漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

堆塵館

2017年04月13日 | 読書録

堆塵館 (アイアマンガー三部作1) エドワード・ケアリー 著 古屋 美登里 訳

を読む。

 最近は以前ほど聞かなくなってきているようにも思うけれど、フィリピンの「スモーキー・マウンテン」に代表されるような、ゴミ集積場の側に住み、ゴミを売って生活をしている人々(特に子供たち。ガベッジピッカーとも呼ばれる)のことが、世界の貧困問題を語る上でよく取り上げられたりしていたが、この小説はまさに、そうした場所がもしロンドンの側にあったらという設定のもとで、よりシュールに書かれた物語。もっとも、スモーキー・マウンテンのことを例に出したからといって、問題意識にあふれた、社会派の物語というわけではない。この物語は、そうしたゴミの山の中に君臨する、まさにゴミの王族とも言うべき、アイアマンガー一族のシュールな物語である。
 アイアマンガー一族の人々は、ゴミの山の中心に位置する堆塵館という巨大な建物の中に住んでいる。一族のものたちは、外見こそは人ではあるが、もはや外の人々とは異質の存在に成り果ててしまっているように思える。一族のものたちは、生まれるとすぐに「誕生の品」を与えられ、それから先は一生、その品を手元に置いて生活しなければならない。「誕生の品」から離れることは、死を意味するからだ。誕生の品は、ごくつまらないものばかりである。例えばマッチ箱だとか、ドアの取っ手だとか、浴槽の栓であるとか、そうしたような。その堆塵館に、クロッドという少年がいた。彼は、誕生の品の声を聴くことができるという、特殊な能力を持っていた。彼によると、品はみんな、名前を呟いているらしい。だが、その名前がいったい何を意味するのか、クロッドにはわからない。あるとき、堆塵館にルーシーという少女が召使として堆塵館にやってきた。だが彼女は、誤って連れて来られた、アイマンガー一族の血をひいてはいない、異質の存在だった。クロッドは、偶然に出会ったその少女に恋をする。やがて、彼女の存在に呼応するかのように、ゴミは暴れはじめ、堆塵館の中の奇妙な秩序は乱れてゆくが……というような物語。
 一読して、これは間違いなく現代の「ゴーメンガースト」だと思った。著者が意識しているのは間違いないと思う。どちらも三部作だし(ただし、「ゴーメンガースト」の方は、後に第四部がマーヴィン・ピークの妻ギルモアの手によって、覚書をもとに執筆されたが)、著者自ら挿絵を描いているという点も同じである。どうにも感情移入しにくい奇妙な登場人物たちも、どこかゴーメンガーストと呼応するように思える(クロッドはタイタス、ルーシーはスティアパイク、ウンビットがガートルードというところか)。もちろん、だから二番煎じであるとか、そいういう意味ではなく、それだけ挑戦的な物語であるという意味である。それに、こちらは「ゴーメンガースト」よりも、格段にエンターテイメント性が高い。
 物語は、一応の決着がついて終わるが、これはあくまでも三部作の第一作目。ゴーメンガーストが、一作目と二作目で登場人物の印象ががらりと変わったように、このアイアマンガー三部作も、次の作品で全く違う様相を見せるのだろうか。

終わりの感覚

2017年04月09日 | 読書録
「終わりの感覚」 ジュリアン・バーンズ著 土屋政雄訳
新潮クレスト・ブックス 新潮社刊

を読む。

 「フローベールの鸚鵡」や「10 1/2章で書かれた世界の歴史」で有名なバーンズの、ブッカー賞受賞作品。
 ストーリーは、シンプル。これは本のあらすじ紹介がわかりやすい。

 
穏やかな引退生活を送る男のもとに、見知らぬ弁護士から手紙が届く。日記と500ポンドをあなたに遺した女性がいると。記憶をたどるうち、その人が学生時代の恋人ベロニカの母親だったことを思い出す。託されたのは、高校時代の親友でケンブリッジ在学中に自殺したエイドリアンの日記。別れたあとベロニカは、彼の恋人となっていた。だがなぜ、その日記が母親のところに?―


 これだけでは不足かもしれないので、追記する。

 
物語の中で、主人公がベロニカの母親から託されたはずの日記は、彼の手に渡らない。主人公は、ベロニカが日記を持って行ってしまっているらしい、ということを知る。主人公はベロニカに連絡をとり、なんとかその日記を渡してもらおうとするが、頑なに拒否される。ベロニカが、どうやら自分に深い恨みを持っているらしいということに気づいた主人公は、その原因を知ろうとする。やがて明らかになったその理由は……。


 二段構えのどんでんがえしのせいか、ミステリーとしても評価されたようだが、それはちょっと違うだろう。あくまでも文学の枠組みの中の、意外な真実の発現であり、この同じシリーズから出ていてベストセラーにもなった、ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」とか、そんな感じである。かつての、主人公はすっかり忘れてしまっているような、過ちとさえ言えないような些細なことが、自分の知らないところで、びっくりするような悲劇として現在に至ってしまっているという事実は、それなりに平穏な人生を送ってきた主人公が晩年になって初めて知らされる、あまりにも重い現実である。ただまあ、実際のところ、別にこの主人公がやったことは、軽率であったとはいえ、余りにも一方的に酷いというわけでもなく、人によっては、「そんなの、俺が知るかよ」と言って済ませてしまいそうなことでもあり、実際、責任は皆にある。だからベロニカの怒りの矛先は、どこにむけるべきなのかさえわからなくなってしまっている。すべてを知った主人公は、しかしその原因をつくったのが自分であると認める。そして「知らなければよかった現実」として、自分の肩に重くのしかかってくることを受け入れる。
 
 人生の中で犯してきたさまざまな小さな過ち。そのひとつひとつに責任をとることなんてできないし、もしかしたら自分が何の気なしに行った些細なことが誰かの人生を決定的に歪めてしまったかもしれないなんて、考えても仕方がない。それに、普通はそうしたことがどういう結果を招いているのか、知ることなんてない。ただ、この作品の主人公はたまたまそれを知ってしまった。だから、途方に暮れてしまう。自分があんな手紙さえ書かなければこんなことにはならなかったかもしれないと考えるそばから、いや、普通はそんな結果になるなんてことはないだろうともちょっと考えてしまうだろう。それは、ベロニカにもわかっている。起こってしまったことは、事実として目の前にあるが、本当に間違ったことをしたのは、主人公ではない。だから憤り、誰もが途方に暮れるしかない。
 面白かったのかといえば、さほど、としか答えられない。取り返しのつかないことについての小説だったから、読む方にとっても、思うところは、どこにも行き着きようがないのである。


天夢航海

2017年04月05日 | 読書録

「天夢航海」 谷山由紀著
ソノラマ文庫 朝日ソノラマ刊

を読む。

 ついこの前、嵯峨景子さんの「コバルト文庫で辿る少女小説変遷史」(彩流社)を読んだのだが、その中で、自分が影響を受けた本として取り上げられていた一冊。作家名も作品名も初めて聞いたのだが、なんとその直後に、古書店の百円均一棚に並んでいるのをたまたま発見。これは縁だなと思い、購入して、読んだ。
 連作短編集だが、最後に大団円らしきものを迎えるので、長編としても読める。あとがきによると、もともとはL'espritというイギリスのニューエイジグループの「天夢航海/far journey」というアルバムタイトルにインスパイアされて冒頭の「ここよりほかの場所」を書き、評判がよかったので、連作にしたということらしい。L'espritというグループは初めて聞いたので、音源がないかとちょっと調べてみたが、なかなか見つからず、かろうじてhttps://www.youtube.com/watch?v=46q6xfBqiLQnoの1分08秒あたりから、多分アルバムタイトル作の「far journey」の断片が入っているのがみつかっただけである。一聴した限りでは、まあ、よくあるヒーリング・ミュージックというやつだと思って間違いなさそうだ。著者の谷山さんは、このアルバムの曲にインスパイアされたとは書いておらず、ジャケットの東逸子さんの絵に惹かれて買い、せっかく買った以上はもとをとろうと思って、そのタイトルからイメージを膨らませて小説を書いたということだから、もしかしたら音そのものにはあまり感心しなかったのかもしれない(ぼく個人としては、ヒーリング・ミュージックはちょっと聴く分には部屋の空気が透明に変わる感じがしてそれなりに悪くないのだけれど、ずっとかかっていると逆にイライラしてくるので、もしそうだとしても、不思議には思わない)。
 物語の大枠は、こういうものだ。
 物語の主人公たちは、誰もが「自分のいるべき場所はここじゃない」と感じている少女たち。さらに言うならば、彼女たちにとって自分のいるべき場所とは、この現実世界のどこにもない、全く別の世界。その街の小さな書店にそっと置かれた小冊子『天夢界紀行』に出てくる世界がそれで、彼女たちは、その場所に「還る」ことを望む。だが、それは決して単なる夢物語では終わらない。その世界に「還る」ためには、冊子にそっと挟み込まれたチケットが必要なのだが、彼女たちにはそれぞれ、そのチケットを手にする機会が実際に訪れるのだ。そうして、チケットを手にした彼女たちの前に巨大な飛行船が現れるのだが――
 ネタバレになってしまうのだけれど、少女たちは結局、誰も天夢界には旅立たない。物語中で、たったひとりだけ、天夢界に旅立ってしまう人物が出てくるのだが、それは主人公の少女たちではない。天夢界とは、何なのか。それは、読めばすぐに理解できる。
 小説は、結構面白かった。アマゾンのレビューを見ても、非常に評価が高い。もちろん少女向けのヤング・アダルト小説だし、「フーン」という感じで読み飛ばそうと思えば軽く読み飛ばせてしまうことも確かなので、老若男女を問わず誰にでも十分読むに耐える作品とまで言うつもりはないけれど、少なくとも多感な十代の少女が読んだなら、ツボに入るかもしれない小説だとは思った。特にラストの清々しい力強さが、同じように悶々とした日々を送っている少女たちに、強いメッセージを残すかもしれない。

ゴッド・ガン

2017年04月02日 | 読書録

「ゴッド・ガン」 バリントン・J・ベイリー著 大森望/中村融 訳
ハヤカワ文庫SF 早川書房刊

を読む。

 以前に参加した読書会で、随分評判が良いようだったから、読んでみた。
 ベイリーは、「時間衝突」を読んだことがあるくらいで、随分無茶な小説を書く人だなあ(褒め言葉)という印象を持っていた。短編を読むのは、今回が多分初めて。感想としては、やっぱり、随分無茶な小説を書く人だなあ、と。
 どの作品も、バカバカしくて面白かったのだが、特に印象に残ったのは「空間の海に帆をかける船」と「地底潜艦」と「ブレイン・レース」。特に「ブレイン・レース」は、この気持ちの悪さが何ともいえない。何なんだろう、これ。心底ゾッとするのに、なんとも脱力した読後感。嫌すぎるし、シュールすぎる。これは大傑作なんじゃないかな。
 ところで、実は「禅銃」は、長い間積んである。そろそろ読みどきかな。

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 今日は妻と、近所を自転車でポタリング。野川から多磨霊園、調布飛行場、そして最後は小金井公園。
 桜が咲いているかと思ったけれど、このあたりはまだ一分咲きとか、場所によっては三分咲きくらい。見頃は、多分次の週末くらいか。野川沿いのしだれ桜も、まだ少し固めの蕾の状態。どちらかといえば、川岸に咲いていた菜の花のほうが見事だった。それでも、小金井公園はさくらまつりが開催されていたこともあって、随分の人出だった。花が一気に咲いてしまわないというのは、考えようによっては、楽しめる期間が増えるということだ。
 途中、デルフィニウムとオダマキとダイアンサスとオステオスペルマムをホームセンターで購入し、夕方家に帰ってから、庭に植えた。デルフィニウムは、まるでコバルトブルーのパステルを塗ったような青さの美しい花で、一応は宿根草なのだが、この辺りでは夏を越すのは難しいらしく、毎年植えるのだが、夏には枯れてしまう。それでも好きなので、つい買ってしまう。本当は夏にこそ、この涼しげな花が咲いていてほしいのだけれど。