漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

夜毎に石の橋の下で

2017年10月27日 | 読書録

「夜毎に石の橋の下で」 レオ・ペルッツ著 垂野創一郎訳 国書刊行会刊

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 最近人気のレオ・ペルッツ。最近、ちくま文庫にも短編集が収録され、日本で、時ならぬブームの兆しである。もともとは、世界幻想文学大系の第三期に「第三の魔弾」が収録されたのが最初の紹介だと思うが、それが1986年。それ以来、ずっとたいして話題にも登らなかった作家だと思うが、このところ急に人気が出てきた印象。訳者の垂野創一郎さんが地道に紹介を続けてきたのが、実を結んだのかもしれない。
 とか、偉そうに書いてはみたけれど、ぼくはペレッツを読むのは、これが初めて。「第三の魔弾」は、綺羅星のような世界幻想文学大系のラインナップの中では、作者の名前にまったく馴染みがないこともあって、紹介文を読んだ限りでは、当時はいまひとつ魅力を感じなかった。ところが不思議なもので、あれから三十年以上経った今、こういうことになっている。優れた作家というものは、かくも息の長いものなのだと、改めて感心する。
 「夜毎に石の橋の下で」は、良い小説だった。非常に不思議な魅力の作品で、「面白かった」と単純に言ってしまうことにはやや二の足を踏む。
 これは、読書家のための小説だと言っていいと思う。解説にもあるように、いわゆる枠物語で、たくさんの短編が積み重ねられて、最後にはひとつの物語として完成するという小説であり、それだけに、それぞれのエピソードは非常に美しいものの、それがいったいどういう意味を担うものなのかは、曖昧なまま読み進めなければならない。この時点で、読書を趣味としていない人は振り落とされてゆくだろう。しかしある程度の忍耐を持って最後まで読み終えたとしたら、その直後、もう一度最初に戻って読み直したくなるだろうと思う。一度目の通読では、まさに編まれ続けているタペストリを眺めているような感覚だろうが、二度目の通読では、完成された美しいタペストリを上からじっくりと眺めるような、そんな感覚を味わえるのではないだろうか。

「氷」と「深い穴に落ちてしまった」

2017年10月15日 | 読書録

 なんだか、いろんな小説を読み散らかしていて、なかなか読了できないでいる。4.5冊の短編集と長編を、あっちをちょっと読み、こっちをちょっと読み、という感じで。なんでこんな変なことになっちゃったんだろう、と思うんだけれど、ようやく長編を一冊と中編を一冊、読了。


「氷」(氷三部作:2) ウラジミール・ソローキン著 松下隆志訳
河出書房新社刊

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 三部作の第二部から読み始めるのはどうかという感じなのだろうが、刊行順ではこちらが最初。翻訳も、これが一番最初に出た。なんとなくずっと気になっていた作家であり作品だったのだが、この前参加させて頂いた読書会でこの作家の「テルリア」が面白いということだったので、読んでみることにした。

 物語は金髪碧眼の青年ラーピンが謎の集団に拉致されて、身動きがとれない状態にされた後、氷のハンマーで心臓を強打されるシーンから始まる。一緒に捉えられた中年の男性は死ぬが、ラーピンの心臓は本当の名前を語り、生き残る。ちょっと意味がわからないが、つまり、氷のハンマーで心臓を強打されたとき、心臓が本当の名前を語る人間が存在するということである。彼を捉えた人々は、そうやって自らも同じような目にあって本当の名前を手に入れた人物たちであり、金髪碧眼という共通の特徴を持っていた。彼らは、そうやって自分たちの仲間(彼らは兄弟と呼ぶ)を探していたのである。第一部は、そうやって三人の人物が自らの本当の名前を手に入れる様子を描いている。
 第二部になると、一気に第二次世界大戦下のソビエトに時代が遡る。主人公はフラムという少女。ドイツ軍に拘束され、収容所に送られた彼女は、そこで高官によって密かに行われていた仲間探しによって覚醒する。この章で、「氷」がもともとツングース隕石によって生じたものであることが明かされ、氷の仲間たちの初期の活動の様子が描かれる。そして、第一部のラストにつながって、この章は閉じられる。
 第三部、第四部は物語らしいものはない。第三部は「氷」による覚醒キットが候補者たちのもとに届けられ、次々と覚醒してゆくさまを、雑誌の胡散臭い「読者の声」形式でカタログのように並べられている章である。第四部は、覚醒がほぼ終わり、次へと繋がるための嵐の前の静けさ、いわば序章にあたる、短い章である。

 SFと文学の境界線上にある作品、という言い方をすべきなのかもしれないけれども、最近のSFには特にこの程度の文学性を持った作品が多いので、普通にSFと言ってしまっても良さそうな気もする。ソローキンといえば、ロシア文学界の問題児というイメージがあったので、意外と読みやすいなとは思ったが、他の作品はもっと違うのかもしれない。かつてこの作家の「ロマン」が出た当時、ぱらぱらと立ち読みした時に下巻の中程から先をうっかり見てしまって、あーこういう作家か、と思った記憶があったので。さて、でもまあ三部作の残りを読むかといえば、ちょっとまだ当分いいかな、という感じ。面白くなかったわけじゃないんだけど、前後は特に気にならないかな。読むなら、次はむしろ「テルリア」かも。


「深い穴に落ちてしまった」 イバン・レピラ著 白川貴子訳
東京創元社刊

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 こちらも、以前読書会で話題になっていた作品。短い作品なので、あっという間に読めてしまう。ストーリーは、深さ七メートルほどの、プラミッド型に広がっている穴に落ちてしまった兄弟が、なんとかして穴から脱出しようとするというもの。
 ストーリー自体は既に聞いていたし、もともと寓話的作品だとは思っていたのだが、ここまで象徴的な作り方をしている作品だとは思っていなかった。章番号が素数だとか、隠しメッセージがあるとか。隠しメッセージについてはわからなかったので、インチキをしてネットで調べたところ、なるほどそういう意味かと納得。
 今現在、衆議院選挙が目前に迫っているわけだが、このタイミングでこの作品を読むというのも、もしかしたら意味があることなのかもしれないと思ったり。現政権が推し進めている格差固定の問題はもちろん、そもそも存在する世界的な経済格差、ベーシックインカム等、いろいろとこの詩的に書かれた物語にダブらせて読むことができるかもしれない。

日時計

2017年10月04日 | 読書録

「日時計」 シャーリイ・ジャクスン著 渡辺廣子訳 文遊社刊

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 シャーリイ・ジャクスンは生涯に長編小説を六編発表しており、これはその四作目にあたる。この作品以降は、「丘の屋敷(たたり、山荘綺談)」、「ずっとお城で暮らしてる」と続く。小説の完成度という点では、後になるほど高くなってゆくが、この後期の三作品は、同じく世間から隔離された屋敷で物語が展開するという点で、ひとつのグループを形作っている。訳者の渡辺さんは解説でそれを「お屋敷三部作」と呼んでいるが、納得である。この作中に、「オトラント城」の作者であり、ストロベリー・ヒル・ハウスを建てたホレス・ウォルポールの名前が出てくるが、それはまさに、この作品から始まる三部作がゴシック小説の現代的な進化型として存在していることの何よりの証拠なのではないだろうか。
 物語は、オリアナ・ハロラン夫人が屋敷の支配権を握るところから始まる。オリアナには夫であり、屋敷の当主であるリチャード・ハロランがいるが、彼は半ばボケかけており、屋敷に及ぼす力はほぼない。二人の間には息子がいて、既に結婚し、ファンシーという孫娘がいる。本来ならその息子に屋敷の支配権はあるのだが、その息子が階段から転落するという不慮の事故で亡くなったため、母親であるオリアナが屋敷の中では一番発言力を持つことになったのだ。屋敷には、オリアナや息子の嫁であるメリージェーン、孫のファンシーの他に、当主であるリチャードの妹である老嬢ファニーおばさまや、家庭教師のオグルビー、図書室係のエセックスらが住んでいる。オリアナは彼らに、自らの専制を宣言する。ところが、ファニーおばさまのもとにずっと昔に死んだ自分の父親が現れ、世界の終わりがやってくるがこの屋敷にいれば大丈夫だと告げたことで、すべては一変する。果たして屋敷は、現代のノアの方舟なのか――
 おおまかなストーリーはそんな感じだが、読みながら、非常に奇異な印象を受けるのではないだろうか。なぜ屋敷の人々は、そんなファニーおばさまのたわごとのような言葉を真に受けたのか。そこに説得力のある説明がないことで、読者は不安になる。なんだかとてもおかしなことが起こっているのだが、読み進めるにはそれをひとまず受け入れるしかない。で、読み進めるうちに、その奇妙な世界にどっぷりと入り込んでしまっていることに気づくのだ。果たして、本当に世界の終わりはやってくるのか。普通に考えれば、そんなものはファニーおばさまの妄想にすぎないと思うのだが、そうとも言い切れないことが作中の要所で仄めかされる。鏡の中に未来の様子を見ることができるグロリアの存在は、非常に大きい。それでは、本当に世界の終わりがやってくるのだろうか。しかし小説は、そこまでは描かない。嵐の予感を孕みながら、唐突に閉じられてしまう。
 非常に難解な小説だと思う。もともと開かれているのがシャーリー・ジャクスンの小説の特徴だが、この小説の不親切さは、かなりのものである。読み手によって、どうとでも解釈ができそうだ。ぼく個人の解釈としては、これはもう、屋敷そのものが魔であり、登場人物はすべて屋敷の影響下にあり、特にファンシーはその屋敷に完全に支配されているというものである。そう考えれば、世界の終わりなど来るはずがないという前提の下でもある程度整合性は取れそうだし、他にはちょっと、どう考えれば納得のゆく解釈ができるのかわからない。「日時計」というタイトルも、闇の中では時は誰にもわからないというところから、象徴的に使われているのだろうし。あと、それとは関係ないのだが、ひとつ気になったのは、文章への傍点の多さである。なぜ傍点がついているのか、よくわからないところに多用されているように思える。最初は気にならなかったが、物語の最後の台詞の意味がよくわからなかったことから、気になるようになった。何か意味があるのだろうが、これについては、いまだに謎のままである。
 「日時計」を読んだ後に、久々に「ずっとお城で暮らしてる」を再読したのだが、こちらは彼女の長編小説の中で、最も分り易い作品なのではないかと改めて思った。破綻が少なく、一本、しっかりとした筋が通っていて、読みやすいという意味である。しかし分り易いとはいえ、そこはシャーリイ・ジャクスンであり、彼女の作品は、彼女にしか書けない。彼女しか、こんな書き方はしない。しかもこの余韻は、ちょっと得難い。初めてのシャーリイ・ジャクスンは、これが一番おすすめかもしれない。