漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

アムネジア

2017年02月19日 | 読書録
「アムネジア」 稲生平太郎著 角川書店刊

を読む。

 稲生平太郎は、英文学者の横山茂雄さんが小説を書くときに使う筆名である。また、バラードの「残虐行為展覧会」を翻訳した際には、法水金太郎の筆名を使ったこともある。作家としては非常に寡作で、これまでに長編が二つあるだけである。これは、そのうちの一つ。ちなみに、もうひとつは「アクアリウムの夜」という作品だが、ぼくはまだ読んだことがない。
 「アムネジア」のあらすじは、以下のようなもの。

 大阪の小さな出版社に務める主人公は、新聞の片隅に乗っていた、ちいさな記事が心から離れなくなってしまう。それは、ひとりの老人が路上で死んだというだけの記事である。ただひとつ、不思議なことは、その老人は、戸籍上はもうずっと以前に死んでいたという事実だった。なぜかその事件が気になり、調べはじめた主人公は、小さな新聞社の記者と知り合う。そして、死んだ老人は怪しげな発明家であり、それが闇金融の世界、さらには第二次大戦の地下金融とつながっていたということを知る。だがそうして事件を追っているうちに、主人公自身の存在が揺らいでゆく……
 
 わかりやすい小説ではない。一度読んだだけだと、「あれ、何か大切なことを読み飛ばしてしまったのかもしれない」と不安になる。だからといって、再読したからといって、きちんと理解できるわけでもなさそうだ。
 わかるのは、永久機関を発明しようとする者たちと、金融の世界に蠢く一攫千金を狙う人々が、どちらも実はある意味でオカルト的な狂信によって突き動かされているという点で接点があるということ。主人公が、作中の数人の人物とある意味で存在を共有しているらしいということ。その程度である。あと、しいて言えば、作中に登場する奇妙な記号が、もしかしたら「本」という漢字なんじゃないかなと思ったということか。そのあたりから、何らかの説明はできそうな気もするが、正解を探す物語でもないだろうから、それもひとつの解釈にしかならないに違いない
 

田浦梅の里

2017年02月15日 | 三浦半島・湘南逍遥

 この前の日曜日、妻と「田浦梅の里」へ出かけた。
 もう随分と前、十年以上も前になるだろうか、一度家族で出かけたことがあって、だから今回は久々の再訪である。
 京急田浦で電車を降りて、国道沿いに延々と歩く。
 JRの高架を超えたあたりで道を折れ、山へと向かう。
 細く、急な道を登ってゆく。
 眺めが次第に良くなってゆく。振り返ると、横須賀の海が見渡せるようになる。
 梅の木のアーチをくぐりながら、急な山道を、さらに山頂へと向かう。
 山頂からは、梅の彼方に、広がる海の光景を見ることができる。この光景が、「田浦梅の里」のウリである。
 この日は、残念ながら梅はまだもうひとつ咲ききっていなくて、花というより、木の枝の向こうに海が見えるといった感じだったが、それでも暖かくて風もほとんどない日だから、とても心地よかった。山頂で、梅の枝の向こうの海を見ながら、妻と並んで、ビールを飲み、弁当を食べた。凧揚げをしている子どもたちが、たくさんいた。
 この梅の里には、フィールドアスレチックがある。
 昔は、娘が喜んでやっていたが、十数年ぶりの再訪で見たアスレチックは、まだあるものの、記憶の中の設備とは随分と変わってしまっていた。すべて、取り替えてしまったようだ。カラフルでスマートで、安全性は増したかもしれないが、あまり面白くなさそうである。もっとも、遊んでいる子どもたちはそれなりに楽しそうだから、余計な感想かもしれないが。
 帰りは、横須賀中央まで歩いた。軍関係者で賑わうドブ板通りをそぞろ歩き、三笠公園に寄って、一休み。米軍施設を目の前にした三笠公園は随分と皮肉な場所だなと、何度来ても思う。なまじ日露戦争にたまたま勝ってしまったから、おかしなことになってしまったのかもしれないね、と妻と話す。そろそろ寒くなり始めていたが、ぼくはここで暮れはじめた海を眺めながら、もう一本ビールを飲んだ。妻は甘いお菓子を食べていた。目の前でたった一羽だけ水鳥が、何度も海に潜ることを繰り返していた。

天界の眼: 切れ者キューゲルの冒険

2017年02月12日 | 読書録


「天界の眼: 切れ者キューゲルの冒険」 ジャック・ヴァンス 著  中村融 訳
ジャック・ヴァンス・トレジャリー 国書刊行会刊

を読む。

 「通好み」の作家として、一部に熱狂的なファンのいるヴァンス。かなり高い評価を受けている作家にも、ヴァンスファンであることを公言している人は多い。ぼくはこれまで二作ほど読んできたが、もちろん面白いとは思ったものの、正直言って、なぜそれほど人気が高いのか、よくわからなかった。けれども、この一冊を読んで、ようやく合点がいった。ヴァンスの想像力は軽やかで、こちらの斜め上をゆく。
 最初にタイトルを見たとき、「切れ者」という訳語を採用した意味がよくわからなかった。昔の翻訳ならいざ知らず、いまの時代に「切れ者」という、普段まず使わないような訳語をなぜ使うのだろう?けれども、読んで納得した。確かにキューゲルは、いろんな意味で、振り切れてる。思わず、「うわぁ……最低」と呟きたくなるような人物だ。無責任だし、自分勝手だし、セコいし、思慮が足りないし、厚顔無恥である。基本的に運には見放されてるが、悪運だけは強い。欲望に忠実で、自分のちっぽけな欲望のためにさえ、人が何人死のうが、女を裏切ろうが、なんの恥じることもない。普通のヒロイックファンタジーのヒーローには、あるまじき倫理観である。例えるなら、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパロウは比較的近いかもしれないが、もう少しダメである。到底、お近づきにはなりたくない。「切れ者」というのは、褒め言葉というより、むしろ悪口なのである。
 物語の基本的な枠組みは単純である。
 キューゲルが〈笑う魔術師〉イウカウヌの宝物を盗みだそうとしたところ、あっさりと見つかってしまい、その罪を許すかわりに、ある宝物を持って来いと命令される。そして〈笑う魔術師〉イウカウヌの魔法によって、はるか彼方の、その宝物があるはずの場所へと飛ばされてしまう。なんとか宝物は手に入れるものの、大変なのはここからである。その場所から、〈笑う魔術師〉イウカウヌのもとへと帰らなくてはならない。イウカウウヌへの復讐(まあ逆恨みなんだけど)を誓い、波乱万丈の旅をする……といったもの。
 連作短編集なのだが、まあ、長編といっていい。この物語のすごいのは、最終話の「ありえなさ」である。まさかこんな終わり方をするとは、想像もしていなかった。力が抜けるというか、ヒロイックファンジーの定石を、ことごとく裏切る展開である。作中に登場するガジェットももちろん素敵だが、きっとこのあたりが、ヴァンスファンにはたまらないんだろう。

星空のむこうの国

2017年02月07日 | 読書録

「星空のむこうの国」 小林弘利著
集英社文庫コバルトシリーズ 集英社刊

を読む。再読。

 先日、近所の古書店の均一棚を見ていたら、この本を見つけた。刊行された時(1984年)になんとなく新刊で買って読み、今では内容はまったく覚えていないものの、結構面白かったような記憶があったが、今はもう手元にはない。ちょうどセール中ということで、懐かしくもあったし、近くにあった「里沙の日記」(眉村卓著 集英社コバルトシリーズ)と一緒に、二冊百円で買ってきた。
 夜になって、ちょっとタイトルで検索してみたところ、なんとamazonで2343円からという値がついている。内容を全く覚えてはいないとはいえ、そんなプレミアのつくような内容だったとは考えにくい。試しに同じ著者の他の作品を見てみると、ほとんどが1円からということだから、これだけが飛び抜けて高いわけである。疑問に思い、もう少し調べてみて、理由が判明した。いまだにまだヒットを続けているアニメ映画「君の名は。」。その元ネタとして、一部の人びとの間で、「転校生」と並んでこの作品を原作とした映画が挙げられているようなのだ。それで、映画のDVDはもとより(なんと15,800円より)、この原作も値を上げているということらしい。ということは、まあ、ちょっと儲けたわけなのだろうが、驚いた。
 今のコバルト文庫というのは、もともとは集英社文庫の「コバルトシリーズ」というサブレーベルだった。体裁はずっと同じだったから、いつからコバルトシリーズがコバルト文庫に昇格したのか、はっきりとは覚えていない(wikiによると、1990年頃らしい)。どちらかといえば少女向けのシリーズだったから、本来なら男のぼくが手に取るような機会はなさそうな文庫なのだが、小学校の高学年の頃(1979年ころ)には、松本零士のアニメ映画のノベライズを刊行するようになっていて、ぼくはちょうどその頃に映画の銀河鉄道999にどっぷりとハマっていたから、そのノベライズである若桜木虔の「銀河鉄道999」を買って、夢中になって読んでいたことから、割と馴染みがあったわけである。文庫の紙質も、他の文庫にくらべるとやや厚手で、その割には軽い感じで、気軽に手にとって読みやすいものだった。当時は、文庫の母体である少女向け雑誌「小説ジュニア」も、松本零士がなんと小説を書いて発表していたという理由から、廃刊号を含めて二冊か三冊買った記憶があるし(結構エッチな内容で、こそこそ読んでいた)、増刊号として一度だけ出た「小説ジュニア増刊 cobalt」というやつも、松本零士が載っていたから、買った覚えがある。SFアニメのノベライズが当たったせいだろうか、結構たくさんのライトSFがコバルトシリーズから刊行され、中には風見潤編の「たんぽぽ娘」や山尾悠子の「オットーと魔術師」、あるいはル・グインの「ふたり物語」など、今ではかなりのプレミアのついたタイトルもある。後には新井素子が登場して、最初の頃は買っていた。この本も、多分その流れで買ったのだったと思う。

 で、三十数年ぶりに読んだ、肝心の内容なのだが。もう、ネタバレまで、全部書いてしまいます。

 主人公の昭雄は、このところ同じ美しい少女の夢ばかり見ていた。彼には、その少女が単なる夢の存在には思えない。友人の尾崎に指摘され、彼はその少女の夢を見始めたのが、二週間前の交通事故の直後からだったということに気づく。その事故で、昭雄は間一髪で死を免れたのだった。その事故と夢との因果関係もわからないまま、電車に乗っていたとき、向かいの電車にその少女の姿を目にする。少女も、昭雄の姿を目にして、驚いた様子だった。電車が駅に滑り込み、少女を追いかけ、抱きしめたが、人混みに押されて、見失ってしまう。そしてその帰り、家のドアを開けようとした途端、時空が歪む感じが襲い、何もわからなくなってしまう。
 気がついたとき、確かに彼の家のはずなのに、何か違和感がある。やがて彼は、仏壇に自分の遺影が飾られていることに気づく。いろいろと調べてみたところ、どうやら、昭雄はすでに死んでいるということになっているらしい。そのとき、彼は家の外にあの少女の姿を目にする。少女はまさに、自動車に連れ込まれようとしているところだった。少女も昭雄に気づく。慌てて自転車で車を追いかける昭雄。自動車は、病院へと入ってゆく。そこで、偶然友人の尾崎と出逢う。尾崎の口から、少女の名前が理沙であり、不治の病に侵されていること、また、昭雄の恋人であることが語られる。そして、昭雄が二週間前の交通事故で死んだことも。
 SFマニアである尾崎は、昭雄がパラレルワールドからやってきたという仮説をたてる。死を目前にした理沙が、交通事故で死んだ昭雄に会いたくて、呼び寄せたのだと。二人で病室に忍び込み、理沙に会ったとき、彼女は言う。「やっぱり来てくれたのね。昭雄くんが約束を破るわけないって思ってた」
 昭雄はその約束が何なのか、わからない。分からないながらも、彼女のためにこの世界の昭雄を演じようとする。そして、尾崎らの助けも借りながら、死ぬことを覚悟している彼女を攫い、シリウス流星群を見るために、海へと向かう。しかし、彼女は気づいていた。昭雄が、この世界の昭雄ではないことを。けれども理沙は昭雄に感謝の言葉を告げて、シリウス流星群の流れる星空の下、昭雄の腕の中で息を引き取る。それを見届けるように、昭雄の姿もその世界から消滅する。
 場面が変わって、いつものように朝目覚めた昭雄。ちょっとした違和感を感じながらも、いつものように学校に向かう。その途中、トラックに跳ね飛ばされてしまう。
 気がつくと、病院に運ばれていた。怪我はしたものの、命には別状はないらしい。その病院で、昭雄は弟の見舞いに来たという少女と出逢う。なんだか、彼女のことは、とてもよく知っているような。少女の名前は、理沙、といった。
 ふたたび、場面が代わり、理沙と昭雄がいなくなってしまった世界に取り残された尾崎は、手にふたつの花束を持って、あの日に流星群を見た岬に立っている。尾崎はふたりのことを思い出しながら、考えている。今自分がいる世界と、あの昭雄がいたという世界は、きっと隣り合ったパラレルワールドなのだと。けれども、ちょっとしたハプニングでその差があまりにも開きすぎたため、時空が自浄作用として、時間を戻そうとしたに違いない。本来なら、昭雄が怪我をして理沙と出逢うという世界があったはずなのだ。今頃はきっと、ふたりは再び出会って、正しい時間をやりなおしているに違いない――。

 といったもの。
 平行宇宙の扱いはもちろん、今読むとなんだかいろいろツッコミどころが多すぎて、本当にあの当時これを読んで結構面白いと思ったのかなあという気がしてしまうが、少し切なくて、けれども爽やかな青春小説には違いないわけで、十代半ばだったから、素直に楽しめたのだろうと思う。「君の名は。」は観ていないので、なんとも言えないけれど、いくら何でももうちょっとアップデートしたストーリーのはず。映画館に行くつもりは今のところないけれど、DVDになったら、「君の名は。」も観てみようと思う。


失踪者たちの画家

2017年02月04日 | 読書録

「失踪者たちの画家」 ポール・ラファージ著 柴田元幸訳
中央公論新社刊

を読む。

 主人公のフランクは孤児として、友人のジェームズの家で育つが、成人した後にジェームズとともに家を出て、両親の写真に写っていた街に行き、下宿にふたりで住みはじめる。その街で、フランクは絵を描くことを覚える。やがてジェームズは下宿の娘のひとりと駆け落ちしてしまい、一文無しで残されたフランクは下宿の仕事をしながらそのまま部屋に住み続ける。あるとき、両親の写真に写っていた通りで、向かいのアパートに住んでいる女性と偶然出くわす。ブルーデンスというその女性は、警察に頼まれて死体を撮影する仕事をしている。それから、フランクは死体を撮影する彼女についてゆくようになる。フランクは彼女を愛するようになるが、ブルーデンスは突然失踪してしまう。彼女を探すため、似顔絵を書いてポスターにすることを思いつくが、それをきっかけに、フランクはさまざまな人々の要望に答えて、失踪者たちの似顔絵を描くようになる。彼の絵は評判を呼ぶが、それが原因で彼は逮捕され、投獄されてしまう……という感じで、物語は始まるのだが、これでは全く説明ができていないように感じる。あとがきにもあったけれど、ストーリーを説明することが、とても難しい小説。もっともそれは、ぼくが最後の方でちょっと混乱してしまったからかもしれない。再読すれば、もっと細部にまで意識が行き届いて、全体像がちゃんと見渡せるようになるのかもしれない。カバーをはじめ、スティーブン・アルコーンの版画がいくつも挿入されているのだが、非常に独特な距離感を持つ風景描写を読みながら、ずっとその版画のイメージがついてまわった。幻想的で独創的な世界を描いているのだが、どこか書き割り的でもあるという印象も受けたせいかもしれない。例えば、小劇団の演劇の内容を紹介するのが難しいのと、少し似ている気がする。
 ストーリー全体から受けた印象は、訳者のせいもあるのかもしれないが、ポール・オースターとスティーヴ・エリクソンとスティーヴン・ミルハウザーを、同じくらい思い出させた。つまり、オースターのように孤独で、エリクソンのように魔術的で、ミルハウザーのようにオブジェ志向であるという意味。もっとも、言い方を変えれば、ある意味で近しいその三者を引き合いに出せてしまうのだから、圧倒的な個性というのとは、ちょっと違うのかもしれない。

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 先の日曜日、「奇妙な世界の片隅で」というサイトを運営されているkazuouさんが主催する「怪奇幻想読書倶楽部」という読書会に参加させていただきました。ちょっと特殊な翻訳小説について、あれだけたっぷりと話をするのはおそらく初めてのことで、なかなか得がたい、貴重な経験でした。こんなに詳しい人がたくさんいるのだからと、これからの読書に弾みがつきそうです。

 今日は午後から妻と近所の小金井公園に出かけ、梅見をしてきました。もう満開になっている白梅も結構あって、辺りにはよい香りが漂っていました。紅梅はもう少しのようでした。暖かい、穏やかな花見日和でした。