漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

夢の女・恐怖のベッド

2008年04月30日 | 読書録

『夢の女・恐怖のベッド(他六篇)』 W・コリンズ著 中島 賢二 訳
岩波文庫 岩波書店

読了。

 前回、コリンズはアメリカの作家だと勘違いしていたが、ishibashiさんに間違いを指摘していただいた。そう、イギリスの作家ですね、コリンズは。ごめんなさい。
 「月長石」や「白衣の女」で有名なコリンズは、ポーと並んで、推理小説の祖の一人とされている。系譜としては、ゴシック小説の流れの中に位置している作家だ。昨年あたりから僕は、ゴシック小説が面白くなってきているのだが、コリンズを読むのはこれがはじめて。
 とはいうものの、この短編集の表題作「恐怖のベッド」の話は、いろいろなところで紹介されているのを読んだことがあるし、このアイデアはその後、様々な作家や漫画家によって使いまわされている。それでも、やっぱり怖い話だと思う。今なら、ほとんど都市伝説のような話として流布しそうだ。そう、都市伝説といえば、この短編集に収録されている話はどれも、語りという文体の性格のせいか、そんな肌触りがある気がする。
 収録作はどれも高い水準にある短編ばかりだが、個人的に印象的だったのは、表題作の「夢の女」と「恐怖のベッド」は当然として、「グレンウィズ館の女主人」、「探偵志願」など。特に「グレンウィズ」は、その哀しさがずっと余韻として残る佳品だった。

グランダンの怪奇事件簿

2008年04月28日 | 読書録
 
『グランダンの怪奇事件簿』シーバリー・クイン著 熊井 ひろ美訳 論創社刊

 を読みかけたものの、二作目までを読んだ時点で放り出す。
 ホジスンの「カーナッキ」、ブラックウッドの「ジョン・サイレンス」などに続くゴーストハンターものとして有名で、全部で100篇近い作品があるのだが、良くも悪くもあまりにB級で、ちょっと今は読む気になれなかった。テレビの一時間ドラマの脚本みたい。

 代わりに、
『夢の女・恐怖のベッド(他六篇)』 W・コリンズ著 中島 賢二 訳
岩波文庫 岩波書店

を読み始める。これはさすがに面白い。まだ三編読んだだけだけれども、かなり好き。「白衣の女」や「月長石」も読んでみようかと思う。
 以前「悪の誘惑」(J・ホッグ)を読んだときなども思ったけれど、アメリカの初期ゴシック小説が僕はかなり好きなようだ。

冒険王・横尾忠則

2008年04月26日 | 雑記

 「日本ジュール・ヴェルヌ研究会」の春の遠足で、世田谷美術館で開催されている

冒険王・横尾忠則」展

を観に出かけた。総勢で十名。

 横尾忠則氏の絵は、昔からポスターや書籍などをはじめ、様々な媒体を通じて馴染みがあるが、こうして一堂に会した展覧会を観るのは初めてだ。
 今回の展覧会は、デザイナーとしての横尾忠則ではなく、画家としての横尾忠則に焦点を当てたものという印象。したがって、展示されていたのはアクリル絵具で描かれた、大きな絵画が中心だった。
 そう、大きいというのがぴったりの表現なのではないかと思う。製作された年を見て驚いたのだが、ほとんどが近作である。いったい一年間にこの大きさの絵を何枚描いたのだろう。そのエネルギーの巨大さにも圧倒される。
 今回は、チラシにも使用されている「ジュール・ヴェルヌの海」を観るために企画された遠足だったのだが、ヴェルヌ関連の絵はもう少しあって、面白かったのは「ネモ船長ピカソに遭遇」と題された、赤と黒で描かれた絵。ノーチラス号の中から船窓を通して、海中に漂う晩年のピカソを見詰めているネモ船長を描いた絵なのだが、これはおそらく現在の自己をピカソに投影し、それを少年期の自らの世界と出会わせているのだろう。七十歳を超えてもなお湧き出るエネルギーの枯れない横尾忠則氏だからこそ、説得力のある絵である。
 巨大な絵も圧倒的だったが、個人的に今回の展示で一番気になったのは、「夢枕」と題された連作。横尾氏が実際に見た夢から題材を得て描いている、比較的小さな絵だが、僕はここに谷内六郎にも通じる世界を見た気がした。そういえば、家にもある谷内六郎さんの画集「谷内六郎幻想記」は、横尾氏による編集だった。

火星探險

2008年04月23日 | 漫画のはなし

 引き続いて、漫画の話。

「火星探險」 大城のぼる/画・旭太郎/作 透土社刊

を読む。

 元々は昭和15年に中村書店から「ナカムラ繪叢書」の一冊として出版され、手塚治虫氏をはじめ、さまざまな人々に決定的な影響を与えた本。日本の漫画史の中でも、最重要作品のひとつ。その復刻版。ただし、元の本は三色刷りのオールカラーでだったが、今回の復刻版では表紙と扉以外はモノクロになっている。一度、1980年に晶文社からオールカラーの完全復刻版が出たようだが、現在は絶版。どうせなら、そちらの方を手に入れたいというのは本音。というのも、わずかに収録されたカラーページが、抜群にいい感じだからだ。この味は、ちょっと出せない。
 でも、この本も悪くない。元々の内容が良いせいもあるが(今読んでも面白い)、本の三分の一以上に渡って収録されている解説が貴重というのもある。特に、大城のぼる氏と手塚治虫氏と松本零士氏の対談などは、戦争前後の出版環境などについてリアルな話が沢山盛り込まれていて、読んでいて思うことがいろいろとあったし、原作者である旭太郎こと詩人の小熊秀雄のキャラクターも興味が尽きないのだけれど、それはまたいずれ。
 ところで、これはミニ知識のようなものなのだけれども、漫画の冒頭に出てくる天文台の絵は、三鷹の国立天文台にあるアインシュタイン塔を参考にして描いたのだとか。アインシュタイン塔は現存していて、何度も見たことがあるだけに、時間を越えてゆくような不思議な気分になった。

正チャンの冒儉

2008年04月22日 | 漫画のはなし

「正チャンの冒儉」 画/樺島勝一・作/織田小星
発行/小学館クリエイティブ 発売/小学館

を読む。

 1923年(大正12)に「アサヒグラフ」で連載が始まって、瞬く間に国民的な漫画となり、「正チャン帽」の呼び名の由来になった作品が、この「正チャン」シリーズだ。この本は、何種類もあるシリーズをまとめて、一冊にして復刻したもので、すべての作品が収められているというわけではなさそうだが、その変換の歴史の全貌を伺うことができる。
 とはいえ、シリーズが連載されていたのは実質大正12年から15年頃までで、その後昭和25年頃になってから一度復活したものの、連載期間は意外と短い期間だったようだ。だが、実質四年ほどのその間にも、驚くほど絵が変わっている。本のカバー絵を見て、誰もが思うのは、タンタンシリーズだろうが、実はこの「正チャン」シリーズのほうが、六年ほど先行している。当時、この作品がいかにモダンに映ったか、想像できるだろう。
 ところで、どうしてこの本を読んだのかといえば、先日書いたように僕は「日本ジュール・ヴェルヌ研究会」会員の末席に名前を連ねている。それで、僕は特にヴェルヌに詳しいわけでもないのだけれど、日本における現代のサブカルチャーはヴェルヌなしには語れないと思っていて、その源流のひとつはやはり漫画だろうと思い、興味を持ってちょっと調べてみた、というわけである。
 「正チャン」シリーズは、日本初のSF漫画という評価もあるようで、それは大正13年1月10日から朝日新聞に連載された「正チヤンノバウケン」の「ホウライサン」というシリーズを指す。この本にも収録されているが、これをSFと呼んでいいのかどうかはともかく、夢で見た蓬莱山にプロペラ飛行機で向かい、天の川のほとりにまで行くものの、エーテルのような雲をはじめとする妨害に阻まれて果たせず、ついには諦めて星に連れて帰って来て貰う、といった足穂的な作品である。ちなみに、足穂の一千一秒物語は大正12年で、前年に発表されているから、もし影響を受けているとしたら、それはこの「正チャン」シリーズの方である。
 そうそう、影響といえば、先日亡くなった鴨沢祐仁さんの「クシー君」は、明らかにこの「正チャン」シリーズの末裔だろう。
 ちなみに、この作品の絵を担当した樺島勝一氏は、この後講談社の雑誌などで少年向きの冒険小説の挿絵で一時代を築いた画家で、船を描かせたら天下一品だった。このあたりからも、いろいろと調べてみると面白そうだ。

EXCELSIOR!

2008年04月20日 | 読書録

 僕も会員の一人として参加させていただいている日本ジュール・ヴェルヌ研究会の会誌の第二号が発刊されました。
 特集は、題して「『地球の中心への旅』への旅」で、ヴェルヌの「地底旅行」を取り上げています。
 創刊号よりもずっとボリュームアップしており、読み応えのあるものとなっています。目次は、こちらをご覧ください。
 面白いのは、ヴェルヌが「地底旅行」を書く際に、叩き台にしたのではないかという噂もある、ポン=ジェストの「ミーミルの頭」という短編が本邦初訳されていることです。ヴェルヌがらみで言及されることがあるものの、それほど見るべきところのある作品でもないことから、翻訳されたことが奇跡のようなもの、それどころか、多分世界で初めて再録されたのではないかということです。ぜひ一読を(笑)。
 日本ジュール・ヴェルヌ研究会では、会員を募集しております。現代日本のサブカルチャーにも大きな影響を与えたヴェルヌとその周辺について、興味のある方はぜひご参加ください

η・・・卵とひよこ・最終回

2008年04月17日 | ティアラの街角から
 この場所に辿り着いたわたしは、しばらくじっと佇んだまま、海を見下ろしました。眼下に広がる海は、紺碧の青さで、穏やかでした。漁師たちの船に混じって、観光船が行き交っています。平和で穏やかな、暖かい昼下がりでした。
 わたしはこのベンチに腰掛けて、しばらく休みました。随分と年をとったものだと思いました。けれども同時に、かつて皆でこの場所に集まっていた頃の事が、ついこの前のようにも感じていました。今、皆がこの場所にいないということが、とても不思議なことであるかのように思えました。皆の名前を呼べば、あちらこちらから姿を現すのではないかしら。そんな気がして仕方ありませんでした。わたしは試しに『彼』の名前を呼んでみました。けれども、その声には風さえも答えてはくれませんでした。
 しばらく休んだ後、わたしは記憶を頼りに、かつて皆で宝物を埋めた場所に見当をつけて、持ってきたスコップを使って土を掘り返してゆきました。随分と昔のことでしたから、余り自信はなかったのですが、記憶は確かでした。土を掘り始めていくらも経たないうちに、わたしはすっかりと錆びてしまった宝箱に行き当たりました。わたしの心は、久しぶりに大きく騒ぎました。数十年という時間を、わたしは一息に飛び越えたような気がしました。
 丁寧に土を掻き分けて、わたしはそっと宝箱を取り出しました。そして、錆び付いた蓋を開けました。
 言うまでもなく、中に入っていたものの大半は風化して、腐ったような、酷い状態になっていました。それでも懐かしさは心の中に去来します。わたしは中のものをそっと手にとりながら、かつての仲間たちのことを思い出しました。不思議なくらいに、記憶は鮮やかに蘇ってきます。宝箱を埋めた時の、皆の高揚した表情や息遣いまで、はっきりと思い出すことができました。わたしはその記憶の芳香を大きく吸い込みながら、求めているものがどこにあるのか探りましたが、見つかりません。一体どうしたのかしら、確かに中に入れたはずだけれど。そうわたしは思いましたが、その時ふと箱の隅にある一本のネックレスに気付きました。わたしはそのペンダントを手に取りました」
 イータさんは口をつぐみ、それから手を胸元に持っていって、首から下がっているひよこのネックレスを手にした。
 「これが、そのペンダントです」とイータさんは言った。「ガラス細工のひよこです」
 イータさんはネックレスを外して、私に手渡してくれた。私は両手を差し出して、ネックレスを受け取った。古くて、質のよくないガラス製のひよこだったが、何とも言えず柔らかい感じがした。
 「そのネックレスには、まったく見覚えがありませんでした」とイータさんは言った。「誰が入れたのかも、全く思い出せません。それで、わたしはさらに箱の中を探りましたが、わたしが入れたはずのネックレスはどこにもありませんでした。
 わたしは狐につままれたような気分になって、長い時間ぼんやりとこの場所で、手に宝箱を抱えたまま座っていましたが、ふとひとつの可能性に思い至りました。それは、『彼』が島を出る前にこの箱を掘り出して、わたしが入れたネックレスを持ち去り、代わりにこのひよこのネックレスを入れたのではないか、ということです。
 どうしてそんなことをしたのか、わたしには説明することはできません。けれども、他に考えられるでしょうか。わたしと『彼』のネックレスは、合わせるとひとつの卵の形になります。そのネックレスが消えて、代わりにひよこのネックレスがあるのですから、辻褄は合っていますよね?」
 「ええ、そうですね」と私は言った。「確かに、辻褄は合っています。それに、私も多分その『彼』がやった、ちょっとした悪戯だという気がします」
 「悪戯」とイータさんは微笑んで言った。「ええ、確かに悪戯ですね。とても優しい悪戯です。あの日、わたしがネックレスを埋めに行ったとき、もしかしたら『彼』はそれを見ていたのかもしれませんね。それで、ちょっと思いついた悪戯なのかも。
 ええ、わたしもそう思います。あの日、このひよこのネックレスを見つけた時にわたしがたどり着いた結論もそうでした。それで、わたしは長い時間を越えた悪戯に、心を震わせました。そして、このネックレスだけを手元に置いて、宝箱はまたあの樹の根元に埋めなおしたのです。
 ええ、そのネックレスだけは、どうしても、もう二度と手放す気にはなれませんでした」
 私は改めてネックレスを見詰めた。古いガラスのネックレスが、とても愛しいもののように見えてくる。
 「美しいネックレスですね」と私は言った。「イータさんのお話も、とても美しいお話でした」
 「退屈ではなかったですか?」私からネックレスを受け取りながら、イータさんは言った。
 「いえ、全然。とても素敵な話でした」私は少し考えて、言った。「後日談のようなものは、ありますか」
 「いえ、残念ですが、ありませんね」とイータさんは言った。「わたしにとって、このネックレスはひとつの大切な記憶です。夫や、それから娘の記憶と同じように、わたしの抱えているものです。それ以上のものではありません。ですが、大切なものなんです。あれから『彼』がどうなったのかは、全く消息さえ掴めません。もしかしたら、どこかで生きている可能性もありますし、そう信じてもいますが、もう会うこともないでしょうね。でも、それが残念とか、そんな風には思いません。わたしは、『彼』がいつか宝箱を掘り出して驚いているわたしの姿を想像しながらこのネックレスをそっと箱の中にいれたという、その姿を思うだけで十分楽しい気分になれるのですから」
 私は頷いた。そして、ワインを一口飲んだ。
 遠くから、汽笛が聞こえた。私は海の方を見下ろした。
 目の覚めるような青さの海に、小さく白い浪が立っている。穏やかな、いつもの午後の光景だった。

淑やかな悪夢

2008年04月15日 | 読書録

「淑やかな悪夢---英米女流怪談集」 
シンシア・アスキス他著 東京創元社刊

を読む。

 19世紀末から20世紀初頭にかけての、女流作家による怪談ばかりを集めたアンソロジー。女流作家のみ、というのがもの珍しくて、興味を抱かせるが、蓋を開くとそれほど怖い作品もなく、やや肩透かしのような気もしたが、ひとつだけ異様に強烈な作品がある。それは

「黄色い壁紙」 シャーロット・パーキンズ・ギルマン著

である。
 これは怖い。静かな怖さが、気がつくと読者を取り囲んでいる。解説にもあるように、やたらと多い改行が、効果的にその怖さを増幅させる。
 実際には何が起こっているのか、つまびやかではない。だが、ここに流れている不穏な空気感は、皮膚感覚で伝わってくる。読み手の想像力を揺さぶってくる。そこが怖い。
 このアンソロジーは、この一作だけのために、手に取る価値があると思う。

チェコの絵本

2008年04月13日 | 雑記



 今日は『Jules Verne Page』のsynaさんと、上野の「国際子ども図書館」で開催されている「チェコへの扉」という企画展を観に出かけた。
 チェコの絵本を展示しているのだが、どの本もモダンというかおしゃれというか、ちょっと奇妙で、それでいて洗練されたセンスを感じさせるものばかり。

 上野から神保町へ移動して、ふと思いついて明治大学博物館に立ち寄り、有名な「鉄の処女」のレプリカ等の拷問具などをちょっと見る。しかし、どの拷問具も、本当に痛そうで、これをやられたらたまんないなあという感じ。
 その後、日曜日なので開いている店は少なかったが、古書店を何軒か覗き、次の目的地である四谷の『だあしゑんか』という、チェコの絵本をたくさん置いているカフェバーに立ち寄った。上の写真は、その店内。チェコの絵本は、本当にたくさんある。言葉がわからず、一行たりとも読めないのが残念だけれども。

 ちなみに、下は明治大学博物館にある、拷問具『鉄の処女』のレプリカ。


蜂の巣にキス

2008年04月11日 | 読書録

パソコンの環境はほぼ復旧したものの、いろいろと失われてしまったものが多くて、また一からやり直しかと、多少うんざりしている。まあ、それでも新しくなったパソコンは快適で、買い替えの良い機会だったのかもしれない。


「蜂の巣にキス」 ジョナサン・キャロル著 浅羽 莢子訳
創元推理文庫 東京創元社刊

を読む。

キャロルを読むのは、随分と久々。

 あとがきにもあるように、いつもの「人も羨むような幸せが、いきなり悪夢に変わって、とんでもないラストへなだれ込む」という、キャロルのダークファンタジーとは違う作品。だが、やっぱり彼ならではの味わいがある。いや、この作品は、いつものキャロル作品を期待するファンに向けての、もうひとひねり利かせた作品という感じもある。結果、文学寄りのミステリー作品になっているのだが、常にその後ろにはホラーに転んでしまいそうな危うさが漂っている。
 設定は、美しい少女の水死体を見つけた若き日の主人公が、年を経て作家となったものの、スランプに陥り、それを打開するために思いついたのが、その少女の死の真相に迫るドキュメント作品だというもの。小さな閉鎖的な町が舞台で、いわくありげな人々がたくさん出てくる。
 この設定で「ツインピークス」を思い出す人は多いと思う。多分、キャロルは意識しているのだろうと思う。だが、たどり着いた結末は全く違うものだ。
 人によっては、この結末に拍子抜けするかもしれない。キャロルという作家を知らない人は特に。逆に、キャロルを知っている人なら、戸惑うかもしれない。
 だけど、キャロルをよく知っている人なら、読み終わってから次第に「じわじわ」と来る作品だと僕は思う。ミステリーの皮を被ってはいるが、これは「哀惜」についての物語なのではないだろうか。

パソコン

2008年04月10日 | 雑記
 昨夜、うちのパソコン様がお亡くなりになりました。
 で、今日仕方なく新しいパソコンを購入してきて、さっきやっとネットにつなぎました。
 というわけで、しばらくはまた環境の構築などをせねばなりません。
 やれやれ、です。

多摩川

2008年04月06日 | 雑記

今日は一日良い天気。
朝からちょっと図書館に出かけて、その足でそのまま妻子と一緒に、自転車でふらりと多摩川へ遠出。近くはないが、行けない距離でもない。寄り道をしなければ、一時間もかからないくらいだ。
多摩川の河川敷で昼食。しばらくだらだらと過ごす。
帰り道、妻の自転車がパンク。自転車屋さんに寄ったところ、一目見て、「これはもうタイヤの取り替えをしなければ駄目ですね。ずいぶん乗ったでしょう」と言われる。

写真は、調布駅の近くの商店街。鬼太郎通り。

η・・・卵とひよこ・12

2008年04月05日 | ティアラの街角から
 イータさんは口をつぐんだ。そして、手にもったワインに口をつけることもなく、また遠くを見詰めた。私は、イータさんの語る速さに合わせようと、同じように黙って遠くを見詰めた。やがて頬に太陽の暖かさが心地よく感じた頃、イータさんはまた語り始めた。
 「それから二、三日の間、わたしは遠目に『彼』の姿を見かけることがありましたが、逃げるようにして『彼』から姿を隠していました。『彼』にしても、もうあえてわたしを探そうとはしていない様子でした。そうしているうちに、やがてそれもぷっつりとなくなりました。そしてその代わりに、『彼』が島を出たという噂が耳に入るようになりました。
 それ以来、わたしは『彼』に会っていません。
 『彼』の消息も、分からないままです。
 それから長い年月が経ちました。随分酷い時代が続きましたね。それまでの敵国の支配が終わった後も、騒乱の火種は消えず、わたしたちの生活は常に苦しめられました。やがて戦争が終り、続く内戦の混乱の中で、わたしは結婚して、子どもを授かりました。その頃から、島は次第に元の秩序を取り戻し始めていました。そしてそれからは、裕福とまでは行かないにしても、幸せな生活を送って来たと思います。娘が嫁ぎ、夫が天に召され、今ではもうこの島ではわたしは一人ですが、住み慣れた場所ですから、何も不自由はありません」
 「随分と苦労されたんですね」と私は言った。「私には、もちろん戦争の経験もありませんし、内戦の経験もありません。きっとイータさんに比べれば、まるでぬるま湯のような人生を送っているのでしょうね」
 イータさんは柔らかく微笑んだ。そして、「わたしたちとは時代が違いますから、同じようには考えられませんよ」と言った。
 私は小さく微笑んで俯いた。他に言葉が出なかった。
 「そう、このネックレスでしたね」とイータさんは言った。そして手の平にネックレスを置いて、しばらく見詰めた。
 「十年前に、夫を見送りました」とイータさんは言った。「その時には娘も結婚して島を出ていましたから、夫の死で、わたしの身内と呼べる人はもう、この島には誰もいなくなってしまいました。子供の頃から仲のよかった友だちも、もう誰も残ってはいません。わたしだけが残りました。まるで墓守のように、みんなの記憶を抱いて、こうしてひとりで生きています。もちろん、わたしによくしてくれる人は沢山います。こうしてワインを呉れて、昔話を聞いてくださるあなたも、そのわたしに良くしてくれる人の一人ですね。とれも嬉しく思っています。
 けれども、やはり知っている人が一人一人去ってしまうのは、とても寂しいものです。まるで足元の砂を少しづつ崩されてゆくような、そんな気持ちになることもあります。ですが、それを悲しんでいるわけではありません。ただ、やり場のない寂しさが、小波のように心を揺らすだけです。
 話を戻しましょう。そう、夫が天に召されてから二年ほど経ったある日のことです。ふとわたしは、子供の頃に皆で宝物を埋めたことを思い出しました。それまでも、ほんのたまに思い出すこともあったのですが、長く記憶が留まる事はありませんでした。けれども、その時は違いました。何十年もの時間を超えて、あの日皆で興奮しながら宝物を埋めたことを、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出したのです。それは穏やかに時間の向こうから蘇ってきました。仲の良かった友達たち。今はもう誰一人としていない友達たち。その一人一人の息吹までが間近に感じられました。
 わたしはいてもたってもいられなくなりました。それで、気が付くとわたしはせっせとこの場所に向かって足を運んでいたのです。

夜のピクニック

2008年04月04日 | 読書録

「夜のピクニック」 恩田陸著 新潮社刊

を読む。

 本屋大賞を受賞し、映画化までされた作品。
 ずっと読もうと思っていたのだが、ようやく図書館で見つけたので、借りてきた。
 
 この年齢で、これだけしっかりしているというのは、なかなかないだろうなあとも思うけれども、捻りの多い作者の作品には珍しく、ストレートな青春小説で、爽やかな気分で読めた。

ハイドゥナン

2008年04月03日 | 読書録

「ハイドゥナン(上・下)」 藤崎慎吾著
ハヤカワSFシリーズ Jコレクション 早川書房刊

を読む。

 宣伝の句に、「日本SF史上最高の科学小説」とある。「日本SFの最高傑作」でもなく、「ハードSFの金字塔」でもなく、「日本SF史上最高の科学小説」である。なかなか含みのある売り文句だ。そう思って読み始めた。
 上下刊合わせて、二段組で1000ページにもなる超大作である。外国では普通だが、日本のハードSFでこれだけの分量のある作品は少ない。しかも、その中には普通のSF小説何冊分ものアイデアが、ぎっしりと詰まっている。「クリスタルサイレンス」の時も感じたが、このあたりはやはりグレッグ・イーガンについ比べてしまう。ただ、この作品では著者の専門である海洋・河口部環境科学の知識が十分に発揮されていて、独壇場である。「しんかいFD」(FDというのは、Full Depthの略で、地球上のあらゆる深海に行ける!という意味)という深海調査船に関する部分なんて、特に凄い。この部分だけでも、この本を読むかいがある。
 ただ、この小説を読んでいて常に感じていたのは、いったいどこまでが実際のことで、どこから先僕が騙されているのか、時々わからなくなるということだった。科学的な知識が、専門的でかつ多岐に渡っていて、しかも細部に妙な説得力があり、僕程度では容易くその真偽が分からないせいだ。いくら時代設定が未来であり、これはただの小説だとは分かっていても、ついそんな気分になる。したがって、かつての「スーパーネイチュア」のライアル・ワトソンや「タオ自然学」のフリッチョフ・カプラらに代表される、いわゆる「ニュー・サイエンス」の人々らの著作を読んだときと同じような感覚を味わうことになってしまう。この胡散臭さが、この小説の危いところだ。ついでに言えば、物語そのものはとても単純で、ほとんど捻りもなく、あっけないほど分かりやすい。人物もどこか書割的だ。そのあたりも、多少バランスが悪く感じる部分かもしれない。
 それでも、確かに読む価値のある超大作には違いないと思う。
 「日本SF史上最高の"科学小説"」という売り文句には、そのあたりのニュアンスが感じられるような気がしないでもない。