漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

「こわい部屋 ――謎のギャラリー」 北村薫編

2017年05月20日 | 読書録

「こわい部屋 ――謎のギャラリー」 北村薫編
ちくま文庫 筑摩書房刊

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 作家の北村薫さんが選んだ、奇妙な味の短編を集めたアンソロジー。ホラーのアンソロジーというと、だいたい似たような作品ばかりが並ぶことが多いのだが、これはあまり他のアンソロジーには収録されていないような作品(それどころか、あまり聞いたことのない作家もいる)が多く集められており、しかもどれもかなり面白いという、なかなか読み応えのある一冊だった。
 構成も優れている。
 最初に、いきなり南伸坊の奇妙な漫画がある。なんだか、こちらの現実がこれで一気に揺らぐような、そんな効果のある作品で、頭をほぐして、この先の作品群へすんなり入ってゆく手助けをしてくれる。
 続いて、ブッツァーティが二編。「七階」と「待っていたのは」。これはどちらも割と有名な作品で、以前にも読んだことがあったが、やはり何とも嫌な作品。
 次は小熊秀雄の作品が二つ。最初の南伸坊の漫画作品とも呼応するような、奇妙な味の童話。小熊秀雄の作品は、あまり読んだことがなかったが、この二つの作品が良かったので、巻末の北村さんと宮部みゆきさんの対談の中で出てきた「焼かれた魚」という作品を、青空文庫で読んでみたが、うーん、なんとも悲しい物語だった。
 林房雄の「四つの文字」。これは文学作品。怖いというより、薄ら寒くなるという感じか。作中の「百巻の書は読むためにあるかもしれないが、万巻の書は集めるためにしか存在しない」という一文を読みながら、自分の書棚を思い出した。積読、増えすぎである。
 次のクレイグ・ライス「煙の環」は、ごく短い作品だが、相当変な話。想像の斜め上を行く奇妙なオチに、唖然とする。これも一種のリドル・ストーリーなのかな。
 ブライアン・オサリバンの「お父ちゃん似」と、ジーン・リースの「懐かしき我が家」は、ごく短い話で、サドン・フィクションと言ってもいいくらい。驚くのは、オサリバンは、この作品を書いた時、まだ九歳だったということ。とてもじゃないが、九歳の作品ではない。ジーン・リースは、「サルガッソーの広い海」という、何とも嫌な後味の長編を書いていて、これはほとんどホラー作品のようだった。池澤夏樹編集の世界文学全集にも収録されている名作。「蝿の王」と並べて置きたい一冊だった。
 樹下太郎「やさしいお願い」は、最後にぞっとする掌編。心理的に、かなり怖い。
 ヘンリィ・スレッサーの「どなたをお望み?」は、よく出来たショート・ショートという感じ。
 アン・ウォルシュ「避暑地の出来事」とヘンリィ・カットナー「ねずみ狩り」は、どちらも鼠が出てくる 作品。ウォルシュの作品は、最後の解説で宮部さんが言うように、「シャイニング」とちょっと似た感じだと思った。また、歯型も、ぼくは宮部さんと同じく、お母さんがつけたものだと思った。「ねずみ狩り」は、北村さんが言っているけれど、閉所恐怖症の人にはかなり読むのが辛そうな一作だとぼくも思った。
 ジャック・フィニイ「死者のポケットの中には」とドナルド・ホーニグ「二十六階の恐怖」は、どちらも高所を扱った作品。フィニイの作品は、何か映像作品で観たことがあった気がする。
 ジョン・コリア「ナツメグの味」。これは嫌な話です。有名な作品なので、読んだことのある人も多いかも。
 フョードル・ソログープ「光と影」。これも結構有名で、他で読んだことがあったが、本当に忘れ難い名作。ホラーではないが、光と影が作り出す影絵の中に、諦念にも似た狂気が揺れる光景が印象に残る。個人的に、好きな作品。
 ガストン・ルルーの「斧」は、極めて良くまとまった短編という印象。
 さて、続く乙一の「夏と花火と私の死体」だが、120ページ近くあって、なんとこの本の約1/4近くを占める中編。どうやらこれが、16歳の時に書かれた、乙一のデビュー作だということ。視点がなんと死体なのだが、慣れないと難しそうな技巧を、効果的に使いこなしている。日本の若手作家でGOTHといえば、この乙一と桜庭一樹は絶対に外せないのだが、さすがに早熟の天才ということか。
 この本はもともと、新潮文庫から出ていたらしく、このちくま版はいわば復刊である。で、元版はここまでだったらしいが、今回、ボーナストラックとしてC.Lスィーニィの「価値の問題」が追加されている。「二十六階の恐怖」と同じく、妻に浮気をされた男の復讐を書いた作品だが、こちらは結構ハードボイルド。
 普段はあまりやらないのだが、これでざっと収録作全編についてコメントをつけてみた。こうした感じで、古今東西とりまぜたアンソロジーは、なかなか楽しい。

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 昨日、共謀罪が強行採決された。そうなることはわかっていたが、やはり腹立たしいことには違いない。
 ぼくが子供の頃には、社会の授業で、いかに治安維持法が恐ろしい法律だったか、さんざん聞かされてきた。もちろん、祖母にも散々聞かされた。だから、今回の共謀罪には、ものすごく抵抗がある。
 世の中には嫌な人間というのがいて、まあ気が合わない人のことなのだが、それでもまあ普通は、かかわらなければいいやと、さほど腹を立てることもない。
 だけど、それが最高権力者であるとなると、話が違ってくる。ぼくは安倍首相が大嫌いである。あまりに独善的に感じるから、テレビで顔を見るだけでも不愉快なほどだ。だが、相手が法を支配する立場である以上、かかわらないわけには、いかなくなってしまう。
 「まあ、あんな阿呆の言うことなんて、聞かんかったらええわ」
 そんななわけには行かないのが、腹立たしい。軽々しい阿呆が振り回す正義ほど厄介なものはないと思うが、こうした法律が簡単に通ってしまうのだから、ぼくの憤りは、感情的なマイノリティのたわごとということなのだろう。

横浜駅SFと文学フリマ

2017年05月13日 | 読書録
「横浜駅SF」 柞刈湯葉著

カドカワBOOKS 角川書店刊

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 1915年の開業以来、常に構内のどこかが工事中であることから、横浜駅は「日本のサグラダ・ファミリア」という例え方をされることがあるらしい。確かに、横浜駅はこれまで数えきれないほど利用してきたけれど、いつ行っても工事中だという印象がある。サグラダ・ファミリアは、完成が見えてきたというが、横浜駅の工事が終わることは、おそらくないのではないか。そもそも最終的な完成形があるわけでもなく、ただ新たに生まれつづける工事計画に沿って姿を変え続けている横浜駅は、永遠の未完成建築であろう。この小説は、そこから着想を得た、一種の奇想小説。
 舞台は、近未来の日本。小説の中で、横浜駅は人の手を借りることもなく自己増殖をする、一種のナノマシーンのような存在と化している。その結果、日本は、なんと本州の99%までが横浜駅の構内に成り果ててしまっている。なんと、富士山の頂上までエスカレーターで行けるのだ(いや、それどころではなく、増殖する横浜駅のせいで標高が年々高くなってきている)。横浜駅が海を超えられないという性質に助けられて、北海道と九州が、レジスタンスとして懸命の抵抗をしている(四国は横浜駅の侵入を許し、無政府状態になっている)。横浜駅は、もはや本来の電車の停車場としての役割はなく(そもそも電車なんてもう走ってない)、国土そのものといったほうが正しい構造物である。横浜駅の構内は、「エキナカ」と呼ばれ、中で生まれた人々は、六歳までに脳に「suika」と呼ばれるチップを埋め込まれ、それによって管理されている。「suika」を持たない人間は、「自動改札」によって、強制的に横浜駅構内より排除される。この時代、もはや日本政府は存在せず、横浜駅が国家そのものとなっている。
 けれども、横浜駅の外で暮らす人々も、数こそ少ないが、存在する。三浦半島の九十九段下の住民である主人公のヒロトはその一人で、あるとき、横浜駅から追放された一人の男から、5日間だけ構内を自由に行動できるという古代の遺物「18きっぷ」を渡され、ある使命を頼まれる。ヒロトは切符を手に、単身横浜駅に侵入する……というようなストーリー。
 もともと、投稿サイト「カクヨム」で連載されていた作品の書籍化。人気があって、書籍化されたわけだから、もちろん面白いのだが、その反面、もう少し面白くなったんじゃないかなという気もする。このアイデアが、こんなにあっさりした形で終わってしまうのは、なんだか勿体ない。ぼくとしては、異様な構造物になった横浜駅の描写をもっと読みたかった。

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 いろいろと忙しくて、書くのが今になってしまったけれど、先日(5/7日)、「奇妙な世界の片隅で」のkazuouさんと文学フリマへ出かけてきた。規模としては、もちろんコミケなんかとは比べものにはならないけれど、すっかり定着してきたイベントで、今年はなかなかの盛況だったらしい。ぼくはまだ秋葉原でやっていた頃から時々参加してきたけれど、右肩上がりに規模が大きくなってきたという印象まではないものの、ぼくのようにブッキッシュな人にとってはちょうどいい感じの規模の、居心地のよいイベントに成長したなという印象がある。また、文学フリマは、会場を全国各地に持つイベントになってきている。基本的に東京でしか行われないコミケとも、あるいは各地で持ち回りのSF大会とも違う、新しいやりかたである。それでは集客力が分散するのではないかとも思うのだが、そうでもないらしい。文学は、巨大なお祭り的なイベントとはやや異なるようだ。このあたりも、コミケなどとは違う独自性なのだろう。
 ぼくは、文学フリマを覗いてもあまり本を買わない方なので、参加者としてはやや失格なのだろうが、文学フリマは初めてだというkazuouさんは随分と買っていた。
 ぼくが買ったのは、結局、二冊だけ。
 一冊は、蝸牛文庫から出ている、幻想哲学小説「創造者」(ミュノーナ著)。これは、最初から買うつもりだった。
 もう一冊はキダサユリさんの小冊子「よるべのない物語」。プロではない方の作品だが、本人の筆による絵が気になって、購入した。
 文学フリマのブースを覗いていて、いいなと思うのは、やり方は違っても、ここにいる人々がみんな、本というものを好きだと感じることができることだ。それは、それぞれの作家がブースに並べている本を眺めているだけでも、ひしひしと伝わってくる。作家が、自分の書いた作品を、今できるせいいっぱいの力で、飾った造本をする。これを、本という小宇宙への愛と呼ばずして、なんと呼ぶのだろう。

奥多摩と三浦半島

2017年05月06日 | 近景から遠景へ
 今年のGWには、特に遠出する予定もなかったのだが、結局、海と山の両方に出かけた。



 4月29日には、新緑を愉しもうと、奥多摩へ。多少、出る時間が遅くなったので、さほど長い距離は歩けなかったが、御岳渓谷を散策した後、最後は沢の井酒造へ立ち寄り、少しばかりアルコールを摂取して、帰った。
 心地よい日で、新緑は目に眩しく、渓流では、大学の新入生を交えてだろうか、学生らしき人たちが大勢、カヌーやボートを操って、沢下りを楽しんでいた。そちらも、目に眩しかった。



 5月4日には、三浦半島の剣埼へ。
 久々の訪問だったが、大浦漁港が随分と様変わりしていた。以前は自然の入江だった場所が埋め立てられ、すっかり防波堤に守られた人工の入江になっていた。それでも防波堤の先では、以前と変わらない海岸線が残っており、今回はいつものように長い距離を歩くことはやめて、その場所に落ち着いてゆったりと時間を過ごした。水はまだまだ冷たく、夏はもう少し先だと思った。
 随分と久々に剣埼灯台にも訪れたが、中に入れない灯台にもかかわらず、意外と人がやってくるので、驚いた。