漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




マーガレット・アトウッド「侍女の物語」(斎藤英治訳/新潮社)読了。

 ディストピアもののSFとしてもフェミニズムを扱った文学作品としても高い評価を受けている、名作の誉れ高いアトウッドの代表作。多くの賞を受賞し、未見だが、映画化もされている。出版された当時からずっと何となく気にはなっていた作品だったが、ようやく読んだ。一言でいえば、圧巻だった。しかし、もしこの小説を若い頃に読んでいたとしたら、男性である自分は、単なるひとつの可能性としてのディストピアものとしか思わなかっただろう。しかしこれまでの経験に加え、Twitterなどで、自分が「ただ単に男性である」という理由だけで、経験せずに済んでいることがこんなに沢山あるのだということを知るようになった今、この小説は決して荒唐無稽な未来のディストピアを描いた物語ではなく、今この日本にも、いやむしろ日本にこそと言うべきか、根深く残っている女性差別に対する諷刺小説であり、すぐそこに現在進行形で存在する現実を描いた物語であり、いつでもシームレスに移行しうるディストピアを描いた物語であると、ようやく読めるようになった気がする。
 ことさら強く非難に満ちた言葉が声高に散りばめられているわけでもない、むしろほとんど詩的とさえ言える、最も弱い者の口から紡がれる諦念に満ちた静かで淡々とした文体が続く。しかしその文体こそが、この小説の根底をしっかりと支え、力と説得力を与えている。ナチス政権下で、ドイツ人とユダヤ人のもとに生まれたハーフの少女の寄る辺ない悲劇を描いた、イルゼ・アイヒンガー「より大きな希望」が、少女に寄り添うような視点からの、まるで夢の中の出来事を描いているかのような高揚感のある詩的な文体を持ち、それが深い孤独を描き出していたように。いずれにせよ、迫害される存在の多くには、声高に叫ぶ力などありはしない。ただ諦念を含みつつも、なんとか先へと、明るい光などは見えないが、それでも狭まった視界のいくらかでもほの明るい先へと、やっと進もうとすることができるだけなのだ。
 
 物語の舞台は近未来のアメリカ(本編中でははっきりとは書かれていないけれども、最後に挿入されている「歴史的背景に関する注釈」の章でそれが分かるようになっている)が、キリスト教原理主義者たちによって起こされたクーデターによって制圧され、代わりに成立したギレアデ共和国。それこそ、いまこの小説を読んでいる自分がいる時間から、二年とか三年後の、ごく近未来だと思って読むと良いと思う。そのことによって、今現在の自分たちの権利や自由というものが、いかに脆い同意の上に成り立っているのかということを考えることになるからだし、そう意図されて書かれている。決して遠い未来に起こるかもしれない可能性ではないのだ、ということである。
 登場人物たちは、ほんの数年前までは普通の民主主義国家で生きており、その記憶もまだ生々しく残っているが、新たに成立した国家に反逆する気持ちはすでに失われている。新たなる国家が成立した背景には、環境汚染や核汚染などによって著しく低下した出生率がある。実際に子供を産める女性の数が、極めて貴重になっているわけである。そのため、妊娠する能力のある女性は、政府によって強制的に取り立てられ、政府の高官たちの「侍女」として、彼らの子供を生むための「道具」、あるいは「財産」という立場にされている。主人公は、of fred、つまりフレッドという司令官の所有物として、元の名前を奪われ、新たなるオフブレッドという名前をつけて呼ばれるようになっている。彼女は、数年前には夫も娘もいたのだが、クーデターの際に国から脱出しようとしたものの、失敗し、子供を産んだ実績があるということから引き立てられて、そういう立場に置かれてしまっている。夫も娘も、生死さえわからない。街のメインゲートの傍には、クーデター以前に堕胎などに関わったことのある医師らが処刑され、見せしめとして吊るされている。
 「侍女」たちにとって、子供を授かるということが、何よりのステータスになっている。もしいつまでたっても子供ができないと分かると、立場を追われて、汚染物質の清掃や娼婦のような、最も卑しい仕事につかざるを得なくなってしまうからだ。しかし、オフブレッドをはじめ、侍女たちはなかなか子供を授かることができない。彼女たちの使えている高官たちが「種なし」になっている可能性もあるというのに、それは認めようとはしない。彼女たちはなんとか妊娠しようとあらゆる努力をする。その挙句、検査医師らとの間に子供を作ろうとしたりもする。もちろん発覚すれば処罰の対象になるが、彼女たちも必死なのである。
 こうした背景の中、かつての「自由」だった時代や、夫や娘や母に思いを馳せながら、侍女としての生活を淡々と続けるオフブレッドの独白がこの「侍女の物語」という物語になっているが(ちょっと回りくどい書き方をしたのは、実はこの物語は枠物語になっているからである。それは、先ほどもちょっと書いたが、「歴史的背景に関する注釈」という実際の最終章を読めばわかるようになっている)、この小説が優れている点は、彼女が決して英雄的ではない、いわば「名無し」の一人として、淡々と世界とそこに生きる人々を見る「涙も枯れた目」になっていることだろう。親友だったモイラのエピソードなどは非常に辛いし、司令官ブレッドのエピソードも、何とも嫌な気分にさせられる。そして彼女がそうしたことを目にして感じる思いは、非常に感覚的、自閉的で、時にはアンビバレントなものであり、たやすく揺らいでしまう。ここでもアトウッドは、これはもしかしたらあなたの物語なのかもしれない、ということを読者に突きつけているわけである。
 この小説の最後には、ちらりと「女性の地下鉄道」という言葉が出てくる。「地下鉄道」というのは、地下鉄のことではなく、ウィキによると、「19世紀アメリカの黒人奴隷たちが、奴隷制が認められていた南部諸州から、奴隷制の廃止されていた北部諸州、ときにはカナダまで亡命することを手助けした奴隷制廃止論者や北部諸州の市民たちの組織」という定義がされている。この小説を読みながら何度も思い出したのは、まさにその「地下鉄道」というタイトルのもと、ややSF的なガジェットも利用しながら、19世紀のアメリカ南部の黒人差別を描いて昨年話題になった、コルソン・ホワイトヘッド「地下鉄道」だったかもしれない。容赦のない、淡々とした筆致も通じるものがある。
 当然のことだが、人種差別も女性差別も、性的マイノリティーや困窮者、身体障害者など、その他さまざまな弱者に対する差別も同根であり、差別が社会的に必要悪として認可されて横行する世界は、必ず歪んだディストピアになるわけで、そういった意味でも、この小説は単にフェミニズムを描いた物語としてではなく、すぐその先の未来に、あるいはまさに今この現在に、もしかしたら自分が陥るかもしれない、あるいは陥っている、「被差別者としての立場」に創造力を働かせるためのきっかけとなる物語になりうる作品として読まれればいいと思う。

最後にいくつか、パラパラとめくって目に着いた文章を引用しておきます。文脈がないと、いまひとつ伝わらないかもしれませんが。

「自由にはに種類あるのです、とリディア小母は言った。したいことをする自由と、されたくないことをされない自由です。あの無秩序な時代にあったのは、したいことをする自由でした。今、あなた方にあたえられつつあるのは、されたくないことをされない自由です」

「何事も突然変わりはしない。人は次第しだいに厚くなってゆくお風呂の中で、気づかないうちに茹でられて死んでしまうのだ。(略)わたしたちにとって新聞の記事は夢の出来事だった。(略)でも現実感は伴っていなかった。それらは大げさで、わたしたちの日常生活とは異なる次元の出来事だった」

「でも、それは間違っている。誰もセックスの欠如によって死にはしない。人は愛の欠如によって死ぬのだ。ここには、わたしが愛せる人が一人もいない。わたしの愛する人は、みな死んでしまったか、どこか他の場所にいる。(略)わたしもまた行方不明者の一人だ」

「正気でいることは、貴重な財産だ。わたしはかつて人々がお金を蓄えたように、正気を貯蓄しておく。いざというときに困らないように」

「彼はその雑誌をまるで釣りの餌のようにわたしの目の前にぶら下げていた。(略)昔はこいう雑誌をすごくバカにしていたからだ。わたしはこういう雑誌を歯科医の待合室で、ときには飛行機の中で読んだ。(略)そしてざっと目を通すと捨ててしまった。本当に捨ててもかまわないような代物だったのだ。そして一日か二日後には、何が書いてあったかも思い出せなくなるのだった。でも、今なら思い出せる。そこに書かれていたのは希望だったのだ。雑誌は変化を扱っていた」

「僕がそれをどうにかすることにしよう、とルークは言った。彼が猫を『あの娘』ではなく『それ』と言ったとき、わたしは彼が殺すつもりでいることを知った。それこそ、人が殺すときにまずすることなのだ。人は以前はそうではなかったものをまず『それ』に変える。頭の中でまずそうしておいて、それから現実に殺すのだ。そう、だからこそ彼らには殺すことができるのだ、とわたしは思った」



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J・S・レ・ファニュ「ワイルダーの手」(日夏響訳/世界幻想文学大系・国書刊行会刊)読了。

 19世紀のヴィクトリア朝時代にウィルキー・コリンズらとともに人気を博した作家J・S・レ・ファニュが、1864年に発表した長編小説。なんと、これに負けないほどのボリュームを持ち、最大の傑作とされる長編小説「アンクル・サイラス」と同年の発表ということで、いささか驚かされる。よほど旺盛な創造力に満ちた時期だったのか、それとも長く平行して書かれていたものがたまたま同時期に完成したものなのかは分からないけれども。
 正直に言えば、読む前は、古くさくて冗長で読みにくいんだろうなと覚悟していたのだが、いざ読んでみるとそれは全くの杞憂で(とは言うもののまあ確かに古くないといえば嘘になるが、それは時代ものだと考えれば特に気になるほどのものではなく)、むしろその語りの上手さと構成の巧みさ、それにリーダビリティの良さに舌を巻きながら、夢中になって読み耽ることになった。
 以下、簡単なあらすじを紹介すると――

 舞台はイングランドの田舎。その土地で最も有力な貴族がブランドン家で、いわば本家に当たる。その分家で、力を持っている一族がワイルダー家とレイク家。ところで、ブランドン家の跡継ぎに男子がおらず、未成年の美少女ドーカス・ブランドンが本家の資産を受け継ぐということになったことから、それを狙う分家のワイルダー家の長男マーク・ワイルダー(結構イヤな奴。ちなみに、彼の弟ウィリアム・ワイルダーは貧しい牧師で、結婚しており、病気で命も危ぶまれている幼い子どもがいるのだが、若い頃に書物を出版するためにこしらえた借金に今なお悩まされている)が、彼女と婚姻を結ぶことで、自分の資産とブランドン家の資産を統合して莫大な力を持つことを企む。そしてその話は実際にトントン拍子に進んで行くのだが、そこにやはり資産を目当てにした、レイク家の放蕩者、スタンリー・レイクが突然都会から舞い戻ってきて、絡んでくる(彼の妹のレイチェル・レイクはやはり美しい女性で、ドーカスととても仲が良い)。そうして、ドーカスとマークの婚姻が近づいてきたある日、突然マークが失踪してしまう。婚姻は宙に浮き、混迷する彼らのもとに、失踪したマークからの手紙が届き始める。しかし、彼自身は決してその姿を見せないで、移動を続け、手紙を送り続ける。やがてその手紙の中で、婚約の解消が告げられ、ドーカスも実はもともとスタンリーのことが好きであったことから、今度はスタンリーとドーカスの結婚が進められることになる。一方、そうした一族のゴタゴタに、敏腕だが腹に一物ある弁護士ラーキンは、その背後にある秘密に旨味を嗅ぎつけ、法律の許すギリギリのやりかたで、スタンリーからは地所の一部を、いよいよ窮したウィリアムからは、騙して財産復帰権を奪おうと奔走する…。

 基本的にはブラントン家の財産をめぐる静かな争いが物語のテーマとなっているのだが、そこにマーク・ワイルダーの失踪という謎が絡んできて、全体としてはゴシック的陰鬱さに彩られたミステリー、あるいはサスペンスと言った方が正確なのかもしれないが、そういった作品になっている。ここで言葉を濁したのは、おそらくは犯人もそのトリックも読者が最初に考えたそのまんまだからで、そういった意味では、ミステリーとして読むとしたら、きっと物足りないかもしれないからである。物語には明白な探偵役は出てこないし、強いていえば弁護士のラーキンがそうだが、これも彼の身勝手な企みのために色々と嗅ぎまわって手に入れた事実から想像した「かりそめの真相」を持つにすぎず、すべてが彼によって解決されるわけではない。真実は、もともと最初から内在していた破綻が次第に隠蔽に耐え切れなくなり、自ずと真相が表面に押し出されてきて、運命のような偶然によって突然明らかにされる。したがって、これは多分、ミステリーとしてではなく、ゴシック趣味に彩られたスリリングな物語として読むべきなのだと思う。同時期に書かれた多くの長大な物語と同じように勧善懲悪で(ウィリアムのエピソードなんて、ハラハラして読んだ)、読後感も決して悪くないが、主な登場人物たちは誰をとっても、ほとんど共感のできないような人物ばかりで、それだけにむしろ「わかりみの深い」存在感があるというのも、物語としての深みになっている。
 語り手がやや混乱するところがあったりという欠点もないではないけれども、物語は本当にゆったりと始まり、それが次第に支流が集まって太くなり、緊迫感に溢れた大きな流れになってゆく感じで、次第にページを繰る手が早くなる。しかも、レ・ファニュの状況描写、風景描写が簡潔でありながら非常に的確で、読み手の創造力を刺激するため、鮮やかな映像すら目の前に浮かぶようである。レ・ファニュの他の作品の、誰の訳文でも、この点は変わらない。クライマックスの、絵画的でドラマチックな鮮やかさも見事である。解説を読むと、レ・ファニュが最初に才能の片鱗を見せたのが六歳のときに『ポンチ』という雑誌の挿絵を真似て描いたスケッチと小文であったというから、物語とともにイメージを喚起させる能力は、そもそも天性のものだったのかもしれないと思った。
 もうひとつ、これはぜひとも書きたかったのだけれど、全てとは言わないにせよ、ほぼ確実にゴシック・ロマンスには恋愛の要素が出てくる。それこそがゴシック・ロマンスだからである。この「ワイルダーの手」にももちろん出てはくるのだけれど、興味深いのは、最終的にその「愛」が成就するのが、なんと女性同士であるということである。時代的にも、もちろんはっきりとレズビアニズムが描かれているとまでは言えないのだが、ほぼそう読んでかまわないのではないかと思えるだけの描写が、何度も伏線としても挿入されつつ、最終的になされている。この「ワイルダーの手」が書かれたのが1864年。そしてレ・ファニュが、吸血鬼小説の歴史に燦然と輝く「カーミラ」で初めて同性愛的な要素を吸血鬼ものに持ち込んだのが、約8年後の1872年。この作品は、「カーミラ」に先行している。つまり言いたいのは、レ・ファニュには、そもそも百合的なものを好む嗜好があったのではないか、ということである。したがって、「カーミラ」は、もともとそういった感性を持つレ・ファニュだからこそ必然的に生まれた作品なのではないかという気がする。
 そういった意味でも、レ・ファニュは現代のゴスに非常に近い、「逸脱する感性」を持った作家だと思うし、ただの前時代的な作家ではなく、今また改めて注目を集めるに値する、稀代のストーリー・テラーであるとも思う。現在はその長編はすべて絶版になり、古書価も高騰して、なかなか読まれづらい状況になってはいるが、再評価を期待している。



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