漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

「ムントゥリャサ通りで」と「今年の十冊」と「欅坂46」

2017年12月29日 | 読書録

「ムントゥリャサ通りで」 ミルチャ・エリアーデ著 直野敦訳 
法政大学出版局刊

を読む。

 おそらくは年内最後の読了作になると思いますが、最後の最後で、今年読んだ本の中でベストと言っていい一冊に出会いました。160ページほどの、さほど長くない長編なのですが、その中に広がる物語はあらゆる方向へと奥行きを持ち、一読しただけではまるで消化できたとは思えません。いったいこの小説は何なのでしょうか。千夜一夜物語やサラゴサ手稿のようでもあり、推理小説のようでもあり、スパイ小説のようでもある。非常に神秘的な幻想文学のようでもありながら、実はひたすらリアルな物語のようでもあるわけです。
 物語は、ファルマという老人がかつて教え子であったというボルザ少佐を訪ねるところから始まり、ほとんどがそのファルマの思い出話によって進められてゆきます。ただ、この話というのが饒舌な上にぶっ飛んでいて、時間軸が行ったり来たりしながら物語がまた別の物語を生むといった有様なので、なかなか全貌をつかめません。もう一度最初に戻って、きちんと整理しながら読み直さなければ、とても少しでも分かったような気にはなれそうにありません。ですが、これだけ手応えを感じる幻想文学に出逢うのも、久々な気もします。


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 というわけで、おそらくこれで今年最後の更新となります。なので、恒例となった、今年読んだ本のベスト10と、寸評を。順不同です。

●ジャック・ヴァンス「天界の眼:切れ者キューゲルの冒険」(国書刊行会)
 天才的な能力を持つキューゲルという人間の物語なのかと思いましたが、別の意味での「切れ者」でした。最低男の行きあたりばったりの冒険譚。

●バリントン・J・ベイリー「ゴッド・ガン」(早川書房)
 粒の揃った短編集だったのですが、何より、ともかく「ブレイン・レース」が好き。今年一番気に入った短編かも。

●デュ・モーリア「鳥」(東京創元社)
 これも見事に粒の揃った短編集。ハズレは一つもなし。デュ・モーリアは天才的な書き手だなと思いました。

●レオ・ペレッツ「夜毎に石の橋の下で」(国書刊行会)
 長編なのですが、短編集としても読めます。どちらかと言えば、連作短編集の妙を味わえた気がします。

●柞刈湯葉「横浜駅SF」(KADOKAWA / 富士見書房)
 横浜駅が自己増殖して、日本を埋め尽くす話。ただ、設定はすごいのだけれど、物語性はやや物足りないところもありました。

●エドゥアルド メンドサ「グルブ消息不明」(東宣出版)
 これは、ちょっとあまりないタイプの小説でした。適当に書いたのか、きちんと考えて書いたのか、よくわからないという。頭を空っぽにして楽しむとよさそうです。

●シャーリィ・ジャクスン「日時計」(国書刊行会)
 とある屋敷の中で、先祖の霊が予言した「世界の終末」に備える人々の物語。ぼくはこれを幽霊屋敷ものであると読んだのですが、さまざまな解釈ができそうです。

●コニー・ウィリス「航路」(早川書房)
 臨死体験について調べることで、その体験の正体をつきとめようと奮闘する女性学者の物語。圧倒的なボリュームですが、ぐいぐい読ませます。

●R・L・スティーヴンスン& L・オズボーン「引き潮」(国書刊行会)
 文豪スティーブンスンが義理の息子オズボーンと合作した海洋冒険小説。登場人物たちの造形がすばらしかったです。

●ミルチャ・エリアーデ「ムントゥリャサ通りで」(法政大学出版局)

以上の10冊です。


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 ところで今年は、もう12月に入ろうとする頃からだったと思いますが、突然、欅坂46にハマってしまいまして(正確に言えば、不動のセンターと言われる「てち」こと平手友梨奈にです)、ちょっと困っています。来年50歳なのにね。。。
 アイドルが好きになったのなんて、もしかしたらピンクレディー以来かもしれません。まあ、生まれて初めて好きになったアイドルが山口百恵なので、「平成の山口百恵」とか言われている平手友梨奈に抗いがたく惹かれるのは、ある意味子供の頃から趣味が全く変わっていないということかもしれませんが、それにしても自分の娘よりずっと年下だからなあ。。。まあ、今のところ握手会だとかコンサートだとかには行くつもりはありませんが(さすがにちょっと恥ずかしいし、それに行ったところでそこに平手友梨奈がいるという保証がなさそう)、毎日のように動画サイトでちょっと動画を見てしまって、ただでさえ少ない読書の時間がどんどん奪われています。youtubeミックスリストだのおすすめだのに欅坂がずらりと並ぶので、youtube好きの妻は、PCを開く度にちょっと呆れているんじゃないでしょうか。
 ですが、そもそもハマるきっかけをつくったのは、妻なんですよね。
 あるとき、たまたま欅坂の「二人セゾン」のPVの動画を観て、これはぼくが高校生くらいだったら、きっと好きになっていただろうなと思い、そのことをちょっと妻に言ったんです。すると妻は、
 「欅坂といったら、てちよね」
 「てち?」
 「不動のセンターと呼ばれてる、平手友梨奈」
 そういう会話があって、改めて見ると、なるほど、途中でソロを踊っている少女がこのグループの魅力の中心になっていることがすぐに分かりました。妻は、あまりテレビを見ないぼくよりは芸能人に詳しいんですよね。ちなみに妻は、今は多部未華子がお気に入りらしいです。で、妻からいろいろと聞いて、「不協和音」を始めとするPVをいくつか見ているうちに、すっかり「てち」から目を離せなくなってしまいました。先日の、FNS音楽祭での平井堅とのコラボレーションも衝撃的でしたし。16歳にしてこの表現力と存在感は、ちょっとただごとではないし、逸材としか言いようがありません。有無を言わせぬ魅力があります。ファン歴一ヶ月ほどですが、その気になればいろいろと語ってしまえそうなところが、怖いです。
 「不協和音」といえば、立憲民主党の枝野さんも、この曲を自分のテーマソングのようにしていると聞きました。彼女のファンになってごく浅いので、よく知っているわけでもありませんが、平手はこの曲をやると調子を崩すからあまりやらないようにしていると聞いたとき、もしかしたら本当は変な忖度であまりやらせてもらえなくなって、それが気に入らなくて最近はテレビでわざと元気のないような態度をとって見せているのではないかともちょっと思いましたが、今年の紅白では久々に「不協和音」をやるそうです。リアルタイムでの「不協和音」のパフォーマンスを見るのは初めてだし、ちょっと楽しみにしています。
 それにしても、こんなんでいいのかな。なんだか、大森望さんみたいだなあ。


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 エリアーデから欅坂46への話題の落差は、なかなかだったかもしれませんが、今年もいろいろとお世話になりました。個人的には、初めて読書会というものに参加させて頂いたりもして、なかなか楽しい一年でした。
 それではみなさん、良い年をお迎えください。

宇宙ヴァンパイア―

2017年12月20日 | 読書録

「宇宙ヴァンパイア―」 コリン・ウィルソン著 中村保男訳
村上柴田翻訳堂/新潮文庫 新潮社刊

 を読む。

 吸血鬼ものの小説を読もうと思い、すぐ手近にあった、積読になっていた本書を手にとりましたが、これがなかなかのB級作品でした。
 小説の存在自体は、それこそこの作品が映画化されて、文庫で書店にたくさん並んでいた頃から知っていました。だけど読もうと思ったことは、一度もありませんでした。理由は単純で、なんだかすごく下らなさそうだったから。もちろん映画も観ていません。それがなぜ今手元にあるかと言えば、「村上柴田翻訳堂」というレーベルのもとに再刊されたから、ちょっと気になって。あの村上春樹と柴田元幸が推薦するのだから、もしかしたら隠れた名作かもしれないと思うじゃないですか。
 残念でした。
 もしかしたらややとっつきの悪い印象のあるコリン・ウィルソンのドリーミーな部分が垣間見れて、少しばかり微笑ましいかもしれませんが、名作ではありません。そうはっきり断言できるほど、普通にB級の作品です。「B級の皮を被った名作」とかではなく。くだらなさという外見の裏側に潜む抗いがたい魅力という「何か」も、ぼくには感じられませんでした。過度な期待はしないほうがいいと思います(一応言っておくと、解説対談で村上さんはこの作品を「決して名作ではない」と念を推していたし、柴田さんに至っては、今回初めて読んだということでした)。ただ、対談の最後の部分には同意します。こういう、決して名作ではないけれども、ひとつの思いに貫かれて一生懸命に書かれたB級の小説が存在するというのは、確かに愛おしいものです。たまたまこれはぼくの趣味に合わなかったけれど、そうした、明らかにB級で、だけど偏愛する作品というのは、ぼくにも沢山あります。そうしたものがないと、本当につまらない世の中だと思います。
 ストーリー自体は、とても単純です。
 時は近未来。地球の近くでとてつもなく巨大な宇宙船が発見される。船を発見したカールセン船長は内部の調査を行ったが、そこに仮死状態となった人々を発見し、そのうちの三人を地球に連れて帰る。ところが、その三人の宇宙人たちは肉体を離れて地球人の中に寄生し、他人の生命エネルギーを吸って生きる、いわば宇宙ヴァンパイアーとも言えるような存在だった。カールセンは医師のファラダらとともに、誰の肉体に入り込んでいるのかわからないヴァンパイア―たちを追い詰めようとする。やがてヴァンパイア―のひとりは英国の大統領の中に潜んでいることが分かり、カールセンたちはもう少しというところまでヴァンパイア―たちを追い詰めるが、すんでのところで逆転されそうになる。しかしそこに、宇宙警察とも呼ぶべき存在が現れる。その存在はもともとヴァンパイア―たちと同じところの出身だったのだが、ある事件によってヴァンパイア―たちが道を踏み外したことを知り、長い間捕獲のために地球に潜伏していたのである。その存在によってもともとの神性を回復したヴァンパイア―たちは、自ら犯してきた罪に耐え切れず、自己消滅する。
 ……と言った感じ。こうした単純なストーリーの中に、コリン・ウィルソンらしいスピリチュアルなオカルト哲学がちょこちょこと挟み込まれています。ただし、かなりライトな感じで。
 ちょっとだけ面白いのは、この作品が「クトゥルー神話」がなぜ生まれたかという、その真相のひとつともとれる物語であるということ。最初に注目を集めた著書「アウトサイダー」でラヴクラフトを随分と持ち上げていて、それ以降もクトゥルー神話に影響を受けた作品をいくつか書いているコリン・ウィルソンだから、まあ当然の成り行きなのかもしれません。ただし、これはクトゥルー神話に含めるには、ちょっと設定に踏み込み過ぎでしょうね。
 

令嬢クリスティナ

2017年12月17日 | 読書録
「令嬢クリスティナ」 ミルチャ・エリアーデ著  住谷春也訳 作品社刊

を読む。

 エリアーデの書いた最初の幻想小説。エリアーデの出身国ルーマニアにゆかりの深い吸血鬼を扱っている。それも、ストーカーの「ドラキュラ」以降の吸血鬼ではなく、例えばゴーチェの「死霊の恋」などのような、もっと土着的な、死後に蘇って男性の生気を吸い取る女の吸血鬼の方(ストーリー的にもちょっと近い)。その辺りは、民俗学者であったエリアーデの面目躍如といったところだろうか。
 しかしこの小説がそれだけでは終わらないのは、吸血鬼とされるクリスティナはとっくの昔に死んでいるのに、その影響が彼女の家全体を覆っている、一種の幽霊屋敷譚となっているところ。もともとクリスティナというのは、絶世の美貌を持つ女性だったのだが、かつて農民一揆があった際に農民たちの手によって惨殺されてしまったという。なぜそんな殺され方をしたのかというのは、まるで禁忌であるかのように、つまびらやかにされないのだが、どうやら生前のクリスティナは自分の美貌を利用し、村の男性全員と関係を持ったりすることで思うがままに振る舞うような女性であったらしく、村の人々は彼女のことをどこか恐れているようなふしもある。ただしそれも、はっきりとした事実とはされない。そして、そうして惨殺された彼女の死体は、行方がわからないままになっている。
 クリスティナの屋敷には現在、血縁にある三人の女性が住んでいて、旅行者などに部屋を貸す旅館のようなことをして生計を立てているようだが、その三人の女性というのが、揃って奇妙に病んでいる。クリスティナの妹であり、現在の屋敷の女主人であるモスク未亡人はいつでもどこか上の空で、目の前に食事が並べられると、周りのことを一切気にしないで不躾な食べ方をするし(それが何だか不気味)、主事項エゴールの恋人であるサンダは病弱で、いつも何かに怯え、母親のモスクの言うことには逆らえない。そして最も強烈なのは、わずか9歳の少女シミナだ。彼女はしょっちゅう謎の行動をとるばかりではなく、まだ子供だというのに、不気味なほど妖艶で、まるで手練の悪女のように、作中の男性たちを翻弄したりする。ぼくは読みながら、この三人の誰かにクリスティナの霊が憑依しているのだろうと考えながら読んだのだが、どう考えてもその最右翼にあるのがこのシミナであり、もしそうでなければ、念入りなミスリードを誘う伏線を張っているのだと思った。
 ところが、どうもそういうのとは少し違っていた。クリスティナは、誰かに憑依するという形ではなく、絵に描かれた美しい自らの姿で現れて主人公を誘惑する。つまりクリスティナは、実際には本当の意味で死んではおらず、浅ましくも吸血鬼のような存在となって、この世とあの世の合間に留まり、屋敷を支配しながら生き続けていたのだった。しかもクリスティナの生命は、屋敷と、そこに暮らす三人の女性と密接に結びついており、クリスティナの死とともに、屋敷は焼け落ち、女性たちも命を落とすことになる。
 偶然にも、この小説を読む前に読んだロザリンド・アッシュ「蛾」と似たような物語だったが、さすがにエリアーデだけあって、こちらの方がやや観念性が高く、エンターテイメント性はやや低いという印象はあった。とはいえ、「死してなお男性を追い求める、屋敷に憑いた幽霊」を扱ったゴシック・ロマンスという点で非常に似ており、ということは、「蛾」の方ももしかしたら一種の吸血鬼譚として発想されたと言えるのかもしれない。もっとも、「蛾」と大きく違うところは、この小説の最も印象的な部分が、わずか9歳の謎めいた少女シミナの存在にあるという点だろう。この小説が発表されたのが1936年だから、ナボコフの「ロリータ」(1955)よりも随分と早いことになる。シミナの持つ妖艶さは、怪奇性を持つとはいえ、明らかにロリータ性を持っており、それをこうしたゴシック小説の中に登場させたというのは、かなり先見の明があったというか、後のゴスロリ系作品の先駆者的作品であるというか、まあ、そんな風に言えるのではないかと思ったり。
 

ベスト怪奇幻想小説

2017年12月09日 | 読書録

 先日twitterを眺めていたら(ぼく自身はあまりtwitterを効果的に使っていなくて、社会的、政治的なツイートでもっともだなと思ったツイートを少しでも拡散しようとリツイートしてみたり、本当に個人的に気になるツイートを「いいね」してみたりするだけで、基本的にはほとんど何も呟きません)、奇妙な世界さんのツイートで、怪奇小説の個人的ベストについてのツイートがあって、リンクを辿ったところ、翻訳家の西崎憲さんの選んだ「怪奇小説ベスト10+4」と、ブログ「奇妙な世界の片隅で」のkazuouさんの選んだベストが挙げられていました。西崎さんのベストは、なるほど、いろいろと考えた挙句のこのタイトルなんだなあという感じだったし、kazuouさんのベストは、本当によく読んでるなあという感じでした。それに、kazuouさんの「好きな怪奇小説を公にするということは、ミステリやSFなどのジャンル以上に、自らの審美感を試される…ような気がします」という言葉は、確かにそうかもしれないと、頷いたりもしました。なので、ぼくもちょっと翻訳ものの怪奇幻想小説のベスト短編を選んでみたいと思います。
 選ぶ際に意識したことは、まずは西崎さんやkazuouさんが選んだ作品は除外するということと、出来る限り、初読から二十年以上経っていて、なおかつ心に棘のように刺さって残っている作品を選ぶということ。それも、なるだけアンソロジーの常連ではない作品を選ぶこと。つまり、短編としての完成度よりも、心に引っかかっている作品を優先して選ぶこと。そうして、試行錯誤した結果が、以下のタイトルになります。


「失われた時の海」 ガルシア・マルケス
   「エレンディラ」(サンリオ文庫/サンリオ刊)他、収録

「<帰り船>シャムラーケン号」 ウイリアム・ホープ・ホジスン
   「海ふかく」(アーカムハウス叢書/国書刊行会刊)収録

「浜辺のキャビン」 ジーン・ウルフ
   「SFマガジン」1986年2月号(早川書房)収録

「地上の大火」 マルセル・シュオブ
   「黄金仮面の王」(フランス世紀末文学叢書/国書刊行会刊)他、収録

「エミリーに薔薇を」 ウィリアム・フォークナー
   「エミリーに薔薇を」(福武文庫/福武書店刊)他、 収録

「優しく雨ぞ降りしきる」 レイ・ブラッドベリ
   「火星年代記」(ハヤカワ文庫NV/早川書房刊)収録

「ひとりともうひとり」 シルヴィア・タウンゼント・ウォーナー
   「妖精たちの王国」(妖精文庫/月刊ペン社刊)収録

「夜の終わりに」 ジャン・レー
   「新カンタベリー物語」(創元推理文庫/東京創元社刊)収録

「去りにし日々の光」 ボブ・ショウ
   「去りにし日々、いまひとたびの幻」(サンリオSF文庫/サンリオ刊)他、収録

「アウラ」 カルロス・フェンテス
   「アウラ・純な心」(岩波文庫/岩波書店刊)他、収録 

「塔」 マーガニタ・ラスキ
   「怪奇礼讃」(創元推理文庫/東京創元社刊)収録

「母斑」 アンナ・カヴァン
   「アサイラム・ピース」(国書刊行会刊)他、収録

「ホーニヒベルガー博士の秘密」 ミルチャ・エリアーデ
   「ホーニヒベルガー博士の秘密」(福武文庫/福武書店刊)他、収録

「占拠された屋敷」 フリオ・コルタサル
   「悪魔の涎・追い求める男」(岩波文庫/岩波書店刊)他、収録 


 西崎さんとkazuouさんに倣って、14作品に絞りました。複数の翻訳があるものもありますが、書誌情報は、現在自分の持っている本を挙げました。
 怪奇色は薄いという自覚はあります。しかし、怖い作品ばかりだとも思います。選んだ作品に共通しているのは、悲しさ、あるいは寂しさです。自分にとって、恐怖というのは、何より悲しみや寂しさ、もっと曖昧な言い方をするなら、心の中に何か空間がぽっかりと空いてしまうような感覚なのです。
 それぞれの作品について、一言ずつコメントをしておこうと思います。

 「失われた時の海」は、名作の多いマルケスの作品中では地味だと思いますが、深海を歩む死者たちというイメージが、この作品を初めて読んだ十代の終わりの頃から、瞼の裏にずっと焼き付いていて、印象に残り続けています。この作品が収録されている本は「エレンディラ」ですが、表題作を始め、名作揃いの一冊でした。
 「<帰り船>シャムラーケン号」は、「海ふかく」に収録されているホジスンの短編です。余り話題になることもない作品ですが、こういう作品は、様々な海洋怪奇譚を眺めても、ちょっと珍しいのではないかと思います。ホジスンの作品は絶対にひとつ入れたかったのですが、「夜の声」や「石の船」、あるいは「妖豚」を外してこれを選んだのは、何とも言いようのない黄昏感、もっと言えば、消失感があるからです。
 「浜辺のキャビン」は、ぼくが初めて読んだジーン・ウルフの作品です。当時(1986年)、SFマガジンでこの掌編を読んだ時には、まだジーン・ウルフの名前さえよく知りませんでした。ネビュラ賞候補作だったのですが、何気なく読んだこの作品が、いかにも80年代といったイラストとともに、ずっと頭の隅にこびりついています。いまだに単行本には収められていませんが、ちょっとした佳作だと思っています。ジーン・ウルフの作品にしては、分り易い作品です。
 「地上の大火」は、シュオブの掌編です。「眠った都」とどちらにしようかと迷いましたが、こちらの方がよりマイナーだと思うので、こちらを。ホラーとは、ちょっと言えないんですけどね。しかし、シュオブの作品にはほぼハズレがありません。短編という縛りでは、多分、ちょっと似た作風のシュペルヴィエルより達者だと思います。ぼくが読んだのは、フランス世紀末文学叢書版ですが、月報に山尾悠子さんが紹介文を書かれていました。
 「エミリーに薔薇を」は、このリストの中ではおそらく一番有名な作品だと思います。こうしたアンソロジーにも、常連のように採られています。けれどもあえてこれを入れたのは、やっぱり外せないからです。初めて読んだとき、心底ぞっとしました。これほど哀しくて怖い作品もあまりないのではないでしょうか。
 「優しく雨ぞ降りしきる」は、「火星年代記」に収録された一編です。忘れがたい「100万年ピクニック」の手前で、実に見事な効果を果たす短編です。この一作だけを取り出すのもどうかとも思いますが、漂う寂寞とした感じは他に代えがたいものがあります。まあ、やはりホラーとは言えないんですけどね。
 「ひとりともうひとり」は、今はなき妖精文庫の「妖精たちの王国」の冒頭を飾る作品です。この本で初めてウォーナー女史の作品を読んだのですが、こんな妖精譚がありうるのかと、衝撃を受けました。この短編集には、他にも印象的な短編があるのですが、やはり冒頭からガツンとやられたということで、これを選びました。残酷さも、申し分ないと思います。
 「夜の終わりに」は、ジャン・レーの連作短編集「新カンタベリー物語」の結びに当たる部分で、正直言うと、これを選ぶのはちょっとおかしいと、自分でも思います。なぜなら、短編物語とは言えないからです。大好きな短編集なので、ここから選ぶことは最初から決めてましたが、はじめは、「ミスター・ガラハーのオデュッセイア」か「バラ色の恐怖」を選ぼうと思っていました。しかし、結局これを選んだのは、やっぱり一番好きなのがこれだからです。どうせ遊びのリストアップなのだから、ひとつくらいこういうのもいいでしょう。ぼくには、この本の結びとなる最後の一文が、ずっと忘れられません。こういう文章です。「道端のひと握りの砂の中に、わたしは輝く太陽の光と、吹きくる風のつぶやきと、流れる小川の水のしずくと、わたしの魂の戦きとを注いだ。それをこねて、物語を作るようにと。」
 「去りにし日々の光」は、ボブ・ショウの長編「去りにし日々、いまひとたびの幻」のプロトタイプとなった短編で、後に長編に統合されました。痛切な名品だと思います。吾妻ひでおの「不条理日記」にも出てくる、結構有名なSFガジェットのひとつスローガラスが登場する作品ですが、サンリオ文庫が品切れになってから、なぜか一度も再刊されてません。再刊する価値は、十分にあったと思うのですが。
 「アウラ」は、同短編集の中の、後味が最悪で残酷な物語「女王人形」とどちらを選ぶか少し迷ったのですが、怪奇幻想という点で、こちらを。
 「塔」はショートショートと言ってよい作品ですが、見事だとしか言いようがありません。ラスキは、「ヴィクトリア朝の寝椅子」という名品もあるのですが、ほとんど名前が俎上に乗せられることもない作家なのが残念です。他にどんな作品があるのか、気になります。
 「母斑」はいかにもカヴァンらしい掌編です。不条理で、ほとんど何の説明もなく、小説だというのに、なぜか肉体的な痛みをひしひしと感じます。しかし、これほど寒々しい気分になる作品も珍しいと思います。
 「ホーニヒベルガー博士の秘密」はエリアーデの神秘小説。比較的長めですが、まあ短編のうちでしょう。エリアーデの多くの作品と同じく、どこかすっきりとしない、謎の残る小説ですが、そこが魅力なのだと思います。そこにいないはずの人物の存在感が、じわじわと濃くなってゆく過程が、すばらしいです。
 「占拠された屋敷」はコルタサルの奇想小説。いったい何が起こっているのか、読者にも、おそらくは登場人物にも、最後までよくわかりません。ただ、濃厚な悖徳の気配が漂い、登場人物たちは諦念を受け入れています。この先にあるものは、決して明るくはなさそうです。未来が閉ざされてゆく感じが、非常に哀しい。

 というわけで、全部で14作品。個人的な趣味に走り過ぎていて、ホラーアンソロジーとしてはまるで失格でしょうが、自分らしいなとは思います。逆に、怪奇小説のアンソロジーといえば、たいてい似たような作品ばかりが並ぶ傾向にあるので、このくらい手前味噌なものもあっていいんじゃないかなとも思います。


2017年12月07日 | 読書録

「蛾」 ロザリンド・アッシュ著 工藤政司訳
サンリオSF文庫 サンリオ刊

を読む。

 まずは、お約束の。



 この本は、これのせいで「珍本」扱いされ、サンリオSF文庫の中では、比較的手に入りにくいレア本になっています(古書価自体は、二千円前後といったところでしょうか)。内容とは関係のない話題ばかりが取り上げられる本ですが、実際に読んでみると、なかなか面白かったです。
 以下は、簡単なストーリー。
 主人公は学者のヘンリー。ダワー・ハウスと呼ばれる、廃墟となって売りに出されていた古い屋敷に偶然出会い、魅了された彼は、その屋敷を買うことはできないものの、しばしばその屋敷の敷地内で至福の時間を過ごすようになっていた。ところが、ある時同じく学者であるジェイムズとその夫人ネモがやってきて、屋敷を購入する。初めて会った時から、屋敷に負けず劣らずネモに魅了されていたヘンリーは、彼らと親しくなり、屋敷に出入りするようになる。だがその屋敷に、かつてそこに住んでいた女優サラ・ムーアの影がちらつき始めたのを皮切りに、その屋敷に出入りしていた男たちが次々と謎の死を遂げるようになる。そしてヘンリー自身も、すんでのところで命を失いそうになる。自分も含め、どうやら男たちの死には、ネモが関わっているらしい。だがおそらくは、本当の黒幕は霊となって彼女に取り付いたサラ・ムーアなのだ。そう思うヘンリーは、ネモに対する愛情から、彼女を逮捕から守ろうとする。しかし……。
 こうしてあらすじだけを書いてしまうと、なんだかバカバカしいようだけれども、物語の運びが上手いので、読まされてしまいます。廃墟となった屋敷を再訪するところから始まるところとか、屋敷に死者の気配が強く残っているところとか、ちょっとデュ・モーリアの「レベッカ」を彷彿とさせますが、実際、そうしたゴシック小説の系譜にある作品です。主人公がネモを庇おうとする心理なども、果たしてそれはネモに対する愛のなせるものなのか、それともインフォマニアであるサラ・ムーアの思念が残った幽霊屋敷に魅入られた結果として生じた心理なのかも曖昧です。ネモにしても、どこまで自分の行動を自覚しているのか、詳らかになりません。幽霊屋敷もののホラー小説としては、さすがに名作とまでは言わないまでも、なかなかの佳作なんじゃないかと思います。
 ちなみに、少し調べてみたところ、著者のロザリンド・アッシュは本国でもほとんど忘れられた作家のようで、作品数も決して多くはなく、長編小説は1987年に出版された第五長編「Dark Runner」が最後のようです。著作としてはそれ以外に、「Literary Houses 」という文学作品に出てくる家についてのノン・フィクションもののシリーズがあるようで、なるほど、本書に見られるような「屋敷」に対するこだわりの出処はそこだったのかと、納得させられます。
 

シルヴィウス

2017年12月04日 | 読書録

「シルヴィウス」 アンリ・ボスコ著 天沢退二郎訳 新森書房刊

を読む。

 ポンティヤルグという架空の町(著者によって、舞台は南仏であると示唆されたことがあるらしい)に代々根を張って住み続けている、メグルミューという一族がいる。一族のものは誰もが、非常に強い結びつきを持って暮らしている。「百の心、ひとりのメグルミュー。百人のメグルミュー、ひとつの心」。一族を表す言葉として、そう語られるほどである。一族のものたちは、みんな夢見ることが大好きだが、決して旅に出ることはない。旅に出ないからこそ、夢を見ていられるからである。一族には、こんな格言がある。「夢は一つの想念にすぎない。そのように扱ってやらねばならぬ」。つまり、われを忘れるようになったら、夢をストップすることだという。この物語は、そんな一族の異端児、シルヴィウスの物語である。
 ストーリーは、だいたい以下のようなもの。
 60歳を超えて、食料の備蓄がなくなるのではという脅迫概念に捉えられたシルヴィウスは、突然食料の買い付けのためにあちらこちらへと出向くうようになる。特に乾燥大豆に執着し、よいものがあると聞くと、泊まりがけの旅にすら出かけるようになる。ある寒い冬の雪の日、そうして出かけた村で彼は旅芸人の一座と出逢う。その舞台の世界に魅了されたシルヴィウスは、彼らの仲間に加わることを決める。しかし、その事実を知らされたポンテイヤルグの人々は動揺し、彼を連れ戻そうとする。シルヴィウスは、一年のうちの半分を旅芸人と過ごし、あとの半分を自分の村で過ごすことを約束する。しかし旅芸人と出会ってちょうど一年後、つまり彼が村から連れ戻されて半年後、彼が旅芸人のもとへとふたたび旅立つその日に、彼は息を引き取ってしまう。

 非常に象徴的な物語で、まるで長大なゴシック小説の中の、それだけで独立した短編として読める一挿話のような物語である(たとえば、マリアットの「The Phantom Ship」の中の一挿話が「人狼」として普及しているように)。しかしそう感じるのもおそらくはあながち間違いではなさそうだ。というのも、この物語自体が、そもそもメグルミュー一族と姻戚関係を持った語り手が、その一族の老人からかつてこういう人物がいたとして、話を聞かされるというものであり、さらに言えば、この「シルヴィウス」は、「マリクロワ」という長大な物語の外伝的物語であるからである。多くのゴシック小説に含まれる、語り手の一挿話としての幻想的な過去譚がそうであるように、この小説も非常に教訓的、象徴的で、多くを汲み取れるものになっている。天沢さんによる訳文も美しく、作中の人物たちが夢を見るように、読者もどこか夢幻の中を彷徨うような読書感を味わうことができるのではないかと思った。

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 ところで、昨日たまたま竹芝桟橋にいたところ、見事なスーパームーンに遭遇。
 写真をとったものの、下手なので、あまり上手く伝わらないかもしれないが、上がそれ。
 月は、本当に大きく見えて、まるで絵に描いたような都会の風景だった。
 80年代に流行ったスチール写真のような。
 ちょっと、ラリイ・ニーヴンの「無常の月」を思い出させるようなものもあった。