漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



「ヒューゴの不思議な発明」 マーティン・スコセッシ監督

を観る。

 SFXの父、ジョルジュ・メリエスを扱った映画。物語そのものは虚構だが、メリエスの生涯については、ほぼ史実に沿っているということ。日本では稲垣足穂らに強烈な影響を与えたメリエスは、晩年にはモンパルナスの駅の小さなおもちゃとキャンディの売店で、実際に売り子をして生計を立てていたというが、この映画はその頃を舞台にしている。人びとに忘れ去られ、負債だけを抱えて全てを失ってしまった失意のメリエスが、この映画の中に登場する孤児のヒューゴの活躍によって、再評価されるまでを描いている。
 メリエスは、かつては「月世界旅行」がミニシアターなどで定番のプログラムだったし、異端文学者の稲垣足穂をはじめ、さまざまなサブカルチャーのクリエーターらに影響を与えたことから、日本とのつながりも深い。映画自体、とても面白い映画で、スチームパンク的な映像もすばらしかった。映画館に観にゆけば、もっと楽しめたかもしれないとちょっと思ったりした。



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「ララピポ」 奥田英朗著
幻冬舎文庫 幻冬舎刊

を読む。

 この前に読んだ「最悪」と同じ群像劇だが、こちらは連作短編の形式をとっているが、題材は主にエロ。冷静に考えればそのすぐ先に破滅が待っていることは分かるはずなのに、すぐ目の前にある、本当にくだらなくて、笑うしかないような下世話な話に気をとられて、そのまま笑えない運命に呑まれてゆく人びとの物語。「最悪」と同じように、登場人物に妙なリアリティがあって、バカ、と思うんだけれども、どこか笑えない自分がいるという感じ。

続いて

「邪魔」 奥田英朗著
講談社文庫 講談社刊

を読む。
 こちらは「ララピポ」とは違い、シリアスな群像劇。ちょっとしたこと、つまりセコいことがやがて大きな悲劇へと膨れ上がってゆくというのは、この著者の作風のようだ。だがこの作品ではさらに、登場人物たちがそれぞれ何かを失ってゆく物語にもなっている。「喪失と再生の物語」とはよく聞く言葉だが、この中では再生は語られない。再生が語られることがあるとしたら、この物語の最後からしばらく時間が経ってからのことだろう。「ララピポ」、「最悪」、そしてこの「邪魔」の中では、この「邪魔」がいちばん暗くて救いがない。



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「悲鳴伝」 西尾維新著
講談社ノベルズ 講談社刊

を読む。

 どんなことが起ころうと、まるで他人ごとのような醒めた感情でしかそれを捉えることのできない少年が主人公の物語。けれども、それが類稀な資質とされ、国の秘密組織によってヒーローとして抜擢される。その敵はなんと地球。これだけを聞くと、訳が分からないなりに何だか面白そうな気もするし、著者最長の一冊ということでもあるので、期待も膨らむけれども、あまり面白くはなかった。物語の熱を意識的に廃した語り口のせいだろうか。意識的なのではないかと思えるほど、スカスカで薄っぺらい物語設定のせいだろうか。そうした醒めた感じを伝えることが、この小説の目的であり文学的冒険なのかもしれないが、読みおわった感想は、「いったい何だったんだろう?」という感じになってしまう。まあ、もしかしたら作者のことだから、この小説に関してはそれこそ本望なのかもしれないけれども。

続いて
「少女不十分」 西尾維新著
講談社ノベルズ 講談社刊

を読む。

 冒頭で、これはフィクションではなく、自分が小説を書けるようになった一つの事件を、このまま墓場まで持ってゆくだろうと思ってはいたけれども、親しくしていた編集者の退職の餞として書くことにしたと説明される。そして、自分のことについて、さらに小説を書くということについて、語り始め、本編へと流れこむ。
 最初、ぼくはこれが本当に自伝的小説なのかと思った。多分、ある程度までは本当のことなのだろうけれども、途中で「あれ?」となる。なんだ、やっぱりフィクションなんじゃん、と。でも、他の作品とは違って、「ひっくりかえってもありえない」というほどの物語ではないので、どっちなんだろうという一抹の疑いは最後の際まで持ち続けることになるし、物語そのものはともかくとして、かなりのところまでは本心を吐露している小説であるとはやはり思う。冒頭の、「この小説を書くのに十年かかった」という言葉の意味は、最後に分かる。十年、作家として書き続けてなければ、確かに書けない言葉だ。さっきの「悲鳴伝」は、この小説を踏まえて書いたものではないかという気がする。小説としては、こっちのほうがいい。



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最悪  


「最悪」 奥田英朗著 
講談社文庫 講談社刊

を読む。

 主人公は、都銀の若い女性行員、小さな町工場の社長、その日暮らしのような生き方をしているチンピラ崩れの若者、という三人。それぞれが、ちょっとしたことからズブズブと悪循環に陥ってゆくという物語が展開され、やがてそれが一つに重なりあう。それぞれが遭遇するのは、笑ってしまうしかないような不幸の連鎖だが、登場する人物みんなに妙なリアリティがあって、うわあ嫌だなあと思いながら、読み進んでしまう。クライマックスがあり、最後にはそれぞれが一つの結末を迎えるのだが、それは一つの解放ではあるが、ハッピーエンドでもない。それはほとんど、諦念にも近い、かつてとは違う形を取った、日常への帰還だ。
 ままならない現実にうんざりした気分にもなるけれども、面白い小説だった。



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「孤高の人」 新田次郎著 
新潮文庫 新潮社刊

を読む。

 ぼくの故郷である神戸にゆかりのある登山家、加藤文太郎の生涯を描いた長編。六甲山縦走を始めたのが彼だったというのは、さっきウィキを見て知った。六甲縦走、ぼくも高校の頃にやらされましたよ。三年間に分けて。そのとき、もしかしたら加藤文太郎のことも聞いたのかもしれないけれども、当時は全く興味もなかったので、覚えていない。ただ、鉢伏山には個人的にもよく登ったのを思い出す。ちょっと上るのには、ちょうどいい山だったのだ。
 小説は、人付き合いが下手で誤解を招きやすい加藤が、それでも上司の外山らの寵愛を受けながら、たったひとりで様々な山、それも主に冬山に単独で挑み、それを踏破してゆくが、最後に宮村とパーティを組んで冬の槍ヶ岳北鎌尾根に挑み、遭難するというもの。そのマイペースな、孤高の姿は格好良く、ファンが多いのもよく分かる。ただ、ぼくは最後のところがやっぱりちょっと引っかかった。小説では宮村が無茶をする姿を、強く否定することもせずに、結局遭難してしまうのだが、そこまでわかっているならやめさせりゃいいのにという素直な疑問が浮んで、最後の最後で醒めてしまったのだ。何というか、自分だけを信じる加藤が人の意見にただずるずると引きずられるというのが、どうしても嘘くさく感じたのだ。
 ところが、さっきウィキを見たと書いたが、そこで史実ではちょっと違うらしいということを知った。宮村のモデルとなったのは吉田富久という登山家らしいが、実際は加藤がその二年前にも吉田を誘ったこともあったりしたらしい。実際の人物像とはかなり違うようで、どうやら加藤はヒマラヤ登山を見据えて、吉田をパートナーとしようとしていたらしいのだ。それなら、遭難することになったのもわかる。だとしたら、この小説は吉田富久に随分と酷い役割を与えてしまったことになる。
 とは言っても、小説としては面白くて、戦争前夜の日本の様子なども描写されていて、読み応えがあった。



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「クリムゾンの迷宮」 貴志祐介著
角川ホラー文庫 角川書店刊

を読む。

 長い眠りから醒めた主人公は、自分がいずことも知れない荒野にいることに気づく。その場所には同じようになぜい自分がそこにいるのかわからないでいる、数人の人間たちがいた、というバトル・ロイヤルもの。最近よくある設定だが、それよりも、読みながら、なんだか七十年代とか八十年代とかの、日本のSF小説を読んでいるような気がした。すらすら読めるし、面白いことは面白いのだけれど、妙な既視感がある。ちょっと古くさいというか。作中で重要なアイテムが、かつて創元などからもいくつか出ていた、懐かしい「アドベンチャー・ゲーム・ブック」だし、もしかしたらそうしたどこか既視感のあるストーリーも、計算のうちなのかもしれないとも思ったり。わかりやすいし、映画化とかは、しやすそう。
 ゲームブック。懐かしいな。学生の頃、一冊買ってみたことがあるけど、面倒くさくなって途中で放り出した記憶がある。多分、あまり流行らないまますたれてしまったと思うが、今改めてやってみたとしたら、もしかしたらむしろ新鮮なのかもしれない。



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残穢  


「残穢」 小野不由美著 新潮社刊

を読む。

 同時に発売された「鬼談百景」(メディアファクトリー刊)とある意味でセットになっている長編小説。「セットになっている」というのは、掌編集「鬼談」に収録されている物語のひとつが、この長編の中で重要な役割を持っているから。もちろん単独でも十分に楽しめるから、「鬼談」が必須というわけではない。ついでに言えば、「鬼談」の中に紹介されている物語の中のひとつは、著者の「ゴーストハント」シリーズの「悪夢の棲む家」に使用されている(もっとも、どちらが元なのかはわからない)。
 同じような実話系の怪談集「鬼談」がいまひとつという印象だったのに比べて、こちらの長編はかなり怖い。著者が長編向きの作家であることがよくわかる。まるで壁を築くかのように、淡々と物語を積み重ねていって、じわじわと盛り上げてゆくタイプの作家なのだ。そういった意味で、実話であるという設定のもとで(著者や実在する作家たちまでも実名で登場するため、真実味があるが、もちろんどこまで本当のことかはわからない。一切が嘘であるかもしれないし、すべてが本当なのかもしれない。幽霊だって、作者の前に本当にはっきりと姿を現すわけではない。そこがこの小説のポイントだろう)、現在から過去に向って、真相を解明するために取材を繰り返して、その土地の因縁をり下げてゆく過程は、開かずの扉を一つ一つ開いて奥へと進んでゆく様子にも似て、スリリングだ。良くできた怪奇小説というものは、ある意味で形而上学的な側面があるものだが、これはそういった意味では下世話かもしれない。しかしそれゆえに純粋に気味が悪いというのは確か。僕は寝る前に読んだのだが、「うわあ、悪い夢を見そうだなあ」と思った。実際、ちょっと嫌な夢を見たような気もするが、それは、正直言って、よく覚えていない(笑)。




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