漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

ユートロニカのこちら側

2017年03月29日 | 読書録

「ユートロニカのこちら側」 小川哲著
ハヤカワSFシリーズ Jコレクション 早川書房刊

を読む。

 第三回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作。
 一読して、これがデビュー作だとは思えないほど、完成度の高い小説だと思った。面白い。確かに後期のバラ―ドを思わせるものがあるが、バラードのように、登場人物の狂気に物語が引っ張られていったりするわけではない。そういった意味で、ずっと読みやすく、より現代性を持った作品。巻末に、選評が掲載されていて、結構厳しい言葉もちらほらみられるが、概ねこれを大賞に押すことは一致したようだ。
 個人情報やプライバシーをほとんどすべて差し出すことと引き換えに、様々な不安から開放された快適な生活を約束される特別区、アガスティアリゾート。それは、googleを連想させる、マイン社というIT系企業がサンフランシスコ市と提携して運営している特別区である。そこの住人たちは、肉体的にも精神的にも、常に監視下に置かれるという状態にある。その状況に慣れる人もいるし、どうしても慣れることのできない人もいる。物語は、その街で暮らす人々を描いた、6つのオムニバスになっている。
 「世界が本当に変わるのは、何か非常に便利で革新的なものが開発されたり、新しい画期的な物理法則が発見されたりしたときではない。さらにいえば与党が改まったり、あたらしい法律が成立したときでもない。(中略)本当の変化は、自分たちの変化に気がつかないまま、人々の考え方やものの見方がそっと変わったときに訪れる。想像力が変質するんだ。一度変わってしまえば、もう二度と元には戻れない。自分たちが元々何だったか、想像することすらできなくなる」
 第五章の中で、登場人物のひとりドーフマンが語るセリフ。これがこの小説のテーマのひとつだろうが、現在の世界を鑑みるにつけ、まさにそういうところはあると思う。そういった意味でも、今書かれるべくして書かれた小説だと言えそう。
 

☆になった魚たち

2017年03月26日 | アクアリウム
 「アクアリウム」というカテゴリーを作っておきながら、全く何も書いていないけれど、結構どっぷりとハマって、やっている。さほど大きくもない水槽なのに、多分いま現在、50匹近くの生体が泳いでいるはず。はっきりとした数を書かないのは、ネオンテトラ系(ネオンテトラ、カージナルテトラ、グリーンネオンテトラ)の正確な数がよくわからなくなったためでである。多少過密気味かなと思うけれども、だいたい落ち着いているようで、水質のせいで体調を崩して☆になった魚は最近はいないはず。
 だったのだけれど、この二、三日で、お気に入りの魚が立て続けに☆になってしまった。
 まずは、クリスタルレインボーテトラ。



 写真の左側がそう。ちなみに、右側はバタフライ・レインボー。
 このテトラは、とても小さいテトラなのだけれど、特徴的なのはその透明なボディ。透明な魚はたくさんいるけれど、このテトラの透明感は、他とは一線を画する。まるで水そのもののように透明なのだ。そして、尾びれが少しだけ赤と青に色づいていて、非常に美しい。店頭で見て、少しだけ高めだったけれども、一目惚れして買ってきた。ところが、買ってきてからネットで調べてみて、愕然とした。このテトラ、なんといまだに飼育の仕方が確立されていない、非常に長期飼育の難しいカラシンらしいのだ。だいたい、一ヶ月くらいで体が白く濁りはじめ、三ヶ月を超えて飼育することは、熱帯魚を飼うことになれた人でさえも難しいらしい。なんだよ、それ。そう思ったものの、少しでも長く飼育できるようにと水質に気は使ったものの、やはり一ヶ月ももたないで体が白く濁り、それからまもなく☆になってしまった。
 ちょうど同じ日に、ピグミー・グラミーが虫の息になった。ピグミー・グラミーはトリコプシス属という、四種しかいない珍しい種の魚だということだ。全体にはグレーというか、パールカラーなのだが、トルコ石のような青い色がボディに散っている。泳ぎ方も独特で、なんと言うか、ぬるり、と泳ぐ。そして極めつけが、魚のくせに、鳴く。ぼくはピグミー・グラミーが好きで、以前にも飼っていたのだが、やはり☆になってしまい、これは二代目だった。しかし、最初からこの個体はいまひとつ弱そうな感じはしていたので、まあさほどショックではなかったものの、残念なことには変わりがない。☆になったグラミーは、回収することができなかった。ヤマトヌマエビが二匹がかりで美味しく頂いてしまったからである。
 そして、極めつけがメスのグッピー。グレーのボディに、尾びれがブルーという、どちらかといえば地味なグッピーなのだが、うちの水槽でいちばん最初に買った魚のひとつでもあり、なによりも、その天真爛漫な性格から、うちの家族みんなのマスコット的存在だった。このグッピーには、随分と和ませてもらった。魚にも性格があるんだと、このグッピーから学んだといっていい。それが、昨日、☆になってしまった。
 寿命を縮めてしまった最大の原因は、数カ月前にふと買ってきた、エンドラーズ・ハイブリットのオスせいである。エンドラーズは、グッピーの原種ともされる魚で、エンドラーズ・ハイブリットは、そのエンドラーズとグッピーの混雑種である。新宿の熱帯魚ショップで見つけて、なんとなく買ってきてしまったのだが、そのときはグッピーとも随分と形が違うし、まさか交雑するとは思わずに買ってしまったのだところが、水槽に入れてすぐに、グッピーにまとわりつき始めた。もう、あきれるくらい、一生懸命のアピールをして、まとわりつく。最初、グッピーは懸命に追い払おうとしていたようだったが、結果として、妊娠してしまった。これが、多分結構な高齢出産で、しかも相当な難産だったようで、みるみるうちに体調を崩し、それでも一月以上は生きていたのだが、最後にはまるで腰の曲がった老婆のようになって、☆になってしまった。この先グッピーを飼うつもりはもうないけれど、彼女を飼ったことは、とてもよかった。合掌。
 さらに、昨夜は水槽のどこを探してもスカーレット・ジェムの姿が見えなかった。



 真ん中にいる赤いやつがそう。ちなみに上の黒いのはブラックネオンテトラで、下の赤いラインが入っているのがグローライトテトラ。
 このスカーレット・ジェムというのは、インド原産の、スズキ目の熱帯魚で、赤い体色とヒレに入った青いライン美しく、「インドの宝石」とも評される魚。見ていると、中性浮力をとるのが非常に上手で、水の中でじっと静止しているように見える、独特の動き方をする。ただ、問題がひとつだけあって、この魚、生き餌しか食べないんですよね。
 それだけで、いきなりハードルが上がってしまう。仕方なく、ブラインシュリンプを沸かせたりもしたけれど、最近では、乾燥アカムシをピンセットから食べてくれるようになってきていた。そうなると、他の魚よりも手間がかかる分、余計に可愛くなる。それだけに、姿がみえなくなったのは非常にショックだった。水槽って、たまにそんなふうに、魚が行方不明になるのだ。水槽からの飛び出しか、☆になって他の魚やエビに食べられてしまったのか、そのどちらかなのだろうが、なにせ確認できないので、行方不明としか言えない、そうしたことがこれまでに何度かあった。今回も、きっとそれだろうと思っていた。
 ところが、今日になって娘が普通に泳いでいるスカーレット・ジェムを見つけた。どうやら、どこかに隠れていたらしい。とりあえず、よかった。こんなに一度にお気に入りの魚たちがいなくなってしまうのは、寂しすぎる。
 とまあ、とりとめのない話でした。

「グルブ行方不明」と「シン・ゴジラ」

2017年03月23日 | 読書録

「グルブ消息不明」 エドゥアルド・メンドサ著 柳原孝敦訳
はじめて出逢う世界のおはなし―スペイン編 東宣出版刊

を読む。

 あまり読んだことのないタイプの小説で、かなり面白かった。「興味深い」という意味でもあるが、実際に何度か思わず吹き出した。ゆるくて、とぼけていて、適当で、それでいてなんだか、いろいろなものに対して愛しい気持ちになる。物語そのものに対してではない。物語そのものには、たいした意味はない。宇宙からやってきて、バルセロナで行方をくらましてしまった相棒のグルブの行方を探す主人公の行動が、箇条書きのように、そのままだらだらと書き連ねられているだけである。なのにそれが非常におかしく、少しだけ寂しげなのである。
 そもそも、著者による序文が面白い。著者はこの本について、「これまで私が書いた本の中で一番風変わりなものだ。おそらくその理由は、これが本ではないからだ。あるいは本にしようという気もなかったのに生まれたものだからだ」と語り、売れるはずも、長く読まれるはずもないと思って書いていたこの小説が、結果的には著者最大のベストセラーとなり、数カ国で翻訳され、カフカ賞まで受賞してしまったことに、素直に驚いていると語っている。著者がいささか謙遜ぎみに語るように、確かに軽く読める本ではあるけれど、一度読み始めてしまうと最後まで読んでしまうというのは、やはり作家としての力量があるからだろう。
 日本の作家でいえば、北野勇作の諸作から受けた印象が、いちばん近いかもしれない。


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「シン・ゴジラ」 庵野秀明監督

を観る。

 映画館にゆこうと思いながら、結局行かずじまいだった「シン・ゴジラ」がDVDになったので、早速みてみた。
 最近の日本映画にやたらと多い、余計なお涙ちょうだい的サブストーリーの味付けが全くなくて、ゴジラ一本で勝負しているのが非常に良かった。マニアならではのバランス感覚に貫かれているという印象。個人的には、無人在来線爆弾に大ウケ。
 

航路

2017年03月09日 | 読書録

「航路」(上・下) コニー・ウィリス著 大森望訳
ハヤカワ文庫 早川書房刊

を読む。

 臨死体験(NDE)を扱った作品。とはいえ、オカルトではなく、れっきとしたSF作品。
 臨死体験といえばこういうものだというイメージは、たいていの人は持っているはず。日本人である我々にとってそれは、例えば、三途の川の向こうで祖母が手招きしている、一面のお花畑がある、長いトンネルがある、など。そうした、なぜか様々な人の共有される経験がなぜ生まれるのかを研究しているのが、この作品の主人公であるジョアンナ。彼女は、オカルトには惑わされずに、NDEのメカニズムについて、科学者的な立場から突き止めようとしています。物語全体を通じて、彼女はずっと走り回っている印象があり、まるで時間と戦っているですが、それには理由があります。実はジョアンナは、彼女が研究の拠点としている病院に入院している、心臓疾患のある9歳の少女メイジーをなんとしてでも救いたいと思っていて、NDEの秘密さえ突き止めることができれば、あるいはメイジーを死の淵から呼び戻すことができるかもしれないと考えているのです。
 この極めて聡明で、まるで自分の死への心構えをするかのように、過去の悲惨な事故の詳細を収集することを何よりの趣味にしているメイジーが、実は影の主人公と言えるかもしれません。物語は三部に分かれていますが、第三部に至っては、ついに物語の最前面に出てきて、病室からほとんど出ることもできないというのに、物語を結末まで引っ張ってゆきます。
 ジョアンナと並んで、物語全体の主人公がリチャード。彼はジョアンナよりさらに徹底した科学者的立場からNDEを解明しようとしています。ジョアンナが、実際に臨死体験をした人に根気よく話を聞くことでNDEの秘密を解明しようとしているのに対し、リチャードは、臨死体験中の人の脳にどんな化学物質が分泌されているのかを調べることでNDEの秘密を突き止めようとしています。彼は、ふとした偶然から、リチャードはある薬物を使用することで、人工的に臨死体験を経験させることに成功しているのです。そして、その実験の精度をより高めるため、実際に臨死体験者に多く接してきた、経験の豊富なジョアンナに協力を仰ぎます。
 二人は共同で様々な被験者を使い、NDEの謎に取り組みますが、一癖もふた癖もある被験者たちに振り回され、どうもうまくゆきません。最終的には、ジョアンナが自ら被験者となることになります。そしてジョアンナは臨死を体験をするのですが、彼女がその実験の中で訪れた場所は、なんと沈没しつつあるタイタニック号の中なのです。
 ジョアンナは、なぜ自分が臨死体験するたびに同じタイタニック号の中で目覚めるのかを考えます。それに、他の人々のNDEも、タイタニック号での出来事のように思えてきます。しかし、なぜタイタニックなのか。そこには絶対に、何か理由があるはずであり、その理由がわかれば、臨死体験の秘密がわかるに違いないと。やがて彼女は、高校時代のひとりの先生のことを思い出します。その先生は、何かにつけてタイタニックのことを引き合いに出して話す先生でした。ジョアンナは、高校時代にその恩師から聞いた言葉にこそ、秘密の鍵が隠されているに違いないと確信するに至ります。……

 という感じで、上下巻合わせて1200ページを遥かに超える分量で物語は迫ってきますが、面白いので、うんざりすることはないと思います。ぼくは3日で読み切りました。物語は全部で三部に分かれていると書きましたが、その第二部の最後で物語は急転直下、予想もしていなかった展開を見せます。長い間昏睡状態にあった患者が意識を取り戻し、彼から臨死体験を聞かされるのですが、それをヒントに、ジョアンナはようやくNDEの真実を掴みます。しかし、そのことをリチャードに知らせようとした、その矢先に……。
 解説にもあるように、ここまで読んでしまったら、後は一気に読んでしまうと思います。
 リチャードはかなりハンサムで、ジョアンナも美人のようですが、ラブストーリー的な要素はほとんどなく(それどころか、明言はされないけれども、ジョアンナはもしかしたらレズビアンかもしれない)、ひたすらNDE解明のために駆けずり回る人々の姿が描かれているわけですが、最後にはぐっとくる感動が訪れます。それは、様々な登場人物たちから慕われるジョアンナの、人に対する誠実で真摯な愛が、その強い意志のちからで、(決してオカルトではなく)時空を超えて伝わる感動であり、また、様々な災害の中で、多くの、自分を犠牲にしてでも誰かの命を救った人々に対する、深い尊敬の念なのです。

怪奇小説という題名の怪奇小説

2017年03月04日 | 読書録

「怪奇小説という題名の怪奇小説」 都筑道夫著
集英社文庫 集英社刊

を読む。

 長編の怪奇小説の執筆を依頼され、安請け合いしたものの、どうしても思い浮かばずに困っている作家が、苦し紛れに、とりあえずそうした自分の現在の状況からグダグダと書き始めるところから物語は始まる。雑誌連載で、各章がその一回分に相当するという形式をとっているのだが、なんとその第一回目の、「困ったな、なんにも思い浮かばないんだよ」というような章には、なんと著者が以前に訳したというジョン・スタインベックの「蛇」という短編の翻訳がまるまる含まれている。面白い短編なので、それは別にいいのだが、こういうのは初めて見たので、驚いた。この、いかにも「苦し紛れにページを埋めた」的な感じは、なかなか面白いが、計算してなのかそうでないのかはわからないけれど、これがちょっとしたのちの伏線になっているのは、最後まで読まないと気づかない。
 著者は、悩んだ挙句に、海外の、誰も知らないような作家の作品を思い出し、それを盗作しようと企む。全く無名で、当然邦訳もない作品だから、ちょうどいいと思ったわけである。作品名は、「The purple stranger」。作家は、それを元ネタに、日本風にアレンジしながら、一編の怪奇小説をでっちあげることにする。ところが、そんな最中、街の中で彼はもう三十年も昔に死んだはずの従姉妹にそっくりな女性を眼にする……

 といった感じで物語が始まる。最初はメタ・フィクションなのかと思ったら、だんだんとちょっとエロティックな怪奇小説風になり、最後には「え、クトゥルー?」といった感じになるといった、なんとも振れ幅の大きな小説。苦し紛れに始めた連載が、だんだんと物語の体をなしていったのかもしれないし、最初から計算されていたのかもしれないが、変な小説であることは確か。
 ちなみに、解説を道尾秀介が書いていて、サラリーマン時代にたまたま古書店で筒井康隆をさがしていたところ、隣にあった100円のこの本にふと目が止まり、買って読んだところ、衝撃を受けたとあった。そして、都筑道夫の大ファンになり、作家を目指すことにつながった。曰く、「100円で人生を買ったようなものだ」とのこと。道尾という名前は、都筑道夫の「道夫」から頂いたらしい。
 ところで、ぼくもこの本を買ったのは、たまたまブックオフの均一棚で筒井康隆の本を探していたときに、隣にあって、気になったからだ。もっとも、ぼくはこの本で人生が変わるといううようなことは、まったくなさそうであるが。

「しあわせの書」と「夢見る宝石」

2017年03月02日 | 読書録

「しあわせの書―迷探偵ヨギガンジーの心霊術」 泡坂妻夫著
新潮文庫 新潮社刊

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 ある新興宗教団体の後継者問題をめぐるミステリーだが、正直なところ、物語そのものよりも、最後に明かされるこの本そのものをめぐるトリックに愕然とした。こんなこと、たとえ思いついても、普通はやらない。というか、できるとは思えない。それを、見事にやってのけているのは、ほんと、唖然としたとしか言いようがない。

……

「夢見る宝石」 シオドア・スタージョン著 永井淳訳
ハヤカワ文庫SF 早川書房刊

再読。
 
 以前に読んだのは、もう三十年近くも前になるので、水晶が夢見ることで生物を生み出すという曖昧な設定以外、ほとんど忘れてしまっていた。なので、久々に読み返してみて、そうか、そういえばこんな話だったっけか、と思った。
 多少ネタバレになるものの、一言で言ってしまえば、宝石の夢が実体化することで生まれた一人の少年の、数奇な半生を描いた小説。
 鉱物が夢を見るというイメージは素晴らしくて、その一点でずっと記憶に残っていたのだけれど、改めて読み直すと、いろいろと変わった小説だと思った。この前に参加した読書会で、さんざんスタージョンは変だという話を聞いたせいかもしれない。登場人物たちの行動の主人公のホーティには、どういうわけか存在感が希薄なところがあるが、他の登場人物には強烈な存在感がある。特に、養父のアーマンドのゲスっぷりは生々しい。これは、鉱物の側に属しているホーティと生物の側にあるアーマンドの対比ということなのだろうか。
 SFや幻想文学には、「サーカスもの」とでも言うべき作品が結構ある。ブラッドベリの「何かが道をやってくる」やフィニーの「ラーオ博士のサーカス」、リーミイの「沈黙の声」などがその代表的なものだけれど、これもそのひとつ。