漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



 この場所に辿り着いたわたしは、しばらくじっと佇んだまま、海を見下ろしました。眼下に広がる海は、紺碧の青さで、穏やかでした。漁師たちの船に混じって、観光船が行き交っています。平和で穏やかな、暖かい昼下がりでした。
 わたしはこのベンチに腰掛けて、しばらく休みました。随分と年をとったものだと思いました。けれども同時に、かつて皆でこの場所に集まっていた頃の事が、ついこの前のようにも感じていました。今、皆がこの場所にいないということが、とても不思議なことであるかのように思えました。皆の名前を呼べば、あちらこちらから姿を現すのではないかしら。そんな気がして仕方ありませんでした。わたしは試しに『彼』の名前を呼んでみました。けれども、その声には風さえも答えてはくれませんでした。
 しばらく休んだ後、わたしは記憶を頼りに、かつて皆で宝物を埋めた場所に見当をつけて、持ってきたスコップを使って土を掘り返してゆきました。随分と昔のことでしたから、余り自信はなかったのですが、記憶は確かでした。土を掘り始めていくらも経たないうちに、わたしはすっかりと錆びてしまった宝箱に行き当たりました。わたしの心は、久しぶりに大きく騒ぎました。数十年という時間を、わたしは一息に飛び越えたような気がしました。
 丁寧に土を掻き分けて、わたしはそっと宝箱を取り出しました。そして、錆び付いた蓋を開けました。
 言うまでもなく、中に入っていたものの大半は風化して、腐ったような、酷い状態になっていました。それでも懐かしさは心の中に去来します。わたしは中のものをそっと手にとりながら、かつての仲間たちのことを思い出しました。不思議なくらいに、記憶は鮮やかに蘇ってきます。宝箱を埋めた時の、皆の高揚した表情や息遣いまで、はっきりと思い出すことができました。わたしはその記憶の芳香を大きく吸い込みながら、求めているものがどこにあるのか探りましたが、見つかりません。一体どうしたのかしら、確かに中に入れたはずだけれど。そうわたしは思いましたが、その時ふと箱の隅にある一本のネックレスに気付きました。わたしはそのペンダントを手に取りました」
 イータさんは口をつぐみ、それから手を胸元に持っていって、首から下がっているひよこのネックレスを手にした。
 「これが、そのペンダントです」とイータさんは言った。「ガラス細工のひよこです」
 イータさんはネックレスを外して、私に手渡してくれた。私は両手を差し出して、ネックレスを受け取った。古くて、質のよくないガラス製のひよこだったが、何とも言えず柔らかい感じがした。
 「そのネックレスには、まったく見覚えがありませんでした」とイータさんは言った。「誰が入れたのかも、全く思い出せません。それで、わたしはさらに箱の中を探りましたが、わたしが入れたはずのネックレスはどこにもありませんでした。
 わたしは狐につままれたような気分になって、長い時間ぼんやりとこの場所で、手に宝箱を抱えたまま座っていましたが、ふとひとつの可能性に思い至りました。それは、『彼』が島を出る前にこの箱を掘り出して、わたしが入れたネックレスを持ち去り、代わりにこのひよこのネックレスを入れたのではないか、ということです。
 どうしてそんなことをしたのか、わたしには説明することはできません。けれども、他に考えられるでしょうか。わたしと『彼』のネックレスは、合わせるとひとつの卵の形になります。そのネックレスが消えて、代わりにひよこのネックレスがあるのですから、辻褄は合っていますよね?」
 「ええ、そうですね」と私は言った。「確かに、辻褄は合っています。それに、私も多分その『彼』がやった、ちょっとした悪戯だという気がします」
 「悪戯」とイータさんは微笑んで言った。「ええ、確かに悪戯ですね。とても優しい悪戯です。あの日、わたしがネックレスを埋めに行ったとき、もしかしたら『彼』はそれを見ていたのかもしれませんね。それで、ちょっと思いついた悪戯なのかも。
 ええ、わたしもそう思います。あの日、このひよこのネックレスを見つけた時にわたしがたどり着いた結論もそうでした。それで、わたしは長い時間を越えた悪戯に、心を震わせました。そして、このネックレスだけを手元に置いて、宝箱はまたあの樹の根元に埋めなおしたのです。
 ええ、そのネックレスだけは、どうしても、もう二度と手放す気にはなれませんでした」
 私は改めてネックレスを見詰めた。古いガラスのネックレスが、とても愛しいもののように見えてくる。
 「美しいネックレスですね」と私は言った。「イータさんのお話も、とても美しいお話でした」
 「退屈ではなかったですか?」私からネックレスを受け取りながら、イータさんは言った。
 「いえ、全然。とても素敵な話でした」私は少し考えて、言った。「後日談のようなものは、ありますか」
 「いえ、残念ですが、ありませんね」とイータさんは言った。「わたしにとって、このネックレスはひとつの大切な記憶です。夫や、それから娘の記憶と同じように、わたしの抱えているものです。それ以上のものではありません。ですが、大切なものなんです。あれから『彼』がどうなったのかは、全く消息さえ掴めません。もしかしたら、どこかで生きている可能性もありますし、そう信じてもいますが、もう会うこともないでしょうね。でも、それが残念とか、そんな風には思いません。わたしは、『彼』がいつか宝箱を掘り出して驚いているわたしの姿を想像しながらこのネックレスをそっと箱の中にいれたという、その姿を思うだけで十分楽しい気分になれるのですから」
 私は頷いた。そして、ワインを一口飲んだ。
 遠くから、汽笛が聞こえた。私は海の方を見下ろした。
 目の覚めるような青さの海に、小さく白い浪が立っている。穏やかな、いつもの午後の光景だった。

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 イータさんは口をつぐんだ。そして、手にもったワインに口をつけることもなく、また遠くを見詰めた。私は、イータさんの語る速さに合わせようと、同じように黙って遠くを見詰めた。やがて頬に太陽の暖かさが心地よく感じた頃、イータさんはまた語り始めた。
 「それから二、三日の間、わたしは遠目に『彼』の姿を見かけることがありましたが、逃げるようにして『彼』から姿を隠していました。『彼』にしても、もうあえてわたしを探そうとはしていない様子でした。そうしているうちに、やがてそれもぷっつりとなくなりました。そしてその代わりに、『彼』が島を出たという噂が耳に入るようになりました。
 それ以来、わたしは『彼』に会っていません。
 『彼』の消息も、分からないままです。
 それから長い年月が経ちました。随分酷い時代が続きましたね。それまでの敵国の支配が終わった後も、騒乱の火種は消えず、わたしたちの生活は常に苦しめられました。やがて戦争が終り、続く内戦の混乱の中で、わたしは結婚して、子どもを授かりました。その頃から、島は次第に元の秩序を取り戻し始めていました。そしてそれからは、裕福とまでは行かないにしても、幸せな生活を送って来たと思います。娘が嫁ぎ、夫が天に召され、今ではもうこの島ではわたしは一人ですが、住み慣れた場所ですから、何も不自由はありません」
 「随分と苦労されたんですね」と私は言った。「私には、もちろん戦争の経験もありませんし、内戦の経験もありません。きっとイータさんに比べれば、まるでぬるま湯のような人生を送っているのでしょうね」
 イータさんは柔らかく微笑んだ。そして、「わたしたちとは時代が違いますから、同じようには考えられませんよ」と言った。
 私は小さく微笑んで俯いた。他に言葉が出なかった。
 「そう、このネックレスでしたね」とイータさんは言った。そして手の平にネックレスを置いて、しばらく見詰めた。
 「十年前に、夫を見送りました」とイータさんは言った。「その時には娘も結婚して島を出ていましたから、夫の死で、わたしの身内と呼べる人はもう、この島には誰もいなくなってしまいました。子供の頃から仲のよかった友だちも、もう誰も残ってはいません。わたしだけが残りました。まるで墓守のように、みんなの記憶を抱いて、こうしてひとりで生きています。もちろん、わたしによくしてくれる人は沢山います。こうしてワインを呉れて、昔話を聞いてくださるあなたも、そのわたしに良くしてくれる人の一人ですね。とれも嬉しく思っています。
 けれども、やはり知っている人が一人一人去ってしまうのは、とても寂しいものです。まるで足元の砂を少しづつ崩されてゆくような、そんな気持ちになることもあります。ですが、それを悲しんでいるわけではありません。ただ、やり場のない寂しさが、小波のように心を揺らすだけです。
 話を戻しましょう。そう、夫が天に召されてから二年ほど経ったある日のことです。ふとわたしは、子供の頃に皆で宝物を埋めたことを思い出しました。それまでも、ほんのたまに思い出すこともあったのですが、長く記憶が留まる事はありませんでした。けれども、その時は違いました。何十年もの時間を超えて、あの日皆で興奮しながら宝物を埋めたことを、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出したのです。それは穏やかに時間の向こうから蘇ってきました。仲の良かった友達たち。今はもう誰一人としていない友達たち。その一人一人の息吹までが間近に感じられました。
 わたしはいてもたってもいられなくなりました。それで、気が付くとわたしはせっせとこの場所に向かって足を運んでいたのです。

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 「一方的な別れの告げ方ですね」と私は言った。「いかにも男の子らしい行動だといえば、そうかもしれないですけど」
 「本当にそうですねえ」とイータは言った。「わたしも唖然としてしまって、しばらくどういう行動を取ったらよいのかわからず、ぼんやりと街角に佇んだまま、酷く心を掻き乱されたような気持ちを持て余していました。それでも少し経つと、『彼』がわたしにはどうしても別れを告げようとしてくれたのだということに気付きました。でも、それによってわたしはさらにどうしたらよいのかわからなくなってしまいました。
 その時わたしが感じていたのは、寂しさと不安でした。『彼』がこの島から出てゆくということで、単純に寂しくもあったのですが、それに加えて、これから島がどうなってゆくのか分からないという不安も一層身近に感じたのです。
 わたしは街角に佇んだまま、時折行き交う人々を見詰め、それから空を見上げました。空には星が見えていました。すっきりとしない心の中に相反して、空は深い闇の中に、美しい星を散りばめていました。わたしは星を見詰めながら、かつて『彼』がわたしにペンダントを呉れた時のことを思い出しました。ペンダントを貰って、とても嬉しかったということを思い出しました。わたしはその喜びの余韻を記憶の中から取り出して、しばし身を漬しましたが、やがて我に返って、わたしにはあれだけ嬉しかった記憶も、『彼』にとってはもう、頭の片隅にさえないのかもしれないと思いました。すると、ますます寂しくなりました。
 気が付くと、わたしは家に向かっていました。そして宝物を入れていた箱から、ずっと大事にしていたペンダントを持ち出すと、また家を出ました。そしてもう暗くなった道を、一人で歩いて行きました。
 わたしが向かっていたのは、今わたしたちがいるこの場所です。辺りは薄暗かったのですが、月明かりが少しありましたから、目が慣れると物を見分けるくらいは出来ました。わたしはそこの樹の下に立って、海の方を見詰めました。海には月の黄色い光がちらちらと揺れていて、けれどもそれ以外には何一つ灯りらしいものは見えませんでした。
 しばらくそうして海を見詰めていたのですが、それからわたしは近くに落ちていた樹の枝を使って、以前皆で埋めた宝箱を掘り出しました。場所ははっきりと覚えていたので、それほど苦労することもなく、宝箱は掘り出すことができました。わたしは掘り出したカラフルな宝箱を開きました。
 中には、以前皆で詰めたものがそのままの形で残っていました。少し前に埋めたばかりなのに、どこかもう懐かしいもののように見えました。わたしは中に入っていたものを、『彼』をはじめとした友人たちの顔を思い浮かべながら飽かずに眺めていましたが、やがて家から持ち出してきたネックレスをその中に入れて、蓋を閉じました。そしてまた箱を元通りに土の中に埋めました。どうしてそんなことをしたのか、わたしにもはっきりとはわかりません。ただ、ネックレスを手元に置いておきたくなかったのです。いつか『彼』が島に戻ってきて、皆で宝箱を掘り出す時まで、わたしはネックレスを見たくないと思ったのです。
 丁寧に箱を埋め直して立ち上がり、暗い海をしばらく眺めた後で、わたしはもう振り返りもせず、一目散に家に向かって歩いて行きました」

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 イータさんは口をつぐんだ。そしてまたワインを一口飲んだ。私もワインを口にした。ふと思い出して、私は小さな手提げ鞄の中からひとかけらのチーズを取り出した。そしてそれをイータさんに勧めた。
 「いいえ、結構です」とイータさんは言った。「どうもありがとうございます。でも、わたしは今はワインだけで沢山です」
 「そうですか」そう言ってから私は少し考えたが、結局チーズをまた鞄の中に戻した。
 「島を出て、レジスタンスとして戦うことにしたということは、『彼』の口から直接聞きました」とイータさんは言った。
 「その頃には、半ば気恥ずかしさから、それほど親密に付き合っているわけでもなかったのですが、それでもお互いに常に気になる存在ではありました。幼い恋といえば、確かにそのようなものであったのだと思います。けれども、それ以上に、わたしにとって彼は理解者でした。わたしが辛いと感じている時に、すっとその気持ちを掬い取ってくれる人、そういう人でした。もちろんそれはわたしの一方的な思い込みにすぎません。ですが、わたしには彼のことがそう思えるというだけで、十分に大切な存在だったのです。あなたには、そういう人はいませんでしたか?」
 私は黙っていた。けれども、じっと私を覗き込むイータさんの眼差しに答えるように、小さく頷いて、言った。「ええ、確かに私にもそういう人はいたような気がします」
 イータさんは微笑み、続けた。
 「あの日のことは、よく憶えています。初夏の、とても暖かくて乾いた日でした。
 その日の夕暮れ時、わたしはひとりで家を出ました。一体何の用事があったのか、それとも特に用事があったわけではなかったのか、それは思い出すことができません。けれどもどこか熱に浮かされたような気分で、町の細い路地を歩いていたのを憶えています。人は余り歩いては居ませんでした。気配だけは沢山あるのですが、乾いた夕暮れの光の中で、それらの気配はどこか恐ろしいもののような気がしました。歩きながら、わたしは空を見上げました。空にはオレンジの雲がとても早く流れていました。ここではそれほど風は感じないのに、空では随分と強い風が吹いているんだなと思ったのを憶えています。
 そうして空を見上げていると、どこかでわたしを呼ぶ声がしました。首を巡らせると、『彼』がこちらに向かって歩いて来るのが見えました。わたしは足を止めました。『彼』は、わたしと目を合わそうとはしないのですが、どんどんとこちらへ向かって近付いてきました。わたしは彼の名前を呼びました。すると彼は軽く手を挙げて、合図をしました。
 『何?』とわたしは言いました。すると彼は、『うん』とも、『ああ』とも取れるような曖昧な返事をしました。わたしは黙って立っていました。やがて『彼』はわたしの近くにまでやって来て、言いました。『どこへ行くのさ、イータ?』
 はっきりとは憶えていませんが、わたしはその時、『別に』とか、そんな簡単な返事をしたと思います。それから少し、何でもないような遣り取りがありました。その後で、彼はちょっと真面目な様子になって、あのさ、と切り出しました。
 『俺さ、島を出て、レジスタンスに入ろうと思うんだ』
 言葉がありませんでした。彼のことが好きとか、それまでそういう風に考えたことはなかったのですが、いざ彼がここから去ってしまうということになると、無性に寂しくて、動揺したというより狼狽したと言った方が正しいほどでした。それでもわたしの口から出た言葉は『へえ、そう』という一言だけでした。
 『うん』と彼は言いました。それから、引きつったような笑いを浮かべたわたしに、彼は言いました。『今夜遅くなってから、島をそっと出るんだ。イータには知らせておきたかったんだよ』
 『うん』わたしは引きつった表情のまま言いました。そして、それ以上言葉が出ては来ませんでした。
 『じゃあね』と『彼』は言いました。『会えてよかったよ』
 わたしは黙っていました。『彼』も言葉を失った様子でした。けれども、それはほんの少しの間でした。
 やがて『彼』が言いました。『じゃあ、行くよ』
 そして続けました。『戦いが終わるまでは会えないけど、またきっと帰ってくるよ』
 そうして『彼』はわたしに手を振って、路地の向こうへ消えて行きました」

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 「1939年に、第二次世界大戦が始まりました」遠くを見るような目をして、イータさんは言った。「夏の終りの頃でした。急激に全てが変わったわけではありません。ただ、不穏な空気がざっと辺りを覆って行くような予感がありました。大人たちは、どこか浮き足立っているように見えました。それでもわたしにはまだ何が起ころうとしているのか、分かっていたわけではありません。間もなくして、わたしたちの国が大きな意思を持って、悪意のある圧力を跳ねつけたのだという話題が島を駆け巡りました。そのことに、島の男たちは色めきだっていました。彼等の吐き出す汚い言葉が、わたしの耳にも入ってきました。そしてそうした言葉は、島の少年たちにもいち早く伝染し、彼等もまるで自分たちもいっぱしの戦士であるかのような口を利くようになって行きました。それは、『彼』にしても例外ではありませんでした。『彼』も早く一人の戦士として、戦いに加わりたいと言うようになっていたのです。
 翌年は、わたしたちの国はその強い意思によってしっかりと持ちこたえましたが、さらにその次の年になると、情勢は一気に変わってしまいました。わたしたちの国の指導者が急死し、求心力を失ってしまったのがその発端でした。その混乱に乗じて、同盟国の力を借りて敵国が一気に攻め入ってきたのです。こうなっては、ひとたまりもありませんでした。わたしたちの国は制圧され、敵国の支配下に置かれました。とはいえ、完全に制圧されたわけではなく、それからも各地に散らばった幾つものレジスタンスが抵抗を続けました。けれどもそうしたレジスタンスが拠点にしたのは山間部で、海は厳しい航海制限を受けましたから、島に関して言えばそれほどの抑圧を受けたというわけではありませんし、戦闘らしい戦闘もあまり行われませんでした。とはいえ、敵国による農作物などの搾取は厳しさを極めており、誰もが満足な食事を摂ることができるような状態ではありませんでした。わたしには、戦争が終結するまでの数年間、ほとんど満足な食事をしたという記憶がありません。いくら作物を作ったところで、殆どが搾取され、島民の手元に残るものはほんの僅かでした。わたしたちはいつも飢えていて、海に出かけては一生懸命に小さな貝を探し出し、おやつ代わりに食べたりしていたものです。嵩がないので、お腹の足しにこそなりませんでしたが、今にして思えばあれが随分滋養になったように思います。
 やがて、抑圧による苛立ちが、島の男たちの中で抑えきれなくなってゆきました。戦いに参加するために、夜陰に乗じて島をそっと抜け出す人々が眼につくようになってきました。若い男たちにそれは顕著でした。それは、押し留めることのできない、一つの流れのようにさえなっていました。他聞に漏れず、『彼』もそうして島を出ることを決意したのです」

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 イータさんはすっと口をつぐんで、遠くを見詰めた。私はイータさんの横顔を見ていた。イータさんは小さく口を動かしながら、じっと黙っていた。それからちょっと頭を傾け、手で撫でるように髪に触れてから、また話を始めた。
 
 「あの時は、本当に嬉しいと思いました。あんなに嬉しかったことは、それまで一度もなかったくらいでした。わたしは『彼』からそのペンダントを受け取ると、大事に両手で包み込みました。すると涙が次から次へと流れてきて、止まらなくなりました。それでもわたしはもうそれが恥ずかしいとか、見られたくないとか、感じませんでした。ただ涙を流したかったし、それが今この時わたしがする一番自然なことなのだと感じていました。『彼』はそうして涙を流すわたしに少し狼狽した様子でしたが、それでもじっと何も言わずにわたしの傍に居てくれました。
 さんざん涙を流して、もうこれ以上は泣けないというほど泣いた後、わたしは『彼』と町に戻りました。涙で洗い流された瞳には、町がとても美しく見えたのを憶えています」
 「それで」と私は言った。「イータさんは、その『彼』とはどうなったのですか?見たところ、そのネックレスは卵ではなくて、ひよこのようですけれど」
 「ええ」とイータさんは言った。「仰るとおりです。実はその後は、『彼』とは特に劇的な進展があったというわけではないのです。親しく付き合ってはいましたが、余りにも幼い頃からの馴染みでしたし、恋人と考えることはできなかったのですね。それは『彼』にしてみても同じのようでした。ごく普通の、親しい友人として付き合っていましたが、異性ということで、それから二年も経った頃には、それも次第に疎遠といってもよい関係になっていました。
 ネックレスの話でしたね。
 少し話を戻します。
 わたしが『彼』からネックレスを貰った当時、わたしは『彼』以外にも何人も親しい友達がいて、いつでも一緒に遊んでいたものでした。
 ある時のことです。わたしたちがいつものように皆でこの場所で遊んでいた時、仲間の一人が、皆でこの木の根元に大切なものを埋めようと言い出したのです。そして、皆が大人になったら、また集まって、掘り出そうと。言い出しっぺだった彼は、とても綺麗で丈夫なお菓子の箱を貰ったそうで、その箱の用途に頭を絞った結果、そういうことを思いついたらしいのです。いわゆる、タイムカプセルというのでしょうか、そうしたものですね。わたしたちは皆その思いつきを素敵だと思いました。それで、皆で大切なものを持ち寄って、箱に詰めて、そっとそこの木の根元に埋めました。そして、今から二十年たったら、その時皆がどこにいても、きっと集まって掘り出そうと誓ったのです」
 イータさんは首を巡らせて樹を見詰めた。風に、さわさわと葉が揺れていた。

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 町の外れまで行くと、その先はもう真っ暗で、道を辿るのも覚束なくて、わたしはそれ以上進むのを躊躇しました。けれども戻る気にもどうしてもなれませんでした。それで、わたしは目が慣れるのを待ってから、思い切って少しづつ先へ進んでゆきました。一歩進むたびに挫けそうになった、あのときの不安な気持ちは忘れられません。それでもわたしは意地になっていましたし、どうしても素直に退くことはできませんでした。
 そうして暗い道を随分と歩いた時、後ろから足音が追ってくるのを耳にしました。わたしは身体を固くしました。怖いという気持ちと共に、どこかほっとしたような気持ちもありました。きっと両親がわたしを追ってきてくれたに違いない、そう思ったからです。けれどもわたしは足を止めたり、振り返ったりはしませんでした。むしろ、いっそう足早に歩き始めました。歩きながら、わたしは耳をじっと欹てていました。追ってくる足音は小刻みになり、すぐに駆けて来る音に変わりました。そして、『シータ!ちょっと待てよ!』と叫ぶ声がわたしを呼び止めました。はっとして、わたしは足を止めて、振り返りました。息を切らせて駆けて来たのは、両親ではありません。『彼』だったのです。
 心細さに緊張していた心が緩んだのと、きまりの悪さとで、わたしは何も言えずにそのまま立ち尽くしてしまいました。どうしたらよいのか、全くわからなかったのです。『彼』はすぐに追いついてきました。けれども、彼も追いついたのは良いけれど、次にどう言えば良いのか、戸惑っている様子でした。
 どこへ行くんだ?、とやがて『彼』が言いました。
 いつもの所よ、とわたしは答えました。
 だって、暗いよ。
 夜だもの、暗くて当たり前でしょ。
 何言ってるんだよ。そんな意味じゃないだろ。『彼』は言いました。どうしてかって聞いてるんだよ。
 わたしの勝手でしょ。行きたいから向かってるの。悪い?
 悪くないけどさ、危ないだろ。
 いいわよ。どうせ誰もわたしの心配なんてしてくれないんだから。
 何言ってんだよ。俺は心配したからこうして来たんだぞ。
 わたしは言葉を詰まらせました。涙が次から次へと溢れてきて、嗚咽が止まらなくなりました。その言葉が嬉しかった。そう言ってしまえば簡単なのでしょうが、正直なところ、なぜ泣いているのかわたしにも分かりませんでした。ただ、色々な気持ちが一斉に押し寄せてきて、嗚咽を押し留めることができなかったのです。
 一通り泣いた後、わたしは『彼』に、自分がこうして家を飛び出した経緯を話しました。『彼』は時々変な相槌を打ちながら、わたしの話を最後まで聞いてくれました。『彼』がどこまで理解しているのかはわかりませんでしたが、それでもそうして話すことで、多少は落ち着いた気持ちになった気がしました。とはいえ、悲しさは深くて、とてもじゃありませんが、すっきりとした気持ちにはなれませんでした。むしろそうして話すことで、わたしは世界で一番不幸な少女になってしまったかのような、そんな気持ちにさえなっていたのです。
 そんな時です。『彼』はポケットをさぐって、何かを取り出しました。そしてそれを手のひらの上に載せて、わたしにかざして見せました。覗き込むと、それはネックレスのようでした。
 首飾り。二つあるんだけど、ほら、見てみな。
 そう言いながら、『彼』はそのネックレスを左右の手にひとつづつ持って、そっと合わせて見せました。
 わあ、すごい。
 わたしは眼の前がぱっと明るくなった気がしました。
 『彼』の手にあるネックレスは、一つだけだと下方がギザギザになった半円形にすぎないのですが、二つを合わせると、ちょうど一つの円になるように出来ているものだったのです。
 ほら、俺んちは土産物とか作ってるだろ。『彼』は言いました。それで、こんなのを考えたらしいんだ。二つを合わせると、一つの形になるネックレス。で、これは失敗したからって捨てようとしたやつなんだけど、要らないなら呉って言って、貰ったんだ。二つ合わせると、卵の形になるやつ。
 なるほど、確かによく見ればそれは少し歪で、卵の形に見えなくもありませんでした。じっと見詰めていると、『彼』はその片方をわたしに差し出して、言いました。
 これ、片方やるよ。
 黙ってわたしが受け取ると、『彼』は続けて言いました。
 一個づつ持ってよう、ずっと友達でいるという証拠に、と」

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 今でもはっきりとあのときの光景は憶えています。初夏の宵のことでした。あちらこちらの家から夕餉の香りが漂い、愉しそうな声がしていました。細い路地にも、灯りが漏れていました。見上げると、空はまだ完全には暗くなりきれていないといったような群青で、それでも一面に星が出ていました。触れると痛そうな、鋭い三日月が空にかかっていたのも憶えています。家を飛び出したところで、行く当てなどあるはずはありませんでした。両親のどちらかでも、追いかけてくるかとも少し期待していましたが、その気配さえありません。それでわたしは余計に寂しくなって、知らず知らずのうちに涙が出てきました。けれども顔を伏せて、誰にも見られないようにしながら路地を歩いて行きました。行く当てなどありませんでしたが、足は次第に町から離れて、今わたしたちがいる此の場所へ向かっていました。理由は単純なことです。あの頃、わたしたちはよくこの場所に集まって、皆で遊んでいたのです。よく知っている場所に足が向かうのは、当然のことでした。
 ところが、暫く歩いているとどこからかわたしの名前を呼ぶ声が聞こえてきました。それで、ふと足を止めました。近付いてくる足音がして、またわたしの名前を呼びます。その時、わたしの名前を呼ぶその声が『彼』のものであることに気付きました。わたしの目はまだ涙で濡れていましたし、きっと腫れてもいるに違いありません。それで、きまりが悪くなったわたしは気付かなかった振りをして、足を早めました。けれども、後ろから足音はずっと付いてきます。わたしは振り返りもせずに、ずっと歩き続けました。すると、足音が急に早くなって、すぐに『彼』がわたしに追いついてきました。
 何で逃げんだよ、と『彼』が言いました。けれどもすぐに『彼』はわたしが泣いていることに気付いて、言葉を続けることが出来なくなったようでした。その様子に、わたしはなぜかちょっと落ち着いたような気持ちになりました。
 泣いてるのよ、とわたしは言いました。見ればわかるでしょ。何であんたがここにいるのよ。恥ずかしいからもう見ないでよ。あっちへ行って。
 『彼』は戸惑った様子でしたが、立ち去ろうとはしませんでした。やがて、『彼』は言いました。
 なあ、どうかしたのか?
 どうもしないわ。もう放っといて。
 わたしはそう言うと、彼を残してさっさと歩いて行きました。けれども、そうして歩きながら、ずっとどこかで『彼』の気配を探っていました。しかし彼の足音はもう聞こえては来ませんでした。酷いことを言ったから呆れたんだろう、とわたしは思いました。そう思うと、またわたしは寂しくなりました。また涙が溢れてくるのを感じました。それで、それからは真っ直ぐ足早に、この場所に向かって歩いて行きました。

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 柔らかい風が吹いて、樹がまた大きくさわさわと音を立てた。その音は、私たちの束の間の沈默の間を流れてゆくせせらぎのように、静かに響いて聞こえた。その音が流れ去った時、イータさんは口を開いた。
 「あなたには、幼なじみは居りますか?」
 ええ、と答えかけて、私は言い澱んだ。そして、少し考えて、私は言った。「いえ、もしかしたら幼なじみと呼べるような友人は誰一人としていないかもしれません。私は子供の頃に引越しをして、生まれた土地から遠く離れた場所に移りました。最初の頃は、手紙の遣り取りなどもしていたのですが、いつの間にかそれもなくなり、没交渉になったままです。今では皆何をしているのかも知りませんし、例え偶然どこかで擦れ違うようなことがあっても、きっと気もつかないでしょうね」
 「そうですか」とイータさんは言った。そして続けた。「この島は、見ての通り小さな島です。ですから、年の頃の近い子どもはそれほど居るわけではありませんでしたが、それでもわたしには幼なじみと言える人が何人かいました。いました、という表現をしたのは、友人の大半はもう何年も前にこの世を去っているからです。そして幾人かの友人は、あなたと同じように、まだ若いうちに此の島を離れて、今ではもう生きて居るのかどうかさえ分からなくなってしまっています。それでもわたしは、そうして遠くに居る友人たちのことを、きっと幸せに生活しているのだと信じています。いえ、それは友人たちの幸せを願っているというよりは、多分自分がそう考えたいのだと思うのです。年を重ねるごとに、物事は良い方に考えたいと思うようになって来たのです
 話が少し逸れましたね。ともかく、そうした幼なじみの中に、一人の男性がいました。……『彼』の名前は内緒にさせてくださいますか?ほんのささやかな思い出に過ぎない話ですから、ごめんなさいね。そう、その『彼』とわたしとは本当に幼い頃から、ずっと仲良く育ってきました。家が近かったですし、年も全く同じだったものですから、丁度遊び相手に良かったのですね。それで、ずっと幼い頃にはわたしたちは全く性別の区別なく一緒に遊んでいました。余りに仲が良かったものですから、ある程度の年齢になっても、わたしたちはやはり変わらずにそうして仲良くしていたものでした。
 ところで、わたしたちが生まれて暫くした頃から、次第にこの島の景気も悪くなってきていました。アメリカに始まった世界恐慌の影響がこの国にも確実に届いていたのです。わたしたちの島は片田舎ですから、まだそれほど大きな影響は被ってはいなかったようですが、それでも少しづつ暗い影のようなものが近付いてきているのを感じることがありました。大人たちは懸命に働こうとしていましたが、彼等の口から、有効な対策を打てない国に対する不満を聞く事もしばしばでした。わたしも『彼』も、それに外の友達も、誰もが幼い頃から家の手伝いをしていましたが、そうして大人たちに混じっている中で、どこか暗い影のようなものの気配を確かに感じていました。もちろんそれは微細なものですが、そうしたものは意外と心の中に深く刻まれるものです。それに、わたしの場合は、両親の不仲というものが加わりました。些細なことで、父親が腹を立てることが多くなっていたのです。大きな喧嘩にまで至ることは少なかったのですが、そうして両親が互いに感情的になっている時、わたしはいつでも居場所がないような気分になって、不安でたまらなくなりました。それで、わたしが十歳のあるとき、両親が喧嘩をしている目の前で家を飛び出したことがありました。

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 「わたしが生まれたのは、1928年のことです」とイータさんは言った。
 「1928年の或る冬の朝でした。『おまえが生まれた日はとても寒い日で、雪が降っていたんだよ』と母は口癖のように申しておりました。『一面に雪が降り続けて、本当に真っ白だったね』と。此の島に雪が降るのは滅多にないことですから、余程、印象に残ったのでしょう。母はもう四十年も前に神の御許に召されましたが、此の島にあれ程の雪が降るのを見たのは其の時が初めてで、そしてそれきり一度もないと、最後まで云っておりました。母はずっと矍鑠としておりましたし、その言葉は、いくらか話に尾鰭が付いていたかもしれないにせよ、あながち誇張とは云えないでしょう。実際、わたしは此の島で八十年以上も生活しておりますが、雪が降るのを見たことは、両手で数えることが出来るほどです。そしてその殆どは、積もる事もなくあっさりと消えてしまう雪でした。
 あなたは、雪を見たことがありますか?」
 私は答えた。「ええ、私の故郷には、それほど多くはないですが、冬には時折雪が降りましたし、多少は積雪もしましたから。雪は、それほど珍しいものではありませんでした」
 「そうですか。それではあなたは此の島よりも少し寒い国からいらしたのですね。
 わたしはこの島で生まれ育ちましたが、この年になるまで、一度として此の島の外で暮らしたことはありません。もちろん本土や、外の島に束の間用事で出かけたことは何度かありましたが、いつでも数日から数週間程度の短期間の滞在に過ぎませんでした。ですから、わたしの人生の殆ど全ての時間は、この小さな島で営んだ生活に費やされて来ました。あなたのような旅人には不思議だと思われるかもしれませんが、それを疑問に思ったことは一度もありません。もしかしたらわたしの人生というものは、この数十年の間ずっと、此の島を構成している要素の一部だったのかもしれません。此の島の樹や草や石や土や花や……そうした様々なものと等しく」
 イータさんは言葉を区切った。そしてワインを一口啜って、「美味しいですね」と言った。私は微笑んだ

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 イータさんは微笑んだ。そして、少し腰を浮かして、ベンチの端に寄せて座った。私は軽く会釈をして、彼女に並んでベンチに腰を掛けた。その瞬間少し風が吹いて、青く葉を繁らせた樹が、ざわわと鳴った。私は手に提げたトートバックからワインと紙のカップを取り出し、手でコルクを廻して抜いた。そしてカップに注ぎながら、「実は飲みかけのワインなんですが」と言った。イータさんは小さく頷きながら、微笑んでいた。私はカップを彼女に渡した。そしてもうひとつのカップにも同じようにワインを注いだ。それから私達は軽く乾杯をして、ワインに口をつけた。
 穏やかな明るい日だった。眼下には海が見えていた。海には何艘もの船が浮かんでいた。この時間には島の漁師たちの船は殆どない。大半は観光客のための船か、物資を運ぶ船だ。島々を巡るクルーズ船も見える。見慣れた、穏やかな光景だった。
 「気持ちのよい天気ですね」私は言った。「ほんとうにいい天気ですねえ」とイータさんは相槌を打つ。それから言葉が続かない。私はカップのワインを口に含み、言葉を捜した。だが言葉はなかなか見つからない。イータさんの方は、穏やかにじっと海の方を見詰めている。
 「イータさんには、この場所は馴染みなんですよね」と私は言った。「やっぱりこの穏やかな光景がお好きなんでしょうか?」
 「ええ」とイータさんは言った。「ここは本当に見晴らしもよくて、穏やかな日にはとても心地のよい場所です。ですから、わたしは大好きなんですよ。でも、本当を言いますと、わたしがここに来るのには、もっと別の理由もあるんですよ」
 「別の理由ですか?」私は何気ない口調を装いながら、言った。「へえ、そうなんですか。あの、それがどんな理由なのか、もし秘密でなければなんですが、聞かせて頂きたいのですが」
 するとイータさんは「そうですねえ」と言ったきり口をつぐみ、遠くを見詰めた。その瞳はまるで水平線の向こうを見詰めているかのようだった。私はじっと黙ったまま彼女の言葉を待った。随分長い間彼女は黙っていた。この会話はこのまま終わってしまうのかもしれないな。そう私が思った時、風が吹いて、樹の葉がさわさわと鳴った。と、不意に彼女は手にもったカップを口に運び、それから言った。「ちょっとした思い出話で、お聞かせするほどの話でもないんですけれども、ワインのお礼に、お話させていただきましょう」
 イータさんは胸元に手を遣った。そして小さな黄色いひよこのネックレスに触れ、それを手に乗せて、ちょっと私の方に翳して見せた。
 「このネックレスについての話なんです」と、イータさんは話し始めた。

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 イータさんは無口な女性だった。この島に無口な人間は少ないが、それが女性ともなると、本当に珍しかった。言い換えると、彼女はその無口さによって、却って雄弁であったとも言える。知らず知らずのうちに、私は彼女と言葉を交わしたくて仕方がなくなっていた。だが、私にも多少人見知りな所もあったし、時には思い切って「今日は良い天気ですね」とか、いろいろと話し掛けたりもしたのだが、いつも彼女の答えは「ええ、そうですねえ」とか、そうした相槌の域を出ようとはしなかった。それで、私はそれ以上深い話をすることも出来ずに、擦れ違うしかなかったのだ。
 イータさんと初めて長い会話を交わしたのは、そうした私なりの地味な努力を積み重ね始めてから、数週間も過ぎた頃だった。
 この島は火山性の島だが、町を外れて暫く行くと、荒地の中に畑が点在している。栽培されているのはレンズ豆やワイン用の葡萄などだ。島の数少ない農産物だが、名産品とされていて、結構高い値がつくらしい。
 そうした畑の所々に数箇所、畑ではなく、ただ見晴らしのよい広場になった秘密めいた場所がある。島で日々暮らすうちに、私はあちらこちらを歩き回ったが、いつしかそうした小さな秘密めいた場所に好んで出かけるようになっていた。特に私が好んで出かけたのは、島の海に面した斜面にある小さな場所で、そこには一本の大きな樹があり、その近くには誰が作ったのか、粗末な木のベンチまであった。私は時々ワインを一本抱えてその場所へ向かい、ベンチに座って読書をしたり、ちょっとした書き物をしたりしながら過ごすことがあった。そこに人が来る事が余りなかったから、ゆっくりとした時間を過ごす事が出来たのだった。
 そうしたある日のことだった。私がいつものようにその場所を訪れた時、思わぬ先客がいたことに驚いた。イータさんだった。彼女はじっと粗末な木のベンチに座って、海の方を眺めていた。最初はどうしようかと思ったものの、そのまま私は彼女の方に向かって歩いていった。イータさんの方も、私に気付いて軽い会釈をしてきた。
 「こんにちは、イータさん」と私は言った。
 「はい、こんにちは」とイータさんは言った。そうして、じっと私を見詰めていた。次の言葉を待っているのだろうと私は思った。
 私は言った。「思わぬ場所でお会いしましたね」
 「ええ」と彼女は言った。だが、それきり言葉が続かない。
 私は言葉を捜した。「ここは本当に見晴らしのよい場所ですね」
 「本当にねえ」
 「ええ、本当に。私はここを見つけたとき、いい場所を見つけたと思って嬉しかったんです。で、誰も知らない自分だけの場所のような気になっていたんです。だから、イータさんにこうして出会って、驚きました」
 「わたしも驚きましたよ」とイータさんは言った。「ここは島のひとでもあまり来ない場所ですからねえ」
 「そうなんですか」と私は言った。「どうりでこれまで余り人に会わなかったはずです。でも、イータさんはよく此処には来られるんですか?」
 「ええ、時々」
 「そうなんですか」
 「ええ、若い頃からずっと。時々なんですけどねえ、もう何十年にもなりますかねえ」
 「そんなに?ああ、じゃあ私が闖入者というわけですね」私は頭を掻いて見せた。「あの、実はワインを持っているんですが、よかったら一緒にどうでしょうか?ちょうどコップも二つあるんですよ」
 「それはどうもありがとうございます。せっかくですから、少し頂きます」イータさんは言った。
 「いつ、誰と出会ってもいいように、いつも二つ持ち歩いていて」私は言った。「これまでは使う機会もなかったんですが、ようやく役に立つ機会が廻ってきました」


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 ひよこのネックレスをした老婆がいる。年齢は八十歳くらいだろうか。背中が少し曲がっているが、黒い帽子を被って急な坂道をゆっくりと歩く姿がとても上品に見える。郵便局で初めて彼女を見たときもそう思った。それで受付にいたガンマにちょっと目配せをして訊いたところ「彼女?ああ、イータさんだよ」との返事。街の中腹で一人で住んでいるという。
 「結婚はしていないんですか?」
 「もちろんしてたよ」ガンマが言う。「でも、ご主人はずっと前に亡くなった。娘さんが一人いるんだけれど、ずっと前に島から出て都会に住んでいるらしい。『しょっちゅうこちらへ来いって言われるんだ』とイータさんは言ってるね。でも、ずっと断りつづけているみたいだ。『せっかくそう言ってくれているんだから、行ったらどうだ』と皆は言うんだが、彼女は生まれ育ったこの島から出たくないんだってさ」
 「気持ちはわかりますね」
 「まあ、そうだな」とガンマは言った。「でも、現実問題、この島は坂道や階段ばかりだろ?年寄りにはちょっと住みやすいとは言えない島だよな。娘さんにしても、仕事のことがあるから都会を離れるわけには行かないけれども、やっぱり気になるんだろう。まあ、そのうち本当に身体がきつくなったら、きっとこっちに来てくれるだろうと思っているんだろけどね」
 郵便局を出てから、私は町を見上げた。確かにこの島の町は年をとってから住むのに適した場所とは言えないかもしれない。海から盛り上がる急な斜面に張り付くようにして町が出来ているのだから。景観としては美しく、私のような観光客、あるいは旅人にとってみれば、確かに魅力的な場所なのだろうが、ずっと住み続けるとなると話が違う。医療の問題だってある。重い病気にでもかかってしまったら、この島で治療することなんて出来ないだろう。
 それからは、イータさんを見かけるたびに軽い会釈をするようになった。すると彼女の方も足を止めて、ゆっくりとした会釈を返してくれる。特に会話はない。そうして擦れ違うのだが、その後でいつでも私は振り返って彼女の姿を眼で追わずにはいられなかった。イータさんは、ゆっくりとした足取りで、一歩一歩転ばぬように気をつけながら、町の細い路地を歩いて行く。その後ろ姿には、どこか私の心を切なくさせるものがあった。

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 「それじゃあ、もしかしたら、無意識に?」
 「他に考えようがない。幽霊の存在の可能性を考えなければ、ということだけれど」
 ゼータは続けた。
 「思い当たるふしは、ないわけではなかった。朝起きたら、昨日眠る前に落としていたはずのパソコンが起動したままになっていたり、妙な疲れが残っていたり。でも、深く考えようとはしなかった。一人暮らしをしていると、よくあることだから。それに、もしそうだとしても、ただちょっとしたバグが出来ているというだけのことで、それほど深刻に捉える必要もないような気がしていたんだ。まあ、実際は結構大変なことなんだけど、僕の感覚自体も少し麻痺していたんだろうな。だが、それでは済まなかった。バグは、やがて一人歩きを始め、ウィルスとなった。それも、コンピュータのシステムを壊しかねないような、たちの悪いウィルスだ。こうなっては、どうしようもなかった。作者として、そのゲームを公開停止にする以外に方法がなくなってしまった。嵐のように非難が集中したよ。そりゃそうだろう。僕は、自分には何が起こっているのか分からない、これはおそらくハッカーの仕業だろうというコメントを出した。他に方法などないからね。だが、そんなコメントなど何の意味もない。それもわかっていた」
 「それで?」
 「それだけだよ。僕はそれきりそのゲームの公開を停止した。それだけではなくて、それ以降、自分では何一つゲームを作ってはいない。仕事でやっているくらいだ。だが、それももう止めようと思っている」
 「どうして?」私は言った。
 「わからないよ。ただ、何だか糸が切れたような気分なんだ」ゼータは言った。
 
 ふと我に返って、私は辺りを見渡した。さっきの少年はまだじっと画面に魅入っている。
 あれから私はゼータに会っていない。今どこにいるのかも、分からない。日本を出るとき、私は彼の携帯に電話をかけたが、繋がらなかった。彼の足取りは、それきり途切れたままだ。
 カチッカチッと音がする。私は席を立った。そして、明るい午後の陽射しの中に歩を進めた。

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 私は冷たいビールが注がれているグラスを口に運びながら、彼の顔を見た。間接照明の黄色い光が、彼のブリーチした前髪と溶け合っていた。
 「いっそ止めてしまうべきだったんだろうな」とゼータは言った。「だけど、止めるのにもタイミングがある。僕はそのタイミングを完全に逸してしまっていたんだ。毎日、何十通ものメールが届く。激賞のメールからウィルスメールまで、ありとあらゆるメールが。返信はしなかったけれど、ネット回線の向こうから、沢山の期待が僕に向けられているのは肌で感じた。だから続けるしかなかった。僕は、自分でも嫌になるほど、真面目な性格なんだよ」
 「真面目なのは、悪い事じゃないと思うけど」
 「まあ、そうだと思うよ。でも、それもやっぱりいろいろだ。」ゼータは言った。それから、またビールを飲んで、自分の言葉を確認するかのように、少し頷いた。
 「おかしなことが起こり始めたのは、そうしてゲームを作ることが苦痛だと自覚し始めてから、三ヶ月ほど経った頃だった」ゼータは言った。
 「僕の作ったゲームに、奇妙なバグがあるという噂が広がり始めたんだ。それは、ある一定の条件を整えた時に、ゲーム画面の煤けた壁をすり抜けて、別の世界へ入り込んでしまうというものだった。そして、そこから出る事が出来なくなってしまう。その別の世界というのは、不思議な網目模様が張り巡らされた場所なんだけれども、よく見ると、一つの街がそこに浮かび上がっているようなんだ。自分で作ったゲームだから、確認したよ。確かに、そのバグは存在した。僕は慌ててソースを調べてみた。すると、そのバグがイベントとして起こるということが、ちゃんとソースに記述されていたんだ。要するにそれはバグではなく、悪意を持ったイベントだったというわけだ」
 ゼータは、言葉を詰まらせた。微かに震えているようだった。
 「もちろん僕にはそんなソースを書いた覚えなんてなかった。だが、僕は一人暮らしだし、ゲームのソースを表に持ち出したこともない。ゲームのプログラムをいじることの出来るような友人を部屋に招いたこともない。そもそも僕は、殆どだれも部屋に呼んだりしないんだ。だから、もしその記述をした人間がいるとしたなら、僕以外には考えられないんだ」

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