漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

トニ・モリスン『ビラヴド』

2019年08月31日 | 読書録

トニ・モリスン『ビラヴド』(吉田迪子訳/ハヤカワepi文庫)読了。

 「124番地は悪意に満ちていた」という文から始まる、哀しみの過去と再生の物語。奴隷制度のもとで実際に起きた悲劇を下敷きにしつつも、決してそれだけではない、さまざまなものを読み取ることができる厚みを持った小説だった。

 以下、ネタバレ有りの簡単なあらすじ。
 124番地というのは、かつて奴隷であり、追い詰められた末に、心中を図って幼いわが娘を殺害したという悲劇の過去のあるセサが、残ったもうひとりの娘デンヴァーとともに住む家の住所。彼女たちの住む家には、セサが殺した名もない娘の霊が取り憑いていて、彼女たちを苦しめ、外からやってきた者たちを排斥しようともする。しかし彼女たちは決してその家を離れようとしない。あるとき、かつてセサがいたスウィートホーム農園の仲間であったポールDが、長い流浪の果てにやってくる。彼は自分を排斥しようとする霊を力でねじ伏せ、追い出してしまう。そして、幸せな日々がやってくるかと思ったのも束の間、ある日、ビラヴド(beloved)と名乗る、謎めいた少女が現れる。セサもデンヴァーも、抗いがたい衝動のもと、彼女の関心を買おうとするようになるが、ビラヴドがかつてセサが殺した自分の娘であり、デンヴァーにとっては姉でもある存在であって、それがふたたびこの世に戻ってきたのだという確信を得てからは、次第に最悪の形の共依存の様相を帯びるようになってゆく。さらには、セサの過去の隠されたエピソードを知らされたポールDは、自ら124番地を去ってしまう。そうした閉塞した関係の中からただひとり抜けだそうとしたデンヴァーは、近所に働き口を求めようとする。それを契機に、近所の人々が124番地を訪れるが、彼女たちがそこに見たのは、ビラウドではなく、自らの過去の幻であった。そうして訪れた人々に対して、セサは、アイスピックを持って襲いかかろうとする。
 セサの行動は、拍子抜けするほど、あっけなく未遂に終わる。しかしそれが、この物語のひとつのカタストロフである。ビラヴドは姿を消し、124番地には、セサと、デンヴァーだけが残される。そこに、一度は去ったポールDが帰ってくる。

 物語そのものは、そこで終わる。しかし、いちばん最後に、短いモノローグの章が挿入される。まるでこの物語が、単にセサとビラヴドの物語ではなく、もっと普遍的な、偏在する物語であるかのように、語り手が宙に浮いた章。そして、「人から人へ伝える物語ではなかった」という言葉が、何度か繰り返される。この長大な本を閉じるにあたっては、余りにも矛盾に満ちたこの短い文の中に、この物語が書かれた意味があり、物語として語る言葉さえ失った、あらゆる哀しみが内在されているかのように感じる。
 そもそもこの物語には、はっきりとした主人公がいない。一応はセサが中心となって物語は進んでゆくのだが、話者は場面によって度々変わり、読者は、さまざまな登場人物たちの視点に立って物語を読むことになる。奴隷としての悲惨と多くの黒人たちの言葉にならない思いについては、ベビー・サッグスとスタンプ・ベイドの口を借りて最も多く語られるが、登場人物たちは誰もが、白人たちでさえ、奴隷制度の下で、形は違えどそれぞれ何らかの歪みを内面に抱えることを強いられて生きており、その南部ゴシック的なグロテスクさが、物語を一面的なものになることを拒否する。最近話題になった作品では、同じくピューリッツァー賞を受賞しているコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』もやはりアメリカの奴隷制度を扱っているが、やや受ける印象が違うのは、『ビラヴド』は、奴隷制度を糾弾する物語であるのと同じくらい、あるいはそれ以上に、決して完全に癒やされることのない、秘められた個人的な哀しみについての集合体的な物語であり、登場人物たちの口がことごとく重い、という点なのかもしれない。

 物語は、南部ゴシックの濃厚な香気を纏いつつ、どこかマルケスやイザベル・アジェンデらに代表されるデラテンアメリカ文学に顕著な、マジック・レアリスム的でもある。しかしもともとマルケスらマジック・レアリスムの作家は南部ゴシックの作家フォークナーに影響を受けており、同じくゴシックの末裔なのだから、どちらの印象もあるのはむしろ自然な流れではある。ぼくは時々思うのだが、ゴシックでしか語りえない領域というというものがあるのではないか。

 それにしても、『ビラヴド』とは結局何者だったのだろうか。セサが殺してしまった娘が実体化した超自然的な存在という風に読めば、すっきりと分り易いけれど、白人によって幼児の頃から幽閉されていた少女かもしれないという可能性がさらりと仄めかされていたりで、実際のところ、著者は明確にしていない。ビラヴドがまだ名前も与えられないうちに殺されてしまったセサの娘が投影された存在であるというのは確かだが、おそらくはそれだけではない。そうでなければ説明のつかない部分が多すぎる。間違いないのは、『ビラヴド』の存在は万華鏡的であるということだ。おそらくビラヴドを見るということは、自らの内面の、補いようもなく欠落した場所を見るということなのだろう。様々なものに変わりうる、のっぺらぼうのような存在、それがビラヴドなのかもしれない。


E.ブルワ=リットン『ザノーニ』

2019年08月16日 | 読書録

 エドワード・ブルワ=リットン『ザノーニ(Ⅰ.Ⅱ)』(富山太佳夫・村田靖子訳/ゴシック叢書/国書刊行会)読了。

 時間がとれず、読了までに時間がかかりました。なかなか読むのも大変なところもありましたが、特に理解に苦しむことはなく、エンターティメント性のある小説でした。

 以下があらすじとなります。ネタバレ全開です

*****

 冒頭の序文で、この物語を公表した人物は、この物語はふとしたきっかけで古書店で知り合った、とある老紳士の手による暗号文で書かれた草稿であるとしている。この老紳士が何者であるのかは、読了後に推測できるようになる。
 名声には恵まれないが優れた音楽家であるピサ―ニの娘ヴィオーラ。父の死後、美貌の歌姫として名を馳せるようになった彼女は、その時社交界で噂の的になっていた美男子の富豪ザノーニと出会い、心を奪われる。しかしザノーニは彼女の求愛をやんわりとかわして、若い貴族であるグリンドンとの婚礼を勧める。グリンドンは絵をたしなむ貴族で、人は良いのだが、享楽的なところがある一方で慣習の縛りからはなかなか離れることはできない人物。ヴィオーラは彼に対しては全く魅力を感じず、かえってザノーニへの愛を募らせてゆく。また、ザノーニも彼女に対しては愛情を感じており、彼女をめぐる様々な謀略からことあるごとにその不思議な力で彼女を守ろうとする。
 ザノーニが彼女の愛を避けていたのは、実は自分は遥か昔から生きている不死の存在であり、それを維持するためには、俗世的なものから遠く離れている必要があったからである。しかし最終的に彼は彼女の愛を受け入れ、不死者から人間へと戻る決意をする。そして彼女との間には子供も生まれる。
 一方、グリンドンは最初はザノーニへのライバル心を募らせていたが、彼の幻視家としての存在に惹かれ、弟子入りを望むようになる。ザノーニは彼のために、自分の師であり現存の唯一の仲間でもあるメイナーを紹介する。メイナーは信じがたいほど昔から生きており、彼に言わせると、ヘルメス・トリスメギストスやパラケルススさえ「いいところまで行った」存在にすぎない。しかしグリンドンは、卑しい身分の女フィリーデに心を奪われるなど、その試練の最初ですでに躓き、破門されてしまう。しかし彼はその戸口までは進んだのであり、全く元のようには戻ることはできなくなっている。彼は自分を慕う妹の家に転がり込むが、最終的には自分の背後に潜む影に怯えた妹が、恐怖のあまり死んでしまうという結果を産むことになる。やがて彼はふたたびヴィオーラに会おうと試みる。そしてその結果、ヴィオーラもザノーニの背後にある影に怯えるようになり、子供をつれて、パリへと出奔してしまう。
 ちょうどその頃、パリではフランス革命の最中にあった。フィリーデとともに暮らすグリンドンは、罪の意識からつましい暮らしをしているヴィオーラを助けようするが、嫉妬に狂ったフィリーデと、長きに渡って常にグリンドンと因縁のあるジャン・ニコらの策略によってヴィオーラは収監されてしまう。グリンドンからヴィオーラの居場所を知らされたザノーニは、すでにほぼただの人間でしかなくなってはいたが、最後の力を使って彼女の救命を試みる。しかしそれには彼の命が引き換えとなる契約をもってする他はなかった。彼の策略は成功するが、命を救ったはずの彼女も、結局彼の後を追うように息絶え、子供だけが孤児となって残される。

(おそらく冒頭の老紳士は、グリンドンだと思われる)

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 深い叡智を持った不死の存在が、愛する女性に出会い、その超越性を捨てて、人間としての幸福を選び、自ら犠牲となっても愛する女性を救おうとする。
 ざっと要約するとそういう小説でした。ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』ともちょっと共通するモチーフですね。
 物語の序盤や転換のシーンなどの大げさな語り口にはやや辟易させられますし、なかなか面白くならない上に、物語そのものは、やや説得力を欠いた部分のあるラブロマンスなのですが、恐怖を象徴する「戸口に住まう者」や聖なる存在を象徴する「アドナイ」との交歓のシーンなどは非常にコズミックな神秘を感じさせてくれます。リットンの持つオカルトの知識がどれだけこの小説に反映されているのか、そもそもオカルティズムにさほど詳しいわけではない自分にはいまひとつわかりにくかったのですが、特に何の疑問もなく読めたので、今では特に特殊な考え方というわけでもない範囲なのではないかという気がしますし、ことさらそれを前面に出そうとしているわけでもない気もします。どちらかといえば、真に知の求道者であるメイナーよりも、人間の情感を選んだザノーニに対する共感的な眼差しの方に軸足があり、オカルティズム賛美とは真逆の印象さえ受けます。
 今読むと確かに冗長ですが、当時はなかなかエンターティメント性に富んだ小説で、フランス革命という史実と絡め、ロペスピエールやサン・ジェストといった実在の人物を登場させることで、なおさらそれぞれのキャラクターが立ち、興味を持って読まれたのではないかと想像しました。

 この小説の中で、興味深い人物をひとり挙げるとすれば、ジャン・ニコを推したいと思います。画家くずれの彼は非常に嫌な人物として描かれていますが、その執念深さと利己的な欲深さは最後までぶれることがありません。彼について書かれた文章で、面白い箇所がありました。
 
「学問にしろ、芸術にしろ、ある分野に没頭し、あるレベルに達しようと努力する者は、必ず、並の人間をはるかにうわまわる量のエネルギーを持っている。普段それは、その分野での野心の対象に差し向けられ、そのために、他の人間の営みにはまったく無関心になるものである。ところが、そうした目標達成の道が阻まれ、しかも、エネルギーの適切なはけ口がみつからないと、そのエネルギーは、その場でわき立ってその人間の全体に取り憑く。そして、もしそれが万全とした計画に使われるか、ある主義と良心にのっとって鈍化されるしかないと、社会の中の破壊的な危険分子となり、暴動や混乱を引き起こすことにもなりかねない。だからこそ、賢い君主が統治する国では――いや、しっかりとした構造を持つ国では、芸術や学問のために回路を開くことに必ず特別な注意を払うのだ。たとえ政治家自身は、絵を見てもただの色の塗ってある画布としか思わず、学問上の問題をただの手のこんだ謎としか考えないとしても、平和のために捧げられるべき才能が、政治的陰謀や私欲のためにのみ使われるとき、その国は最大の危機に直面する。栄誉にめぐまれない才能は、人間を敵にまわす(以下略)」

 ちょっとヒトラーを予感させるような文章ですが、学問や芸術に限らず、間違った方向へ暴発したエネルギーには、飢えだけがあって、たやすく歯止めをかけることが出来ないということでしょうか。