漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



「ツナグ」 辻村深月著 新潮社刊

を読む。

 吉川英治文学新人賞を受賞し、映画化もされた小説。
 「オーダーメイド殺人事件」がよかったので、辻村深月の代表作のひとつというこの作品を読んでみたけれど、こちらはいまひとつ。
 ストーリーの柱となっている設定は、死者と生者を「つなぐ」役割を持った少年がいて、彼を通じて、依頼者は一生に一度、たったひとりだけ、もう一度会いたい死者と会える、というもの。さらに、死者の方も、生者からの呼び出しに答えて現世に現れることができるのはたった一度だけというのも、重要な肝となっている。
 オムニバス形式の連作長編で、その設定から想像できる内容通りの、小説としては万人受けするであろう感動作なのだが、それだけに、どこかで読んだことがあるような気がして、物足りない。

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「幻想電氣館」 堀川アサコ著 講談社刊

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 つぶれないのが不思議なくらいの名画座を舞台にした物語。ノスタルジックという香気の漂うそんな場所が、この世とあの世を繋ぐ場所、というのはよくある話だが、語り口が間が抜けているというか、ユーモラスなので、気楽に楽しめる。ちょっと少女漫画みたいなので、漫画化すると楽しめるかも。



「万能鑑定士Q」 松岡圭祐著 角川書店刊

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 波照間島出身の、天真爛漫な美女凛田莉子が、その抜群の記憶力を駆使してあらゆる物を鑑定するというシリーズ。その第一巻。
 街の中に氾濫を始めた「力士シール」。それがやがて前代未聞のインフレを引き起こす前兆だったとは……という内容。
 途中までは面白かったのだが、最後で小さくまとまってしまい、いくらなんでもそりゃないだろうと、拍子抜け。シリーズ化前提だとこういう終わり方はが仕方ないのかもしれないけれど、正直、もっと別のものを期待していた。これも漫画化するといいかもしれない、と思ったら、漫画化しているみたい。

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「オーダーメイド殺人クラブ」 辻村深月著 集英社刊

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 何だか、すごく良かった。
 特に前知識も期待もなく手に取り、読み始めてしばらくは、この前に読んだ「赤と白」みたいな、スクールカーストを絡めた、後味の悪い小説なんだろうなあと思いながら、もう読むのをやめようかなと考えていた。ところが、途中でそれが怪しくなってくる。いつの間にか、扉にある「これは、悲劇の記録である」という言葉とは裏腹に、シリアスなはずの物語は、一転して喜劇の様相を帯びてくる。気がつくと、夢中になって読んでいた。読み終えた時には、ちょっとこみ上げてくるものがあった。これを肩透かしと感じる人も多いとは思うが、僕はちょうどこんな小説が読みたかったんだとさえ思った。この小説に共感し、懐かしく思う、本が昔から大好きだったという大人は、かなりいるんじゃないかと思う。小説の登場人物たちと同時代の読者より、むしろ。
 ひとことで言えば、これは「中二病」の小説である。しかし同時に、中二病が、未来を生み出す物語である。「同級生の男子に自分を殺してくれと頼む少女の物語」という題材は穏やかじゃないが、そんな「自分を特別なものに見せたい」という気持ちから生じる「過剰な妄想」は、実際にその年頃にはあるものだ。僕だって、中学から高校にかけての頃、ろくな事を考えていなかったし、やっていなかった。思い出すのも恥ずかしい過去だが、同時に懐かしい過去でもある。その時代に、どれだけたくさんの妄想に、真摯に向き合えたかで、その先の未来は大きく変わるように、今では思える。何も知らないからこそ、確かに想像力だけで、世界を変容させることができた年頃だったのだ。
 作中で、書店に行く度に、高くて買えない大好きな写真集を眺めるというシーンがあるが、ものすごく身に覚えがある。好きな本を、何度も図書館で借りたりもしたっけ。そんな人は、多いはず。作中に実名で大きく取り上げられている渋沢龍彦の「少女コレクション序説」は、僕も高校に入った頃に読んだが、四谷シモンの人形とともに、衝撃だった。ぼくはそこからバタイユ方向へはゆかなかったが、同じ作者の、同じ中公文庫から出ていた「悪魔のいる文学史」は、何度も読み返した記憶がある。書店で、ベルメールの写真集をながめていたこともある。高価だし、人形にはさほど興味はなかったから買わなかったものの、ウニカ・チュルンの写真は確かに強烈だった。彼女の手記「ジャスミン男」は、いまでも書架にある。書店の片隅に並ぶ、ペヨトル工房の「夜想」や「WAVE」のバックナンバーを、興味のある順番にちまちまと買い集めた。読んでも、ほとんど理解できなかったけれど、なんだかどきどきしたものだ。国書刊行会の本は、美しくて、憧れだった。漫画も、鈴木翁ニや吾妻ひでおや丸尾末広なんかを読むようになった。アントナン・アルトーから、アングラ演劇や暗黒舞踏に興味を持ち、音楽はパンクからドアーズ、エコバニ、そしてルー・リードを聴くようになった。要するに、サブカルチャー畑のに人間の、ひとつのパターンをなぞって、成長したように思う。だから、この小説の登場人物である「昆虫系」の徳川は、僕にはそんな才能はないけれど、他人とは思えないほどだ。読みながら、自分の学生時代の格好悪かったところを色々と思い出した。同じように感じる人は、結構多いはずだ。
 この小説が秀逸なのは、そうした「幻想の中にいる眼」で見た世界だけではなく、物語が一つのクライマックスを迎えた後に続く、魔法から醒めてしまった世界を白々と書きながら、なおその先に広がる世界へと射す光を描いている点である。物語の中では描かれることのない、空白の中学三年生の頃と高校生活。表面的には何も起こらない。だが「あの日」からの四年間、主人公であるアンが余生と感じる時間を過ごしていた間、徳川はずっと「あの日」を蒸留しつづけていたのだ。互いにそのことを知った時、過去はようやく確かな意味を与えられる機会を得る。
 ここから始まるのだ、と感じるエンディングは、まるで背後から射してくる夜明けの光のように、清々しい。




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「赤と白」 櫛木理宇著 集英社刊

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 新潟県の豪雪地帯の街を舞台にしたサスペンス。
 閉じられた豪雪の地方都市を舞台に、閉塞した人間関係の中にある少女たちが、悲劇的な結末を迎えるまでを描いている。
 一人目の主人公は、若くして離婚し、女手ひとつで娘を育ててきたということを口にすることで、娘に重圧感を与えながらも、自分は若い恋人に夢中になり、娘がアルコール依存症になりかけていることにも気づかない母親を持つ少女、小柚子。
 二人目の主人公は、情緒不安定な母親を持ち、家の離れには長年引きこもったままの叔父がいて、いずれは世話をしなければならないと、勝手に決められている少女、弥子。
 そこに、物語を大きく舵取る二人の少女が絡んで来る。
 一人目は、クラスメートで、「女の子性」を全開にしている少女、苺実。かつて登校拒否になったことがあり、それ以来、両親は腫れ物を触るように娘を扱うようになっている。えっ、と思うようなことが平然とできてしまう、自己中心的な少女。
 二人目は、小柚子と弥子が幼い頃に近所に住んでいた双子の姉妹の片割れ、妹の京香。腎臓に疾患を持つ兄に臓器を提供することを前提に育てられた双子の姉妹の姉は、臓器提供の後遺症で寝たきりになってしまっており、移植には成功したものの、そんな妹の姿に耐えられなくなった兄は自殺してしまっている。
 それぞれが、鎖に絡め取られてしまっているような少女たち。ゆっくりと崩れてゆく彼女たちの世界が、大停電の夜に、悲劇のクライマックスを迎える、という物語。
 こうした小説、最近は多いような気がする。暗いし、読んでいて楽しいものでもないけれど、読後感は意外とあっさりとしたものだった。雪国の閉塞感に関しては、著者が新潟出身だけあって、さすがに秀逸。

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「ペンギン・ハイウェイ」 森見登見彦著 角川書店刊

を読む。

 第31回日本SF大賞受賞作とのこと。いや、面白かったけれども、だけど、これってSFなのか?
 舞台は、都市のベッドタウンの新興住宅地。そこに、ある時突然ペンギンが現れる。だがそのペンギンは、その町から離れると消滅してしまうらしい。様々なことを研究することを使命としている、ややませた小学校四年生の少年が、その謎について調べ始める。そしてそのペンギンの出現は、どうやら自分が淡い恋心を抱いている、歯科助手のお姉さんに関係があるらしいということが分かるが……という話。ちょっと川上弘美のような、少し変でふわふわとした物語だが、結局ペンギンとは、それから海とかジャバウォックとかは、何だったのか、それに、お姉さんとは何者だったのか、きちんとした解決は用意されていない。
 僕は読みながら、お姉さんと少年の父親との間に不倫的な関係があるように思っていたが(さらに言えば、もしかしたら他の大人の男性の登場人物たちともそういう「不倫的」な関係があるような気がした)、最後まで特にそういう説明もなかったから、それは深読みのし過ぎだったのかもしれない。ただ、そう読むと色々と説明がつきそうな気もする。

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王国  



「王国」 中村文則著 河出書房新社刊

を読む。

 裏社会に生きる女性ユリカが、「絶対悪」木崎の手のひらの上で転がされる、という話。
 「イビサ」や「トパーズ」の頃の村上龍や馳星周のノワール、「魔王」の伊坂幸太郎などを彷彿とさせる部分もあるが、何というか、妙に薄っぺらく感じる。読みながら、途中でどうでもよくなってしまった。何より、「絶対悪」の木崎に魅力がないのは致命的。一応最後まで読んだが、あまり残るものがなかった。姉妹編があるというが、まあ、読まないと思う。

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「アルバトロスは羽ばたかない」 七河迦南著
東京創元社刊

を読む。

 七海学園を舞台にした、「七つの海を照らす星」の続編。
 前作が前作だけに、続編というと、一体どうなるのかと思ったけれども、見事。
 前作と同じように、連作短編集の形式を取りながら、ひとつの長編としても成立しているという作り方をしている。但し、今度は最初から「これは長編です」ということがはっきりと書かれている。前作のこともあるから、きっと何か大きな仕掛けが隠されているに違いないと思いながら読んだのだが、最後まで読み終わったとき、愕然とした。全く予想もしていなかった展開。慌てて最初の方に戻って、読みなおしたが、なるほど、やられた。言葉もない。大技である。
 このシリーズ、面白いのだが、一つだけ難点があるとしたら、ちゃんと順番どおりに読まないと、面白さが半減するという点。せっかくなんだから、きちんと「〇〇シリーズ第◯巻」と明記するべきじゃないかな。

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「七つの海を照らす星」 七河迦南著
創元推理文庫 東京創元社刊

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 児童養護施設を舞台にした連作短篇集。なのだけれど、非常に凝った作り方をしていて、全部で七つの短編が収録されているのだが、その最初の六つの短編を、七つ目の短編が取り込んで、ひとつの大きな物語を浮かび上がらせるというものになっている。他の六つ短編は、トリックも比較的わかりやすいもので、特に驚いたりはしなかったけれど、最後に浮かび上がるトリックは、そんなものが存在することさえ、考えもしなかった。しかも、「作家が生涯にたった一度しか使えない」大技まで入っているとは、思いもしなかった。もっとも、それは知的なおまけというか、サービス程度のものではあるのだろうけど。
 物語の舞台が舞台だけに、扱い方によっては陰惨になりそうなものだが、そちらにはあえてあまり深く追求しないので、読みやすい。後味も悪くないし、殺人があって、誰が犯人か、というような推理小説ではないところも、個人的には好み。続きがあるようなので、読んでみよう。

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「丕緒の鳥」 小野不由美著 
新潮文庫 新潮社刊

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 なんと十二年ぶりの「十二国記シリーズ」最新作。
 ただし、つながりはあるものの、本筋とは直接関係のないサイドストーリーを集めた短篇集で、全四篇のうち、二つは以前に発表されていたものだから、実質的な新作は二つ。それでも、ファンは随分と待たされた後なので、待ちに待った一冊となっただろう。内容も、かつてよりも更にシリアスになって、既にライトノベルとは呼べないものになっている。読者も、十二年のうちに随分と大人になったわけだから、もしかしたらちょうどいいのかもしれない。こうしたシリーズは、あまり長く間が開いてしまうとつまらなくなりがちだが、僕は面白く読んだ。
 予定では、最低でも長編の新作があと一つ予定されているが、この短篇集を読む限り、きっとかなりシリアスなものになるに違いないと予感させる。その長編で、泰麒の物語は終わりにするとしても、十二国記という物語がそれで終わることを望まない気もする。


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「東京プリズン」 赤坂真理著 河出書房新社刊

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 これは真摯に問いかけを投げかけてくる本で、感想を書くのが難しい。「天皇の戦争責任」というテーマを、このような形で等身大に取り上げたものは、そういえばあまり聞いたことがない。
 この小説を読もうと思ったのは、たまたま原武史の対談集「知の十字路」を手に取り、読んだのだが、そこでの原武史と赤坂真理の対談が興味深かったからだ。著者の赤坂真理は、中学校で学校に馴染めず、母親の独断に近い形で、アメリカの田舎の高校に単身留学したのだが、都市部ではないアメリカという、日本とは別の世界に完全に打ちのめされて、一年で逃げるように日本に帰ってきてしまったらしい。そして結局、一年遅れて日本の高校に通うのだが、本人曰く、「気分はほとんど敗残兵」だったという。この小説は、長く封印していたそうした「完全に負けた」という記憶を掘り起こし、戦後の日本という世界と対比させながら、なぜ日本は今こうなっているのかについて、メタフィクションの方法を取り入れつつ、小説という形で書いたもの。
 物語のクライマックスは、アメリカの高校での、「天皇の戦争責任」をテーマとして取り上げたディベート。そこでの結論は、正直僕にはきちんと理解できなかったし、理解できた範囲でも、受け入れられないものがあったものの、物語は、「じゃあ、あなたはどう思うのか」と問いかけてくるようにも思える。
 ぼくは、はっきりとナショナリズムは嫌いである。けれども、天皇の戦争責任はどうなのか、と言われれば、よくわからないとしか言えないのは、確かだ。天皇に関しては、ある年齢以下では、ほとんどみんなそう思っているのではないかという気もする。つまり、「まあ国のトップなのだから、本当は責任はあるんだろうけれど、どうせ天皇そのものにはほとんど実権なんかなくって、軍部が暴走したに違いないし、ないならないでもいいんじゃないか。天皇家がなくなるっていうのも、なんか変な感じだし」という程度の感覚である。赤坂氏よりも少し下くらいの僕でさえそうなのだから、もっと下の年代には、なおさらそうなのではないかと思う。
 赤坂氏にしても、アメリカの学校でのディベートで天皇の責任問題という課題を押し付けられるまでは、真剣に戦争や天皇のことなど考えたこともなかったから、調べながら混乱し、戸惑い続ける。戦争にヒロヒトは反対したと言う真理に対して、先生から、「軍の最高責任者はヒロヒトだろう!」と言われ、「ですよね?」という感想を持ってしまうほどだ。それでも、アメリカを体現しているような人物、スクールカーストの最上位にいるジョックスのクリストファーに天皇を馬鹿にされると、やっぱりなんとなく憤慨してしまう。これは、日本人なら理解できる感覚なんじゃないか。天皇とは、いったい何なのだ?
 高校の頃、江戸幕府の頃なんて、天皇家は窮乏を極めて、あばら屋に住んで軒下に吊るした和歌を売って生活していたとか、うろ覚えだけれど、聞いたことがある。だから、不敬な言い方だろうけれど、幕府時代は、「神社の鳥居みたいなもので、いい目印になるし、あえてバチがあたりそうなことはしないでおこう。描いておけば、立ちションベンを引っ掛けるやつも減るだろうし」というような感じで、随分と軽く利用されていたような感じだ。天皇はずっと神格化されていたわけではなくて、本当に神というような扱いになったのは、明治維新以降、もっと言えば、いよいよ戦争が始まるとなってからというのが、実際のところだとも聞く。日本人の、天皇に対する感覚というのは、国のトップであるとはいっても実際の力なんてほとんどないと、誰もが口にしないだけで知っているという、実際とたてまえの分裂からきているのだろうと思う。そのメリットは、責任の所在をどこか曖昧にしてしまえるということだ。上手い仕組みだと思う。だがそれは、戦後に始まったことではなく、そもそもの始まり、摂関政治の時点で既に確立されているように思える。戦後に起こったことは、天皇を裁かずに人であると宣言させることで、天皇の神格化を避け、国民の闘志を削ぎ、アメリカは比較的スムーズに疲弊した国民を戦後に向かわせることができたが、その一方で、そうしてどこか曖昧にされてしまった責任の所在に加えて、例えば「敗戦した日」を「終戦記念日」と言い換えたり、「アメリカに対する献上金」を「思いやり予算」と言い換えたりする意図的な操作によって、敵味方に分かれて戦ったということさえ曖昧にしてしまった結果、確かになんだかさらによく分からなくなって、現在に至ったという風に思える。当事者たちは、もちろん自らの責任を語りたがらないし、下の世代は、事実をきちんと感じることができなくなってしまっている。その結果、従軍慰安婦や南京大虐殺、731部隊に至るまで、「あれは本当はなかったんだ」とか、言い出す人まで出てくる。あれだけ証言があるにも関わらず、である。事実は事実であり、自虐史観とか、そんな問題ではないとぼくは思う。
 この小説で、赤坂氏は天皇の再定義が日本のために必要なんじゃないかと書いている。英霊の魂を無意味なものにせず、鎮めるためにも、と言う。だが、戦争で死んだ人ばかりが、無意味なものとされる死なのか。現在の社会で、生きる希望も見いだせなくなって死んでゆく人たちは、どうなのか。原子力発電所の事故で、生きる希望を失い、自ら死を選んだ人々は、どうなのか。死者を教訓にではなく神話としてしまっていいのか。確かに、現在の日本は大きな転換点にあると思う。今のシステムは、大多数の国民を幸せにはしそうにない。だが、それは天皇の再定義ではないと、ぼくは思う。それが何なのかといえば、僕には分からないのだけれど。
 赤坂氏は、今よりもずっと戦争から近かった時代に、アメリカの保守的な田舎で、天皇をダシにして虐められた。相手にしてみれば、べつにかつての敵国の少女を虐める材料など、何だってよかったんじゃないかと思う。天皇でなくとも、例えば富士山であっても。相手が、題材が何であれ、明らかに自分の国を蔑視しようという意図を持っているとわかると、反発を感じるのは赤坂氏でなくとも当然だ。問題は、天皇にはないのである。いや、天皇制という仕組みにはもしかしたら問題があるのかもしれないが、個人としては、ない。一旦、個人としての天皇を棚上げにして考えなければ、見えてこないことが多い。
 僕にはなんとなく、天皇は、神というよりは「やさしいおばあちゃん」のように思えることがある。つまり、いくら孫がやんちゃでも、「この子はほんとは優しい子なのよ。孫の責任は、わたしの責任です」と庇い、相手はこんな無力なおばあちゃんにこれ以上何か言ってもなあと考えて、深く追求できなくなってしまう。そんな立ち位置を期待されて存在しているということだ。そして、無力であることが力でもある、やさしいおばあちゃんがいるから、何となく家族であるような幻想が生まれ、独特のウエットさを内在した国が成立しているのかもしれない。だがそれは、あくまでも幻想であり、実際の資本主義世界との乖離が、様々な日本独自の問題を生み出してしまうのだ。



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