漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



 「昭和のくらし博物館」で開催中の、「高野文子の描く 昭和のこども原画展」を観にゆく。
 五反田から東急池上線に乗った。東急池上線に乗るのは、考えてみれば初めて。乗ってみて、驚いたのは、車内がレトロな感じになっていたこと。車内の壁が木目調。電灯も少し黄色くて、レトロな雰囲気をさらに盛り上げる。木目調の車内といえば、神戸に住んでいた頃によくお世話になった阪急電車がとっさに思い浮かぶが、まさか東京にも木目調の車内を持つ電車が走っているとは思わなかった。そういえば、東急と阪急、ちょっと名前が似ているんじゃないかと妻に言われ、そういえばそうだねと、スマホでちょっと検索。分かったことは、そのどこはかとなく漂うハイソな雰囲気から、昔から東の東急、西の阪急と言われているということ。初期の日本の民間鉄道事業が阪急を手本にして発展してきたという経歴があって、しかもその阪急の創始者である小林一三という人物は、渋沢栄一から依頼されて、現在の東急電鉄の始祖となった田園都市開発株式会社の経営を任され、無報酬かつ役員として実名を連ねないことを条件に、実質的に経営を主導したということ。また東急の実質上の創始者である五島慶太は、小林を師と仰いでいたという事実があったということ、など。なるほど。
 池上線を、久が原にて下車。そこからごく普通の住宅街を十分弱歩き、昭和のくらし博物館に到着。はっきり言って、結構わかりにくい場所にある上に、今では少なくなってきたタイプの建物とはいえ、特に珍しいという印象もない、ちょっと古めの、旗竿地に建つごく普通の民家である。
 門を入って、左手の離れのようなところで入場料を払い、引き戸の玄関から中へ。懐かしい感じは、すごくする。ぼくが子供の頃には、どこにでも普通にあったような家である。家の中は、昭和30年代くらいの、ごく普通の家庭の様子が再現されている。館長を務める生活史研究所代表の小泉和子さんの言葉によると、彼女の家族が実際にこの家で暮らした平成8年までの45年間に、様々なことがあって、最終的には空き家となってしまったこの家を、一度は壊してしまうことも考えたらしいが、「この時期に建てられた住宅が現在、ほとんど残っていないこと、一軒分の家財がそっくり残っていることから、決して立派な家でも家財でもありませんが、これはまるごとが戦後の庶民のくらしの資料ではないかと考えて、このまま残しておくことにきめました」ということ。確かに、生々しい生活の空気は感じる。ぼくが、特に珍しいという印象もないと感じた家だが、そうか、そう思っているうちにどんどんと失われていってしまうものなのか、とふと思う。
 今回この博物館を訪れた、肝心の目的の高野文子原画展は、二階の八畳ほどの小さな部屋の中で開催されていた。展示されていたのは、かつて綺譚社から箱入りのハードカバーで発行され、現在は筑摩書房からソフトカバーの新装版が出ている「おともだち」収録作「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」の本文2ページ目から5ページ目までの多色刷りページを始め、「棒がいっぽん」収録の「美しき町」から数ページと「奥村さんのお茄子」から数ページ、「黄色い本」から表題作の「黄色い本」数ページ、他には「絶対安全剃刀」のカバー絵、「おともだち」のカバー絵、「青い鳥」のカバー絵、絵本「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」のカラー絵など。本音を言えば、もっとたくさん展示があると思っていたので、ちょっと少ないかなと思ったが、「おともだち」のカバー絵が思いの外小さい絵だったんだという発見があったり、「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」の絵はやはり神がかっているなと思ったりできたのは良かった。でもやっぱり、もっと見たい絵は(特に初期の漫画の)、他にもたくさんあったんだけれども。「玄関」とか、「ふとん」とか、「田辺のつる」とか。。。
 帰りは下丸子駅から東急多摩川線で多摩川駅へ。そこで一時下車して、近くの多摩川台公園に立ち寄った。
 多摩川を挟んで、正面に、この十年ほどで急速に発展した、武蔵小杉のぴかぴかの高層マンション郡が見えた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 昨年末に水木しげるさんが他界され、先日にはデヴィッド・ボウイさんが他界された。あまりに突然の訃報。妖怪と異星人、どちらも元いた場所に帰ったということかもしれないけれども、やっぱりぽっかりと穴が開いてしまった感はある。自分と異なる存在に対する想像力を欠き始めたこの世界が、妖怪や異星人には住みにくくなってしまったのだろうか。そんなふうにも、ふと、思う。
 今の若い人たちにはよく分からないかもしれないけれども、このお二人、どちらも日本のサブカルチャーに与えた影響は計り知れない。水木さんがいなければ、妖怪というものはに対する関心はとうに風化してしまっていたかもしれないし、ボウイがいなければ、ビジュアル系という音楽ジャンルはもとより、これほど日本に腐女子文化が根付いたりしなかったかもしれない。もともと、草創期からコミケを牽引してきたのは、そうした腐女子たちだった。水木さんのマンガは、それほどたくさん読んできたわけではないし、ボウイに関しても、「トゥナイト」以降のアルバムをちゃんと一枚を通して聞いた覚えもないから、ぼくは良い読者でも、よいリスナーでもなかったわけだが、間接的な影響は、間違いなくふんだんに受けている。このお二人は、日本のサブカルチャーの、芯の部分にいる。
 訃報を受けて、つい先日リリースされたばかりの新作の「Blackstar」のビデオクリップをyoutubeで観てみた。まるでトム少佐の最期を思わせるかのような着地点。黒い太陽に照らされた、荒涼とした世界。彼の遺作としてふさわしい作品。最初からそのつもりで制作したのだろうか。遺作にして、この露悪趣味。ボウイは最期までボウイだった。
 ご冥福をお祈りします。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 二日ほど前に、ルー・リードの「Coney Island baby」の試訳を載せてみたけれど、アップした後でもう一度見てみて、もしかしたらこう訳した方が本当かもしれないとも思ったので、載せてみることにします。
 パーソナルなことを歌ったものだし、ルーの声が強いこともあって、今までそうは思いつかなかったけれど、語り手がドラッグクイーンであると考えてみた、こっちの方が何となくしっくりくるような。

-------------

Coney Island baby

Lou Reed

ねえ、あなた、あたしがまだ少年で、ハイスクールに通っていた頃
一人のコーチのために、アメリカン・フットボールをやりたかったのよ
あんたが信じてくれるかどうかは、わからないけど
先輩たちはみんな、口を揃えて
あの野郎は陰険だしイカれてやがると言ってたけど、わかるかしら
あたしはそのコーチのためにアメフトをやりたかったのよ
お前はラインバッカーにしてはチビだし、痩せすぎだろって、皆には言われたわ
だからあたしは、ライトエンドをやってるんだって言い返した
コーチのためにアメフトをやりたかったから
あなたはいつか知ったのね
真っ当(ストレート)でいなければ虐げられるってことを
そうして死に向かうんだってことを
あたしが知っていた誰よりも完璧に真っ当(ストレート)な男は
いつでもあたしを公平に扱ってくれたわ
だからコーチのためにアメリカン・フットボールをやらなくちゃいけなかった
そのコーチがいたから、アメフトをやりたかったのよ

たった一人の孤独な時間
真夜中頃に
あなたは自分の魂が
売り渡されようとしていることに気付くのよ

そうしてあなたは考え始める
自分がやってきた、すべてのことについて
そして憎み始めるの
ありとあらゆることを

だけど、丘の上に住んでいたプリンセスのことを思い出して
あなたがおかしいと分かっていても
それでもやっぱりあなたのことを愛した、彼女のことを
そう今こそ、彼女は光り輝く道を開いてくれるのかもしれないわ
そして、その――

――愛の輝きが、愛の栄光が
愛の持つ力が、まさに道を示してくれるのかもしれない

つまらない友人たちはみんな
あなたを罵って、去ってしまった
彼らがあなたの背中に向って語りかける、あのさ
お前の甘っちょろさは直しようがねえな
あなたは身体を震わせ、また考え始める
自分がやってきたあらゆること、そのすべてについて
それが誰だったのかとか、どんなことだったのかとか
さまざまな場面で起こった、あらゆることすべてについて

ああ、だけど思い出して、この街が普通じゃない場所だってことを
サーカスか、あるいは下水道のような場所だってことを
そしてちゃんと思い出して、いろんな人がいて、みんなそれぞれに個性を持っているんだってことを
そして、その――

――愛の輝きが、愛の栄光が
愛の不滅の力が、道を示してくれるかもしれないわ
そう、でも今なら
愛の輝きが、愛の栄光が
愛の不滅の力が、道を照らしてくれるかもしれないわ
愛の輝きが、栄光に満ちた愛が
不滅の愛が、愛の栄光が
愛の不滅の力が、ああ、そうよ、今こそ、愛の輝きが
愛の力が、愛の至福が
光り輝く愛が、そうだ、素晴らしき愛が、今
愛の至高の光が、今あたしを祝福し
栄光に満ちた愛の輝きが、あなたに取るべき道を指し示すのよ
おお、愛しきコニー・アイランド・ベイビー、今こそ
(今のあたしは、コニー・アイランド・ベイビーの一人よ)
あたしはこの歌をルーとレイチェルに送りたい
それから、すべての若者たちと 第192パブリック・スクールのみんなに
コニー・アイランド・ベイビー
ねえ、あたしはあなたのためにすべてを捧げると誓うわ

    (訳:shigeyuki)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





Coney Island Baby

Lou Reed


なあ、おれはハイスクールに通っていた頃
一人のコーチのためにアメリカン・フットボールをやりたかったんだ
あんたが信じてくれるかどうかは知らないがね
先輩たちはみんな口を揃えて
あの野郎は陰険だしイカレてやがると言っていたが、わかるだろ
おれはそのコーチがいたからアメフトをやりたかったんだ
皆に言われたね、おまえはラインバッカーにしてはチビだし、痩せすぎだろって
だからおれはライトエンドをやってるんだって言い返した
コーチのためにアメフトをやりたかったからな
お前はある時、知ったんだな
真っ当(ストレート)でいなければ虐げられるということを
そうして死に向かうんだってことを
おれが知っていた、誰よりも完璧に真っ当(ストレート)な男は
いつでもおれをちゃんと公平に扱ってくれた
だからコーチのためにアメリカン・フットボールをやらなければならなかった
そのコーチがいたからアメフトをやりたかったんだ

たった一人の孤独な時間
真夜中頃に
お前は自分の魂が
売り渡されようとしていることに気付くんだ

そしてお前は考え始める
自分がやってきたすべてのことについて
そして憎しみを募らせ始める
ありとあらゆることに対して

だが丘の上に住んでいたプリンセスのことを思い出すんだ
お前がおかしいと分かっていても
それでもなお、お前のことを愛した彼女のことを
まさに今こそ、彼女は光り輝く道を開いてくれるのかもしれない
そして、その――

――愛の輝きが、愛の栄光が
愛の力が、まさに道を示してくれるのかもしれない

つまらない友人たちはみんな
お前を罵って、どこかへ行ってしまった
彼らはお前の背中に向って語りかける、あのさ
てめぇはどうしたって悪魔にゃなりきれねえのさ
お前は身体を震わせ、また考え始める
自分がやってきたあらゆること、すべてについて
それが誰だったのかとか、それがどんなことだったのかとか
様々な局面でやってきた、あらゆることすべてについて

ああ、だが思い出すんだ、この街が奇妙な場所だってことを
サーカスか、あるいは下水道のようなものだということを
そしてしっかりと思い出すんだ、様々な人々がいて、それぞれに個性を持っているのだということを
そして、その――

――愛の輝きが、愛の栄光が
愛の不滅の力が、道を示してくれるかもしれない
そうさ、だが今なら
愛の輝きが、愛の栄光が
愛の不滅の力が、道を照らしてくれるかもしれない
愛の輝きが、栄光に満ちた愛が
不滅の愛が、愛の栄光が
愛の不滅の力が、ああ、そうだ、今こそ、愛の輝きが
愛の力が、愛の至福が
光り輝く愛が、そうだ、素晴らしき愛が、今
愛の至高の光が、今おれを祝福し
栄光に満ちた愛の輝きが、お前に道を指し示すのさ
おお、愛しきコニー・アイランド・ベイビー、今こそ
(今のおれは、コニー・アイランド・ベイビーの一人さ)
おれはこの歌をルーとレイチェルに送りたい
それから、すべての若者たちと 第192パブリック・スクールのみんなに
コニー・アイランド・ベイビー
なあ、おれは君のためにすべてを捧げると誓うよ

          (訳:shigeyuki)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 27日、ロック・レジェンドの一人であり、僕にとっても特別な存在であったアーティスト、ルー・リードが亡くなった。71歳。
 突然だったけれども、まあ長生きした方だよとも思う。それ以上の言葉がない。
 さようなら。何もかも、格好よかったです。


Pale Blue Eyes

Lou Reed

とても幸せだと感じる時もあるし
すごく悲しい気分になる時もある
心から幸せだって感じる時はあるけど
基本的に君は僕をすごく怒らせるんだ
ねえ、君はぼくをおかしくさせるんだよ
消えそうな君の瞳が忘れられない
蒼く儚い瞳が瞼の裏に焼き付いて消えない

君は山の頂のようなものだと思っていた
君が僕の到達点だと思っていた
君が全てだと思っていたけど
僕には繋ぎ止めることができなかった
留めておくことができなかったんだ
消えそうな君の瞳が忘れられない
蒼く儚い瞳が瞼の裏に焼き付いて消えない

もしこの世界を
僕の目に映るような奇妙で純粋なものにできるのなら
君を鏡の中に閉じ込めておきたい
そして僕の前に置くんだ
僕の目の前に置くんだ
消えそうな君の瞳が忘れられない
蒼く儚い瞳が瞼の裏に焼き付いて消えない

人生なんて完全にすっとばして
カップの中に閉じ込めてしまえ
彼女は言う、「お金って今の私たちにそっくりね
それは偽り、そこにあってもなんにもならない
あなたにとって、憂鬱は心地良いものなのね」
消えそうな君の瞳が忘れられない
蒼く儚い瞳が瞼の裏に焼き付いて消えない

昨日はとても楽しかったね
また遊ぼうよ
君が結婚したっていう事実は
君が僕のいちばんの友達だっていう証明にしかならないのだし
だけどそれは実際のところ、どうしようもない罪なんだよね
消えそうな君の瞳が忘れられない
蒼く儚い瞳が瞼の裏に焼き付いて消えない

(翻訳・shigeyuki)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 ネットを見ていて、神戸市元町にある老舗の書店「海文堂書店」が、今月で閉店するということを知った。
 今年の夏、神戸に行った折に海文堂に寄ったのだが、その時には閉店するということは告知されていなかったように思った。海文堂の有名な洒落たブックカバーが欲しいと思い、何か本を買おうと思ったのだが、たまたま読みたい本が見つからず、荷物もあるしまあ今度でいいかと何も買わずに出てしまったことが、今更ながら悔やまれる。海文堂は、あって当たり前の書店だったし、まさか閉店するとは夢にも思わなかった。
 とはいえ、全く予感がしなかったわけではない。実家が神戸にはなくなってしまったので、この数年はなかなか神戸に行く機会がないのだが、それでも育った町である神戸が懐かしく、数年に一度くらいは足を伸ばす。だが行く度に、神戸から元町に至る元町商店街が寂れていっているように思えて、気になっていた。記憶の中にある神戸の町は、もっと賑やかで、元気があったように思う。今からもう二十五年以上も前のことだが、僕の頭の中の神戸は、いまだにまだその当時の活気を持って浮かび上がってくる。だからこそ、現在の寂れつつある街とのギャップに混乱する。震災以降、神戸はいまだに復興を見ていないのだ。
 海文堂書店は、元町商店街にあって、モダンな神戸を代表するような書店だった。三ノ宮のジュンク堂のような広さはないが、ジュンク堂にすら在庫していないような癖のある本を多数取り揃えていたし、かつては二階にギャラリーなどもあって、昨日今日ではない、洒落た雰囲気を漂わせていたものだ。海関連の書籍の充実度には定評があったし、海図などのグッズも取り扱っていた。一階には岩波などの絶版文庫の棚があったこともある。サンリオ文庫も、サンリオが出版から撤退した後も長い間書棚に並んでいた。最後の駆け込み購入のつもりで、僕も結構な冊数を買ったことを覚えている(今でも読まないままで書架に眠っていたりする)。もっとも、高校生だったので、あるだけまとめて大人買いというわけにはゆかず、立ち寄るたびに数冊といった程度だったけれども。
 創業百年を目前にした、九十九年目での閉店である。あまり売れない本でも、置く価値があると判断した本は、返品せずに売れるまで店頭に並ばせ続けていたように思う。マンガや絵本は、数は多くはなかったが、良いものが揃っていたと思い出す。書店としての良心を持った海文堂にはファンが多かったから、惜しむ声は多いはず。僕も、とても淋しい。
 海文堂書店さま。お世話になりました。遠く東京からではありますが、別れを惜しませてください。
 ありがとうございました。

 今日は、中秋の名月。満月です。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





「永遠の子供たち」 J.A.バヨナ監督

を観る。

 「パンズ・ラビリンス」のギレルモ・デル・トロ監督が製作に関わった映画。
 ストーリーは、かつて孤児院で育った一人の女性、ラウラが、成長して結婚をし、子供を授かったが、七歳になったその子シモンはHIVに感染しており、いつまで生きられるかは分からない。そうしたことから、夫婦は、かつて彼女が育った、今は閉鎖されている孤児院を買取り、同じく障害を持つ子供たちのための養護施設にしようと考える。屋敷に移り住んだ一家は、様々な気配を感じたり、謎の老女の訪問を受けたりするが、特に大きな問題にまでは発展することはなかった。だが、その開院の日に、覆面をした謎の子供が現れ、息子は姿を消してしまう。そうして半年を過ぎても、手がかりは何一つみつからない。一体、シモンはどこへ消えてしまったのか……というもの。
 一応ホラーなのだろうが、怖いというよりも、痛切といった方が当たっている。障害を持っていて長く生きることのできない子供と、かつてともに過ごした友人たちともに生きるという永遠を選んだラウラ。それは一つのハッピーエンドなのか。それとも、かつての友人たちが、そこから出ていったラウラを再び呼び寄せたということなのか。解釈の仕方で、受ける印象がやや変わってくる。だが、映像も美しいし、そっと浸れるいい映画だったと思う。

 ところで、写真は先日散歩がてら見てきた「同潤会上野下アパート」。築83年の、「最後の同潤会アパート」だが、来月に建て替えが決定している。それで、同潤会が手がけたアパートは、すべて姿を消すことになる。
 僕が初めて同潤会アパートの名前を知ったのは、まだ神戸にいた頃に読んだ「帝都物語」だった。東京に出てきて、表参道にあった同潤会アパートを初めて見た時、これがあの同潤会アパートか、と思ったものだった。代官山を歩いていて、やはり代官山の同潤会アパートに迷い込んだりしたこともあった。
 今回、実際に上野下アパートを見てみて、古い割には手をしっかりと入れているとは思ったものの、やはりその古さはどうしても隠しようがないとも思った。建て替えもやむなしなのだろうが、一抹の寂しさは、感じた。せめて、つるんとした、つまらない建物にならなければいいなと思った。同じように写真に収めようとこの場所を訪れる人が、ほんの僅かな僕と妻がそこに滞在していた時間でさえも、何人もいた。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 先日、村上龍氏と吉本ばなな氏が、電子書籍の出版社を設立するというニュースがあった。それと呼応するようにして、さまざまな電子出版への参入のニュースもあった。電子出版がいよいよ加速してきそうだ。
 作家が主体となって電子出版を行うというのは、つまり中抜きの出版を行うということで、これは最初から予想されていた流れだろうが、長い目でみて果たして成功するのかは、わからないというのが実情だろう。なんとなくだが、一部の作家を除いては、あまり成功するとは思えない。一冊の本が完成するまでには、様々な人が関わるわけだし、本屋でふと手にとって購入という機会そのものが失われてしまっては、名前が広がるのが今以上に困難になるように思える。そもそも日常的に本を読む人の数がそれほど多くはないし、そうした人々はかなりの割合で、本というものそのものを愛しているというところがあるように思えるからだ。それでもこうした流れは、これからは常に存在しつづけるのだろうし、しばらくは色々とややこしいことになりながら、然るべきところに落ち着いて、共存してゆくことになるだろう。アメリカ並に、代理人のようなものがつくのが普通になってゆくのかもしれない。
 僕は読書端末として、amazonのkindleを利用しているが、はっきり言って、とても使い勝手がいい。最近では本の代わりに常にkindleを持ち歩いているくらいだ。英語があまり得意というわけではないので、これまでは絶版になってしまった翻訳本を探して古書店やネットを覗いていたが、英辞郎が利用できるkindleがあるとなると、原文で読もうという気になる。著作権の切れているものにかんしては、かなりの数の本が無料で手に入ってしまうのだから、ありがたい。日本の本に関しても、著作権のきれたものに関しては、青空文庫のファイルからコンバートして取り込んでしまえばいいし、しかもとても読みやすい。一度これに慣れてしまうと、もう戻れない気がしてしまう。
 しばらくkindleを使ってきた感想としては、小説本に関して言えば、本より電子書籍の方がずっと読みやすいような気がする。特に、読み捨ててしまうような娯楽ものに関しては、読み終えたら削除してしまえばいいのだから、便利である。あとは、現在僕が主に利用しているような、著作権が切れている古典を読む場合にも、端末は優れた威力を発揮する。そうした本に関して言えば、読む前から読者はだいたいの内容について、何らかの予備情報を持って望むわけだし、ちょっとした資料のようなつもりで読むことも多い。だから電子書籍の形態でちょうどいいくらいなのだ。実際のところ、僕にはkindleが時々岩波文庫のような気がしてくるほどだ。
 電子化して、意外と使えないように思うのは、資料として利用したいと思うような本ではないかという気もする。特に、図版が載っているようなやつを何冊も一度に使いたいという場合、本がそのあたりに転がっていないと、僕は考えがまとまらない気がする。もしかしたらそれは僕だけかもしれないけれども。
 電子書籍は、確実に便利だとは思うけれども、そこはやはり電子書籍ならではのイラッとする感じもあって、たとえば本のようにページをあちこちとペラペラめくれないというのは、もどかしく感じることがある。それができるというのが、本のいいところなのだ。小説のストーリーよりも文章の香気を味わいたいという場合にも、端末では味気ないと感じることがある。これは、活字や行間や紙の質や装丁なども含めて味わいたいものだからだ。そんな時には、やはり本というものは装丁から組版までも含めた総合芸術作品なのかもしれないなと思ったりする。いずれにせよ、電子書籍で十分な本とそうでない本があるのは確かなわけで、「本でなければならない」本を作るということがこれまで以上に大切になってゆくのだろうという、当然のような結論にしかならない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 
 僕がウィリアム・ホープ・ホジスンのファンサイトとしてもう十年近く前に作ったホームページが、インフォシークのホームページのサービス終了とともに閉鎖となった。それで、今利用しているプロバイダーのホームページサービスに移転作業を行っているのだが、そもそも最初にホームページを開設した当時は、そのときのプロバイダーはDIONだったのだが、容量が本当に少なくて、仕方なく50Mの無料のホームページサービス(hoopsだった)を申し込み、二つのサービスに渡ってサイトを運営していたのだった。そのうち、hoopsがgooに、それからinfoseek、楽天へと引き継がれて変っていったのだが、とうとうそのまま置いておくわけには行かなくなってしまった。当時のままのツギハギ状態を放置していたため、移転するといっても、そう簡単にはゆかない。リンクがあっちこっちに散らかっていて、何がなんだかよく分からないことになってしまっている部分もある。そのせいで、移転するのにも時間がかかる。最近は放置していたし、いっそ閉鎖してしまおうかとも思ったが、ひとつのものに特化したホームページは不完全なものとはいっても残しておいたほうがいいだろうと思うので、面倒だと思いながら随分久々にタグやスタイルシートをいじりつつ、少しづつやり直している。一応「seaside junk foods」のトップページからはリンクを貼っているが、まだ工事中である。
 サービスの終了について、infoseek側は時代の流れだと説明しているが、たしかにそれは感じることで、今ではほとんどみんなホームページなど作らずにブログでサイトを運営しているし、最近ではそれがtwitterに移ってきている。べつにそれはそれでいいのだろうが、色々と調べるときに、ほんとうにわかり易いのはやはりホームページだとも思う。ブログは、自分でもこうして日常的に更新していて、扱いやすいのだが、「知りたいこと」があるときに検索してたどり着いたのがブログだと、独特の使いにくさを感じることが多いのは確かだからだ。まあ、作るのは本当に面倒なんだけれども。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





 「amazon kindle3」を購入した。
 日本未発売なので、amazon.comから購入する必要があったが、申し込んでから、なんと三、四日ほどで到着した。amazonのkindleにかける意気込みが伝わってくるような気がした。
 最近、翻訳をブログにアップしたりしているのだが、もともと英語が得意でもないので、辞書をいちいち引きながら読むのは面倒だった。家のパソコンでは、FirefoxのMoseoverdictionaryというとても優れたエクステンションを利用できたが、読書するためにモニタをずっと睨んでいるのはストレスになるので、もっと読みやすい、辞書も手軽に利用できる電子書籍リーダーが欲しいと思っていた。ところが、このkindle3が日本語表示に対応し(日本語入力は出来ない)、しかも英辞郎Mobiという辞書も導入できるというので(ちなみに、オックスフォードの英英辞典がデフォルトで入っている)、まさに思っていた通りの製品だとわかったのだ。
 電子辞書リーダーとしては、iPadがすぐに思い浮かぶけれども、あれは最初から選択肢になかった。重いし、でかいし、高いし、必要以上に高機能すぎるし、Appleだし(最後は余計かな?)。ノートパソコンの代わりになら利用価値も高そうだけれど、ブックリーダーとしては、余りにも中途半端な気がする。
 まだ触り始めて時間が経っていないが、色々と試してみて、これは良い買い物をしたと思う。電子ペーパーなので、多少表示に時間がかかるかもしれないが、目が疲れない。本を普通に読むのと、余り変わらない感覚で文章が追える。大きさも重さもちょうどいい。操作性は、タッチパネルではないので、良いとは言えないかもしれないが、このくらいの方がかえっていいのかもしれない。この端末なら、電子書籍と本が共存できそうだ。なにより、現在のところはまだ日本では電子書籍が本格的に始まってはいないので、日本の書籍では青空文庫のものを読むくらいしかできないかもしれないが(青空文庫のテキストを、kindle用のpdfに変換してくれる「青空キンドル」というサイトもあって、ここでは自作のテキストもキンドル用のpdfに変換してくれる。僕も試しに自分の書いたテキストを変換してみたが、とても良い出来だった)、英語の本を読んで、英語の学習に役立てるには、これ以上ないほどの優れた端末だと思う。余計な機能がないので、気も散らないし。
 僕が買ったのは、wi-fi専用だったが、3Gが使える機種もあって、そちらでは、なんとインターネットの通信費がamazon持ちだというから、太っ腹。そちらを選ぶというのも悪くはなさそうだった。値段も50ドルしか変わらないし。ただ、そうは言っても日本語入力は出来ないし、それにそんなにネット端末として使うつもりもなかったから、こちらを選んだけれども、結果としてどちらがよかったのかは、まだよくわからない。
 

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





今日は暖かかったが、風があった。
 それでも、自転車に乗って、和田堀公園まで出かけた。
 暖かさのおかげで、風があっても、気分が清々する。

 「阿佐ヶ谷住宅」というのが善福寺川緑地の側にある。
 ここは、知る人ぞ知る、「奇跡の団地」である。そういうタイトルの本も出ている。日本のテラスハウスの先鞭をつけた団地群だ。そのせいか、僕たちが散歩している間にも、数人、写真をとって歩いている人がいた。
 写真では分からないだろうけれども(だから、もっといい写真があるサイトをリンクしておく)、時間や空間が「ちょっとずれた場所」にいるような気分になる、不思議な場所である。敷地内の道が、ゆるやかにカーブを描いているのだが、そこを歩いていると、まるで映画の中のかつてのアメリカの風景のような気分にさえなる。こんな場所が阿佐ヶ谷に残っていることが不思議なくらいだ。
 ネットで調べると、ここは今、建て替えをめぐってかなりもめているようだ。もちろん、大きなお金が動くという、かなり生臭いことがその問題の根底にはあるようで、簡単には収束しないかもしれない。僕は全く部外者だけれど、この場所のような、どこか懐かしい感じのする、風の通る心地よい場所が失われるのは、街がどんどんとつまらない建物ばかりの場所になってゆくようで、寂しい気がする。
 こういうサイトもある。

 住宅の敷地内の中央には公園があった。かつて、この団地がもっとも活気があった頃には、ここで住人たちによる運動会も開かれていたらしい。子どもたちが数人、その公園で遊んでいた。娘は今日、そこで簡単に四葉のクローバーをみつけた。きれいな形の、四葉のクローバーだ。その公園には街頭時計があった。その時計は、十二時きっかりを目前に、止まったままだった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





 ソメイヨシノが咲き誇る様子は、確かに美しいが、その美しいと感じる人の心のよりどころは、一斉に咲くという点にかなりの部分を負っているのは間違いない。よく知られているように、全てのソメイヨシノはクローンであり、同一の遺伝子を持つ。実を結ばず、したがって接木でのみ増える樹で、人の手によってしか子孫を残すことができない。自然界では、明らかに奇形の樹だ。人はその歪みに魅了されるのだろうか。様々な芸術作品を前にしたときにと同じように。

 ソメイヨシノは、人が滅びると、消滅してゆくしかない。人が作り上げた、ソメイヨシノの咲き誇る春の風景。常に背中合わせに存在する、その存在の脆さ。人工の光景の脆さ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


  


 
 蛍を観に、自転車で出かけた。
 自転車で行ける範囲に蛍がいるというのが、殆ど驚きである。
 場所は国立天文台の近くなのだが、はっきりとした場所をネットで晒していいものか。そこを管理している人によると、あくまで「ひっそりと」、子供連れの人にだけ声をかけているということである。何でも、国有地をボランティアで管理しているというのだが、その場所を所有しているところからクレームがきたことがあるということで、一時は管理もできず、荒れ果ててしまったというのだ。その後、見かねて市役所にかけあって、再び管理できるようになったらしい。ということで、できるだけ子供たちには見て欲しいのだが、大々的には宣伝できないということだ。
 今日はすでにピークを過ぎているということだったが、それでも相当な数のゲンジボタルを見た。手を差し伸べると、掌のなかでひっそりと光りながらしばし歩き、飛び立つ。僕が東京で蛍を見るのはこれが初めてだったし、娘に至っては、そもそも蛍を見ること自体初めてである。
 こうした場所があるというのが、嬉しい。例年、6月10日頃が最盛期だというから、その頃を見計らって、来年も行こうと思う。
 写真は、蛍が上手く撮れなかったので、天文台の裏手からの光景。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





 もう二週間以上前のことになるけれども、SF作家のJ.G.バラード氏が亡くなったらしい。享年78歳。
 二ヶ月ほど前には、P.J.ファーマー氏も亡くなったというから、僕が一時期熱狂的に読んでいたSF作家が、二人相次いで他界したということになる。もっとも、ファーマーの場合は既に91歳だったから、かなりの長命だった。
 バラードの作品の中では、僕は「ヴァーミリオン・サンズ」のシリーズが一番好きだった。さびれかけた、架空のリゾートを舞台とした連作短編である。だが、考えてみれば晩年の「コカインナイト」や「スーパーカンヌ」、あるいは「楽園への疾走」なども、このシリーズの延長線上にあった気がする。バラードの魂は、今頃きっと懐かしいヴァーミリオンサンズを再訪しているのだろう。
 ファーマーの作品では、「リバーワールド」のシリーズが大好きだった。この地球にかつて生まれたあらゆる人類が、どことも知れぬ星の、巨大な河の側に一斉に転生するという物語である。そこでは、もう人は年を取ることも、死ぬこともない。仏教の輪廻の思想がそのまま舞台となったような世界。ファーマーは、きっとそこへ向かう準備を終えたのだろう。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





 今日は仕事が休みだったので、春休み中の娘と妻と三人で「築地市場」へ出かけた。
 本当はもっと早い時間に行くつもりだったのだが、つい寝過ごして、家を出たのは7時過ぎ。市場には8時半頃に到着。もちろんセリは終わっていて、一山超えた後の雰囲気だったが、初めて築地市場を訪れた僕たちは、その広大さと活気に圧倒された。大きく分けて、青果部と水産部があるのだが、面白いのは圧倒的に水産部。市場で働いていたおじさんが、ここには魚の卸店だけで800店ほどの店があるのだと教えてくれた。確かにそれくらいはゆうにありそうだ。スーパーなどで人寄せにやっているマグロの解体など、そこらじゅうで普通にやっている。長さが2メートルほどもある包丁なども使われている。
 歩いていても、ともかく場内は「ターレ」と呼ばれる運搬車やトラック、大八車、バイクなどがひっきりなしに行き来していて、それも結構なスピードで走っている。気をつけないと簡単に轢かれてしまいそうだが、轢かれても文句が言えなさそうな雰囲気である。ところで、この「ターレ」、正式には「ターレット・トラック」というのだが、公害を出さないように、殆どが電気で動くらしい。確かにこんな場所で排気ガスを出したりしたら、鮮度が落ちて、がっかりしてしまうだろう。
 せっかく来たのだからと、海鮮ものを場内の店に寄っていただいた。これが本当に美味しくて、ウニもマグロも全く臭みがなく、こんなに美味しいものは本当に久々に食べた。しかもリーズナブルで、これを食べるためにだけここに来る価値があるなあと思った。
 最近は「パワースポット」とか流行っている感じだが、実はこういう人のエネルギーのある場所がかなり強力な「パワースポット」なんじゃないかなあと思う。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ