漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

夜の帰還

2011年03月22日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)

夜が帰還する
何万もの青ざめた貌をその背中に貼りつけ
光を吹き消し音を払い
小さき動くものを見つめる

傷ついた夜の帰還を祝え
夜の仄かな彩りを
夜の微かな囁きを
夜の中で身を寄せ合うものたちを

恐ろしいのは夜ではない
夜は柔らかな微睡みなのだ
恐ろしいのは夜ではなく
すべてを飲み込む深い闇だ

夜の背中に貼りついた何万もの虚ろな貌は
夜の背中を押す闇だ
夜は街に囁きかけながら
闇を背中で押し止めようとしているのだ

傷ついた夜の帰還を祝え
そして夜とともに踊り歌え
底しれぬ闇の嬌声に惑わされるな
夜とともに朝へと滑り込むのだ

反転

2010年08月01日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 午後の街が陽炎で歪む。太陽の容赦ない光線の下で、街は漂白され、色彩を失っている。
 陽炎の中の、不安定な、真っ白な街を歩く。街角を折れて細い路地に入り込み、少し広い通りに出て、また細い路地に入ってゆく。それを何度も繰り返すうちに、次第に方向を見失ってゆく。道路は舗装されていない。白い埃のような砂土が、僅かな風で舞い上がる。歩いていると、顔のよく分からない誰かが戸口からゆっくりと現れて、柄杓でさっと表に水を撒く。おそらくは老人だと思うが、帽子を被っている訳でもないのに、顔も性別も年齢も判然としない。白い土の道路に、幾何学模様のような、水の跡が現れる。顔のよく分からないその人影は、そのまま後ずさるようにして姿を消す。僕は歩みの速度を変えない。だがその水で描かれた文様を踏んで進みながら、砂が舞い上がらなくなったような気が少ししている。そしてさらに先へと進む。太陽が灼けつくよう。髪の焼ける匂いがする。建物はどれも砂を固めて作ったかのようだと思う。全てが白く見える。
 少し広い道路に入り、しばらく歩いていると、古い商店が目に飛び込んでくる。かなりの長い年月、使われずに放置されている店舗のようだ。ガラスはすっかりと汚れて曇っている。看板の文字は風雨にさらされて、まったく読解に耐えない。だが、全体の印象はどこか上品でモダンだ。例えば、入り口の大きな引き戸は複雑な格子模様の桟で細かく区分けされているが、その桟には、幾何学的な複雑な彫り物が施されている。ガラスは二三箇所割れてはいるが、年季の入った波ガラスで、光線を複雑に歪めている。部分的には、薄い色のついたガラスも入っていて、ステンドグラスのような趣きもある。廃屋であるのは明らかだが、綺麗に保存されており、誰かに荒らされた形跡がないのはどういうことだろう。それでも奇妙な気配がする。私は日陰を求めるように、その家の庇の下に向かう。そして小さな青いガラスの割れ目から中を覗き込んだ。
 真っ白な色彩に眩んだ目には、なかなか中の様子が見えては来ない。だが印画紙のように、次第に屋内の静かな光景が浮かび上がってくる。
 外からの印象よりも店内は広く、奥行きもある。古い洋服屋なのだろうか。片隅には、数台のミシンに混じって、マネキンがいくつも並んでいる。洋服を着ているマネキンはひとつもなく、大半は腕や脚が欠けている。木製の平台の上には、すっかりと埃を被ったビニール袋に包まれた衣服が並んでいる。ほとんどは洋服だが、下着の袋もある。衣類は、古ぼけた、随分と流行に後れたものばかりのようだ。店内には柱時計がある。針はちょうど正午を指し示している。振り子は動かない。時間は停止したままだ。床には輪ゴムが散乱している。どれもすっかりと変色し、半ば溶けて、床と同化している。だがそのさらに奥には、古い家具のようなものがいくつかあって、それは単なる店の備品のようには見えない。数が多いためで、複雑な奥行きを持ち、まるで骨董を陳列した倉庫のようだ。さらには、その家具の棚の中には、マネキンではない、古い人形がいくつも並んでいる。店の主人の趣味だったのだろうか。西洋の人形もあるし、日本の人形もある。だが、どれもすっかりと元の色を失い、くすみ果てて、埃を被っている。私はふと、古い飾り棚の引き違い戸が少し開いていて、そこに一つ、妙に色の白い西洋人形が覗いているのに気が付く。幼児の人形のようで、おそらくは女の子の人形だとは思うが、よくわからない。大きな目をしていて、それがこちらをじっと見ている。先程からずっと感じていた気配は、この人形の視線だったのかと思う。私はさらにじっと、まるで自分が一つの目になったかのように、その人形に視線を注ぐ。

反転。

 気配は常にある。様々な気配。時折は、こちらを覗いている小さな生き物の気配を感じる。虫や鼠といった小さな生物。けれども、わたしにはいつでも恐ろしいものだ。わたしは小さくて、わたしにはどんな生き物でも充分に大きいから。わたしはじっと気配を殺す。やりすごせるときもあるし、ちょっと囓られるときもある。わたしは声もあげない。じっと飾り棚の壁にもたれて、黙っている。わたしの右の方には、闇がある。引き違い戸の奥の闇。実際には、ほんの浅い闇のはずだ。だけどわたしには、深くて、何かが潜んでいる気配がする。でもわからない。見えないし、そちらに首を回せるわけでもない。ただ、常に気配を感じている。その気配からはのがれることができないし、慣れることもない。
 部屋の中は埃の匂いがする。晴れの日は晴れの乾いた、雨の日には雨の湿った、埃の匂いがする。部屋の中には虫がたくさん死んでいる。ずっと昔の暑い真っ白な日に、一匹の蝉が飛び込んできて、ずいぶんとうるさい思いをしたことがある。その蝉もそのうち死んでしまった。確かその辺の床にしばらく転がっていたはずだが、いつのまにかなくなってしまった。時計は随分と前に止まってしまった。だから、規則的に刻む音は何もない。それでも、いつでも何かの音がする。日中には表を行き交う人々や車の騒がしい音がする。それは日常的な音で、繰り替えされる音。わかりやすい音だ。だけど夜には、人も車も通らないような静かなときでも、何かブーンという震えるような音が聞こえている気がする。あれはいったい何の音だろう。わたしにはわからない。
 気配は常にある。今も、さっきから、ずっと舐めるような視線を感じている。わたしはそれに気づいている。青いガラスの向こうに張り付いた、中空に浮かぶ瞳。

朝というには遅い時間

2010年06月15日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 朝というには遅い時間。昼にはまだ早い時間。午前十時半頃。海の方へと向かう電車に乗っている。浅く腰をかけたシートからは、微かに太陽に焼けた埃の匂いがする。窓から差し込む初夏の光が肩にのしかかる。車内のシートには空きもあるが、立っている人もいる。
 いつの間にか眠ってしまっていた。目を覚ました僕は車内を見渡す。誰もいない。ただひとり、隣に白いワンピースを着た女性が座っている。そして本を読んでいる。深く帽子を被っていて、顔は見えない。だがまだ若そうだ。むき出しの肩が、絹のように滑らかで、白い。これだけ広い車内なのだから、別の場所に座ればいいのにと思う。だが同時に、この人は自分の連れだっただろうかとも思う。だが覚えがない。あるはずがない。そんなはずはないのだから、記憶にあるわけがない。
 カタカタゴトゴトと、列車の音が静寂を埋める旋律のように聞こえている。僕は間がもたないような気分になっている。少し席を移動した方がいいのだろうかと思う。だけど、彼女の方がじっと座っているのだから、下手に動くと失礼ということになるのかもしれないとも思う。それでじっと動けないでいる。
 窓の外には木立が流れてゆく。じっと目でその木立を追っている。彼女の方はまるで動かない。ただ時折、本のページをめくる音が聞こえる。それがまるで時間にそっと栞を挟む音のように感じる。
 いったい何の本を読んでいるのだろうと思う。僕はそっと視線を本に這わせた。すると彼女はパタンと本を閉じる。あっ、と思い、僕は視線をまた車窓に戻す。すると目の端で、彼女がまた本を開くのが見える。僕はさり気なく視線をそちらに向ける。するとまた本をパタンと閉じる。理不尽な気がする。だがもちろん何も言えない。早く降りないかな、と勝手なことを思う。なんだかいたたまれない。
 だが彼女は降りようという気配を見せない。それどころか、列車がそもそも停車しない。考えてみれば、僕が目を覚ましてから随分と時間が経ったような気がするが、車窓に駅を見た覚えもないし、アナウンスもない。ここはいったいどこなのだろうと僕はそのとき初めて思う。本当なら、目を覚ました最初にそう思っても当然なのだ。それに、僕はどこに向かっているのだろう。
 僕が向かっている場所などないのだと思い出す。ただ海の方へと向かう列車に乗ってみただけなのだから。それなら、彼女が降りないなら、僕が降りればいいだけだ。目的地などないのだから、下車して、それからその先のことをまた考えればいい。
 窓の外の風景がいきなり青くなった。列車がやや斜めに傾いていて、真っ青な空だけが見えるのだ。その空の青さは、思考が飲み込まれてしまうような、鮮やかな青一面の世界だ。すぐに列車は傾きを戻す。今度は空と海が見えた。海の側に来たのだ、と思う。降りるなら、このあたりがちょうどいい。海へと向かったのだから、海辺で降りるのが理にかなっている。
 するといきなり列車が次第に速度を落とし始めた。そして静かに停車する。駅に着いたようだ。僕はさっと立ち上がった。そして開き始めたドアの方へと向かった。
 ドアから出ようとして、言葉を失った。ドアからホームまでは、五メートルほどもある。とても飛び越えることなどできない。間違って反対側のドアを開いてしまったのだろうかとも思う。だが振り返っても、反対側にホームがある気配はない。僕はためらう。列車はじっと停車している。白いワンピースの女性も動かない。僕は諦めて、線路の上に降りようかと思う。だがそう思った途端、強い潮の香りがして、砂利や枕木やレールを水が舐めていった。そして瞬く間に、そうしたものは白い波頭の下になってしまった。
 潮が満ちてきましたねえ、と声がした。目の前のホームに、大きな荷物を背負ったおばあさんが立っている。白いタオルを頭に被っている。だが、僕がそれに応えようとしているうちに、驚くほどの足の速さで、さっさとどこかへ行ってしまった。列車はまだ動かない。
 何かが跳ねる音がした。ふと水の中を見ると、何かが泳いでいる。魚だろうかと思ったが、どうやらそうではないらしい。それに随分と小さい。よくよく見ていると、それは文字のようだ。様々な文字が、波間に揺れている。
 はっとして僕は振り返った。白いワンピースの女性はまだじっとそこに座っている。その開いた本の中から、沢山の文字が流れ出し、僕の足の間を通って、波の中へと滑り落ちてゆく。
 列車はまだ動きそうにない。

怪談

2008年08月01日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 ブログも長く続けていると、くだらないことならいくらでもかけそうだけれども、特に書きたいというようなこともないなあと、妙に思弁的な不可能性の壁を感じたりすることがある。
 要するにちょっと飽きているのだろう、と思う。
 でもまあ、そんな波はよくあるわけで。

 夏だし、何かくだらない怪談でも、と思う。
 今はまだ何も思いついていない。これから考える。リアルタイムである。
 周りを見回す。
 ・・・
 ・・・・
 三分経過。
 ・・・・・
 
 明日までに、レポートを完成させなければならない。
 だが、資料が見つからない。立ち上がって、パソコンデスクの近くの古い書架を探る。確か、このあたりにあったはずである。
 ふと、一冊の古くて重い本を手にしたところ、何かが床に落ちた。見ると、それは耳掻きである。拾い上げて、しばらく考える。どこから出てきたのだろう。いくら考えてもそれは本の間に挟まっていたとしか思えない。だが、有難い。ちょうど耳が痒く感じていたところだ。
 耳かきをそっと耳の中に入れる。だが、不思議なことに、全く痛みを感じない。勇気を出して、もう少し入れてみる。やはり何の感触もない。
 気が付くと、耳掻きはすっかりと根元まで耳の中に入ってしまっている。我に返り、出そうとするのだが、今度は何かに引っかかってしまっているようで、出てこない。「ささくれ」でも出来ているのか、強く引っ張ると痛い。それとも、耳の中で耳掻きが根を張ってしまっているのか。
 耳掻きの先を指でつまんだまま、僕はどうすることもできないでいる。



 

2008年07月29日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 自動車に乗り込み、エンジンを掛けようとするのだが、掛からない。掛からないばかりか、クスンとも言わない。訳が分からず、何度もキーを捻る。だが無駄である。何の手ごたえもない。しばらく呆けてみるが、何も起こるはずもない。車から出て、無駄だろうと思いながらもボンネットを開けてみる。
 するといきなりボンネットを跳ね上げるようにして、何か黄色いものが、ポンっとボンネットの中で立ち上がった。勢い付いたボンネットが鼻先をかすめ、驚いたが、落ち着いたところでよく見るとそれは立派なヒマワリである。ボンネットの中で、ヒマワリが生育していたのだ。驚きながらも、そっと覗き込むと、ボンネットの中には一面に草が生い茂っている。あれほどぎっしりとあった機械類は、すっかりと草の中に埋もれてしまっている。まるでボンネットの中を使って前衛的な生け花でもしたみたいだった。
 伸び上がったヒマワリは、幸せそうに太陽の方に向かって頭を上げた。茎も葉も立派である。困惑を忘れてしばらく感心するが、そうもしていられないとすぐに我に返り、ヒマワリと草を引っこ抜こうとした。だが、ちょっと草やヒマワリを引っ張るだけで、切なそうにクラクションが鳴る。どうしてクラクションのくせにこんなに切なそうな音が出るんだと思うくらいに、哀切に満ちた音である。その音に、通りすがりの人々は皆顔をしかめてこちらを見る。その目は、非難するような目である。すると、力が入らなくなる。自分が、酷いことをしているような気分になる。それで、困り果てる。
 困り果てていると、すぐに脇の道を、ボンネットからアサガオの花を咲かせた車が通り過ぎてゆくのを目にする。呆然となるが、はたと思い至る。もしかしたらこれは、ソーラーシステムというものなのではないか、と。私は車に乗り込み、キーを回す。
 果たして車は動き出す。ヒマワリの咲いた車だが、軽やかである。さすがにソーラーシステムだと感心する。ちょっとヒマワリのせいで視界は悪いが、これで燃料もいらないし、有難い。
 それでもちょっとだけ心配なこともあって、夜になったらきっと車は走らなくなるのだろうし、冬になってヒマワリが枯れてしまうと、やはり走らなくなるのだろう、と思う。やはりこれはこれでいろいろと工夫は必要なのだろう。冬でも元気な草木とか、色々と調べなければいけないなと思いながら、とりあえずは仕事に急ぐことにした。

空壜の中から宇宙が

2008年03月03日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 空壜の中から宇宙が出て来ようとしている。誰かが栓を抜いたまま、ずっとそのまま放置していたせいだ。少しの時間くらいなら、用心深いからきっとそのままでいただろうに、もうすっかりと増長してしまっていて、簡単には壜の中には戻ってくれそうにない。宇宙に触れるのも嫌だから、手近にある団扇だとかスプーンだとかを使って何とかなだめすかすように壜の中に戻そうとするのだが、するりと交わしながら、じりじりと出てこようとする。じっと見詰めていると目が痛くなるような漆黒の宇宙には、光塵のような星々が散っている。
 壜は深い緑色である。或いは、深い緑色がかった藍色である。壜には沢山の気泡があるが、それが本当に気泡なのか、それとも星なのか、あるいはもっと別の何かなのか、わからない。だがそれが壜であることだけは、どうしたって確かなのだ。
 王冠を手にして、ちょっとだけ宇宙に触れると、宇宙は少しピクリと揺れて、まるで軟体動物の触手のように壜の中に戻ろうとする。だが、すぐにまた伸びてくる。
 私は壜を手にして、それをテーブルの上に置く。そして電気を消すと、闇の中にぼんやりとした淡い緑色の輝きが見えてくる。それは壜の中の宇宙であり、この宇宙の最も遠い端でもある。この宇宙の最も遠い場所がこの壜の口からこの宇宙の中に生まれようとしているのだ。
 そんなことを考えながら、私は王冠で何とか宇宙を壜の中に押し戻そうと、また小さな努力を続けた。

鬼灯の木が

2008年01月15日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 鬼灯の木がある。たわわに鬼灯の実が成っているから鬼灯の木だとわかる。だが普通の鬼灯の木ではない。大きさがまるで違う。鬼灯の木というより、むしろ銀杏の木に見える。それくらい大きな木である。そしてその枝には、数え切れないほどたわわに、オレンジ色の鬼灯がぶら下がっている。その様子は、風が吹くと一斉に揺れて、綺麗な音色を鳴らしそうなほどだ。
 古い家の敷地にその木はある。煤け、壊れかけた塀のすぐ側にある。私は首を回して、家を見る。家も煤けた木で出来た平屋である。沢山の窓ガラスがあり、すべてが光を歪めて通す波ガラスだ。窓の奥は暗くてよく分からないが、時々何かが動くような気配がある。誰の家なのか、通りすがりなのでわからないが、その動く気配はきっとこの家の人のものなのだろう。だとすれば、こうしてそっと忍び込むようにして入り込んできた私の姿を訝しく思って見ているのかもしれない。私はその暗い波ガラスに向かって軽く会釈してみる。だが、何も答えはない。気配ばかりがあって、音さえ聞こえては来ない。
 私はまた上を見上げる。幾千にも千切れた雲が空にある。それを背景にして、何百もの橙色の鬼灯が見える。どの鬼灯も丸く膨れて、今にも弾けそうに見える。だが、どれだけ捜しても弾けた鬼灯はない。地面にも、一面にぼんやりとした色彩の苔が見えるだけで、ただの一つも落ちた鬼灯の実は見当たらない。
 そうして聳え立つ鬼灯の木を見ていると、ふと視線を感じて、振り向くとそこには一人の初老の女性の姿があった。私はこの家の人なのかと思い、慌てて会釈をしたが、その女性も軽く会釈をしたかと思うと、咎めるようなことは何も言わずに私の側に並んでやはり鬼灯を見ている。そして、立派な鬼灯ですねえとか言っている。はあ、と私は答え、これは随分と古い木なんでしょうねえと聞いて見た。すると彼女は、ええ、きっと随分と古い木でしょうねと答えた。なるほどこの女性さえいつからあるのか知らないほど昔からある木なのかと私は思い、それでは貴女にはこの木についての思い出なども沢山あるのでしょうねと言ってみた。するとその女性は、ええ、あるといえばありますが、それほど大したものでもありませんと答えた。なるほどそうですか、案外そんなものなんでしょうかねと私は言い、ついで、この鬼灯で遊んだりはしたのでしょうねと訊いてみた。すると彼女は不思議そうな顔をして、いいえ、そんなことはありませんと言う。一度もないのですか、と私が訊くと、彼女は不思議そうな顔をして、そうです、だって、この鬼灯は決して下に落ちては来ませんものと答えた。
 よくよく聞くと、彼女はこの家の人ではなかった。近所に住んでいて、通りすがりに、時々この鬼灯の木を見上げるだけなのだという。私は彼女に、自分は此の辺りのものではなく、ただの通りすがりで、余りに不思議な鬼灯を見て思わずふらりとこの敷地に入ってきたのだと言った。そうして彼女に聞いたところによると、この鬼灯が爆ぜたり落ちたりするところを見たことは一度もないのだという。だがそれは彼女だけが見たことがないのではなく、多分誰も見たことがないのだろうということだった。ただ一つ分かっている事は、或る夜、誰も見ていない時を見計らうように鬼灯が一斉に鬼灯が爆ぜて、それからの数日はこの家の中で様々な気配がするのだということだけだった。だが鬼灯の爆ぜた種はどこにも見当たらず、樹々には揺れるオレンジ色の袋だけがぶら下がり、次第に枯れて、風と共に消えてしまうらしい。
 彼女が去った後も、撲はその言葉を信じきれずに、数時間じっとそこに佇んで見上げていた。だが辺りがすっかり暗くなっても、鬼灯はただの一つも爆ぜる事はなかった。

2007年12月22日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)

時折吹く風に心が揺れる
わたしの身体には無数の孔が空いているのだろう
通り抜ける風が心を冷たくする
だが時々はとても良い音がする

風を避けるように身体を傾ける
風を受け入れて身体を立てる
風など吹いていない振りをする
風の中に立って風と話す

時折吹く風に弄ばれる心は
身体に空いた無数の孔の中で転がっているようだ
だが時折は良い音を鳴らす
わたしはその音が聞きたい


2007年09月27日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)


 その鳥は思う。いつしかそれを見た事があるのだろうかと。風は答えない。太陽はただ照りつけるのみ。鳥は首を傾げる。それから鳥は大きく羽を広げ尾で風を蹴る。なだらかな曲線を描いて光は鳥の背を滑る。そして少し光る。鳥は記憶を辿る。だが辿る側からその理由を失う。鳥は翼で光を打つ。光は砕けて散ってゆく。鳥はそれをじっと見ている。鳥には人の見えない色彩が見える。鳥の目には紫外線が見える。鳥にとって色彩は人よりも遥かに立体的なのだ。

 その鳥は思う。いつしかそれを見た事があるのだろうかと。空はただ青い。そして深く高い。鳥は何度もそう考える。そして考える側から忘れて行く。風が吹く。鳥は柔らかく風を捉まえてさらに空を滑る。小さな音が聞こえる。それは鳥の歌である。

長い黄昏

2007年09月19日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)

長い一日が終わろうとしている
あなたにとってその一日は
どのようなものであったのだろう
あなたの一日は
わたしにはとても美しく見える

穏やかなあなたの水面を時折影が横切る
わたしにはその影を妨げることができない
わたしの手がさらに新しい影を作り出すだけ
それでも影が去った時には
あなたの水面は元のままで
じっと綺麗だ

長い一日が終わろうとしている
長い午後がもうすぐ終わる
日が傾き始めた
少しづつ光が
宇宙の闇の色に溶け込んで行く

わたしは見ていよう
その光が細く薄れそれから消え
風景の中に漂う
柔らかい香りのする記憶となるまで