漂着の浜辺から
囁きのような呟き。
 



 少年は驚くほどの回復力を見せた。もともとが丈夫なのだろうが、精神力が身体の機能をさらに活性化しているのだろうと僕は思った。そしてカムリルの部屋に移ってから一週間も経たないうちに、もう部屋の中をせっせと掃除して回るほどになっていた。カムリルは部屋の中を不用意に触られることを嫌うが、少年に対しては、ここは駄目だという線引きをした上で、好きなようにさせていた。少しでも恩を返したいという少年の気持ちを大事にしたのだろうが、彼のリハビリになるだろうという気持ちも働いたのに違いない。それにしても、カムリルがこれだけの忍耐力を見せるのは珍しいことだった。やがてルピコルは、どこかで仕事をしたいのだけれどどうすればいいのかと事あるごとに尋ねるようになった。僕に思い当たったのは、店で使ってやってくれないかとガラドに頼むことくらいだった。
 「正直言うと、一人でも結構足りてるんだよね。それほど忙しい店でもないしさ」とガラドは言った。「まあ、人手があったら、それなりに助かるとは思うけどさ。忙しい時は忙しいしね。でもさ、どうせ手伝ってくれるなら、本当は女の方がいいんだよな。こんな店だしさ」
 「まあ、それはそうだと思うよ。それはわかってる。でも、ちょっとの間でいいんだ。無理を承知で頼んでるんだよ。ある程度お金が貯まったら、装備を揃えて、また《ミッドナイトランド》に出てゆくつもりらしいし。それにもしかしたら、《ミッドナイトランド》を旅してきた少年が働いているというのも、ちょっとは人を呼ぶための話題になるかもしれないとは思わないか?なあ、なんとか頼めないかな?」
 「まあねえ」ガラドはちょっと眉をしかめたが、続けた。「わかったよ。でも、悪いんだけどさ、そんなに給料は払えないよ。あんまり儲かってもない店だしさ。それでもいいかな?」
 「ありがとう。働き口があるだけでも有り難い話だ。きっと喜ぶと思うよ」
 話を持って行くと、思った通り、少年は喜んで働くと言った。随分と嬉しそうだった。自分の立場の弱さはよくわかっているらしい。それにまだ少年だったから、多少の悪条件など気にならないのかもしれなかった。少年は、話を聞いた翌日にはもうガラドの所へ行っていた。そして働き始めたが、熱心で物覚えもよく、おまけに《ミッドナイトランド》を旅してきた少年がいるという噂があっという間に広まったから、ほどなく店は随分と繁盛するようになった。決して口数が多い方ではないが、懐っこくて印象的な眼差しをしたルピコルは、特に女性客に人気が高く、彼目当てに通ってくる女性の数が随分と多くなった。思わぬ特需にガラドは驚き、僕に言った。「人助けはするもんだね。まさかこんなことになるなんてね、いや、驚いたよ。売上が、軽く倍にはなったね。彼には当分いてもらったほうが有り難いくらいだ。逆に礼を言わないといけないくらいだよ」
 
 図書館での研修は順調だったが、その頃になるとさすがに、本の山に対峙した時の気持ちにもいくらか変化は現れてきていた。研修を始めた当初には、この膨大な書物の山の中から何か思いもかけないほどの新しい資料が自分の手で掘り出されるかもしれないと思っていた。その可能性は確かにあったが、それは思ったほど簡単なことではないということもすぐに分かった。所蔵されている本の数の膨大さは、想像の域を遥かに超えていたからだ。全ての本を単に手にとってみるということさえ、一生を費やしても不可能に違いない。そう気付いた時の無力感は、言葉に言い表せないものがあったが、次第にそれにも慣れて、この巨大な《図書館》というものの存在を、素直に受け入れるしかないのだという諦念にも似た気持ちになっていた。老ヴァレック氏やオルラさんは、ずっと昔にそうした精神の状態に達してしまったのだろうと、遅ればせながらではあるが、僕は推測した。実際、これだけの情報を前にしてしまうと、圧倒されないでいるという方が無理な話だ。そういう時には、心を開いてしまって、やってくるものを素直に受け入れるという程度の気持ちでいた方がいい。僕はそう結論して、日々の研修に勤しんだ。だが不思議なもので、そう心を決めてしまってからは、ふとした機会に、思わぬ資料に遭遇することもあった。
 例えば、偶然掘り出したフールゥ・ジーナという著者による「《ミッドナイトランド》の新たなる太陽」という本には、「世界から《太陽》が失われた後、人々が力を合わせて新たなる太陽を作り上げた」という話が、詳細に記されていた。ホープスンの本にも同じような話が載ってはいたが、こちらの方が遥かに詳しい資料だ。ホープスンの本の中では、人工太陽はこの世界で造られて打ち上げられたものの、やがて燃え尽きて海に落ちたとある。だがジーナの本によると、人工太陽は最初からこの世界の外で作られたものであるらしい。だが思うようにはゆかず、ほとんど役には立たなかったとも記されている。どこまでが真実なのかは全くわからないものの、人々が《人工太陽》を創りだしたという話は、非常に興味深かった。

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 僕は少年の言葉に耳を傾けた。太陽のこととなると、少年は饒舌だった。話は自在にあちらこちらに跳んだし、言葉も、素直には聞き取りにくかった。だがそのことに気付いていないのか、それともこちらの理解などどうでもよいのか、本人はまるで意に介していないようだった。
 「あらゆる場所に、光があるんです」とルピコルは言った。「輝いています。色が溢れている。複雑な色彩に。数えられないほど、とりどりの色彩に。何も闇に隠れていない。全て見えている。でもただ隠れていないだけではない。まるで全てのものが、生きているかのように見えるんです。触ると動き出しそうなくらい。それぞれの色彩に、それぞれの温度を感じるくらい。その光は柔らかい。そして暖かいんです。はっきりと皮膚に感じます。空は透き通った、とても薄い、青い色彩です。でもその色彩は、底が知れない。その青い色彩の空の中に太陽があります。でも、見詰めることはできない。その光が余りにも激しいから。激しくて、鋭いからです。見つめようとすると、目が痛くなる。だから、見詰めません。ただ目を外らして、感じるだけです。その存在を思いながら、皮膚の隅々まで、その光の中に晒して、感じるだけです。それでとても柔らかく、落ち着いた、嬉しい気持ちになります。そんな鋭い光。それが太陽です。ぼくの、遥かな記憶の中にある光です」
 
 病院を退院したルピコルの身柄は、とりあえずカムリルが引き取ることになった。身内でもないことだし、無理を言って最後まで面倒を見てもらってもよかったのだが、できれば早く退院して欲しいという様子が病院側にはありありと伺えた。それに、彼にしても病院は居心地が良くないと感じているの明らかだったから、カムリルと相談してそうすることに決めた。見知らぬ男性を、いくら少年であるとはいえ、カムリルの自宅に住まわせるということに全く抵抗がなかったわけではなかったが、彼女が大丈夫だと強く言ったのと、あまり抵抗すると見苦しい嫉妬をしているような気もして、結局は僕の方が折れるような形でそうすることにした。実際のところ、僕は図書館での仕事があるし、まだ体調が万全ではない少年の面倒を見るのは確かに困難だったから、仕方がないといえば仕方がないことではあった。
 病院から引き取ってきた少年をカムリルの自宅のベッドに横たえた。随分と良くなってはいたが、それでもまだ思うように力が入らないようで、身体を起こしているのが苦痛なのだと言う。カムリルは自分のベッドをルピコルに譲り、自分はアトリエのソファをベッドとして使うことにしたようだ。カムリルは「忙しい時には、ベッドよりもこっちで眠ることの方が多いくらいだから、何とも思わないわ」と言った。確かにそれは事実で、僕も彼女がアトリエのソファで眠っている姿を何度も見ている。「ちょっと横になれるように」と選んだソファだから、かなり快適なのだそうだ。
 それからは毎日、仕事の帰りにカムリルの家に寄ることが日課となった。数日を待たずして少年はすっかりと回復し、ベッドにいることの方が少なくなった。それでも当分はカムリルの家から出るつもりはないらしく、彼女もそれを拒もうとはしていなかった。二人は気が合うようで、そのうち少年はカムリルの仕事の手伝いをするようにさえなった。カムリルは「タダで働いてくれる助手が出来て助かるわ」と喜んでいたし、ルピコルの方も「助けて頂いたお礼をどうしてもしたい」と言うので、僕に文句の言えるはずもなかった。
 よく三人で太陽の話をした。僕たち三人を繋いでいるものは、誰も実際には見たこともない「太陽」だったからだ。
 「太陽のことは幼い頃からずっと考えてきました」とルピコルは言った。「当たり前のようにぼくの記憶の中にあるのが太陽でした。だから誰も太陽のことを知らないというのは不思議だったし、自分が太陽のない世界にいるというのが馴染めませんでした。ぼくの記憶の中にある太陽は、今ここにはないけれども、この世界のどこかには絶対にある。ぼくにはそうとしか思えなかったんです。だからそれを確かめたくて、太陽を探す旅に出ることにしました。この《ミッドナイトランド》に出て行くのは、勇気がいったけれども、繰り返し現れる太陽の輝きを思うと、旅に出ないではいられなくなりました」
 「それで死にかけたんだよ。無茶な旅には違いないね」僕がそう言うと、ルピコルは「運が悪かったって最初は思いました。でも、良く考えてみたら、こうして助かったんだから、そうでもないのかもしれない」とさらりと言った。随分と楽天的な性格だと呆れたが、そうでなければこんな無茶なことをやろうなんて、確かに考えないかもしれない。脇ではカムリルがおかしそうに笑っていた。
 「まあ、確かに今回は運があったのかもしれないけど、運はいつまでも続くものではないと思うよ」
 「それはわかってます。でも、諦めるのは嫌です。こんなに簡単に諦めるくらいなら、最初から旅になんて出ない」
 「じゃあ、治ったらまた旅立つつもりなのか?」
 ルピコルは答えなかった。けれども、その目には曇りがなかった。
 「それなら、仕方ないかもしれないけど」と僕は言った。「でももうしばらくは身体を休ませてからにしないとね。それに、装備ももうちょっとちゃんとしたほうがいいと思う。見たところ、君の装備にはかなりの問題があるようだったから。はっきり言うけど、ここまで辿りつけたのが僥倖だったとしか思えないくらいだった」
 「それは、身にしみてわかってます」とルピコルは恥ずかしそうに言った。「でも、ちゃんとした装備をするだけのお金がなかったから。それでもよく考えて、工夫して、なんとかここまで来たんです。この街でもう少し良い装備を揃えたいけど、今は買うお金がない」
 「そんな状態で旅を始めたのか。ずいぶん無茶だ」
 「そうです。無茶でした。ごめんなさい、迷惑をかけてしまって。でも、いくらお金があったって、どこでも同じお金が使えるとは思えなかった。それより、道中でなにか珍しいものでも見つけて、それを売ってその場所で使えるお金に変えたほうがいいと考えたんです。でも、見込みが甘すぎたみたいです。そんなにうまくはゆかなかった」
 「呆れたな。それじゃ何も考えてないのと同じだよ」
 「しばらくここに住んで、どこかで働いてお金を稼ぐといいわ。病院の支払いもあるし」カムリルは笑いながら言った。「でも病院の方は、公費でほとんどが出るから、そんなに気にすることもないわよ。仕事は、君ぐらい無茶な子なら、きっと何か探せると思うわ」
 「本当ですか?それは嬉しいです」
 「まあ、まずは身体を治すことだよ」と僕は言った。


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 翌日、仕事が終わった後、僕は病院に向かった。カムリルとは直接そこで落ち合う約束だった。少年の部屋はベッドが十六ある広い病室で、部屋に入ったときには既にカムリルは来ており、ベッドの脇に座って、起き上がっている少年と何か話をしていた。二人はすぐに病室に入ってきた僕に気が付いた。少年はじっと無言でこちらを見つめていたが、カムリルはさっと笑顔を浮かべて、手を挙げて僕を招いた。それから少年に何か言葉をかけていた。おそらく僕のことを紹介しているのだろう。
 歩きながら、僕は少年の姿を観察した。なるほど、確かに投薬のせいかこの前に見た時よりも痩せてはいるが、不健康な印象はない。それに、その白い肌の中に大きく開いた眼窩には普通ではない色彩があり、光の加減でやや分かりにくかったが、確かに淡い緑色の瞳をしていて、印象的だった。こんなふうに瞬きもせずに見詰められると、ぞっとするほどだ。
 「ごめんよ遅くなって。ずっといたの?」僕は少年から目を外らして、カムリルに向かってそう言った。
 「そうね、二時間くらい前からいたかしら」カムリルは答えた。「でも、あなたが遅かったんじゃなくて、わたしが早く来すぎただけよ。気になって、早く来たの。ルピコルと話をしていたので、楽しかったわ」
 「ルピコル?彼の名前?」
 「ああ、そうだ。まだ言ってなかったわね。彼の名前はルピコルと言うの」
 少年は僕の顔をじっと見つめて、挨拶をした。それから、礼の言葉を述べた。言葉は、多少発音が耳慣れないものの、十分に理解できた。僕は頷き、微笑んでみせた。だが実は、なんとも居心地の悪い感じを味わっていた。それは少年が僕から全く目を逸らさず、じっと見詰めていて、しかも瞬きを一度もしなかったせいだった。もしかしたら投薬の影響なのかもしれないが、瞬きひとつしない、大きな淡い緑色の瞳にじっと見詰められていると、落ち着かない気持ちにならざるをえなかった。
 「はじめまして、というべきなのかな。ディールです」と僕は言った。「こんにちは。回復してきたようで、良かったですね」
 「はい。本当に。助かりました。死ぬところでした。でも、ぜんぜん覚えていないんです。でも、危なかった」
 「まあ、君が倒れているのを見つけたのは僕たちだけれど、君はきっと、まだ死ぬ運命じゃなかったんだね。そうでなければ、なかなかこんなふうに偶然助かったりしないだろうから。それで、体の調子はどう?」
 「はい。大丈夫です。もう随分。お腹がすいて仕方ないです」
 「じゃあ、もう大丈夫だね。お腹が空くというのは、健康になった証拠だからね」僕は言った。「でも、どうして君はあんなところにいたの?」
 「はい。ずっと旅していたんです。それで、あそこにいたんです」
 「旅?どこから?いつから?」
 「エピ。ぼくの生まれた場所です。町を出たのは、たぶん三ヶ月くらい前だと思います。でも、よくわかりません」
 「どうして町を出たの」
 少年ははっとしたような表情で、じっと僕の目を見詰めた。おそらく、十秒は見つめていたと思う。それから少年は言った。
 「《太陽》を探しているんです。この世界の彼方で輝く光を。この世界の全てを、暖かく照らし出す《光球》を」
 僕は凍りついたように黙り込んで、少年の顔を見詰めた。その瞳はじっと揺るがず、澄み切っていた。
 
 それから数日かけて、僕とカムリルは少年から太陽の話を聞いた。少年は《太陽》の存在を全く疑ってはいなかった。どこまでも旅をしてゆけば、いつかは必ず《太陽》のある世界に辿りつけると信じているようだった。それは単なる信念というには、余りにも無邪気に思えた。最初の頃に僕は、君は本当に《太陽》が存在すると思っているのかと聞いてみた。すると少年は、一瞬何を聞かれたのか分からないといった表情をしたが、それは間違いないと答えた。
 「だって君は《太陽》を実際に見たことなんてないんだろう?」
 「見たことは、ないです。でも、知ってるんです」
 「知っているって……?」
 「憶えているんです。……だから、知っているんです」
 「でも、見たことがないんだろう?憶えているというのは、変な言い方じゃないか?」
 「変です。それは変です。でも、本当に憶えているんです」
 「夢かなんかじゃなくて?」
 「夢じゃないです。それは絶対に違います。記憶なんです」
 「夢だって記憶になるよ」僕は言った。「何だって、記憶になる」
 だが僕はそれ以上のことは言わなかった。他ならぬ僕が、彼の言葉にある矛盾を指摘してどうなるというのか。いずれにせよ、太陽に執着している人間がここに三人揃ったのだ。偶然にしては出来すぎだという気持ちに抗うことは難しかった。

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 少年の意識が戻ったのは、三日後のことだった。僕は仕事で家を空けていたから、病院から連絡を受けたのはカムリルだった。
 仕事が終わったあと、僕はカムリルとガラドの店で落ち合った。
 《眠りの樹》に入った時には、カムリルは既に店に来ていて、ガラドを相手に早くも飲み始めていた。店に入ってきた僕の姿を見て、カムリルはこちらに向けて手を振った。ガラドの「いらっしゃい」という言葉がそれに続いた。
 「遅かったんじゃない?」とカムリルは言った。
 「いや、そんなことはないと思うけど」僕は言った。「いつもと同じくらいだよ」
 「わたしが早すぎるのね」カムリルは大きな声を上げて笑った。「早く話をしたくって」
 「で、俺が最初の被害者というわけ」カウンターの向こうから、ガラドがことさらうんざりとしたような声で言った。「ずっとさっきから俺を捕まえて、その話ばっかりなんだ。もう充分にわかったって。ディール、お前から何とか言ってやってくれよ」
 「あら、お客に向かって随分酷い言い方。ねえ、ディール」カムリルは言った。
 僕は苦笑して見せた。「それで、どうだったの?」
 「それがとても不思議なのよ」カムリルは興奮した声で言った。「なんだか、とても偶然だとは思えなかったわ。まあ、まだ何がなんだかよく分からないみたいで、起き上がることもできないし、ほとんど口も利かないんだけど、ポツポツと、言葉の断片のようなものは口に出すの。で、彼、何て言ったと思う?」
 「そんなの、わかるわけないよ」
 「ちょっとは考えてよ。……まあ、いいわ。あのね、『太陽』って言ったのよ!『太陽が……太陽を……』って。すごいと思わない?」
 「本当にそう言ったの?」
 「本当よ!嘘ついても仕方ないでしょう?わたし、びっくりして思わず『えっ』って聞き返したわ。『今、太陽って言ったの?』って。すると彼はこっちを見て、もう一度はっきりと『太陽』って言ったの。ちょうど今わたしたちは『太陽』に取り組んでいる最中でしょう。偶然にしては出来すぎていると思わない?」
 「そうだね。驚くほどだよね。で、それから?」
 「それだけよ。残念ながら。随分と疲れるみたいで、その後はじっとわたしの顔をしばらくみていたわ。彼、随分と幼いみたいだけど、その目にはなんともいえない迫力があったわ。大きくて、淡い緑色をしているの。これまでずっと目を閉じていたから、気がつかなかった。あんな色の目は、見たことがないわ」
 「太陽か」僕は呟いた。「混濁した意識の中で呟いた言葉がそれというのが気になる。よほど意識の中心にあることなんだろうな。もしかして、太陽のことを調べているのかな?」
 「きっとそうよ。いったいどこから来たのかしら」
 「それほど遠くからではなさそうだね。言葉がわかるということだし。明日にでも一緒に病院に行こうか?僕も会って話を聞いてみたい」

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 「陽性なら?」
 「それはもちろん、すぐに入院していただきます。命に関わりますから、死にたくなければ、問答無用ですね。ですが、無自覚の状態でしたら、治療さえすれば、全く深刻なものではありません。多少、嫌な気分は味わうことになるかもしれませんが」
 「どのような症状になるのですか?」
 「第一期の症状としては、あの少年のように、深い眠りにつきます。ですが、その期間は比較的短く、せいぜいが二三日といった程度です。その後、一時的に嘘のように健康になりますが、それは《包夜花虫》が神経系を冒しているからです。《包夜花虫》という寄生虫は、最終宿主が《黒土竜》というモグラの一種なのですが、人間も中間宿主とすることがあります。人間はあくまで中間宿主ですから、命を奪うことにためらいはないようですね。第二期になると、体中に水泡ににた瘤ができて、動くのも億劫になります。そして、異物食、具体的には土を食べたいという欲求に苛まされるようになります。やがて土の上で動けなくなり、その死体を《黒土竜》が食べることによって、最終宿主に到着するというわけです」
 「最悪だわ」
 「ええ、ですから検査を受けてくださいね」
 検査は簡単なもので、すぐに終わったが、結果が分かるまでには多少の時間がかかった。だが、今度は二人とも退屈を感じるという余裕はなかった。結果は共に陰性で、胸を撫で下ろした僕たちは、少年の処置を医師に委ねると、家路を辿った。
 「どうなるのかしら」人通りの疎らな《水甕通り》を並んで歩きながら、カムリルは言った。「そもそもあの子誰なのかしらね」
 「そうだね」と僕は言った。「病気の方は、大丈夫だと医者が請け負ってくれたから、平気だろうけど、本当に誰なんだろうね。この街の人ではないような気はするけれど。これまで一度も会ったことがないと思うし。まあ、この街の人をみんな知ってるわけじゃないけどね。それに、着ている服とか、雰囲気とか、ちょっと違うよね」
 「それはわたしもそう思うけど」カムリルは言った。「でも、それならどこから来たのかしら」
 「さあ、どこだろう。多分、そんなに遠い街からではないとは思うけど、分からないよ」
 「意識が戻ってからになるのね」カムリルは言った。「時々お見舞いに行かないと。彼を病院にまで運び込んだわけだし、それに、ちょっと興味があるわ。あなたはどう?」
 「うん。興味もあるし、お見舞いには行くつもりだよ。まあ、なくてもどうせ病院から呼び出されることになるだろうけどね。今はまだ身元が分からないし、この街の人間でないとなると、なおさらだ。一度関わった以上、ある程度深く関わることは覚悟しているよ」
 「覚悟してる?それは何だかちょっと冷たい言い方じゃない?」
 「いや、言い方がまずかった」僕は言った。「ちょっといろいろと考えてしまったんだよ。話をしようにも、言葉が分かるかな、とかね。そういうつまらないことを、いろいろと」
 「言葉がわからないかもしれないなんて、考えもしなかったわ」
 「色々な可能性があるからね。でも、多分気の回しすぎだろう。きっとそれほど遠くから来たわけじゃないだろうし、だとすれば、言葉もそれほど大きくは違わないと思う」
 「どうしてそう思うの?」
 「なんとなくだよ。まだ子供といっていい年齢だしね、そんな長い距離を旅してきたとは思えないから。近くの街なら、言葉もそれほど大きくは違わないだろう」

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 途中で何度も休みながら、ようやく少年を僕の部屋の床に横たえたのは、《青の丘》を出発してから、実に五時間後のことだった。その間、少年は一度も目を醒まさなかった。本来ならすぐに病院に運び込むべきだったのだろうが、時間も遅く、受け入れてくれそうな病院は僕の部屋からさらにずっと先にあったから、とりあえずは僕の部屋で休んで、医者に連絡を取ろうと考えたのだ。床に横たえるというのは可愛そうかとも思ったが、何せ臭うし、とてもベッドを使わせる気にはなれなかった。部屋に入れるだけでも、多少は勇気が入ったのだ。それでも一応毛布は敷いてやったし、少なくともあのまま砂浜に放っておくよりはずっとマシなはずだった。
 「ついに一度も目を醒まさなかったわね」とカムリルは言った。「どうしよう。大丈夫かしら」
 「体温はあるんだ。息もしてる。だけど、大丈夫とは言えないよね、どう考えても」
 「病院に連絡を早くしたほうがいいわね」
 「うん。一体何が何だかわからないから、早く処置をしてもらったほうがいいのは間違いないだろうな。悪いけど、僕が様子を見ているから、連絡をしてきてくれないかな」
 「わかった」
 カムリルが部屋を出て行くと、僕はバスルームに入り、体をしっかりと石鹸で洗った。少年の様子が覗えるように、ドアは開けたままにしておいた。服もすっかりと取り替え、古い服は湯を張った洗濯槽に放り込んだ。だが、自分の体からは臭いが大体取れても、部屋の中に充満した臭いはどうすることもできない。少年の服を全部脱がせて頭から洗ってやりたかったが、こんな状態ではそんなわけにもゆかない。まだ少年だし、体臭が特に強いというわけでもないのだろうが、何度か尿を漏らしているようだし、気持ちのよいものではなかった。僕は冷蔵庫からビールを取り出して栓を取り、ベッドに腰をかけると、ぐったりと横になったまま動かない少年を見詰めながら、飲んだ。この後も色々と大変そうだというのは分かっていたが、疲れきっていて、少し飲まずにはいられない気分だったのだ。
 明るい部屋の中で改めて見ると、少年は本当に幼い顔をしていた。初めて見たときには十代の後半かと思ったが、せいぜいが半ばといったところだろう。髪の色が赤っぽく、かなりの縮れ毛で、それが真っ白な顔に張り付いている。
 そうこうしているうちにカムリルが戻ってきた。どうだったと聞くと、病院からこっちに運搬の手配をしてくれるということで、もうこれ以上運ぶのは辛いと思っていたところだったから、心底ほっとした。それから三十分ほどで、病院からの迎えがやってきた。やってきたのは三人だったが、誰もがしっかりとした防護服に身を包み、慎重に少年を運び出した。その様子が妙に大げさに思え、しばらく見入っていたが、その中で一番背の低い一人がいきなり僕の側にやってきて、申し訳ないがお二人とも一緒に来ていただきたいと言った。その口調は明らかに任意ではなく強制だった。僕はカムリルと顔を見合わせた。それを見たその医師は、いや、詳しいことは後でお話いたしますが、一応念のための検査を受けて頂きたいので、と言った。
 病院まで、少年を運ぶのを手伝いながら同行した。少年が検査のために病院の中の一室に運び込まれると、僕とカムリルは別室に隔離され、少し待つように言われた。そしてそのまま二時間以上も放っておかれた。さすがに少しイライラとしてきたが、カムリルはさらに我慢ができなくなってきたようだった。それで部屋から出ようとした時、不意に医師が部屋に入ってきた。
 「すみません、お待たせしまして」とその医師は言った。かなり肉付きのよい医師で、全身がすっぽりと防護スーツに包まれている。
 「どうなりましたか?」僕は言った。医師は僕の顔を、しばらく呆けたような眼差しで見詰めたが、不意に思いついたように口を開いた。
 「あの少年ですか?ええ、大丈夫です。危ないところでしたけれどもね、随分と早くここに運べたので、問題はないでしょう」
 「そうですか。よかった。でも、一体何だったのですか?」
 「寄生虫です」と医師は言った。「《包夜花虫》という、宿主に捕食寄生する寄生虫です。実はそれほど珍しい寄生虫ではありませんが、放置しておくと命に関わるので、早い発見で本当によかった。宿主から別の宿主に感染もする可能性もありますし、早期なら完全に治癒できるとはいえ、発見が遅れると深刻なことになる可能性が高い寄生虫ですから。話を伺った最初から、おそらくは感染性の疾患か、あるいは寄生虫によるものだという予測がありましたから、お二人にも残っていただきました。結果として、比較的問題の少ない種類でしたから、おそらくは大丈夫だとは思いますが、お二人にもこの後、一応の検査をしていただきます。それで、陰性であればすぐにお帰りいただけます」

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 外套は寝袋としても使えるようになっているもので、その中に少年の顔は半ば隠れてはいたが、幼さは隠せなかった。肌の色が極端に白く、ひどく痩せており、少しも動く気配がない。
 「死んでいるのかしら……?」
 「どうだろう?」
 僕は用心のために片手に小型銃を握り締めた。そしてカムリルにそこにいるように言って、一人でゆっくりと少年に近づいた。だがやはり少年は動く気配がない。傍らに立つと、僕は思い切って呼びかけた。
 「どうしました?」
 反応がない。
 「大丈夫ですか?」
 やはり反応はなかった。
 顔色は確かに白いが、死んでいるようにも見えない。少し躊躇ったが、そっと手を伸ばして、頬に触れてみた。やや冷たいが、生命を感じないほどではない。頬の柔らかさも死者のものではない。さらには、手の甲に呼吸の風を微かに感じた。そのことが僕を緊張させた。この少年は生きている。だが、こうして触れているにも関わらずまるで反応を返さないというのは、何かしらの問題があるに違いない。その「問題」が何か分からないというのは、嫌な気分だった。
 「生きてるの?」
 どうするべきか、やや途方に暮れた気持ちで少年を見詰めていた僕に、いつの間にか側に来ていたカムリルが話しかけてきた。
 「うん」僕は言った。「息はしてる。でも、反応がない」
 「眠っているのかしら」
 「かもしれないけど、もしそうなら、随分と深い眠りだ。こうして頬に触れても、全く反応しないんだから」
 カムリルは屈み込み、少年の頬に触れた。それからその手を、そっと鼻の下に持って行った。
 「本当ね。息はしてるわ。なぜ反応しないのかしら」
 「分からないよ。でも、どうしよう。このままにしておくわけには行かないだろうし」
 「そうね」
 僕はじっと少年を見詰めた。整った顔をしていたが、ともかく痩せていた。外套は、素材が丈夫なもののようで、それほど痛んだ印象は受けなかったが、履いている靴はかなり傷んでいて、長い距離を歩いてきたのだろうということが推測できた。それに、少年の体から発散する臭いは、かなり強かった。長い間体や服を洗っていないのだろう。でも、どうしても耐えられないというほどでもない。僕はそう自分に言い聞かせた。そして少年の体を抱えながら、カムリルに言った。「仕方がないから、僕が街までおぶってゆくよ。悪いけど、ちょっと背負うのを手伝ってくれないか」
 僕はカムリルの手を借りて少年を背負うと、歩き始めた。完全に気を失っている人間を背負うのは、かなり大変だった。砂地だと、特に辛かった。二三歩歩いたところで、果たして街まで持つかと不安になったが、やるしかなかった。休みながら行けば、いつかは辿り着くはずだ。そう思うしかなかった。

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 海へと向かう道は細く、なだらかな起伏があって、進むにつれて視界に海が見え隠れする。街から海へは別の道があるため、ここは歩く人などほとんどいないが、不思議と植物に道が埋もれてしまうということはない。時折、思い出したように人が通るせいだろう。僕たちがそうであるように。
 やがて、海に臨む岬に辿り着いた。岬とはいっても、小さな、海抜の低い岬だ。見下ろすと、海は青白く光っていた。その光は、波打ち際が特に鮮やかで、ほとんど白色と言っていいくらいに強い光を発し、ざわざわと揺れていた。僕たちは岬の脇から海岸へと降りていった。海辺には沢山の赤い花が咲いており、海の中にまでその複雑な細い根を這わせていた。これらの花は《網藻花》と呼ばれる種類の草で、海水と、海中のプランクトンの発光する光を利用する。波間にちらちらと見える黒く平たいものが受光器で、時には波打ち際をびっしりと覆うこともある。
 穏やかな海岸を、《網藻花》を踏みながら歩いた。プランクトンの発する光で、辺りがぼんやりと明るかった。波が砕けると、光も束の間、弾けるように舞った。波の音が聞こえていた。それは、誰かが僕たちを呼んでいるかのようにも聞こえた。だが僕たちは、注意深く海からは離れて進んだ。海が怖かったためだ。海の中には、僕たちの窺い知れない様々な生物がいる。その恐ろしさは、漁師たちの話として幾つも伝わっている。一説には、海の中は僕たちが想像するよりも、ずっと光に満ちた、カラフルな世界だという。様々な光を発する生物が、深い海の底に存在するというのだ。だが、そのことについては単なる噂の範囲を超えず、信頼できるだけの証拠も存在しない。だから、ただそういう話がどこからともなく伝わっているというだけなのだ。
 海辺には、どこか生臭い潮の香りが満ちていた。そしてその香りは、肌に深くまとわりついて、僕には少し不快だった。だが、カムリルにはあまり気にならないようだった。
 「この海の色彩は、いつ見てもとても不思議だわ。輝きの中にも波があるみたい」
 「水の中だから、そう見えるんだろう」
 「そうかもしれないけれど、そう見えるというのが大切なのよ」そう言ってカムリルは少し波打ち際に近づいた。
 「危ないよ。突然《銛魚》が飛び出してきて、体を貫くこともあるんだよ」
 「平気よ。あなた、ひとりで《青の丘》には行く癖に。そんな危険な魚は、こんなに浅いところにまでやって来ないわ。触手に毒を持った生物だって、きっとこんな砂浜にはいないわ」
 カムリルはバックから小さな壜を取り出し、それを前にかざしながら、そろそろと波に近づき、腰をかがめた。そして、さっと水を掬うと後ろに下がり、壜の中を見詰めた。どうやらプランクトンを採集しようとしているらしい。それを数回繰り返した後、満足したのか、壜の蓋を閉めた。それから、それを僕に見せた。覗き込むと、ほんの微かだが、確かに青い輝きが壜の中で揺れている。
 「光絵に使うつもり?」僕が訊くと、彼女は頷いた。「まあね。でも、量も少ないし、とりあえずちょっとだけ持って帰って、考えるの。使うとしても、もっと沢山必要ね」
 「じゃあ、また採りに来るのかい?」
 「必要ならね。……あら……?」
 ふとカムリルは足元を見た。僕も彼女につられて足元を見た。すると、薄暗さのせいでそれまで気がつかなかったが、砂の上に誰かが歩いた跡のようなものがあった。自然に出来たとはとても思えない。僕たちは顔を見合わせ、辺りを見回した。すぐにずっと先の方の砂浜の上に、何か人のような影が横たわっていることに気がついた。一瞬体を固くして身構えたが、その影は全く動く気配を見せなかった。死んでいるのかもしれないと推測したが、もしかしたらまだ生きていて、動くこともできないほどに衰弱しているという可能性もあったから、放っておくわけにも行かないと思った。それで、多少用心しながら、ぼくたちはその影に近づいていった。
 近づくにつれて、それが人であることははっきりと分かるようになった。最初は漁師だろうかとも思ったが、遠目にもそんなにしっかりとした体格には見えない。どちらかと言うと、子供に近いように見えた。さらに近づいたところ、どうやらその印象は間違ってはいなかったということがはっきりとした。砂浜に仰向けになって倒れているのは、しっかりと黒い外套を着込んだ、十代の半ばから後半くらいの少年だった

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 《青の丘》へ行かないか。そう誘ったのは僕の方だった。明らかに煮詰まっているカムリルの様子を見かねて、ちょっとした気分転換にでもなればと思ったのだ。カムリルは喜び、わたしも行きたいと思っていたところなのよ、と言った。さすがに一人では街を離れる気にはなれないらしい。だから僕の誘いは渡りに船だったようだ。
 二人で揃って《青の丘》へ行くのは久しぶりのことだった。図書館での仕事が忙しくてなかなか時間を割く余裕がなかったせいもあるが、もともと僕は彼女を《青の丘》に連れて行くことに余り積極的ではなかったというのも大きな理由の一つだった。どうしたところで人里から離れた場所に行くというのは多少のリスクを伴うし、それが女性と一緒だということになればなおさらだった。もちろん《青の丘》に行く時にはいつでも武器を携帯するようにはしていたが、それで安全だとはとても言えない。確かにこれまでは一度も危険な目にあったことはないものの、それが僥倖であったという保障は何もないのだ。それでもいざ二人で《青の丘》に向かうということになると、気持ちが高揚した。ゆったりとした時間を過ごすつもりで飲み物や食べ物を用意し、それなりの支度を整えているうちに、すっかりとピクニック気分が盛り上がってきた。
 出発してから街を抜けるまでには一時間ほどかかった。街はいつの間にか旧市街へと様相を変えていった。灯りが次第になくなり、人の姿もなくなった。辺りには建物が沢山並んでいるが、どれも色彩を失くした廃墟ばかりで、生命の気配は感じない。どんな生物もいないというわけではないのだろうが、気配ばかりが漂うだけで、実際には姿は見えなかった。だが、僕たちは常に言葉を交わしながら歩いていたが、その微かに感じる気配のせいで、自然と声のトーンは落ちた。不必要な注目は浴びたくないという気持ちが我知らず働くためだろう。
 旧市街を一時間ほど歩くと、建物が次第に疎らになり、やがて道は《いにしえの道》と合流し、平原の中へと導かれる。そこから《青の丘》の麓までの三十分ほどの道のりを、暗い世界の底辺を這う《緑繊毛》を踏みしめながら、仄かに青く浮かび上がる《青の丘》を目指していった。
 「久しぶりに来たけれど、ここからの光景は、いつ見ても素敵ね」カムリルは丘の上に立つと、辺りをぐるりと見渡しながら、言った。彼女の顔が、《夜鳴草》の明りに照らされて、青ざめて見えた。
 「こんなに遠くなければ、毎日でも来たいくらいだよ」と僕は言った。「でも、たまに来るからこそいつも新鮮な気持ちで眺めることができるんだろうな」
 僕たちは乾杯をし、持ってきた軽食を食べた。それから二人並んで丘に寝そべり、《ミッドナイトランド》に仄かに灯る明かりを見詰め、虫の音を聞きながら、色々な話をした。一度だけ、どこかで何かが騒いでいるような音がした。僕は、もしかしたら《夜の獣》かもしれないと思い、身構えたが、音はそれきり止んで、何も起こらなかった。それで、おそらくは風のせいだろうと思った。
 「もしこの世界が、全て光の下に晒されたとしたら、いったいどう見えるのかしら」カムリルは、ふとそう呟いた。
 「そうだね。どう見えるだろう。想像もつかないな。何もかも、全然違って見えるのは間違いないだろうけれど」
 「綺麗かしらね?」
 「うん……きっと綺麗だと思う」僕はそう言ってから、世界が光で満たされている状態について考えた。だが、上手く想像できなかった。夢の中では確かにそんな光景を見た。心が奪われる光景だった。だが、いざカムリルにそう訊かれて目の前の光景を見詰めるとき、実感としてそれを感じるのは困難だった。
 丘では随分と長い時間を過ごした。その間に、随分と疲れていたのか、カムリルは少し眠った。僕は彼女をそっとしたまま、しばらくは一人で《青の丘》の柔らかい光景の中に身を浸した。穏やかな時間だった。カムリルの寝顔を見ているのも愉しかった。カムリルが目醒めた後、僕たちはもう少しその場所で語らい、それから帰路を辿ろうと立ち上がった。だがカムリルは、少しだけ《静寂の海》の方へ歩いてから帰りましょう、と提案した。僕は頷き、草を掻き分けるようにして丘を下っていった。そして《いにしえの道》を少し歩き、そこから分かれる、海へと続く細い坂道を下って行った。

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 その間も、僕は図書館に通い続けた。そして自らの内面に降りてゆくかのように、ひと月に二フロアーづつ潜っていった。地下深くの薄暗い書架の間を、僕はオルラとたった二人で彷徨うように歩いた。そして目を書架に並ぶ書物の背に這わせ、折に触れて書架から本を取り出し、開いた。その大半は、僕には何の興味も持てないものだったが、時折は開いた本の行間にふと心を打つ文章を眼にすることもあった。そんな時には、暫くの間、とても心が穏やかになった。図書館の全貌は、とてもではないが、計り知れなかった。一体誰がこれほど様々な書物を必要とするのだろうと思った。ここにある本の大半は、この先もずっと決して開かれることもなく、いずれやってくる朽ち果てる時を待っているだけなのだ。だがそれでも僕には、ここにある書物を保存するということに関して、確かに責任があると感じた。そういう思いがなければ、とてもこの本の山に対峙することは不可能だった。
 ある時、僕はオルラに訊ねた。
 「オルラさんは、《太陽》について、どう思いますか?」
 「《太陽》ですか?」オルラは不意を突かれたような顔をして言った。「さあ、余り考えたことがないので、何と言っていいのか……」
 「存在していたということは信じますか?」
 「それは、信じるわ。むしろ、無かったと考える方が不自然だと思うから」
 「それは、どうしてです?」
 「どうしてって」オルラは困った顔をした。「よく分からないけど、きっとあったんだろうなって、ごく自然に感じるから……」
 「自然にですか?」
 「ええ、そうよ。ホープスンの本を読んだときも、何も疑問は感じなかったし。当然のことだとと感じたわ。疑う理由もないし、それに、夢を見たこともあるのよ」
 「夢を?」
 「そうよ、太陽の夢。世界を眩しく照らし出す光の夢。たった一度だけれどね。素晴らしい夢だったわ」
 一瞬、言葉が出なかった。まさかオルラさんが太陽の夢を見たことがあるなんて、考えても見なかったのだ。
 「それで、どうしました?」僕はやっとそれだけを言った。
 「どうって」オルラは言った。「別に何も。それだけのことよ。まだ十五歳の頃だったわ。いい夢だったので、覚えているけれど」
 「太陽は、どんな感じでしたか?」
 「とても明るい、白い玉って感じだったかしら。あまり細部まではもうはっきりとは覚えていないの。そう、あなたは太陽が好きだったのよね。でも、それ以上のことは言えないわ。内緒にしたいんじゃなくて、余りよく覚えていないから」オルラはそう言って、しばらく考える様子を見せたが、ふと思いついたように言い添えた。「ヴァレックさんなら、もっと詳しく話せるかもしれないわね。何でもよく知ってる方だから」
 「確かにヴァレックさんは博学な方ですよね。一度ゆっくりとお話を伺いたいものです」僕は言った。「しかし、オルラさんが《太陽》の夢を見たことがあるなんて、考えてもみませんでした」
 「そんなに珍しいことかしら?太陽の夢を見たことがある人は、結構多いと思うけど。誰にとっても、明るい世界というのは憧れだと思うし、だから決して珍しい夢じゃないと思うわ」
 「そうですね」僕は少し傷ついた気持ちになったが、そう言った。「確かにそうかもしれませんね」
 それからしばらくした頃、僕はヴァレックさんを捕まえて、太陽の話を聞いてみた。
 「わたしは、太陽の夢は、見たことがないなあ」とヴァレックは言った。「オルラが言うのも、正しいんだろうが、わたしは見たことがない。だからけっしてありふれた夢というわけではないと思うよ。オルラは、あれで色々と感じやすいところがあるたちだから、そういう夢を見たとしても、わたしは驚かんが」
 「ヴァレックさんは《太陽》について、どう思われますか?」
 「存在についてかね?それはもちろんあったはずだよ。この世界に存在する生命のかなりの割合が光を必要とすることから、ホープスンも言うとおり、なかったと考える方が不自然だろうね。ただ、どうして《太陽》がなくなってしまったのか、そして《太陽》がなくなった直後をどうして乗り切ることができたのか、さらにはその後、現在の《太陽》の存在しない世界に移行しても、生命が安定した存在できているのはなぜなのか、そのどれにも明確な説明が出来ていないのは確かだ。色々と言われてはいるが、はっきりしたことは分かっていないんだね。だが、はっきりとしていることは、この現在の環境を安定して維持するために、いにしえの人々は莫大な労力を注ぎ込んだということだ。そうでなければ、この世界は氷に覆われ、生命など存在しないだろう。例えば、世界のあちらこちらに、《火口》と呼ばれる巨大なヒーターが口を空けている場所があることは分かっている。それは明らかに環境維持装置の一つだろう」
 「《火口》……」
 「そう。それに、その《火口》の中でも特に大きいものがいくつかあって、それが《大火口》と呼ばれていることも分かっている。だが、その仕組みはわたしにはわからないから、詳しく聞かないでくれ。ともかく、こうした《火口》だけではなく、他にも色々と人の手によって作られた環境維持のための仕組みがこの世界にはあるのだろうが、わたしにはそれも分からない。多分、そうした設備について保守整備する人々もいるのかもしれないが、あるいはもう既に完全に忘れられているのかもしれない。もし完全に忘れられているとしたら、この世界はそうした一連の複雑な仕組みが壊れてしまうまでしか持たないだろうね。まさに、世界はとても危うい状態の上に存在している、《黄昏の時代》なのかもしれないよ」
 そこまで話したヴァレックは、一息ついた。そして続けた。「だが、今はまだ快適な世界だ。気候は温暖で、安定している。わたしは、かつて読んだ本の中に、現在の環境のことについてこう記述しているのを読んだことがある。《エンドレス・サマー》――『《ミッドナイトランド》の《終わらない夏》』と」
 「《終わらない夏(エンドレス・サマー)》?」
 「そう。『夏』という言葉の意味するところが、よく分からないが、どういうわけか印象に残っていて、仕方がないんだよ」

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 「失われたものを取り戻す?」
 「いや、本当は『失われたもの』というのとは、違うんだろう。僕は太陽のある時代に生きていたというわけじゃないからね。でも、どうしてだろう、そんな気がすることがある。きっと、子供の頃に見た夢のせいだろうね。君には何度も話したけど、鮮烈だった。世界が光に包まれているんだ。暖かくて、瑞々しくて、何もかもが明るく鮮やかな色彩を持っている。世界は闇に溶け込むこともなく、遥かな彼方まで見通せる。とてもよい香りもしていた。信じられるかな、夢なのに、香りまで感じたんだ。今この世界に太陽がないということが、信じられなくなるほどだった」僕はそこで口をつぐんだ。そしてしばらく部屋の天井辺りの暗闇を見詰めてから、言った。「きっと僕は、本当はあの世界にいたいんだろう。夢から醒めたくなかったんだ」
 「わたしはあなたの夢の重力に引き寄せられているわ」カムリルは言った。「いつの間にか、あなたの語る『太陽』が、わたしにとってもひどく現実味を帯びてきているの。あなたの中に入ってゆけば、わたしにも太陽が見えるんじゃないかと思えてくるほどよ。わたしがずっと子供の頃から感じている、現実の自分に欠けている『何か』も、その世界では見つかるのかもしれない。例えば、そんな気がしてくる……」
 カムリルは口をつぐんだ。僕も黙って虚空を見詰めていた。部屋の片隅の中空に、《提灯鬼灯》の淡いオレンジの実が、闇の中にぽっといくつも浮かんでいた。そして樹液の仄かな甘い香りが漂っていた。
 「あなたの夢がわたしを侵したように」随分して、カムリルは言った。「わたしはこの部屋を太陽の夢で満たして、そしてこの部屋が世界を侵して行けばいいと思う。この《ミッドナイトランド》が、太陽の夢を見続ける微睡みに満たされると素敵だわ……」
 僕は彼女の言葉を黙って聞いていた。『僕が抱えている病』であるはずの太陽への憧憬が、いつのまにかカムリルのものになっているような気がした。そこには、何か僕を不安にさせるようなものがあった。だが僕は深くは考えなかった。理解者が出来た、僕とカムリルを結び付ける絆となった、ただそんな風に捉えようと思った。だがその『病』は、実は僕の想像以上にカムリルの中に深く根を下ろして浸透し、膨らんでいたのだ。
 
 数ヶ月経っても、カムリルの『太陽の箱庭』は進展を見なかった。『光絵』の芸術である以上、闇は不可欠で、従ってそもそも部屋を明るく照らし出すという点に致命的な弱点があるのだから、それも仕方がないことだった。もちろんそれはカムリルにしても最初から充分に分かっていたことだった。だが、カムリルにはひとつのアイデアがあった。
 「巨大な球体を作って、中に太陽を閉じ込めるの」とカムリルは言った。「球体は、様々な蛍光植物で編みこんだ球体にするわ。そしてその球体は一層だけじゃなくて、何層にもするの。そしてその一番内側には、太陽に照らされた草の輝きが表現できるようにする。そして何層にも重ねられた植物の編みこみの隙間から、闇が少し見えるようにするの。球体の外から見ると、蛍光植物の向こうに太陽の輝きが見えて、そして内側からは、闇がその彼方に存在するということが分かるようになっている。今のところ、大体は、そんなイメージ」
 「大きなものになりそうだね」
 「そうね。かなり大きなものになるかもしれない。でも、そうした大体のイメージはあっても、正直言うと、太陽に照らされた世界というものがまだ掴めないの。だから、まだ一番最初の、アイデアを練っている状態からさほど踏み出せてはいないわ。今のアイデアは全部捨てて、そっくり考え直すことになるかもしれない。だけど、それはとりあえず考えないことにするわ。進まなくなるから。とりあえずはこのアイデアを膨らませるとして、球体の内側に入ったとき、自分が太陽に灼かれているという感覚を味わえるようにするにはどうすればいいのか、それが大きな問題。わたしは夢でさえ太陽を見たことがないから、想像に頼るしかないんだけど、普段なら自分の想像力に疑問なんて持たないのに、どうしてかしら、このことに関してはどうしても強い気持ちになれないのよ。だから、夢で太陽を感じたことのあるあなたが、本当にうらやましいわ」
 「想像で充分なんじゃないかな」と僕は言った。「だって、誰も太陽なんて見たことないんだし、君が作る『箱庭』の素晴らしさにきっと納得すると思うよ」
 「形にするのはきっとできると思うわ。それがわたしの仕事でもあるし、人を納得させるものを作るだけなら、自信がある。でも、わたしはそれじゃ嫌なのよ。わたしは多分、本当にこの《ミッドナイトランド》に太陽を蘇らせるという、奇跡を演じてみたいの」

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 カムリルは黙り込んだ。遥かな地中に眠っている書物の山に想像を巡らしているようだった。
 「さらに大きな問題は言語だ」と僕は言った。「全く読めない言語で書かれている本も、少なくないんだ。例えば、単なる別の国の言語ではなくて、既に失われて久しい言語。そういうのは、ほとんどがもうどうしようもない。言語学者の領域だね。そこでその本の整理は完全にストップしてしまう。読めない本として、分類するしかないんだ。でもそうした本の中には、実は重要な本もきっと沢山あるんだろう。そう思うと、とてもやりきれなくなるね。図表なんかがあって、それがいかにも意味ありげだったりすると、なおさらだ。なんとか読めないか、手がかりだけでもないか、そう思っているうちに時間が過ぎてしまったりする。そんなことをしても、仕方ないのにね。でも僕の場合は、自分のためという個人的な事情もあるから、いちいち引っかかってしまうんだ。もっとも、司書のオルラさんによると、それは僕だけではなくて、こんな地下深くの穴倉のような場所で書物の整理をしようというような人は、何かしらの趣味の領域というか、古い本に対する愛着を持っているので、多かれ少なかれそういう傾向はあるということだったけれど」
 ふと、目の前を光が横切った。仄かな、緑色の小さな光だ。そしてその光を追うように、同じような光の点がいくつか、部屋を横切っていった。蛍だろう、とぼくは思った。だけどもしかしたら《渡り火》の種子かもしれない。この部屋に《渡り火》があるなら、の話だが。やがてその光は部屋の片隅に辿り着くと、光を点滅させ始めた。やはり蛍のようだ。僕は話を続けた。
 「僕が目にしたのは、書庫のほんの一部に過ぎないし、それでこれだけ打ちのめされたような気分になるのだから、気が遠くなるよ。でも楽しみでもある。さっき話した司書のオルラさんも、それから館長のヴァレックさんも、『太陽について書かれた本ならかなりある』と請け負ってくれたから。でもまあ、ヴァレックさんは『大半は何の参考にもならないだろう』とは付け加えてもくれたけれどね。結局はホープスン、ということになるらしい。太陽についての記述の最初の部分で、ホープスンはこんな風に書いていたね。『かつて世界を《太陽》が照らし出していたという《神話》に関して、その真偽を問う必要を感じない。この《ミッドナイトランド》に現在存在する、物言わぬ様々な事物が、それを《真実》だと雄弁に語っているからだ。テスラ・グラインの《太陽》は、わたしがこれまでに読んだ中で最も《太陽》についての詳細な研究がまとめられた一冊だが、改めてそうした書を開くまでもなく、現在この《ミッドナイトランド》に存在する生物や無生物のあらゆる断片に、《太陽》の痕跡が認められる。これほど多様な生物が存在するためには、その創世において途方もないエネルギーが消費されたに違いないが、そうしたエネルギーの供給源として考えられるものとしては、《太陽の光》という莫大なエネルギー以上に便利な素材はないように思える。従って、かつてこの世界に多様な生物を生み出した《太陽》は、確実に存在したと考えるのが自然であろう。現在この世界に存在する生物の多くが光に依存し、さらに光を放つ性質を持つものが多いというのは、その名残に他ならないだろう。また、物言わぬ鉱物や遺構の中にも、その断片が伺えるものが多数存在する』ホープスンはこのあと、様々な文献にある《太陽》に関する記述を引用しながら、数十ページに渡って分析をしているんだけれど、結局のところ誰も見たことがないのだから、いくらページを割こうとも、漠然としたイメージにしかならないんだ。そして、様々な書物の中にある《太陽》像は、ほとんど全てこの中に列挙されている引用部分のヴァリエーションにしかすぎないんだ。ヴァレックさんが言いたかったのは、純粋に学問的な知識を得ることは出来ても、僕が望んでいるようなものを得ることは不可能だろうという意味なんだろうね。ヴァレックさんには、僕が本当は《太陽》のことを単に知りたいというのではなく、それを体で感じたいのだということが、分かっているんだろうね。完璧に失われたものを取り戻すことはできない。だからそれが不可能だということは、僕にも分かってはいるんだけれど、心の中のどこかで、それがもしかしたら可能なんじゃないかと思っている部分もあるんだ」

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 僕は言葉を失った。太陽を作る?ふと口をついて出たものの、そんな発想はこれまで思い浮かんだことさえなかった。僕はじっと彼女の眼を見詰め、束の間想像を巡らそうとした。だが何一つ浮かんではこなかった。
 「まさか」と僕は言った。「本気で?でも、どうやって?想像もつかないよ」
 「白状すると、わたしにもまだ分からないの」カムリルは笑った。「でも、何となく、イメージはあるんだけどね。それで、あなたにも協力して欲しいのよ」
 「協力?それはいいけど、何を協力すればいいのかな?」
 「簡単よ。太陽のことを教えてくれればいいの。そしたら、わたしがそれを形にするわ。イメージを膨らませてね」
 「教えるって言っても、僕も見たこともないわけだし、本当にそんなものがあったのかということさえ、分からないんだし……」
 「何を言ってるのよ。あなた、そのために図書館に入ったんでしょう?わたしが太陽に惹かれるようになったのは、そもそもあなたの語ってくれた古えの太陽の話からなのよ。この世界で、あなた以上に太陽のことに詳しい人なんて、きっといないわけでしょう……」
 僕は言葉に詰まった。確かに僕は太陽に憑かれていた。子供の頃、太陽の夢を見たあの日からずっと、太陽の幻の光に灼かれ続けていた。太陽のことに関して言えば、この街の誰にも負けないほどの知識があるだろうという自負は、確かにあった。だが、僕にとって太陽の光は常に神話の彼方にあるもので、この世界に蘇らせるというようは発想は、抱いたことさえなかった。
 だけど、と僕は思った。太陽をこの世界に作る。不可能だとしても、とても面白い考えだ。カムリルならば――ぼくは部屋の中を見渡した――もしかしたら、ある意味においてなら、それが可能かもしれない。
 「まあ、もしかしたらそうかもしれないね」僕は言った。「太陽を本当にこの世界に作り出すことができるなら、僕も見てみたい。いや、感じてみたいと言うべきだろうね。そのためになら、協力できることは、何でも協力するよ」
 「良かった。完成したら、わたしとあなたの共同作品ね」カムリルは言った。

 「一度ちゃんと最初から整理しておく方がいいね」と僕は言った。ベッドの中から見上げると、ここが部屋の中だということを忘れてしまいそうになる。涼しげな虫の音も聞こえてくる。虫たちの発する光も、一部の植物には重要なエネルギーとなるのだ。「一般的に知られている太陽についての最古の記録は、十世紀ほど昔にホープスンによって編纂された『黄昏ゆく世界』だけど、ここに最も有名な太陽の記述がある。『黄昏ゆく世界』は、《ミッドナイトランド》の歴史書だから、そうした神話上の時代のことについてはほんの僅かしか触れられていないけれども、ともかくとても大きなインパクトがある部分だ。けれどもホープスンは、過去の様々な文献を引き合いに出しながら、太陽という存在が世界の上にあって凄まじい光を放っていたということを、あえて深く踏み込むことなく、ひとつの『伝説』として淡々と記述している。多分、普通に知られている『太陽』というもののイメージは、ここから来ているんだろうと思う。ホープスンは、自分の太陽に関する知識は過去の多くの書物に負っているとして、沢山の参考文献を挙げ、そこからの引用をしているけれど、七世紀前に起きた《大瓦解》の時、古い書物は散逸してしまったものが多く、特にこの中で引用されている文献に関しては、今では既に世界から一冊残らず失われてしまった書物とされているものが多いから、このホープスンの歴史全書がほとんど唯一の資料となってしまっているんだ。例えば『黄昏ゆく世界』の中で最も引用されている回数が多い本は、その書名もずばり『太陽』で、著者はグラインということだけれど、この本は見つかっていない。完全に失われてしまったのかもしれないし、どこかの図書館の地中深くに積み上げられた書物の中にひっそりと眠っているのかもしれない。いずれにせよ、今のところは、ホープスンの本の中からその概要を知る以外にはないんだ。他にも、例えばバラーダという名前の著者による「灼けた砂」という作品がある。ホープスンよりも遥かに古い時代の作家による小説作品だが、それだけに説得力があるとホープスンは述べている。でも、これも見つかっていない。今でも残っている資料もそれなりにはあるけれど、どれもホープスンの大著の前では霞んで見えるものばかりで、新味はない。つまり、今のところ太陽についての確かな資料は、ホープスンの著作を除いて、皆無といっていいんだ」
 「それで、あなたは新たな資料を探しているのよね」
 「そうだよ。この《瑪瑙市》の図書館の地下深くには、《大瓦解》を生き延びた数十世紀分の膨大な資料が眠っているんだ。《大瓦解》以来、きちんとした整理もされず、ほとんど手付かずのままで。その中には、失われたと思われている書物もあるかもしれないし、もしかしたらホープスンにさえ目が届かなかった資料もあるかもしれない」僕は言った。「いや、きっとあると思うんだ。それも、相当な数が」
 「いくら数が多いと言ったって、調べるのがそれほど大変なことなのかしら?」
 「大変だよ。そんなに簡単なことじゃない。古い本は、大半が表紙や背表紙に書かれている文字が読めなくなっている。だから開いて調べるしかないんだけれど、脆くなっているから簡単に扱えないものが多いし、それに完本じゃないものも多いんだ。一冊の本がばらばらになってあちらこちらにあるとかね。数が少なければそれでもそれほど大変ではないかもしれないけれど、何せほとんど天文学的な数だ。はっきり言って、普通なら手をつけようとさえ思わないだろうね」

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 カムリルのアトリエに一歩足を踏み入れると、少し湿った香りがした。僕は眼を見張った。
 アトリエの中が、一つの小さな宇宙になっていた。
 壁という壁、面という面に、様々な色彩で仄かに輝く『光絵』の装飾が施されていたが、それは何層にも重ねられた階層になっていて、果てしない奥行きを演出していた。それほど広くはないアトリエだったが、まるで宇宙の片隅をすっかり切り取って、そのままここへ持ってきたかのようだった。僕は息を呑んだ。思わず足がすくんだ。一歩踏み出すと、そのまま果てしない奈落へと落ちてしまいそうだった。躊躇う僕を横目に、カムリルは全く構うことなく部屋の中へと歩を進めた。星光植物の光に仄かに照らし出されるカムリルの姿は、まるで星を駆けてゆく幻のようだった。
 「これはすごい」僕は言った。「いつの間にこんなに」
 「しばらくかかったわよ。あなた、このところ忙しくて、うちに来てなかったものね。そんなところにいないで、入ってきてよ」
 僕は部屋の中に足を踏み入れた。最初の驚きは既に落ち着いていたが、それでも見れば見るほどその繊細さに感心した。いったいどうやってこれだけの星光植物や蛍光植物を、この小さなスペースに安定させたのだろう。しかも、取り出した発光成分で描いた絵を空中に配置し、それが幾層にも重なるようにしてある。歩むにつれ、その光の重なりが様々な印象を生み出すのだ。
 「まるで宇宙に浮かんでいるみたいだ。全然スランプなんかじゃないじゃないか」
 僕の言葉に、カムリルはそっけなく言った。「ありがとう。ずっと『箱庭』作りをやってるからね。だけど、これはいつものわたしの『箱庭』の、延長線上にあるものでしかないわ。寂しい、《ミッドナイトランド》の小さな箱庭。それ以上でも以下でもないわ」
 「でも、これはこれで充分に美しいよ。僕はこの寂しさは好きだよ」
 「もちろんわたしも好きよ。好きだから、作ったの。でも、同時に耐えられない気分にもなるわ」カムリルは言った。「この《ミッドナイトランド》という箱庭の中の、ずっと小さな箱庭。わたしが作っているのはそれだわ。でも、わたしが作りたいと思っているのはそうではないの。この《ミッドナイトランド》を外から包み込む、大きな箱庭なの。つまりは、この部屋の中こそが世界の外側で、この部屋の外は実はこの部屋に包まれた内側というわけ。上手くは説明できないけれど」
 「何となく、イメージは出来るよ。ちょっとしたレトリックのようだ」
 「そういう言い方をされると、あまり嬉しくないわね」カムリルは言った。「確かに、結果としてそういうことなのかもしれないけれど、わたしは本気なの。言葉どおりの意味で言ってるのよ」
 「文字通りの?つまり、この部屋が世界を包んでいるという意味?」
 「そう。この部屋の中こそが『外』だということ。もちろん、小さな部屋よ。でも、この小さな部屋の中が、この世界全てを包んでいるという、そういう状態を作りたいのよ」
 「それは難しそうだね」
 「そうよ。とっても難しいわ。でも、全くアイデアがないというわけではないの。わかるかしら?」
 「何が?」
 「だからその『アイデア』よ」
 「何だろう?」
 「あなたなら分かるはずでしょ」
 「僕なら?」僕はしばらく考えた。そして、ふと思いついたことを言ってみた。「太陽?」
 「当たり!」カムリルは手を叩いた。「そうよ!わたしはこの部屋の中に、太陽を作ろうと思っているの!」

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 《眠りの樹》には二時間ほどいた。店を出た後、僕らは人通りも少なくなった《水甕通り》を並んで歩き、カムリルの住居兼アトリエに向かった。途中、通りの名前の元になった水場に立ち寄り、それぞれ新鮮な湧き水を手で掬って飲んだ。水は、軽い酔いなど吹き飛ばしてくれそうなほどに冷たかった。ひとしきり飲むと、カムリルは持っていた水筒に水を詰めた。彼女はアトリエに篭るときには必ずここの水を持ち込む。地中から湧き出す水が自分のインスピレーションに何らかの影響を与えてくれると信じているのだ。
 カムリルのアトリエは《風蔓地区》にある。かつては風蔓がたくさん自生していたから、この名前が付いたのだろう。風蔓というのは、僅かな風にも容易く靡く極めて軽くて細い手を無数に持つ蔦だ。最初は風を利用して漂ってゆく細い蔓が繊細なネットワークを結び、やがてはそれを基にした複雑な形の網を空中に作る。そこは様々な昆虫の棲家となっているが、多くの植物と同じように、風蔓は食虫の性質も併せ持っており、時折捕食する。ただしそれは頻繁ではないから、虫もことさら避けようとはしない。風蔓の提供してくれる隠れ家と蜜は、虫たちにとっても貴重なものだからだ。風蔓は、適度な距離感を持って昆虫と共生していた。
 カムリルのアトリエは、複雑に織り込まれた巨大な風蔓の楼閣の下に、抱えられるようにしてある。風蔓の高さは十メートルを優に超す。これは、ある程度カムリルが育てたようなものだった。白い色彩の風蔓は、仄かな光を放っていた。
 「風蔓の『ヒュール』くんは」とカムリルは言った。これは、蔓の間を吹き抜けて行く風の音からとった名前だ。「元気でしょう?ちょっと大きくなりすぎちゃったみたいだけど。そのうち家をすっぽりと覆ってしまいそうね」
 「巨大な繭みたいになりそうだよね」僕は言った。「繭の中の小宇宙か。悪くないね」
 「それが理想なのよ」カムリルは言った。「でも、中身がショボかったら、がっかりだものね。ずっと試行錯誤の繰り返し。こんなにスランプが続くと、かなりヘコむわ」
 「スランプなんて、すぐに抜けると思うよ」
 「だったらいいんだけどね。注文を受けてる仕事もいくつかあるから、そんなことも言ってられないわけだし。まあ、いいわ。とりあえず、入ってよ。今日は泊まって行けるんでしょう?」
 ぼくは頷いた。「明日は休みだし、ゆっくり出来るよ」
 「良かった。今日はあなたの話をゆっくりと聞きたいのよ。わたし、実は昨日、夢を見たの。ほんの少ししか覚えていないんだけど、太陽の夢だったと思うの。あなたに感化されたのかもしれないけど、はっとするような夢だったわ」
 「本当に?」僕は驚いた。「太陽の夢?それはすごい。もっと良く聞かせてよ」
 「とりあえずじゃあ中に入ろうよ。ゆっくりとくつろいで、それからにしましょう」

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