漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 





 今日、ちょっと服を見ようとGAPにふらっと立ち寄ったのだが、そこで流れていた音楽が、ちょっと気になった。GAPは結構こだわった選曲をいつもしているなと思っていたが、誰が選んでいるのだろう。
 で、そのとき流れていたのがちょっと環境音楽的な印象もある音楽で、ポストロックといった感じ。最初、「Galaxie500に似ているな」と思ったから、特に印象に残ったのだろう。Galaxie500というのは、八十年代の終り頃に出てきたバンドで、活動は短かったが、後にちょっとした伝説的バンドとなった。
 写真は、そのGalaxie500のアルバムだが、今僕の持っているのはボックスセットから再編集されたベスト盤だけ。つまり、この写真はオリジナルアルバムではなくて、ベスト盤だが、オリジナルアルバムには収録されていない曲も沢山収録されてあるので、貴重といえば貴重かもしれない。
 GAPを出た後、ヨドバシカメラに寄り、ついでに同じビルの中に移転したタワーレコードにも久々に寄った。最近CD買ってないし、もう全然どんなバンドがあるのかわかんないなと思いつつ、何枚か試聴。その中にアイスランドのバンド「Sigur Ros」のライブアルバムがあった。
 あれ、これはさっきGAPで流れていたのとちょっと似ているなと思い、もしかしたら絵を描いたりするときに流しておくのにちょうどいいかもしれないと考えた。でも結局買わずに、帰りがけにツタヤに寄って、そのバンドの過去のアルバム「Takk」を借りてきた。
 で聞いているのだが、さっき流れていたのは、僕がGAPで聞いた、まさにその曲だった。
 たまにこんな、偶然が積み重なることもあるんだなという話。

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「天使はブルースを歌う」 山崎洋子著 毎日新聞社刊

を読む。

 先日観たドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」でも言及されていた本だが、この本がおそらくは映画を生み出すインスピレーションの元の一つになったのだろう。映画を見た後でこの本を読むと、映画をもう一度見たくなる。
 著者は、戦後に横浜で生まれた混血児たちのことを、誤解を覚悟で、「メリーさんの子供たち」と呼ぶ。その言葉は、重く響いて聞こえる。だがメリーさんの存在がブルースだというのは、僕には頷けない。僕はブルースは好きだけれど、彼女やその「子供たち」の存在を、簡単に「ブルース」なんて言葉で扱う気にはなれない。「天使」や「ブルース」という言葉は、彼女たちには合わない気がして、仕方がないのだ。
 ところで、この本の中に「エリザベス・サンダースホーム」への言及があった。
 神奈川県大磯にあるこの孤児院は、岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜によって建てられ、戦争によって産み落とされた混血孤児たちを収容していた。当時、そうした子供たちの寄る辺なさは、想像するに余りある。僕が以前に書いた小品「七枚綴りの絵/六枚目の絵/土手での邂逅」は、実はこの施設の存在が頭の片隅にあった。もっとも、僕の頭の片隅にあったというだけで、それ以上に施設を連想させるものはないのだけれど。

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 煌々とした月の光が目を射った。
 長い間、ツァーヴェは全てを忘れて外の風景に魅入っていた。
 窓の外には、夜空と、それから広がるタイガの森、そして開けたアラースの開けた風景が広がっている。だがその様子は、数日前とはまるで変わっていた。
 ツァーヴェが病に臥せっている間に、雪が随分と積もったらしい。見渡す限り、大地も森も雪で覆われている。新しい、真綿のように柔らかそうな雪だ。その雪が、驚くほどに明るい月の光を反射して、幻のような銀白に輝いていた。
 ツァーヴェは空を見た。空は群青だった。だがそれは単にのっぺりとした群青ではなかった。群青の中に、漆黒とコバルトブルーの色彩が絡みあうように渦を巻いていた。そしてその渦の中心には、これまでに見たこともないほど大きく膨れ上がった丸い月が見えた。膨れ上がった月は白金の円盤のようで、じっと見詰めることが出来ないほどだった。月は深々とした光を空に放って、それで空全体が青く燃えるように渦巻いているのだ。ツァーヴェは今までこんな空は見たことがなかった。オーロラならば見慣れていたが、この空の様子はそれとは全く違っていた。もっと圧倒的だったし、現実にある色彩とは思えなかった。
 ツァーヴェはそっと、彼の家の窓は防寒のため二重になっているのだが、その一つ目の窓を開いた。そしてさらに顔を窓に寄せた。
 さらに月の光がさっと鮮やかになった。すっと夜の香りがした。光の粒子を、唇で受けた気がした。深い時間の中に、心が開かれて行くようだった。その感覚の中に浸り、ツァーヴェは陶酔した。身体が、この月の光の中に溶け込んでゆくようだと思った。明けない夜の中に漂ってゆく。永遠の夜の中に滑り込んでゆく。そう想像することは、不思議と心地よかった。
 もしかしたらお父さんもそうだったのかもしれない、とツァーヴェはふと思った。あの日、お父さんは夜の中に滑り込んでしまったのかもしれない。お父さんが帰ってこないのは、目の前に広がっているこの幻のような月の雪原がそうであるように、この世界とは時折交わるだけの、永遠の夜の中に降りていってしまったからかもしれない。もしそうだとしたなら、普通の世界の中で僕やママがお父さんと再会することは、決してないのだろう。
 お父さん、とツァーヴェは呟いた。たまらなく父に会いたいと思った。というのは、今ならば父に出会うことが出来そうな気がしたからだった。それは直感だったが、確信にも似ていた。
 それからどれくらい窓の外の、渦巻くような空と輝く雪原の光景を見詰めていただろう。ふと視界に、不思議な影が入ってくるのを見た。最初それは華奢な鳥のように思えたが、じっと見ていると鳥とは似ても似つかないものだった。
 それは少女のような貌をしていた。大きさは人とは比べ物にならないほど小さいが、確かに少女の顔を持っていた。だが人と似ているのはそこまでだった。身体は極端に矮小で、黒く細い腕は何か丸いものを腹の辺りにじっと抱え込んでいる。その髪は赤く、繊毛のように細く長く四方に伸びて煙っていた。その髪の様子はどこか綿帽子を思わせたが、実際に役割としてはそれに近いようで、風を受けてふわふわと空を移動する様子はまるで奇妙な種子のようだった。

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 時の隙間に滑り込んだかのようだった。真夜中に目を覚ますことは特別珍しいことではなかったが、その時彼が横たわって見上げた部屋はいつもよりもずっと広く、見慣れない光景に見えた。不思議な色彩の中で、部屋の中の全てに命が宿って、深く静かに呼吸をしているようだった。ツァーヴェはじっと天井辺りの暗がりを見詰めた。だがいくら見詰めても、その闇には果てしがないように思えた。窓から入ってくる光がこれほどに明るいのに、どうしてその光がほんの僅かさえも天井を照らさないのか不思議だった。天井に光をまったく反射しない布地を張り詰めているか、それとも天井が遥かに高い場所にあるか、そのどちらかでなければそんなことは有り得ないはずだった。だがもちろんこの部屋はそのどちらでもない。
 自分の呼吸が聞こえていた。まるで眠っているかのような、深く静かな呼吸。それが耳の奥で響いていた。ツァーヴェはその音に耳を傾けながら、視線を部屋の壁に這わせた。壁には沢山の写真が貼り付けられている。父の写真、母の写真、それから自分の写真。そうした写真に混じって、彼がやっと鉛筆を手にすることが出来るようになった頃に描きなぐった絵も貼り付けられていた。それは母が貼り付けたものだったが、彼自身、いったい自分が何を考えてそうした絵を描いたのか、まるで憶えてはいなかった。
 そうだ、母はどうしたのだろう。ツァーヴェは思った。そして首を巡らして母のベッドを捜したが、そこに母の姿はなかった。トイレにでも行ったのか、それとも居間にまだいるのか、それは分からなかったが、人の気配が感じられないこの部屋にはいないことだけは確かだった。
 今は何時頃なのだろう、とツァーヴェは思った。だが時計が見えないから、時間は分からない。ただ、その空気から、なんとなくとても深い夜なのだろうと思った。きっと真夜中は過ぎているだろう。ママは、もしかしたら居間で眠ってしまったのかもしれない。
 ツァーヴェは起き上がろうとした。母の姿が見えないことで、急に不安になったのだ。それに、もし本当に母が居間で眠ってしまっているのなら、起こしてあげなければ身体に障るだろう。そう思った。
 だが、起き上がろうとするのだが、どういうわけだか不思議な感じだった。身体がどこか痺れたような感触があるのだった。これほど頭が冴え渡って、身体も軽く感じるのに、どうしてそうした感触があるのだろうと思った。だが、そうした感触はきっと長い間眠っていたせいなのだろうと思った。
 半ばほど身体を起こした時、ツァーヴェは思った。でも、それにしても部屋は明るすぎる。今日が満月で、空が晴れ渡っていたとしても、これほどには明るくはないはずだ。この明るさは、やっぱりどこか奇妙だ。いったい、この光はどこから来るものなのだろう。
 ツァーヴェは窓を見あげた。そして身体を起こして窓に取り付き、外を見た。

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「ヨコハマメリー」 中村高寛監督

を観る。

 「ハマのメリーさん」の名前を聞いたことのある人は多いと思う。
 全身白ずくめの「最高齢の現役娼婦」として、殆ど都市伝説のようにして語られていた。
 だが、メリーさんは実在の人物であり、横浜の陰の部分を構成する一つの欠片として、横浜の町に佇んでいた。
 そのメリーさんの姿が横浜の町から消えたのが1995年のこと。
 1995年。
 僕の故郷である神戸が震災に見舞われ、東京ではサリン事件があった年。
 この年を境に、日本の中で何かが変わったように思えてならない。
 話を戻すが、この映画はその年を境に消えたメリーさんに何があったのか、それを辿ったドキュメンタリーである。
 映画は、メリーさんと、男娼として街頭に立っていたこともあるゲイのシャンソン歌手永登元次郎との交流を軸に、横浜という街の陰の部分をそっと浮かびあがらせながら進んでゆく。声高に何かを語るわけでもないが、登場する人々がその言葉を超えて雄弁で、ただじっと魅入ってしまう。
 
 僕の娘が生まれたのも1995年。僕は横浜に頻繁に通うようになったのはその前後からだから、メリーさんを見た事はない。
 僕が横浜に通うようになってからも、みなとみらいを始め、横浜は随分と変わった。

 メリーさんは2004年に郷里の老人ホームで亡くなり、映画の撮影時には既に末期の癌であった永登元次郎さんも同じ年に亡くなったという。

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 頬に柔らかい光の滑らかな暖かさを感じて、ツァーヴェは目を開いた。
 青白く澄んだ光が頬を照らし、部屋を照らしていた。くっきりと明るいのに、じっと見詰めていると次第に朧になって、だんだんと捉えどころがなくなってくるその光は、確かに夜の光だった。光は、ツァーヴェの眠っているベッドの近くにある窓から差し込み、床を照らし出している。
 部屋の中には音がない。耳を澄ましても、しんと静まり返っていて、どんな音も聞こえない。
 それから動くものもない。光も揺れない。時間が凍りついたように、全てが穏やかに留まっている。空気も無口に息を潜めて、乱れない。部屋の中は、ひんやりとはしているが、それでも寒くはない。皮膚に感覚がなくなってしまったかのようだった。
 ツァーヴェはしっかりと目を開いた。誰もが驚くほどの深い黒さを持った、その大きな瞳を。
 身体がとても軽いような気がしたし、頭もすっと冴えていた。だが、実際には容易く身体を動かす気にはなれなかった。そしてしばらくそうしてじっと横たわったまま辺りの光景を見ていた。
 どうしてこんなに部屋の中が明るいのだろう、とツァーヴェは思った。もちろんそれは昼間の明るさとは違う。部屋の中の大部分は暗くて、幾ら目を凝らしても捉えられない。だが、窓から差し込んで来る光は、ただの月明かりにしては余りにも鮮やか過ぎるように思えた。太陽の光を反射して輝いているのが月だということを、ツァーヴェはかつて聞いたことがある。ならば、太陽の光がとても激しくなったのかもしれないとツァーヴェは思った。
 それとも、とツァーヴェは思った。そうだ、僕は熱を出して気を失ったんだ。ずっと長い時間吐き続けていたんだ。憶えている。あれはいつのことだったのだろう。もしかしたら、遥か昔のことなのかもしれない。
 だから、そうだ、僕はもう死んで、こうして意識だけが残っているのかもしれない。
 ツァーヴェはそう考えて、はっとした。それから恐る恐る手を動かして、自分の身体に触れてみた。身体は確かにそこにあった。その感触は確かに現実のもののように思えた。

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 今日ラジオを聴いていたら、どこかの映画館で世界のCMばかりを一晩流しつづけるというイベントがあると言っていて、へえ、コマーシャルのファンは結構いるんだなと思った。
 僕はまさしくそうで、普段からあまりテレビは見ないのだけれど、実はコマーシャルがテレビの本編よりも好きだったりする。
 コマーシャルなんてただの宣伝には違いないのだが、小さな短編映画を見たような気分になることもある。そのインパクトは、尋常じゃない。子供の頃に見たCMで、いまだに頭に残り続けているものは数に限りがない。
 昔、仲のよかった友人が好きだったCMで、妻もとても印象に残っているというものに、サントリーローヤルのCMがある。ランボーのCM、と言ったら、分かるひとも多いと思う。そのエントリーを、Youtubeに見つけた。
http://www.youtube.com/watch?v=cfve3SzJOS4&feature=related
 ドアーズのまぼろしの世界めいたこのCMは、今なおインパクトがある気がする。

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「アーカム計画」 ロバート・ブロック著 大瀧啓裕訳
創元推理文庫 東京創元社刊

を読む。

 これはラヴクラフトが好きじゃないとちょっと読めないんじゃないか、と思った。何だか同人誌を読んでいるみたい。途中で飽きて、斜め読みしてしまった。
 僕はどうしてもラヴクラフトがちゃんと読めなくて。僕の好きなホジスンとラヴクラフトはそんなに遠くないと思うのにどうしてなのだろう、と思うのだが、これはどうしようもない。ラヴクラフトはいろんな意味で凄い作家だとは思うし、色々な人がそれぞれのクルウルウ神話を書いているという現象はとても面白いと思うから、クルウルウ神話の存在意義も十分に認めるのだけれど、好みの問題はそれとは別。漫画でも小説でも、あまり登場人物のキャラクター性に感情移入ができない性分だから、仕方ないのかもしれない。

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 今日は朝から天気が良く、自転車に乗って、先週は行けなかった国立天文台に出かけることにした。
 天文台には久々で、聞くところによると、以前は公開されていなかった部分も公開されているということだから、楽しみだった。
 昼間は暖かく、それでもこのところ急に寒い日が増えたため紅葉が進んでいて、途中に立ち寄った神代植物園付近の公園でも枯葉のよい香りがした。
 国立天文台でもそれは同じで、緑の多いキャンパスはとても良い雰囲気。見学者も増えたようで、数人の見学者と擦れ違った。
 上の写真は、アインシュタイン塔。老朽化していて、内部の見学はできないが、塔全体が望遠鏡の筒の役割を果たしているため「塔望遠鏡」とも呼ばれる施設。キャンパスの外れにひっそりとあって、とても雰囲気のある建物。
 今回、新しく公開された建物は「レプソルド子午儀室」「旧図書館」(以上は外観のみ)「ゴーチェ子午環」「自動電子午環」。どれもこじんまりとしたものだが、やはり雰囲気のあるものばかり。それがこの場所にあるから、なおさらそう見える。
 下の写真は「大赤道儀室」の受付にあった内線電話。やっぱり黒電話じゃなきゃね。



 帰りは夕方遅くなり、冷たく強い風が吹いていた。
 その中を、自転車で家路を辿った。
 後で聞いたところでは、今日は木枯らし一号が吹いたらしい。
 いよいよ季節は冬に向かう。
 
 

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 ようやく少し落ち着くと、オルガはツァーヴェの口元を布で拭った。そして彼を静かにベッドに横たえると台所に取って返し、器と水と熱さましの薬を持ってまたやってきた。ツァーヴェは何とかその水で口をゆすいだが、少しでも水を飲もうとすると吐き気が襲ってきて、薬を飲むことができなかった。それでオルガはひとまず薬を飲ませることは諦めた。ツァーヴェはまた崩れるようにベッドに横たわった。オルガは器やツァーヴェの吐瀉物などの始末を終えると、椅子を持ってきてツァーヴェのベッドの傍らに据えた。そしてそこに座って、ツァーヴェの手を軽く握ってやった。だがツァーヴェの手はオルガの手から逃れた。ツァーヴェにはもう意識らしい意識がなかったのだ。それからツァーヴェは長い時間熱にうなされ、様々な幻覚や幻聴に襲われていたが、いつしか眠りに落ちていった。
 オルガはツァーヴェが眠ったのを見ると、そっと濡れたタオルを額に当ててやった。そうして、荒い息をしながら眠っているツァーヴェの顔をじっと見ていた。ツァーヴェの顔が苦痛に時折歪み、ふと短いうわごとを漏らすこともあった。その言葉にオルガは静かに答えながら、しかしそれ以上には為す術もなかった。このまま高熱が続いたらどうすればいいのだろう、この子は果たして高熱に耐えることができるのだろうか。オルガは考えたが、答えなど見つかるはずもなかった。医者に頼りたい、とオルガは思ったが、電話がない以上、呼ぶ方法がなかった。どうしても呼びたければ、町にまで出かけてゆくしかない。だがここから町に行くのは容易くはなかった。ここから町までは、五十キロはある。乗り物がないのだから歩くしかないのだが、簡単に歩ける距離ではない。それに、夜のタイガをたった一人で歩くなんて、自殺行為以外の何者でもなかった。もし運良く途中で通りすがりの車に出会えたとしても、女性が一人で歩くリスクは余りにも大きい。それに、運良く町まで乗せてくれる人に出会えたとしても、往復には相当の時間がかかるから、その間はツァーヴェをたった一人で残しておかなければならなくなる。その間にもし何かがあったら、誰にも対処できないのだ。
 オルガは祈った。その時点で、それ以外に出来る事など彼女にはなかった。オルガは神に祈り、森の精霊に祈り、それからトゥーリに祈った。アトレウスにも、どうか私たちの状況を察して来てくださいと祈った。こんなにあなた方から遠く離れた場所で私たちは不安に慄いています、どうかお救いください、と祈った。長い時間、じっと祈りつづけた。祈っているうちに、窓から入って来る日の光が色を持ちはじめ、部屋の中が次第に暗くなっていった。日が暮れつつあったのだ。それでもオルガは灯りも点さず、じっと祈っていた。

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 「こころ」 夏目漱石著 
 集英社文庫 集英社刊

 を読む。

 関西からの帰りの新幹線の中で「こころ」を読み始め、今日読了した。
 夏目漱石の代表作にも関わらず、これまで読まずに来てしまったのだ。
 いや、それは正確ではない。高校の時に、教科書に「こころ」のクライマックス部分だけが抜粋されて掲載されており、授業でもやったので、部分的には読んだことがあるということになる。
 だが、当時はこれが面白いとも思わなかったし、あらすじが「親友を裏切って恋人を手に入れた『先生』が、罪の意識に耐え切れず自殺する話」だと聞かされてしまうと、さらに読む気が萎えた。恋人をとられたくらいで自殺するのも情けないし、さらにそれに罪の意識を感じて自殺するなんて、ほとんど有り得ないことのように思えたからだ。一言で言えば、そんなしみったれた小説なんて読みたくないと思ったわけである。
 だが今回読んでみて、確かにあらすじとしてはそんな感じかもしれないのだが、それはただの表面的な部分にすぎず、実際はかなり違うものであると知った。
 何より驚いたのは、この小説が同性愛小説という側面を持った小説であるという点だった。そう読まないと、この小説は理解出来ない。父が死の床にあるにも関わらずに、それを打っ棄って『先生』のところに駆けつけようとする『私』の行動は、それ以外に説明が出来ないと思える。大体、冒頭部分の海のシーンからしてそういう雰囲気が濃厚なのだ。それに、この小説の冒頭で「私」が人をイニシャルで呼ぶのを嫌う記述があるのだが、『先生』の友人である『K』は、イニシャルで呼ばれている。これは『私』の嫉妬と考えるとすんなりと納得ができそうだ。
 それ以外にも、この小説の緻密さは驚くほどで、後になって色々な立場になって考えなおしてみると、いろいろと見えてくるものが沢山ある。都市と田舎の違いを、明治と江戸の違いとシンクロさせて考え、知識人として都会(明治)に生きる人々にはもう田舎(江戸)の生活には戻れないという確信の反面、その田舎(江戸)の人々のシンプルさがどこか羨ましいといういう分裂した考え方などもある。そうは思ってももはや戻れない都会暮らしの人々の感じる淋しさ。それが登場人物たちを蝕んで行く。文章も美しく、圧倒的だ。確かに名作に違いない。
 ただ、だからといって教科書にあんな抜粋を掲載するのはどうだろうかと思う。あんな中途半端な抜粋では混乱するだけだろう。この小説の核心は、『先生』の自殺はKに対する罪の意識のせいだけではないことや、Kの自殺がお嬢さんを失ったためだけではないことなどを理解する必要があるのだから。

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 10日の土曜日の早朝に祖母が他界した。
 97歳だったが、一週間後に98歳の誕生日をひかえていた。
 僕は祖母が98歳で、もうすぐ99歳だとばかり思っていた。
 僕がそう勘違いしていたのは、会うたびに祖母が自分の年齢を数え年で言うからというのもあるだろう。
 だが、葬儀では年齢は数えで行うという。そういう遣り方では、祖母の年齢は繰り上げで100歳となるということだった。

 祖母の思い出は、簡単には書けないほど沢山ある。母子家庭だった僕には、祖母が母代わりだった。誰に対してでも感謝の言葉を忘れず、私欲のない祖母の真似は、僕にはとても出来そうにない。あんな人は、なかなかいない。

 祖母の葬儀は日曜日で、今日、いやもう昨日だが、ほんの二時間ほど前に関西から東京に帰ってきて、風呂に入った後、ビールを飲みながらこの小さな文章を綴っている。
 
 出棺前、それを言ったら涙が止まらなくなりそうで言えなかった「ありがとう」という言葉を、でも言わなかったらきっとずっと後悔するだろうと思って、やっと言った。言えて、本当によかった。
 
 火葬場で、出発ですという言葉とともに窯の扉が閉じられたその直後、それまで曇っていた空がさっと晴れて痛いほどの光が射してきた。空には青空も見えた。
 
 祖母の骨は、所々花の色素でピンク色に染まっていたが、驚くほど綺麗に残っていた。これほどしっかりとした骨が残るとは思っていなかった。背骨も、大腿骨も、骨盤も、見事に残っていた。本当に丈夫な人だったんだと、改めて思った。

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雑記  


 荒俣宏さんのブログが久々に更新されていて、覗いたところ、何と60歳を前にしてダイビングのCカードを取得したということ。
 還暦間近でさらに挑戦をするということもさることならがら、荒俣さんがダイビングのライセンスを持っていなかったということに驚く。
 「磯魚ワンダー図鑑 アラマタ版 」という、自らの写真と解説による魚類図鑑を荒俣さんが最近出版したのを見たのだけれど、ということは、あれに載っていた写真は全て素潜りで撮影したということなのだろうか?……!
 それは、すごい。ダイビングでも、一人ではなかなかあれだけのものはできないと思います。変なところで、ものすごく驚きました。

 姉妹ブログ「Sigsand Manuscript」を、最近ちょくちょく更新してます。今は、以前ここのブログに載せていたホジスンの「riven night」の翻訳をやってます。

 

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 昨日は奥多摩へ。
 seedsbookさんの記事を見ていたら、ちょっと林を(森といいたいところなのだが、近くには大きな森がない)見たくなったのだ。
 紅葉にはまだ少し早い。だが、ほんのりと色づき始めてはいた。
 水が濁っていて、速い。

 歩きながら、大嫌いな蜘蛛の巣に枯葉を投げてみる。
 何だか、ロボットのような文様に見える気がする。

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「光車よ、まわれ!」 天沢 退二郎著 
ブッキング刊

を読む。

 児童文学の名作として、昔からタイトルはよく知っていた作品ですが、読むのは初めてでした。
 ストーリーそのものは、どこか破綻しているというか、きちんとした解決がされていないというか、そういう印象もあるのですが、さすがに詩人らしく、細部のイメージがとても印象的で、記憶に残りました。これだけ濃密な闇のイメージを閉じ込めた作品も珍しいので、一読する価値はあると思います。

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