漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



ルーシャス・シェパード「竜のグリオールに絵を描いた男」(内田昌之訳/竹書房文庫)読了。

 待望の邦訳出版ということで、去年(一部で)かなり話題になった一冊をようやく読んだ。面白かった。「グリオール」という名の巨大な竜をめぐる連作短編集。
 時代は19世紀を舞台にしたものがほとんど。しかし、我々が知識として知っている19世紀とは少し違う、現実に竜や魔法使いの存在する、この世界とごく近いパラレルワールドを舞台にしている。
 グリオールというのは、そうした竜の中でも最大にして最強の存在。かつてとある強力な魔術師に動きを封じられてしまったが、死にまでは至らず、大地に横たわったまま成長を続け、その思念によって人々に影響を与え続けている。このグリオールの存在感がすさまじい。体高が750フィート(約230メートル)、体長が6000フィート(1.8キロメートル)。ピクリとも動かないが、時の流れのエネルギーを糧に成長を続け、死ぬこともない。身体は草木に覆われ、遠目にはまるでなだらかな丘の連なりのようにも見える。人々は、竜の思念による影響を畏れながらも、時には竜の生み出す鱗や分泌物などを利用したりして、半ば共生するように生きている。体内や羽根の下などにも入り込むことができる。そこには様々な寄生生物が存在し、独自の生態系が出来ており、まるで生きた廃墟か、別の世界のようである。こうした設定だけでも、想像力が掻き立てられ、非常に魅力的ではないか。
 解説によると、既に作者は物故しているので、遺された『グリオール』の連作は全部で7篇。この本にはその前半の4篇が収められている。おそらく、評判次第では残りの3編の出版もあり得る?
 表題にもなっている冒頭の「竜のグリオールに絵を描いた男」は、最初からいきなりだが、メリックという一人の画家が、誰も考えつかないような方法で、これまで誰にも出来なかった「グリオールを殺す」ことに成功する物語。その方法というのがなんと、グリオールの身体にびっしりと絵を描き、その絵の具の毒でじわじわと殺すというのだから、呆れつつも驚かされる。一種の廃墟であるグリオールが、鮮やかに彩られてゆくというイメージは鮮烈。そうして始まった数十年にも渡る気の長いプロジェクトの中で、人々は年を重ねてゆき、時とともにすべてが移り変わってゆくハイ・ファンタジー。
 「鱗狩人の美しい娘」は、子供の頃からグリオールの身体の上で眠るという習慣を当たり前のものとして強いられて育った少女キャサリンの物語。彼女は美しく成長するが、男を弄ぶことに何の呵責も覚えないため、恨みを買って、竜の胎内に逃げ込むことを余儀なくされる。しかしそれも結局は竜の意思によるもので、彼女は竜の胎内に住む、独自の進化を遂げた人類の末裔フィーリ―たちと生活をともにしながら、竜の胎内を探検し、その秘密を研究することに何年もの時間を費やすことになる。まるでピノキオの物語のように、巨大な生物の胎内での生活という描写がとても興味深い。「地球の長い午後」的なSFが好きな人には、楽しめるはず。
 続く二篇は、ともにグリオールの意思によってまるで人が駒のように使われるという物語。この二つは、内容に触れるとネタバレしないではいられないので、軽く。
 「始祖の石」は、ある殺人事件をめぐる法廷ミステリー仕立ての物語。前作のキャサリンもちょっとだけ出てくる。人間ドラマで、グリオール自体は物語の背景に引っ込んでおり、あまり出てこない。
 「嘘つきの館」はグリオールとは別の雌の竜が出てくる物語。竜が人にも変化できるという設定が明かされる。クライマックスあたりのシーン、条件反射的にどこか清姫伝説的な図像が浮かぶが、物語自体は最初の二作のような鮮烈さはない。著者による自著解説によると、この物語が最後の作品への布石となっているらしいが、もちろん未読なので、それについては語れない。
 というわけで、非常に楽しめたが、この設定を使ってもっといろいろと出来そうな気がするので、残りの3篇の邦訳がどういうものなのかが気になる。



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 一通りは読んだが、読み込めたという気はしていない。途中で道に迷い、それでも先へと読み進み、全体の2/3を過ぎたあたりでなんとなく全体の手がかりのようなものがまた見えてきた。そこで本来なら最初に戻って読みなおすべきだったのだろうが、しないまま最後まで読みきった。したがって、物語の中に流れる時間や人物の混乱がきちんと腑に落ちきってはいないというのが正直なところだ。従って、以下の感想もやや覚束ないところがあるが、とりあえず初読時の感想ということで。
 この時間的にも空間的にも人物的にも混乱をきたしている混沌とした物語をすっきりと整理して理解することは、なかなか簡単ではなさそうである。しかも、そこにメタの要素までが入り込んでいる。そのメタの部分をきれいに分けて取り出せれば、多分ある程度はすっきりするのだろうが、それもなかなか難しい。
 この小説をもっともシンプルに説明するなら、ムディート(=ウンベルト ペニャローサなのだが、実はこのあたりもやや微妙なところがある)の、上院議員ドン・ヘロニモの妻イネスに対する愛の物語、ということになると思う。つまりこれが縦軸。そこに、イネスの産み落とした奇形の息子〈ボーイ〉の物語が横軸として重なるが、物語を複雑にしているのは、この二つの軸は、どちらも少し「ぶれている」ということ。多分、縦軸の騙りが横軸の矛盾を誘発することによって生まれる「ぶれ」。そうしたぶれが生み出す、見ようによってはいくつもの縦軸と横軸のある物語の中を、「夜のみだらな鳥」、例えるなら欲望が生み出す妄想のようなものが、自在に飛び交っているように思える。そしてその鳥の描き出す軌跡が、物語を曖昧で複雑な文脈へと、つまり迷宮へと導く。
 読みながら、語り口や時間軸の移動の仕方はスティーヴ・エリクソンの初期作を思い出させたが、全体の構造としては、夢野久作の「ドグラ・マグラ」を連想させた。しかし、同じように閉じられた時間の中で反復される悪夢としての物語でありながら、「ドグラ・マグラ」は、物語の最後で主人公が「これは胎児の夢なのだ」と考えるが、そうした円環構造を持つ閉じた悪夢の物語として理解し得ることに対して、この「夜のみだらな鳥」という物語は、体中の穴という穴を縫い塞がれてしまったインブンチェという怪物と(精神的に、物語の最後ではある意味では肉体的にも)一体化してしまった、作家でもあるウンベルト ペニャローサの妄想、何度も形を変えて繰り返される自家中毒的に反芻される悪夢の物語とも読める。そうでなければ、物語の最後で袋の中に閉じ込められたムディートを含め、インブチェのイメージが何度も繰り返される理由がうまく説明できないのではないかと思う。「ドグラ・マグラ」と大きく違うところは、こちらの方が能動的・有機的であるという点である。
 と、多少無茶かもしれないとは思うが、「ドグラ・マグラ」と「夜のみだらな鳥」を比較して、物語の構造についてちょっとした分析をしてみたけれど、この物語の本当の楽しみ方は、そうしたところよりも、魔術的な語りの心地よさや、猥雑なエピソードの氾濫を楽しむことにあるのだと思う。特に、奇形の〈ボーイ〉が自らを奇形だと感じることのないようにと、様々な奇形の人物ばかりを集めて作り上げたまるでテーマパークのような場所「リコンナーダ」の様子、特に臓器製造所と化したウンベルトのエピソードや、修道院での「おかあさんごっこ」のエピソードなどは強烈で、夢に出てきそうである。また、修道院での賭けドッグレースのエピソード、老婆たちが追い剥ぎに変わってゆくエピソードなども印象に強く残る。
 あとひとつ気になったのは、要所要所で出てくる「黄色い牝犬」。これが何を象徴しているのか、いまひとつ汲み取れなかった。「黒い犬」といえば、黒い犬の姿をした不吉な妖精を指すことがあると同時に、うつ病の象徴だったりするが、黄色い犬も、例えば差別の象徴とか、何かを象徴していたりするのだろうか。気になったのは途中からなので、再読すれば分かるような気もするのだけれど……。



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ダフネ・デュ・モーリア「人形」(務台夏子訳/創元推理文庫)読了。

 全14篇収録の初期短編集で、近年発見されたという表題作などはデビューの三年前、著者が21歳の時の作品だというから恐れ入る。デュ・モーリア版「ひとでなしの恋」ともいうべきこの作品の完成度が恐ろしく高い。乱歩の作品では、男性が少女の人形に恋する物語だったが、こちらはその逆で、女性が少年の人形に恋している物語。乱歩の作品よりも、かなり現代的でもある。しかもこの作品にはもうひとつ特筆すべき点があって、なんと主人公の女性の名前がレベッカというのである。もちろんあの名作長編「レベッカ」との直接の関連性があるわけではないだろうが、著者の頭の中には、ごく初期からレベッカという名前が存在していたという事実は、無視できる事実ではない。
 「レベッカ」といえば、「幸福の谷」という短編も、レベッカへと繋がる作品ではないかと解説にある。確かに物語のトーンが似ている。「レベッカ」に組み込まれたと言われても、納得する短編である。ぼくがこの短編集の中でいちばん好きなのが、ややゴシックの香りが漂うこの幻想小説。
 乱歩の名前がでたからというわけではないが、冒頭の「東風」は小さな島を舞台にした物語りで、長年に渡って孤立している小さな共同体の常として近親婚などが進み、独自の文化を持つようになっているところに、台風を避けた外国からの船がやってきたことで島の人々に小さな波乱を起こす、といったもの。横溝正史の小説に出てきそうなシチュエーションであるが、閉鎖的な世界の外に憧れる女性の心情を描き、ちょっと忘れがたい印象を残す。
 他の作品も、若書きだから今ひとつなのではという危惧は無用の作品が並ぶ。「ピカデリー」と「メイジー」は娼婦を描いた小説。「いざ、父鳴る神に」と「天使ら、大天使らとともに」は共通した主人公の連作で、自分のことをなかなかイケてる男だと思っている、権力に阿り弱者の痛みなど口先だけで全く理解しようともしない、かなり最低でスノッブな牧師の物語。「性格の不一致」は、ちょっと思い当たるところがあるなあと感じる男性も多いのではないかという、男の身勝手さについての物語。「満たされぬ欲求」は生活力がまるでない男の物語で、オチがなかなか洒落がきいてて面白い。「痛みはいつか消える」は浮気をされた女性の物語。「ウィークエンド」は、最初は女性にいい顔をして格好をつけてみせるが、自分の思い通りにならないとそれをすべて相手のせいにしてキレる男の物語。「そして手紙は冷たくなった」は、書簡のみで構成されている小説だが、女性に対して非常に熱烈な感情を抱いているところから、相手をうとましく感じるようになってゆく様子を描いている。などなど、全体的にクズ男を書いた作品が多いが、というより男の身勝手さを描いた作品が多いというべきか、なかなか辛辣である。やや毛色の違うクズ男作品としては、「飼い猫」は、中年の男と子持ちの女性の恋愛の物語なのだが、男は密かにその娘の方を狙っているという小説で、これもなかなか嫌な感じである。
 また、この本の末尾を飾る「笠貝」はこの本の中でも最も印象的な作品のひとつで、身勝手の塊ともいうべき女性の独白である。登場人物たちはみな、この女性に関わることで、ひどい被害を被るが、語り手の女性はただひたすら自分が被害者であると語り続ける。解説にもあるが、ちょっと関わりたくないタイプである。
 という感じでデュ・モーリアは、この初期作品集の中で人の嫌な部分を、多くはちょっとしたユーモアとともに、描き出す。こうした人を観察する目の確かさが、後の傑作群につながってゆくのだなと、改めて感じる短編集だった。


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