるジャック・ロンドンの、超自然的志向を垣間見ることの出来る短編集。ジャック・ロンドンという人は破格の人で、作家としても人物としても、本当に興味深い。
 この短編集に収録されている作品は、「水の子」を除きすべて本邦初訳だが、残り物の翻訳という感じではまるでない。これまで日本でジャック・ロンドンが正当に評価されてこなかったため、荘子の「胡蝶の夢」と似た思想が展開されている「水の子」を除いては、邦訳される機会がなかったというべき作品ばかりである。
 しかし、この作品集の中で特に注目すべき作品は、何といっても「赤い球体」に止めを刺す。この作品のめくるめく迫力は、尋常ではない。物語の中に出てくる「赤い球体」は、あらゆる象徴と同等であり、また同時に、あらゆる象徴を軽々と無意味にする、宇宙と真っ直ぐに繋がった生命そのものの塊でもある。この本は、この一作のためにだけでも、読む価値がある。

パンズ・ラビリンス

2009年02月08日 | 映画

「パンズ・ラビリンス」 ギレルモ・デル・トロ監督

をDVDで観た。

 これはかなり面白かった。とてもよく出来た映画。
 現実とファンタジーを重ね合わせた作品というのはよくあるけれども、これだけ無理なく成功しているのは少ないのではないかと思う。
 この作品はスペイン内戦を舞台にした、ギレルモ・デル・トロ版「不思議の国のアリス」だとか。そういわれれば、確かにアリスを意識しているのだろう部分も多い。オフェリアのドレスだとか、時計をやたらと気にしているところだとか。でも、基本的にはそれほど関係はなさそう。
 物語の最後をどう捉えるかによって随分と印象が違うという意見も、ネットを見ていると多いようだが、僕にはどちらでもこの作品の評価が変わるものでもないと思える。そのくらい面白い映画だと思うからだが、それでも個人的には、オフェリアの見ていた世界は、素直に、実在していると考えたい。そう考えた方が、物語としての深みが、ずっと出る気がするからだ。

この宇宙のこと

2009年02月06日 | 近景から遠景へ

 この宇宙って、何なんだろうと思う。
 時空って、何なんだろうと。
 余りにも大きすぎて、考え始めると、途方に暮れてしまう。
 小学校の高学年の頃、今でもはっきりと覚えているのだが、ある夜に、自分のいる場所の外には街があって、海があって、日本があって、世界があって、宇宙があって……と考え始めて、いったい自分という存在がどんな場所に立脚しているのか分からなくなり、すごく怖くなったことがある。それからしばらくは、本当にそんなことばかり考えていた。そして、考えれば考えるほど訳がわからなくなって、途方に暮れた。
 今でもそうだ。もちろんその頃に比べれば色色と分かっているし、世界というものの実質を、ちゃんとしたイメージで捉えることは不可能なのだということも、理解している。それでもやっぱり、わからないものはわからない。悔しい。
 考えてみれば、そういう気持ちが自分の想像力の扉になっている気がする。僕がSF小説が好きなのも、それがそうした想像力への扉として機能する文学形式だからだ。世界は、ある程度まではキチンとした原理で出来ている。だが、それを超えた無秩序が確実に存在している。それは神秘主義でもオカルトでもない、「不確定性を孕む」という名の無秩序だ。
 世界を想像する。しようとする。でもちょっと大きすぎるな。別に世界じゃなくても、新宿の片隅でもいい、じっと立って、自分の周りの世界がどのように動き、互いに影響を与え合っているのかを考える。あらゆる人が、あらゆる偶然が、それどころか、様々な微生物やウィルスまで、常に複雑に絡み合って、様々な現象を作り出す。たったこれだけの小さな場所でさえ、想像などとても及ばないのだから、宇宙の秩序など、あるいは無秩序など、分かるはずもない。いや、そうではないのか。この場所にある混沌が、そのまま宇宙の混沌と同質なのか。量子論云々。そう思ったとたん、自分が宇宙の只中にいることに気がつく。
 いい年になって、子供までいるというのに、そして大抵は現実的な心配事に心を砕いているというのに、それでもやっぱり宇宙のことを考えると、打ちのめされる。そして、決して自分がその本質について知ることはないのだろうと思うと、悔しくなる。虚空を掴みたくなる。
 そして、想像力の源となる。
 ビールを飲みながらの、たわごとともなる。
 現に今、なっている。

《ミッドナイトランド》/ エンドレスサマー/ 1

2009年02月04日 | ミッドナイトランド
 《青の丘》は、『瑪瑙市』の旧市街の西の外れにある。今では住む人も殆どいない寂れた旧市街を通り抜け、『辺境区域』の辺りで家々が《ミッドナイトランド》の大いなる自然と溶け合ってゆく様子を眺めながら街を離れて、まるで萎えた手のような《五垂草》(ごすいそう)のしなやかな群生の中の道をずっと歩いてゆくと、三十分ほどで《青の丘》の麓に辿り着く。麓に立って見上げると、丘は一面に咲き誇る真っ青な《夜鳴草》(よなきぐさ)の柔らかい光で、闇の中にぼんやりと浮かび上がって見える。僕はしばしその光を楽しみ、大きく息をして夜を吸い込み、それからその光の中を丘の頂へと向かう。丘は急な斜面で、アスリートとはいえない僕の呼吸は、すぐに激しくなる。やがて丘の頂に辿り着くと、僕は身体を《夜鳴草》の密生の中に横たえる。すると草は柔らかに透き通った、啜り泣きのような音を鳴らす。音は静かに響きあい、その音に合わせて、丘全体が揺れる。僕の呼吸がそれに混ざってゆく。僕が丘と溶け合う瞬間だ。僕ははそこで過ごす時間が好きだった。幼い頃からずっと。
 そこでは時の流れから自由でいられた。終わることのない夜の底で、仄かに青く発光する《夜鳴草》の敷き詰められた丘の肌に身体を委ね、その啜り泣きのような音を聞きながら、眼下に広がる《ミッドナイトランド》の微睡みにも似た光景を眺める時、僕はいつも、彼方へと飛び去って行く時間の後姿を見詰めているような気分になった。時間は僕のいるこの世界を、《ミッドナイトランド》を、置き去りにして進んでゆく。それは不思議に心地よい寂しさだった。まるで遠い記憶を愛惜する感情にも似ていた。
 《青の丘》からは《ミッドナイトランド》を、永遠の夜に封じ込められた世界の片隅を、見渡すことが出来た。暗い大地が地平で宇宙と溶け合い、僕たちの世界が限定される様を見ることが出来た。
東の方には僕の住んでいる『瑪瑙市』の人工的な灯りに彩られた全景と、そのずっと彼方に広がる《緑青の平原》の、仄かに浮かび上がる光景を見ることが出来た。その辺りは広大な湿地帯で、足を踏み入れることが危険なため、ほとんど何も分かっていない。また、《緑青の平原》の周囲に点在する漆黒の斑点のような土地は《黒砂斑》(こくさはん) と呼ばれており、非常に粒子の細かい黒砂に足を取られて抜け出せなくなってしまう危険のある場所だ。またそこには無数の《砂衛虫》(さえむし)が住んでおり、迷い込んだ動物を生贄にしようと待ち構えている。ただ、虫からは非常に効能のある精力成分が採取できるため、非常な高値で売買されている。したがって、命を賭して《黒砂班》に出かけてゆく人も後を絶たない。しかし彼ら捕獲者は常に死と隣り合わせにあり、最終的には大抵、《砂衛虫》の餌となってそれまでに得た利益の借りを返すことになる。というのも、捕獲の方法はいくつも確立されているものの、いずれにせよ砂班の中へ深く踏み入らなければならないため、どの方法をとろうがかなりの危険を伴うことに違いはないからだ。

小江戸

2009年02月01日 | 近景から遠景へ

 ふと思い立って、川越へ出かけた。
 小江戸川越である。近いわりに、まだ行ったことがなかった。それで、思い立ったが吉日だと、風の強い中、出かけてみた。
 今回散歩したのは、蔵造りの町並みが残る、代表的な観光ゾーン。自動車がやたら多く、(景観という点でも、町の保存という意味でも)ちょっと気になるけれど、その一角は電柱が一本もないため、空が広く感じる。
 その一角以外でも、町はいい感じに古い場所が多く、比較的近いわりに、とても遠くまで来た気分になれる。町には、やはりというか、古い着物とか雑貨とかのアンティークショップがとても多い。
 立ち寄った店で、スピッツの「インディゴ地平線」の初回版が400円で売っているのを娘が見つけたので、買ってあげると、ホクホクしていた。この前の埼玉スーパーアリーナのコンサート以来、さらにスピッツ熱が増しているようだ。