漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 




 ハヤカワ文庫や創元推理文庫はこれまでずいぶんと読んできたけれど、その大半はSFやホラーで、ミステリはほとんど読んでこなかった。思えば、自分でもびっくりするくらい、色鮮やかな背表紙の並ぶミステリーの棚は見事にスルーしてきた。もしかしたら小説の中では最も詳しくない分野かもしれない、とさえ言える。興味が湧かなかったのは事実だけれど、別に意識的に避けてきたというつもりはない。そもそもポプラ社の江戸川乱歩の少年探偵もので読書の愉しみを覚えたようなところがあるのだ。それが、いつの間にか怪奇ものやSFものばかり読むようになってしまい、ミステリは後が続かず、なんとなく手を出さないままできてしまったのだ。もしかしたら、あのちょっとバタ臭いとさえ言える、ハヤカワや創元の文庫背表紙の鮮やかな色に、子供の頃のぼくは気後れしたのかもしれない。したがって、古典と呼ばれるミステリも、当然ほとんど読んでいないし、全く詳しくもない。
 けれども、最近は日本のエンターテイメント作品を多く読むようになり、自然と読書に占めるミステリの割合が多くなってきた。別にミステリが好きになったからではない。日本に於いて人気のあるエンターテイメント小説というのは、大半がミステリであるからだ。SF作家だって、ミステリを書かざるをえないような感じである。したがって、出版点数でも郡を抜いており、自ずから手に取る機会も増える。特に、ぼくのように、書店や図書館で、「あ」の棚から順に背表紙を追う癖のある人には。だがそうやって乱読していると、時にはなかなかの拾い物もあるのだ。
 というわけで、あまりにも何も知らないから、ちょっと古典のミステリをを読んでみようという気になった。古典といえば、真っ先に思い浮かぶのがアガサ・クリスティー。実は、一度も読んだことがない。いくつかの作品は、あまりにも有名すぎて、なんとなく犯人なども知っていたりするから、余計に読まないままできてしまった。もちろん、内容をなんとなく知っているのと実際に読むのとでは全く違う、ということはわかっている。それで、ミステリのオールタイムベストには必ず上位に入る 

 「そして誰もいなくなった」 アガサ・クリスティ著 清水俊二訳 
 ハヤカワ・ミステリ文庫 早川書房刊

と、それよりは知名度は劣るが、同じく有名なイーデン・フィルポッツの

 「闇からの声」 イーデン・フィルポッツ著 井内雄四郎訳 
 旺文社文庫 旺文社刊

を続けて読んでみた。

 まず「そして誰もいなくなった」だが、これは説明が不要なほど有名な作品なので、骨格となるストーリー、つまり、孤島に招かれた人々が一人ずつ死んでいって最後には誰も残らなかった、という物語であることも、犯人がその中の一人であったということも、知ってはいた。そのせいで、例えばSFの「冷たい方程式」のように、一つの「お題」を創りだしたという点では非常に重要な作品であるとは思ったけれども、それだけに消費され尽くしていて、いささか古さを感じずにはいられなかった。ただ、「神は細部に宿る」とはよく言ったもので、殺されてゆく人々はそれぞれ、まあそれなりに罪はあるものの、その罪が死をもってつぐなわれなければならないとまでは言えない人もいたり、その人選に一貫性を書いていたりで、そもそもなぜこんな企みが実行されたのかが見えず、そこが一番の薄気味悪さだったが、最終的に明らかになった犯罪の動機には、悪い意味ではなく、唖然とした。
 続いて「闇からの声」だが、これはややゴシック小説的な要素を感じさせる作品。筋運びにやや強引さがあったり、倫理観がやや今風でなかったりで、やはり古さは感じるものの、悪役を書くのが上手くて、退屈しないで読める作品だった。
 
 と、この二つを読んで、妻に「そして誰もいなくなった」を読んだという話をしたら、「マザーグースの詩に合わせて人が死んでゆく話だよね?」と言う。
 「いや、違うよ。それは多分、フィルポッツの『誰がコマドリを殺したか』じゃない?」とぼく。たまたまフィルポッツを読んだばかりで、最近新訳で復刻されたばかりだという彼の作品にそのタイトルがあったのを覚えていたので、ついそう答えたのだ。
 もちろんどちらも間違っていて、マザーグースの詩に合わせて人が殺されてゆくのは、ヴァン・ダインの「僧正殺人事件」。あまり自信がなかったから調べてみて、判明した。知っていたはずなのに、すっかり忘れていた。いかにミステリーにうといかが分かる。
 だけど、たまたまぼくはクリスティの作品を読んだばかりだったから、妻の言うことが違っているとすぐにわかったけれども、もし読んでいなかったら、それほど自信を持って「違う」とは答えられなかったという気がする。そして、開き直るつもりもないけれど、ぼくや妻と同じような勘違いをしている人は、意外と多いんじゃないかと思った。人が一人づつ消えてゆくというシチュエーションはどちらにも共通しているし、つまり相性が良い。例えば横溝正史とか、その二つの作品にインスパイアされて同じような作品を発表している作家も多いから、いつの間にかごっちゃになってしまいがちなんじゃないか。
 ところが、「そして誰もいなくなった」と「僧正殺人事件」を混同しがちだということに気づいたとき、ふとぼくの脳裏にかすめるものがあった。あれ、この二つが混同されている作品、確かにあったはずだぞ、と。しばらく考えて、はたと思い出した。
 ――そうだ、アニメ版「うる星やつら」の、「そして誰もいなくなったっちゃ」だ。

 ここから、アニメの話になる。
 実は、「うる星やつら」のその回、ぼくは観ていない。高校の頃、アニオタの友人がいて、彼からそういう回があったということを聞かされた。少し調べてみると、初めて放送されたのが昭和58年の7月ということ。ぼくが中学三年の時だ。
 もともとアニメにはさほど興味もなかったので、「うる星やつら」も毎回必ず観るというわけでもなかったのだが、たまたま観た回に「決死の亜空間アルバイト」という回があって、それが明らかにつげ義春の「ねじ式」のパロディになっており、衝撃を受けたのだ。こんなのが、ゴールデンタイムの子供向けアニメで放送されるのだと思った。それから「うる星やつら」は、また変な話が放送されないかなと、時々観るようになっていた。当時は、アニメはあくまで子供のものという意識が普通だったが、押井守が監督していた当時の「うる星やつら」は、よくこんなのが子供向けのアニメで放送されたなというような、かなり前衛的な回を多く含んでいた(ただし、当時はアニメ監督というものの存在を、ぼくは全く意識もしてもいなかったけれども)。70年代に横尾忠則が関わっていた「少年マガジン」が、マンガという形で担っていた、前衛とエンターテイメントがせめぎ合うサブカルチャーの最前線的な部分を、80年代の押井守の「うる星やつら」がアニメという形で受け持っていたのだと思う。アニメ「うる星やつら」が後に与えた影響というのは、とてつもなく大きい。
 それからしばらくして放送されたのが、その「そして誰もいなくなったっちゃ」。ぼくは見なかったのだけれど、最初に書いたように、高校の時に友人が、お前が好きそうなこんな話があったと、詳しくストーリーを教えてくれた。当時は、なぜだかよくわからないけれども、クックロビンの詩はとても有名だったので(パタリロのクックロビン音頭のせいもあるのかな)、マザーグースの詩に合わせてメインキャラクターが死んでゆくのだという説明も、すんなりと理解できた。当時はYoutubeなんてなかったし、ビデオにもなっていなかったから、じゃあ観てみようなんて、簡単にはゆかなかった。なんだか見逃したことが悔しくて、そのうち再放送されないかなあと思いつつ、記憶に残ってしまっていたのだ。
 今はネットで簡単に見つかる。改めて思い返してみると、そうして簡単に観ることができなかったせいで妄想をたくましくできたというのは、子供にとってはむしろ幸せだったのかもしれないとも思わなくもないが、それはまた別の話。すっかり忘れてしまっていたけれど、せっかく思い出したのだからと、検索して、観てみた。
 うん、なるほど、確かに「そして誰もいなくなった」と「僧正殺人事件」が混ざってる。ついでにいえば、ラストはちょっと「マタンゴ」のパロディを思わせるものもある。スト―リーは単純なんだけど、リアルタイムで観ていたら、メインキャラクターが次々にあっさりと死んでゆくことに衝撃を受けたかもしれない。
 久々に観たうる星やつらは結構面白くて、ついでにと、「決死の亜空間アルバイト」も検索して、観てみた。幻想的でガロ的世界観のパロディを散りばめた前半と、ひたすら下品なギャグが満載の後半に相当なギャップがあって、「あれ、こんなだっけ?」とちょっと思ったけれど、やはりなかなか面白い。なんだか、異世界を通り抜けて銭湯で働くというあたり、「千と千尋の神隠し」を思わせる感じもある。もちろん、こちらの方がずっと早いのだけれど。
 調子に乗って、他にもなにかこんなテイストの回はなかったかと調べたところ、ひとつ、ひっかかった。それが「みじめ!愛とさすらいの母」という回。このタイトルは記憶にない。
 さっそく観てみた。観ながら、「あれ?これは」と思った。
 昔ぼくが見た夢で、今でもよく覚えている奇妙な夢と、ちょっと似ているのだ。アニメも、すっかり忘れていたけれど、そういえばなんだか観たような記憶がある。じわじわと、記憶が蘇ってくる。
 こんな夢だ。

 夢の中で、ぼくはデパートに入ってゆく。ごちゃごちゃとした、光化学スモッグが常に発生していた70年代頃の大阪のような、埃っぽく猥雑な街の、迷路のように巨大な駅の近くにあるデパートである。ぼくは、つけていたベルトが切れて、買わなければいけないと思っている。
 デパートの中で、ベルトの売り場を探す。そしてエスカレーターをどんどんと上がってゆく。上の階にゆくにつれて、賑やかだったデパートは、次第に閑散としてくる。やがて、やたらと巨大な家具などが並ぶようになってくる。人の姿はほとんどない。そうして最上階と思われる階にたどり着く。すると、いきなりそこに現れた少女が、もう少し上の階もあると言う。ぼくはその薄暗い階の隅にある、非常階段への扉のような、素っ気ない鉄の扉を開く。するとそこには和式のトイレがあるのだが、その脇にはずっと上へと続く鉄製の螺旋階段がある。見上げると、どこまで行くのか、よくわかならいほどである。ぼくはその螺旋階段を登ってゆく。やがてたどり着いたのは、高級なホテルを思わせる重厚な扉が並ぶ階。フカフカとした絨毯が、黄色い間接照明に照らされた薄暗い廊下に敷かれている。どうしてこんな所に来たんだろうと途方に暮れているぼくの前に、さきほどの少女が再び姿を現す。そして、もう少し上がある、と言って、指を指す。そこには、上へと向かう、木製の立派な階段がある。ぼくはその階段をひとりで上ってゆく。
 踊り場を曲がって、その先の階段の上には、もともとは壁一面がガラス張りになっていたのであろうが、そのガラスががすべて割れた広い部屋が、一つだけある。一つ下の階とはまるで正反対で、明らかに廃墟を思わせる。そこにはたくさんの老人たちがいて、碁を打っている。窓の外を見ると、眼下には街が見下ろせる。その街も、どこか廃墟のようである。

 もしかしたら、この作品を観たから、あんな夢を見たのかもしれない。今となっては、どうにもよくその前後関係を思い出せないので、なんとも言えないのだが、十分にありうる。もしそうでなかったとしても、この回は、それならば夢の文法を映像にした、稀有な回ということになる。
 この回は、後の映画版「うる星やつら・ビューティフル・ドリーマー」に繋がる回であるという。また、押井監督の降板を決定づけた、問題作であるとも。確かに、すべて投げっぱなしで、あまりにも難解な、とても子供向けとは言えない話だ。仮に今放映されたとしても、観ている方は戸惑うんじゃないか。やらかしたよ、って感じで。だが後になって振り返れば、ディック的な悪夢をいち早く取り入れたエポックメーキングなアニメ作品と言っていいと思う(知らないだけかもしれないが、これ以前に、こんなタイプのアニメがあったという記憶はない)。そう、これはP.K.ディックの世界だ。いくら当時ディックが注目を集め始めていたとはいえ、よくこんな訳のわからないシナリオの作品が、ゴールデンタイムの子供向けアニメとして放送されたものだ。先に紹介した「決死の亜空間アルバイト」にせよ「そして誰もいなくなったっちゃ」にせよ、きちんと最後にはギャグに落とし込まれている。ところが、これには一切の説明がない。観ている方は、おいてけぼりもいいところだ。結局夢だったという話だったんだろうなと、自分を勝手に納得させるしかない。こんな作品を作ってしまった押井監督は、相当怒られたらしいが、不思議なもので、後になってみれば、アニメ史において非常に重要な回であったと思える。
 ところで、これは仮説というよりもむしろ単なる思いつきに過ぎないのだが、この作品が、後にTV版の「エヴァンゲリオン」の、あの奇妙な最終回が放映されるための下地を整えた、と言ったら、ちょっと言い過ぎだろうか。もっとも、エヴァは一度しか観たことがないし、今でもアニメは余り詳しくないので、余り大げさなことも言えないのだが、同時代を生きてきたぼくには、その説明は皮膚感覚で結構しっくりくるのだけれど。

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