漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




「完訳ロビンソン・クルーソ」 ダニエル・デフォー著 
 増田義郎訳 中央公論新社刊

を読む。

 娘が最近スピッツが気に入っていて、よくCDを聞いている。そのせいか、この前、図書館から岩波少年文庫版「ロビンソン・クルーソー」を借りてきていた。それで、ふと思ったのは、そういえば僕は「ロビンソン・クルーソー」を完訳版で読んでいない、ということだった。僕が読んだことのあるのは、子供向きのダイジェスト版だけだ。大体の内容は知っていたから、これまで改めて読もうとは思わなかったのである。娘の借りてきた本を後で読もうかとも思ったのだが、どうせなら完訳を謳っているものをと思い、図書館から借りてきたのかこの本。
 さすがに今読んでも楽しめる作品で、人気を博したのがわかる。ロビンソンが、こんなにソロバンを弾くことの得意な人だったということが意外だった。常に収支計算をしているのである。冒険家というよりも、エコノミストである。そのあたりも、人気となった秘密だろうか。また、ロビンソンがフライデーに対してプロテスタントの布教をしたり、改めて聖書に感銘を受けたりするあたりは、未開の土地へ宣教師を向かわせた原動力の一端を担ったのかもしれないとも考えたりする。
 ところで、この本は「完訳」ということだが、本当は、「ロビンソン・クルーソー」には、第二部と第三部があるらしい。ただし、今ではほとんど読まれることもないため、一般に「ロビンソン・クルーソー」といえば、この「第一部」のみを指すらしい。これも、知らなかったことだ。

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 今日は雨。
 昨日の夜、久々にサイトの方に手を入れようと思い立った。具体的には、ギャラリーのページにあるうっとおしいフレームを取っ払ってしまいたい、というのが目的だった。ついでに、いくつかここで公開した新しい絵も追加して。
 で、突貫工事で少し作って、サーバにアップしようとしたのだが、
 あれ?アップできないデータがある?
 何度やっても、やっぱり無理。おかしいな、久々だから、何か間違ったことをやっているのかな、と思ったが、わからない。少し考えて、あ、と思い至った。調べてみると、やっぱり、全部のデータを合わせると5MBを超えている。確か、僕のホームページの初期容量が、5MBだったはずだ。調べてみると、やっぱりそうだった。忘れてた。
 そうだ、だからサイトを二つのサービスに分けたんだった。そっちが、確か50MB。でも、たった5MB。このブログが3Gだから、何という差だろう。
 今更ながら、びっくりだ。
 いくらなんでも今時5MBということはないだろうと思い、調べてみると、いつからかは知らないけれど、100MBまでは無料で容量を増やせるようになっていた。で、早速増やす。手続きは、あっというまに終了。それでも、100MBだけだ。もっとも、使い切ることもなさそうだけれど。
 容量を増やしたら、難なくデータを転送できた。で、今日は残りの更新を突貫工事で作った。まだまだ手を入れる必要もありそうだが、とりあえず形だけは完成。全く芸のないデザインだが、とりあえずサイトが随分とすっきりした。

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 仕事の帰りに、高円寺で下車して、「ギャルリー・ジュイエ」で開催中の「少年展―ノスタルジック・サーカス」を見に行く。ウェブサイト「New Atlantis」の由里葉さんが参加されているためだ。
 会場には、由里葉さんはいなかったけれども、「スパン社」さんがいらして、多少話を伺う。今回のコンセプトは、サーカスと少年ということだが、加えて、それぞれ黒い額を使用するという約束があったということ。展示は、オブジェから絵画まで様々だったが、どれもどこか天上的で儚げだという点で共通したものがあったように思った。展覧会は27日までなので、興味のある方はぜひ。
 ところで、この上の写真は展覧会とは全く関係がなく、さっき僕が適当に作ったもの。展覧会はもっと素敵です。念のため。

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「大いなる遺産」(上・下) チャールズ・ディケンズ著 山西英一訳
新潮文庫 新潮社

読了。
 とても面白かった。今年に入って読んだ中では、もしかしたら一番面白かったかもしれない。

 恥ずかしながら、ディケンズの長編を読むのは実はこれが初めて。僕はこれまで古典をあまり読まずに来ているので、ディケンズも僕の読書体験からはずっと漏れてきていたのだが、先日ヴェルヌ研究会の会誌販売の会場で、ishibashiさんと話をしていた際、ディケンズの名前が出たので、ちょっと読んでみようと思ったのだ。
 とはいえ、ディケンズの代表作ともなると、大体のあらすじなら、何となく知っている気でいた。遺産の相続の話が降って湧いたことから、様々なドタバタがあって、結局はそれが幻滅に終わる。つまりそういう話だという、おおまかなストーリーを、である。実際それはそうだったのだが、だからと言って物語を読む愉しみを減じるということはなかった。そうした大筋を超えたところにこの作品の魅力があるからである。
 上巻を読んでいるときには、実はそれほどの感銘は受けなかった。語りが上手いとは思ったが、訳文がやや古く感じたし、登場人物も、それぞれ魅力的ではあったが、どこか明確な姿を持ちかねているように思えた。主人公なんて、一番ムカつく登場人物だったりした。ところが、下巻に入ってしばらくすると、物語の裏側に流れていた部分が浮上してきて、登場人物たちもそれぞれが本来の姿を垣間見せ始め、しっかりとした輪郭を持つ存在感を得てくる。そこから先は、もう目が離せなくなった。もしかしたら行き当たりばったりなのかもしれないなと思える話の展開もあるが、それも気にならない。気がつくと主人公とともに人々と触れ合い、幾つものカタストロフを感じていた。そして最後の静かな余韻。思わず涙腺が緩むほど。名作である。
 ところで、この作品のタイトル「大いなる遺産」だが、このタイトルのせいで僕はずっとこの作品に魅力を感じないでいた。それで、今回読み終わったあと、原題を見ると、「Great Expectations」となっている。「expectation」は「遺産相続の見込み」という意味も持つが、本来の意味は「期待」や「見込み」で、それが複数形になっているから、「遺産相続」だけを指すのではなく、もっといろいろな意味も含まれていそうだ。つまり、「大きな期待」とか、「大きな希望」とか、「それぞれの思惑」とか、そういう意味も同時に込められていているのだろう。なぜなら、登場人物の大半が、何かしら自分の希望や期待にすがって生きていて、しかもことごとくそれらが叶わずに終わるからである。「何事も思うようにはならない世界」で、こうした儚い思惑から自由であったのは、ジョーやビディやハーバートらだけである。つまりこのタイトルは、かなり皮肉の利いたタイトルだということなのだろう。

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 ピーコック・ブルーという言葉を聞いて、すぐに色をイメージできる人が多いとは思わない。彼はピーコック・ブルーの六号チューブを手で弄びながら言う。ピーコックブルー。孔雀青。少し深緑がかった青。まるで時間に見捨てられた沼のような色だ。僕はこの色が好きだ。この色の持つ深さが好きだ。僕には、この色は宇宙のとても深い場所の色のように思える。
 学生の頃、皆と揃えた十二色の絵具の中には、もちろんこの色は入っていなかった。だが、美術部の友人は持っていた。初めてその友人がパネルに塗ったピーコック・ブルーの色彩を見たとき、僕はこの色が欲しくてたまらなくなったものだ。なぜなら、どうしても描き表すことの出来なかった宇宙の深い場所が、この絵具の色彩の中に見えたからだ。画材屋に行って、僕はピーコック・ブルーの六号チューブを手に入れた。初めて僕が単色で買った絵具は、このピーコック・ブルーだった。ピーコック・ブルーという色彩を、メインに使うことはそれほどない。だが、今でも僕にはとても大切な色だ。
 
 もう随分と前のことだが、とある埋立地で開催された大きな博覧会があった。博覧会は大盛況のうちに幕を閉じて、後にその跡地には商業施設が立ち並んだ。だが、部分的には取り残されたように保存された場所もあって、例えば当時のエントランスとなった場所であるとか、巨大な公園となった場所であるとか、そうした場所はそのままで残された。
 何年も経った。当初は綺麗だったそうした場所も、経年による劣化は避けようもない。いや、博覧会が終わった直後から、急速にそうした場所は死に絶えていたのだと思う。人もあまりやってこない、がらんとした石作りの広場。その存在自体が、生まれてさほど経たないうちに既に廃園だった。
 ある夏の夜のことだった。僕は一人でその取り残されたエントランスにいた。時間は午前零時を過ぎていた。どうしてそんな時間にそんな場所にいたのかといえば、その頃僕が陥っていた報われない恋愛のせいだったのだとだけ答えておきたい。
 真夏だったが、涼しい夜だった。海辺だから、風通しがよかったせいもあるのだろうし、その日は午前中まで激しく雨が降っていたせいもあるのだろう。だが、その時間にはもう空には一片の雲もなく、黒い夜空に星がちかちかと瞬いていた。
 遠くで、バイクの音が聞こえていた。まるで耳鳴りのように、ため息のように、遠く聞こえていた。彼らがこの場所にいないことが幸いだった。僕はそうした音を、空の星に重ねて聞くことが出来たのだから。
 エントランスはコロシアムのように数段の段差を持つ、浅い擂り鉢状になっていた。僕はその段差を作っているコンクリートに腰掛けて、手に持ったビールを飲んでいた。近くのホテルの部屋から、ずっと手に提げて来たビールだった。
 コンクリートは、冷たかった。僕はぼんやりと下を見詰めていた。
 エントランスの中心は、やや水はけが悪いようで、降り続いていた雨が水溜りになっていた。それほど綺麗な光景ではない。だが、僕はそこから目を離すことができずにいた。じっと見詰めていると、その水溜りが、辺りのぼんやりとした光を受けて、微かなピーコック・ブルーに染まって見えていたからだ。僕はその水溜りの中に、幾つもの空想の星を浮かべた。
 ところが、最初はただぼんやりと空想の星を浮かべていただけのつもりだったのだが、次第にその星たちの光が現実感を持ち始めた。そしてやがてそうした星々が、確かに小さなエントランスの水溜りの中に浮かんでいるように見えてきた。すると、浅いはずの水溜りが果てしなく深いものに思えてきた。どこまでも深く、そのまま時空を一ひねりして、宇宙につながっているように思えてきた。僕は目を凝らした。するとその散らばる星の中に、見慣れた北斗七星の形を確かに見た。僕は胸が苦しくなり、はっと空を見上げた。
 空には漆黒の宇宙が広がっていた。その黒さには澱みがない。そしてそこには沢山の星が散っている。僕は恐る恐る視線を下に遣った。エントランスには変わらずに水溜りがあって、微かにピーコック・ブルーの色彩を帯びていた。だがその水は澱んでいて、もはやひとつの星の光もなかった。


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「氷のスフィンクス」 ジュール・ヴェルヌ著 吉田幸男訳
ジュール・ヴェルヌ・コレクション 集英社文庫 集英社刊

読了。

 長く積んだままだった本だが、ようやく読んだ。
 ストーリーは、エドガー・アラン・ポーの長編「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」の続編という設定。ポーの作品を知らなくても読めるが、当然、元になった話を知っていたほうがより楽しめる。
 主人公たちがピムの冒険の足跡を辿って南極に向かうというのが物語の格子だが、同じく極点に向かう物語として、同じくヴェルヌの初期の作品「ハテラス船長」と対を成す作品とも言えるのかもしれない。「スフィンクス」のレン・ガイ船長が兄思いのフランス人で、極点の制覇には拘らず無事生還したのに対して、同じく北極に向かった「ハテラス」のイギリス人ハテラス船長は、もっぱら自らのためにひたすら極点に拘り続けた挙句、壮絶な最後を遂げる。そういった点でも、対を成しているように思える。
 この作品は、ヴェルヌの晩年の作品ということで、よく言えば集大成的だが、悪く言えばややワンパターンな話の運びになっている上、盛り上がるべき場所で盛り上がらないという致命的な欠点もあり、面白さという点では随分と不満が残ったが、はっとするのは、途中にいきなり挿入される著者による注釈の中で、ヴェルヌ作品最大のヒーローであるネモ船長に言及されていることである。つまりこの作品は、「海底二万哩」と同一の時間軸にある作品と位置づけられているのだ(この物語のずっと後に「海底二万哩」が来るようだ)。この一点で、「氷のスフィンクス」に価値を見出す人もいそうだ。

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 今日は吉祥寺から代々木公園まで、自転車でポタリングをした。ゆっくり行って、二時間程度。
 途中、代々木上原で不思議な建物を発見。何かと思ったが、イスラム教のモスクだった。とても綺麗な建物で、興味津々。後で調べたところ、これは「東京ジャーミイ」とも呼ばれる、トルコ風のモスク。ウェブサイトは↓。

「東京ジャーミイ」

 見学も出来るようで、うゎあ見たかったなあと、ちょっと悔しい。

 代々木公園では、ジャマイカ・フェスを開催していた。それを見たいと思っていたのだが、あまりの混雑に嫌になって、結局公園内でしばし憩って、帰ってきた。

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 初めてアイスグリーンを作った時のことは忘れられない。彼はコバルト・ティールの六号チューブを手にして言う。これよりもずっと淡いグリーンだね。でも、これも良い色だ。
 あれは幼稚園の頃だった。もう名前も忘れてしまった幼稚園の級友の一人が発見したんだ。十二色入りの水彩絵具を目の前にして、僕にこう言った。緑と白を混ぜると、とても綺麗な色になるよ、と。そのとき僕は何色もの色を混色していて、どんどんと汚い色になってゆくのを見ていた最中だった。その言葉に、僕は筆を洗い、パレットの新しい場所に緑と白を混ぜてみた。その途端、パレットの上には清々しい風が吹いた。本当に吹いたんだ。初夏の平原を渡る、涼しい風のようだった。アイスグリーンという色には、他の色にはない、特別な清涼感がある。
 
 ある時、古い町の古い路地を歩いていると、一軒の古道具屋を見つけた。その辺りは全体に下町といった感じの場所だったんだが、表通りから一歩路地に入ると、新しい住宅が立ち並ぶ通りに混じって、昔ながらの面影を相当色濃く残している場所もある。僕が歩いていたのも、そんな路地のひとつだった。
 古道具屋のショーウィンドゥは、光が揺れる波ガラスで、覗き込むと薄暗い店内には黄色い光がずっと奥の方に点っているだけだった。最初僕は、これはいわゆる「しもた屋」かなとも思ったんだが、それにしてはきちんと中に並ぶ骨董品が手入れされてあるように見えた。それで僕は思い切って古い扉に手をかけて、引いてみた。すると扉は、きちんと手入れされているようで、ほとんど音もなく開いた。
 店内には誰もいない。僕は古い骨董品を入り口の方から見ていった。大半は、どこかの研究室から運ばれてきたかのような、どこか薬品臭さのある品物ばかりだったが、中には楽器などもある。僕はそうした品物を見ながら奥へ進んだ。
 店の一番奥には、ぼんやりと点る裸電球の下に、一人の老人が古い長持ちに背中をもたせかけながら、座っていた。居て当然なのだが、店主の姿を見て僕は思わずはっとした。そして、こんにちは、と言った。店主はちらりとこちらを見て、どうもいらっしゃいませ、と言った。
 驚いたことに、店主は外国人のようだった。だが、言葉は滑らかな日本語で、もしかしたらハーフだったのかもしれない。だが、見たところはいかにもヨーロッパの方から来た外国人だった。
 何かお探しですか、と店主は言った。僕は、いえ、何か珍しいものがないかと思って覗いたんです、と答えた。本当はただの冷やかしだったのだが、そう言うのも躊躇われたのだ。
 珍しいものですか、と店主は言った。ひとつあります。
 どういうものでしょう。僕が言うと、店主は、どうぞこちらへ来てください、と答えた。僕は店主の言葉に頷いて、そちらへ行った。店主は立ち上がると、さらに奥にある古い冷蔵庫の前に歩いていった。僕もその後を追った。
 いいですか、長くは見せることが出来ません、と店主は言った。ちゃんと見てください。
 わかりました。僕は少し戸惑いながらそう答えた。なにしろ、特に何かを買うつもりもなかったのだから。それでも、こうした変わった機会を逃すのも惜しかった。
 店主はそっと冷凍庫を開いて、僕に中を指し示した。僕が覗き込むのを見ると、中からそっと小さな氷を取り出した。
 これです。店主は言った。滅多なことでは見ることが出来ない一品です。
 それは氷の塊だったが、不思議な緑色をしていた。透明な、アイスグリーンの氷だった。僕は覗き込んだ。すると、その氷の中には、一艘のスクーナー船が浮かんでいた。じっと見ていると、その緑色の色彩は揺れていて、その揺れに合わせて、スクーナー船も揺れているのだった。
 これは、実際の船です。そう店主は言った。船は、永遠の航海の最中です。ですが、この氷の中でのみ実在できる船なのです。従って、この氷が溶けてしまう時が、この船の航海が終わる時なのです。
 僕はじっとアイスグリーンの氷を見詰めた。幻想的な氷の小世界だった。だが、そうしてじっと見詰めている間にも、店主の手が、溶け始めた氷の水に濡れてゆくのだった。
 結局僕はその店では何も買わなかった。そして、それから一度もその店には行っていない。こうした話によくあるように、僕は二度とその店には辿り着けなかったからだ。今に至るまで、ずっと。




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 ツァーヴェは体を捻り、ベッドから這い出た。靴を履いて立ち上がったが、体が頼りない感じで、足元がやや覚束なかった。足が縺れないように気をつけながら歩き、ぐるりと視線を這わせた。明るい部屋の中には、母の姿はない。母のベッドは空だった。きっと隣にいるのだろうとツァーヴェは思った。それで部屋を横切って、隣に通じるドアを開いた。
 果たして母はそこにいた。居間のテーブルに突っ伏して、少し引きつったような奇妙な寝息を立てていた。テーブルの上には、ウォトカの壜とグラスがある。明らかに母は、ウォトカを飲みながら眠ってしまったのだ。ツァーヴェは母に声を掛けようとして、思い留まった。代わりに部屋を横切ってペチカへ向かった。部屋が少し冷えていて、肌寒く感じたのだ。ツァーヴェはペチカの小さな扉を開いて中を見た。火は完全に消えていた。ツァーヴェは中に薪を数本入れて、火を起こした。そしてまた扉を閉めた。
 そうしているうちに、母が目を覚ました。「ツァーヴェ?」と母が言った。
 「うん」母に背中を向けたまま、ツァーヴェは答えた。「おはよう」
 「おはよう。……ああ、すっかり眠ってしまっていたのね。ちょっと寒いわね。ああ、火を入れてくれたのね。ありがとう。今、何時なのかしら」
 時計を見ると、午前十時だった。明るい日とはいえ、冬には違いないから、どこか窓の外は白っぽくて、光の加減だけでは時間は分かり辛かった。そうツァーヴェが言うと、母は頷いた。
 「そうね。もうそんな時間。でも、ここでじっとしているなら時間なんて関係ないようなものね。……ところで、ツァーヴェ、もう大丈夫なの?」
 「大丈夫」ツァーヴェは言った。「もうぜんぜん平気。ちょっとふらふらするけど、ずっと寝てたからするだけ。でも、すごくお腹が空いてるよ。空きすぎて、気持ちが悪いくらい」
 「そう。それはよかったわ。もうすっかりと元どおりね。でも、そんなにお腹が空いたんじゃ、可愛そうね。何か作ってあげるわね」
 そう言って、母は立ち上がろうとしたが、上手く体を起こすことが出来ないようだった。最初ツァーヴェは、まだ母にウォトカの酔いが残っているのかと思ったが、どうもそうではないようだった。それで急いで母の傍らに行き、体を支えようとして驚いた。母の体が熱かった。そう思ってよく見ると、母の顔は赤く、視線もどこか焦点が合っていないようで、それらは明らかに発熱の影響だった。ツアーヴェの病が、母に伝染したに違いなかった。
 「酷い熱だよ」ツァーヴェは母の額に手を当てて言った。「どうしよう」
 「ちょっと風邪をひいちゃったみたいね。……でも大丈夫よ。お母さんは大人だから、すぐに直るわ……」
 「寝てなきゃ」
 「そうね……ベッドに行った方がよさそうね。……ツァーヴェ、ごはんは?」
 「大丈夫だよ。それくらい自分で出来るよ。お母さんは早く寝てて」
 「そう。ごめんね」
 オルガはそう言って何とか立ち上がった。体が酷く重かった。目も霞んで、回っていた。そうした様子のオルガを見て、ツァーヴェは肩を貸した。そしてゆっくりと隣の部屋の母のベッドに向かい、母を何とか横たえた。

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朝には光の中で海までの距離を測る

夜には闇の中で海からの距離を想う


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 今日は午後から文学フリマへ。
 先週の「SFセミナー」に続いて、「日本ジュール・ヴェルヌ研究会」の会誌販売を少し手伝いに(ひやかしに?)行ったのだが、想像以上の会場の盛況に驚きました(会誌も、多少売れたようです)。文学作品のフリマだから、それほど人も来ないのだろうと思っていたため、予想外。結局僕は二時間ほどしか居られなかったのですが、本の好きな人間にとっては決して居心地の悪い場所ではなく、もう少し見てもよかったかなと思える熱気でした。
 ずっと店番をしてくれていたishibashiさんとsynaさん、ご苦労さまでした。普段の例会ではなかなかしない話が出来て、楽しかったです。

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「人間の土地」 サン=テグジュベリ著 堀口大學訳
新潮文庫 新潮社刊

を読む。

 アン・モロウ・リンドバーグの「海からの贈り物」などと並んで、座右の書になりうる一冊。著作権が切れたため、最近「星の王子さま」が新訳であちらこちらから出ていたが、この本こそ新訳で出版されるべきだ。十代で読みたかった本だと思ったが、今読んでも十分姿勢を正される。真っ直ぐに、人間が人間でとして世界に対峙するということを、詩のような文章で語りかけてくる。
 この書の最後では、人が人による圧力に打ちひしがれている姿を描き出している。これは、現代の我々にも常に傍にある風景だ。
 
 小林多喜二の「蟹工船」が、ワーキングプアと呼ばれる若者たちの間で売れている、という話を耳にした。言わずと知れた、日本のプロレタリア文学の金字塔である。著者の小林多喜二は、1933年、思想犯として特別高等警察による拷問によって惨殺された。だが、その文学と言葉は、今に至るまでしっかりと生き続けているということだろう。
 この勢いに乗って、ジャック・ロンドンの一連のプロレタリア文学が再評価されないかと、僕はちょっと考えたりする。

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 白は雲の色だ。チタニウム・ホワイトの2オンス・チューブを手にして彼は言う。晴れ渡った空を横切る雲は、白という色の本質そのものだ。形もなく軽やかで、潤っている。太陽が空を横切るにつれ、自在に色を変えてゆく。また、白は紙の色でもある。まだ何も描かれていない一枚の画布。画用紙。そこにはあらゆる可能性が見える。紙に色を加えて絵を描いてゆくとき、白は、光を描く時にも使う。とりわけ強い光には、混じり気のない白がいい。だから、白は光の色でもある。
 白は、他のどの色とも違う。もちろんどんな色も他の色とは違うが、白はそれとは全く別の意味で違っている。例えば、あらゆる色彩の中で最も強い色、それは黒だろう。黒は全ての色彩を無効にしてしまう。どんな色彩も、黒という色彩を本質的に変えることは出来ない。なぜなら黒は、本当は色彩ではないからだ。だが、唯一、白だけは、ほんの少しの量でさえ、黒を無効にしてしまうことが出来る。というのも、白もやはり本当は色彩ではないからだ。白という色彩を混色した黒は、もはや黒ではなく、グレーとしか呼べない色彩となってしまう。そこには、黒の本質はもう失われてしまっている。そして元に戻すことはできない。黒が再び黒になるためには、一度画面に塗った後で、こんどは白が混入しないように気をつけながら、塗り重ねてゆくしかない。白は容易く染まる色だ。最も繊細で、弱い色だ。だが、最も強い色に対しては、最も強い色になる。無垢が邪悪を打ち壊す様々な物語のように、溶け込むことで、白は黒を変質させてしまうのだから。
 
 随分と昔のことだが、Yという港町に一人の年老いた娼婦がいた。70歳はとうに超えていたはずだ。有名な老娼婦だったから、君も聞いたことはあるかもしれない。死化粧のような、いや、むしろ骸骨のような、真っ白な化粧をして、やはり真っ白なドレスを着た老娼婦だ。大きな荷物を抱えて、いつでも町の片隅にひっそりと座っていた。その余りに特異な容貌に、初めて彼女を目にする人は誰しもが驚いて目を凝らすが、やがては見慣れて、まるで彼女がその町の一部でもあるかのように思えて来るのだった。そして、二度と彼女をじっと見詰めることもしなくなり、通りすがりにちらりと目を遣るだけになる。そう、僕にも彼女がその町の持つ記憶の一部のように思えたものだった。彼女は、白い老娼婦は、生きている頃から既に伝説だった。
 彼女は狂っていたのだろうか?余りにも辛い記憶に、あるいは引き伸ばされた春に、自らの心身の歩調を合わせることが出来なかったのだろうか?彼女が町から消えてから、僕は、今では本当に伝説になってしまった彼女について、時々考えることがある。だがもちろんどんな正しい答えも出てはこない。彼女に声をかけることもなく過ぎ去った日々を悔やんでも、もう遅すぎるのだ。そして、それゆえ彼女の真っ白な姿が、眠る前の束の間、天井の片隅あたりに、ぼんやりと浮かんで見えることがある。彼女の白い貌。その奥の黒い瞳に浮かぶ光を、僕は見ることが出来ない。
 それでも時折、僕にはその奥にある黒い瞳の中に、微かな白い光を見た気がすることがある。それはひとつの記憶、騒がしいファストフード店の片隅で、老娼婦が一人の女性にインタビューを受けている所を見た記憶のせいだろう。僕はその時その店の片隅にいた。声までは聞こえてこなかったが、明らかに何かの取材のようだった。インタビューはそれほど長くはなく、女性は謝礼の封筒を老娼婦に渡して立ち去った。彼女はそれを、何でもないものであるかのように受け取り、大きなショッピングバックに滑り込ませた。僕はそれから間もなく店を出た。だから、その先のことは分からない。だが、その出来事はひとつの事実を物語っていた。彼女はその特異な容貌によって、何者にも代えることが出来ない存在となっているという事実だ。もちろんそこには戦争の爪あとや、様々な行き違いによって生じた宿命の影も見て取ることは出来る。だが結果として、彼女はその奇異な真っ白な姿によって価値を得て、生き続けることが可能となっているのだ。
 彼女は狂っていたのか?それとも、彼女はどこまでも正気だったのか?僕には分からない。代わりに僕は、彼女の真っ白な容貌を思い浮かべる。その白さは、闇を飲み込んでしまう白の本質の表れなのだろうか?それとも、染まることから逃げ続けた、真性の白さなのだろうか?




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 しばらく絵を描いていなかったが、久々に描き始めた絵を、途中だけれどもアップしてみる。
 完成までにはもう少しかかりそう。

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「白衣の女」全三巻 ウィルキー・コリンズ著 中島賢二訳
岩波文庫 岩波書店刊

読了。

 三分冊ということで、飽きずに読めるかなあとちょっと思ったが、心配無用だったようで、読み始めたら止まらなくなった。ゴシックロマンスの香りが高い、ミステリー小説の古典。サッカレーは徹夜して読み、後にイギリス首相となったグラッドストーンが読み出してやめられなくなって、予定していた観劇会をキャンセルしたという逸話も有名だというが、現代ほど娯楽が氾濫して飽和していたわけではない当時、この作品はそれだけ熱狂的に受け入れられたのだ。
 物語は、平たく言えば、恋愛と遺産相続を巡る陰謀の交錯するスリラー。オトランド城以来のゴシックロマンスの枠組みであるが、この作品が画期的なのは、手紙や日記など、様々な記録物のタペストリーによって物語が浮かび上がってくるという構成にある。つまり、読者が読み始める段階ではもう全てが終わっていて、その検証のような形式になっているわけだ。これは、後の「吸血鬼ドラキュラ」とも同じ形式である(ふと気になって、棚の文庫本の解説を調べたら、ブラム・ストーカーは「ドラキュラ」を書くにあたって、この「白衣の女」の形式を踏襲したということ)。
 読んで気付いたのは、解説にもあったが、先日読んだ同じく岩波から出ている短編集「夢の女・恐怖のベッド」に収録されていた短編のいくつかは、この長編の中に発展的に吸収されているということ。つまり短編は、コリンズにとっては習作であるということだろうか。
 この小説の中で出色の人物はマリアンとフォスコ伯爵だろう。主人公であるハートライトとローラの凡庸なロマンスの影で、最後まで浮かび上がることもなく、敵対関係という形で静かに進行するロマンスは、まるで明智と黒蜥蜴の関係のようでさえある。

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