漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 

  


 自動車に乗り込み、エンジンを掛けようとするのだが、掛からない。掛からないばかりか、クスンとも言わない。訳が分からず、何度もキーを捻る。だが無駄である。何の手ごたえもない。しばらく呆けてみるが、何も起こるはずもない。車から出て、無駄だろうと思いながらもボンネットを開けてみる。
 するといきなりボンネットを跳ね上げるようにして、何か黄色いものが、ポンっとボンネットの中で立ち上がった。勢い付いたボンネットが鼻先をかすめ、驚いたが、落ち着いたところでよく見るとそれは立派なヒマワリである。ボンネットの中で、ヒマワリが生育していたのだ。驚きながらも、そっと覗き込むと、ボンネットの中には一面に草が生い茂っている。あれほどぎっしりとあった機械類は、すっかりと草の中に埋もれてしまっている。まるでボンネットの中を使って前衛的な生け花でもしたみたいだった。
 伸び上がったヒマワリは、幸せそうに太陽の方に向かって頭を上げた。茎も葉も立派である。困惑を忘れてしばらく感心するが、そうもしていられないとすぐに我に返り、ヒマワリと草を引っこ抜こうとした。だが、ちょっと草やヒマワリを引っ張るだけで、切なそうにクラクションが鳴る。どうしてクラクションのくせにこんなに切なそうな音が出るんだと思うくらいに、哀切に満ちた音である。その音に、通りすがりの人々は皆顔をしかめてこちらを見る。その目は、非難するような目である。すると、力が入らなくなる。自分が、酷いことをしているような気分になる。それで、困り果てる。
 困り果てていると、すぐに脇の道を、ボンネットからアサガオの花を咲かせた車が通り過ぎてゆくのを目にする。呆然となるが、はたと思い至る。もしかしたらこれは、ソーラーシステムというものなのではないか、と。私は車に乗り込み、キーを回す。
 果たして車は動き出す。ヒマワリの咲いた車だが、軽やかである。さすがにソーラーシステムだと感心する。ちょっとヒマワリのせいで視界は悪いが、これで燃料もいらないし、有難い。
 それでもちょっとだけ心配なこともあって、夜になったらきっと車は走らなくなるのだろうし、冬になってヒマワリが枯れてしまうと、やはり走らなくなるのだろう、と思う。やはりこれはこれでいろいろと工夫は必要なのだろう。冬でも元気な草木とか、色々と調べなければいけないなと思いながら、とりあえずは仕事に急ぐことにした。

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告白  



「告白」 町田康著
中央公論新社刊

を読む。

 河内長野あたりでは、本当に有名な河内十人斬りの話を、町田康氏が小説化したもの。谷崎潤一郎賞を受賞している。
 テーマは町田作品に一貫して流れているものだが、この作品はそこから一歩踏み込んで、当地では知らぬ人のいないような題材を取り上げ、「あかんやないか」の言葉の下に、何ともどうしようもなく情けなくて、それゆえに普遍的な世界に昇華している。骨格が史実であるだけに、「パンク侍」のようにどこへ行くのか分からないという不安定さはなく、しっかりとした物語性も持っている。

 写真は、ニッポンウミシダ。
 一見海草のようにも見えるが、れっきとした動物で、何と、ひらひらと泳ぐこともある。

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 今日は夕方から、「日本ジュール・ヴェルヌ研究会」の新島さん、synaさんと、会誌の委託のために中野の「タコシェ」に行った。その後で、西荻窪の古書店「音羽館」へ。飛び込みで、会誌を置かせて頂けないかとお願いしたところ、快くOKを頂いた。創刊号、第二号とも、五冊ずつを納本させていただいた。とても有難かった。
 本を置かせて頂けたから言う訳ではないが、この「音羽館」は、本当に良心的な、まっとうな感じのする古書店で、いつ行っても何かしら欲しい本がある。以前、ブローティガンの「ハンバーガー殺人事件」を見つけたのもこの店だ。値段も良心的だし、本の状態もよく、見やすい。店外の均一棚も、ちょっと驚くような本が並んでいる。駅からは少しだけ歩くが、その価値はある書店なので、興味のある方は足を運んでみるといいと思う。
 その後、駅前の西荻名物「戎」でちょっとだけ焼き鳥をつまみ、ビールを飲んで、帰ってきた。暑い一日だったから、ビールが美味しかった。

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「木曜日だった男」 G.K.チェスタトン著 南條 竹則訳
古典新訳文庫 光文社刊

を読む。

 ずっと昔に一度創元推理文庫版で読んだ記憶があるのだが、最後がどうだったのかをどうしても思い出せず、新訳で読んでみた。
 途中までは、ブラウン神父張りの本当に面白いミステリーだが、最後で全く別の次元に話が持ってゆかれてしまう。このあたりで読者を選びそうだ。最後がどうなったのかを覚えていなかったのも、なんだかよくわからなかったせいなのだろう。今読んでも、まあ分かるけれども、分からないともいえるという、そんな感じである。神秘学的な方面からとか、メタフィクション的な方面からとか、いくらでも深読みができそうだ。


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真鶴  



今日は真鶴へ。
今年初。

写真は、ミヤコウミウシ。
浅瀬に持ってきて撮影したけれども、
適当にやったので、失敗して、全部入らなかった。

帰りには、ちょっと大磯へ寄って散歩。

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井の頭公園のジブリ美術館近くにあるローソンは、「崖の上のポニョ」一色になっていました。
エンドレスで主題歌が流れていました。
かわいい歌だけれど、本当に頭のなかをぐるぐると回りますね。

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「太陽の塔」 森見登美彦著 新潮社刊

を読む。

 物語はいまひとつだったけれども、19歳の時一年間京都に住んでいたので、いろいろと思い当たることが多くて、ちょっと懐かしかった。
 万博公園の太陽の塔も、長く見ていない。久々にちょっと見たいなという気分になった。

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 まだ買っていないけれど、河出文庫からマイケル・コーニィの「ハローサマー、グッドバイ」が刊行された。これはかつてサンリオSF文庫から出ていた本の、新訳である。知る人ぞ知る、というタイプの作品で、長く入手困難だったため、喜んでいる人が多いのではないかと思う。
 そういえば、最近アンナ・カヴァンの「氷」も改訳の上で復刊されたし、ピーター・ディキンスンの「キングとジョーカー」も復刊された。ちょっとしたサンリオ文庫リバイバルの様相でもある。
 これで、サンリオ文庫のめぼしい作品の大半は復刊されたようにも思う。もちろん、復刊はされたものの、既にそれさえ入手困難になっているものも多々あるが。
 あと残された、「なかなか復刊の機会はなさそうだが、それでも復刊すべき作品」といえば、個人的には

 「去りにし日々、いまひとたびの幻」 ボブ・ショウ
 「ジュリアとバズーカ」 アンナ・カヴァン
 「歌の翼に」 トマス・M・ディッシュ
 「サンティエゴ・ライトフット・スー」 トム・リーミィ

 の4冊かなと思う。
 「生ける屍」、「爆発した切符」、「猫城記」、「熱い太陽・深海魚」なども人気があるが、それらは純然たるコレクターズアイテムだし(「猫城記」は、翻訳があったかもしれない)、オブライエンの「失われた部屋」は、他の短編集などでも収録作の大半が読めるからである。

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 今日の帰りに、書店で絵本を見つけた。

「まっくら、奇妙にしずか」

アイナール・トゥルコウスキィ著 鈴木 仁子訳
河出書房新社刊

という本である。
ブラティスラヴァ世界絵本原画展2007年グランプリ受賞作ということだ。

 この本は、ちょっと前に聞いたことがあったが、実物を目にしたのは初めて。
 不思議な、モノクロの絵である。ちょっと、かつての佐々木マキなどを思わせるものもあるが、それよりもずっと繊細な細密画である。
 驚くことに、この絵本の絵は全て、たった一本のシャープペンシルで描かれたものだという。正確には、たった一本のシャープペンシルと400本の芯と、である。

 画材としてのシャープペンシル、というところに、僕はとても共感したのだが、それというのも、自分もかつては画材としてシャープペンシルを好んで使っていたからだ。
 普通なら、シャーペンというのは画材とは見なされない。線に強弱をつけるのが難しいからだ。だが裏を返せば、そのフラットな、均一な細い線ならではの絵というものも、あるのではないか。それでなければならない絵というものもあるのではないか。僕はずっとそう思っていて、だから好んでシャーペンを使っていた。シャープペンシルで描くと、線そのものからは謎や味わいは生まれないが、完成された作品は、一種独特の無機的な雰囲気を纏う気がする。
 それにしても、この絵本の絵は驚異的だ。すべてたった一本のシャーペンで描いたというからには、墨調子のところもすべてということだろう。気が遠くなる作業には違いない。

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秋川  



 今日は海へゆくつもりだったのだけれど、朝から頭痛が酷く、諦めた。
 この頭痛というやつは、本当に厄介だ。僕の場合、緊張型頭痛が偏頭痛を誘発するようで、相当な苦痛である。気をつけているつもりだが、つい根をつめてしまいがちな性格なので、時々悪化してしまう。
 10時過ぎになって、いろいろと頭痛の治療をやったのが功を奏したのか、普段は手の施しようのない頭痛がややマシになったので、天気も良いし、やはりちょっと出かけようと思い、海とは逆の、山へ向かう。さすがにこの時間から海までは行く余裕がない。
 山に行こうと思ったのは、ふと「武蔵五日市」という駅には行ったことがない、と思ったからである。秋川渓谷は、そこからさらにバスでゆくのだが、そちらの方は随分以前キャンプに行ったことがある。だが、そのときは車だったから、駅の周辺は分からない。覚えていない。地図を見ると、駅のすぐ近くに川が流れているようだから、ちょっと青梅みたいな感じなのかと思い、行ってみることにした。
 だが、実際は青梅とは随分と違う。駅は大きいのだが、周辺にはほとんど何もない。川は確かに近いのだが、バーベキュー場になっていて、騒がしい。やはり秋川は、渓谷の方まで行かなければゆっくりとできないようだ。
 それでも、仕方ないので、少し上流のほうまで歩き、ちょっと川で泳いだりして涼んだ。
 川辺の岩には、蜉蝣のヤゴの抜け殻だと思うが、たくさん張り付いていた。

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 まだ、本当に幼い頃の話だ。
 夏の夜だった。寝苦しさに、真夜中にふと目を覚ました。喉が渇いて、母に水を汲んできてもらおうと思ったが、見渡しても母の姿はない。まだ起きていて、隣の部屋にでもいるのかとも思ったが、その気配もない。その頃住んでいた家は、古い日本家屋で、部屋はすべて襖一枚で隔てられていたし、天井近くには複雑な飾り彫りのある欄干があって、光や空気が自由に行き来する。そこに光がないのだから、誰も隣で起きているとは思えなかった。
 タオルケットを跳ね除けて、ふと気づくと、枕もとの掃き出し窓の網戸から、明るい光が差し込んでいた。身体を起こして、窓に擦り寄って見上げると、空に煌々とした月がある。思わず網戸を開けて、外へ出た。すると、いつの間にか目を覚ました弟と妹が後に続いてきた。それから、一体どのくらいの時間だろうか、僕たちは三人で夜の月明かりの下で遊んでいた。やがて両親が帰ってきて、酷く叱られ、眠りについた。
 あの夜のことは、今でもよく思い出す。そして思う。あのたった一夜の経験がなかったら、今とは違う自分がいたのかもしれない。
 記憶とは、そうした「瞬間の断片」が集まった、モザイクのようなものだと思うことがある。その断片は、もちろんそれが独立して刻まれたものではなく、その前後の様々なことが結晶化した瞬間を捕らえたものであるが、それゆえに一つの啓示として深く心に刻まれる。そして記憶の断片で構成されたモザイクは、長じた後に新たに入ってくる情報の照射に様々な表情を見せ、人の心の動きを支配するのではないだろうか。

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「ノルンの永い夢」 平谷美樹著
ハヤカワJコレクション 早川書房刊

を読む。

 文系の人間が書いたハードSFといった感じ。小松左京の「果てしなき流れの果てに」あたりにオマージュを捧げているような印象の作品だけれども、どうにも薄くて、今ひとつだった。なので、途中からはやや斜め読み。展開も、予想の範囲を超えなかった。

 写真は、先日閉店した道頓堀の「くいだおれ」。
 人形ばかりが有名で、店に入って食事をする人は少なかったようだが、閉店間近になって、相当繁盛したようだ。
 「くいだおれ太郎」は、これからも当分忙しそうだが、あの場所からはいなくなってしまうのが、ちょっと寂しい気もする。

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「テスラ―闇の科学者」 タッド・ワイズ著
岡山徹訳 大栄出版刊

を読む。

 「マッド・サイエンティスト」という呼称が最もふさわしい発明家、ニコラ・テスラの伝記小説。現在ではトーマス・エジソンの最大のライバルとして、またオカルトの文脈でよく引用される「テスラ・コイル」の発明者として、知られている。エジソンの直流に対して、交流の効率を説いたのもテスラである。
 テスラが奇異な人物だということは知っていたが、この小説を読んで、さらに興味が深くなる。オカルトやカルトの人々に人気のある人物だが、さもありなんという感じである。それほど興味深い人物なのだ。だが、多分に虚像ばかりが偉人伝として伝えられている鼻持ちならないエジソンなんかより、ずっと真摯な科学者であり、才人であったことは間違いないと思われる。きちんとした研究の場が与えられていたら、どれほど多くの発明を残したかわからないと思わせるものがあるだけに、全力で彼を潰しにかかったエジソンをはじめとする当時の財界人の罪は重いのではないか。そんな気がしてくる。
 テスラという人物については、ずっと昔から名前だけはよく知っていたが、人物として興味を持ったのは、実は15年ほど前に、ポール・オースター「ムーンパレス」を読んでからだ。この小説の中に、セントラルパークで鳩だけを友達にしている年老いたテスラの姿が出てくる。190センチ以上の長身のハンサムな青年であり、また才能ある科学者でもある彼は、世紀末のロンドンに新世紀への道しるべとして颯爽と登場する。だが、陰謀や悪運、そして自らの奇癖のために次第に世間から相手にされなくなり、晩年はニューヨークの安ホテルの一室で誰にも見取られずに客死したのだが、その晩年のエピソードにいろいろと感じるものがあったのだ。
 テスラは、最近では「プレステージ」というタイトルで映画化もされたプリーストの「奇術師」にも出てくる。小説を読んでいると、テスラとウェルズにも接点があったようだし、フーディニにも接点があったようだ。このあたり、もう少し調べてみると面白そうな気がする。

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先日、諸磯に行った時にいた猫。


漁港に猫は似合いますね。

ニ、三日前からちょっと変だと思っていたけれど、やっぱりどうも風邪をひいたようで、胃と喉の調子が悪く、ちょっとだけ熱っぽい。症状はたいしたことはないけれども。それで、本当なら今日も海へ行きたかったのだが、諦めた。やらなければと思いつつ放っていた庭の木を、せっせと刈り込んだりして、一日過ごした。


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百年  



 今日は『Jules Verne Page』のsynaさんと、吉祥寺の古書店『百年』へ。東急百貨店そばのビルの二階にある、セレクトショップ的な古書店である。ここでは、ふた月に一度、「一晩スナック」と題して、夜にスナックになる。今日はその日だったのだ。
 帰り際、店主さんに、「ここではミニコミを置かせていただけないか」と聞いてみた。「一度持ってきてください」との答え。今日は、うっかり持ってゆくのを忘れたのだ。明日にでも持って行ってみよう。よい答えだといいのだけれど。

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