漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

プチ・プロフェスール

2015年08月30日 | 読書録

「プチ・プロフェスール」 伊予原新著
 角川書店刊

 「お台場アイランドベイビー」が面白かったので、伊予原新をまた読む。
 ついこの間、「女子にsin,cos,tanを教えて何になるのか」とか、本当にしょうもないことを言った知事もいたけれど、これはそうした数学を武器にするリケジョの話。5つの連作短編で構成された長編。主人公は大学院に通う理系女子の律。留学費用を稼ぐために、彼女に憧れている「カガク的なものが大好き」な小学生の理緒の家庭教師をしている(この家庭教師バイトの条件が「ほとんど胡散臭い」ほどとても良く、やや怪訝な気持ちを抱きながら続けているのだが、これは後の伏線になっている)。理緒の武器(?)がハンダゴテというのも、可愛い。
 それぞれの短編は、事件があって、それを理系的な考え方を用いて解決するといったもの。そう言うと、東野圭吾の「ガリレオシリーズ」がすぐに思い浮かんで来るが、こちらはターゲットがおそらくはハイティーンであり、ややライト。ズシンとくるものはないが、その代わりに、理緒が大切にしている本、ガモフの「不思議の国のトムキンス」が、最後にすっとした感動を運んできてくれる。
 ちなみに、角川文庫から「リケジョ!」のタイトルで再刊されているようだ。  

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 今日、国会議事堂前のデモを体験してきた。長い時間はいなかったので、参加したとまでは言えないだろうが、本当にすごい人の数で、熱気を感じた。議事堂前だけではなく、この一帯にどれだけの人が押しかけているのかと思った。想像もつかないが、三万人とか、そんな数ではないのは確か。あちらこちらで、「戦争法案反対」「安倍はやめろ」の声が上がっていた。雨の中わざわざ集まった、これだけの人々の声に耳を塞ぐのは、やはりどう考えても誠実ではないと思う。「民主主義だから、最後は多数決で決める」とは言うけれども、そもそもこれだけ多くの憲法学者が「違憲だ」というのに無視を決め込むというのは、矛盾している。日本政府が中国政府にナメられるのは、武力がないからではなく、外交が下手すぎるからじゃないか。その根本的なところをなんとかしないと、例えこの法案が可決されても、いいように利用されるだけなのは目に見えている。百害あって一利なしのこんな法案、反対して当たり前だとぼくは思う。

「[映] アムリタ」と「死なない生徒殺人事件 ~識別組子とさまよえる不死~」

2015年08月29日 | 読書録
「『映』アムリタ」 野崎まど著

「死なない生徒殺人事件 ~識別組子とさまよえる不死~」 野崎まど著

(共に)メディアワークス文庫 角川アスキーメディアワークス刊

 を読む。

 どちらも、以前に読んだ「2」に繋がる物語。以前にも書いたかもしれないけれども、大冊の「2」という作品は、同じメディアワークス文庫から出ている

 [映] アムリタ
 舞面真面とお面の女
 死なない生徒殺人事件 ~識別組子とさまよえる不死~
 小説家の作り方
 パーフェクトフレンド

 の五作の、共通の続編にあたる。つまり、この六作品は、どれも同じ世界を共有しているのだ。ある作家の書くいくつかの作品が実は相関関係にあるということは、割によくあることだけれども、このように、全く独立している作品のように思っていたいくつかの作品が、さほど破綻を感じさせることもなく、一つの続編へと収縮してゆくというのは、小説ではなかなか珍しいのではないだろうかと思う。マンガでは、松本零士とか永井豪とか、力技でクロニクルに仕立てようとする作家はたまにいるけれども。
 「[映] アムリタ」は、著者のデビュー作であり、”完璧な映画”を扱った、この一連の物語の核を成す登場人物が出てくる物語である。「死なない生徒殺人事件」は、不死の少女を扱ったミステリー。ともに舞台は吉祥寺周辺で、もちろん、どちらの作品も一筋縄ではゆかない。ついてこれない人を、どんどん振り落とすような、マンガ的な小説である。メディアワークス文庫は、決してライトノベルのレーベルではないということだが、まあ、限りなくライトノベルに近い小説だと言って差し支えない。ただ、これらの作品が「2」というアクロバット的な作品に収束してゆく様は、見事だと思う。したがって、読むならここに挙げた6作は「吉祥寺もの」として、全部読むつもりで読み始めた方がよいと思う。その方が、きっとずっと楽しめるはず。
 

壺の町

2015年08月28日 | 垂水・須磨・明石を舞台にした小説
「壺の町」 望月諒子著 光文社刊

 内容紹介によると、

 神戸の住宅街に住む古畑夫妻と娘の香が、生きたまま焼かれるという猟奇的殺人事件が起こった。香の夫で勤務医の雅貴にはアリバイがあり、香の不倫相手の水嶋周平が参考人として調べられる。自らの無実を明かすため真相を探り始めた周平は、やがて古畑が阪神淡路大震災前に地上げに加担していたという秘密の過去にたどり着く。残忍な事件に隠された驚愕の真相とは!?

 ということ。まさにそんな内容。付け加えれば、バブルと阪神淡路大震災が物語に大きな影を落としている。

 犯人は、割とすぐに想像がつく。ただ、実行犯がかなり後にならないと出てこないので、推理小説として読む人には、ややアンフェアだと感じるかもしれない。推理小説だと考えずに読む方が、楽しめると思う。
 もちろん面白く読んだのだけれど、読みながらぼくがちょっと気になったのは、その舞台。主な舞台は、タイトルにもある「壺の町」と称されている六寺町と、神戸の西にある端正な住宅街である武蔵台。もちろんどちらも神戸の町ということなのだが、(多分)架空の地名である。六寺町の方は、おそらくは長田あたりにある町がモデルなのだろうが、武蔵台の方は、いくつか候補は思いつくものの、よく分からない。西神戸には、「○○台」という地名が、とても多いのだ。

「レッドスーツ」と「聖痕」

2015年08月19日 | 読書録
「レッドスーツ」 ジョン・スコルジー著 内田昌之訳
新ハヤカワ・SF・シリーズ 早川書房刊

 を読む。

 タイトルとジャケットのパルプ絵からこの小説の内容を想像できる人もいないだろう。確かに導入部はコテコテのB級スペースオペラなのだが、まもなく物語はおかしな方向へ進み始める。夢の中で「これは夢だ」とハッと気づくような、そんな感じで。ここからは、古いSFドラマにツッコミを入れ続けるような感じで、メタ・フィクションと化してゆく。物語は次第にドタバタ劇となり、やがてさらにメタ化し、最後には思いがけずしんみりと感動させられてしまう。まるで全盛期の筒井康隆のようで、筒井作品が好きな人にはおすすめの一作だろう。



「聖痕」 筒井康隆著 新潮社刊

を読む。

 実は「レッドスーツ」を読む少し前に、たまたま筒井康隆の「聖痕」を読んでいた。朝日新聞に連載されていた作品である。
 幼い頃にペニスを切断されてしまった美少年の半生を描くクロニクルだが、性欲に煩わされないことが大きく作用し、一種の超人のようになってゆく。バブルからその崩壊、阪神淡路大震災、そして3.11まで、昭和から平成にかけての日本の移り変わりの中、狂騒に流されることもなく淡々と生き続ける主人公の姿は、ほとんど聖人のようでさえある。
 さすがに筒井康隆で、読ませるけれども、正直に言えば、ペニスがないくらいでそこまで透徹した眼差しを持つなんてことがあるはずないだろ、と思った。何もかもが上手く行き過ぎで、次第に現実感を欠いてゆくような印象を受けたのだ。だけどまあ、これは一種の寓話なのだろう。

ストレンジガールは甘い手のひらの上で踊る

2015年08月18日 | 垂水・須磨・明石を舞台にした小説

「ストレンジガールは甘い手のひらの上で踊る」 森田季節著
MF文庫J KADOKAWA/メディアファクトリー刊

 を読む。

 デビュー作「ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート」と、その続編の「プリンセス・ビター・マイ・スウィート」から、七年ぶりの続編。著者あとがきによれば、「初心に戻る意味も込めて」、出版のあてもないままに、趣味で書いていたらしいが、たまたま編集者の目にとまり、出版が決まったそうだ(出版のあてのないまま、とは言っても、別に本を書いていなかったわけではなく、むしろ量産している印象のある作家だがら、これは本当に趣味で書いていたようだ)。
 実は、ぼくはデビュー作の「ベネズエラ」の方は読んでいたが、続編の「プリンセス」の方は読んでいない。つまり、このシリーズが好きで読み続けているというわけではないわけである。なのに、なぜひとつ飛び越してまで、シリーズ三作目を読もうと思ったのかというと、この小説が神戸市の名谷地区を舞台にしているからだ。
 著者の森田季節さんは、出身が神戸市垂水区で、通っていた高校が、どうやら名谷地区にある学校のどれかだったらしい(名谷地区には高校がいくつもあるので、どれかは分からない)。高校を卒業してからは、大学に通うため京都に移り、それから福井を経て、現在は東京の八王子に住んでいるという。この住所の遍歴が、ぼくにはとても親近感を感じさせるのだ。というのも、ぼくも神戸市垂水区出身で、高校は名谷にあり、大学に通うため(卒業はしなかったので、短い間だったけれども)京都にしばらく住み、それから現在は東京の中央線沿線に住んでいるからだ。それで、神戸(特に垂水や須磨)を舞台にした作品をいくつも書いている森田氏の作品を、つい読んでしまう。要するに、半ば故郷を懐かしんでいるようなものなのだ。
 このシリーズ、一作目の「ベネズエラ」では、舞台は京都と、そして垂水。二作目は読んでいないので分からないけれども、主に京都のようだ。そしてこの三作目は、さっきも書いたとおり、神戸市須磨区名谷。名谷は、酒鬼薔薇の事件でおかしな注目を集めてしまった場所だけれども、そこをピンポイントで舞台にした小説というのは、ぼくは他に知らない。それで、興味を持って、読んだわけである。
 ストーリーは、ざっくり言ってしまうと、一作目からのこのシリーズの核となる存在である、捕食者である「タマシイビト」と被食者である「イケニエビト」を中心に据えて展開されるラブストーリーなのだが、率直に言って、どこか現実感がないせいで、内容についての説明が難しい。フィクションだから、という意味ではなく、なんというか、ふわふわと現実感がないのだ。「あのね、むかしこういう人がいて、こういうことがあったんだよ」という、なんだか要領を得ないうわさ話のようだといえば、いくらかは伝わるだろうか。まあ、それはぼくがこれまでに読んだ他の森田作品にも言えることで、著者の持ち味なのだろうが、もしそれをすんなり受け入れられないなら、とても読めないかもしれない。
 この作品で舞台になるのは、名谷駅の主に北側なのだろうが、ぼくは三年間も名谷に通っていたにも関わらず、学校が駅の南側にあったため、そちらの方はほとんど行ったことがない。なので思ったほど土地勘が働かず、佐奈たちの通っている学校は多分須磨東高校を想定しているのかな、ということくらいしか分からなかった。物語の重要な舞台となる大歳神社なんて、多分、初めて聞いたくらいだ。それでもまあ、地下鉄や名谷駅周辺の描写はすっと目に浮かんでくるものだったし、ちょっと懐かしかった。

 実は、ニ年ほど前、二十数年ぶりに名谷へ行った。
 盆休みに神戸に行くついでに、久々にかつて通った高校への道を歩いてみたいと思いついたのだ。
 いや、正直に書こう。最初からそのつもりで神戸に帰省したという方が正しい。四十代も半ばを過ぎ、そのせいだろうか、なんだか、三年間通った高校への道が、ふとたまらなく懐かしくなったのだ。実家という言葉が、親の住む家という意味ならば、実はもう何年も前から、実家そのものは既に神戸にはない。母は今では滋賀におり、かつて一家で住んでいた家には、弟の家族が住んでいる。なので、長いあいだ神戸には行っていなかったのだが、その時は目的が目的だったから、弟の家に一泊させてもらった。
 お盆の、とても暑い日だった。
 名谷方面に向かうバスが発着する垂水駅東口のバス停は移動していて、すぐ駅の近くになっていた。かつては垂水銀座という、垂水駅からほど近いところに居を構えている筒井康隆氏のエッセイにも出てくる垂水でいちばん大きな「文進堂」という書店のある商店街を抜け、全盛期には日本有数のマンモス校として有名だった垂水小学校の脇を通り過ぎた先の、駅から随分と離れたところに、石垣にへばりつくようにしてあったのだが、再開発で移ってきたのだろう。ちなみに、震災の影響で文進堂は少し離れたビルの一階に移転していた。ふらりと入ってみたが、かつての、狭いところにぎっしりと本がつめ込まれた書店というイメージは既になく、どこにでもあるような、ごく普通の書店となっていた。毎日のように立ち寄った、ぼくにさまざまな未知なる本の世界への扉を開いてくれた「魔法のお店」のような書店だったから、少し寂しかったが、唯一、平積みになっていた筒井康隆の「偽文士日誌」のハードカバーがサイン本になっていたのが、かつて文進堂で筒井康隆全集のサイン本を買っていたぼくには感慨深かった。筒井さんは、今でも文進堂の本にサインを入れてくれるのだ。
 バス停が移動したのに伴い、バスのルートも若干変わっていた。
 とは言え、もう四半世紀ほども乗っていないバスである。あれだけ乗っていたというのに、記憶をたぐりよせるだけでも精一杯だったが、バス停の名前がアナウンスされるたびに、そうそう、そんなバス停があったと、懐かしく思い出した。あの頃、朝のバスはものすごい混雑をしていたが、いまでもそうなのだろうかと思いながら、滑(なめら)だの、神和台口だのという停留所の名前を、懐かしいいろいろな人たちの面影を思い出しながら聴いているうちに、終点の名谷駅に着いた。
 名谷駅の周辺は、変わったといえば変わったのだが、四半世紀という時間が流れた割には、変わっていない方だったようにも思う。須磨パティオも、中の店こそ変わったけれども、ちゃんとあったし(時々利用していた書店は健在だった)、北側に広がる、やや薄気味悪い落合池もそのままだった。もちろんこれは、町としての成長が止まってしまっているのだと考えることもできるのかもしれないことだったけれども。
 久々の名谷再訪で一番印象に残ったのは、あの猟奇的な事件から何年も経つというのに、いまだに友が丘中学の正門には、炎天下に、真っ黒に日焼けした警備の人が立っていたということだった。事件があってから一度も名谷の方には来たことがなかったので、せっかくだからと、ちょっと見にいってみたのだが、驚いた。放っておくと、一種の聖地化しかねないからだろうか、と思ったが、それにしても、これだけ経つというのに。つい最近、酒鬼薔薇こと少年Aの手記が出版されて、物議を醸したが、やはり未だに完全には風化していない、強烈な事件だったのだ。
 母校への再訪で、四半世紀ぶりに記憶がアップデートされた。自分の記憶と照らし合わせると、思い違いをしていたこともあったし、改めて気づいたこともあった。感じたことはいろいろとあったが、やはり再訪したいと思った時に再訪してよかった。まるで巡礼のように、過去に歩いたところを辿って歩くことは、意味のないことではなかった。
 少し躊躇したが、四半世紀ぶりに校門をくぐった。注意を受けるかとも思ったが、お盆ということもあってか、ほとんど人の姿はない。部活動帰りの生徒に数人、すれ違っただけだ。彼らはぼくには何の注意も払わない。校舎の下に佇み、かつての教室の窓を見上げた。あの部屋にクラスメートたちがいないということが、何だかちょっと不思議な気がしたが、それが当たり前だということも十分にわかっていた。あの頃の教室は、光の速さで飛んでいってしまい、もはや追いつけるはずもない。悲しいわけではないが、寂しくないといえば嘘になる。その寂しさは、もどかしさのようなものなのだろう、と思った。
 最後に、校舎を回りこんで、誰もいないグランドを眺めた。強い陽射しに、カラカラに乾いた校庭。そのずっと彼方には小さく海が見えるはずだったのだが、見えない。校庭を取り囲む植え込みの樹々が、大きく成長したせいなのか。それとも、記憶がどこかで改竄されたのか。どうしても、うまく思い出せない。
 校庭は、記憶よりも、やはり少しだけ、小さい気がした。

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 (西部を中心にした)神戸を舞台にした小説

というカテゴリーを追加します。

帰省

2015年08月08日 | 近景から遠景へ

 まもなくお盆休みだが、ぼくは一週間早く夏休みを取り、関西まで初めて車で帰省した。
 車の運転は、もともと余り好きでも得意でもなく、これだけ長い距離を一度に運転するのも初めてだったので、出発前には多少の心配はあったのだけれど、まあ一度くらいはやってみるかと、思い切ったのだが、特に何のトラブルもなく、短くはあったが、楽しい旅ができた。
 もともと育った実家は神戸なのだが、その家には現在弟家族が住んでいて、母は妹と一緒に滋賀に住んでいるため、初日は約八時間かけて、滋賀へ。一泊した翌日には妹の娘を連れて甲賀の里に遊びに出かけ、忍者屋敷などを見学した後、母も連れて神戸の弟の家へ。三日目には早々に母と別れて、昼には世界遺産の白川郷に到着。四時間ほど観光。夕方には飛騨高山に到着し、一泊して、さらに翌日には上高地へ。そして夕方には上高地を出て、夜には東京に戻ってきたという、ほとんど弾丸旅行だったけれども、思いの外ゆっくりとした気分で楽しめた気がするから不思議だ。天候にも、ずっと恵まれていたし。要するに、白川郷や上高地は車でなければちょっと行きにくい場所だったからというのが、車で帰省した裏の目的だったわけである。
 平日だったから余計だったのかもしれないが、白川郷の観光客は、圧倒的に外国人が多かった。宿をとった高山など、宿の方によると、以前は観光客の90%以上は外国の方だったということだったが、おそらくは白川郷とセットで来る観光客が多いということなのだろう。ただし、地震のあとはしばらくぱったりと外国人の観光客の足が遠のいたらしく、一時はどうなることかと心配する時期が続いたらしいが、最近はやっと少し戻って来て、今では60%ほどが外国からの観光客という状態らしい。
 上高地は、車の乗り入れができないため、途中からバスに乗り換えての観光となったが、さすがに綺麗な景勝地だった。槍ヶ岳から流れてくる梓川の水が、驚くほど澄んでいて、冷たかった。穂高や槍ヶ岳への登山口のひとつにもなっているため、しっかりとした登山の装備をした人たちが、河童橋のあたりにはたくさんいた。確かに、穂高を見上げていると、ちょっと登りたいという気にはなってくる。いや、「ちょっと」で登れるような場所ではないということは、十分にわかっているのだが。だいたい、そのときぼくはビーチサンダルだったし(笑)。まあ、上高地だけなら平気といえば平気だけど、おすすめはしません。