漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?

2018年05月07日 | 読書録

「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?」 マイクル・ビショップ著 小野田和子訳
ドーキー・アーカイヴ 国書刊行会刊

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 「スティーヴン・キング非推薦!?の錯乱必至メタ・ホラー・エンターテインメント!」という、強烈なキャッチコピーの一冊。
 なぜ非推奨なのかといえば、まずタイトルのスティーヴィ・クライという人物名がスティーヴン・キングにちょっと似てるから。これが意識的であることは、作者も認めている。次いで、内容が当時一世を風靡し、大量に生産されていた「モダンホラー」のパロディ的な側面を持っているから。しかしあとがきで、マイクルは自分はキングに対して、称賛以上のものを持っていると言っている。この小説でちょっと茶化したかったのは、キングその人ではなく、彼の亜流として金儲けを企む有象無象の「モダンホラー」作家だったらしい。しかし、キングがそんなことを知るはずもないから、面白いわけがない。馬鹿にされたと感じるに決まってる。したがって嫌っていた――「非推奨」と言うわけである。
 この小説を読んだ感想としては、これが含まれるシリーズ『ドーキー・アーカイヴ』の編者の一人である横山茂雄さんの作品紹介の言葉――〈モダン・ホラーの卓越したパロディ、複雑な構造を備えたメタ・フィクションにして、リアルな南部小説――しかも、読者を底知れぬ恐怖に陥れるという驚異の離れ業〉――に、ほぼ全てが語られているように思えるが、それは一読したからこそ簡潔で見事な紹介文だと感じ入るわけで、内容を知らない人には何のことやら分からないだろう。

 以下、あらすじを紹介しつつ、感想を。感想とあらすじを、ほぼ同時にやってます。
 ただし、このブログは、最近読んだ本の内容をすぐに忘れてしまう自分のための防備録を兼ね始めているので、かなり無遠慮にネタバレをしています。お気をつけください。


 本を開いて、目次の次に、最初に前付けのタイトルページがあるのだが、そこには「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?――あるアメリカ南部の物語」とある。ページをめくると、そこにはもうひとつ別のタイトルページがあって、そこには「タイピング――ウィックラース郡の狂女の人生における一週間/モダン・ホラー小説/A.H.H.リプスコム」とある。つまり、この本にはもうひとつのタイトルと著者がいるということで、この時点でこの作品がメタ・フィクションであることがわかる。同時に、狂女を主人公にした「モダンホラー小説」であることが宣言されている。
 次のページからは、普通に物語が始まる。
 主人公はスティーヴィ・クライ。13歳の息子と8歳の娘を持つ未亡人で、フリーでライターの仕事をしている。夫は数年前に癌であっさり亡くなってしまっている。病気とほとんど戦おうとさえせずに。彼女はそのことに対して、裏切りにも近いものを感じている。夫が残してくれたものといえば、彼女が現在仕事で使っているタイプライターだけである。もともと上位機種であるとはいえ、時代は次第にワープロに移行しつつある時代。しかし、女手ひとつで不安定な仕事をしながら二人の子供を養う彼女には、もちろんそんなものを買うような余裕はない。ところが、そのタイプライターが突然壊れてしまった。仕事をする上で、タイプライターはなくてはならないものである。販売元に問い合わせると、修理には最低52ドルかかるという。金銭的な余裕のない彼女はその値段が気に食わず、友人に相談したところ、自分の知っている人がタイプライター修理の名人だと教えてくれた。喜んだスティーヴィはタイプライターを持ってその男シートン・ベネックのもとを訪ねる。彼は子供がそのまま大きくなってしまったような風貌をしており、明らかに変人だったが、腕は確かで、しかも実費の10ドル67セントで修理してくれる。スティーヴィは満足する。しかし、彼は修理の終わりに、タイプライターにちょっとした細工をしたようだった。
 たった52ドルをケチってシートンに修理を頼んだそのことが、悪夢の始まりとなる。その夜、悪夢にうなされて目を醒ました彼女は、隣の部屋からタイプライターの音が聞こえてくることに気づく。おそるおそる部屋に向かうと、音が消えた。部屋の中を覗き込むと、タイプライターが長い文章を打ち出した紙が残されている。それは、夫の死にまつわる悪夢を再現したような支離滅裂なワンシーンだったが、その最後は、夫が彼女にこう語るところで終わっていた――「もしぼくがあきらめたように見えたのなら、スティーヴィ、その理由はただひとつ」
 もともと夫の死に納得のゆかないものを抱えていたスティーヴィは、それが異常な現象であったにも関わらず、その言葉の続きを知りたいと思うようになり、積極的にタイプライターに自動書記させようと試みるようになる。夫の真意は何だったのか。そしてついには、タイプライターと対話さえ行うようになってゆく。しかしタイプライターの打ち出す文章は、次第に悪夢と一体化してきて、ついには現実とタイプライターの打ち出す悪夢との境界線を脅かすようになってくる。途中にスティーヴィの眠りが介入するところがミソで、ここから先は、スティーヴィがそうである以上に、読み手に夢と現実の混乱を促すような記述になってゆく。暑がる息子の布団を剥ぐと、身体が溶けてしまっていたり、また、友人たちと比べて遅れていると悩む息子と性的関係を持ったり。そうした悪夢が、まるで現実にあったかのように真に迫って、次々と彼女を襲う。しかも、彼女の家に突然訪ねてきたシートン・べネックスがその悪夢をさらに酷いものへと推し進める。シートンは一匹のクレッツという名前の猿を連れてきたのだが、子供たちがその猿に喜ぶこととは対象的に、スティーヴィは彼とその猿の存在を非常に薄気味悪いものと感じる。
 しかし同時に、彼女はタイプライターを積極的に利用しようともする。タイプライターを脅迫(!)して、夫の言葉の真実を語らせようとしたり(実際、ある程度語ったりもする)、さらには、あるとき突然出版社から電話がかかってきて、彼女にフィクションを書かないかと持ちかけてくるのだが(この電話の中で、A.H.H.リプスコムの名前がさり気なく登場する)、その後彼女は(あるいはタイプライターは)、なかば共同作業のようにしてひとつの短編を書いたりもする。それが作中作である「猿の花嫁」。しかしこの短編自体、彼女の置かれている現実と悪夢の境界線上にあるものである(これが、なかなか面白い短編だった。どこか昔のゴシック小説の作中作を思わせる)。
 この辺で、物語は急速に畳みに入る(急展開で、しかも複雑なメタ構造になっているので、あらすじをまとめるのが難しい)。
 小説を書いた後、それを娘に読んで聴かせてやっていたところ、突然の意識の断絶があって、気が付くと自分が息子のベッドの端に座っていることに気がつく。一体どこまでが現実にあったことなのか分からず、ふたたび娘の部屋をのぞくと、娘の枕元に、まるでガーゴイルのように、猿がいることに気がつく(有名なフュースリーの<夢魔>の絵を意識しているように思える)。電話がいきなりかかってきて、取ると、相手は何も喋らず、受話器の向こうからは不気味な息遣いしか聞こえない。直感的にそれがシートンであると感じた彼女は、ふとしたことで知り合ったシスター・セレスティアルという占い師に電話をかけて、家に来てくれるように頼む。
 この辺から、さらにメタ化が加速する。筋を追うのが大変なので、なるだけ簡潔にしたいが、なかなか難しい。この先は、さらに物語の核心、さらにはオチに言及するので、知りたくない方は読まないでください。


 電話をした直後に、家のメンテナンス業者を名乗る男が家を訪れる。変装をしているものの、スティーヴィはそれがすぐにシートンであることがわかる。やがてセレスティアルがやってきて、二人とシートンの戦いといった様相になる。不思議なことに、セレスティアルはシートンの手によってタイプライターが打ち出した現在のスティーヴィの物語を持っているという。つまり、彼女はここに至るまでのすべての物語と、さらにはこの先どうなるかについての物語を既に手にしているというのだ。しかし、彼女はそれをスティーヴィには見せない。見ないほうがいいという。しかし、さらに少し物語が進んだところで、ここはもうわたしの読んだ物語とは異なっていると言い出す。そしていよいよシートンとの直接対決となる。
 シートンはスライド投影機を使って、彼女にスライドショーを見せ始める。そのスライドに映されていたものは、シートンの若き母親と、そしてスティーヴィの夫であったテッドの不倫現場の写真であった。ここに至ってシートンの目的が、自分の母親を奪ったテッドへの復讐心が行き場を亡くした挙句、その妻であったスティーヴィへと向かったという、屈折したものであることが明らかになる。しかし結局復讐は思いとどまり、姿を消す。その後、彼女のもとに一通の封筒が届けられる。中に入っていたのは、「タイピスト…」という、冒頭でも紹介した、A.H.H.リプスコムの作品で、彼女の体験したことが書かれていた。しかも、最終章が空白のままになっている(つまり、ここまでの話は、すべてこの本の内容そのままであり、実際には多少異なっていた可能性が示唆されている)。後日、スティーヴィのもとへと大量のタイプライターが届けられる。それは、罪滅ぼしのためにシートンが送りつけてきたものだった。シートンは、これらには何も仕掛けはしていないと受け合う。スティーヴィはそのタイプライターをすべて屋根裏へと運ばせる。その夜、屋根裏からはタイプライターの音が聞こえてくる。彼女がそっと覗くと、思っていたとおり、そこにはクレッツをはじめとする沢山の猿たちが、一心にタイプライターを叩いている姿があった。猿たちの打ち出した用紙を見ると、ほとんどは意味をなさないものであったが、猿のクレッツなどは、偶然モダンホラー小説の最初の章の前半をものにしていた。それを見て、スティーヴィはほくそ笑む。うまく調教すれば、自分は何も書かずとも、すばらしい作品を手にすることができるだろう、と(これは、「無限の猿の定理」と呼ばれるものを連想させるようになっている。「無限の猿の定理」とは、ウィキペディアによれば「ランダムに文字列を作り続ければどんな文字列もいつかはできあがるという定理である。比喩的に「猿がタイプライターの鍵盤をいつまでもランダムに叩きつづければ、ウィリアム・シェイクスピアの作品を打ち出す」などと表現されるため、この名がある」とのこと。ここでの場合、要するに「駄作でも濫発すれば中には傑作が生まれることもある」というニュアンスを暗に匂わせているように思われる。雨後の筍のように次から次へと似たようなB級ホラーが濫発される当時の状況を皮肉ったものだろうか。そうだとすれば、かなり黒いオチだと言って良さそう)。しかし、実を言えばそれだけでこの物語が完全に閉じたわけではない。最後の、見過ごしてしまいそうな一文は、考えようによっては、その段落までの物語もがタイプライターが打ち出したフィクションであるとさえ考えられる可能性があることを示唆しているのではないかと思う。このクドさは、もしかしたら「モダンホラー」だけではなく、「メタ・フィクション」さえもパロディーの対象としているとさえ言えそうな気もする。そうそう、つい忘れそうになるけれど、そもそも一番外側の箱とも言えるこの本のタイトルからして、「誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?」という思わせぶりなものだった。

 
 最後まで読み終えてみるとどこかユーモラスなこの小説だが、シートンとの対決のシーンまでは非常に怖く、読んでいて先が気になって仕方がないほど読ませる。主人公をごく普通の小市民に設定し、超自然的な、例えば悪魔や怪物とかではなく、タイプライターというごく日常的なものが恐怖の対象になるというあたりも、いかにもキングが得意とするタイプのホラーである。それだけにしておけば、十分に及第点のモダンホラーなのだが、そこにメタフィクション的要素ととんでもないオチを付け加えたことで、この作品は稀に見る怪作となった。
 また、この本の著者によるあとがきも、当時のモダンホラーをめぐる情勢を伝えていて、興味深かった。

 

短い金曜日

2018年05月01日 | 読書録

「短い金曜日」 アイザック・B・シンガー著 邦高忠二訳 晶文社刊

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  アイザック・B・シンガーはポーランド生まれのユダヤ系作家。生まれたのは1902年。イディッシュ作家として1978年に初めてノーベル文学賞を受賞しました。没年は1991年。もともと限られた人々にしか読まれなかったイディッシュという言語で書かれたシンガーの作品が世に広まるようになったのは、この本にも収録されている「ばかものキンベル」という短編が、ソール・ベローの手によって1953年に英訳されたためらしく、それが起爆剤となって、一気に世界中に広まりました。
 イディッシュといえば、ユダヤの言語というイメージがあったのですが、本のあとがきによれば、少し違うようです。ウィキペディアから引用すると、

イディッシュ語はドイツ語の一方言とされ、崩れた高地ドイツ語にヘブライ語やスラブ語の単語を交えた言語である。高地ドイツ語は標準ドイツ語の母体であるため、イディッシュの単語も八割以上が標準ドイツ語と共通しており、残りはヘブライ語やアラム語、ロマンス諸語、そしてスラブ諸語からの借用語である。初期にはヘブライ文字を伝統的に使用していたが、現在では標準ドイツ語に準じたラテン文字表記も存在している。
 世界中で400万人のアシュケナージ系・ユダヤ人によって使用されている。

 ということ。イディッシュは多くのユダヤ人たちによって話される言語ではあるが、ユダヤ語=イディッシュというわけでもないようです。
 しかし、イディッシュ語で忘れてならないのは、もともとユダヤ人たちによって主に話されていた言語であるという点です。そのため、第二次大戦のホロコーストによってイディッシュを話す人々のほとんどが虐殺されてしまった結果、「死んだ言語」であるとされた時代があったとか。そうした状況の中で、ヨーロッパに吹き荒れる反ユダヤ主義から逃れてニューヨークで生活していたシンガーは、あくまでイディッシュで書くことにこだわりました。自らのルーツに対する誇り、言語とともにあるアイデンティティ、そうした強い思いがそうさせたのでしょうか。

 この本は、初版が1971年。ということは、ノーベル賞を受賞するより前の出版ということになります。ぼくが初めてこの本を書店で見かけたのは、多分1984年頃だったと思いますが、あれは初版がそのまま売れ残っていたのか、それとも何度か版を重ねたものだったのかは、わかりません。なぜそんなことを覚えているのかといえば、ずっとこの本のことが、何となく気になっていたからです。自分の手元にあるこの本は、最近古書店で買ったものですが、初版なので(しかも、折がそっくり入れ替わっているページがあるというひどい製本ミス本)、増刷されたのかどうかもよくわからないのです(ノーベル文学賞を受賞した作家なので、その時に増刷がかかったんじゃないかなという気はするけれども)。
 この「短い金曜日」という短編集は残念ながら現在絶版になっているますが、新刊で買えるシンガーの作品も結構たくさんあるようで、根強い人気が伺えますが、それも納得できるほど、彼の作品はちょっと癖になりそう。
 ともかく、他の作家とは明らかに違う、奇をてらったというのではない、唯一無二さがあります。多くの優れた短編作品に時折見られるように、おそらくは土着的な説話が想像力の根にある文学なのだろうという推測はつきますが、そう言って説明した気になれるものでもありません。ほとんどの物語が、ごく普通のユダヤ人の庶民の物語です。しかし、ごく普通の物語とはやはりいいかねるのです。それは、背景にしっかりと存在するユダヤ教の影のせいばかりではないでしょう。
 収録作品は、以下の12篇。

ばかものキンベル
クラコフからやって来た紳士
老人

ただひとり
ヤチドとイェチダ
イェシバ学生のイェントル
短い金曜日
降霊術
コケッコッコッココー
天界の倉庫
ヤンダ

 以下、いくつかの短編のあらすじを。ややネタバレしてますが、それで面白くなくなるとは思えません。

 ソール・ベローによる英訳でシンガー人気に火をつけたという「ばかものキンべル」のあらすじは、次のようなもの。
 村人から「ばかものキンベル」と呼ばれるお人好しの男の物語。キンベルは村人らから身持ちの悪い女を妻にあてがわれ、結局、自分の子供ではない子供を6人も授かる。妻は死ぬ間際にそのことを告白するが、どこまでも良い人間であるキンベルは怒らないばかりか、死後に辛い思いをしている妻のことを気遣う。
 
クラコフからやって来た紳士・・・貧しいが正直な人々の住む村にクラコフからやってきたという男が現れる。彼は村に富をばらまき、人々を魅了するが、その正体は恐ろしい悪魔だった。

血・・・レブ・ファリクという誠実な男の二番目の妻になったリシャという女は、人ルーベンと出会ったことで、自らの内に秘められた残虐性に目覚め、楽しみのためにをすることをエスカレートさせた挙句に、人狼となってしまう。ともかく、リシャの描写がすさまじい。

イェシバ学生のイェントル・・・イェントルは、女性ではあったが、女性の興味のあるものにはまるで興味が持てず、男性のように勉強したいと願っていた。父親が死んだあと、彼女は男装をして、アンシェルという名前を名乗り、遠くの町の学校へと入学する。その途中で知り合ったアヴィグドルという青年と男として友情を結ぶ。そして、彼の紹介でハダスという、かつてアヴィグドルの婚約者であった女性の親の家に下宿することになる。しかしアヴィグドルは、実はハダスのことが忘れられず、他の男性と一緒になるくらいなら、親友の君と結婚して欲しいと言い出す。そしてアヴィグドルは別の女性と結婚してしまう。実はイェントルはいつの間にかアヴィグドルのことを愛しており、悩んだ末に一度はハダスと婚約するが、不幸な結婚をしてしまいボロボロになってしまっているアヴィグドルの姿に自らの正体を明かし、ハダスと結婚するように勧め、去ってゆく。トランスジェンダーものというか、まるで少女漫画のような物語。

短い金曜日・・・敬虔な貧しい夫婦の、一年で最も日が短い聖なる金曜日の夜の出来事。つつしまやかだが、幸せな食事をして、愛を交わしたその夜に、一酸化中毒によって並んで天に召されてゆく様子を描いた、静かで忘れがたい余韻の物語。

 他の作品も、どれも粒ぞろいで、楽しめます。どの作品にも、バックグランドにユダヤ教の倫理観というものがはっきりとあって、それがどこかエキゾチックです。そして、こちらの想像のやや斜め上を、あれよあれよという間に、物語がさっさと進んでゆきます。しかしそれが実にスムースなのは、語りの上手さのせいでしょう。崇高さと猥雑さが何の違和感もなく一体となっているシンガーのすばらしい短編世界。ラテンアメリカの小説が好きな人には、きっと肌に合うんじゃないかという気がします。もちろん、あらゆる短編小説ファンにとっても。