漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



「ぼくのメジャースプーン」 辻村深月著 講談社刊

を読む。

 「名前探しの放課後」を読んで、とても面白かったのだが、最後に釈然としない部分があった。その後、「名前探しの放課後」は、その前作であるこの作品とリンクされており、最後の部分の意味はこの作品を読むことで分かるらしいと知り、さっそく読んでみることにした。
 「ぼくのメジャースプーン」のストーリーそのものは、比較的単純なものだ。
 主人公であり語り手の「ぼく」は小学四年生。彼には、遺伝的な「条件提示ゲーム」という超能力がある。それは、「〇〇しなさい、さもなければ××になる」という言葉を真剣に語りかけることで、相手がどちらかを選ばなければならなくなるという縛りを与えるというもの。ある時、彼の通っている学校で飼っていたウサギたちが惨殺される事件が起きる。その第一発見者は、「ぼく」が好きな「ふみちゃん」。彼女は犯人とすれ違い、「君みたいな冴えない子が第一発見者になるのか」という言葉まで投げつけられる。ふみちゃんは惨殺されたウサギたちを見て、ショックを受け、自分の殻に閉じこもり、抜け殻のようになってしまう。犯人はすぐに特定されるが、罪名は「器物損壊」ということで、執行猶予のついた罰金刑だった。「ぼく」はふみちゃんを壊した犯人に復讐しようと、自らの力を使って、犯人と面会する機会を作る。そこで彼は犯人に対してどのような「条件」を提示するのか、というもの。
 多少水増しされてる小説という印象は受けるものの、テーマは重く、ぐいぐい読ませる。面白い小説だった。読みながら、なるほど、ここに出てきた登場人物たちがそのまま「名前探しの放課後」に出てくるのだと分かった。「ぼく」は秀人だし、ふみちゃんは椿さん、トモは友春、タカシは天木だ。他にも何人か、それらしい人物がいる。自動的に、「名前探しの放課後」の「いつか」は、タイムスリップをしたのではなく、秀人の超能力によって「条件提示ゲーム」に参加させられたのだということも想像がつく。それで、秀人の最後のあの言葉だったのだ。
 種明かしは分かったが、疑問は残る。それでもあすなの祖父は実際に生死をさまよったのだし、日付も合っている。看板も、おそらくは何の働きかけもしなければ、撤去されていた。例え「いつか」の記憶が秀人の「条件提示ゲーム」による幻視だったにせよ、偶然にしてはできすぎているように思えるのは否定しがたい。もちろん、本当にすべてが偶然である可能性はあるのだが、しかし、本当にそれだけなのか。あすなの祖父の想いによるタイムスリップという仮説は、死んでしばらくしてから発動させなければならないものなので、さすがに考え難いから違うと思うし、そもそもタイムスリップ自体が起きたのかどうかはわからないが、少なくとも、僕には「いつか」に未来は確かに見えたのだという気がしてならない。つまり、いつかにはちょっとした予知能力のようなものが潜在的にあったのではないか、それが秀人の能力によって、強制的に発動されてしまったのではないか、という考え方もできるのではないかということだ(名前も「いつか」だし)。未来予知ならば、虫の知らせという言葉もあるくらいなのだから、ミステリーで使う上で、タイムスリップよりはいくらか敷居が低そうな気が、ちょっとはしないでもない(苦笑)。因果律にも、さほど縛られずにすむし。いつかは、秀人の言う「三ヶ月後に本当に気になっている女の子が死ぬと仮定して」という「条件提示」の言葉に、実際に三ヶ月後に起こる出来事を予知してしまい、そこからあすなの事をはっきりと意識するようになった。最初からあすなのことを強く意識していたというわけではなく。思いつきのような仮説だが、そもそも秀人の超能力は認めているのだから、他の超能力を完全否定しなければならない理由はないではないか。そしてその既定の未来は、秀人の「条件提示ゲーム」による「AをしなければBになる、逆に言えば、AをすればBは回避できる」という「縛り」によって、変わる可能性を得たのだ、とも考えられる。まあ、これは一つの想像なので、作者が実際にどう考えているのかは、分からないけれども。




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「名前探しの放課後」(上下) 辻村深月著 講談社刊

を読む。

 主人公の「いつか」は、ジャスコの屋上で友人の秀人と話をしている最中に、突然妙な感覚の襲われる。それは、今から三ヶ月後の未来に、自分のクラスの誰かが自殺するという記憶を自分が持っているという自覚だった。だがそれが誰なのかは分からない。彼は自分が、未来からタイムスリップしてきたのではないかと疑う。いつかは、そのタイムスリップは、その自殺を食い止めたいという気持ちがもたらしたものだと考える。それを何としてでも阻止したいと思う。そして秀人をはじめとする友人たちに相談を持ちかける。果たして未来を変えて、自殺を阻止することはできるのか……というのがストーリー。
 とても面白くて、一気に読んだ。昔なつかしいSFジュブナイル小説の、ライトノベルとは違うベクトルへの発展進化形という感じも少しする。これだけ爽やかな後味の青春ストーリーで、かつ軽すぎるようには感じない、感動的で巧みな小説というのは、ありそうで意外と少ないのではないか。ぼくはとても気に入った。
 中盤で自殺者候補が確定するが、おそらくは最後にどんでん返しがくるのだろうというのは想像できていた。だがまさかそういうことだったとは、思い至らなかった。余りにも見事な青春小説が展開されるから、そんな邪推のようなものは頭から飛んでしまっていたのだ。だが全てが明らかになった後、改めて振り返って考えてみれば、確かに伏線がたくさん貼られている。伏線だらけといっていいくらいだ。ただそのどんでん返しは、意外ではあったが、それ以上に爽快なスピード感に満ちていて、とてもいい。まさにすべてのピースが収まるところに収まった、大団円である。少しばかり都合よく出来すぎているにせよ、演技がアカデミー賞クラスであるにせよ、そこは素直に楽しみたいと思う。
 ただひとつ、少しわからなかったのは、最後で秀人がつぶやく言葉。実は秀人がキーマンであったらしいということはわかるが、いったいどういう意味なのかは判然としない。最後になって、秀人の恋人である椿のフルネームとメジャースプーンのキーホルダーがズームアップされるが、きっと何らかのメッセージであろうというのは想像できるものの、なぜだかはわからないままだ。秀人と椿は、いつかのタイムスリップに絡んだ、何らかの特殊な能力があるもの同士、という意味なのだろうか。
 ……そう思っていたら、どうやらこの小説は、他の小説とリンクしているらしい。「ぼくのメジャースプーン」という作品を読めば、そのあたりの意味が分かるようだ。読んでみよう。


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「完全なる首長竜の日」 乾緑郎著 宝島社刊

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 「このミステリーがすごい大賞」受賞作品ということだが、一言で言ってしまえば、現実であると信じている世界が実はそうではないと分かるという、「ディック的悪夢世界」そのままの作品。まさかそんなオチじゃないだろうなと思いながら読んで、やっぱりそうだったので、やや興ざめだった。ディックを知らない人が読めば、物語の展開自体は悪くないし、手馴れている感じがするので、面白いと感じるのかもしれないけれども、それだけに、それなりの数の本を読んでいるSFファンなら大抵白けるんじゃないかと思う。もうひとひねりあればよかったのに、という感じ。純粋なSF作品ではないので、そこを要求するべきではないのかもしれないけれども。
 



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 ネットを見ていて、神戸市元町にある老舗の書店「海文堂書店」が、今月で閉店するということを知った。
 今年の夏、神戸に行った折に海文堂に寄ったのだが、その時には閉店するということは告知されていなかったように思った。海文堂の有名な洒落たブックカバーが欲しいと思い、何か本を買おうと思ったのだが、たまたま読みたい本が見つからず、荷物もあるしまあ今度でいいかと何も買わずに出てしまったことが、今更ながら悔やまれる。海文堂は、あって当たり前の書店だったし、まさか閉店するとは夢にも思わなかった。
 とはいえ、全く予感がしなかったわけではない。実家が神戸にはなくなってしまったので、この数年はなかなか神戸に行く機会がないのだが、それでも育った町である神戸が懐かしく、数年に一度くらいは足を伸ばす。だが行く度に、神戸から元町に至る元町商店街が寂れていっているように思えて、気になっていた。記憶の中にある神戸の町は、もっと賑やかで、元気があったように思う。今からもう二十五年以上も前のことだが、僕の頭の中の神戸は、いまだにまだその当時の活気を持って浮かび上がってくる。だからこそ、現在の寂れつつある街とのギャップに混乱する。震災以降、神戸はいまだに復興を見ていないのだ。
 海文堂書店は、元町商店街にあって、モダンな神戸を代表するような書店だった。三ノ宮のジュンク堂のような広さはないが、ジュンク堂にすら在庫していないような癖のある本を多数取り揃えていたし、かつては二階にギャラリーなどもあって、昨日今日ではない、洒落た雰囲気を漂わせていたものだ。海関連の書籍の充実度には定評があったし、海図などのグッズも取り扱っていた。一階には岩波などの絶版文庫の棚があったこともある。サンリオ文庫も、サンリオが出版から撤退した後も長い間書棚に並んでいた。最後の駆け込み購入のつもりで、僕も結構な冊数を買ったことを覚えている(今でも読まないままで書架に眠っていたりする)。もっとも、高校生だったので、あるだけまとめて大人買いというわけにはゆかず、立ち寄るたびに数冊といった程度だったけれども。
 創業百年を目前にした、九十九年目での閉店である。あまり売れない本でも、置く価値があると判断した本は、返品せずに売れるまで店頭に並ばせ続けていたように思う。マンガや絵本は、数は多くはなかったが、良いものが揃っていたと思い出す。書店としての良心を持った海文堂にはファンが多かったから、惜しむ声は多いはず。僕も、とても淋しい。
 海文堂書店さま。お世話になりました。遠く東京からではありますが、別れを惜しませてください。
 ありがとうございました。

 今日は、中秋の名月。満月です。

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