漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

鬼談百景

2012年10月29日 | 読書録

 

「鬼談百景」 小野不由美著
幽Books メディアファクトリー刊

を読む。

 雑誌に連載された、実話系怪談を99話収録した一冊。もちろん、フィクション(だと思う)。どの話もごく短く、それほどストーリー性があるわけでもないものが多い。
 小野不由美の久々の新作だが、残念ながらこれは余り面白いものではなかった。これに収録されているいくつかの話とリンクした、ノンフィクション風長編物語「残穢」が同時発売されているが、それとあわせて百物語ということのようだ。「残穢」はまだ読んでいないが、おそらくはブレアウィッチ・プロジェクト風の、実際の話だか虚構だかがわかりにくいようなものだろうと思う。そちらのほうが、いくらか期待できるのかもしれない。
 この本に収録されている話は、それほど怖くも面白くもないものが多いとはいえ、こういうスケッチ風の物語形式は実は好きだ。以前書いていた「汀の画帳」シリーズを、また書きたくなった。

 ところで、東京では、石原元都知事がいきなり辞任して、国政に出ようと画策している。衰えない、常に極端に走ろうとする、その黒いエネルギーは本当に不気味だ。このような閉塞的な情勢では、支持を集めてしまいそうで怖い。政治がこんなにグダグダでなければ、石原氏のような「極」右の人物が入り込む余地はないだろうにと思わずにはいられない。威勢の良い声の大きさは、当然のことだが、正しさを意味するわけではない。物事を力づくで動かそうとすると、軋轢を産むものだし、その軋轢は不条理な犠牲を求めるものだ。そしてその犠牲とは、もしかしたら他の誰かではなく、その声を信じたあなたかもしれないのだ。


物語シリーズ

2012年10月25日 | 読書録


「物語シリーズ」 西尾維新著
講談社BOX 講談社刊

を読んだ。面白い。

 シリーズとして一纏めにしてしまったけれども、正確には「化物語(上下)」「傷物語」「偽物語(上下)」「猫物語(黒)」「猫物語(白)」「傾物語」「花物語」「囮物語」「鬼物語」「恋物語」の12冊。シリーズとしては、ファーストシーズンとセカンドシーズンを全て読んだということになる。ライトノベルとはいえ、二段組で厚みもあるので、かなりのボリュームだった。読み応えがあったといっていいくらい。現在では、さらにサードシーズンの一作目「憑物語」が出ているが、それはまだ未読。予定ではあと二冊でシリーズが完結する予定らしい。
 ライトノベルももういいかな、と思っていたのだけれども、中高生に人気があるらしい(娘から聞いた)このシリーズの第一作「化物語」をちょっと読み始めて、そのまま勢いで12冊読んでしまった。読んでよかったと思う。「ライトノベル」というジャンルの代表的作品のひとつとして、このシリーズを挙げてもいいんじゃないかとさえ思った。ライトノベルの持つ下世話なくだらなさとをその先へと向かう可能性を、まとめて持っている作品として。さすがに、「ユリイカ」で特集されたこともある著者の代表作のひとつだけはある。
 そんなに面白かったのか、と言われれば、誰にでも勧められるものではないよなぁ、少なくともいい大人が喜んで読むには恥ずかしさを伴う本だよねぇ、としか言えない。ファーストシーズンなんて、小説というよりも「萌え漫才」の台本、あるいは(やったことがないから想像だが)ギャルゲ―のシナリオを読んでいるみたいだったし、拒否反応を示す人も多いはず。だけど、なんだろう、ぼくはそんなに嫌な感じがしなかった(偽物語で、一度挫折しかかったけれども)。セカンドシーズンには、時折町田康を思わせる文体も現れるし、登場人物がメタフィクション的な発言を平気でするし、その割には伏線がきちんと張られているし、なんだかのびのびと書かれた小説だなあと思った。読める小説は読めるし、読めない小説は読めない。本が好きな人なら、そんな感覚は絶対にあると思うが、そういう意味では、このシリーズはぼくには「読める小説」だった。文体も、悪くないんじゃないか。まあ、もしかしたら関西人には親しみの持てる語り口だったということにすぎないのかもしれないけれども。
 このシリーズは、「化物語」から「猫物語(黒)」までがファーストシーズン、「猫物語(白)」から「恋物語」までがセカンドシーズンということになっている。印象としては、ファーストシーズンがアウトサイド、セカンドシーズンがインサイドという感じ。時系列はバラバラで、作者はどの順番で読んでもかまわないといっているらしいが、やっぱり発表順で読むべきだろう。そうでなければ楽しめない部分(メタフィクション的な部分など)がたくさんあるように思う。








猫のゆりかご・・・序文(10)

2012年10月19日 | 猫のゆりかご

 「しないわよ」わたしは言った。
 「おお!立派だ!だがまあ、自分自身で判断する方がいいと思う」
 彼は引き出しを開けてフォルダーを引っ張り出し、タイプ打ちの原稿の束を抜き取って、それを手渡した。
 「そのテキストはミープから採録したものだよ――素敵な母猫であり、語り手なんだが、紅茶の時間に顔を合わせた様子では、君は彼女とは相性が悪そうだし、彼女にしてもそうみたいだ。ぼくは彼女を地方鉄道の踏切から拾ってきた。いちばん豊かな物語の泉を持つ猫を乳母にする必要があったから、それを見つけ出すために、ぼくは出来る限りたくさんの雌猫を集めようと歩き回っていたんだ。ミープの原本は、二つの他のバージョンと一緒に集めてあるが、そのうちの一つは、君も会ったことのあるバシリッサからのもので、もう一つは、チャンネル諸島からやってきた子供のトラ猫で、釣り船から連れてきた、ノイセットのものだ。ギリシャ、ノルマンフランス、東アングリア。君はさまざまな異本を目にするだろうが、その異同は非常に些細で、取るに足りないものだ」
 表紙にはオーディンの鳥が描かれていた。物語は、とても高級な、薄くて丈夫な紙に、たっぷりの余白をとってタイプされていた。注釈は、リボンの半分が赤いものが使用され、タイプされていた。訂正が、美しい手書きの走り書きで付け加えられていた。
 わたしがそれを置いたとき、彼は言った。
 「どう思う?特に気がついたことがあるか?」
 「これって、とても客観的ね」
 「そりゃね。猫は客観的だよ。だが、他には何か思いつかないか?」
 「当然、スカンジナビア風の要素があるわね。でも、それってトワ族のスコガラスの民間伝承じゃないかしら?それから、分布の疑問……東アングラ、チャンネル諸島、ギリシャ。最初は、そうした国々がとても離れているように思えたけれども、バイキングの船がその物語を運んでくるのに遠すぎるという距離ではないわね。ヴァリャーギ人はビサンチウムに侵攻したわ」
 「それで?」
 「ヴィンランドへも、多分、行ったわ。北アメリカからメス猫を手に入れることができるかしら――もっとも、メイフラワー号、ベイ・セトルメンツ号、そのほか色々な船に乗り込んで航海した猫たちが移民たちと共に舐めた辛酸を、あなたに示すことになるだけかもしれないけれど。それでも、わたしは新世界の猫は試す価値があると思う。ユカタンの猫、とかね。もっと言うと、グリニッジヴィレッジなら、ほとんどの民族を代表する、びっくりするほど素晴らしい猫だって見つけられると思うわ」
 わたしは心の中で少し考えて、いい考えだと思ったのだが、彼は顔にかかる前髪の向こうでしかめ面をしながら、その言葉を遮った。
 「私見だが、それはかなり的外れな意見だ。ぼくは人間主義的なアプローチの方法には興味がないし、それに、君は民族性というものに余りにも重きを置き過ぎているように思えるね。もしぼくの説が正しければ――確信は深まる一方だがね――猫の文化は、単なる民族的な問題というものを超越している。それをすべて、ヴァイキングがヴィンランディアに侵攻したかどうかと結びつけて考えようとするのは、ぼくにはひどく見当違いに思えるね。ぼくの見たところでは……」
 ドアベルが鳴った。彼は立ち上がり、窓の外を覗った。

"The Cat's Cradle-Book"  
Written by Sylvia Townsend Warner
(シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナー)
Translated by shigeyuki




ヤコウタケ

2012年10月12日 | 近景から遠景へ

 

 先日(10月8日)は、新木場にある熱帯植物園に出かけた。

 ヤコウタケが常設展示されていると聞いたので、ちょっと見てみたいと思い立ったからだ。ヤコウタケというのは、名前のとおり光るキノコで、光るキノコというのは世界には結構あるようなのだが、その中でもとりわけ光の強いのがこのヤコウタケだということだった。光るキノコというだけで、なんだか妖しい感じだして、ずっと見てみたいと思っていた。

 熱帯植物園は夢の島公園の中にある。新木場駅から歩いて十分ほどか。途中、園内の片隅には、ビキニ環礁での被曝で有名な第五福竜丸が展示されている展示館がひっそりとある。ほとんど人もいない、小さな展示館だが、ヒロシマ・ナガサキに次ぐ、二度目の日本人の被曝事件だ(三度目は、もちろん先日の原発事故)。1954年のアメリカによるマーシャル沖での水爆実験による被曝で、この実験による被爆者は2万人とも言われている。この実験による被曝事件にインスパイアされて、「ゴジラ」が制作されたのは有名だ。また、アメリカ人の画家ベン・シャーンによって、連作「ラッキードラゴン」が描かれた。教科書にも載っている事件だが、こんなところに第五福竜丸があるなんて、知らない人の方が多いにちがいない。

 植物園は、無料解放の日で、入り口ではなぜかカントリーミュージックのライブが行なわれていた。園内は、それほど広くはない。過大な期待はしない方がいいかもしれない。

 問題のヤコウタケは、通路の片隅に、まるでどこかの文化祭のような、手作り感覚あふれる小さな暗室が作られていて、扉を開けて入って見るようになっていた。とても狭いスペースなので、ひとりで見るほかはない。暗室の中には、長テーブルがあって、その上に小さなトレーに培養されたヤコウタケが数本、ある。「えっ、これだけ?」って感じだが、それでもヤコウタケの幽光は驚くほど明るくて、これが自然のキノコだということが信じられないほどだ。ドアをしょっちゅう開けられて、「あ、入ってる」と言われるので、落ち着かないのがやや残念ではあったが。それでも、傘も柄も、ほんとうに見事な緑色に発光していて、なんとも幻想的だった。

 話は変わるが、昨日の仕事帰りにちょっとブックオフにふらりと寄って、なんとなく百円均一棚を見ていたところ、棚に「メフィストとワルツ!」(小野不由美著 講談社X文庫)を発見。思わず目を疑う。手に取ると、やや背やけはしているものの、美本といっていい状態。「メフィストとワルツ!」といえば、同人誌の「中庭同盟」に次いで入手が難しい小野不由美の本だ。もっとも、中庭同盟の方はオークションで15万円の値がついたこともあるような異常な本なので、次元が違うのだろうけれども。

 


弥勒世

2012年10月07日 | 読書録

 

「弥勒世」 馳星周著 小学館刊

を読む。

 本土復帰直前の1970年12月20日、アメリカ統治下の沖縄のコザ(現在の沖縄市)で起こったコザ暴動をクライマックスに据えた大作。分厚い上下巻だが、面白くて、一気に読んでしまう。アメリカ、ヤマト(日本)に翻弄されるウチナンチュたちの鬱屈を柱に、差別意識や経済的問題など、様々な形の対立がぶつかり合い、爆発する様子が描き出されている。単なるノワールとしては片付けられない、現在にまで続く沖縄問題を正面に据えた作品になっていた。主人公たちについてはフィクションだが、起こったことは基本的に史実に忠実だということだ。
 沖縄については、今まさにオスプレイ問題や尖閣問題などでまた揺れていて、ニュースなどで取り上げられることも多い。本土にいると、どうも実感がわかない部分もあったが、先日沖縄に行ったときに、いろいろと感じるものがあったので、今ではもっと身近に感じるようになった。
 沖縄に行ったとは書いたが、それ以上についてはあまり色々と書かなかったので、ここで少し書いてみようと思う。
 もう二十年も前のことになるが、多少有名な沖縄料理の居酒屋で働いていたことがあって、沖縄料理を作ったりもしていたのだが、実は沖縄に行ったのはこれが初めてだった。沖縄よりも海外に行く方に意識があったので、行きそびれていたというのが主な理由だった。ただ、その時には常連の沖縄の人たちの同郷意識がとても強いと感じていて、正直なところ、それが多少煩わしいと感じていたことも事実だった。というのは、ことあるごとに「ウチナー」と「ヤマト」を区別するところがあったので、神戸から東京に出てきて働いている関西人のぼくとしては、同じ日本人なのだから、そんな区別をしない方がいいのにと、若さゆえだろうか、素直に思っていたからだ。その頃には、沖縄が持つ複雑なバックグラウンドなど、ほとんど考えたこともなかった。
 今回沖縄に行って、たまたま台風に遭遇したおかげで、図らずも本島を北端から南端までドライブするという経験をした。
 沖縄本島は、大きめだとはいっても島なのに、やはり南と北では全然違うと感じた。南へゆくと、サトウキビ畑やバナナなどが目立ち、光もどことなく明るくて、南らしいと感じたし、北はヤンバルの森や山が常に近くにあって、町も家も小さなものが多く、どことなく寂れた感じがして、北らしいと感じた。本州からしてみれば、沖縄の北端でさえ遙かに南なのに、辺戸岬まで行くと、やはり北の果てにまで来たという感が強かったし、逆に糸満の大渡海岸に行ったときには、広く明るくて、遙か南に来たという気がした。海の色まで明らかに違って見えたものだ。不思議なものだった。
 沖縄を車で移動していると、つくづく感じるのは米軍施設の巨大さだ。それも、良い立地の場所にばかり、どんと大きく広がっている。それに、街中に走っている基地関係者の「Yナンバー」の車。沖縄で走っている車は軽自動車が多いように思ったが、「Yナンバー」は、例外なく立派な3ナンバーだ。一度、車線変更をしようとしてウィンカーを出し、確認してから入ったところ、思いっきりクラクションを鳴らされたことがある。決して無理な車線変更ではなかったし、沖縄の人は運転が優しいと感じていたところだったので、ちょっと不愉快な気分になったが、それがYナンバーの車だった。もちろん、そんな車ばかりではないのだろうけれども、現在でもアメリカの統治はそっと綿々と続いているのだという考えが、頭をよぎった瞬間だった。
 沖縄では、ひめゆりの塔にも参って、そこでひめゆりの生き残りだというおばあさんに話を聞いたが、まるで祖母の話を聞いているようだった。防空壕の模型を前に、実際に体験したリアルな話を聞いていると、本当に酷いことがあったんだなと、辛い気分になった。びっしりとつめ込まれた負傷兵、傷口に沸くウジを内緒で処理してあげたこと、いきなり解散を命じられ、行き場をなくしてしまった時の不安感。ああいうのを聞かされると、右寄りの政治家が戦争のことについて詭弁めいたことを言うのが、許せないという気持ちになる。現在の中国や韓国がいろいろと言ってくるのは、政治上の問題に近い気がするので、一方的に要求を受け入れる必要なんてないとは思うが、例えば南京虐殺や従軍慰安婦問題について、これだけの証拠や証言があるのに、「そんなものはなかった」とか言うのは、正気で言っているのかと頭を疑いたくなる。まだ存命の犠牲者だっているのだ。そんなことを言われれば、誰だって頭に来るのは当然だ。靖国参拝だって同じだ。つけこまれる隙にしかならないことは、馬鹿でも分かる。
 ひめゆりにせよ、基地にせよ、これだけの被害をもたらしたそもそもの原因は、日本政府による侵略戦争だ。灰谷健次郎の「太陽の子」の中で、第二次大戦では、沖縄島民の三分の一が死んだというのを読んで、ショックを受けたことがある。三人に一人だ。洗脳、あるいは直接的な方法によって、自決に追い込まれた人びともその中には多数含まれている。若い頃、ぼくが沖縄人に感じた違和感も、こうした背景を考えれば、今では当然そうなるだろうとしか言えない。こうした背景を持った上に、現在の政府がどうしようもなくグダグダで、どこへ向かおうとしているのか何の道筋も示すことができず、経済大国としての存在感も失いつつあり、なおかつオスプレイを配備することを強いるというのは、理不尽な気持ちや不信感を募らせる原因として余りあるように思える。この先、日本の経済力がさらに低下したとき、例えば、「沖縄は日本を見捨てて、例えば台湾などにつくことにした」と言われても、余り驚かないだろう。